第11話 命がけの青


 文化祭が終わると、中間試験期間だ。

 二週間も経つと、文化祭の気配はすっかり学校から遠ざかって、そんな日なんかなかったような顔をしている。


「鍵、よしっと」

「カーテン閉めるね」

「暖房、つける?」

「まだ平気。でももし、かなたが必要なら」

「指が冷えたら、暖めてよ」

「もう」


 呆れて笑う。

 放課後の美術室で、二人きり。

 声を潜めても互いの言葉が分かる静けさの中にいた。

 未織は美術室のカーテンを閉めて回る。

 その間に、俺は画材の準備をする。

 未織の絵を何回素描しただろう。

この画布に何回描き直しただろう。


「ごめんね、かなた。テスト勉強、大丈夫?」

「平気平気。普段通りだよ。

 どうせ家にいる全部が勉強時間なわけじゃないし。

 未織こそ、成績大丈夫?」

「わたしは、気にしないよ。できる限りやるだけ。いつもどおりに」

「一緒に成績落ちたら、お揃いだね」

「もう。そういうこと、言わないの」

 

 カーテンが閉じ切ると部屋に音がこもる。

 部活動の音も、この時期は聞こえない。


「でも、テスト期間しかないからさ。こうやって、ゆっくり美術室使えるの」

「うん……」


 未織の絵を完成に向けて着手しようと決めたのが、文化祭が終わってからすぐ。

 油絵を使って描くためにはそれなりの場所が必要だ。

 家では家族の目があるし、未織を連れ込むことに抵抗がある。

 この時期、定期テストの期間は美術室を独占できる。

 普段は美術部が週に三度使うから、それ以外の日で進めるしかない。

 毎日入り浸れるのは今を逃せば、次は年明けになってしまうのだ。

 それじゃ、いつまでたっても描き上がらない。

 ……描き終わらなくても、いいけど。


「はじめるよ」


 途端に、未織は、人形みたいに動かなくなる。

 椅子に座って、膝の上で手をそろえている。

 表情はない。真剣な眼差しがこちらを見ていた。

 でも、あの目は何を見ているのだろう。

 絵を描く俺を見てるのだろうか。

 ガラス球みたいに見えて、未織の意思が分からない。

 絵を描くとき、いつも未織が遠くに感じられる。

 その距離感も描き取るように、俺は鉛筆を走らせる。

 白い画布に、少しずつ未織を浮かび上がらせる。


「……」


 普段なら聞こえる、野球部の球を打つ音も、陸上部の掛け声も、吹奏楽部のチューニングも。放課後にはしゃぐ女子生徒の声も――今は何も聞こえない。

 しんと静まり返っている。

 鉛筆の音、衣擦れ、自分が立てる音が耳障りだ。

 もし、今描くのをやめたら、お互いの心音さえ聞こえてしまいそう。

 鍵をかけた部屋に、二人きり。

 ここから、未織の全部が見える。つま先から頭のてっぺんまで。

 寒さに頬が白くなっている。唇は赤く、一際目立つ。

 体は力を抜きすぎず、かといって力み過ぎず、でもちょっと肩が強張ってきた。


「未織」

「ん……」

「疲れたら休憩にしよう。暖房入れる?」

「うん……」


 二人とも、真剣で、集中している。

 そうすると不思議と疲れを感じなかった。

 休憩も挟まず制作を続ける。

 曖昧だった全体像が、次第にはっきりとしてくる。

 でも、段々と、線が濁ってくる。

 上手く描けない。ちがう。描きたくないんだ。


「……ちょっと、休憩」

「空気、入れ替えようか」


 未織が窓を開けると、カーテンが大きく翻る。

 夕方の、秋の風が冷たい。

 体も冷えているはずなのに、その風が気持ちいい。


「見て。空が、綺麗」

「ほんと?」


 未織の隣に立つ。

 窓の外、山の向こうに、真っ赤な夕日が沈んでいく。


「もう、ほとんどが、夜の空だね」

「夏より空気が澄んでるから、色が鮮やかだね」

「わたし、この色、好き」

「何色だろう。プルシアン・ブルー。インディゴ。

 ネイビーかな。それとも、ブルー・ブラック。全部混ぜたら、こうなるかな」

「ねえ、かなた。わたしの絵にも、青、使ってね」


 未織の頬が寒さで赤くなっている。

 頷いて、未織が望む色を探すみたいに、改めて空を見た。

 まるで中世絵画に出てくるようなダイナミックな雲が浮かんでいて、ふいに先生の与太話を思い出す。


「知ってる? 先生が言ってたんだけど。

 絵の具って、昔はすごく、毒性が強かったんだ。

 絵の具の材料の鉛が口に入ったりしてさ。

 だから、画家は早くに体を悪くしたり、最悪、死んじゃったりしたんだって」

「……昔は毒だったの? 絵の具が?」

「今も少し、入ってることもある。でももう危険なものじゃない。

 俺もびっくりしたんだけど、昔は死と隣り合わせだったんだね。絵を描くのって」

「それでも、描いたんだね……」


 風が吹き込んで、未織の髪を靡かせる。

 もう、夕日の色は、空にほんの一筋だけ。

 輝いて、今にも消えてしまいそう。


「命がけでなんて――

 そんなにしてまで、描きたいものって、何だったんだろう」

「うん……」


 自然とお互いに、お互いの手を探り合っていた。

 辿り着いて、手を繋ぐ。

 夕日の色は、もう、消えている。空に広がるのは紺青の色。

 プルシアン・ブルー。インディゴ。ネイビー。ブルー・ブラック。

 全部の青を、混ぜた色。



 命を削って描くなんて、情熱的だったんだなと思う。

 もしかしたら、お金を稼ぐために描かざるを得ない状況だってあったかもしれない。

 でも、彼らはそれを選んだんだ。

 絵を描いて生きることを。

 俺は明日にだって、多分描くのを辞められる。

 絵を描かずに一生を生きるか、今ここで死ぬかを選べと迫られたら、迷いもなく前者を選ぶだろう。

 俺が今やっていることは、何だろう。

 絵を描くことで、未織と過ごす時間が増えて、前よりも距離が近づいたように思う。

 でもそれは同時に、未織との別れを早める作業になる。


「今日の世界史、大丈夫だった?」

「わかんない。けど、暗記は安全圏かな。頭働かせなくて済むし……」

「明日は数学だし、今日は早めに終わらせる?」

「そうだね、できれば」


 もう、テスト週間も三日目。

 授業が午前中に終わるから作業の時間が増えたので好都合だ。

 本来なら、翌日のために勉強しろってことなんだろうけど。


「カーテン閉めるよ」

「うん」


 赤い日差しが遮られる。

 教室を蛍光灯だけが白々しく照らすなか、未織が定位置に着いた。


「準備できた。はじめるよ」


 一時停止ボタンを押したみたいに、未織は身動きを取らなくなる。


「未織は、優秀なモデルだね」

「かなた、もう、集中して」


 一瞬笑って、また、表情を引き締める。

 改めて未織をじっくり眺めることが出来て、俺は隅々まで彼女を見渡す。

 大好きだなぁ。

 こうして二人きりで密室にいるのに、健全な距離を保っている。

 本当はもっと、近くにいたい。未織の体ぜんぶ、抱きしめたい。

 好きだよって言いたい。顔中にキスをしたい。

 未織。君は、どんな気持ちで、そこに座っているんだろう。

 未織のことだけ考えながら絵を描く。

 この先にある別れを思うと、手が動かなくなるから。


「今、時間が止まればいいのに」

「え?」

「俺は、永遠に絵を描き続けてさ。未織は、ずっとそこにいる。

 二人きりで、ずっとここにいるんだ」

「かなた……」

「なんて」


 パレットに、コバルトブルーのチューブを開ける。


「なんか、遠いな。

 絵を描くときは仕方ないけど、この距離がちょっと寂しい、とか」


 情けないこと、言ってるのかな。未織の表情が曇ってしまう。


「……休憩にする?」

「ううん。続ける。変なこと言ってごめん」


 パレットに絵の具を全色並べる。油絵の具の匂いが漂ってくる。

 色のあたりをつけて、絵の完成像が見えてくる。

 必要な製作期間も読めてくる。きっと、あと一ヶ月もあれば充分だ。

 ……嫌だ。


「……」


 パレットナイフで、画布をなぞった。

 ぼんやりとした絵の具の集合体に亀裂が走る。

 一度乗せた絵の具を、丁寧に削ぎ落としていく。


「……どうしたの? 消しちゃうの?」

「ごめん、なんか、気に入らない。

 構図変えて、もう一回描き直したいんだ。いい?」

「うん……」

「また、デッサンからになる」

「いいよ。満足行くように描いて」

「ごめん。真正面からだったけど、今度はちょっと横から。

 視線落とした感じで、描いてみる。

 俺、やっぱり、人物苦手だ。

 風景とか、静物ばっかり描いてたから」

「うん。ゆっくりで、いいよ」


 寛容な言葉の中には、回避できない期限が含まれているというのに、未織の優しい言葉が今は妙に苛立たしかった。


「どれくらいゆっくり描いていい? 一生かけて、描いてもいい?」

「……かなた?」

「ううん、冗談。ちゃんと、描くから」


 無理やり笑う。

 息が詰まりそうになる。

 気分転換の糸口も掴めないまま、ただ画布から絵の具をこそげ落とした。

 パレットナイフに付着するどろどろした塊が、その曖昧な色が、まるで今の俺の心を表すみたいで滑稽だ。



「もう、終わりにしなきゃ。七時になる」

「うん」

「じっとしてて疲れたでしょ」

「ううん。平気。外、真っ暗だね」

「家の近くまで送っていく」

「うん。ありがとう。でも、遠回りだよ。いいの?」

「大丈夫。ついでに画材屋に寄るから。

 絵の具も、新しいキャンバスも買わなくちゃ。

 どうせだからクロッキー帳も補給しとこうと思って」

「ごめんね、お金、大丈夫? わたし、払うよ」

「いや、大丈夫。こういうのは、請求したら部費から降りるんだ。

 美術部特権。あって良かった」

「そっか」


 笑うと、つられて未織も微笑む。


「もう、かなり、未織を描きなれちゃった。

 見なくても似顔絵描けるかも」

「ほんと? 嬉しいな」

「もっと、頑張るね。まだ、こんなんじゃダメだ。

 明日さ、美術館行かない? 参考と、テスト終わった打ち上げも兼ねて」

「うん、行きたい」

「うん。行こう。……ところで、テスト、今のどうだった?」

「やっぱり、いつもよりは、ちょっと落ちちゃうかな」

「俺も。元々そんなに良くないから、粗は目立たないけど」

「ごめんね……。補習、一緒に受けようか」

「赤点いったかなぁ……。ぎりぎり起死回生してるといいなぁ……」


 やばい、憂鬱な雰囲気になる。


「やめよう。早く片付けて撤収しないと」

「うん。来週からは、美術部始まっちゃう?」

「そうだね。そしたら、週に二日しか使えない」

「うん……」

「都合が良い日は、お互いの家も使う?

 絵の具の匂いをどう誤魔化すかが問題だけど」

「うーん……。頑張ってみる」

「無理だよな、うちも無理っぽいし……。

 よし、とりあえず片付け完了。じゃあ、帰ろうか」



 非常階段からこっそり校舎を出て、もう真っ暗の空の下、手を繋いで歩く。


「このあたり、街灯なくて物騒だよね。人通りも少ないし」


 二人きりになれて好都合だけど、という言葉は飲み込んだ。


「そうだね。でも、ほら、見て」

「あ、すごい。星がいっぱいだ。もうすぐ新月か」

「綺麗に見えるよね。このあたり、暗いから」

「プラネタリウム、思い出す」

「こっちのほうが、本物なのに、プラネタリウムの星を思い出すの?」

「……だって、キスしたから」


 未織がびっくりして声をなくした。


「あ、照れてる」

「……知らない」

「今度は本物の星空の下で、する? 前の星は偽物だったから」

「なんか、言葉、くさい」

「どうにかしてチューに持って行こうと頑張ってるの」

「素直に言ってくれたら、それでいいのにな」

「本当?」


 立ち止まる。

 一歩過ぎて、未織も立ち止まって、俺へ向き直った。


「キスしたい」

「……うん」


 未織が上を向いて目を閉じる。

 小さな顔の、頬に手を添える。

 頬は夜風に冷たく冷えている。

 そっと、口付けると、唇だけが熱い。

 そこから漏れるかすかな吐息が、熱い。


「……」


 一瞬の触れ合いを終えて、未織は俺を見ていた。

 もう一回とねだるような気配に遠慮なく二回目を頂く。

 こんなに軽く触れるだけで、どうして我慢できるって、未織は思うんだろうか。

 今までよりも踏み込んだ口付けをすると、未織の肩がびっくりしたように一瞬だけ震えた。それで、俺も怖くなって、彼女を離してしまう。


「嫌だった?」

「……ううん」


 首を横に振る。


「もう一回したいって言ったら?」

「……いいよ」


 また、未織が目を閉じる。俺を受け入れてくれる。

 だけど、キスをしなかった。


「……かなた?」

「うん、ごめん。ちょっと、わがままだったかも。

 我慢します。ゴメンナサイ」

「もう」


 未織が笑うから、俺も笑う。誤魔化すみたいに笑う。


「素直に言えば、許してくれる?」

「え?」

「キスしたい。抱きしめたい。言葉では言えないようなことも。

 それに、ずっと、離れたくない。絵を、描き上げたくない。

 このままの関係を、ずっと、続けたい」


 俺が見るのは、未織のつむじだ。

 あの澄んだ目を見てはとても言っていられない。

 未織に嫌われてしまうのが怖くて、自分をぶつける勇気がなかった。

 だけど、このままで居たら、もっと悪いかたちで未織を失うと思う。


「……全部、素直に言ったよ。未織は、どう?」

「うん……。キス、したい。抱きしめてほしい。

 言葉では言えないようなことも、ちょっと」


 未織は頷いたまま、俯いたきりで、噛み締めるように俺の言葉を繰り返した。


「それから……、かなたに、絵を描いてほしい」


 俺を見上げる瞳が冬の夜空にそっくりな色をしている。

 真剣な、曲がらない、彼女の望みを示している。

 ちょっとだけ涙に濡れて、それがきらきらと星みたいに艶めいている。


「……そっか」


 未織は、あの約束を反故にしないのだろう。


「じゃあ、まず、今日できることから。抱きしめていい?」

「うん」

「うん……」


 未織の細い身体を抱き寄せる。

 狭い肩、薄っぺらい。頭のてっぺん、冷え切ってる。

 ほっぺたをくっつけると、気持ちがいい。

 髪の毛からシャンプーの匂いを吸い込む。

 柔らかい、女の子の体。

 ぎゅっと、強く、抱きしめる。体と体がくっつく。

 腰の骨と骨がぶつかって、硬い感触がある。

 胸の下あたりに素晴らしい弾力感も。

 絵に描けないことばかりだ。


「……ごちそうさまでした」

「なんか、言い方が、えっち」

「そう? それは、未織がえっちだからだ」

「えっ。そんなこと、ありません」

「あ、図星なんだ」

「ちがうもん。いじわる」


 いつもより、密着しながら歩いてく。体が芯からぽかぽかしてる。

 たったの一回、抱きしめただけなのに、なんかすごい幸福感。

 だめだな、俺。目的は果たせてないのに……。

 まあ、でも、今日のところは及第点、かな。

 それとも、こうやって、未織にうやむやにされ続けているのかな……。

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