第10話 絵の中の森


「よし、パネル運びはこれで全部だな」

「部長、お疲れ! こういうとき男手は頼りになるね」

「笹野にも言ってやれ」

「このパネル8キロくらいあるだろ。非力な文化部には致命傷だ」

「中庭から三階まではキツイっす……」


 ドアの横で笹野がくたばっている。

 そこに、伊藤がビシっと親指をつきつける。


「笹ちゃんおつかれ! 来年は男子きみ一人だけど頑張れ」

「えぇ……嘘ぉ……」

「追い討ちをかけるなよ」


 文化祭の準備に追われる一月が、明日で終わる。

 展示用のパネルに、あとは絵を飾るだけだ。


「笹野も死んでるし、ちょっと休憩するか。あとは掃除と展示だけだし」

「さんせーい」


 休憩が終わって、掃除も終わって、あとは絵をパネルに貼り付けるだけ。

 一際デカい伊藤の絵は、黒板に立て掛けている。


「もう七時だ。今日の作業は終了。

 て言っても、大体終わったな。明日の朝、また最終確認しよう」

「はーい」

「じゃあ、みんな。明日頑張ろう。

 まあ、受け付けくらいしか仕事はないんだけど。

 今日はこの辺で、解散」


 一応部長らしく全体の指揮を執る。

 こんなことをするのは久しぶりだから妙に疲れた。

 ただ、疲れの大半は肉体労働が原因だろう。

 それはみんなも同じようで、ぐったりとしながら、でも祭りの前の浮き足立った元気さで、各々帰り支度を始めた。


「ついに明日だねー、文化祭」


 伊藤が伸びのついでに教室を見渡す。

 美術室はすっかり絵に埋め尽くされていた。

 とりわけ百号キャンバスの伊藤の作品がかなり目立つ。

 と言うか、ある一面を向くと伊藤の絵だけで視界が埋まるような存在感だ。


「うん。いろんな人が見てくれるといいな」

「あ、あたし、まだちょっと手加えたい。鍵貸しといて」

「まだ描き加えるのか? 大変だな。八時までに帰らないとペナルティだぞ」

「わかってるって。じゃ、お疲れ」


 ありがたい。

 鍵を伊藤に託して、下駄箱に急ぐ。

 未織と一緒に帰る約束をしていたのだ。



「お待たせ」

「ううん。お疲れ様」

「待っててくれたの?」

「友達の部活の仕事を手伝いながらだったから」

「友達、何かやるの?」

「卓球部の喫茶店。内装の手伝いとか、衣装の繕いしてたの」

「そっか。未織はウェイトレスはしないの?」


 未織が首を横に振る。

 言いづらそうに嘆息して、そっと打ち明ける。


「すごいミニスカートなんだもん……」

「いいじゃん。似合うと思うなぁ」

「勇気がいるよ」

「じゃあ、今度、二人きりのときは?」

「……もうっ」


 ぷいっとそっぽを向いて、早足になる。

 あ、やばい。怒らせたかも。

 すたすた歩いて行ってしまう未織を追いかける。


「未織? ごめん、ごめん。待ってよ」


 未織が立ち止まる。こっちを振り返る。

 そうして一言、怒ったように、恥ずかしそうに、俺を咎めた。


「えっち」


 うん。えっちでいいや、もう。



 学校が朝から活気付いている。

 文化祭当日、まだ準備を終えていない教室も、あとはもう客を待つだけの場所も、楽しくて仕方ないような空気に溢れている。


「じゃあ、確認。午前中の受け付けは俺と伊藤。午後一回目は笹野と大熊」

「はい」

「二回目は岡部と深谷。三回目が北本と桶川」

「了解です」

「よろしくお願いします」


 仕事のない下級生が解散する。

 残った伊藤と受け付けの机について、客を待つ。

 まだ九時だ。一般入場が始まったとは言え、まだ来客は少ない。


「昨日、ちゃんと時間内に終われたか?」

「うん。ありがとう。本当なら、まだ手直ししたいけどねー」

「俺には、あまり差が分からないんだけど」

「うん。もう、自分の問題かなぁ」


 伊藤の絵が、多分、一番目立っている。

 まずキャンバスが大きい。なにせ百号だ。

 色使いも独特で、タッチも面白い。

 描かれているのは抽象画で、戯画化された動物が多い。

 高校二年にして自分の絵柄が確立されているように見える。

 こどものラクガキにも見えるかもしれない。

 でも見る人が見れば、ただ描きたい放題描いただけの絵ではないと分かるはずだ。


「上手いなぁ、やっぱり」

「ンモー、お世辞はよしてよン」

「いや、素直に思うよ。そりゃ。あ、お客さん来た」

「いらっしゃいませー。こちらにお名前どうぞ。

 アンケートにも是非お答えください」


 他校の生徒か、受験生か。数人連れで、絵を眺めていく。

 受験生なら、来年何人か入部してくれると良いんだけど。

 来客の足取りを眺めていると、やっぱり、伊藤の絵が人を惹き付けているらしい。

 大きさに圧倒されることも、理由の一つにあるかもしれないが。

 時間が進むにつれ、来客が増え、一時は順路を埋め尽くすほどになる。

 とは言え収容人数の上限が低いので、大した人数ではない。


「お、人入り、増えてきた?」

「毎年お昼前が一番良いんだって、先輩が言ってた」

「おお、一家総動員が来るぞ」

「マジ? 伊藤家かも。……あ、違った、よかった」


 今度の来客は、祖父母も連れてのお越しだ。

 こりゃ部員の家族だな。間違いない。


「あった、あったわ。ゆみちゃんの絵よ」

「あら、ほんと。上手になったねえ」

「うん、たいしたもんだ」


 デジカメを構えて何度かシャッターを押す。

 その挙動と会話に上る名前から推測して、一年生女子のご家族だろう。


「あ、もしかして、岡部さんのご家族ですか? 私、副部長の伊藤です」


 伊藤が席を立って彼らの元へ歩む。


「これはどうも、いつも娘がお世話になっております」


 岡部父が深々と頭を下げあう。

 伊藤の絵の前で、岡部父がデジカメを向けている。


「あ、今更になっちゃうけど、撮影はしてもいいのかな?」

「どうぞどうぞ。娘さんの力作、是非収めてください」

「伊藤、うまいな、お前。セールスマンになれよ」


 岡部の家族が伊藤の絵の前で感想を言い合っている。

 力作ぶりにびっくりしているようだ。


「よかったな」

「照れるなぁ」


 もじもじしている伊藤が珍しい。


「あ」


 ドアの向こうから、ちょこんと顔をのぞかせている、彼女を見つける。

 未織だ。


「かなた」

「来てくれたんだ」

「うん。一番目に、見に来たよ」


 言うことがいちいち可愛い。


「あ~っ! ほとり~!」

「はるちゃん。おはよう」

「おはよう。ゆっくり見てってー。ほれ、香村も行っていいよ」

「マジで。ありがと」


 ナイス計らい。未織を案内するかたちで、展示を見て回る。


「文化祭のみんなの絵、ゆっくり見るの、はじめてだ」

「準備、忙しかったんだ?」

「それなりにね」

「みんな、上手いねぇ。ここは、一年生?」

「そう。この前の、山のスケッチばっかだな」


 未織が絵を見ながらニコニコしている。

 ひとつひとつの絵を丁寧に眺めている。

 そうして、ふと、尋ねた。


「かなたのは?」

「二年のはこっち。裏のパネル」


 順路に回る手前、黒板の前で足を止めた。

 俺も一緒に立ち止まって、その大きな絵を見上げる。


「はるちゃんも、上手だねぇ」

「あはは」


 まるで、岡部のお母さんみたいな言い草だ。


「あれ、わたし、へんなこと言った?」

「ちがうちがう、ちょっと、ツボっちゃって」

「むぅ」


 ちょっとだけむくれて、恥ずかしそうに俯く。


「ごめん、なんでもないって」


 お詫びのかわりに、というか。

 手を繋いで、順路のさきへ導いた。

 未織も、握り返してくる。

 ここからなら伊藤には見えないだろう。


「これ、かなたの絵」

「うん」

「きれいだね」

「そうかな。ありがとう」


 結局、文化祭の絵は合宿で描いたものになった。


「山のきれいな空気が分かるよ。

 木が光合成して、作り出した、新鮮な酸素。

 おいしい空気なんだろうなぁ」


 褒めすぎじゃないか。なんか、耐え切れない。照れる。


「良い所だったよ」

「透明な、緑と青。好き」


 未織の真剣な横顔を見おろす。

 絵の中の森を散歩するみたいに、隅から隅までを余さず視界に焼き付けようとしているように、夢中で見てくれている。

 こんなふうに見てもらえるなら、俺ももっと真剣に描けばよかったと今になって後悔した。


「……伊藤の力作も、もっと見てやってよ。今年も一番の人気作になりそう」

「うん。でも、もうちょっと」


 じっと、絵を見つめている。

 未織の横顔を遠慮なく眺めても、気づかない。

 俺の絵が、好きなんだろうか。嬉しい。

 でも、少し、胸がざわつく。


「……約束、忘れないでね」


 握る手に力を篭めてくる。

 やっぱり、そうだ。

 未織は待っているんだ、俺が絵を描くことを。

 ――二人の別れを、早めることを?

 順路を進んで、もう一度、黒板の前へ帰って来た。


「はるちゃんの絵、大きいね、すごい。

 なんだか、かわいいね。オレンジ色があったかい」

「未織~、見てくれてありがとう~」

「はるちゃんの絵、好きだよ。ほんわかするの」

「ほんわか、かぁ。そんなつもりはないんだけどねー。

 未織にそう言ってもらえると、嬉しいなり」


 伊藤がパネルの向こうから顔を出す。


「香村さ、受付の仕事もあと一時間でしょ。

 早引けしていいから、未織と回ってくれば」

「いいのか?」

「何度も居残り許してくれてるでしょ。そのお礼」

「気にしてたとは」

「うるさいな。行っといで。香村じゃなくて、未織のためなんだから」

「はるちゃん……。ありがとう」

「じゃあ、ありがたく。後よろしく頼んだ」

「はいはい。目の前でイチャつかれるのは真っ平だからねー」


 軽口に見送られる。

 学校の非日常の雰囲気と、生徒たちの喧騒と興奮。

 祭りの渦中の、熱っぽい空気。

 否が応にも浮き足立って、いつも以上にずっと、隣に未織が居ることが嬉しくてたまらない。


「どこに行こうか?」

「吹奏楽部の演奏会に、演劇部の寸劇発表会、かな。

 紅茶研究部でお茶もしたいな。卓球部にも顔出さなくちゃ」

「いいね。ソフト部でストラックアウトして、あと、男子テニス部がクレープ屋やってる」

「男子テニス部が?」

「あいつら乙女チックなんだよ」

「意外だね」

「ほんとに」


 笑いあう。誰に見られても構わない。

 手を繋いで歩く。

 今を精一杯、二人で楽しみたい。

 この瞬間の幸福を、たっぷり心に刻みたい。

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