二百五十 ジョン・ウォルター・スミス
深い地下に、彼は一人で下りていった。椅子ごとの移動なので、労力はない。
それにしても、何回下りてもこの暗闇には慣れないものだ。ほんのわずかの光すらない、真の暗闇。下りている間は音もないので、下りているのかその場にとどまり続けているのか、判断が付かないのも困りものだった。
その暗闇から、一気に薄暗い場所へと出る。地下都市の一カ所、地上の入り口から入った時の、都市側の入り口に当たる場所だ。
目の前に伸びる大通り。地下都市はどこも似通ったデザインで作られており、必ず入ってすぐに奥へと伸びる大通りと、その奥に行政、司法などが集中する中央塔が作られている。
彼は、自走する椅子のまま、大通りを進んだ。この地下都市の技術を使い、今まで延命治療を続けてきたが、肉体の老化を完全に押さえる事は出来なかった。
その老いが、彼の足腰から力を奪っている。
――寿命か……いや、俺に寿命など、ない。
この体が滅んでも、カタリナのような魔法疑似生命体に記憶を移せばいい。そうすれば、不老不死になれるのだ。
ここ数年で、彼はその考えに取り憑かれるようになった。最初は都市の機能も、限定的にしか使っていなかったのに。
いつからか、この都市の機能ありきで考えるようになった。都市の機能……魔法の技術だ。
彼が最も憎んだ魔法に、今彼は依存しきっている。その事に後ろめたさを感じなくなったのは、いつからか。
彼の体に忍び寄る「老い」と「死」は、彼からいつもの思考能力を奪っていた。
中央塔最上階。支援型を呼び出すのにここまで来る必要は本来ないが、彼に与えられた権限では、ここまで来る必要がある。
もっとも、彼は自分が持つ権限が限定的なものだと、知るよしもないが。
「イネスネル! 姿を現せ!」
最上階の部屋に入ってすぐ、彼――現教皇であるジョン・ウォルター・スミスが叫ぶ。その声に呼応するように、部屋の中央に黒いシミが浮かんだ。
そのシミはどんどんと大きくなり、やがて黒いクラシカルなドレスを纏った小さな少女の姿になる。
少女の背中には、半透明の羽根。まるで童話の中に出てくる妖精だ。
「イネスネル。カタリナを復活させろ!」
「無理だって、言ったでしょ。本体をやられたから、カタリナはもう作れない」
「ならば、カタリナに変わる存在を作り出せ!」
「無理」
「無理無理と、それ以外言えないのか!!」
「あなたが無理な事ばかり言うからでしょ?」
この支援型は、契約当初から反抗的だった。主に忠実に仕えるのが、支援型ではないのか。
スミスは怒りにまかせて怒鳴ったが、イネスネルはどこ吹く風だ。
「ともかく、出来ない事は出来ないの。私達は決して万能ではないのよ」
「ふん、役立たずのいいそうな事だ!」
「その役立たずに、縋っているのは誰?」
「黙れ!!」
スミスは右手を大きく振ったが、離れた場所にいるイネスネルまで、その手は届かない。
イネスネルは、静かに彼を見ていた。対して、スミスは肩で息をする程消耗している。ほんの少し、腕を振っただけだというのに。
「人間はもろいのね」
「バカにするな!」
「バカにしていないわ。ただの感想よ」
忌々しい。その思いを隠そうともせず、スミスはイネスネルを睨んだ。黒いドレスの支援型は、何の感情も映さない顔で、じっと彼を見ている。
「敵を葬る手段をよこせ」
「敵って誰?」
「カタリナを壊した連中だ!」
スミスの言葉に、イネスネルは右腕をそっと上に上げる。その手の先に、大聖堂内でヨファザス枢機卿と向き合っている、ヒベクス枢機卿とティザーベル達が映し出された。
「そうだ、こいつらだ!」
「そう。彼女が……」
かすかに、イネスネルに感情の波が揺らいだ。その様子に、スミスのイラつきが大きくなる。
「早くよこせ!」
あいつらを殺せる武器を。敵を葬り去る手段を。カタリナを作ったように、最強と呼ばれるものを。
だが、彼の望みは支援型の無情な言葉で拒絶された。
「無理よ。彼女には、姉様や妹達がついているもの。私一人の力では、無理」
それは、ある意味スミスが最も恐れていた事だ。だからこそ、地下都市に詳しいマレジアを早く始末しておきたかった。
あの隠れ里を見つけるのが遅れた事が、本当に悔やまれる。
「他の支援型がついているという事は、あの女が他の都市を制圧しているという事か?」
「ちょっと違うけど……あなた風に言うと、そうなんでしょうね」
「おのれ……」
姉と妹。少なくとも二つ以上の都市を制圧しているに違いない。都市の機能は、支援型を通じて主に供給される。スミスは、その事を身をもって知っていた。
同時に、だからカタリナが敗れたのだと知る。相打ちの形だったが、一度は勝利した相手だ。だからこそ、負傷した個体を捨て、アップグレードした個体を向かわせたはずなのに。
「……どうしても、カタリナより強い個体は作れないんだな?」
「私一人では、あれが限界」
支援型は主には嘘が吐けない。イネスネルが「作れない」というのなら、本当に作れないのだろう。
「ならば、他の手段はないか? あの敵を打倒する為の手段が」
こうなったら何でもいい。あの敵を打ち負かす方法があるなら、悪魔とだって手を組む。
スミスの目には、浮かぶイネスネルがイブを誘惑した悪魔のように見えていた。現実に悪魔がいたら、きっとこんな風に美しい姿なのだろう。その罪深い程美しい姿で、人を誘惑し堕落させる。
スミスの考えなど知らぬイネスネルは、少し考えた後にぽつりと告げた。
「……一つだけ、あるよ?」
「やはりあるのか!」
自分は間違っていなかった。この難局を乗り越えるには、神の力だけでは足りないのだ。
神の恩寵は、人の世に届きにくい。その代わりのように、悪魔の誘惑は人に届きやすいのだ。
イネスネルの呟きも、まさしく悪魔の誘惑だった。
「ただし、一度使ったらもう戻れなくなるけど。いい?」
そううまい話はないのだ。だが、今のスミスには、イネスネルの言葉の裏を読み取る力がない。
「構わん。今を乗り切れば、後はどうとでもなる」
そううまい話があるはずがない。だが、彼にとってあの敵を倒す事は、全てにおいて優先するべき事だった。
スミスは自覚していないが、カタリナの存在は彼の支えでもあったのだ。その支えをなくし、スミスは自分でも気づかないうちに暴走し始めていた。
彼の答えに、イネスネルは蠱惑的な笑みを浮かべる。
「わかった。じゃあ、すぐに始めるね」
スミスの意識は、そこで途切れた。
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