サトリの火縄

palospecial

第1話 サトリと十兵衛

 着物が、濡れている。

水を吸った土の上で、腹ばいになってジッとしていた。顔に泥を塗り、藁で作った背套には、森の緑翠を編み込んでいる。遠くから見れば、ちょっとした草むらにしか見えない。

  弓を持っていた。矢は背に五本。

 矢筒から一本抜き、サト子は土に寝そべったまま矢をつがえた。獲物、いや敵の足音が近づいてくる。音よりも先に、震える土がそれを教えてくれた。

 この弓で何頭もの獣を獲った。仕留めた獣はその場で胸を裂き、心の臓を取り出すと、小刀で十字の傷を付けて山の神に差し出す。それが昔から伝えられる習わしだった。今度はその儀式をする必要がない。矢を向ける相手は人間で、獲物ではない。

サト子の村では、人間を食料にしたことはなかった。

 深く息を吸って吐くことを繰り返し、その数を10数えた。数え終わるとまた初めから繰り返す。それを5回繰り返したとき、風もないのに草むらが揺れた。

 3人の人間。簡素な鎧を着けた足軽である。鎧に刻まれた家紋を見て、サト子は弓を引き絞った。村を襲った武士の家紋だった。

 視界から森の風景が消える。3人の侍の姿しか、目に映らない。不安のためか、周囲を警戒するように目を走らせている。その視線を読み、3人の視線がそれぞれ別の場所を向いた瞬間、サト子は弦を打った。

 吸い込まれるように、一番最後尾にいた男の喉に矢が刺さる。悲鳴を上げることなく、男は草むらに倒れ込んだ。 残りの二人が異変に気付いて振り返ろうとするとき、サト子はすでに矢筒から矢を2本引き抜いていた。一呼吸も間をおくことなく、一つ、二つと矢を放ち、残りの二人を斃す。

 周囲に気を巡らし、誰にも気付かれていないことを確信して、初めてサト子は体を起こした。草むらが立ち上がった、というふうにしか見えない。

 男達の死体を転がし、腰にくくりつけられた兵糧を奪う。一人は水筒を持っていて、匂いを嗅いで毒が入っていないことを確認してから中の水を飲み干した。いつも飲んでいた、川の水の味がした。

 水浴びをしたい。もう10日も体を洗っていなかった。山で獲った猪と同じ臭いが自分の体から立ち上っているような気がする。昨夜、木の上で眠る前に腕を掻いたら、驚くほど大量の垢がとれた。肌がはがれ落ちているような錯覚を覚えたほどだ。

 10日前、突如現れた武士の一団にサト子の村は襲われた。周到に計画されていたらしく、村人達は為す術もなく叩きのめされ、村の広場に集められた。最後まで抵抗しようとしていた若い男数人が斬り殺された。その中には、サト子の許嫁も含まれていた。

 サト子は村の者数名と狩りに出ていて難を逃れた。その者達と話し合い、山中で武士団への抵抗と村の開放を試みていたが仲間は一人二人と捕らわれるか、殺された。おそらく山に残っているのはサト子一人である。

 干飯をかみ砕き、ツバと絡めるようにして少しずつ飲み込む。それで、少しは飢えが抑えられた。武士団が山狩りを初めてから山の獣たちは姿を見せない。5日前逃げ遅れたウサギに出遭ったのが最後だ。そのウサギは首を絞めて解体し、血を抜いて生のまま食べた。肝臓の甘さが思い出されて、サト子は思わず涎を垂らした。

 飲み干した水筒を放り投げ、腰に吊した自分の水筒に手を伸ばしたとき、山の雰囲気が変わった。息を飲むように静かだ。熊が出るときと、似ていた。

「……ッチ」

 水筒を放り投げ、サト子は走った。馬の気配。舗装されていない山中を疾駆させる見事な馬術である。どういう事か馬に乗って追ってくる相手はサト子を捕捉している。ここは逃げるしかない。幸い、この山は知り尽くしている。馬術に優れていても馬では進めない道もあるのだ。

 一瞬、敵を見定めようと振り返った。黒い鎧に純白の陣羽織、額に桔梗の紋が入った兜。まだ、若い男だった。

 長い、鉄棒を頬に押しつけるようにして構えている。

 火薬の臭いがした。足が地面を蹴っている感触があったのは、そこまでだった。

 宙を飛んだ。目の前の太い木に右肩からぶつかった。骨が外れるような、嫌な感触が走った。痛み、だと思う。ジンジンと肩と脇腹に熱いような感触があった。ボンヤリとしながら脇腹に手をやった。血で、真っ赤に塗れている。それを見て何も思わない自分に気付いて、サト子は自分が混乱していることに気付いた。

 何かが脇腹を貫通した。

 それだけは、ハッキリと分かる。だが、それが何か分からなかった。矢ではない。何かが爆発するような音がした気がしたが、耳は急に遠くなったようになってしまっている。熱く硬い、何かが自分を貫いた。

「ほう、生きているのか」

 馬を下りて一人近づいて来た武士が、サト子の顔をのぞき込むように見下ろしている。やはり、若い。サト子とそんなに年が変わらないだろう。星を砕いて蒔いたような、不思議な輝きを持った黒い瞳が印象的だった。

「部下の仇をとるつもりで来たが、おもしろい。一番腕が立つようだし、お前を連れて行くことにしようか。女であることは問題になるまい」

 男は独り言なのか、サト子に語りかけているのか分からない口調で呟くと、サト子の脇腹に布を当ててきつく縛った。その時はじめてハッキリとした痛みが走り、思わずうめき声を上げた。

「心を読むと云われる妖怪サトリ、俺の出世の足がかりとなってもらう」

「誰だ……お前?」

 何故そんなことを聞いたのか、サト子は自分でも分からなかった。ただ、この男の瞳が綺麗だと思った。考えられるのはそれくらいしかなかった。

「俺は十兵衛。明智十兵衛光秀という」

 サト子を馬の背に放り投げ、にやりと口元だけで笑みを作って男は答えた。

 

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