真相

4-1

香苗が神上と共に出かけた日から二週間が経った。あの日、帰りのバスを降りた神上は「お疲れさま。今日はもう帰って大丈夫だよ」と言って帰路についた。食事でもごちそうしてもらえるのではないかと内心期待していた香苗だったが、あまりに淡泊な展開に「あ、はい」と言って立ち尽くすしかなかった。駅前をぶらついてふと、朝は神上と一緒にいるところを知り合いに見られたら困る、と感じていた自分を思い出した。奇妙な心境の変化を振り払い、帰宅したのだった。

 香苗が店舗の違和感に気づいたのは、十時からのシフトに備えて出勤してすぐのことだった。店舗裏手の従業員用扉を入ると主婦の菊池がユニフォームに着替えて待機していた。菊池は香苗に気づくと「あれ?」と眉をひそめた。接客用に施されたメイクは四十代後半という年齢を全く感じさせない若々しさを放っていた。日頃の家事で少々荒れ気味の指先で業務日誌をめくっていた手を止めて香苗に視線を注いでいた。

「菊池さん、今日はお休みじゃないんですか?」

 香苗の記憶では今日のシフトメンバーに菊池は含まれていなかったはずだ。そもそも菊池の休日を回すために香苗がこの曜日を昼に入るよう、前任の店長からお願いされていたのだ。週のど真ん中にあたるこの曜日に菊池とここで顔を合わせることは滅多にないことだった。

「誰かキャンセルですか。菊池さん、今日入ったら今週休みなしじゃありません?」

 そう言いながらロッカーを開けて制服を取り出そうとする香苗に、菊池は思いがけない言葉を投げかけた。

「今日入れるの? 香苗ちゃんがお休みするって、昨日店長に言われたから代わりに来たんだけど」

「え」

 ロッカーから制服を半分取り出して香苗は動きを止めた。休む? 自分が? そんなことを言った覚えは全くもってなかった。ハンガーにかけられた制服を片手に掴んだまま、香苗は目を丸くして暫く菊池を凝視した。

「わたし、そんなこと、一言も……」

「嘘だあ。わたしは店長からそう聞いてるよ?」

「ち、ちょっと待ってください。わたし、今日は別に何も……。あ。店長、今日来ますよね?」

 香苗の記憶では神上の今日の勤務は遅番。いつもの神上ならば昼前には出勤してくるはずだ。休憩室の壁に掛けられた時計を見る。九時四十分。神上が出勤すると思われる時間までまだ二時間はある。来るのを待っていたのでは遅すぎる。香苗はバッグからスマートフォンを取り出して、緊急連絡先として登録してある神上の番号を検索した。香苗が神上に通話発信をしようとした刹那、従業員用扉が開く音に香苗の耳が反応した。扉のある方向に視線を送る。そこに立っていたのは紛れもない、神上崇平であった。

「あ! 店長!」

 香苗が思わず神上を指さすと、神上は一瞬「あ」と口を開いて「しまったぁ」とバツの悪そうな表情を見せた。

「天野さん早いなぁ。いつもならちょうど今くらいに来ると思って、外で見張っていたのに」

 その状況が掴めない香苗をよそに、先に口を開いたのは菊池であった。

「あら店長。今日はお休みに変えたんじゃなかったんですか? 大切な用事があるっておっしゃっていたのに」

「え? 休み? 遅番ですよね、今日。なんでそんな急に勤務変更……」

 さらに混乱する香苗と神上を交互に見た菊池は「あ」と何かに気づいたように口元に手を当てた。

「店長と香苗ちゃんが揃ってお休みに変更……。え? あ、ああ! そういうこと? うそ。嘘でしょう?」

 誤解されている。とにかく何かとてつもない誤解を生んでいる。香苗は脳内でこの場を打開する言葉を必死で検索していた。

「すみません菊池さん。急な出勤をお願いしてしまって。実は、今日僕と天野さんはとても大切な用事がありまして……」

 香苗の脳内が一気にオーバーヒートに持っていかれる。この神上という男は何を考えているのだろうか。肝が据わっているか。空気が読めないか。はたまたこの状況を楽しんでいるか。菊池は両手を広げて体の前で大袈裟に振りながら、勢いよくイスから立ち上がった。

「あ! いえ! いいんです、いいんです。来週に今日の分を一日多く休ませて頂ければ! あ。わたしもうシフトに入りますから!」

 菊池はそう言って素早く手荷物をまとめて自分のロッカーに突っ込むと、店内へ続く扉を開けながら「あ」と立ち止って香苗と神上を一瞥した。

「誰にも言いませんから! こういうのは……その、個人の自由だと思いますから!」

 そう言い残すと菊池はそそくさと出勤して行った。それを呆然と見送った香苗は、ふと我に返って神上に食いついた。

「ちょっと店長! どういうことですか! 今、完全に妙な誤解を生みましたよ!」

 香苗の強い口調に神上は少々反省の色を浮かべて顔の前で手を合わせた。

「ごめんごめん。本当は天野さんが休憩室に入る前に呼び止めようと思ってたんだけどね。でもほら、嘘は言ってないからさ」

 神上はわざとらしく困り顔を見せて腕組みをした。今日の神上はスーツではなく私服だった。件の霊園に赴いたときと同じブラウンのスプリングコートだ。あの日と比べて気温が少し高いこともあってか、インナーはブイネックのロングティーシャツのようだった。

「大切な用事って何です?事前に連絡してくれればよかったじゃないですか」

「ごめんね。僕もこう見えて忙しくってさ。言おう言おうと思ってて気づいたら今日だよ。いや本当申し訳ない」

 神上は組んでいた腕を解いて両手を顔の前で合わせた。

「でもまあ、工藤さんの件ですよね?」

 香苗がそう言うと、神上は静かに頷いた。それから香苗の横をするりと通り抜けて事務所の扉を開け、監視モニターの前で片手を口に当てた姿勢で動きを止めた。香苗が制服をロッカーに戻して再び神上の姿を確認しても、神上はその姿勢を崩すことはなく、ただじっと監視モニターを見つめて立っていた。香苗は手荷物の入ったトートバッグを休憩室のテーブルに置くと、事務所に向かっておもむろに監視モニターを覗き込んだ。カウンターで接客をする菊池の姿が映っていた。通勤ラッシュが終わり、ランチタイムまでの狭間にあたるこの時間、客数はさほど多くなく、ゆったりとしたカフェらしい時間が流れていた。神上は何も言わずモニターを眺めている。否、眺めているというよりは注視しているといった表情だった。モニターの中で何かが起こるのを、待ち構えているかのように。神上のいつにも増して真剣な表情を見ているうち、香苗の脳裏にある予感が降って湧いた。そしてそれとほぼ同時に神上が口に当てた手をそっと放して、静かに言った。

「いらっしゃいませ」

 神上の視線は監視モニターの中の一点、店舗入口の自動ドアに近い場所に集中していた。香苗もその視線を追って再度モニターに視線を戻す。十四インチの小さな画面のフレームから、ゆっくりとその人物は画面内に姿を現した。

「……工藤さん」

 カートを押しながらゆっくりとカウンターに歩み寄ってくる小柄な老婆の姿。紛れもない、工藤光代だ。

「店長、何故工藤さんが今日ここに来るって……」

「行こう天野さん。工藤さんに、これ以上罪を重ねさせないために」

 神上がカウンターに向かう後を追って、香苗も工藤光代の元へと向かった。

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