3-2

「この場所にいつも物を置いていく女性のこと、ご存じじゃありませんか」

 今までの流れから推察するに、神上の言う女性とは工藤光代のことで間違いないだろうと香苗は直感した。

「え。もしかして今拾われた袋、工藤さんが捨てて行った物ってことですか」

 香苗が神上の耳元で言うと、神上も小声で「恐らくね」と言った。

「ああ。工藤の婆さんだろ。知ってるも何も、ここいらじゃ有名人だよ」

 男は後ろ頭を掻きながら言った。

「その、物を置いて行くことで、ですか」

「今はそうなっちゃったね」

 男は苦笑いして言うと話しを続けた。

「まあ、どっちかっていうと有名だったのは死んだ爺さんの方。釣り好きで昔からこの川にはよく来ててさ、ゴミ拾いの習慣も元は工藤の爺さんが始めたことなんだよね。俺らなんか小さい頃から釣りのことよく教わったもんでね」

 男はそこまで言って、肩にかけたクーラーボックスを河原に下ろすと、川の方を向いてその上に腰を下ろした。

「ゴミのポイ捨てとか、そういうのは婆さんの方が厳しかったんだよね。古くからの習慣ていうか、言い伝えみたいなものって言うの?物を粗末にすると化けてでるぞー、とか。地域の祭りなんかもけっこう口出ししててさ。いろいろ怒られたなあ、俺も」

「それが今は、河原に物を捨てて行くような人になってしまったということですか」

 香苗が不思議に思って聞くと男は「そうそう」と頷いた。

「二年くらい前だっけ? 爺さんがこの川で溺れちまって。あれも確か、川に流れてた缶だかを拾いに入ったんじゃなかったかな。気の毒な事故だったよ。あれからでしょ。婆さん人が変わっちまったみたいに無口になっちゃって。終いには川にゴミ捨てて行くようになってさ。ショックでボケちまったんじゃないかって、皆そう思ってるよ」

「やっぱり、工藤さんがあんなことをするようになったのは、旦那さんが亡くなったのがきっかけだったんですね」

 香苗の言葉に神上も小さく頷いた。だが、頷く以上に神上が何事か思考を巡らせているのが香苗には見て取れた。口元に手を当てて足元に視線を落とし、眉間に皺を寄せていた。

「口うるさい人だったけど、世話になった人だからね。こっちも厳しくは言えないんだよね。もしかしたら河原にゴミを捨てて行ったら死んだ爺さんがひょっこりゴミ拾いに現れるかも、なんて思ってるのかもしれないね」

「なんだか哀しいですね。ただお金に困って、駅前のお店に現れてるだけだと思ってたのに」

 詐欺。乞食。物乞い。この二年間、そういう目でしか見ていなかった工藤光代のイメージが香苗の中で強烈に変化しつつあった。それもたった半日でだ。傍らで眉間に皺を寄せたまま動かなかった神上が急に口を開いた。

「あの。亡くなった工藤さんのご主人なのですが、駅前まで出かけるようなことはありましたか」

 神上の問いに男は顎に手を添えて考えると「そうだなあ」と答えた。

「歳の割には歯も丈夫でさあ。元気な人だったよ。婆さんが古い習慣とかを気にするのと反対で、爺さんは新しもの好きでね。若い人が行くようなカフェにもよく出入りしてたんじゃないかな。ちょうどおたくみたいな店っていうの?最近流行ってるメニューだとか、俺なんかよりずっと詳しかったよ。今思えばね」

 その言葉が、ふと香苗の中に引っかかった。それが何なのか、すぐそこまで来ているのに掴めないまま、記憶の箱は鍵が開いているのに何かがつっかえて僅かな隙間だけが空いていた。だが、神上の口から出た一言が、香苗の記憶をキレイに引っ張り出すまで時間はかからなかった。

「もしかして工藤さん、魚、釣るだけじゃなくて、食べるのも好きでした?」

「ああ!」

 神上の問いに男が答えるより早く、香苗が声を上げた。

「フィッシュのおじいちゃん!」

「何か思い出した?」

 神上が口元に小さく笑みを浮かべて香苗を見た。まるで香苗がそれを思い出すことを誘導していたかのような、不敵な笑みに香苗は鳥肌が立つ思いだった。

「わたしが働き始めた頃ですよ。週に一回必ずうちの店に来ていたおじいちゃん。いつもフィッシュバーガーを食べていて……。ちょうど二年前くらいからぱったり来なくなって……。そうです! それからですよ! お婆ちゃんが来るようになったの!」

「きっと、そのお爺さんが、亡くなった工藤さんのご主人だね」

 神上と香苗の会話を耳にして、男は先ほど拾ったビニール袋を取り出してまじまじと眺めた。

「ああ。そういやこの袋にタオルだとか身の回りの物入れて持ち歩いてるの、よく見たな。そのせいかね。この袋見るとそのまま放っておけない気になんのは」

 二年前に亡くなった常連のお爺さん。その直後から駅前のカフェやファーストフードに現れるようになった妻。川辺に置かれた商品。まだはっきりと全貌は見えていなかったが、香苗の中で点と点がつながりつつあった。そして神上も口元に当てていた手を、今は腰に当てて穏やかに流れる川面を優しい眼差しで見つめていた。

「なるほどね。そういうことか」

 神上は既に、事の全容を掴んだようなすっきりとした表情でそう言った。

「帰ろう天野さん。もしかしたら工藤さんの助けになってあげられるかもしれない」

「え?助けるって……何を」

「長々とありがとうございました。あの、最後にもう一つだけ、お伺いしていいでしょうか」

 神上は男に向かって軽く頭を下げてから、姿勢を戻すと同時に再び人差し指を真っ直ぐに立てて、丁寧な口調で言った。

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