翠光の森

2-1

よく晴れた小春日和の暖かい日だった。香苗は神上と共に市営バスの座席に揺られていた。春休み真っ只中の土曜日であるにも関わらず、駅から郊外へ向かうルートを辿るバスの車内に乗客はまばらだった。それにしてもアルバイト先の社員と二人きりで休日を共にするなど、香苗にとっては初めての経験であった。こんな場面を知り合いに見られようものなら妙な噂が立つのは避けられない。香苗は窓側の席に座ってのんびりと外を眺めている神上の横顔をちらりと見た。今日の神上は白のタートルネックセーターの上から明るいブラウンのコートを羽織り、襟を立てていた。下半身は黒のパンツですらりと長い脚に同色のデッキシューズ。初めて見る私服だったが意外にお洒落なコーディネートだと香苗は思った。落ち着いた三十代男の服装といった感じで清潔感もあった。神上の向こう側を流れていく景色は、少しずつ街の喧騒を置き去りにして住宅街へと進んでいた。それでも目的の霊園まではまだ二十分ほどかかるはずだ。沈黙に耐えかねて先に口を開いたのは香苗の方だった。

「あの。なんであのお婆ちゃんのこと、そんなに気にかけてるんですか? 現金詐欺って、良くないことですけど、飲食店なら珍しいことでもないと思うんですけど」

 神上は香苗の顔に一瞬だけ視線を向けると、すぐに腕を組んで天井へと顔を背けた。

「現金詐欺、って感じじゃないんだよなぁ。あの人」

「詐欺じゃない、ってどういうことですか?」

「いや。やってることは詐欺になっちゃうんだけどね。実はさ、こないだ話したときもお金を要求されたわけじゃないんだよね」

「代替商品でいいってことですか?」

「そうそう。他の商品をもらえればいいって言うんだよね。それに、自分が食べるっていうよりは、誰かに持っていくみたいな感じで」

「お金目的でもなく、商品も自分が食べるわけじゃないってことですか」

「それで気になっちゃったんだよね。特別な事情が、何かあるんじゃないかって」

 二人を乗せたバスは住宅街を抜けて川沿いにある橋に差し掛かった。この橋を渡ると景色は一気に変わり、山間の緑が占める割合が増す。まだ桜の季節には少し早く、新緑の樹々に覆われた山々が春の少し強い風に揺れていた。乗客は徐々に減り、目的のバス停が近づく頃、車内には運転手を除いて香苗と神上の二人だけになっていた。神上が窓際に備え付けられたボタンを押して降車意志を知らせた。しばらくしてバスはゆっくりと停車し、二人はバスを降りると件の霊園に向かって歩き出した。

「ここから五分くらい歩いたところらしいね。さっきの川を見下ろせる場所にあるみたい」

 神上はスマートホンで地図を確認しながらそう言った。

「もう少し暖かくなったら、桜も咲いて景色もいいだろうな」

 さっさと先を行く神上の後ろを追うように香苗も歩いた。バス停から歩いてすぐのところに側道があり、霊園の看板が置かれていた。神上が無言で看板を指さし、目的地が近いことを確認した二人は側道へと足を踏み入れた。

「それにしても、お客さん一人のためにこんなところまで来ちゃうなんて、物好きというかなんというか。普通ここまでしないんじゃないですか」

 神上の背中に向かって香苗がそう言うと、神上はちらりと香苗の方を振り返ってすぐに前を向いて歩みを進めた。

「まあ、そりゃそうだよね」

 神上は小さくそう言ったが、すぐに「けどさ」と話しを続けた。

「天野さん、うちのブランドビジョン知ってる?」

「確か、全てのお客様に最高の満足を、でしたっけ」

 アルバイト初日に渡されたハンドブックの一ページ目にそう書かれていた言葉を香苗は復唱した。

「お。よく覚えてるね。だからかな。今日ここへ来たのは」

「よく、わからないんですけど……」

「やりすぎだっていうのは僕自身も十分わかってるんだけどね。それでも、本当に一人一人のお客さんに満足してもらおうと思ったら、少しその人の抱えてる事情にも足を踏み入れていかなくちゃいけないんじゃないかって、そう思ってるんだよね」

「そこまでします? あのビジョンはお店の設備とか商品とか接客とか、店舗で出来る範囲で、ってことだと思うんですけど」

「うん。それもわかってる。社員になったばかりの頃もさぁ、よく店長から怒られたよ。やりすぎだってね」

 神上はそう言って苦笑いをした。怒られることは気分のいいものではないはずなのに、神上自身はそれがまるで楽しい思い出であるかのように清々しい表情であった。

「何をやってたんですか、一体」

「そうだなぁ。お客さんに頼まれて近くのコンビニに煙草を買いに行くなんてしょっちゅうだったでしょう。週刊誌とか新聞もよく買いに走ったなぁ」

 神上は昔を思い出すように、それもまた楽しそうに話した。明らかに過剰サービスだと香苗は内心呆れたが、当の神上はまるでそうは思っていないようだった。

「一番はあれだな。足が不自由だから商品を届けてほしいって電話があって、タクシーで届けに行ったことかな。いざ出たら思ってたより遠くってさ。自分が戻るまで店長に残業させちゃって。いやあ、あれは怒られたね」

「そりゃそうですよ……。さすがにやりすぎじゃないですかね」

「けどね。そこまでやると、お客さんて本当に喜んでくれるんだよね」

 神上がまるで反省の色も見せずに話すので香苗はもう何が正解なのかわからなくなっていた。

「それって、その一人のお客さんは満足したかもしれないですけど、その間に他の大勢のお客さんに迷惑かけたことになりません?」

「そうかもしれない。でも、全てのお客様に、の『全て』っていうのは、グループとしての全てじゃなくて、一人一人に対して真剣に向き合うことなんじゃないかって、僕は思ってる」

 そう言った神上の表情は、今まで見た中で一番真面目な、本気の表情だった。香苗がその言葉に何も言い返せずにいると、神上が道の先を指さして「着いたかな」と言った。神上が示す方向に目をやると、山を切り開いて設けられた霊園の入口が二人を出迎えた。

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