思い出せない
「ふふ……」
一人の少女が、顔を喜びにほころばせながら道を歩いていた。
周囲に人家はない。街を抜けて歩いていくにつれて田畑や山林が増えていく。
黒髪を夏の風になびかせ、黒に近い紅い瞳は手にした袋に向けらりている。
白を基調とした着物の丈は膝上で、太ももの中程から足先までを黒の長足足袋が覆っている。
街を眼下に見下ろすほどに歩いた所で、門が見えてくる。門の横には「木漏れ日屋」の看板がかかっていた。
開かれた門を通り敷地へ入ると、次いで少女は事務所の戸口をくぐった。
帰寮書類に必要事項を記入し、提出した少女は事務所の北側、寮へと続く廊下を歩いていた。
「あ、
後ろから声をかけられ、少女――来紗は足を止めて振り向く。そこにはよく知る事務の女性がいた。
手には書類を持っている。寮の誰かに用があるのかもしれなかった。
「おっ、ただいま!」
来紗も寮へと向かう。二人は並んで寮へと続く廊下を歩いた。
女性が来紗の手に袋があるのを見つけ、「いい買い物したの?」と問う。
「ふむ、実に良い買い物じゃった。何故に?」
「すっごい嬉しそうな顔してたよ、振り向いた時。ちなみに?」
来紗は袋の口を開いて中から竹で作られた水笛を取り出し、吹いた。
廊下に涼やかな音が響く。女性は「いい音だね」と笑い、水笛を見つめた。
「へえ、彫物がしてあるものなんて珍しいねえ」
「うむ!しかもほれ」
来紗は女性の方に水笛の横面を見せる。そこには丸々とした可愛らしい雀が彫られていて実に細微であった。
「お、可愛い!」
「じゃろ。いくつも店を回って探したんじゃよ」
「確かお祭り、今日からだっけ?」
来紗は水笛を吹きながらコクリと頷いた。
「そうじゃよ。今日の夕刻には
「フフッ、相変わらず仲いいねえ」
寮へと辿り着いた女性はまたね、と手を振って別の方へと歩いていく。
来紗は水笛を大切に仕舞うと、自室へと向かった。
「琳汪、どーしたんだ?」
声をかけられて、琳汪は声の主を振り向いた。
黒に近い紅い髪は窓から差し込む夕日を受けていつもより明るく、先ほどまで階段の上を見上げていた瞳は黒い。
着物は濃色で、どこか古服に似ていたが、上着の後ろ裾が長く垂れている。
彼は組んでいた腕を解いて溜め息をついた。
「来紗が来ないんだよね」
「何か約束でもしてるのか?」
「うん、この後に夕食は抜いて祭りに行こうと思ってたんだけど……」
そう言って、階段の先、木漏れ日屋の女子寮を見上げる。
「ふうん。そういや見てねぇな。名札は帰寮になってたから、居るとは思うけど」
「うん、事務の子に聞いたら三時ぐらいには帰ってきてるみたいなんだけど……」
「二時間前か。とりあえず上に行ったらどうだ?」
同僚の提案に、琳汪は少し黙っていたがやがてこくりと頷いた。
「もしかしたら体調でも崩してて、そんな時に祭りの話もち出したら悲しむかなあ、と思ったんだけど」
「それも行ってみねぇとわかんねぇって。誰かに伝言ぐらいは頼むだろうし、そんな話も聞いてねぇんだろ?」
「まぁ、ね。……行ってみるか」
夜の九時を回ってからは、緊急時を除いて男が女子寮へ入るのは禁じられている。今は夕刻だし、問題はないだろう。
同僚に別れを告げて、琳汪は階段を上がる。
着いた二階は、片側には障子が並び、その正面には所々に窓が設けられていた。
「来紗の部屋は……」
歩きながら障子の最上にかけられた名札を見る。かなり奥の方に来て彼女の名を見つけた。
「……」
来たは良いが、どう声をかけるべきか。足音も聞こえているだろうし、日も少しは入るため影も中からは見えるはずだ。
気配を探ってみるが、これと言って感じない。もしかしたら居ないのだろうか。
「……来紗?」
声をかける。が、反応はなかった。
「……居ない、かな」
許されている、とは言え、あまり異性の部屋の前でジッとし続けているのもどうか。
通りかかる者が何処かからでも見ていればあらぬ誤解を生みそうだったので、琳汪はその場から去ることにした。
階段の方へと一歩踏み出した時、部屋の中から気配がした。
「……来紗?」
中からしたのは微かな声。やはり居たのだ。
少々気が引けつつも、琳汪は障子に手をかけてゆっくり引いた。夕日が来紗の部屋の中に琳汪の影を作りながら差し込む。
そこに居たのは、布団の中で見ていて気持ちのいい程に熟睡している来紗の姿だった。
琳汪は、しっかりと来紗の寝息を聞いてから、表情を固まらせて背後を振り返る。
窓から見える空は、綺麗な夕焼だった。
「……なんか、損した」
寝顔を見るに、体調が悪いというものではなさそうだ。よかったといえばよかったが、素直に思うのだ。
いつまで寝ているのか、と。
「来紗」
流石に布団をめくることはせずに、枕元で琳汪は来紗に声をかけた。
「……」
「来紗」
完全に寝入っているのか、中々に起きない。肩を揺さぶると、来紗は眼をゆっくりと開けた。
差し込む光が眼に入ったのか、まぶしそうに眼を細めた彼女はむくりと起き上がった。
「……どうしたのかや?」
「それはこっちの台詞なんだけどな。疲れてたのか?」
「いや、特にそのようなことはないが……」
「もう夕方だけど来紗が来ないから一応見にきたんだけど、祭りには行かなくていいのか?」
琳汪の言葉に、来紗は「えっ」と声をあげ、バタバタと布団を押しのけると琳汪の横を通り過ぎて廊下の窓に飛びついた。
「……夕方、じゃ」
「よくできました」
わざと言うが、来紗はフルフルと肩を震わせて琳汪に向き直る。
「お、怒っておるかや?」
「いや?体調でも崩してるのかと思って心配はしたけど、まだ祭り終わったってわけじゃないしね」
琳汪の言葉を聞いて不安げだった来紗の顔が安堵の表情に変わる。
彼女は「準備を済ませてくるから、下で待ってて」と言い残し、部屋の中に再び入っていった。
障子を閉め、中で物音がする。琳汪は廊下を歩きつつぼんやりと考える。
来紗が楽しみにしていた祭りの予定を忘れるとは、そんなに昼間は疲れていたのだろうか。
翌日は気持ちの良いほどの晴天だった。昨夜は遅くまで祭りに出かてていかせいか、この日差しでは眠気が来そうだった。
時刻は昼前。寮のさらに北側にある稽古場には十名程の所属員が訓練していた。
二人一組で様々な依頼を受ける木漏れ日屋には、総勢百名ほどが所属し、その中でも師匠の組と弟子の組が存在していた。
『鬼の討伐から悪人保革、要人護衛まで』を歌い文句とする木漏れ日屋。幼少期より属し、もうそろそろ十年になるだろうか。
師匠同士が組んでいる為、その二人の弟子である来紗と琳汪も組んで任務をこなしている。のだが。
「……ふあ」
弟子の身である来紗と琳汪はまだまだ毎日かけずり回るほど忙しくはない。
それに加えて今は祭りの時期である。祭りに行けるの有難いが、複雑な話だ。
「……来紗?」
「んむ?」
声をかけられて、来紗が前を向くと、琳汪が間合いに入り込み、手にした匕首の鞘の先で彼女の額をコツンと叩いた。
「いたっ」
咄嗟に鉄扇を落とし、額を押さえた来紗に、琳汪は溜め息をついた。
「ほら、武器落とさないの。というか、ちょっと気が抜けすぎだろう。今訓練中だぞ」
「うう、すまぬ」
砂利に落ちていた鉄扇を拾い上げる。琳汪と来紗は離れて向かい合った。
来紗は鉄扇を開き、顔前に構えると琳汪の姿を見据える。彼は半身に構え、来紗を見つめていた。
鉄扇を振ると突風が吹き、宙で風刃に転じて琳汪へと向う。
彼はジッと風刃を見ていたが最低限の動きで風刃をかわし、匕首を振った。
来紗と琳汪の間に突如霧が立ち込め、来紗の視界を奪う。
彼女は鉄扇を振ったが霧が晴れたのは一瞬ですぐに視界が白くそまる。
気配を感じて、来紗は鉄扇を構えた。キンッと短い音がして、すぐに気配が居なくなる。琳汪のはずであるが、姿は見えない。
「……苦手なんじゃよなぁ」
来紗は懐に鉄扇を仕舞うと、もう一つの鉄扇を取り出す。巻かれた金糸の紐が霧の中キラリと光った。
紐を垂らし、鉄扇を横一線させるとその姿が変貌する。
懐に入るほどだった大きさではない。彼女の胸までの高さに、幅は半身を隠す程に大きい。
軽々と巨大化した鉄扇を開き、振ると霧が一瞬完全に晴れた。が、琳汪の姿はない。
「残念でした」
ピタリ、と来紗の首元に霧に包まれた刀の刃が当てられる。
視線だけを刃先に向けるが、その全てが霧に覆われているため、来紗も実際はどの長さの刀なのかは知らない。知っているのは琳汪だけだ。
「……む」
琳汪が刃を離す。霧に包まれたそれを振ると霧がかき消えて匕首が現れた。
「ちょっと来紗、疲れてるのか?」
匕首を鞘に戻し、懐に閉まった琳汪は首を傾げる。
来紗も鉄扇を振って大きさの戻ったそれを仕舞う。昨日の疲れが無い訳ではないが、自分でも今日は何処かおかしい。
「今日はここまでにして、あとは昼からにするか?」
「今日は特に任務もないからの。昼には師匠達帰ってくるかの?」
稽古場から寮へと歩きつつ、すれ違う同僚と挨拶を交わしながら二人は話を続ける。
「そうだな。昨日の朝から出てて……もうそろそろ帰ってくるとは思うよ」
「うむ、今日は四人でご飯が食べれるの!昨夜の祭りの話もせんとの!」
「だな。結構珍しいもの売ってたしな」
寮へと入り、二階へと続く階段の前で足を止める。
「じゃあ、またご飯の時な」
「うむ、またの」
来紗は琳汪と別れ、二階へと上がり自室へ向かう。
障子を開き、最初に目が行くのはお気に入りの水笛だ。来紗はしゃがむと小さな棚の上に置いた水笛に手を伸ばす。
昼食の時刻まではまだ一時間ほどある。軽く本を読んで時間を潰そう。だが、まずは音色を楽しまなければ。
開かれた窓から空へと、水笛の音が響いていた。
「…流石に、おかしいよなぁ」
木漏れ日屋の食堂、琳汪の呟きに彼の正面に座る男性が持っていた椀を置いた。
背は高く、精悍な顔立ちをしている。琳汪の師匠である
その隣には、来紗の師匠である妙齢の女性。
「どうした」
琳汪は師匠の言葉に食堂の入口の方を見ながら答えた。
「来紗が、飯時に起きてこないんですけど」
琳汪の言葉に、師匠二人は顔を見合わせた。
「今日昨日と俺等は居なかったが、何か変わったこととかはなかったか?」
「朝からは訓練してて、なんかその時も集中はあまりできてなかったな……」
昨日も祭りのこと忘れていたし、と告げた琳汪に、璃刹は口をつけようとしていた椀を置いた。
「何?」
「え?」
「よく考えよ、琳汪。あいつが飯と祭りなんていう大事なことをそう二度も忘れるかえ?」
「疲れてたんじゃないかと思って……」
「お前。去年はどういうものだったか覚えているか?」
言われて琳汪は思い出す。去年は……琳汪の部屋にやってきたのだ。
まだ時間があるだろうとのんびりしていた琳汪の部屋の障子をバンと開け、行くぞと叫んで琳汪を連れ出したのだ。
飯の時もそうだ。いつもは厨房に顔を出して今日の献立を聞くのに、今日はそのような事もなかった。
「……体調が悪いとかじゃないのか?」
剛晶の言葉に、璃刹は告げる。
「体調が悪い時は素直に休めと言っておる。訓練はしたのじゃろう?」
「……そうをですね。忘れる以外は特に変わりなかったです」
「私とこいつが出ている間。来紗といつも共に居ったかえ?」
「いえ……昨日の昼間は別行動していました。確か、来紗は祭りに出かけてたかな」
「その出かけた時に何か連れてきたかもしれないな」
「……陰陽に関するものですかね」
何でも屋に属していれば、来紗の鉄扇や琳汪の匕首のような五行の力を借りた武器である五行武器を使い、任務に当たるのが一般的だ。
だが、中には陰陽の術を共に用いて任務に向かう者もいる。璃刹がそれだ。
彼女曰く、来紗と琳汪に陰陽の術の才能は皆無に等しいそうだ。
術や式を自在に扱えれば仕事の幅も広がるものだが、皆無と言われてはどうあがいても身にはつかないだろう。
「一度話を聞いてみないといかんな。万が一任務中に支障が出れば問題じゃ」
食事もそこそこに、璃刹と琳汪は立ち上がった。剛晶は座したまま璃刹を見上げる。
「俺の出番はないだろう。璃刹、用意しとくのはあるか?」
「紙と筆があれば今の所は十分じゃ」
それだけを剛晶に告げた璃刹は、琳汪と共に寮へと向かった。
来紗の部屋に着くと、璃刹は声も掛けずに障子を開いた。
「……?」
何事かと来紗は読んでいた本から顔を上げ、師匠が来たとわかると本を放り立ち上がった。
「し、師匠。どうしたのかや?」
「飯の時間を忘れるほどにお前が本に没頭するなど、熱でもあるのかえ?」
「え、もうそんな時間かや」
来紗の言葉に、璃刹は琳汪に視線を向けた。琳汪はコクリと頷く。
――昨夜の、祭りのと同じだ。
「食事ならば早う行かねばの。すまぬが準備を――」
「来紗。それをどこで手に入れた?」
来紗の言葉をさえぎった璃刹は、棚の上に置かれた水笛を示す。
「え?」
準備をしていた来紗はクルリと振り向き、水笛を見た。
「何を言うのかや。ずっとあったではないか」
「だから、いつからあったのじゃ」
「いつって……」
思い出そうと宙をぼんやり見つめていた来紗は不意に頭を押さえた。
「来紗?」
「いや、大丈夫じゃ。いつ買ったのかじゃな、えっと……」
頭に手を当てうなっていたが、その行動を璃刹が止めた。
「よい、悪かったの。体調が少し悪いようじゃから、休め」
「え、でもご飯……」
「後で運ばせればよい。それはそうと……」
璃刹は水笛を取り上げる。
「これを借りるぞ」
「師匠も吹くかの?良い音じゃぞ!」
「そうじゃな。やってみよう。……ほら、早く休め」
璃刹と琳汪は敷いた布団に寝転がる来紗を見つめた。
「後で剛晶が呼びにくる。……それまで休んでいろ」
最後の言葉をハッキリと告げて、璃刹は琳汪を連れて来紗の部屋を出た。
階段を降り稽古場の隅に来るまで、璃刹は一言も発さなかった。
立ち止まり、一息ついた彼女はクルリと琳汪の方を振り向く。
「これは、呪具じゃ」
「……え」
呪具。どんな呪術が掛かっている物であれ、基本的に持つことは禁じられている。
厳しい特定の条件下で使うことはできるが、そんな機会は来紗や琳汪には縁の無いことだ。
「……もしかして、来紗が祭りとか食事を忘れてるって……その呪具の術?」
「そうじゃな。来紗が何処でいつ買ったかと思い出そうとしていた時に、こいつから瘴気が吹き出していた」
そう言って、璃刹は水笛を見せる。琳汪は首を傾げた。
「瘴気ぐらいなら俺にも見えますよ。鬼が漂わせているものじゃないですか」
「普通に突っ立ってる鬼から、であろう。呪術の元で放たれるものは陰陽の覚えがないと目視できない」
「でも、いつ呪術にかかったんです?それに、お祭りとご飯の時間忘れるって……」
「かなり地味じゃな。正しくは……」
その時、剛晶が璃刹が告げた通り、紙と筆を手に稽古場へとやってきた。
「これで良いか?」
「あぁ。ちゃんと擦ったものじゃな」
携帯用の硯に墨を垂らす璃刹に、剛晶は問うた。
「ん?来紗は何処だ?」
「部屋で休ませている。そうだな……」
答えた璃刹は空を見上げて何かを考えていたが、不意に口を開く。
「三十分後に、ここへ連れてこい」
「三十分後だな。解った」
すんなりと頷いた剛晶は、琳汪に笑って見せると事務所の方へと向かって行った。
琳汪としては、何もすることがない。もどかしさに眉間にしわを寄せていると、璃刹が声を掛けてくる。
「琳汪」
「はい?」
剛晶の方を見ていた琳汪が璃刹へと向き直ると、彼女は板に張った紙と筆を突き出した。
「今から、私が言うことをここに書け」
「……はあ」
紙と筆を受け取った琳汪は、璃刹の言葉を待った。
「『本日は晴天なり』」
言われて琳汪は不思議に思いながらも筆を滑らせた。耳に、水笛の音が聞こえてくる。
書き終わり、紙を渡そうと顔を上げると、璃刹が水笛を吹いていた。
「……何してるんですか」
「来紗の言った通り、音を楽しんでいるんじゃよ」
水笛から口を離した璃刹は琳汪から紙を受け取る。
「相変わらず綺麗な字を書くの。ところで……」
キョトンとしている琳汪に、璃刹は問う。
「お前、今紙に何と書いた?」
「はい?」
「言うてみよ、何と書いたか」
何を言っているのかと思いながら琳汪は思い出すまでもなく口にしようとして、できなかった。
「え?」
頭が一気に混乱する。いや、流石に解るだろうと口走りつつも、先ほど書いた字が思い出せなかった。
一人焦る琳汪に、璃刹が告げた。
「この音を聞いている内、もしくはその前後にその者が思った事なり行動を忘れるようになっている呪いじゃ」
「……璃刹様は、やはり耐性があるから掛からずに?」
「いや、防ぐ術を自分に掛けているから、私の分までが琳汪に掛かっている」
「……呪術についてはよくわかりました。というか、今だに思い出せないんですけど」
「この水笛がある限り、思い出せないままじゃよ」
璃刹が笛の吸い口を持ち、フラフラと振って見せる。横に絵かれている雀の絵は可愛らしいはずなのにひどく恐ろしいものに見えた。
「これを壊せばはい終わり、となればよいが、もし追加で術が発動した時、お前達……悪ければ記憶が飛ぶぞ」
「それは……嫌ですね」
「式がいるか、鬼が出るか、術があるか、それは私にも壊してみないと解らん」
「……壊す、んですか」
「これは、あいつが気に入った水笛である前に、呪具じゃ」
「……」
「ずいぶんと珍しい柄だが、彫り物の店が無い訳ではない。いくらでも手はある。……だが、呪術は解かねばならん。解るな?」
璃刹の言葉に、コクリと頷いた琳汪はもう一度チラリと水笛を見る。
共に探しに行くのなら、柄は覚えておくに越したことはない。出来る限り細部まで覚え込む。
そんな琳汪の様子を見て、璃刹はフッと笑った。
「私は少し準備をしてくるから、ここでこれを書いておけ」
琳汪は差し出された紙を受け取った。
視線を落とす。そこには見るからに複雑な陣が書いてある。呪術避けの陣だろうか。
「……もしかして、璃刹様」
「なんだ」
事務所へと歩いていた璃刹は琳汪の方を振り返る。
「これ、三十分で書けっておっしゃるのではないでしょうね?」
「……そうじゃが、何か問題はあるかえ?」
「こう、間違えちゃいけない場所とか、見ていただかないとなんとも」
「お前が書くのを間違えて陣が破れたとしても心配するな」
璃刹は天女のごとき笑みを浮かべて、琳汪に言った。
「お前の持つ記憶が全て飛ぶだけじゃ」
「来紗。呼びに来たぞ」
障子の向こうからそんな声をかけられて、来紗は目を覚ました。
「……剛晶、様?」
「そうだ。来紗、ちょっと出てきてくれ」
布団から出て手早く準備をすませて部屋を出ると、剛晶が窓の外を見つめていた。
「……剛晶様、いまは何時で……?」
「心配するな。そんなに時間は経っていないよ」
来紗は剛晶の後ろをついていき、稽古場に続く戸口をくぐる。
寝る前の記憶がどこか曖昧だった。途切れ途切れの記憶しかなく、酷く気分が悪い。
来紗の顔色が悪いのを察したのか、剛晶が足を止めて振り返る。
「来紗、大丈夫か?」
「……少し、気分が悪いと云うか、吐き気がするんじゃが」
途中から剛晶に手を引かれ、来紗は稽古場の隅まで来た。
「……琳汪、どうしたのかや」
そこには、木の棒を支えにして砂利にベッタリと座り込み、かなり疲れた顔をした琳汪がいた。
「あぁ、来紗か。顔色悪いな。大丈夫か?」
「……琳汪も、なんだか顔色悪そうじゃが」
「いや、俺は時間に追われてただけだから気にするな」
琳汪は手をヒラヒラと振る。来紗は頭痛を覚えつつもコクリと頷いた。
稽古場を覆う林の傍に腰を下ろしていた璃刹が立ち上がる。
「……どうしたのかや。これは……?」
璃刹の後ろ、その足元に広がる陣を見つめている来紗に璃刹は笑った。
「お前の相方の苦労の結果じゃ」
来紗は琳汪を見る。彼は疲れ切った顔で今にも砂利に寝転がりそうな勢いだった。
「さて、来紗……」
璃刹は、懐から取り出した来紗の水笛をかかげる。
「この際率直に言うが、お前の持っていたこの水笛は呪具じゃ」
言われて、来紗はキョトンと首をかしげる。呪具?水笛が?
来紗は師匠をジッと見つめた。
「……実感がないが、うちも呪に掛かっておるのかや?」
「そうじゃ」
璃刹は頷き、琳汪が書いたという陣の中央にその水笛を置くと陣から出た。
「意とせずして掴んだお前に罪はないが、売ったもの、流したものは捕らえねばならん。その為には」
璃刹は狩衣の袂から符をいくつか抜き取り、片手で印を組んだ。
「この水笛を壊し、お前の記憶を取り戻す必要がある。壊すが……よいな?」
チラリ、と視線を向けられる。
自分のお気に入りだったものが実は呪具でした。壊します。と言われて来紗は一瞬ダメだと 言いかけ、やめた。
壊さないでという思いより、よくも呪術など掛けてくれたな。という思いの方が強かった。
壊れてしまうのは悲しいが、そもそもどんな理由かは知らないが只の水笛を呪具にしてしまうのが悪いのだ。
「良い。思い出したら悪人をとっとと捕えてしかるべき所に行ってもらうまでじゃ」
「……わかった」
璃刹は構えていた符を陣の中央、水笛に向かって投じる。
「――解!」
符が水笛に触れた瞬間、眩い光が当たりを覆い、甲高い鳥の泣き声が響き渡った。
眩い光が消えたその場所にいたのは、一羽の巨大な雀だった。
足元にあるはずの陣が見えない。だが、雀の足元からは雷光にも似た光が音を立てて何度も瞬いている。
「あれは式じゃな」
「うむ、鬼だと倒せば終わりだが、やはり裏に術者が居ったか」
鬼と式は全身を黒いモヤに包まれているのは同じであるが、式は無感情な瞳で主に動物の姿を取り、鬼は感情的な瞳で主に人に似た姿を取るのだ。
そして決定的に違うのは、式は術者の使役として動き、鬼は負の感情が寄り集まり生じた存在だということ。
来紗と琳汪はチラリと師匠である璃刹を見た。
彼女は何気ない動きで、右手を軽く振った。同時、来紗と琳汪の後ろに突如気配が生じる。
姿の見えない何かが二人の頭上を跳び超え、璃刹の横を通り過ぎたのを感じた。
「……何が、通ったんだ?」
「心配するな、直に終わる」
璃刹の言葉通り、再び風が吹いて不可視の刃が雀を八つ裂きにした。
断末魔の叫びと共に、黒いモヤを散らしながら雀は風に流れて掻き消えていった。
「……ここか」
「うむ。間違いないぞ」
夕暮れの街を、来紗と琳汪、璃刹は歩いていた。
日除けの布を頭の上からスッポリと被った璃刹は建物の壁にもたれかかり、通りにある一件の店を見ていた。
呪具であった水笛を壊した事により、来紗が思い出した水笛を買った露店である。
琳汪は璃刹を見上げた。
「……呪具、あるんですか?」
「あぁ。全てが全てではないがな……」
溜め息混じりに言った璃刹の言葉を聞いて、琳汪は露店に並ぶ水笛をジーッと見つめた。
全くわからない。どこからどう見ても只の水笛が並んでいるようにしか見えなかった。
来紗はハァ、と溜め息をついて水笛を見つめていた。やはり、寂しいのだろう。
「師匠、どうするのかや?うちの記憶は戻ったが……あの店主はまだなんじゃろ?」
璃刹は露店を見るなり、売った者は術者ではなく徒人だと呟いた。
陰陽の術を扱う者同士であれば、姿を見ればその辺りはわかるのだという。そしてあの者も術に掛けられているのだと彼女は言った。
「そうじゃな。だが先ずは忘れている、ということを自覚させねばならん」
建物の影からスルリと通りへと出た璃刹を、来紗と琳汪は追った。
店先から人が居なくなったのを見て、璃刹は露店の主へと声をかける。
「こんにちは」
「はい!いい物がそろってますよー!」
そう言って璃刹の方を向いた店主の男は、彼女の後ろに居た来紗の姿を見た。
「おっ、前買ってくれた嬢ちゃんか!どうだい、いい音は出たかい?」
「……うー」
今の来紗にはある意味一番キツい一言だろう。彼女は苦笑いを浮かべている。
店主もまさかそんな顔をされるとは思っていなかったのだろう。首を傾げて璃刹を見た。
「私は璃刹という。木漏れ日屋の者じゃ」
言って、璃刹は一枚の木札を見せる。木漏れ日屋の 紋や名前、所属や地位が記されているものだ。
出されたものを見て、店主がハッとする。
「……その、何用でしょうか」
「この娘は私の弟子じゃ。この店で買った物が……呪具だったのじゃが」
璃刹がそこまで言うと店主は「違う!」と叫ぶ。札を仕舞った璃刹は、青ざめて唇を震わせている男を落ち着かせるよう言った。
「先に言っておこう。あなたを捕えに来たわけではない。呪具だと言われて青ざめるのもわかるが、先ずは落ち着かれよ」
「呪具などではない!俺は、俺はただ……!」
「落ち着けと、言っている」
低く凄味の帯びた璃刹の言葉で、男はやっと口をつぐんだ。
少し疲れた顔をした璃刹は並ぶ水笛を指し示す。
「ここにある全てが、ではない。いくつかの物が呪具のようじゃが……何処から仕入れた?」
水笛の一つを手に取り、璃刹は店主に問う。
「この、水笛だ」
店主は水笛を手に取ると、思い出そうと唸り声を上げる。
「えぇっと……確か」
少し唸っていた店主は、あれ、と呟いた。
「おかしい……俺は毎日露店を出してるんだ。何処かから仕入れて……いるはずなのに」
どんどんと混乱してきている。店主は今、思い出せないという気持ち悪さに襲われていることだろう。
慌てふためきながら必死に思い出そうとしている店主を横目に、璃刹は並んだ水笛をジッと見つめて、溜め息をついた。
「私の弟子は笛の音を聞いて思い出せなくなったが、店主。あなたにはまた別の呪術がかけられているようだ」
璃刹の言葉に店主は震え上がり、 彼女の狩衣の裾をギュッと掴んだ。
「解いてくれ!こんな気味が悪いし……俺は、罪を?」
「呪術により記憶を歪められた者が呪具を売って罪になることはない。先ずはここにある全ての水笛を下げよ」
璃刹に言われて、店主は大急ぎで水笛をかき集め始める。
こんな状況では店などやってられないのだろう。続いて店を畳みだした店主に、璃刹は続けた。
「店の物も全て持って参れ。木漏れ日屋で祓う」
日は落ち、空には満月が浮かんでいる。周りには蛙の鳴き声がうるさいほどに響いていた。
木漏れ日屋の稽古場、その一角で璃刹は深々と溜め息をついた。
「……全てではないと言ったが、ほとんどじゃったな」
水笛の多さに面倒くさそうな顔をした璃刹は溜め息をついた。
彼女の前には、数珠により描かれた円陣の中に水笛がうず高く積まれていた。
璃刹が水笛が呪具であるかそうでないかを見分けた結果である。
「……俺、必死になって昼間に描かなくてもよかったんじゃ、ないのかな」
稽古場に着くなり、部屋からこれこれ一式持って来いと来紗に命じ、物を受け取った璃刹がせっせと陣を張る一部始終を見ていた琳汪の感想だ。
「雀の式一羽と、数えたくもない雀の式を一緒にするな」
「……すいません」
「あのまるい雀、かなり一羽だけでも大きかったが……こんな陣に入るのかの?出てきたりせぬかや?」
「身動きは取れない方がよい。……これじゃな」
来紗の疑問に璃刹は持った書類の束から一枚の書類を抜き取り、パサリと水笛の上に置きながらそう言った。
「……何かや、それ」
「店主にかけられている呪術の媒介じゃ。この書類と水笛の式が共にあると、仕入先を忘れるよう仕組まれている。ほら、始めるから下がれ」
璃刹は陣から離れるよう手振りで示しながら答えた。
来紗はコクリと頷き、琳汪の隣でガクガクと震えている店主の傍へ向かった。
自分の身に呪具による呪術がかけられているというと、やはり普通はこういう反応なのだろうな、と来紗は青ざめた顔をしている店主を見て思った。
式や呪具にしても自分達にはそう珍しくもないため今さら大して驚きもないのだが、そういう意味では少々ズレているのかもしれない。
「…………」
璃刹が片手で印を組み、小さな声で何かを呟いている。
陣を囲む数珠がふわりと浮き、風もないのに房が揺れる。積まれた水笛の周囲に雷光にも似た光が瞬き始めた。
「――解っ!」
言葉と共に符を投じ、眩い光が司会を焼いた時、幾重にも重なる鳥の泣き声が宵闇を切り裂き響き渡る。
耳を聾する声が響く中、来紗と琳汪の間で店主は腰を抜かしその場から離れようと砂利の上を這う。
――そうだよな。普通は腰抜かすよな。あんな数の雀だもんな。
耳を塞ぎながらも、来紗と琳汪は心中同じ事を思っていた。
陣の中では、巨大雀が文字通りひしめき合っていた。羽をバタつかせる空間もないのだろう。身動きが取れないでいる。
数は、数えたくもない。狭い陣の中から出ようと雀が体当たりする度に陣を囲む数珠が揺れ、雷光を迸らせている。
「空を飛ばれたら大変じゃからな」
ブワリと、風が吹いた。来紗と琳汪はバッと周囲を見渡すが何かの気配が通り過ぎただけで、姿は見えない。
そしてまた、見えない刃が雀を狩った。一羽、一羽と黒いモヤになって消えていく。
刃が振るわれる度、吹き荒れる風はだんだんと荒くなってきていた。周囲の木々は揺れ、砂ぼこりが舞う。
舞い上がる砂ほこりの中で、来紗は一瞬だけ大しく凛々しい巨大な白犬が見えた気がした。
だが、見えたのはその一度きりで、もうその姿は風の中に紛れて見ることは出来なかった。
風が止んだ時、陣を見るとそこには粉々に砕けた水笛と数珠が散らばっているだけだった。
だが、書類がどこにもない。キョロキョロと周囲を見渡している来紗と琳汪の前で、璃刹はこちらを振り向かずに告げた。
「逃がしはしない」
璃刹が右手を再び振る。強烈な向かい風が吹き、空へと舞い上がった。
視線を向けたその先で羽ばたいている烏が何かに裂かれ、バラバラになって地表へと落ちてくる。
黒いモヤが消えたその場には、細かく裂かれた紙が散らばっていた。
「……さて、思い出せたかね?」
璃刹の言葉に、震え上がり、気絶寸前だった店主はハッとした。
「へい、思い出しました!」
解けたと歓喜する店主は、水笛の仕入れ先の名を口にした。
翌日、琳汪と来紗は祭りの賑わいの中にいた。
周りから見て怪しまれないようにしてて、と言った琳汪に対し来紗は上機嫌で水飴を買ってきたのだ。
それはいいのだが、まだ半分ほど残っている。食べ切れるのか不安だ。
琳汪は昨日の露店の様子をジッと覗いている。仕入れについて思い出した店主曰く、そろそろ仕入の者がやってくるとのことだった。
店主と目が合う。彼は不安げな表情をしていた。コクリと頷いて、琳汪は露店から視線を反らす。
一人の男が、周囲を気にする風もなく水笛の露店に近付いてきた。
人相や歩き方をしっかりと覚えて、琳汪は店主とその男が話す様子を見つめていた。
店主には呪術避けの符を璃刹から渡してある。術にまたかかることはないだろう。
やがて、男は仕入れ品を店主に渡すと露店の前を後にした。店主が琳汪の視線をとらえて唇を震わせる。
「行くぞ、来紗」
琳汪は後ろを振り向く。来紗の持つ器、その半分ほど残っていたはずの水飴はもうなくなっていた。
だが、今はそんな事を気にしてなどいられない。
琳汪は来紗と共に、男の後を追った。
「……さて、どんな奴かの」
見失わないよう、しかし見つからないよう一定の距離をあけて二人は歩いていた。
相手の男が警戒する様子はない。迷いなくどこかへと向かっていた。
昼間のにぎやかな通りを抜け、どんどんと人気のない場所へと向かっている。
「店主の話だと、いつの同じ人が来て、名前は告げるが……本名とは限らないな」
「じゃろうの。悪い事をするのに本名を名乗る奴はおらぬからの」
「陰陽の術が使える、だろうな」
雀の式を思い出す。二回とも璃刹の術より動きを封じられていたために困る事なく倒せたが……。
そこまで考え、琳汪は足を止めないまま来紗に問う。
「璃刹様は、今回は疲れがひどいから来られないんだよな?」
大量の雀を祓った璃刹は店主からの話を聞くと「後は頼んだ、私は疲れた」と言ってスタスタと寮へと帰ってしまったのだ。
今朝、琳汪は手回り品の確認や書類の提出などがあり、二人の師匠どちらとも会ってはいない。
「来紗、昨日師匠に陰陽道の対処の仕方を聞いたんだよな?」
「うむ、聞いたぞ」
「で、なんて?」
「気合と眼力」
琳汪はしばらく黙っていたが、首を横に振った。
「それ、師匠だろ?俺のじゃなくて、璃刹様の意見だ」
琳汪に言われて、来紗は目をしばたかせると答えた。
「眼力と気合」
屋敷の主は、一人の男が敷地内に入ってくるのを察知して立ち上がった。
四方を襖に囲まれた部屋だ。主以外に人の気配はない。
「……全く」
若い男は、襖を開けて庭に面した廊下に出る。
様々な種類の木々が鬱蒼と生い茂る庭を見つめていると、そこへ駆け込んでくる男がいた。
「おい!やったぞ!渡してきた。ほら、これが書類だ。だから早く金を――」
「しくじったな、お前」
主の声に、男の表情が固まった。
「……なんのことだ?」
「言ったはずだ。跡は、つけられるなと」
男がバッと背後を振り返ったその時、周囲に突風が吹き荒れ、どこからともなく生じた霧が視界を奪い始めた。
状況が呑み込めない男は荒てて屋敷の中へと転がり込む。
履物も脱がずに奥へと向かっていた男はしかし、つまずくと柱に頭を強打して気を失った。
「……役立たずが」
屋敷の主は舌打ちをし、懐から引き抜いた札を宙へと放つ。
札から黒いモヤが生じ、その中心から一羽の鷹が現れ、その羽ばたきで霧を払った。
突風が止んで霧が晴れたその場所には、巨大な鉄扇を構えた少女が立っていた。
展開させた鉄扇を背に回して構えると、少女は黒に近い紅の瞳で主を睨み付ける。
誰だ、と問うまでもない。主は懐から更に数束の札を抜き取り少女へ向けて投じる。
三羽へと増えた鷹は少女の首を鋭い爪で裂こうと上空から襲いかかった。
少女が半身をそらして爪をかわす、傍まで追った鷹の胴を打ち払いながら地を軽く蹴り二撃目を避ける。
そこで、男の周囲に漂った霧が突如濃くなり、視界を奪った。
「……あぶない」
後ろ腰にさした短刀を抜き、首を狙ってきた刃を返す。
次いで二撃三撃と来る刀を返した主は、黒に近い紅髪の少年が一見何も持っていないように見える手元を引いたのが見えた。
少年と目が合う。ニヤリと笑って見せると彼の姿を隠すように霧が濃くなり、やがて気配が姿と共に消えた。
濃い霧の中、男は――陰陽師は笑う。
「問題などない。ここは、私の庭なのだからな」
二羽目の鷹を打ち生、じた黒いモヤを風で吹き飛ばした来紗は、周囲を見渡した。
三羽目の鷹は彼女の様子を窺うように、霧の中浮かび上がる樹の枝に留まっている。
「……」
間合には入って来ない。鉄扇の影に身を隠しつつ、来紗は懐からもう一本の鉄扇を取り出す。
根付けの硝子玉がキラリと光る。鉄扇を開き、一線させると霧の中を矢状の風刃が飛んだ。
だが、鷹は羽ばたき一つで風刃の軌道をそらして散らし、再度羽ばたき舞い上がった。
来紗は大きさの戻った鉄扇を仕舞い、新たに持った鉄扇を開いて構える。
来紗が鉄扇を振るのと、鷹が鳴くのは同時だ。
幾重にも放たれた風刃の一つが鷹の片翼を切り落とし、来紗のすぐ際の地面が深く抉れて土砂が舞い上がる。
黒いモヤになり、鷹が消えていくその時、来紗の耳に羽ばたきの音が聞こえた。
後ろを振り向く間もなく、耳のすぐ傍で気配を感じ――
バサリと、何かが地面に落ちた。
「来紗、引け」
琳汪の気配を背に感じて、来紗は足元を見る。鷹が、黒いモヤになって消えていく所だった。
「琳汪?」
「分が悪い。俺の攻撃も通らないし……」
言って、琳汪は空を見上げる。そこには三羽の鷹が羽ばたいていた。
「どういうわけだか、式が減らない」
確かに倒したはずの鷹が鳴く。おかしい、黒いモヤになって消えたはずなのだ。
「……悪いことをしたと謝れば、許そう」
男の声がして、来紗はビクリと肩を震わせた。
霧の中をゆっくりと歩き、男が琳汪と来紗の前に姿を現す。
――この者、霧の中で目が利くのか。
琳汪の武器が放つ霧は、彼の意に従い濃淡を変える。男には最も濃い、自身の足元すらも見えない程の霧が視覚を奪っているはずだった。
来紗と琳汪には男の姿は見えているが、男にはこちらの姿は見えないはずなのにその視線はしっかりと二人をとらえている。
式を通して見ているのかとも思ったが……その式は、無限に現れる。
三羽の鷹が、来紗と琳汪を囲む。
「どうした。黙り込んで……謝罪も出来ないのか」
男が手にした刀を鈍く煌めかせる。
来紗は咄嗟に鉄扇を振った。幾重もの風刃が来紗と琳汪の周囲を取り囲み、風刃の壁を作り出す。
三羽の鷹の突進は、その壁により守られた。黒いモヤが視界を覆う。
見えないはず――だが、相手には見えている。
その言い知れない恐怖が風刃の壁を大きなものにしていく。木々が刃に切り刻まれ、砂利が砂となって舞い上がる。
「来紗っ!止め――」
来紗が言われ、風刃の壁を消す。フワリと風が舞う中、琳汪は切り倒されている木々に視線を向けた。
「……一本だけ、無傷?…あれ媒介か!」
琳汪の言葉を聞いて男は再び現れた式を放ち、彼に一気に迫ると短刀を振り降ろす。
琳汪の手元にある霧が一瞬で消え、同時に周囲の霧も一気にかき消える。
突如飛び込んできた日差しに視覚を一瞬奪われた男の前で、琳汪は刀より転じた匕首を構えて式を迎え討つ。
「来紗、あの木だ!」
倒れた木々の中、一本だけ立っている木に向かって、来紗は風刃を放つ。
匕首が鷹の胴を裂き、風刃が幹を貫いた時、周囲に硝子の砕けるような音が響いた。
鷹は――現れない。
舌打ちをしてその手に符を構えた男が何か言うより先に、琳汪はその間合いに入り込み匕首の柄で手首を打つ。
動きが一瞬止まった隙に男の後ろへと回り、琳汪はその首に鋭く重たい手刀を叩き込んだ。
「…つまり、陰陽道の術や式というのには必ず媒介というものがあるわけだ」
「あの木とか、水笛とかですよね」
「そうだ。璃刹が祓うのに使った数珠や投じた符もそれに入る」
「いちいち儀式やら詠唱してたら隙が大きすぎますものね」
木漏れ日屋の一角、書類を書く来紗の隣で琳汪と剛晶は昨日の事を話していた。
書類の最後に自分の名を書き、事務の者に提出してきた来紗が会話に加わる。
「でも剛晶様、師匠が式を祓ったりした時には、あんな動かぬ物などなかったぞ」
「媒介というのは、なった時点で術の元に置かれる。そうすると、不自然さがどうしても出てくる。符や数珠だと気付き辛いが、木なんて物は解り易いと言える」
「……ふむ。手軽で気付かれにくいのであれば符や数珠の方が便利じゃな」
「だが、木を媒介にすれば木は霊力を溜めれるが、符や数珠には限りがある。両手が空き、それこそ短刀や刀を持っても戦えるという意味では気付けてよかったな」
ウンウンと頷く剛晶を見て琳汪はフゥ、と息をつく。
「水笛の中に式がいたって時点で、仕入れ人を突き止めるまでに対処法は示されてたってことですか」
「そういうことだ。賢くなったな、琳汪!褒めてやろう」
「やめてください」
頭を撫でるというより掴む勢いで向かってきた剛晶を琳汪はスルリとかわす。
「のぅ、なれば……あの助言は何かや?眼力と気合というのは」
「ん?解ってなかったみたいだからな。眼力にて見抜け、でも相手はそう簡単には教えてくれないから気合で頑張れということだ」
「……解りにくい」
琳汪と来紗が呟く。剛晶はただただ笑っていた。
「そうそうさっき報告があってな。どうやらあの男は呪具の試作品を作って効果を見るために街に流していたようだ」
「ふむ。しかし、効果など解るのかや」
「式は術者の使役だからな、なんとでもなるさ」
「しっかりと裁いて欲しいの。……あっ!!」
「どうした来紗。いきなり大声だして」
突然の叫びに驚いた琳汪の腕をガッシリと掴んだ来紗はビシリと門の方を指差す。
「祭りは今日の日没までじゃ!それまでに水笛を探しに行かねばならぬ!」
「……あぁ、なるほど」
来紗が露店で買った水笛は砕けた。雀の絵が入った物となるとそう簡単には見つからないかもしれない。
出る仕卓を始める琳汪に、剛晶が耳打ちしてきた。
「昨日の件の礼を言いたいと、露店の店主が言っていたぞ。前と同じ所に出してるそうだ」
「わかりました。ありがとうございます」
少しして、琳汪は走りかねない来紗に引きずられるようにして街へと向かった。
水笛を探すが、中々に来紗の気に入るものは見当たらない。
やがて日が高くなり、昼を回る。
確か、師匠が言っていた昨日の露店はこの辺りに出ていたか、と琳汪が思った時、来紗に声をかける者がいた。
「お嬢ちゃん。昨日はありがとな」
来紗が水笛を買った露店の店主が笑顔で来紗と琳汪を手招きしていた。
店主が敷いた御座の上には、ずらりと水笛が置かれている。
「……ふむ、ここにはもうないの」
「まぁ、な。でも呪術はかかってない。嬢ちゃんのお師匠様に見てもらったからな。で、嬢ちゃんに礼をしたくてな」
手を出しな、と言われ、来紗が差し出した手に店主は水笛を置いた。
竹制の水笛、その横面には丸々とした可愛らしい雀の絵が彫られていた。
「……これは?」
「知り合いに頼んで彫ってもらったんだ。ああ、金なんていいよ」
あわてて銭袋を引っ張り出した来紗に、店主は手を振ってそう言った。しかし、と金を尚も払おうとする彼女に店主は続けた。
「今回の、個人的な依頼料だと思ってくれ」
「すまぬの。ありがとう!」
何度も店主に頭を下げ、来紗は手を振って露店の前を後にする。
「よかったな。来紗」
「うむ。さて、甘味処に行くぞっ!」
「……さっき、水飴食べてなかった?」
「あれはあれ、これはこれじゃよ」
上機嫌で歩く来紗は雀の柄を嬉しそうに見つめ、水笛を吹く。
水笛の音が響く。少ししてから琳汪は来紗に問いかけた。
「……さ、次はどこに行くんだ?」
「甘味処、じゃよ」
ニッコリと笑って、来紗は琳汪の手を引っ張り歩き出す。
彼女は甘味処までの道を思い描きながら水笛をもう一度吹く。
真っ白な雲が浮かぶ夏の空に、涼しげな水笛の音が響き渡った。
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