黒狼姫 短編集
琉珈
木漏れ日屋
桜の下で
「……いい天気だなあ」
春の日差し降り注ぐ縁側に座り、広い稽古場を見つめていた少年はふと青空を見上げた。
雲一つない空に、白い花片が舞い上がる。ヒラリと落ちていく花片を眼で追って彼は庭の隅に数本植えられている桜を見た。
満開の桜が春の風に揺れ、やわらかな花の香りが風に乗ってやってくる。のどかな時間だった。
「今夜にでも宴かな」
くるりと少年は背後を見る。ずらりと並ぶ障子の一つが少し開いていた。
彼の自室に続く障子だ。いつもは多い所属員も今は少ない。少し開いて風を通し、軽く眠るのもいいかもと思った。
何でも屋として数日前までそこそこ忙しい日々を送っていたが、今日は珍しく何もない。相方も朝から見ていない。どこかに出かけているかもしれなかった。
たまには一人でのんびりと休みを過ごしてもいいだろうと立ち上がった時こちらにかけてくる足音が聞こえて、少年は顔を向けた。
丈の短い着物に黒の長足袋、背は少年より少し低い。少年の相方である
「
来紗は少年――琳汪の名を呼びながら手に持っていた一枚の紙をかかげて見せてきた。
「今日、何か予定はあるかや?」
「……特にはないけど」
琳汪はかかげられた紙を見る。どうやら店の広告のようだった。
本日発売、春の新作などの字が目立つよう書かれている。琳汪は店の名を探した。
「……葵堂、って甘味処か」
「そうじゃ!この新作の甘味を食べに行きたいんじゃが…よかったら共にどうかの?」
「気のせいかな。三日前にも似たような会話をしたことがあったと思うんだけど」
「ああ、あれは如月屋じゃの。あれは別じゃ」
「そうですか」
来紗は甘味処を巡るのが好きだ。時間が空けば琳汪と共によく出かけている。周囲からはもう恋仲になれよとよく言われていた。
来紗も琳汪も今年で16、相方になって10年は経っている。琳汪自身は、長く一緒に居過ぎてそういう目では来紗を見れないでいた。
そう言い返しても、周囲にはまたまたと肩を叩かれるだけなのだが……。
琳汪は来紗をジッと見る。彼女の黒に近い紅眼がジィ、と期待に満ちた視線を向けてきていた。
「……今、昼前だけど……これだけ大きな広告を出すってことは大きな店だよな?」
「うむ。ちょうどここから一時間も行けば店があるし、その店も中々に大きいぞ」
「人気ってことは人も多く行くんだろ?場合によっては売り切れとかあるんじゃないか?」
「ああ、そのことかや。問題ないぞ」
来紗はそう言うと琳汪が持っていた紙を取るとある一点を差した。
琳汪はそこに「朝の部」と「昼の部」という文字を見つける。関心すると共に、商売とは恐ろしいものだと思ったのであった。
「ふふふ、やっと入れるの!」
「……うん、思ったより並んだな」
街へと入り、にぎやかな通りの一角にある甘味処の店先には長蛇の列ができていた。
並ぶ者は女性同士か男女の二人組みが多い。店員に勧められた席に座ったが、周囲は人の話し声で満ちていた。
席に座りホッとして息をつく琳汪の正面で来紗はお品書きを見ながら鼻歌混じりだ。
「ふむ、悩むの……ん?桜餅かや、これはこれで……」
悩むのも一つの楽しみなのか、どうしようかと言いながらも来紗は満面の笑みを浮かべていた。
店員の女性が声をかけてくる。一瞬悩んだ彼女は新作の串団子を頼んだ。
「琳汪は何にするかや?」
「え、俺か……」
来紗だけ頼むというのも何なので、琳汪はチラリとお品書きを見て目についた物を頼んだ。
「かしこまりました」と頭を下げて店員は店の奥へと消えていく。
「今夜辺りに夜桜もいいよな」
「む、それであれば先輩方が何か話しておった気もするぞ」
「夜に任務が来なければ行くのもアリだな」
任務の依頼は急に来ることもある。出かけていて呼び出しの為、急いで戻るということはないが、休日が前日の夜に潰れることはままあることだった。
とはいえ、そう一月中忙しいということもない。師の地位になれば別の話だが、来紗と琳汪にはまだ遠い話だろう。
「急な任務が入ったとて、そんなに何日もかかるものではないだろう。散る前に見れるとよいの」
「だな」
「木漏れ日屋の皆と宴も良いが、去年も行った川の傍も有りじゃな!店も客を見込んで多いじゃろうし」
「金がいくらあっても足りなさそうだな」
「任務が入れば問題なしじゃ」
他愛もない話を続けていると、頼んでいた甘味が盆に乗って運ばれてきた。
「お待ちどうさまです。どうぞ」
「ありがとうございます」
礼を告げると店員は「ごゆっくり」と言って他の客の方へと向かった。
人も多いし、食べれば早めに店を出る方がいいだろうと琳汪が目の前に置かれた焼き菓子を見つめる。
「いただきます」
手を合わせ琳汪は楊枝を、来紗は串を 持ったその時だった。
ガタンッ!という強い衝撃と共に机が大きく揺れる。即座に椅子から腰を浮かせた琳汪が見たのは男の姿だった。
机に背中を打ちつけたのか呻き声を上げていたが、聞き取れない叫び声をあげると一組の男女の男の方へとつっかかっていった。
「……喧嘩か」
店内が一気に慌ただしくなり、あちこちで悲鳴が上がる。徒人であれば怖いかもしれないが、来紗も琳汪も何でも屋に入って長い。
武器を持った集団が襲ってくるだとか鬼が現れて暴れ始めでもしない限りそう慌てはしない。
だが、気分のいいものではない。来紗には悪いが場所を移して別の店でもいいかと持ちかけて――
「……っ!!」
そう思って来紗を見た琳汪はピシリと固まった。男の怒号や女の悲鳴など耳には入ってこない。
来紗の手にあった筈の串団子が床に落ちている。
彼女はピクリとも動かなかったが……細い肩が震え始める。
俯いて少し黒髪に隠れて見えない彼女の表情など恐ろしくて見ることなどできなかった。
「ら、来紗。大丈夫か?」
そう声をかけるのがやっとだった。来紗は拳をギュッと握り締めて地を這うような低い声で呟いた。
「死を持って……!」
「償わせないでくれ。そんな理由で追われたくない」
「じゃがっ…!!」
来紗が顔を上げてキッと琳汪を睨みつける。
「いや、な?解るよ、そりゃぁ楽しみだったと思うよ!あれだけ楽しみにしてたの知ってるから、傍目から見てもいくらなんでもはしゃぎ過ぎだろってちょっとは思ってたけど、やっと食べれると思ったらそれがぶち壊された悔しさ諸々解るけど……!」
自分で言っていて、よく解らないことだというのを頭の隅で理解していたが、今の来紗には理論的に言った所で受け入れることはできないだろう。
たかが甘味が食べれないぐらいでその瞳に殺気を込めなくてもいいのではないかと思うが、そんなことを言えば矛先がこちらに変わる。
「うちがどれだけ……よりにもよってじゃ、これだけ席があるのにも関わらず何故うちの机に当たるっ!!」
握り締めていた来紗の手がソロソロと着物の懐に伸びる。琳汪はその手をガッシリと掴んで下げさせた。
「この店を瓦礫にするのは止めておけ、もう一生入れないぞ!」
「問題ない、元凶だけを討つ」
「できるだろうけど!止めておけ、ほら、いつもみたいに値段の上限つけないから他の所に行こう、な?」
来紗の手を琳汪が少し強めに握ると、彼女の瞳から殺気が引っ込んだ。
強張っていた全身の力を抜いて溜め息をついた彼女は喧嘩を続ける男を見た。
琳汪はその時の来紗の目付きをそう簡単には忘れることは出来ないだろうと思った。
その日の夜、琳汪は自室で思ったよりも軽くなってしまった財布を持って呻いた。
あの後、来紗の気が済むまで甘味を巡ったのだが、彼女は凄まじい量の甘味をその小柄な身体に収めていった。
傍で見ていた琳汪としては、塩昆布が欲しいぐらいだった。帰ってきてから彼女は師匠に昼間の報告をしている。
報告をする義務などないのだが、あの怒りを誰かに聞いてもらいたいのだろう。
「出て行ったものは仕方がないとして……それよりこっちだな」
琳汪が来紗と別れたのは何でも屋・木漏れ日屋の事務所だった。
戻ってすぐに来紗は自身の師を探しに行ったので、事務の者が琳汪に手渡してきたものだ。
依頼書である。昼間に仕事はないと言っている時に限って入ってくると、何だか一気に身体が疲れる気がした。
「鬼の出現か……」
依頼内容を見ていた琳汪は向かうべき場所に目を留めた。
「……ん、ここ昼間に行った傍だな」
頃合いというのは難しい。もう数時間早く情報が入っていればと思った。
琳汪は所持品を確認すると自室を出た。
庭の隅に咲く桜の周りに人が集まっている。
「夜桜かな」
来紗は喜んだだろうが、任務が優先だ。
少し立ち止まって桜を見ていると、桜の傍に集まっていた一人が琳汪に気付いてかけ寄ってくる。
「琳汪。これから夜桜を見つつ酒でも飲もうかと思うんだが、来紗と一緒にどうだ?」
「ごめん、今から任務なんだ」
「そりゃ残念。今日は陰の日だから鬼とかには気ぃ付けろよ」
「……確かにそうだね。気を付けるよ」
鬼とは、人の悪感情が寄り集まって生じた存在であり、彼らを倒せる者は限られている。
「それに、陰陽師も今日みたいな日は出しゃばり易いからな」
何でも屋が扱う武器でも可能であるが、まず鬼といえば浮かぶのは陰陽師だ。
鬼祓いに出しゃばるなと言われれば、ならば護衛や悪人捕獲に首を突っ込むなと言い返す。陰陽師と何でも屋はそんな仲である。
「まぁ、向こうに頼もうと思うと手続きとかで時間もかかるしお金も高いからね」
「ま、腕が確かかは別にして、世間体を気にする奴ぁあっちだろうがな」
どーでもいいけど。と笑った同僚は再び桜の元へと戻っていった。
事務所で来紗と合流した琳汪は彼女と共に木漏れ日屋を出た。
晴れた夜空に満月が浮かび、青白い月光が街へと続く道を照らしている。
来紗と並んで歩きつつ、琳汪は懐から依頼書を取り出した。
「えっと、鬼じゃったの?」
「うん。桜の元から離れないんだと。時間は夜……昨日から出始めたみたいだな」
「ふむ。どの辺りじゃ?」
「昼間行ったあの近く。川の傍のあの桜並木だね」
「……ふむ」
昼間の騒動を思い出したのか来紗の眉間にシワが寄る。だが頭を切り替えたのか、すぐに普段の彼女に戻る。
「陰陽師に来なかったということは……そこまで急ぎではないのかの?」
「被害があるわけじゃないみたいなんだ。今の時期は花見が多いだろ?やっぱり気味悪がって、ということみたい」
「まぁ、あちらは被害が出ぬと動かぬからの。早々に済ませて夜桜でも見ようかや」
そう言った彼女は灯りが末だ多く、人の賑やかな声が聞こえてくる街の入り口へと掛け出した。
昼間に訪れた街も、夜に訪れるとまた雰囲気は変わって見えた。
いつもであればそう違いも目立ちはしないのだろうが、今は桜が満開であるためにあちこちの店先で楽しそうに騒ぐ者を多く見かけた。
店先に席を並べ、店員が酒や料理を運ぶ。その匂いの美味そうなことといったら来紗が数日飯を抜かれた犬のような状態になるほどだった。
「はい、田楽になりまーす」
「…!」
「おい!こっちに天ぷら三人前頼むぜ!」
「!!」
歩みを止めずに目的地まで向かう道中、来紗が店員の声や客の注文にピクリと反応するのは見ている分には面白い。
通りは人であふれ返り、店先に吊るされた灯かりが人々の笑顔を照らし出している。普段であればこんなに賑やかではないが、桜の咲く頃には珍らしくない。
人にぶつからないようするりするりと人混みを縫って歩いていた琳汪は、来紗に耳打ちする。
「……鬼のおの字もないな」
「去年と変わりないの。去年寄った美味い寿司を売る店もよく賑わっておった」
「だよな……川はあの角の向こうだな」
何本もの通りを横切り、川へと近付いていく。
どこの通りも皆賑やかだったが、そこだけは違っていた。
川沿いに出た瞬間、来紗と琳汪は足を止める。
「……」
来紗と揃って背後を振り返る。そこには先ほど通ってきた賑やかな通りがあった。
前方に向き直れば、満月の下満開に咲き誇る桜がずらりと川の両側を埋めつくしている。
だが人の気配はない。それどころか犬一匹歩いてはいなかった。風に揺られてかさかさと響く音も何処か不気味に思える。
「ここ、かの」
「……人の姿もないけど、鬼の姿もないな」
例年であれば賑わいを見せている所だ。鬼の噂は早く回ったようだった。
「依頼者に話を聞かないと……えっと」
「あの……」
琳汪が着物の懐に手を伸ばしかけた時、背後から声がかけられる。来紗と一緒に振り向くと一人の男が立っていた。
朱色の着物を着た三十代程に見える男性だ。来紗と琳汪を見てからチラリと川の方に視線が向かう。
「君たち、ここから先は危ないから近寄らない方がいいよ」
言葉はしっかりしているが、来紗と琳汪になのかそれとも危険の元凶に対してなのか声音は怯えていた。
「えっと、俺等木漏れ日屋の者でして……川辺に現れる鬼の件で」
依頼書を見せる琳汪の隣で来紗が所属証明の木札を見せると、目の前の男の表情がパッと明るくなった。
「君達が木漏れ日屋の人達か!よかった、流石に早いな!頼むよ。早く追い払ってくれないと桜が散ってしまうんだ!」
男は木漏れ日屋に依頼を出した本人だった。この辺りにある店の組合の長である彼が鬼の事態を重く見て依頼を出したのだという。
鬼が現れるという桜の大木に向かう道中、男は来紗の後ろから離れないよう歩きながら隣を琳汪に情報を伝える。
「今の所、誰かが襲われたということはないのですが……いつ襲ってくるかと不安で不安で。その話が広まってここの通りはご覧のような有り様です」
「ここから大木までは程々に距離があったと思うが……見事に誰も居らぬの」
歩いてきた道を振り返って見渡すが、自分達以外の人影は全くない。
人々の活気が遠くなって周囲は川の水音と風の音で満ち始めた頃、依頼者がキョロキョロと周囲を見渡した。
「あ、あの……鬼が出る桜に行くんですよね?」
「そうですが……?」
「だ、大丈夫なんですか?急に木の根が意志を持って襲ってきたり口から火の玉を吐いたり川の水が竜の如く動いたり……!」
鬼は自然の中に存在する力に働きかけそれを自在に操る。徒人が鬼を恐れる理由だ。
依頼者が怯えるのも無理はない。徒人からすれば悪意を持った天災のような存在なのだから。
「ご安心を。こちらも同等の力を扱えますので」
何でも屋が扱う武器は五行の力を付与しているため鬼を討伐することができる。一部からは恐れられてはいるが、気にしていても仕方のないことだ。
琳汪の言葉を聞いてホッとしたのか依頼者は安堵の息をついた。
「それに鬼が出る予兆はあるからの。雨や冷気だとか陰に属する事象と何より禍気が生じ……ん?」
琳汪と依頼者の前を歩いていた来紗がピタリと足を止める。彼女は眉間にシワを寄せ遠くを見つめていた。
どうした、と琳汪が隣に並んで問いかける。
「あの木じゃな?ほれ、少々遠いが何か居るぞ」
言われて彼女が指差した大木を見る。確かにそこには人の影があった。かなり遠いがどう見ても人影だった。
「……人間ではないの、しかし……本当に突っ立っておるだけじゃな」
呟く来紗の後ろで依頼者はブルリと身を震わせて琳汪を見た。
「あ、あの木です」
「姿は確認できましたのでこれから詳しく調べます。ここに居ていただけますか?」
「わ、……わかりました」
不安と顔に書いてある依頼者に待ってもらい、来紗と琳汪だけが桜へと近付いていく。
隠れはしない。正面から堂々と近付いていきつつ二人は着物の懐に片手を差し入れたまま歩みを進めていく。
ある程度近付いた所で足を止めるが、鬼は只々立っているだけだった。
「……棒立ち、とはよく言ったものじゃな。うち等が見えておるのかも怪しいぞ」
ほれ、とヒラヒラと着物の袖を持ち軽くその場でくるりと回った来紗にも、鬼は無反応だった。
「……これ、本当に鬼か?」
流石に怪しすぎる。鬼というのは本能的に人間を襲うもののはずだ。琳汪は気を張ったままその顔がはっきりと見える所まで近付いた。
「…………来紗」
「何かや?」
「ちょっと」
「ふむ」
琳汪が後ろ手に手招きする。来紗は首をかしげながら彼の隣で立ち止まった。。
どうしたのかやと視線で問うてきた彼女に琳汪は目の前の存在を指差す。
「こいつを見ろ。どう思う」
「…………猿じゃな」
桜の元に居るのは、鬼ではなく猿だった。とはいえ山に居るような猿ではない。
来紗や琳汪と同じぐらいの背丈の大猿だったが細身で表情は人形かと思うほどにない。つまり、これは。
「式かや。ということは陰陽師が関わっておるのかの?」
「いや、はぐれの式の可能性もある」
式とは陰陽師自身が作り出す使役だ。
様々な姿があるが、猿は初めて見た。その上ここまで何もしないものも珍らしい。本来は何かの役割りが与えられているはずだ。
はぐれの式であれば術者がいないため、倒せば済む。だが来紗の言った通りに術者が居れば少々厄介だ。
周囲を見渡してみるが、術者の影や気配など何処にもない。チラリと猿を見るが、すぐ傍に来紗と琳汪が居るのに相変らず突っ立っているだけだった。
「誰も気配もなないということははぐれかの」
「とりあえず、正体はわかったから依頼者には一度帰ってもらおうか」
依頼者の元まで戻っていく最中にも、猿は身動き一つしなかった。二人して首をかしげながら歩く。
依頼者はそんなある意味可笑しな二人にも関わらずに掛け寄ってくると鬼――と思っている猿を恐々と見ながら言った。
「ど、どうでしたか……?」
「対処の仕方がわかりましたので、これから退治にかかります。ここに居られると危ないので、お戻り頂いた方がいいかと」
「わ、わかりましたっ」
依頼者は待っている場所を琳汪に伝えると手を合わせて懇願した。
「退治が第一なのですが、桜には、桜には出来るだけ被害のないように……!」
「えぇ、俺等もそれは避けたいと思っています。全力を尽くします」
お願いしますと念をっ押して依頼者がその場から立ち去ろうとしていた時だった。
今居る位置から鬼を挟んで向こう側、かなり遠くの方から人声がした。
月明かりがぼんやりと照らし出したのは灯かりを持った幾つかの人影だった。賑やかに騒いでいるのか歓声がここまで聞こえてきている。
「……あれは」
近付いてくる集団をジッと見つめていた来紗と琳汪の後ろで、依頼者がボソリとそう呟いた。
「誰か、心当たりが?」
「この街の金持ちの息子です。ここは危険だから近付かないようにと言ったんですが…」
困り顔の依頼者は言いに行かなくてはと思ったのか一歩踏み出したが桜の大木を見てピタリと止まった。
「俺らが言ってきますよ。確かに徒人だと危ないので」
鬼であれ式であれ、何の対処も出来ない人からすれば 脅威なことに変わりはない。
「た、助かりますそれでは、よろしくお願いします」
頭を一度下げて依頼者は立ち去っていった。
「さて……まずは注意に」
言いかけて、琳汪は隣からヒヤリと冷ややかな殺気めいたものを感じた。
隣を見れば来紗が琳汪の感じた通りに殺気を込めた視線で集団の一人を睨みつけていた。
「のう、琳汪よ。あの先頭を歩く者……昼間に葵堂でうちらの机にぶつかってきたタワケじゃな?」
感情の全く込もっていない来紗の言葉に、琳汪は先頭を歩く男をジッと見つめた。
傍を歩く者が持つ灯かりに照らされて派手な色の着物が見える。着物の色には見覚えがないが、顔つきは確かにあの時の男だった。
「……よく覚えてたね」
「忘れるわけがなかろう。そうかそうか……あやつかや」
ふふふ、と見ていて正直怖い笑みを浮かべている来紗は明らかに何かを企んでいるように見えた。
とはいえ、彼女は策を練るのは得意ではないので何を考えているかは大体わかってしまう琳汪だった。
「……とりあえず、だ」
急に突っこんで行かないように彼女の着物の裾をさり気なく掴んでおいた琳汪の耳に、集団の話し声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「本当に大丈夫――段取り――」
来紗と共に表情を引き締める。一人が集団の輪から離れて猿の式が居る桜に近付いていった。
「琳汪よ」
桜の傍で何かをしている男、その所作をジッと見ていた来紗の声に琳汪は頷いた。
「――っ陰陽師、だ」
服こそ陰陽師が好む狩衣ではないが、彼らが持つ灯かりに照らされて見えた足運びや手つきは陰陽師のものだった。
式は、彼のものなのだろうか。先ほど聞こえた何かの確認や段取りと言った言葉は、何もないと考えれるものでもないだろう。
琳汪は来紗と共に周囲を見渡し、土手に自分達とあの集団しかいないのを確認する。
二人は気配を殺し、土手を下り川原に降りて集団へと近付いていった。
「……っ」
少し身を震わせた来紗に、琳汪は一瞬足を止めた。
「来紗?」
「少し寒気がしての……」
来紗は自身の肩を軽く摩りながら周囲を見渡す。鬼が出る予兆なのではと警戒しているのだろう。
「本物の鬼が出ても退治ればいい。あの人達が来紗にとって少々憎いかもしれないけど、その場合は襲われないように護るからな」
来紗も流石に放っておけばいいとは考えていなかったようだが、小さな溜め息をついて騒ぎ続ける一団を見上げて呟いた。
「あやつ等が大人しくしておれば良いがの」
一団に新たな人影が加わる。聞こえる声からして女だと思われた。
「……お、鬼じゃないっ!」
女の叫びは完全に怯えている。周囲の男達が大丈夫だと告げていた。
「俺が退治してやるからよっ!」
そう言ったのは例の男だった。陰陽師らしき男の方を一瞬ちらりと見るゑ、刀を抜いて鬼――ではなく猿に向き会う。
「…ほう、鬼を退治し、騒ぎを収めたという筋書きの芝居かや。しっかし、刀の構えがなっとらぬの」
「芝居ごときでこの騒ぎ……」
ここまで来ると呆れてくる。女は最初は怯えていたが雰囲気に呑まれて見入っている。
「本当に鬼を見たことがないと、あんな感じなのかの」
「まぁ、本当に居たら取り巻きの人達は今ごろ居ないよねー」
来紗と二人、桜にもたれて芝居をどこで止めるかとぼんやりと考える。
男が猿の式と上手く出来過ぎた闘いをする間も、松明の届かないところから陰陽師が式を操っているようだった。
「あの陰陽師の動きをどうにかしてかき回せば芝居は台なし、あやつは赤っ恥。式にて騒ぎを起こすなど言語道断。よってわやつは‥」
来紗が自分の考える今後の展開を一人呟いている。顔を見るにかなり楽しそうだった。
確かに術者を止めれば芝居は止まるし、その間に大人しくしてもらえれば終わる。
だが、あの者たちが大人しくしていてくれるとも限らない。最悪は力ずくになってもいいが――。
琳汪は周囲に咲く桜を見上げる。
「この桜を傷つけないように、か。陰陽師に術を使われたら危険だな……後ろから行けばいいか」
「のう!琳汪は後ろから術者、うちは鬼の変わりにあの男と一回まみえてやろうかの!」
「……楽しそうだな。まぁ、刀を持ってるのはあの人だけだし、それで行くか」
来紗と共に着物の懐から武器を掴んだ時、一団から声があがった。
「はあ?何これっ。鬼じゃないじゃないっ!」
女の声が人気のない土手に響き渡る。来紗と琳汪は一瞬顔を見合わせた。
二人して桜に隠れながら一団に近付き、声がさらによく聞こえる場所まで来た。
「鬼って、猿みたいに鳴くのね、聞いたこともないわ」
「あ、いや……違うんだよ。これは。――おいっ!どうなって――」
騙されたとわかった女の甲高い声と取り巻きの男達が芝居がわかって腹をかかえて笑う声に混じって、例の男が陰陽師につかみかかっている。
その一団の中で、立っている猿がキイキイと鳴いている。陰陽師は首をかしげていたが何かがわかったのかビクリと川を見た。
琳汪と来紗も同時に気付く。慌てて空を見上げると、月が雲に隠れていた。
雲など今までは見えていない。昼間からずっと快晴だったのだ。川の周囲に生ぬるい風が吹き、桜の木を不気味に揺らす。
身体の芯まで凍るような冷気が足元から這い上がり肺を満たしていく。来紗と琳汪は大きく息を吐いた。
――これは、出る。
隠れていたことなど忘れ、一団に背を向けて川を見下ろす。急に現れた来紗と琳汪に一団がシンと静まり返った。
「何だお前らは……」
芝居が台なしになって苛立っている例の男の声が背後から聞こえてくる。
琳汪は振り向かずに答えた。
「木漏れ日屋です、川の傍に出るという鬼の件できたんですが……真相はわかりました」
「で、どうするってんだ?俺等に背なんか向けてよ。殴られに来たのか?」
「いや、そちらの式の芝居などより、危険な物が来ますので……」
琳汪の言葉が流れる川に突如生じた水柱によって遮られる。
風に乗ってやってきた飛沫の向こうに居たのは、成人男性ほどの背丈をした鬼の姿だった。
全身は黒く夜の闇に溶けてしまいそうだったが、二つある黄色い眼は感情など宿していない。式と似ているかと言えば違う。
手の先の爪は獣のごとく鋭く、月明かりを受けて鈍く光っている。
そして、決定的な違い。
「来紗、護れ!」
「心得えた、主等、動くでないぞっ!」
来紗が懐から鉄扇を取り出す。彼女が鉄扇を振ると、金糸を編み込んだ括り紐が月光が雲に隠れ徐々に暗くなる中微かに煌めいた。
鬼が動いた来紗の姿を見て人より明らかに長い腕を振った。川の水が動いて伸び上がるとそれは巨大な水の槍を作り出す。
鬼が腕を振ると数本の水槍が宙を舞い来紗へと向かって行く。
その水槍を見つめる来紗の鉄扇が旋風を纏って変貌する。
旋風を散って現れたのは開けば大人二人は隠れるほどの大きな鉄扇だった。
開き際に一本の水槍を斬り裂き、生じた突風が二本の水槍を只の水滴に変える。
一団が声もなく棒立ちになっている。その中の陰陽師だけが身を震わせていた。猿はまだ鳴いているが先ほどよりも声が大きい。
「ふむ、偵察用の式かや。使えぬ」
鬼がいくつもの水槍を投じ続ける。来紗が鉄扇を振って生じた突風で軌道を反らした。あるものは宙で散り、別のものは土手を抉る。
琳汪はその様子を見ながら桜に隠れて川に近付きながら手にした匕首を鞘から抜く。彼は心中少し安堵していた。
琳汪と来紗が使う武器に五行があるように、鬼にも五行がある。今回は水行であったようだがこれが金行だと桜が斬り刻まれていたかもしれない。
来紗が起こした突風が鬼の水槍を打ち消し、鬼が新たに水槍を投じる。周囲は完全に暗く、光る鬼の眼と爪、男達が持ってきた松明だけが明るい。
琳汪が川に足を踏み入れた瞬間、鬼の顔がこちらを向く。眼が合った瞬間、琳汪は匕首を鬼の首目がけて突き出した。
鬼が刃先を寸前で避け、琳汪の手を掴み軽々と投げ飛ばす。宙で体勢を立てなおした所に数本の水槍が追る。
一本を身をよじって躱し、もう一本を匕首で両斬する。最後の一本が頬を掠って血が一筋流れた。
一息ついて水面に着地した琳汪は匕首を水面に突き当てる。水中にある刃が川の流れを元ある流れに変えていく。
鬼は水槍を放とうとして動きを止めた。どうやら琳汪が思っていたより下位の存在であったようだった。これで使えなくなる程度で良かったと少しホッとする。
川の流れの支配権を奪えば、力を使えない。なれば後は――。
来紗が鉄扇に身を隠したままもう一本の鉄扇を取り出す。松明の灯かりに根付けの硝子玉が反射し光る。
彼女が開いた鉄扇を振ると、突風ではなく風刃が生じて宙を舞い、その一つが鬼の首を捕らえて斬り飛ばした。
首は宙で黒いモヤとなりそのまま残されていた胴体と共に掻き消える。琳汪は匕首を水面から離して鞘に戻した。
暗かった周囲が霧が晴れるように明るくなる。月明かりがやけに明るく感じた。
一団を見上げると、皆が力が抜けたのかその場にへたり込んでいた。
来紗が琳汪の頬に伝う血を見つけたのか少し驚いた表情になり閉じた鉄扇の先で自身の頬を差す。琳汪は大丈夫だと軽く手を挙げて川から上がった。
頬を伝う血を手で払うと、琳汪は土手へと上がり一団の前に立つ。
「えっと」
琳汪がそう一言呟くだけで男達と女性はビクリと肩を震わせる。
「確認ですが……あなたがその女性にいい所見せたいために起こした騒ぎっ…ですね?」
「……」
「で、そちらの方は陰陽師ですね?」
「……なんだよ」
「そこの猿の式、鬼に反応して鳴きましたよね?偵察用の式……持ち出し自体は問題無いかと思いますが、このような事に使ってよろしいのですね」
陰陽師の男はすさまじい眼光で琳汪を睨みつける。そういえば、陰陽師の中にも何でも屋を嫌っている者が多いとか聞いたことがあった。
「……話していただかないと困るのですが、上の方をお呼びしましょうか?この街にある陰陽師の所属は限られて」
「ああ、そうだよ!こいつに言われて俺が提案して式を使った!これで満足か!?」
「はい、満足です」
琳汪はニッコリと笑って頷く。怯える女性を見つめていた来紗が首をかしげた。
「のう、主……昼間、葵堂に別の男とおらんかったかや?」
「えっ……」
来紗の言葉に女は小さくうなずいた。
琳汪も女性を見る。あの時はチラリとしか見えなかったが、確か殴られた男が突っかかってっった男の傍に居た気がした。
そして今ここにいるのは殴られていた男。色恋沙汰には純いと自負する琳汪でも流石にわかる。
女を取られた目の前の男は鬼を退治する所を見せて好きになってもらおうとした。鬼など見たことがない、そうだ知り合いの陰陽師ならどうにかしてくれるだろう。
実際はどういう経緯かは琳汪が考えることではない。が、そう外れてはいないだろう。
ふと土手の向こうを見ると灯かりが一つ近付いてきていた。
「……あ」
辺りをキョロキョロ見ながら震える手に刀を持って近付いてきたのは依頼者だった。
来紗に一団の見張りを任せて琳汪は依頼者にかけ寄った。
「そ、空の一部がすごく暗くなって……多分鬼だろうと思ったんだが、子供の君達がどうにも心配で……」
「……」
片手に灯かりを持ち、もう片手で刀を扱うとはさすがに琳汪達でも出来ない。恐らく自分達が心配でそこまでの考えは浮かばなかったのだろう。
それに子供という年でもないのだがと心中呟いて琳汪は鬼は退治したということを告げた。
依頼者はホッとした様子で柄にかけていた手を離して肩の力を抜く。
「それは良かった。あの人達も無事ですか?」
「無事ですが……」
鬼は出た。だが、元々は彼らの嘘が始まりです。と言おうかと一瞬琳汪は思った。
言うとしても来紗と合流してからでいいだろうと一団の方を見た琳汪は、一団の例の男を邪悪な笑みで見つめる来紗を見てハッとした。
「ちょ、来紗っ!」
まさかとは思うが、甘味が絡んだ来紗の思考は計りしれない所がある。琳汪は慌てて来紗の元にかけ出した。
恐らく、この後琳汪の財布の中身はほぼ無くなるだろうが、そんなことなど気にしていられなかった。
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