もし犬士たちが銭湯に行ったら

「あー……癒されるなぁ」

 旅路の山間にある、小さな露天風呂。ここまで歩き詰めなのもあって、風呂に入ろう、と言い出したのは毛野だった。ようやく八人が揃い、これから丶大法師の元に集わなければならない運命にある犬士である。しかし、山道をひたすらに歩きくたくたに疲れた体は、露天風呂という誘惑には勝てなかった。

 各自、風呂際で土と埃に塗れた体を洗ってから、風呂へと入る。適度に熱された湯は、疲れた体に染みるように行き渡った。

「こんなところに湯所があるなんて、助かったな」

「そうですね。急がねばならない身ですが、このくらいの休息はいいでしょう」

「八人入って、全員足を伸ばせるくらい広いなんてな。これで盆に浮かべた熱燗の一つでもありゃ、最高なんだが」

「酔っ払っても泊まる場所はありませんよ」

 現八の言葉を、そう嗜める大角。どこか落ち着いた空気の中で、肩まで浸かる二人はほう、と大きく息を吐いていた。

 そしてその端で、騒がしいのは二人。

「わーい、お風呂?」

「こらこら、親兵衛。泳ぐんじゃないよ」

「おら小文吾! 俺に勝てるかぁ!」

「待て道節っ! 絶対に負けねぇぞ!」

「お前らもう少し落ち着け」

 まだ数えで九つになる親兵衛。思わぬ広い風呂に興奮したのか、泳ぎだすのは仕方ないことなのかもしれない。

 だけれど、そんな親兵衛と同じくらいはしゃいでいるのは、道節と小文吾だった。

 二人揃っての大人気ない行動は、さすがに毛野が嗜めるのも仕方ないだろう。

「ふふ……」

 そんな犬士たちを見ながら、信乃もまた微笑んだ。

 次々と起こる戦いと、それに伴う困難な旅路。手配書を出されて逃げ惑った日もあったし、病に倒れた日もあった。そんな日々がようやく、こうして八人が集まって終わろうとしている。

 もしかすると、こんな風に落ち着ける時間は、貴重かもしれない――そう考えると、それだけで心が震えそうになった。

「信乃さま?」

「ああ……荘助、暖かいね、お風呂」

「そうですね。久しぶりに信乃さまのお背中を流すことができました」

「……別にいいって言ったのに」

 先程、荘助がどうしても、と言ってきかず、背中を流させたことを思い出す。

 以前、こんな風に背中を流してもらったのは、古河へと旅立つ前だ。あの日々が、まるで遠い昔みたいに思える。

 あの頃は、想像すらできなかっただろう。こんな風に八人が揃うなんて。

「いえいえ、久しぶりに流させてもらいましたが、信乃さまの背中、随分と大きくなっていましたよ」

「……そうなの?」

「ええ。昔は女の子みたいに見えましたけど、今は立派な若武者ですよ」

「そう、かなぁ……」

 荘助は素直に褒めてくれているのだろう。だけれど、いまいち首を傾げてしまう。

 信乃とて自分が虚弱だと思っているわけではないが、それでも全体的に細身であることは否めない。旅路と命懸けの戦いを何度も経て、それなりに鍛えられた自信はあるけれど、それだけだ。

 荘助の方が信乃よりもがっちりしているし、全体的に筋肉がついている。荘助の体を見た後で自分の体を見ると、溜息しか出なかった。

「信乃、なんで落ち込んでるんだ?」

「現八……には、分からないよ」

「ん? 俺何かしたっけ?」

 溜息を、口を湯の中につけて泡にしていると、そんな風に声をかけてくる現八。

 現八は、荘助よりもさらにひどい。

 信乃よりも長身であり、細身に見える体。しかし着物を脱いだその体つきは、まさに抜き身の刀を思わせる鋭い鍛え方をしているのだ。現八は捕物柔術の達人であり、柔術とは全身を使うものだ。そのため、その肉体は限りなく絞られており、無駄な肉が一つもない。

「お? お? 信乃、現八にいじめられてんのか?」

「こら現八、信乃に何してるんだよ」

「いやいや道節、小文吾、俺何もしてねぇよ!」

 そんな様子を察して、近付いてくるのは道節と小文吾の二人。

 道節は背格好こそ信乃とさほど変わりがあるわけではないが、それだけに信乃よりもがっしりしているのが分かる。信乃とて鍛えていないわけではないのだが、やはり筋肉の付き方というのは個人差があるのだろう。

 そして小文吾。こちらは犬士でも一番体つきの大きい男だ。腕など信乃の倍はあるのではないか、と思えるほどに太い。足腰などまるで丸太のようだ。

 ぶくぶくと口から泡を出すだけで抵抗する。首から下を湯から出したくない。

「な? 俺何もしてねぇよな? 信乃」

「現八なんか嫌いだ」

「えぇーっ!?」

 恐らく釈明をするためだろう、立ち上がって半身を出した現八の鍛えた体。

 それは更に、信乃の 劣等感を引き立てた。

「信乃さま、少々お待ちください」

「え?」

「少し脱衣所に行って参ります。現八の首を落とすのに、僕だと無手では難しい」

「何言っちゃってんの荘助!?」

「現八が何をしたのかは分かりませんが、信乃さまは悲しんでいる。それだけで僕の戦う理由になる」

「いやだから何言っちゃってんの!?」

 わー、ぎゃー、と騒ぐ現八と荘助。

 信乃が止めるべきだったのかもしれないけれど、どことなく癪に障って止めなかった。

 道節と小文吾は、湯の中で取っ組み合いを始める二人を、「いけー!」と歓声を送りながら見ている。どうやら、二人にも止めるつもりはないらしい。

 そんな信乃に近付いてくるのは、毛野。

「信乃」

「……」

「はぁ……何を意地になっているのかは分からないけど、信乃が止めないと荘助は止まらないよ」

 そんな風に、髪をかき上げながら言ってくる毛野。こちらは、信乃よりも細身だ。

 恐らく、信乃よりも筋肉がつきにくい体なのだろう。決して欠食というわけではあるまいに、信乃よりも小さな体に信乃よりも細い体だ。小文吾が女と見間違えた理由もよく分かる。

 かといって、劣等感を抱かない、と言えばそうでもない。

 毛野は、綺麗なのだ。

 幼い頃、信乃は「元服まで性別を入れ替えて育てれば、一生息災となる」という迷信を信じた父により、女として育てられた。信乃という、女と間違えられる名前も、そのためだ。

 だが、犬に跨って馬の稽古をしていたときなど、「男のわらしが女の格好をして」と周りに笑われたことが何度もある。中性的な顔立ちではあるものの、信乃のそれは男寄りなのである。

 だが、毛野はこうして見ても、男ということが信じられないほどに美しい。

 流れる雫すら輝いているような白い肌は、艶やかな絹を思わせる。首から胸にかける線は、やや胸部が発育不良の女性だと言われても納得するほどに色っぽい。実際、毛野のそんな姿を見ながら、小文吾が唾を飲み込んでいるのが見えた。男だと知っているはずなのに。

「……仕方ないか。小文吾」

「へ?」

「荘助を止めろ。でなきゃ嫌いになる」

「任せろ毛野さん!」

 犬田小文吾、ちょろい男である。

 小文吾は言葉の通りに、すぐ二人の間に入って仲裁を始めた。捕物柔術の達人である現八と、なぜか怒り心頭である荘助の間に入るというのは、並大抵の怪我で済みそうにないのだが。

 だが小文吾は、その腕力に任せて二人を揃って抱え上げた。

「ちょっ! 小文吾、お前!」

「小文吾さん! 下ろしてください!」

「ごめんな二人とも。毛野さんの命令なんだ」

「何故!?」

 どうしてそこで毛野が出てくるんだ、と現八が疑問を叫ぶが、当然のように無視される。

 そして代わりに、二人揃って風呂の中にぽいっ、と放り投げられた。

 ぶはっ、と頭から突っ込んだ二人が、同時に上がってくる。

 その姿に、思わず信乃は笑ってしまった。

「信乃」

「……ごめん、毛野」

「別にいいさ。私は、お前たちがいつも通りなら、それでいいよ」

 毛野はそう言って、小さく笑ってから信乃から離れてゆく。

 信乃はそんな毛野を見送ってから、湯をかき分けて荘助のところに向かって行った。

「荘助」

「信乃さま、あの、ご機嫌が……」

「ごめん、荘助。現八が私よりも凄く鍛えていたからさ……つい、羨ましいな、って思って」

「……それだけで俺は死にかけたのかよ」

 心底疲れきった様子で、現八が頭を抱える。

 熱い湯の中で荘助と組み合っていたからか、その顔は汗だくだった。

「まぁ、しっかり疲れを取ろうか」

「……俺は逆に疲れたっての。あーあ……え?」

 はぁー、と大きく溜息を吐く現八の視線の先。

 そこは毛野と大角、そして親兵衛が集まっている風呂の一角。

「ねぇねぇ毛野、僕にも頂戴」

「これは親兵衛にはまだ早い。駄目だ」

「確かに、まだ親兵衛には早いですね。ですが、良いのですか?」

「ここは宿も兼ねているらしいから、別段問題ないだろう」

 そこで、毛野と大角が酒杯を傾けていた。

「毛野――――ーっ!?」

「どうかしたか?」

「なんでお前、酒飲んでんだよ!?」

「ここの主人に用意してもらっただけだが。露天に酒がなくては話にならないだろう」

「け、毛野……私たちは」

 さすがに、酒を飲んで旅路を続けるわけにはいかない。そう、信乃が毛野を注意しようとして。

 しかし、代わりにその美貌に、とびきりの笑顔を張り付けられた。

「ほう、信乃。駄目だと言うのか?」

「いや、その……私たちは、ここに休息に訪れただけで」

「その休息のせいで、随分と疲れた者が二人ほどいるようだが。信乃のせいでな」

 うっ、と毛野の言葉に、信乃は返せず詰まる。

 確かに、信乃が変な嫉妬をしなければ、荘助が暴れることもなかっただろう。

 しかし、さすがにそれは……。

 そう思いながら、振り返ると。

「主人! こっち二本つけてくれ!」

「俺にも二本つけろ!」

「なんで追加注文してんのさー!?」

 日も高い、旅路の途中で寄っただけの露天風呂。

 だが、どうやら次の出発は、明日の朝になりそうだった。

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