江戸に花咲く薄い本
@rain-bow
もし犬士たちが同じ手習所へ通っていたら
「信乃さま、僕、上手になってきたと思いませんか?」
「うん。凄く上手だよ、荘助」
先程、丶大師匠から出された課題をこなした荘助が、嬉しそうに信乃へと見せてくる。
下人だった荘助は、今まで読み書きをろくにやってこなかった。最初はひどいものだったけれど、最近はようやく読めるような字を書けるようになってきたと思う。信乃はまるで自分のことであるみたいに、嬉しそうに微笑んだ。
「あ、でもここはトメじゃなくてハネだね」
「わー、そうでしたか! またおっしょさんに叱られるところでした!」
「でも大丈夫だよ。上手になってきたのは本当だから」
「お? 本当じゃないか。荘助」
ぬっ、と信乃の後ろから顔を出してきたのは、現八。
ぶっきらぼうに言いながらも、心根はすごく優しい男だ。ふむふむ、と荘助の書を上から下まで見下ろして、頷く。
「やだな、恥ずかしいです。現八さん」
「この出来なら、おっしょさんも認めるだろ。でも、今は行かない方がいいぜ」
「え?」
「ほら」
そう言いながら現八が示すのは、おっしょさん――丶大師匠と、その前で正座をしている二人。
いつも通り、やんちゃな二人が暴れていたらしい。
「だから君たちは、どうして落ち着かないのですか! 親兵衛のように小さな子もいるのですよ! 年長者である君たちがそんなだと、周りに示しもつかないのですから!」
「でも、おっしょさん! 道節が!」
「小文吾! 俺のせいにするんじゃねぇよ!」
「だって、道節が最初に言い出したんじゃないかよ!」
「俺のせいだってのかよ!?」
「だから二人とも喧嘩はやめなさい!」
短気で喧嘩っ早い道節と、のんびりしているが気の強い小文吾。
いつもこんな風に喧嘩をしては、丶大師匠に怒られるのが二人の日常だ。二人とも信乃より年上だというのに、まるで子供みたいにいつも叱られている。
あちゃー、と荘助は舌を出した。
「これじゃ、出しに行けないですね。おっしょさん、怒ると長いから……」
「だろ? んで、小文吾も道節も反省しないもんだから、もっと長引くんだよな」
「困った二人だね、ほんと」
はぁ、と大きく信乃は溜息を吐く。
現八もそれに倣うように、うんうん、と頷いた。
「二人とももう少し落ち着けばいいのにな。大角とか毛野みたいに」
「あの二人は、あんまり参考にしない方がいいんじゃないかな……」
手習所の隅で、一人でただひたすらに般若心経を写経している大角。その目つきは真剣で、決して話しかけるな、という空気すら漂っていた。
そして毛野――こちらは書の時間だというのに、鏡を見ながら髪を整えている。多分、もう課題が全部終わっているのだろう。いつもながら早いことだ。
「んじゃ親兵衛か?」
「年下を見習え、って二人には言えないよ」
あはは、と現八の軽口に、信乃は笑う。
親兵衛は、この手習所に通っている筆子の中でも、一番小さい。だけれど、小さいながらもかなり優秀である。 恐らく道節や小文吾なんて全く歯が立たないくらい。
だけれど、やはり遊びたい盛りなのだろう。今は親兵衛は、何故か半紙の上に鬼のような顔を書いて、その下に『怒ったおっしょさん』と書いていた。見つかる前に捨てるよう言わなければ。
丶大師匠の教える手習所には、八人の筆子がいる。
信乃。荘助。現八。道節。小文吾。大角。毛野。親兵衛。
基本的には仲の良い面々であり、お互いに長所も短所もあり、補い合っている間柄だ。
優秀なのは信乃、大角、毛野、親兵衛。
逆にあまり出来の良くないのが荘助、現八、道節、小文吾である。
「毛野さぁーん! 道節が! 道節がぁ!」
「うるさい。私に近寄るな」
「毛野さんまでひどい!」
「大角! 聞いてくれよ!」
「……依般若波羅蜜多故、心無?礙、無?礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想……」
「もうやだこいつ!」
ようやく解放された二人――小文吾が毛野に、道節が大角のところに泣きつくけれど、二人揃って相手にされない。
そして、その間に親兵衛が課題を持って丶大師匠の所に向かっていた。
「うん、いい出来ですね、親兵衛」
「はい! ありがとうございます、おっしょさん!」
「親兵衛は素直でいいですね。これからも頑張ってください」
「はい!」
丶大師匠に笑顔でそう答え、席に戻る親兵衛。
信乃は知っている。丶大に背を向けた瞬間に、にやっ、と口角を上げて笑っていることを。
おっしょさん、ちょろい。そう目が語っている。なんという腹黒。
言わないけど。
そして丶大師匠は順々に筆子を回ってゆく。般若心経の写経をしていた大角は、提出した課題に少し不備があったらしく、修正をする。そして。
さっさと課題をこなして、髪を整えていた毛野はというと。
「……ふむ、毛野はさすがですね。完璧です」
「当然です」
「では毛野は、今日の課題は終わりですね。いつでも戻って構いませんよ」
「はい」
丶大師匠から出された課題を、既に完璧に終わらせているらしい。それだけ余裕があるのだろう。
見目もいいというのに、こなす課題も完璧。もう凄すぎて羨ましいとすら思えなかった。
そして丶大師匠は、今度は荘助のところへ。
「荘助は課題はできましたか?」
「あ、はい!」
「こらこら荘助、さっき教えたところ、直してないよ」
「あ、そうでした! おっしょさん、ごめんなさい! すぐ直します!」
近づいてきた丶大師匠にそう述べて、新しい墨を筆につけながら、新しく書をしたためる荘助。
丶大師匠はそんな荘助に対して微笑んでから、今度はその目線を信乃へ向ける。
「信乃はちゃんとできましたか?」
「はい、できてます」
「では見ましょう……おや?」
丶大師匠は訝しみながら、そう信乃の提出した課題に対して首を傾げて。
「信乃……私は、手本の睦月を書くように言ったのですが」
「えっ!? あ、ご、ごめんなさい!」
「字は非常に綺麗なのですが、信乃は手本の如月を書いてしまっています……ちゃんと時間内に、睦月を書いて提出しなさい」
「はい……」
終わらせたつもりになっていたけれど、手本の違う場所を書いてしまっていた。
基本的には優秀なのだが、どこか抜けてしまっているのが信乃である。失敗したなぁ、と頭を掻いた。
この抜けているところがなければ、村雨丸をすり替えられて命の危機に瀕することもなかっただろうに。
「おや? 現八はどこに行きましたか?」
「現八は外に捕物に行きました」
「……全くもう」
現八はあまり書や算を好まず、体を動かす方が好きらしい。そのため、こんな風に手習所を抜け出て勝手に捕物をする、と言って遊んでいることが多いのだ。
丶大師匠は少し頭を抱えながら、開け放された入り口を見る。恐らく、もう現八は帰ってこないだろう。
一通りを見回った丶大師匠は元の席に戻り、それから改めて全体を睥睨するのに戻った。
急いで手本の睦月を書かなければ――そう、信乃は手本を開き、新しい墨を硯に擦る。
「信乃さま、一緒に最初からやり直しですね」
「そうだね……はぁ、間違えるなんて、やっちゃったなぁ」
「僕は嬉しいです。一人より、信乃さまと一緒の方が楽しいですから」
荘助が素直にそう微笑んでくれることに、なんとなく信乃は気恥ずかしくなって頬を掻いた。
信乃が自己嫌悪に浸る前に、こうして荘助が救ってくれることが、今まで何度あっただろう。荘助は自分を従者だと言って口調を崩そうとせず、常に信乃の周りのことをしてくれるのだ。信乃にしてみれば、従者というよりは親友だと思っているのに。
だけれど、こんな関係も心地いい。
ふふっ、と信乃は笑って、新しい半紙へと書をしたためた。
「さて……それでは帰ります、師匠」
「ああ、毛野、気をつけて帰りなさい」
「はい。ついでに、所用も済ませておきますね」
毛野が立ち上がり、その秀麗な眉目を僅かに吊り上げる。
所用って何だろう、そう思いながら各々が見送って。
そしてすぐに、毛野は戻ってきた。
「それでは、改めて帰ります。また明日」
「……ええ、お気をつけて」
捕物をするために手習所を抜け出て、恐らく適当に遊んでいたのであろう現八。
それをぽいっ、と手習所に放り込み、改めて毛野は去っていった。
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