第7話
悶々と三日間を過ごした。
基本的に香織さんに利用される立場である僕が会おうと誘うのもいかがなものかと彼女からの連絡を待っていた。その一点だけに終始する三日間はとても長いもののように思えたが、僕とてただただ待ち侘びているだけの男ではない。
まず高科に連絡を取り、香織さんの好みを聞いた。彼は姉を心配していたわりにその趣向に関しては無頓着で、花でもあげればきっと喜ぶよ、とぞんざいな返事をくれた。数学的な解答を用意してくれるのはあくまでも僕個人を対象とした場合に限るらしい。多分、僕よりも立場が上であるつもりなのだろう。否定するつもりもないが。
一方で姉に、もっと大まかに、女性は何をされたら喜ぶのかとリサーチも行った。まず聞かれたのは「好きな人出来たのか」という尤もな質問で、僕は躊躇わずに肯定した。すると姉は一肌脱いでくれる気になったのか、意外と王道のデートがいいと思うよ、と答えてくれる。待ち合わせて、買い物に行って、食事をする。そういうプランだったが、人ごみは駄目かもしれないと注釈を入れると、じゃあ家に誘ってみれば、それで脈があるかどうかもわかるでしょう、と大胆な案を提出される。
「それ、失敗したら終わりだな」
「でもそういう思い切った行動が、手っ取り早いよ」
「確実に攻めたいんだけど」
「私はその人じゃないからわからないけど、今のところ話を聞く限りはそう悪い感情は持たれていないと思うけど」
そんなやり取りがあって、結局は姉の案を採用する形になった。
香織さんからのメールで、
「次の月曜日、どこかに行こう」
と言われ、
「良かったらうちに来てみませんか」
そう返すと、しばらく返事が来なかった。これは早計過ぎたかもしれないと不安と自己嫌悪の渦に飲まれかけたとき、
「わかった。でも何もしないよ。お勧めの映画でも教えてください」
その言葉が来て、救われる。
そこからは、大掃除である。怠惰な生活をそのまま集約したような部屋に女性を呼べるはずもなく、キッチンもリビングも、全てをひっくり返す勢いで綺麗に磨き上げていく。そんな心配は必要なかろうが、一応風呂場もカビの除去をしておく。
そして月曜日。
僕の住んでいる部屋がある駅で待ち合わせて、話をしながら歩いた。彼女にも初対面のときのような緊張の色が見えたので、少し安心する。三回目にして家に誘うなど、今までの恋愛からは考えられないような奇策だったが、うまく行くかもしれないと思ってしまう自分の浅はかさも、今は愛おしく感じる。
部屋に入るとまず、彼女はその整理整頓された様を褒めてくれた。
「いつもはこうじゃないんですけどね、一生懸命掃除しました」
言うと、えらいえらいと頭を撫でてくれる。気恥ずかしかった。
リビングにはDVD専用のラックがあり、それは床から天井付近までの高さを持ち、総勢千は下らないディスクを収容できるものだったが、半分も埋まっていない。それでもその数に驚かれた。
「映画、好きなんだね」
「中学生くらいのときから、気になったものは買うようにしていたんです。周りはレンタル派が多かったんですけど、僕は違うんだぜって思いたかったんでしょうね。いつからか習慣的に、映画館にも行かないけれど極力レンタルもしないようになっていました」
「映画館には行かないんだ?」
「よほど気になる作品でない限りは基本的にはDVDを買って済ませるようにしています。どうもああいう薄暗いところで、知らない人たちに囲まれるのは苦手で」言ってから、最初のデートで映画を観たことを思い、「いや、誰かと行くのは好きなんですけどね」
「本当かなあ?」香織さんは笑った。「まあでも私も、あんまり一人では映画なんて行かないかな」
「最近はディスク化するのも早いですからね」
「うん。というより元々映画自体余り観ないかも」
そう言うので、コレクションの中にある有名な作品をいくつか取ってみたが、「名前は聞いたことがあるような気がする」「この俳優さんは見たことがあるような気がする」と反応はいまいちで、彼女の言っていることは本当なのだろうと思えた。
「どれにします? 気になったやつ、ありました?」
「そうだなあ」そう言って彼女は三本のDVDを手にする。「このうちのどれかがいいな」
そのうちのひとつは僕自身買って後悔したものだったので、それを伝える。
「どうして?」
「いや、この映画、映像は綺麗だし、俳優もいい演技をしていることは確かなんですけど、ストーリーがいまいちで。どうも、こういうアクション映画で、たった一人のためにはどれだけ犠牲を出しても厭わないとか、悪役が悪役になりきれていなくてただのこずるいいやなやつでしかない、所謂小物感ですか、それが滲んでいるとかっていうものは好きじゃなくて。だっておかしくないですか? 女の子一人守るために街が破壊されていくんですよ? それでも助かってほっとしているって、神経を疑いますよ」
「おや、これは批評家の顔が出てきたね」
そう言って茶化すので、僕は首を振った。
「違うんですよ、これはただの個人的な感想であって」
「でも誰しも、何かを批評する立場にはいるものだよね」DVDをひとつラックに戻しながら、「私はでも、そういう作品も嫌いじゃないよ。誰かのため、何かのために全てを投げ打ってもいいっていう姿勢自体は、嫌いじゃない」
「悪役が小物でも?」
「うん。別に、その人にとっての正義がそれだったなら、いいんじゃないかなあと思うよ」
「じゃあ」僕は香織さんが戻したばかりのディスクを再度引き抜いた。「これを観ましょう」
「いいの?」
「今観ればまた別の感想を抱くかもしれないし」残った二本を今度はラックに仕舞う。「飲み物、ジュースにしますか? 一応、お酒もありますけど」
「うーん、それじゃあお酒にしようかな。おつまみは何かある?」
「お菓子が少し」
「冷蔵庫は? 何か簡単なものでも作ろうか?」
「あ、いや」そこで冷蔵庫に食材がないことを悔やんだ。こういった展開は予想していなかった。「飲み物以外ほぼ空なんです」
「ほぼ、の部分はなんなの?」
「えっと、調味料と、アイスです」
「わかった」彼女は慈愛に満ちた視線をくれた、ように思う。「それじゃあお酒とお菓子を準備して、いざ映画鑑賞といこうよ」
それから約二時間、映画の世界に没頭出来たらよかったが、ソファのすぐ隣に座る彼女の甘い香水の香りと、柔らかい息遣いで、僕は全く集中できるわけもなく、ひたすら酒を飲んで過ごした。
ただ観る機会がなかっただけで彼女は本当は映画が好きなのではなかろうかと思えるほど、隣で香織さんはほとんどお菓子にも手を付けず、釘付けになったようにテレビのほうを向いている。こんな相手に、やましい感情を抱いている自分が情けない。
すっかりエンドロールに入ったときには、真新しい感想を抱けるほど中身を思い出すことも出来ず、ただ飲み続けた酒の酔いに目が回り、火照った身体に浮遊感を覚えていた。ふうと溜息をついて彼女は煙草を取り出してから、灰皿の所在を尋ねる。僕はそれを渡してやってから、自分も煙草に火をつけた。
酒と、香水と、お菓子と、煙草と、色々な匂いが入り混じって、若干の吐き気を覚えていた。頭では酔っていることを自覚できる冷静な自分が居るのに、身体はふらふらと落ち着きがなく、どうしようもない。
「香織さん」
呼んでから、こちらを見た彼女の瞳を捉え、何を言おうとしていたのか忘れてしまう。酔っ払いに正常な思考を求めるほうが異常だ。
「何?」
緊張、なのか、香織さんは空けたきりほとんど口をつけていなかった缶チューハイを一口飲み込む。
「僕はね」言って、これじゃあ高科や姉への調査などほとんど役に立っていないな、と可笑しくなった。でも、言葉を止めることが出来なかった。「僕は、香織さんがなぜ僕と話をしたいと思ってくれたのか、どんな人に振られてそんなに落ち込んでいるのか、本当のところは全然わからないですよ。ほとんどあなたに対して無知だと言ってもいい。でも、僕は、香織さん、あなたが好きですよ」
言い切ってから、ふらついていた身体を急に止めたせいで、どっと喉元に異物感がせり上がってきて、返事を貰わないまま、僕はトイレに駆け込んで、すぐに吐いた。
「ああ、もう」
追いかけてきてくれた香織さんに背中を撫でられながら、こんなに情けない男も早々いないだろうと考えている。でもどうしようもないことに、続けざまに二回、嘔吐する。
ようやくトイレから這い出て、香織さんに入れてもらった水道水でうがいをしてから、はて今自分は香織さんに何を言ったのだったか、と冷静な部分が顔を出した。何か重大なことを、こんな様で伝えてしまったのではないだろうか。いやいや、いくら僕とは言え、そんな愚かなことはしていないに違いない。そうやって考えをめぐらせること自体が、何を伝えたかを理解している証拠だった。なるべく返事を聞きたくない。
「ねえ」
ソファに戻り、再度背中を撫でてくれながら、香織さんが言った。僕は俯いたまま、そちらを見ないで、
「なんでしょう」
呻くように返事をする。
「さっきの、本当?」
ああやっぱり、言ってしまっていた。
観念し、
「本当ですよ。僕は香織さんが好きです」
「出会って僅か一週間、しかも三回しか会ってないのに?」
尤もだ。
「ええ。三回しか会っていないのに、です」
「何も語らないのに?」
「そうです。何も教えてくれないのに、です」
「どうして?」
「どうして?」さあ、どうしてだろうか。でも、「理由を求めるのは、野暮ですよ。音楽を聴いていて、ここのドラムのアクセントのつけ方が凄くいい、ここのベースのスライドが世界観を作ってる、ここのギターの歪みが超クール、ボーカルの声が裏返るのが味だよね、なんて、そんなことを言葉にすると、胡散臭くないですか? 好きだから好き。好きなものは好き、それだけなんですよ」
僕はそう思った。
しばらく、沈黙が続いた。それでも手を止めないでくれているのは彼女の純粋な優しさだろう。
「私も」姿勢も、目線も、声音も変えないまま、彼女が言った。「私も日野間くんのこと好きだよ。多分考えても仕方のない部分、完璧な感覚でしかないけど。好きだなあって思う」
「ということは」パッと顔を上げて、吐き気が戻ってくる。顔をしかめ、元の姿勢に戻ってから、「付き合っていただけたりするのでしょうか」
彼女はそんな僕の様を笑った。
「いいよ。これからは恋人として、私の傍に居てください」
その笑顔が、凄く、愛おしかった。
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