27 理科室5
「まあいい。俺としては目立たない方がやり易いからな。だが……」
「きゃあっ!」
梓は不意に、誰かに押された様に後ろへと倒れた。
「ほう、小細工だけかと思うたが、力も中々あるようだな。些か見直したぞ」
「地獄でここまで生き永らえたんだ。俺だってこれくらいの事は出来るさ」
丿卜の言葉に、霊は誇らしげにそう答えた。
「うう……地獄で生き永らえた。何だか矛盾しておかしな事になってるですけど、不思議と利には適っている感じがするですね」
梓は朦朧とする意識の中で、どうにか立ち上がった。
「まだ立てるのか。失敗したな。もっと弱らせるべきだった」
霊はそう言いながらも前に手をかざした。
「あぐっ!」
梓は、ふらふらの体に強い衝撃を受け、更に後ろへと跳ね飛ばされ、壁に衝突した。
「へへへ……いい声で鳴くじゃねえか。そういえば、さっきもいい悲鳴で鳴いてたな」
梓の傷は予想以上に酷い。本人がけろっとしているので、今までは感じ取れなかったが、体力もかなり消耗していて、ふらふらの状態だ。
「お前……こんなになってるのに黙って見てたのかよ!」
この霊は、目の前でどんな事が起きても、決して自分の利益にならない事はしないだろう。駿一はそう思いながらも怒りの言葉を霊に放った。
「ああ、楽しかった。いい見世物だったよ。梓だったか。お前はいい愛人になりそうだな。是非とも悠と共に、俺の側に置いておきたい」
霊はそう言って、ゆっくりと舌なめずりをした。
「私に霊になれって事ですか?」
「そうだ」
「霊になるには死ななくちゃいけませんね」
「俺が殺すんだ。へへへ……俺を侮っちゃいけねえぞ。ヒトラーだかなんだか知らないが、俺があの時代に生きてたら、俺はそれ以上の功績を上げてたかもしれんぞ?」
「良きにつけ、悪しきにつけ、そんな凄い人が、こんな情けない事をするですか?」
梓は上半身を起き上がらせながら言った。
「何だと?」
「分かってるですよ。貴方に私を殺す力が無いのは。貴方はそうやって遠くから衝撃を浴びせるだけで、私が弱って死んでいくのを待っている」
「ほう……」
「生憎、私はそれほど弱ってはいないんです。このまま、ちまちまとこんな事を続けていたら、朝が来て人が大勢来るですよ?」
「ほうほう、そうかそうか。じゃあ急がなきゃな」
霊はにやりと笑い、ゆっくりと梓へと近付いていった。
「あ……」
梓の僅かな驚きの表情を、霊は見逃さなかった。
「俺がお前を殺す方法なんていくらでもある。俺がお前に乗り移って、舌でも噛み千切ったらどうなるかなあ?」
霊は一歩、また一歩と、梓の反応を楽しむように、ゆっくりと歩を進めている。
「それ以上、私に近付かない方がいいですよ」
梓は右手を懐に忍ばせながら、そう言った。
「近付かない方がいい? そりゃ何でかな?」
霊は梓が挑発的な笑いを浮かべているのを承知で、更に前へと進み出た。
「それは……こうするからです!」
梓は懐に忍ばせていた右手で
「ふん……」
霊は自分の余裕を梓に見せつけるかのように、それを僅かに動いただけで避けた。
「甘いです!」
梓は後ろに回してあった、守り刀である短刀を握りしめていた左手を前に突き出すと、霊を目掛けて突進した。
霊は微動だにせず、ただ右手をかざすと、梓の体は途端に後ろへと投げ飛ばされ、再び壁へと勢いよくぶつかった。
「うわああっ!」
「どうやら、甘いのはお前の方だったみたいだな」
「う…ううっ……」
絶望、恐怖、焦り、驚き。様々な感情が滲み出た梓の表情を見て、霊はにんまりと笑みを浮かべた。
「さて、どうして欲しい? 俺の言った通りに舌を噛み切るのがいいか、それともその短刀で自分の胸を刺すのがいいか? ああ、塩酸を飲み干すなんてのも楽しそうだな」
霊の足取りは自然と早まった。霊にとって、生前も、そして死後も、自分が屈服させた女を嬲るのは至福の時間だった。
「……うん?」
霊は、自分の足元が光り始めたのを感じた。そして、その光は瞬く間に輝きを増し、霊を包み込んだ。
「うお……な、なんだこ……れは……!」
「退魔の陣です」
「何だと!? こんな代物を書く時間なんて無かっただろう。俺はずっと、お前を見ていたんだぞ!」
「ええ。でも、私以外は目に入ってなかったでしょ? 彼女に頼んだんです」
梓は顔を雪奈の方へと向けた。
「えっ、雪奈が?」
駿一は退魔の陣を見た。すると、それが氷で出来ている事が分かり、即座に今起こった事を理解した。
「なるほどな、そういう事か」
「おい、どういうことだ! おい! お……」
退魔の陣の発光が収まると、部屋は元通りに、アルコールランプの光に照らされるだけの薄暗い部屋になり、霊の姿はいつの間にか消えていた。
「消えた……のか?」
「帰ったんです。この世で更に罪を犯したあの霊には、更に深い地獄が待っているのでしょうけど……」
「うへえ……そりゃ、気の毒だな」
「ただでさえ地獄で好き放題やっていたみたいですし、どの道そうなっていたでしょう。かえって苦しむ時間が減って、あの霊にとってもいい事ですよ」
梓はそう言うと、駿一の方を向いていた目線を真っ直ぐ前へと移し、自分を落ち着かせるように、ゆっくりと大きく息を吐きだした。そして、悠の方へ向き直った。
「さて、悠さんだったですっけ?」
梓の様子から、悠は、これから梓がやろうとしている事を悟った。そして、少し残念な顔をして言った。
「あ……そっか……あたし……やっぱりこの世に居ちゃいけないんだよね……」
「ええ、残念ながら」
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