26 理科室4

「大丈夫。きっと起きた時には頭が整理できてるですよ」


 梓はにっこり笑いながら言った。


「そ、そういうもんなんですか……」

「ええ。それより……」


 梓は懐から、徐に退魔札たいまふだを一枚取り出すと、棚の上に置かれたホルマリン漬けへと投げ付けた。

 退魔札たいまふだは真っ直ぐにホルマリン漬けに飛んでいき――ホルマリン漬けに届かないうちに、何かに当たった。そして、まるで鉄板が透明な壁に当たったかのように空中で跳ね返り、ひらひらと地面に落ちた。


「忝いな、梓」

「いえいえ。丿卜さんが手間取るなんて珍しいですね」

「む。この者意外と多芸でな。腕っぷしはそれ程ではないが、中々に厄介に御座る」


 姿を見せた霊は急いで梓との間合いを計り、警戒した。霊の顔は病的なくらい青白いが、それに反して体は小太りだ。


「見えたのか、俺が」

「はっきりとは見えませんでしたけど、そこの空間に違和感っていうか、揺らぎみたいなものを感じたので、もしかしたらって思って」

「ちっ……背後霊だけじゃなく、本体も厄介なのか」


 霊は及び腰になっているものの、逃げる気配は無い。梓にはそう見えた。


「えっと……何が起こってんだ?」


 駿一は、目の前で常識外れな事が展開されて、戸惑うと共に、うんざりした。


「お祓いしてるです。といっても、今回の霊はかなり特殊な傾向ですけど。気配も消せるし、他の霊を強引に束縛する事も出来る。そして、生きている人を惑わす術も知っている」

「まるであやかしに御座るな」

「何と言われようと、ここじゃ、それくらいしか楽しみが無いんだよ」

「楽しみ?」


 駿一が霊に聞いた。


「そう。俺が少し、誰かの心をくすぐってやるだけで、そいつは右往左往し始めるんだ。それを見てると楽しくてね。それしか……楽しみがなくてね……」

「誰かってのは、決まった相手じゃなくてか?」

「誰でもいい。そいつや、そいつの周りの奴らを、早く言えば騙すんだ。そうするとそいつは不安に思ったり、逆に喜んだりする。そんな事をやってたら、一日、暇が潰れてしまうのさ」

「……」


 駿一には、それがとても奇妙な事に思えた。駿一がこれまでにあった幾多の霊は、郵便局のポストの前で誰かをじっと待ってたり、緑色の靴を履いた人を執拗に呪ったり、何度も自殺を繰り返したりと、楽しんでいる霊など一人も居なかった。悠は楽しんでいるみたいだが……それは、実は俺に縛られているからじゃないかと最近になって思い始めてきたところだ。


「あの世でよろしくやってたんだから、こんな所に呼び出す方が悪い。誰も文句言わないんだから、俺の勝手だろう」

「前半については少しは同意するですけど、後半については私が文句言うです! やられた方は迷惑だし、私だって学校との兼ね合いがあって、あまり忙しくなり過ぎると困るんです!」


 梓が眉を吊り上げながら言った。


「そりゃご愁傷様だがね。俺が言ってるのはただの文句の事じゃあない。誰かを動かす文句だ。何かしらの法律にでも則ってなきゃ、誰かしらを動かす文句とはいえないんじゃないかね?」

「あの世に決まりは無いんですか?」

「ある。それは俺も知ってる。だからお前をここまで追い詰めたんだから」

「ああ、やっぱりそうだったんですか。でもやっぱり迷惑です! 凄く痛かったんですよ、こことか、こことか!」


 梓は火傷跡や刺し傷を、服をめくりながら指差し、次々と示した。


「お前がこそこそと探っているのは分かってたからな。俺はもう二度とあんな所へ行くのはごめんなんでね。あそこに居た時は良かったが、あの時は慣れてたんだな。やっぱ、あそこは正真正銘の地獄だったよ。少々物足りないが、あれに比べりゃここ方が百倍マシだ」

「仁龍湖の加藤敬三さんの霊も、貴方がけしかけたんですね?」

「うん……? 何故分かった?」


 霊は呆気に取られてそう言った。


「あの霊には、最初はそんな力は感じなかったんです。でも、途中で急に力が強くなって、性質も少し変わった気がしました。それで、ほんの少しですが、別の性質の霊気。貴方の性質の混じった霊気を感じたんです」

「勘のいい女は死んでも怖いもんだな。まあ、ここまで追い詰めたんだから、もう言っても構わんだろう。お前の言う通りだ。奴が失敗したせいで、俺はこのところ、びくびく脅えながらお前から逃げる手段ばかりを考えていた」

「そして、次に目を付けたのが丸山さんだったんですね」

「そうだ。いつものように、誰かを踊らせて楽しんでたらな、そいつが都合の良い誤解をしてくれたんだ。女関係ってのは、金と同じで一番人の心を狂わせ易くてね、それで少しばかり『偶然』ってやつを起こしたのさ」

「なるほど……だから、とあるマンションで幽霊騒ぎが起きた時……恐らく、マンションの霊を挑発し、霊の気持ちを昂らせて、霊感の少ない人にも見えるように仕向けた……といったところでしょうか」

「ご明察だ。だが、心の中を見透かすような輩は嫌いだな」

「そうですか。私はそうやって人を手玉に取って操る人が嫌いです」

「ふん……」

「貴方が幽霊騒ぎを起こした結果、管理人さんは不安になって、私はマンションの霊と関わることになった」

「ふふふ……そして、お前のせいで霊がみな、怒りを剥き出しにして暴れたんだ」

「……私はドジですが、あの件については間違ったことはしていないと思うです。でも……こんな事は、二度と起こしたくありません」

「お前のせいだ」

「貴方の引き起こした『偶然』のせいです。貴方はこの『偶然』によって、私を消そうとし……それを失敗した。そして……自動的に次の手段へと移ることになった。貴方があらかじめ作っておいた彼の心の箍は、彼女が居なくなったことで外れてしまったです」


 梓が丸山の方に顔を向けた。丸山は気絶し、横たわったままぴくりとも動かない。


「だが、使えなかったな。それどころか、俺の事までバラしちまうとは……」

「それは彼のせいじゃないですよ。計画段階での、あなたの誤りです」

「貴様……」

「違うと?」

「ふん……さあな、もうどうでもいい事だ。それは重要な問題じゃなくなった。それよりも、お前を殺すチャンスができた事の方が、俺にとっては収穫だ」

「殺すチャンス……ですか」

「俺にとっちゃ二度と無いチャンスだ。やる価値はあったってことだ。……ふふふ、思えば、お前をここまで追い詰めるのには、中々骨が折れたぞ。パソコンの中の気持ち悪い霊の塊まで利用して、四苦八苦しながらお前を誘き寄せたりな……まあ実際ここまでうまくいったんだがな。わははは!」


 霊は勝ち誇ったように、豪快に笑った。


「生きている時の性格が透けて見える霊だな。これ程なのも珍しい。なあ悠……どうした悠」


 悠の方を振り返った駿一は、悠が恐ろしい怪物を見るような目をして怯えているのに気が付いた。


「あ……ああ……」

「おお、悠じゃないか。いやいやいや……お前も見つかるとは、俺は随分とついてるな。ここにきてやっと運が回って来たか」

「悠を知ってるのか?」


 悠を見てにんまりする霊に、駿一は聞いた。


「知ってるさ。ずっと前から」

「悠、あの世の知り合いか何かか?」


 駿一は悠に聞いたが、悠は脅えながら首を振るばかりだ。


「俺から言ってやるよ。悠はな……」

「嫌っ! それだけは……駿一、聞かないで!」

「へ?」


 必死の形相で訴える悠だったが、霊は気にも留めずに続けた。


「俺の大事な……愛人だ」

「へ? どういう事だ?」

「……!」


 悠は手で口を押さえ愕然とした。目からは涙もこぼれ始めたが、駿一は訳も分からず首を傾げている。


「俺と寝たんだよ。この女、良い声で鳴くんだ。俺のお気に入りだよ」

「ね……寝た!?」

「違うの駿一! 無理矢理に……」

「おっと、そんな事言っていいのか? 帰ったら後が怖いんじゃねえか?」

「! ……」


 悠の体はさらに縮こまって、がくがくと震えだした。


「そんな事言ったら、またおしおきしちゃうぞ? 地獄で地獄のおしおきやっちゃうぞぉ?」

「地獄で何があったかは知らんが、悠が怖がってる。それ以上言うのはやめろよ」


 駿一が悠と霊の間に立ち、両手を広げて仁王立ちした。


「ほう、随分と強気だな。霊が人間に干渉出来ないとでも思っているのか?」

「思ってねえよ。霊は生きている人間にちょっかい出せる。そして、逆も可能だ」

「ここは私に任せて下さい、駿一さん」


 一触即発の空気の中で、梓がそう言い、駿一の前に立った。


「もうあんな事は繰り返させません」

「あんな事?」


 梓の言葉を聞いて、霊は訝しげに聞いた。


「覚えてませんか? 貴方をここへと呼び出した人物。そして、貴方がこの世に来て最初に危害を加えた人物です」

「ああ、あいつか。俺を呼び出しておきながら、タンスの中でガクガク震えてたあいつの事だなぁ? 俺はああいう奴を甚振るのが大好きでね。見過ごす事はできなかったんだよ。あの時は八つ当たりしてしまったが……今となっては感謝してる。俺を地獄から引きずり出してくれたんだからな」

「ひ、引きずり出した?」


 駿一は全てを理解する事は出来なかったが、その内容の壮絶さに愕然とした。


「今、ひとりかくれんぼと呼ばれて、一部の人の間で話題になっているオカルト遊びです。本人は肝試しの感覚でやったのでしょうが……」

「聞いた事はあるな。けど……あれって本物の降霊術だったのか……」

「いえ、偽物の降霊術です。ただ、彼はそれをアレンジして、降霊術もどきにまでさせてしまった……」

「もどき……」


 梓はゆっくりと、自分自身も降霊術について理解し直すかのように解説し始めた。


「降霊術って、熟練した人でも油断すると失敗してしまうくらい危険なものなんです。今回は、どこかから聞きかじった知識だけを持った人が、不完全な降霊術を実行してしまったんです。だからこんな滅茶苦茶な事になっちゃったんです」

「なるほど、そりゃ、迷惑な話だな」

「でも、中々好奇心をそそられる話だプ」


 駿一はうんざりしているが、隣の宇宙人は興味津々のようだ。


「……やらない方がいいぞ、ロニクルさん」

「心得てるポ」

「ま、呼び出したのがこやつだったのは不幸中の幸いに御座ったな。アドルフ・ヒトラーやアレイスター・クロウリーを降霊させた日には、目も当てられぬ事態となっておったろう」

「俺が起こしてきた事は、目も当てられない事じゃなかったって事か?」


 丿卜の言葉を聞き、霊は若干の不服を漏らした。


「比較的です。へたな人物を降霊させてしまったら、それこそ全世界で今回のような事が起こったかもしれないです」

「まあいい。俺としては目立たない方がやり易いからな。だが……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る