15 マンション2

「火はもうすっかり消えて、今では新築のアパートになってるです。風通しも良くて、涼しい所の筈です。この部屋には新しい住民も住んでいて……」


 刹那、梓の周りから炎が舞い上がり、その炎はそこかしこから梓の体を襲った。


「うわっ!」

「大丈夫か、梓」

「ええ、それにこれは霊が作った幻ですから……霊が……幻……う……あぁぁぁぁぁっ!」


 足元から炎が吹き上がり、梓の体は炎に包まれた。


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 体をよじらせ、この世のものとは思えない悲鳴をあげている事は、梓自身も分かっている。そして、それが幻覚による感覚だという事も。


「ううぅぅぅぅぅ!」


 それでも、梓は焦っている。一刻も早く、このマンションから離れないといけない。これは幻覚だけど……あの霊の怨念による炎。恨みと執念により、人を呪い殺すための炎だ。

 急いで玄関に引き換えし、扉を開ける。ドアノブが熱いかどうかは分からない。いや……気にする暇は無い。

 開いた扉の先には、泉があった。水が澄んでいるおかげで底まで見える、綺麗な泉だ。


「あぁ……み……水!」


 梓は手摺りに手をかけた。ここを乗り越えて泉に飛び込めば、この熱さから解放される。


「う……く……だ……だめ……」


 梓は思い直して、手摺りを掴んだ手を離し、階段を駆け下りた。


「うわあっ!」


 不意に視界が目まぐるしく動き始めた。肩に、頭に、膝に痛みがはしる。

 階段を踏み外したか、それとも躓いたのか……分からないが、急いで駆け下りたので、転んだのだ。


「うぐ……う……」


 幸い、高い壁のおかげでそこで止まり、下に落ちることはなかった。


「ぐぅ……っ!」


 梓は再び階段を駆け降り始める。

 一回まで一気に駆け降りた梓は、体を冷やす所を探した。


「う……噴水!」


 あの噴水なら大丈夫だ。梓の前は、生け垣が遮っているが、そんな事はお構いなしだ。急いで水に入らなければ!


「はぁ……はぁ……!」


 ジャンプして生け垣を飛び越えようとするが、一気に飛び越えられずに真ん中に落ちる。


「はぁ……はぁ……っ!」


 後少しだ。巫女装束が何回も枝に引っかかるが、無理やり枝をかき分けて、先を目指す。少しくらい巫女装束の端が避けようが、気にしない。


「水……水!」


 ここからなら噴水に飛び込める。そう思った時には、梓は既に行動に移していた。


「う……ぶくぶく……ぶはっ!」


 梓が水面から顔を出した。


「げほっ、げほっ……はぁ……はぁ……」


 梓が辺りの様子を確認する。恐らく、ここは第二公園だろう。正式名称は、県立#岩駆町__いわくちょう__#第二公園。あのマンションの隣にある公園だ。


「う……」

 体についた傷、痣、火傷が痛む。水の冷たさと相まって、正気を取り戻すには十分な刺激だ。


「梓、梓や」

「丿卜さん……?」

「この公園、些か面妖なことになっているが……分かるか?」

「あのクレーターですね。それと、砂場にも、かなり深い穴があるです。隣の、やっぱりかなり高く積んである砂は、あれを掘った跡でしょう」


 なんであんなものがあるのか。さっぱり分からないが、面妖な所といったら、それくらいか。


「おお、砂場は気付かなんだ。なれど、その様子なら、どうやら正気は取り戻せたみたいにござるな」

「管理人さんが言ってましたよ、砂場に穴が開いてるって。……ああ、危なかった。もう少し遅れたら、火達磨になるところだったです」

「むう……前から思っておったのだがのう」

「なんですか?」

「霊による幻覚を見せられて、何故、まことに火傷になるのだ?」

「ああ……」


 梓は体のそこかしこに、ヒリヒリとした感触を感じながら、説明を始めた。


「ノーシーボ効果っていうのがあるんです」

「ほうほう……ノーシーボか……して、それは?」

「プラシーボ効果の逆。ノーシーボ効果。つまり、思い込みです」

「思い込み……」

「ある死刑囚に対する実験の事です。死刑囚は手首にメスを当てられました。当然、メスは当てるだけ。切ってはいないです。加えて、床にはぽたぽたと水滴を垂らし、その音を死刑囚に聞かせたです」

「ほうほう」

「結果、死刑囚は死亡しました。自分の手首をメスで切られて、ゆっくりと血の滴が床に落ち続け――やがて、出血多量で死亡した……と思い込んで」

「なんと……思い込みによる死……」

「そうです。この実験が本当の事かどうか、私の専門外なので分からないですが、今の現象を説明するには分かりやすい例でしょ?」

「確かに。そういう事であったか……それは分かった。で、次の一手は?」

「管理人さんに……いえ、警察に連絡するです。この事件は、それで解決です」

「おお? また面白き事を言いよる。マンションには行かぬのか?」

「ええ。行く必要は、もう無くなりましたから。あとは警察に任せておけば大丈夫です」

「如何なる理由で?」

「私はあの幻覚の中で、燃え盛る写真を見ました。写真の右上半分は燃え盛る炎に包まれていて見えなかったですが……右下の方に背の低い、小学校に上がったか上がらないかくらいの少年の姿が見て取れたです」

「少年……とな?」

「ええ……私はその写真を見て、理解しました。彼女は我を忘れて怒り狂っていたんです。自分じゃなく、あのマンションのどこかに居る、子供のために」

「子供? 理解できぬが……」

「あのマンション、前々から、その筋の人の間ではいわく付きの物件だったです。殆ど全ての部屋で心霊現象の相談があったり、入居者が頻繁に退去したりしてたのです」

「なんと……」

「ただ、今になってどうして私に依頼をしたのか……それに、管理人さんも、何故、わざわざリスクを冒すような事を……」

「うん? 管理人がリスクを冒すとな?」

「ええ……私によってマンション全体の霊が刺激されて、気配を露にしているです。でも、ここまで大量の霊が居たとは……」

「ほう……しかしまた、如何なる理由でそんなに大量の霊が住み着いたのだ?」

「待っててください、すぐに分かると思うです」


 梓は袴のポケットからスマートフォンを取り出して、検索を始めた。


「ええと……多分、これだと思うです」


 スマートフォンを丿卜に向けて、検索結果を見せる。


「これは……」

「焼死体大量喪失事件。起きた当時は相当騒がれてたみたいですね。今もたびたびネットで噂を耳にすることがあるですし」

「ほほお」

「管理人さんは少しでも罪を軽くするために、マンションを建て直す時に、壁に死体を埋め込んで、行方不明とした。そんな噂です」

「まさか! 馬鹿げておるぞ、それは!」

「それが、そうでもないみたいです。あの霊の気配を見れば、ほぼ間違いなく、噂は本当でしょう」

「なんと……奇怪な……」

「三○五号室の霊の場合、自分よりも、子供が生き埋めにされている事への怒りが大きいと思うです。私の見た幻覚からですが……そして、その幻覚には、もう一つ手掛かりがあるです」

「ほう……?」

「答え合わせといきましょう」


 梓は再びスマートフォンに目を落とした。

 スマートフォンを操作しカメラを起動させると、保存された写真の一覧に目を通す。


「やっぱり、そうみたいですね……こうして実際に見ると、なんだかいたたまれないです」

「ん? どれどれ……これは……」

「髪の毛です。何らかの理由で壁が削られたところから、髪の毛が覗いてるんです。……髪の毛が残っている事を考えると、もしかしたら、まだ息があった子供を生き埋めにしたんじゃないかなんて思ってしまうですが……無いと思いたいですね」

「……つまり、それが引き金となった……と申すのか」

「ええ。また壁を塗り直せばバレる確率は低いでしょう。でも……一つ疑問が残るです」

「うむ……此度はそれをしなかった」

「はい。そのくらいの事は、今までにだってあったはずです。これだけの霊が居るのだから、壁から体の一部が覗くのなんて、一回や二回ではないはず。でも、今回は私を頼った」

「不可解極まりのうござるな……」

「ええ……でも、それが分かるのは警察の調べ次第でしょうね。どのみち管理人さんは罪を免れることはなさそうですが」

「むう……釈然とせんのう」

「全くです。でも……オカルト便利屋、そして、霊能者としての役割はここまでですね」

「もやもやが取れんが、一件落着とゆうたところか……」

「はい。さ、あとは警察に連絡して、この写真を見せるだけです。そうすれば、じきに死体は供養されるでしょう……あ、でも……」

「ん? 如何にした?」

「荒ぶる霊魂を静まらせ、また安らかに過ごせるようにする。そのくらいなら、今すぐにできるです」

 梓はマンションの方に体を向け、手を合わせた。そしてゆっくりと目を閉じ……その後、一時間ほど祈りを続けたのだった。

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