14 マンション

 ――引っ越したようには見えない。おかしい。あの中にはきっと彼女が居るに違いない。もしかして俺の事を嫌いになったのだろうか。やはり、高級そうなマンションに住む彼女とは住む世界が違うのだろうか――。




「ここです」


 背の低い、小太りの中年男性が、梓に言った。


「このマンションが依頼のマンションですか」

「はい。実は前から噂はされてたんですが、放置してましてね。でも最近何かとおかしな事が起こるもんですから、調べておいた方がいいんじゃないかって」

「おかしな事? そういえば、最近、この辺りのUFOの目撃情報が多いんですってね」


 おかしな事と言われてパッと思い付くのは、最近噂になっているUFO騒動だ。何故かこの辺りを中心に、UFOの目撃情報が増えているらしい。


「いえ……それもそうかもしれませんが、霊能者が不審死をしたり、公園の砂場にぽっかりと穴が開いてたり、奇妙な事が立て続けに起こっているので」

「ああ、確かにそれもあるですねえ。あはは……」


 その中に、梓自身の関わった事件がある事に、梓は奇妙な違和感を抱かずにはいられなかった。


「で、今日はどんなご依頼で?」

「ある部屋を……三○五号室を調べてほしいのです。これまでは、なんともなかったのですが……どうも、出るらしくて……」

「なるほど……事情は分かったです。一回調べたうえで、適切な除霊をするです。部屋の鍵は?」

「マスターキーがあります。ご自由に使ってください」






 マスターキーを手にマンションに赴いた梓だが、マンションの入り口に立った瞬間、緊張が走った。


「ん……」

「どうかしましたか?」

「……いえ、何でもないです。さてと、このマンションの三階ですよね」

「三○五号室です、手を振る女の人だとか、ずっと窓を拭いている清掃員だとかの噂が絶えないんです」

「なるほど、分かりました。じゃあ、あとは私一人で大丈夫です」

「そうですか? 良ければ部屋まで案内しますが」

「部屋の場所は大体把握してるですから」

「そうですか、分かりました。じゃあよろしくお願いします」


 管理人はそう言うと一礼し、出口へと歩いていった。


「なんだ梓、部屋までは案内してもらわぬのか」

「ええ、もう既に霊が私を拒んでいるみたいだったので、管理人さんが危険な目に遭うといけないと思って」

「そうであったか」


 梓はエレベーターへと向かい、歩き出した。しかし、その途中でふと立ち止まり、エアコンから吹く風に手をかざして言った。


「なんだか暑いですね、冷房効いてるのに」

「むう、そうなのか。某は霊ゆえ、そういった事は感じぬのでな」

「ああ、そうでしたね」


 梓は再び歩き出し、エレベーターのボタンを押した。エレベーターは既に一階にあったため、すぐに扉は開き、梓はそれに乗ると、三階のボタンを押した。


「……あら?」

「む……どうした?」


 エレベーターが二階に差し掛かろうとしたところで、梓は妙な違和感を覚えた。


「いえ、やっぱり暑いなって」

「そうなのか。冷房が故障でもしているのかのう……うん? 梓?」

「あ……暑い……」


 エレベーター内の温度は見る見る上がり、梓にはそれがサウナの様に感じた。汗で巫女装束が体に張り付き、玉の汗が流れ出る。


「ああ、三階ですね。外が熱くなければいいんですけどね……あら?」


 エレベーターの、三階のボタンの光が消え、四回のボタンが光り出した。このエレベーターは三階を通り過ぎてしまったらしい。


「あれ? おかしいですね。私、三階のボタンを押しましたよね?」

「ふむ、そう思うておったたが……」


 四回のボタンの光が消え、五階のボタンが光り出す。


「あれ?」


 梓は他の階のボタンや扉を開けるボタンを何回も押すが、エレベーターは全く反応しない。他のボタンも一通り押してみたものの、やはり反応が無い。


「お……おかしいですね」


 エレベーター内の暑さはなおも増している。梓はだんだん意識が朦朧としてくる中で、非常停止スイッチを押した。が、それすらも反応が無かった。


「う……あ……」


 気が付けば、梓は体全体が焼けるような感覚に襲われていた。息を吸う時にも、まるで熱湯を飲んでいるみたいに喉が焼け付き、まともに呼吸ができずにいる。


「う……う……」


 梓はぐらりとよろけたが、何とか意識を持ち直し、左手の袖の下から一枚の札を取り出した。


「破ぁっ!」


 梓が札を投げ付けるようにエレベーターの扉へと貼り付けると、それまでの熱気が嘘のように、エレベーター内の温度は普通に戻り、扉は開いた。


「あー……びっくりしました」


 梓には、夏だというのに外の風がとても涼しく感じられた。


「なんでござったのだろうな」

「さあ、これだけじゃ、なんとも……ええと、五階まで来ちゃったですね。三階まで階段で行きましょうか」

「うむ、また斯様な事になったら目も当てられんからのう」


 梓は、未だ乾ききらずに体を滴っている汗を感じながら、静かな階段を下り始めた。

 静寂の中、自分の足音のみを聞きながら階段を下りる梓だったが、その足は急に止まった。


「あれ……?」

「如何にした、梓」

「なんだか焦げ臭いような……」


 異臭を感じながらも三階の外廊下へと着いた梓は、思わず立ち止まった。

 辺りには黒い煙が充満していて、サイレンの音がけたたましく響いている。


「これは……コホッ!」


 煙を吸って咳込んだ梓は、すぐに低く屈み、巫女装束の袖で口元を抑えた。

 梓は屈みながら少しづつ進み、ふと部屋のドアが並んでいる左側を見た。いくつかの部屋の窓や排気口からは、赤い炎が勢いよく噴き出している。


「……ああっ!」


 なおも前進し続け、三○五号室のドアの前に来た時だ。突如としてドアが吹き飛び、そこに居た梓は、ドアから吹き出て来た炎に一瞬で包まれた。


「きゃぁぁぁぁぁぁ! うわぁぁぁぁぁ!」

 体全身を炎に包まれながら、梓がもがく。


「梓……」


 梓の耳に、丿卜の声が響いた。


「梓……梓!」

「はっ!」


 梓が気が付くと、そこは階段から降りたばかりの、三階の外廊下の端だった。辺りは静寂を保っていて、少し暑いものの、夏の日中にしては、むしろ涼しいくらいの気温だ。


「どうした梓、ぼーっとしおって」

「えっと……多分、幻覚を見てたです」


 梓は丿卜にそう返すと、三○五号室に向かって歩き出した。


「幻覚とな?」

「はい。火事の幻覚だったです」

「火事の幻覚か……」

「ここでは三年前に火事が起きて、大勢の人が亡くなってるです。恐らく、霊はここで起きた火事で亡くなった人で、あの幻覚は、その霊が見せたもの……」

「ふむ……」

「ここですね」


 三○五号室の扉の前に辿り着いた梓は、袴のポケットからマスターキーを取り出し、ドアノブに付いている鍵穴に差して回した。カチャリという音が鳴り、鍵が開いたのが分かった。

 そして、梓が部屋に入ろうとドアノブに手を付けた瞬間だった。


「……熱っ!」


 ドアノブを触った梓は反射的に手を離した。


「大丈夫か梓」

「ちょっと驚いちゃいました。私を拒んでるみたいですね、この霊さん」


 梓は強烈な熱を感じていた。ドアノブを触った手の部分が火傷のようにヒリヒリと痛む。


「そのようでござるな」

「でも、これも霊の見せる幻覚……よーし、梓、頑張っちゃうですよ」


 梓は再びドアノブを掴んだ。やはり熱い。が、手は離さないで回す。まるで焼け石を握っているみたいに手は熱く、痛い。肉の焦げるにおいもする。


「んんっ……!」


 梓は喉の奥から絞り出したかのような呻き声を上げながら、回しきったドアノブを引いた。

 最早手の感触は曖昧になっていて、力が入っているのだかも定かではなかったが、ドアはゆっくりと開いて行った。

 扉の先に現れたのは、部屋中が真っ赤に燃え盛っている光景だった。燃え盛るカーペットは火の海と化し、壁紙は火の壁と化している。家具は黒い炭へと変貌を遂げつつあり、ぬいぐるみや写真も見る見るうちに朽ちていく。

 そんな中、梓の目には、ベランダへと続く窓際に居る、髪の長い、白いワンピースを着た女性が見えた。

 女性は窓を叩いたり、表面を手で擦る様にして窓を開けようとしている様子だ。


「あまりに熱くて、本能的に炎から逃げようとしているみたいだな」

「ええ、どうやらそうみたいですね」


 梓は暫く女性の動きを観察した。


「死んだ事に気付かずに、何も考えず、ただただあの動作を繰り返している……」


 梓はゆっくりと前進した。梓の体は炎に直に晒されているが、不思議と何も感じなかった。


「ずっと苦しい思いをしていたんですね」


 梓は尚も、ゆっくりと前進し続けている。


「自分の体が炎に焼かれる瞬間を、当時からずっと味わっている」


 当時からずっと。梓は何の罪も無い霊が、時折こんな状況に晒されることに、深い悲しみを感じざるを得なかった。


「でも、もう大丈夫。貴方はもう死んでるんです、苦しみを感じる必要はありません」


 女性に近付くにつれて、炎の勢いは強くなっていく。


「火はもうすっかり消えて、今では新築のアパートになってるです。風通しも良くて、涼しい所の筈です。この部屋には新しい住民も住んでいて……」


 刹那、梓の周りから炎が舞い上がり、その炎はそこかしこから梓の体を襲った。


「うわっ!」

「大丈夫か、梓」

「ええ、それにこれは霊が作った幻ですから……霊が……幻……う……あぁぁぁぁぁっ!」


 足元から炎が吹き上がり、梓の体は炎に包まれた。

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