第2話の2 中世とは(2)


(3)中世前期II


 さて、ヨーロッパ各地に誕生したゲルマン人の諸国ですが、その後どうなったか気になるかもしれないけど一気に割愛。

 中世は暗黒時代が好き!という人間には楽しいところなんだけども。


 最終的に西ヨーロッパに強大な国を作ることになったのがゲルマン人の一つであるフランク人の国、フランク王国でした。

 そのキーポイントとなるのが『クローヴィスの改宗』です。


  ローマ教会は、本来はキリスト教世界の頂点のはずですが、東ローマ帝国という後ろ盾を持つコンスタンディヌーポリ総主教と争うには、いささか分が悪く後ろ盾が欲しいところです。

 すでにゲルマン人はキリスト教を受け入れていましたが、それはアリウス派と呼ばれる異端でした。

 なぜゲルマン人に異端が浸透していたかというと、アリウス派は異端認定されローマ帝国内での布教が禁止されていました。ならばと、アリウス派の司祭は帝国領外のゲルマン人に布教をしていたのでした。


 ローマ教会は当然正統派であるアタナシウス派だったので、さてどうしたものかと考えます。このとき、フランク人は未だキリスト教に改宗しておらず、多神教を信仰していました。ここでフランク人とローマ教会の利害は一致したのです。

 AD496年、フランク国王クローヴィスは、アタナシウス派キリスト教に改宗します。

 これによりフランク王国はゲルマン人の諸国で唯一のアタナシウス派の国となり、宗教的な正当性を得たのです(支配者層であるゲルマン人はアリウス派でも、一般庶民であるローマ人たちはアタナシウス派です)。一方でローマ教会もフランク王国という後ろ盾を得ることができました。

 これ以降、ローマ教会とフランク王国はがっちりとタッグを組み勢力拡大に邁進することになります。


[3-2] カール大帝


 やがてフランク王国(メロヴィング朝)の実権は宮宰(マヨル=ドムス)と呼ばれる官職者に握られる様になります。

 宮宰で特に有名なのは次の二人。

 ①カール=マルテル

  732年、トゥール・ポワティエ間の戦いに勝利し、イスラム勢力の西ヨーロッパ

  侵攻を阻止した英雄とされます。

 ②小ピピン

  カール=マルテルの子。メロヴィング朝を滅ぼし、カロリング朝を開きます。

  イタリア遠征時に得たラヴェンナをローマ教皇に寄進し、ローマ法王領の基礎を

  作ります(ちなみに小ピピンの祖父が中ピピン、さらにその祖父が大ピピンで

  す。その名のとおり小ピピンは背が小さかったそうです)。


  そしてその小ピピンの子が、カール大帝(シャルルマーニュ)です。

  彼こそは「ヨーロッパの父」と呼ばれる偉大な王であり、

  ついにAD800年クリスマスの日、ローマ法王よりローマ皇帝に戴冠されるのです。

  ローマ+ゲルマン+キリスト教というヨーロッパ文化を体現する存在の登場により、ヨーロッパの中世は暗黒時代を終えたといえるでしょう。

 

  カール大帝は生涯53回の軍事遠征を行い、その王国は現在のフランス、ベネ

 ルクス三国、スイス、オーストリアの全土とドイツ、イタリア、スペイン、チ

 ェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアの一部にまで広がりました。

  つまり、ブリテン島、デンマーク、スカンジナヴィア半島を除く全ゲルマン人

 を配し、西ヨーロッパを統一したのでした。

  彼と次王ルートヴィヒが亡くなるとフランク王国は三分割されます。西フランク

 王国はフランスの、ロタール王国はイタリアの、東フランク王国はドイツの原型に

 なるのだから、まさにカール大帝により西ヨーロッパの姿が形作られたといえま 

 す。


  また、カール大帝=シャルルマーニュのカタローニャ遠征を物語にしたのが、『ローランの歌』です。

 シャルルマーニュの家臣である十二勇士のことをパラディンといいます。

 そう、RPGでお馴染みのパラディンの元ネタですね。

  パラディンの一、ローランの愛剣が『デュランダル』。親友オリヴィエの愛剣が『オートクレール』、チュルパン大司教の『アルマス』、シャルルマーニュの『ジュワイユース』、敵役のガヌロン伯の『ミュルグレス』、バリガン総督の矛『マルテ』あたりはゲーム世界でも時々お目にかかります。

 

 と『百年戦争』を主題とするのになぜカール大帝に長々と触れたのかというと、まさに彼の時代こそが中世騎士道の理想だったからです。

 『ローランの歌』が完成したのが11世紀末ごろとされ、それは十字軍遠征の時代です。


[3-3]ヨーロッパの爵位


 ヨーロッパの封建制を理解するうえで、爵位を整理しておくことは大事です。

 公侯伯子男という五爵は元々は中国のモノを日本に輸入し、西洋にあてはめたものなので、本来は1:1の対応はありません。

 また、後世の『国家の中の貴族制』の称号ではなく、あくまで封建領土に付随した称号ですので前者を公爵・伯爵、後者を公・伯と呼び分ける人もいますが、あくまで翻訳上の違いです。


Duke(公または公爵、大公とも)

 Duxは元々は古代ローマの言葉で、地方司令官を指すものとして使われていました。そのためローマ帝国は異民族の首長にDuxの称号を与えるようになります。

 カール大帝が辺境を平定したのち諸氏族の氏族長にもDux(ドイツではherzog(ヘルツォーク))の称号が与えるようになり、公爵領となったということです。

 部族大公制といい、中世においては公爵ではなく大公と訳されることも多いです。

 また、王子にDuxの称号を与える習慣も生れ、イングランドでは元々は公爵は置かれませんでしたが、エドワード黒太子が初の公爵(コーンウォール公)となりました。


Count(伯または伯爵)

 Comesもまたローマ帝国の廷臣の階級のひとつで、Duxが部下として指名するものでした。メロヴィング朝(フランク王国)では、広い領土を支配するために全国を伯領に分け、それぞれの伯領に「伯」(Comes、ドイツではGraf)という長官を配置し、地元の有力者に軍事指揮権と行政権・司法権を与えていました。


 中世の爵位は基本的にこの2つです。公と伯で格の上下があったとはいえないようです。

 それ以外に次のような爵位があります。


Margrave(英)Markgraf(独)(辺境伯)

 辺境伯は、国境付近の重要拠点に設置した辺境地区(Mark)の指揮官として設けられた地方長官(Graf)のことです。異民族と接しているため、通常の伯よりも広大な領域と大きな権限が与えられており、伯よりも格上と考えられていました。


Earl (伯爵)

  Earl はイギリス独自の爵位で伯爵と訳されます。デーン人の王クヌートが設けた称号です。七王国の各領域にあたる地域を任された大貴族の称号です。

 イングランドではしばらく公にあたる地位が置かれなかったためイングランドでは最上位の貴族の称号でした。


 その後、絶対王政の中で、国王が家臣を支配する道具として爵位が作られ、爵位はランキング化されていきました。

 侯爵、子爵、男爵と呼ばれる称号がどうやって生まれたのかについては、まだまだ私の勉強不足です

 とりあえずイギリスでは、1385年に侯爵(Marquess)、1387年に男爵 (baron) 、1440年に子爵(Viscount)が新設されました。

 

 どうでしょうか、同じ爵位といっても中世と近世ではかなり違うものだと思いませんか?


(4)中世盛期


十字軍の時代についてはどーんと割愛します。

簡単にまとめると『中世農業革命』と呼ばれる農業技術の進歩があり、『大開墾時代』と呼ばれる200年におよぶ農地拡大があったということ。

こうして市民の生産力が高まると、余剰資産が生まれ商業が復興しました。

蓄積された力はやがて外に向かって発揮され、東ヨーロッパへの『東方入植』、イベリア半島の『レコンキスタ』、中東への『十字軍遠征』へと繋がっていくのでした。

 







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