雪原を越える

ここには何も存在しない。


宿の主と暖炉を囲む。西に10日ほど進んだ先の都市を目指す、と話すと、主は、西の一帯はこの国と『太陽の帝国』との戦線になっていて雲霞のように矢が飛び交っている、死にに行くのでなければ引き返した方がよい、と言った。そこで迂回路を尋ねたところ、返答は、北に見える山を越えるしかないが、あれは人の立ち入る所ではないから止めた方が良い、広大なうえに年を通して雪が溶けることがなく、とても抜けることはできないだろう、という冷たいものだった。痩せた頬と眼窩の皺が特徴的な主は、男の若気をなんとか諫めようとしたが、何度危険を伝えてもその意志が変わらないのがわかると、男を哀れむような、それでいて厄介事を遠ざけるような視線を注ぎながら別れの言葉を吐いた。


翌朝早くに男は出立した。主からは川沿いを進んで山頂の右側を抜けるのが良いと教えられたが、麓から見上げる限りでは山頂は見えず、ここからどれほどの距離があるのか測りかねた。餞別にと渡された木綿の肩掛けを羽織り、足を踏み出す。周囲の空気がひんやりと重くなったように感じた。


剥き出しの岩が転がる川岸は歩きづらいが見通しは良かった。黙々と、ただ歩き続ける。川が途切れ、山頂を望む頃には陽が落ち始めていた。見知らぬ場所で無理はできない。天幕を張り、夜を明かした。


寒さと薄明かりで目を覚ます。

外に出ると、見慣れないものがあたりにちらついているのを目にした。空から降る綿のような粒。これが雪というものか。自分が育った山とはずいぶんと違うものだ。


山頂が近づくにつれ風がいちだんと鋭くなった。

体温を剥ぎ取っていくような寒さに震えつつ、残りの距離を一歩一歩縮めていく。ふとあたりを見回すと、先程から降り続く雪が岩肌に積もり、周囲から色彩が消え失せていた。低木すら見当たらない厳しい地形だ。若く健康な者でなければ確かに行き倒れてしまうかもしれない。


そして、ついに稜線を越えた。

瞬間、大きく広がる光景に、男は膝を折り、絶望した。

思えば、故郷の山はどの季節も色彩に満ちていた。

深緑の碧も、暁の朱も、蒼天も、みな美しかった。

ここにはどれも存在しない。

人間の眼は動いている物に注目する。さらさらと囁く枝葉を渡る栗鼠に、木漏れ日から覗く空。つい、と横切る雲雀。木陰に腰を下ろしてそれらを眺めるのがとても好きだった。ここにはどれも存在しない。


否、何も無い場所などあるはずがない。この地には自分が認識できる物がひとつとして無いだけだ。足下から天空までが無色の材質に埋まっている。視界の先、ひたすらに地平線まで雪原が広がっていた。

遠近感が失われ、この先の人里までどれほどあるのか見当もつけられない。疲労と寒さでしわがれた脚で来た道を戻るか、このまま突き進むか、足下の雪を見つめる男の脳裏に浮かんだのは宿の主の言葉だった。麓へ戻ったとしても先へ通じる道は無いのだ。男はうなだれたままゆっくりと立ち上がり、肩掛けを正すと北に向かって尾根を一歩降りた。


慣れない雪山に何度か足をとられながら斜面を下りきり、平原に差し掛かるとさらに雪が強くなった。ごっ、ごっ、と耳元で鳴る風雪に耐えながら歩みを進める。交互に前に出るつま先を四十歩くらいまで数えていたが、やがてわからなくなってしまった。進退を迷った尾根は中間地点ですらなかったのかもしれない。


もう随分歩いたように感じる。

今、足を止めたらおそらく二度と前に踏み出せないだろう。

ほぼ本能のようなもので歩いていた。

機械的に動かしている脚がずっと視界に入っている。

気がつくと右の腿が大きく割け、切れ目から白い液体が流れ出していた。白い血というのは見たことがないが、極寒で血まで凍ってしまったのだろうか。中指で液体を掬って舐めると、やわらかく甘い味が広がる。故郷の空に浮かぶ丸い雲はきっとこんな味だろう。それは確かに自分の血だった。


右肩からは淡い緑色の液体が滲んでいた。数滴を掬い取り、口に運ぶ。この味は知っている。家の東に生えていた桃の葉の味だ。果実があんなに甘いのだから葉もそれなりに食べられるだろうと試してみたが、全く期待したような味ではなかった。


左胸から滴る薄茶色の液体を口に含む。

この味を忘れたことは片時としてない。

故郷で豊かに育つ小麦の味。

あの麦畑で固く結んだ約束。

おれは誓いを遂げねばならない。

うなだれていた頭を上げ、風の暴力に対抗するように強く息を吐いた。

この土地を越えるのだ。その先に必ず答えがある。

まだ見えない雪原の果てを求め、再び歩み始めた。

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