巡路
今は昔、人の中にいくつもの国が生まれ、いくつかの国と歴史が消え去った 頃の物語。
西方に巨大な帝国があった。勇敢な王の下に遠征を繰り返し、11の国を滅ぼし、世界の3分の2を掌中に入れ、あらゆる芸術品を帝都に集めたとされる。都は栄華を誇り、「闇を払う都市」「太陽の都」と称された。中央広場から一直線に延びる大通りに沿って劇場や博物館、図書館が造られ、民衆は山海の珍味と帝国市民としての誇りを肴に美酒に酔い、毎夜観劇に興じたという。
そんな喧噪の中心地からはるか東方、帝国編纂の世界地図においては『人の住まう事なき辺境』の一行で処理され、支配も遠く及ばない大山脈。それを越え、さらに峠をふたつ越えた先の盆地に村があった。周囲の山々と深い森は戦火から集落を隠す壁となり、また、豊かな水と果実を湛え、そこに住む人々を常に潤した。
住人は穏やかで賢く、村の豊穣と照らし合わせるように多くの知識を蓄えていた。発達した灌漑施設のおかげで作物はすくすくと育ち、誰も飢えを知らなかったし、布に卵白を重ねて塗ることで雨傘を作ったり、複数の木を組み合わせて横笛や太鼓などを作り出す工芸の技術も有していた。
ところで、その国には文字がなかった。
一つも、ただの一つも文字がなかった。
言葉は音としてそこにあるだけだった。どんな出来事も、どんな戒めも、ひとつの物語として歌に乗せて伝えられ、形をとどめることなく霧のように消えていく音楽を注意深くとらえ、心に保存し、よく知り、よく考えた。だから、子供たちも、そのまた子供たちも、先人に劣らず賢かった。
ただ、文字が生まれることはなかった。
文字というものの存在すら知らない村人たちは、しかし不便に思うことなど 無かった。重い荷物を台にのせて皆で担ぐように、有するすべての知識をすべての人間で共有する。物も、人も、安定してひとつの形をとることなど滅多に無いのだから、台には同じく流転の性質を持つ歌を用いる。彼らにとってはそれは求められた最適解ですらなくて、単純に、ただひたすらに繰り返 されてきた行為だった。
文字を知らない村人たちは、不安に思うことなど無かった。
ある一人の男を除いては。
男は村はずれの広い草原と、そこに差し込む朝日がとても好きだった。東の山を眺めると、つい先程まで闇に紛れていた稜線から、直視できないほどに 煌びやかな光が漏れ出す。まばたきを三つ数える間に、山も、それを隠す霧も、燃え立つような紅色に染まった。
彼を呼ぶ声。振り返ると、朝日を受けて金色に輝く麦畑が眼に飛び込んできた。その中に立つ黒髪の少女。彼と同じ年に生まれ、多くの時を共に過ごし、お互いが村の立派な一員となった今でも彼を最も良く知る人だった。黄金の景色の中でひときわ目立つ黒く大きな瞳で真っ直ぐに彼を捕らえると、少し厚めの唇をわずかに歪ませ、微笑んだ。 小さめの歩幅でゆっくりと麦畑をかき分け、男の左脇にまでやってくると、山々を見上げて目を細めた。頂上から吹き下ろす風は彼女の長い髪を揺らし、また麦の穂を揺らしながら背後へと抜けていく。しばらくの後、男の顔を見上げる。わずかに唇が動いたけれど、言葉を紡ぐことはなく、そのまま前に向き直ると、男の肩にそっと寄りかかった。
ああ、おれの知るこの世界はあまりに美しい。昇りゆく太陽も、染め上げられる山々も、自分の愛する人も、その思いも。このうちのどれかひとつでも、枯れて死に至る瞬間を想像するだけでおれの心は凍りつかんばかりだ。この光景を消えゆくままにすることなど許されない。
どうか、この世界を、永遠に固定したい。
しかしこの身はいつか年老い、背負った記憶とともに土くれとなる。子供たちに物語を歌い聞かせたとして、代を重ねるたびに美しさは褪せていってしまうだろう。 いや、もしもこの村そのものが災厄に飲み込まれて失せてしまったら、誰が物語を継いでくれるというのか。誰がこの世界を遺すというのか。
男はその日から歌に頼らない伝承を求め歩いた。あらゆる知恵を持つはずの古老たちに訊いても、彼の記憶を、彼の納得する形で固定する方法は見つからなかった。彼は深く落胆したが、しかし諦めきれるものではない。村の外には広大な世界があり、村の人間とは姿形の全く異なる数多の人とその集落がある。伝え聞くところによれば西の果てには巨大な帝国が存在する。太陽の動きすらも制御する技術を持ち、その地では永遠に昼が続くのだという。そこにはきっと理想の方法があるに違いない。
七の夜を数える間、男は悩み続けた。村を発つことは、自らがこの上なく愛するこの世界と一時でも別れることを意味する。村内に外の世界を直接見聞きした者はひとりもおらず、また、自分の生まれる前に数人が村を出たというが、今に至るまで故郷に帰ってきてはいない。一時といいつつ、今生の別れとなるかもしれない。
...重く考えなくとも手がかりくらいはすぐに掴めるだろうし、老いぼれるまでには充分に戻ってこれるだろう。そう考えるたびに、なにか暗い塊がひとつづつ胸に詰まっていくような気がした。
さらに七つの夜を越え、八つ目の朝を迎えたとき、 幾度となく眺めた麦畑を朝日が徐々に染めゆく中、男は決意した。陽が昇りきらぬうちに家族に別れを告げると、その足で愛する少女の家へと向かった。
見送りの間、ふたりはひとつの言葉も交わさなかった。
やがて村のはずれの麦畑まで来ると、男は少女の手を取ると、必ず答えを掴み、この地に戻ると約束した。少女はいつものように真っ直ぐに彼を見つめ、微笑みながらいつまでも待っている、と伝えた。
そして手を離すと、彼とその長い影が草原の果てに消え去るまで、微笑みを崩さず、下げた両手を硬く組んでその姿を見送った。
(冒頭にはこれ以上のことは書かれていない 。)
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