第5話 明大前-二月  馬場 俊成

 夕刻から舞いはじめた、今年初めての雪を肩から払いのけ、なじみの居酒屋の縄のれんをくぐる。すぐに中から陽気な声が呼びかけてきた。

「ここだ、ここだ、馬場。待ってたぞ。遅いじゃないか」

 室内の暖かな空気で曇った眼鏡を拭きながら、声の主である斉藤忠明の向かい側の席に腰を下ろす。店内には、旨そうな鍋の匂いが充満していた。美酒に酔った人々の笑い声が、鍋から漏れる湯気とともに、温かな雰囲気をかもし出していた。

「どうしたんだよ。遅刻魔のお前にしては、やけに早いじゃないか」

 すでにいくらか飲んでいるのか、頬を赤く染めた斉藤に皮肉交じりに答えた。

「いや、呼び出した俺が遅くなっちまったんじゃあ悪いからな。先に飲っていたぞ。こう寒くっちゃ凍えちまうからな。お前も熱燗でいいか?」

 それでいいと斉藤に答え、店員が用意してくれた温かいおしぼりで、冷えてしまった顔をぬぐう。そうすることで、やっと私は人心地がついた。

 久しぶりに会う旧友特有の堅苦しさは、私と斉藤の間には存在しない。生まれた時から近所同士の幼なじみで、中学、高校まで一緒だったせいもあるだろう。行動をともにしていた期間が長いのだ。

 昔から歯に衣着せない彼の言動は、それを嫌う同級生や先生には疎まれもしたが、私には逆に好ましく思えた。高校の生徒会の選挙では、彼は二年生ながらも生徒会長に立候補した。投票前の候補者討論会で、上級生の対立候補をコテンパンに言い負かして、三年生からはかなりのひんしゅくを買った。それがたたってか、肝心の投票ではあまり支持を得ることができず、彼にこき下ろされた男が当選してしまった。同情票もあったのかもしれない。しかし、落選しても彼は気落ちすることなく、「俺の真価は高校生相手には通じないものと見える」とうそぶいていた。翌年も懲りずに生徒会長に立候補したが、やはり、彼の真価を理解するものは多くなかったようで、再度落選の憂き目にあった。

 社交的で顔も広い彼と、口数も少なく友人も多くない私だったが、なぜか馬が合い一緒に行動することが多かった。家が近いせいもあったのだろう。高校を卒業すると、彼は親の後を継ぐために医科大学に進み、私は当時のめりこんでいた英米文学を研究するために私大の文学部へと進んだ。大学時代こそ、疎遠となったものの、社会人になって同窓会で再会してからは、再び三ヶ月に一度は会う飲み仲間となった。

 飲むのはだいたい明大前の居酒屋だった。私がこの大学の校舎で教えているせいもあるし、飲んだ後は駅の近くにある私のマンションで昔の音楽を聴きながら夜更けまで飲み明かすことが多いからだった。彼も私も酒は強くいくらでも飲めた。一晩でウイスキー二本を空けたこともある。さすがにその翌日の講義は辛かったが…。


 湯豆腐をつつきながら、一通り近況を語り終えると、私は程よい酔いがまわった頭でぼんやりと昔のことを考えていた。彼が言いにくそうに口を開いたのはその時だった。

「実はな、俺、再婚することになったんだ」

 喜ばしい内容とは対照的に、暗い表情で話す彼に私は違和感を覚えた。

「再婚。初耳だなあ。良かったじゃないか。でも、前の奥さんが亡くなった時、もう一生結婚しないって言ってた気がしたけどなあ…」

 私はわざとおどけて冷やかしてみたが、彼はのってこなかった。

「そうなんだが、ちょっと事情が変わってな…」

 何とも彼は歯切れが悪い。

「相手は誰なんだい。俺の知っている人かい?」

 私のその言葉を聞くと、不意に彼は肩をこわばらせると、それまで伏目がちにしていた顔を私の方に向き直して言った。

「それが、千草さんなんだよ」

 今度は私が呆然とした。思ってもみなかった人の名前だった。無言でいる私の顔を見ながら、彼は恐る恐るという感じで話し始めた。

「お前には悪いと思っているよ。高校時代からずっと想ってきた人だもんな」


 千草さんというのは、私たちの高校の当時のマドンナ的存在だった女性だ。全校のほとんどの男子学生が憧れていたといっても過言ではないだろう。彼女が所属していたテニス部には、練習時間になるとたくさんのギャラリーが詰めかけたため、「自らが所属していない部活動の見学を制限する条項」が新たに校則に追加されたほどだった。私もご多聞にもれず、彼女に憧れていた生徒の一人だった。しかし表立って公言したことは一度もない。私みたいな地味な男が彼女に選ばれるはずはないということが良く分かっていたから。でも斉藤だけは、私の態度を見ただけで、淡い恋心に勘付いていたようだった。なぜなら、彼は自らの交友関係の広さを利用して、テニス部の女子部員がよく行く喫茶店を突き止め、私を誘ってそこへ何度も通ってくれたからだ。

 そして、彼女と会話を交わす機会まで私に与えてくれた。口下手な私一人の力では到底できない芸当だ。そんな時でも、彼は私を冷やかしたりすることなく、表立っては私が彼女に憧れていることなど気付いていない態度を貫き通してくれていた。そんな彼の友情にはとても感謝したし、彼の人柄に好感を禁じえなかった。

 そういった背景があるからこそ、彼は私に対して申し訳なく感じているのだろう。


「良かったじゃないか。おめでとう。一人じゃ何かと不便だったろうしな。彼女とお前なら、まさにお似合いだよ」

 私はできるだけ明るい口調でそう言うと、彼の盃にぬるくなった日本酒を注いだ。

「いや、不思議な縁なんだよ。彼女と再婚することになったのは」

 私の態度を見て安心したのか、彼はいつもの饒舌な口調に戻って話しはじめた。

「女房が亡くなってからは、さすがに俺も気落ちしてしまってなあ。何しろ、まだ五十前の若さで死んじまったからな。女房が不憫だったのと、俺自身が寂しいのとで、しばらくは何にもする気にならなかった。クリニックも休診にして、酒ばかり飲んでいた。正直このまま引退してしまおうかという考えも頭の中にちらついていたよ。そんな時だった。千草さんが訪ねてきたのは。同じ下北沢で画廊を経営していたから、女房が元気な頃はたまに彼女の所へ行っては、絵を見ながら昔話をしたものさ。でも、彼女の方から俺の所に訪ねてくることは、今までになかった。事前に連絡もなしに訪ねて来るというのも、彼女らしくなかった。

 だから、彼女が来た時はちょっと不審に思ったんだ。それで、すぐに用件を聞いてみた。すると、ある女性の事を知っているかという話だったんだ。詳しく聞いてみると、どうやら彼女の息子さんが付き合っている女性のことだった。その娘の名前を聞いてみたが、覚えがなかったので知らないと答えたよ。

 なんでもその娘さんは息子さんに連れられて、千草さんの画廊に来たらしいんだ。その時、たまたま机の上に飾られていた昔の同窓会の写真を目にしたそうだよ。そして、そこに写っていた俺の顔を見た途端、表情が固まったというんだな。ほんの一瞬だったから、息子さんは気付かなかったようだ。でも、千草さんは見逃さなかった。彼女は、息子さんの彼女と俺とがただならぬ関係にでもあるんじゃないかと思ったらしい。それを確かめに来たという訳さ。しかし、いくらその娘さんの名前を聞いても記憶にないし、もちろん女房以外とそんな関係を持った覚えもない。こう見えても愛妻家だったからな。そう言うと、彼女は自分の思い違いだったかもしれないとやっと認めたよ。それで初めて、俺の生活のすさみ具合が気になったようだった。

 悪いとは思いながらも、掃除やら洗濯やらをしてくれるという彼女の善意に俺は甘えてしまった。彼女も久しぶりに他人の世話をするのが、まんざらでもない様子だった。彼女も旦那さんと別れてからは、ずっとひとり身だったからな。そんなこんなで、いつしか生活を共にするようになってね。今では互いになくてはならない存在になってしまった。クリニックを再開できたのも、彼女のおかげだと思っているよ」

 斉藤は話し終えると、新しく運ばれてきた日本酒を熱そうにすすり、「今まで黙っていて悪かったな。お前にはどうにも話しづらくてな」と決まり悪そうにつぶやいた。

 それから後は、最近の若者たちがいかにだらしないかという話題になり、私も自分が教えている学生たちの事例を上げては、昔の自分達との相違点を細かく比較したりした。決して楽しい話題ではなかったが、何か話していない事には私は落ち着かなかった。


 そんな風にして二時間ほど飲んだ。斉藤は、その日は珍しく早めに酒を切り上げ、「明日は朝早く手術があるから」と言って、私のマンションにも立ち寄ろうとはしなかった。帰りがけに、私はふと思いついて尋ねてみた。

「さっきの千草さんの話だけど、その娘さんというのは、お前の患者さんだったっていう可能性はないかい?」

 酔った頭を振りながら、斉藤はしばらくそれについて考えていたようだが、落ち着いた声で答えた。

「うーん、今まで何百人と美容整形をしているからな。そういう可能性はあるかもしれない。でもな、誰が俺の患者だったかっていうことについては、俺はなるべく思い出さないようにしているんだ。だから、もし街で俺が昔の患者さんに出会っても、俺からは声をかけないようにしている。新しい顔でせっかく新たな人生を歩んでいるかもしれない人たちに、わざわざ過去を思い出させる必要はないからな。俺を見かけてお礼を言ってくれる人もいるが、礼を言わないからって、恨んだりはしないよ。その人のその時の思いや立場ってものがあるだろうからな。その人の人生を少しでも幸せな方向へ向けることができてさえいれば、俺は満足だよ」

 そして、真面目な表情から急にニヤケた笑い顔になって彼は言った。

「実は案外その娘は、写真の中のお前の顔を見て驚いたのかもしれないぞ。心当たりがないこともないだろう。その歳まで独身なんて胡散臭すぎるぞ。清廉潔白ぶって本当は教え子の若い娘と遊びまくってるんじゃないのか?」

 私は、酔っ払いのたわ言と笑いながら否定し、彼を駅まで送って行った。

「結婚式なんてのは、この歳で恥ずかしいからしないけど、お祝いがてら今度うちに遊びに来てくれよな。彼女もお前に会いたがっていたよ。同窓会以来会ってないだろう?」

 そう言って、改札に消えていった彼の声ははずんでいた。酒のせいだけはないだろう。しかし、私には彼女に会うことはできそうもなかった。一体どんな顔をして会えばいいというのだ…。


 二十年以上前のあの夜、彼女は確かに私のものだった。家を飛び出してきた彼女は、ずっと私のそばにいたいとさえ言ってくれたのだ。


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 当時、まだ助教授にさえもなっていなかった私はその日、自宅でディケンズについての論文の整理をしていた。当時は、教授になるためにはとにかくどれだけ多くの論文を発表できるかにかかっているという慣例があった。だから、その頃は寝る間も惜しんで執筆活動に勤しんでいた。

ドアベルが鳴ったのは、夜の十一時過ぎだった。こんな時間に誰かとドアののぞき穴を見ると、そこに立っていたのが千草さんだった。突然の訪問に驚きながらも、すぐに鍵を開けて家の中に入ってもらった。一目で、彼女のひどい状態に気付いた。

 春にはまだ遠い寒い季節だったが、彼女がまともに着ているのは毛皮のコート一枚で、その下には薄手のアイボリーホワイトのワンピースを着ているだけだった。体は寒さでガタガタとひどく震えていた。持ち物は黒革の小さなハンドバッグひとつで、靴のヒールは片方が折れてひどく歩きにくそうにしていた。憔悴しきった目にはうっすらと涙が浮かび、化粧はほとんどしていなかった。

「一体どうしたんですか?」と尋ねる私に、彼女はただ一言、「行くところがない」と答えるだけだった。

 ともかく冷えた体を温めるために急いで湯を沸かし、彼女が風呂に入っている間にあり合わせの夕食を作った。湯から出て、私のトレーナーとスウェットパンツをパジャマ代わりに着た彼女は、熱い風呂に少しのぼせたようだった。顔は桃色に染まり、表情も柔らかく落ち着いた彼女は、素顔のままでも充分魅力的だった。

 それから、私の作った夕食を食べ、体を温めるためのホットワインを飲みながら、彼女は嫁ぎ先を飛び出してきたこと、そこにはもう戻れないし戻るつもりもないということを私に話して聞かせたのだった。なぜ、私の所に来たのかを尋ねたが、ただにっこりと笑って、「私がいたら迷惑かしら?」と逆に問いただすだけだった。もちろんそんな訳があるはずもなかった。高校時代から憧れ、卒業十周年の同窓会で再会した折には、学生時代の可憐さに大人の女性の妖艶さまでもが加わっていた彼女なのだ。迷惑なはずがない。彼女が私の家を知っていたのは、その同窓会の集まりの後に、斉藤ら何人かの友人と一緒に私の家で飲み明かしたことがあったからだった。私の家を覚えていただけでも嬉しいのに、行くあてのない彼女がわざわざ来てくれたことで、私は天にも昇る気持ちだった。彼女は私に気があると思ったとしても、ばちは当たらないだろう。

 ワインを飲んで潤んだ瞳で、彼女が「ずっとここにいたい」と言った時、私は自分を抑えることはできなかった。ベッドの中の彼女は確かに私のものだったし、私の一部だった。彼女もそれを望んでいたはずだった。その夢のような時間が永遠に続くものと思っていた。彼女も私と同じ思いだと信じていた。しかし違ったのだ。

 翌朝早く、どこをどうやって探しだしたのか、彼女のご主人がやってきた。そして彼女は私の事を振り返ることもなく、彼と一緒に行ってしまった。


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 あの日以来、私はいつか彼女は私の下へ戻ってくるはずだという思いを抱き続けてきた。彼女が離婚したと聞いて、彼女の不幸に同情しながらも、一抹の喜びを隠し切れなかった。これで、私の所へ戻ってきてくれるのだと確信もした。しかし、離婚から時間が経つにつれて、その確信は疑念へと変わっていった。それでも、彼女が下北沢で画廊を開いたと聞いた時には、訪ねていくべきなのか何度も迷った。彼女は、私の訪問を待っているのだという僅かな可能性を信じようとした。だが結局、私にはそこまで自分を過信することもできなかったし、訪問を実行する勇気を振り絞ることもできなかった。

 そして今日、私の心に淡雪のようにわずかに残っていた彼女との可能性は斉藤によって完全に打ち砕かれた。彼女は私でなく斎藤を選んだのだ。


 二十数年前のあの夜、同じベッドにいながら、私と彼女とは全く違う夢を見ていたのだ。大きさも違う、色も違う、形も行き先も違う夢を…。それは、永遠に交わることのない二本の線路のようなものだ。帰路に就く途中の踏み切りで、列車が通り過ぎる音を聞きながら、そんなことを私は考えていた。

 強さを増してきた雪を背中に感じながら、私はこれまで一体どれだけの物を得て、そして失ってきたかを考えはじめていた。





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明大前駅


 一九三五年、明治大学予科(当時)が駅の近くに移転したのに伴い「明大前」と名付けられた。名前の由来となった明治大学和泉校舎は、甲州街道を挟んで北側にある。もともと開業時の駅名は「火薬庫前」であった。少々ものものしい名前だが、江戸時代に徳川幕府の鉄砲・火薬などの貯蔵施設が近くにあったことに由来している。そのため、当時この周辺地域では火遊びなどは厳禁であった。

 明大前駅にて、京王線と井の頭線は交差しているが連結はしていない。これは一三七二ミリメートルの馬車軌間を採用する京王線の路線と、一〇六七ミリメートルの井の頭線では相互接続することは不可能なためである。当初、井の頭線が小田急電鉄系の帝都電鉄の路線として開業したためこのような差異が生じている。

 また、明大前駅は、以前存在した東京山手急行電鉄の第二山手線構想の中で、山手急行との交差駅になる予定であった。そのため、駅から吉祥寺寄りにある玉川上水の水道橋の部分は、複々線(帝都電鉄=井の頭線と山手急行の四線分)のスペースが確保されており、未成線である山手急行の唯一の痕跡と言える。いわば、かなわぬ夢の痕跡と言えよう




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