第4話 下北沢‐十二月 木下 千草
「今度結婚することにしたわ」
下北沢の、私が経営する画廊近くのイタリアンレストランで、単刀直入に娘に報告した。瑠花は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
店内には、クリスマスメドレーが流れ、他のテーブルで食事を取っている客の雰囲気にも、この季節特有の浮き足立った感じが漂っていた。久しぶりに訪ねてきた娘は、春からアートデザインの制作会社に就職が決まったことを報告しに来たのだ。
父親に行ってこいと言われたのだろうか?娘の好きなブランドのバッグを内定のお祝いに買ってあげてから、遅めのランチを一緒にとることにした。その席で、私の近況を報告したのだ。
それにしても、半年ぶりに会う娘は以前よりも急に大人びて見えた。少女時代特有のはかなげな美しさをまだわずかに残してはいるが、大人の女へと成長していく過程のたくましさと色香が混在している。女親の私が見ても美しいと思うほどだ。いや、母親だから、贔屓目で見てしまうのだろうか。
今の彼女の姿を描かせるとしたら、どの画家が一番ふさわしいだろう。印象派がいいだろう。モネだろうか。ルノアール?ゴッホ?いやゴッホは少しタッチがきつすぎる。思わずそんなことを想像してしまう。
「誰とよ?」口をとがらせて尋ねる娘の声で、私は我に返る。あぁ、そんな顔したら可愛い顔が台無しだ。笑顔が一番よく似合うのに。
「斎藤さんっていう人。私の高校時代の同級生。今はこの下北沢で美容外科のクリニックを開業しているの」
ランチメニューの鴨のローストに合わせて選んだ、まだ少し若いキャンティ・クラシコを味わいながら私は答える。
「ふ~ん、いつから付き合っているの?」
「一年位前ね。彼、奥様を亡くしてね。お手伝いさんが見つかるまでの間、私がたまに料理や掃除といった身の回りの手伝いをすることがあったの。それからかしらね。以前よりも親しくお付き合いが始まったのは…」
「ふ~ん」
本当に信じているのかどうか分からない胡散臭そうな目で私を見ながら、瑠花は赤ワインを苦そうに飲む。味覚はまだまだ子供のままだ。
「それで、マミーは、その結婚で幸せになれるの?」
私が家を出た時からずっと変わらない呼び名で、瑠花は尋ねた。
「そうね。母さんももういい歳だし、この歳で一人で生きていくっていうのは結構しんどいことなのよ。今までは、誰の世話にもなるものかって、意地になってきたところがあったけど、久しぶりに男の人の世話をしてみて思ったのよ。やっぱり誰かと助け合って、一緒に生活していくのもいいなってね…。彼は私にとても優しくしてくれるしね」
「おのろけが出るくらいなら大丈夫ね。素直におめでとうと言うわ」
「ありがとう」
娘はやっと笑顔を見せてくれた。娘なりに私のことを心配してくれていたのだろうか。
「でも、再婚するからって他人になるわけじゃないんだから、今までどおり会いに来てね。もし彼と会うのが気まずいっていうんなら、彼がいない時でもいいから」私は言った。
「でも、マミーとしては、彼にも会って欲しいんでしょう」
「まあね」
「大丈夫よ。私そんなに子供じゃないから。いくら他人と結婚しようと、私はマミーの娘。縁を切りたくても切れない関係だもの」
可愛い顔で、意地悪なことを言う。小悪魔的な一面も持っている。血は争えないと私は思う。私も若い頃は、男心を手のひらで転がして弄ぶのを楽しむ傾向があったのを思い出す。
メインを食べ終わっても、キャンティのボトルが余ってしまったので、お店の人に頼んでワインに合うチーズを盛り合わせてもらった。ブルーチーズの塩気が、イタリアの濃厚なワインにマッチする。
「お兄ちゃんも結婚してニューヨークに行っちゃうし、マミーも結婚するんじゃ、家族で独身なのは私だけになっちゃうのね」瑠花がカマンベールをつつきながら、少し寂しげに言った。
「あなただって彼氏の一人や二人いるんでしょ?」ため息をついている瑠花に、私はカマをかけてみる。
瑠花は一瞬躊躇したが、思いのほか素直に答えた。
「そうね、マミーにはまだ会わせていなかったわね。まあ、父さんにもお兄ちゃんにも紹介していないけど…。いいわ、今度彼を連れてくるわね。哲っていうんだけど、マミーの作った井の頭線の歌に興味を持っていたわ」
「井の頭線の歌って?」
「ほら、あの歌よ。あおいおそらに~ しろいくも~」
「ああ、よく覚えているわね。そんな古い歌」
「私とおねえちゃんとマミーの思い出の歌だもの」
私は何も言えなくなってしまう。たわいもない即席の戯れ歌だが、瑠花にとっては姉の芽依と私をつなぐ数少ない思い出のひとつなのだ。彼女には本当に寂しい思いをさせてしまったと思う。でも仕方がなかったのだ。あの時には、家を出て行く以外の道はなかった。それは今でも間違っていないと思う。
結局二人でもワインは飲みきれず、お店の人が持ち帰り用にとコルクを閉めてくれた。割れるといけないと言って、クッション付きのライトグリーンの紙袋にまで入れてくれた。瑠花はいらないというので、私が持って帰る事にする。二人ともお腹一杯だったが、最後に甘いものが食べたいと瑠花が言うので、ドルチェを一品ずつと温かい飲み物を頼んだ。瑠花はマシュマロ入りのホットチョコレートを選び、私はカプチーノをお願いした。
フルーツと生クリームをたっぷり使ったドルチェを食べ終わる頃、瑠花が口を開いた。
「ねえ、マミーにひとつ聞きたいことがあるの。今日会いに来たのは、それを聞くためでもあるの」
私は嫌な予感がした。私に会いに来た時から、瑠花がずっと思い詰めた顔をしていたのが気にかかっていたからだ。そんな私の思いには気付くことなく、瑠花は続けた。
「実は、お姉ちゃんのことなの…。今まで私自身も整理できていなかったし、マミーも私には話したくはなさそうだったから聞かなかったけど、やっぱりきちんと聞いておきたいの。あの事故のことを」
そう言ってから瑠花は一息ついた。それから、スライスレモンの浮かんだお冷で唇を濡らすと、意を決したように言った。
「お姉ちゃんはなぜ亡くなったの?そして、どうして私だけが生き残ったの?」
瑠花の言葉を聞いて、私の声は思わず震えてしまいそうになった。しかし、何とかそれを押し殺してようやく一言だけ聞き返す。
「どうしたの。なぜ今頃になってそんなことを聞きたがるの?」
「実はこないだ、芽依お姉ちゃんの姿が見えたの。そして、少しだけあの事故のことを思い出したの。今まで私には、あの出来事の記憶だけがすっぽりと抜け落ちていた。まるで、稲穂を刈りとられた後の田んぼのようにね。無理に思い出そうとすると、頭が痛んだわ。あの時の話を聞くだけで、吐きそうになった。だから、私自身あの事故の事は封印していたの」
瑠花はそこで大きく深呼吸をすると、ホットチョコレートを一口すすった。私は意味もなく、カカオには記憶を蘇らせる効果があるという記事を以前読んだ気がしたのを思い出す。
ココアを飲んで少し落ち着いたのか、ゆっくりとした口調で瑠花は話を再開した。
「でも、ある人のおかげで、ちょっとだけ前向きに考えてみようという気持ちになったの。それまで、あの事故の責任は私にもあるんじゃないかって考えていた。つまり、私が助かったおかげで、お姉ちゃんが死んでしまったんじゃないかってね。でも、そんな風に自分を責めることで、知らないうちに私自身がひどく傷ついていたんだということを、その人は気づかせてくれたの」
「その人っていうのが、さっき言っていた井の頭線の彼なのね」
直感的に私は思い当たる。娘は黙ってうなずき、話を続けた。
「その直後なのよ。お姉ちゃんの姿が見えたのは…。私にはお姉ちゃんが何か伝えたがっているように思えたの。あちら側の世界からメッセージを持って会いに来たんだって。だから、マミーが何か知っているのなら私に教えて欲しいの。お願い。どんなことであっても、驚かずに聞くと約束するわ」
私は娘の話をすべて聞いてしまうと、残っていたカプチーノを飲み、瑠花の目を穏やかに見つめる。瑠花も黙って私の目を見つめ、期待と不安とが入り混じった表情で私が話し始めるのを待っている。
私はもう一度、自分のカップに目をやるが、そこにはもう一滴のコーヒーも残っていなかった。私は観念して、テーブルの上に組んだ自分の手の甲に視線を移す。なんだか自分の手ではないみたいだ。私にも瑠花みたいに滑らかな肌を持っていた時期があったはずなのに…。それがひどく昔のように思えてしまう。
そして静かに話し始める。
「分かったわ。あなたにはあの事故の事をきちんと話したことはなかったわね。だから、これから話すことを良く聞いて。でも、これだけは覚えておいて。あれは本当に不幸な事故だったの。そしてあなたには、本当にこれっぽっちも責任なんてなかったのよ」
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「あなたも知っているように、あの頃、秋本家のお屋敷は井の頭線の線路のすぐそばに建っていた。井の頭線が通る前からの先祖代々のお屋敷だったから、電車の音がうるさくても引っ越すわけにはいかなかったのね。でも結局は、あの事故の後に引き払ってしまったけど。
お屋敷の勝手口の裏手には、すぐに踏み切りがあって、危ないからって子供たちには絶対にその近くでは遊ばせなかった。家の庭で遊ぶ時には、必ず二人いたお手伝いさんのどちらかが目を離さないようにしていたわ。でも、あの日だけは不運な偶然が重なってしまったのね。
まず、年配のお手伝いの松乃さんの身内に不幸があって、彼女は二、三日前に郷里の福岡に帰ってしまっていた。そしてあの日、幼稚園に通っていたあなたたちが帰ってきて、庭で遊びたいと言ったの。だから、私はもう一人の若い方のお手伝いさんに、あなたたちを見てもらっていた。ちょうど桜の季節で、線路沿いに植えられた桜の木から花びらが庭に散りそそいでいたわ。あなたたちはそれを糸でつむいで首飾りを作りたいと言ったの。二人で花びらをたくさん集めて、若いお手伝いさんが針で糸を通していた。それがだいぶ集まった頃、電話が鳴ったの。お手伝いさんは、ついいつもの癖で急いで電話に出るためにそこを離れてしまった。年配の松乃さんは耳が少し遠かったから、電話に出るのはその若いお手伝いさんの役目だったのよ。
取り込んだ洗濯物を家の中でたたんでいた私は、彼女が電話に出ているのを見て、娘たちのことを見なければと思ったわ。洗濯物はそのままにして、それほどあわてることなく、庭に降りていった。目を離したのは、ほんのわずかのはずだっただから。でも、庭先を見て、その判断が甘かったことに私は気づいたわ。そこには、あなたたちの姿はなく、裏口の木戸が開きっぱなしになっていた。。そこから踏み切りまでは、五メートルもなかったわ。私は何だか嫌な予感がして、急いで木戸から外に出ると、あなたたちの姿を探した。あなたたちはすぐに見つかったわ。最悪の場所にね…。
あなたたちは開いていた踏み切りから線路にまで入り込み、座り込んで線路脇に生えているタンポポやスミレの花を採るのに夢中になっていたの。桜の花だけでは飽き足らず、他の色の花が欲しくなったのかもしれないわね。私は急いでそちらへ駆け寄りながら、私のほうへ来るように叫んだわ。『電車が来るといけないから、早くいらっしゃい』てね。
でも、ちょうどその瞬間、踏み切りの警報機の赤いランプが点滅を始め、耳障りなカンカンという警報音が鳴り始めた。私に呼ばれてはじめて、あなたたちは自分たちの置かれた状況に気づいたようだった。二人はすぐにその場から立ち上がり、私のほうに駈け寄ってきた。瑠花はすぐに私のいる側まで戻ってきたわ。でも、芽依は線路の途中で走るのを止めてしまったの。何かが芽依の足を捕らえて離そうとしなかったのよ。見ると、線路と線路の隙間に右足が挟まっていた。私はすぐに駈け寄って、その足を引っ張って抜こうとしたわ。できる限りの力で。でも、どうやっても芽依の足は抜けないの。まるで、狡猾な肉食動物に噛みつかれたように、ぴったりと線路の隙間に食い込んでいたのよ。靴を脱がそうとしたけれども、それもだめだった。その日履いていたのは、おろしたばかりの真新しい革靴で、革がまだ硬くて芽依の小さな足を抜くための弾力さえなかった。
その間にも警笛を鳴らして、列車は近づいてきていた。運転手が緊急ブレーキをかける音が聞こえたけれど、その距離からでは間に合わないことが私には分かったの」
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そこまで話してしまってから、初めて私は瑠花の目を見ることができた。そしてこう尋ねた。
「それからどうなったと思う?」
話の間中ずっと私を見ていた瑠花は、急に私から目をそらした。そして小さな声で「もういいわ」と言った。
「ううん、聞いて欲しいの」彼女の言葉を無視して、私は話を続ける。
「私はその場を離れたの。泣き叫び、私にしがみつこうとする芽依の手を振りほどいて。私の腕をきつくつかんでいたあの子の十本の指を、一本一本引き剥がして…。そして、線路の脇に避難していたあなたのそばに駈け寄って、あなたをしっかりと抱きしめたの。『この娘だけは助けられた。この娘だけは助けられた』って自分に言い聞かせながら。
だから、あなたが自分を責める必要なんて、これっぽっちもないの。すべては私の弱さのせいなの。芽依を助けられなかった弱さ、そして芽依と一緒に死ぬこともできなかった私の弱さのせい…。
だから、あなたが責任を感じることなんてないのよ。報いを受けるべきは私一人なの。実際、その報いは私から多くのものを奪っていったわ。芽依を亡くして、その責任から私は家を出た。そしてその結果として、あなたやあなたのお兄さんをも失ってしまった。でも、まだまだ足りないのかもしれないわね。そんなものじゃ生ぬるいのかもしれない。芽依はそれを伝えるために現れたのかしらね」
「ごめんなさい」うつむいたまま、瑠花が声をあげた。瞳からは涙が溢れ出している。
「いいの。いつかは話さなければならないことだと思っていたから。ただ、あなたには、私のような思いはして欲しくないの。
私からあなたに言えることはひとつだけ。もしあなたに子供ができたら、絶対にその子たちからは目を離さないでということ。常に見守っていて。その子たちを手放したくないならね」
「分かったわ。ありがとう、お母さん」赤い目のまま、瑠花は私を見つめて言った。
レストランを出て、下北沢駅まで見送る道の間中ずっと、私も瑠花も黙ったままだった。けれど、改札を入る時になって、瑠花がいぶかしげにこう言った。
「そういえば、この駅って改札がひとつなのよね。井の頭線と小田急線って全然別の会社なのに…。こないだたまたまこの駅で、井の頭線から小田急線に乗り換えたんだけど、乗り換えの時もわざわざ改札を通り直す必要がないのよ。便利なんだけど、ちょっと不思議じゃない?」
「そういえばそうね。今まで考えたこともなかったけど」
私はできるだけ軽い調子でそう答えると、笑って手を振る瑠花に笑顔を返した。
瑠花は信じてくれただろうか。たぶん大丈夫だろう。彼女には、私とは違う道を歩んでいって欲しい。取り返しのつかない道を進むのは私だけで充分だ。私で終わりにしなければ…。駅を背にして、私はもう一度、自分の決心が固いことを確認した。暮れ行く街にはクリスマスの賑やかなイルミネーションが、まぶしく溢れはじめていた。
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下北沢駅
下北沢駅で、京王井の頭線は小田急小田原線と立体交差している。運営会社が異なるにもかかわらず、両社線間に改札はない。これは、井の頭線が以前小田急系列であった帝都電鉄の路線であったことに由来している。戦時中、小田急小田原線と井の頭線は、ともに小田急電鉄から東京急行電鉄(いわゆる大東急)の路線となったが、戦後になって小田急電鉄と京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に分割された名残である。いわば、もともとは、親子の関係であった両路線が袂を分かち、別の道をたどった名残りが下北沢駅だと言える。
また、戦時中から戦後しばらく、井の頭線は小田急小田原線と代田連絡線で繋がっていたものの、同連絡線廃止後は接続する路線こそ多いがレールが繋がっている路線がまったくない孤立した路線となっている。
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