第3話 駒場東大前‐十一月  秋本 瑠花

 テーブルのすぐそばを走り行く井の頭線を見ていたら、なんだか懐かしくなって、思わず口ずさんでしまった。

「青いお空に白い雲、緑の草原、ラベンダー、青緑色の川の底、ピンクのお魚おりました。おやつにドーナツあげましょう。一、二、三、四、五、六、七、パクッ…」

「なんだい、それは?」

 料理が並ぶテーブルの向かいに座った富永哲は、半ばあきれた顔で尋ねた。

「井の頭線の車体の色の覚え方。昔、お母さんが作ってくれたのよ。青いお空がスカイブルー、白い雲がアイボリーホワイト、緑の草原がライトグリーン、ラベンダーはそのままラベンダー色ね。そして、青緑色の川がブルーグリーン、ピンクのお魚がサーモンピンク。最後のドーナツがベージュ色。全部で七色あるでしょう。だから、七まで数えてパクッと食べるの」

 そう言いながら、私は右手で魚の口を作って、彼の顔を食べるまねをする。


 哲が連れてきてくれたフレンチレストランには、中庭にテラス席があり、そこからは木々の間を通る、井の頭線の姿を眺めることができた。彼が食事に誘うのも珍しいけれど、家から離れた東大駒場キャンパスまで来るのも理解しがたいことだった。なぜこんな所にフレンチレストランがあるなんて知っていたのだろう。普段のデートは、私の家がある吉祥寺の周辺で済ますことが多いし、西荻の彼のアパートでレンタルDVDを見てお茶を濁すことも少なくない。今日は、誕生日や記念日でもないはずだ。彼が何を考えているのか、私にはよく分からない事が多い。


「瑠花はいつまでたっても子供だなあ」

 魚の口を作った私の手を振り払いながら、哲が笑って言った。

「しかしベージュ色がドーナツていうのは、ちょっと無理があるな。ドーナツというよりは、むしろおせんべいの方が色としては近いんじゃないか」

「おせんべいはお姉ちゃんの芽依が嫌いだったの。だからパクッて食べてくれないからお母さんがドーナツにしたの」

「そうか、お姉ちゃんと遊んでいた頃の歌なんだね」

「でも、今はベージュ色の電車はなくなってしまったわ。ベージュの代わりにオレンジベージュ色になったの。でも、だからって、『おやつにオレンジあげましょう』じゃあねえ…。魚はオレンジなんて食べないわ」

「ドーナツを食べる魚だっていないよ。第一、水の中にドーナツを入れたら、溶けてなくなってしまいそうだ」

 哲はそう言うとおかしそうに笑った。それを聞いて、思わず私も笑ってしまう。よく考えると、確かにその通りだ。子供の頃はそんなこと考えもしなかったけれど…。

「しかし、やけに井の頭線に詳しいんだね」

 食後に運ばれてきたエスプレッソを飲みながら、彼が感心したように言った。

「姉が亡くなったから、つい気になって調べてしまうのよね」


 私はそう答えながら、カプチーノにたっぷりと砂糖を入れる。そして、スプーンでゆっくりとかき回して冷めるのを待つ。彼はいけない事を聞いたという顔をして、コーヒーの残りを苦そうに飲んで黙ってしまった。

 会計を済ませた後、どちらから誘うでもなく駒場の東大キャンパスを散歩した。歩きはじめても、彼は相変わらず黙ったままだった。

 秋晴れの空はどこまでも青く澄み渡っていた。昼の間はじんわりと汗ばむほどの陽気だったが、太陽がいったん傾き始めると、すぐに秋の涼やかな空気が木々の間を支配した。散歩には、本当に気持ちのいい季節だ。キャンパス内にはイチョウをはじめ多くの木々が、自らの葉を黄色や赤に誇らしげに染め上げていた。そしてそれに飽きると、今度は持て余したように、それらの葉を次々と地面にひらひらと落下させていった。


「ねえ、なぜ秋になると木の葉は落ちてしまうの?」沈黙に耐えきれなくなって、私は声に出して尋ねる。

 哲はふっと立ち止まり、隣にいることに初めて気づいたかのような表情で、私の顔を見つめた。何か考え事をしていると、彼はいつもこの調子だった。もうだいぶ慣れはしたが、付き合い始めた頃はなんだか存在を忘れられているようで悲しい感じがした。

 彼は、今まで考えていた事を中断して、もう一度私の言った事を頭の中で整理しているようだった。そして笑顔で言った。

「君にしては、とても良い質問だね。非常に科学的で、生物学的で、なおかつ純粋な好奇心に満ちている」

 彼の機嫌が良くなってきているのを私は感じとる。そんな時は、無駄口は挟まない方がいい。だから私は黙って話の続きを待つ。

「冬というのは、植物にとって非常に過酷な環境なんだよ。おそらく君が考えているよりも遥かにね…。だから、木々はひと冬を生き抜くために、あらゆる手段を講じるんだ。地下の土壌から養分をたくわえ、自らの体内に水分を確保する。それでも不十分だと考えるものは、光合成というエネルギー合成機関である葉をも切り離してしまうんだ。そうすることで、ようやく木そのものの母体である幹や枝、根が生き残ることができるんだよ」

「葉は見捨てられてしまうってこと?」私は尋ねた。

「ある意味ではそうだね。それまで、母体となる木の生存環境を調整し、花や実を作るために葉は懸命に働いていたのにね。いざ母体が危うくなると、切り離されてしまう」

「薄情なのね」

「そんなことないさ。切り離すのは一時的な事だよ。枝の各部位には、翌春新たに葉となって成長するための細胞はしっかりと残されているんだ」

「でも、一度捨て去られた葉はもう二度と戻ることはない…」

 私がそう言うと、哲はしばらく沈黙してから、諭すような口調で静かに尋ねた。

「君と母親のことを言っているのかい?」

 私はハッとした。そう言われて初めて、今までぼんやりと母のことを考えていたことに気がつく。


 私は母に捨てられたのだ。一般的な解釈ではそうでないかもしれないが、私にとっては、捨てられたとしか考えられない。

 私は双子の姉妹として生まれた。でも、姉はもういない。井の頭線の列車事故で亡くなったのだ。私も事故現場にいたはずなのだが、その時の事が私にはどうしても思い出せないでいる。ただ覚えているのは、母と姉と一緒に踏み切りにいた事と、目の前に列車が止まり、母が半狂乱で泣き叫んでいる情景だけだった。そういう映像が、断片的に私の記憶には留まっていた。


 事故の数週間後に何の説明もなく、母は家を出ていってしまった。私がいくら「行かないで」と泣き叫んでも、母は悲しい顔でただ首を振るだけだった。父も祖母も誰も止めようとはしなかった。

 七つ上に兄がいたが、なにしろ歳が離れすぎていてあまり遊んでもらった記憶はない。兄もあの事故以来口数が少なくなり、その何年か後には、全寮制の私立の中学校へ行ってしまった。自分の分身と思っていた姉や、母や兄さえもがいなくなってしまった家には、もう私の心を抱きとめてくれる存在はいなかった。父はそれまでも仕事が忙しくて、家にいるのは夜中から朝にかけてだけだったし、姉が死んでしまってからはさらにその傾向が強まった。祖母は四年前に亡くなったが、厳格な性格でついに私は心を開くことができなかった。兄や私のためもあってか、父はその後再婚し、新しい義母が家に入った。とても優しい人で、親身に私たちの面倒をみて可愛がってくれた。でも、悪いとは思うけれど、やっぱり私が必要としていたのは実の母であり、姉だったのだ。そこには、血縁にしか形作ることができない色濃く親密な関係が存在していた。


 そして、あの事故以来、私の中には姉の影が存在するようになった。時折、その影が私を苛み、存在するはずだったもうひとつの世界に引きずり込もうとする。そこは、姉が生きていて、私が死んでいる世界だ。

 事故のあったあの日、確かに母は私だけを抱きかかえていた。事故そのものの記憶は欠落しているが、電車がブレーキをかけて止まった後からの記憶はしっかりしていた。母は確かにあの時、私だけを抱きかかえていた。「ごめんなさい、ごめんなさい」と激しく泣き叫びながら…。そこから考えられるのは、母は私を救ったことで姉を助けられなかったということだ。つまり、間接的にせよ、私が姉を殺したということだ。母が私ではなく、姉を抱きかかえて助けていれば、姉は生きていたはずだ。私には、どこかにもうひとつそういう世界が存在している気がしてならないのだ。

 その世界から姉は、影となって私にメッセージを送ろうとしてるのかもしれない。けれど、そのメッセージはいつも漠然としていて、靄がかかったように不鮮明だった。それでも影は朝方の夢の中や、白昼夢の中に現れては、彼女が存在しているパラレルワールドへと続く道を必死に示そうとしているように思えた。


「ごめんなさい。別に母のことを話しているつもりではなかったんだけど。いつも間にか心のどこかで考えていたみたいね」

 少し怒ったような顔をしている哲に言い訳するように答える。

「まだお母さんのことが許せないのかい?」

 そう言われて、今度は私のほうがカチンときてしまう。

「許すとか、許さないとかそういうことじゃないの。どうして母は私を置いていってしまったのかということなのよ。私の分身ともいえる姉を失い、私はとても不安定だったことは誰にでも分かっているはずじゃない。その時、私はまだ四つだったのよ。そんな弱く小さな存在である娘をなぜ残していけたのかっていうことなのよ」

「事故の責任を取らされたんじゃないかな。お母さんの監督不行き届きを責められたのかもしれない。あるいは、お姉さんの死の重みに耐えられなかったのかもしれないよ。思い出の詰まった家ならなおさらね…」哲は噛んで含めるように、ゆっくりと言った。


「あくまでもそれは、推測でしょ。理由があるならあるで、きちんと説明してほしかった。何も言わずに、ただ出て行くなんて…」

 私にそう言われて、彼は困ってしまったようだ。そして、言い訳するように質問した。

「でも、お父さんやおばあさん、お兄さんは家にいたんだろう。彼らが支えにはなってくれなかったのかい?」

 私は彼の瞳をじっと見つめる。そして、彼には何も分かってないんだと思う。幼く小さな女の子にとって、そして、自分の分身を失ったばかりの女の子にとって、母親という存在がどれだけ重要で、不可欠かということが、彼にはぜんぜん分かっていないのだ。

 私が何を考えているのかを視線から感じ取ったのか、彼は決まり悪そうに私から目をそむけた。そして、さっきよりは幾分優しい口調で言った。

「君と母親のことをとやかく言うつもりはないよ。でも、お姉さんのことを自分のせいにするのは、いい加減やめたほうがいい。それは本当に意味のないことだ」

 私はそう言われて、少し驚いた。直接的には、彼にそんなことを言った覚えはないからだ。でも私が折に触れ、事故の記憶が思い出せないと言っていたのを、彼なりに考えて、気にしてくれていたのかもしれない。

「知ってるかい?」

 彼はさらに優しく語りかけるように言った。

「このキャンパスがある駒場東大前駅は井の頭線で一番新しい駅なんだよ。駒場駅と東大前駅が合併してできたんだ。どちらかの駅を廃駅にするのではなく、両方の駅のほぼ中間に新しい駅を作ったんだそうだ。わざわざそんなことをするなんて不合理なことだと思わないかい?」

「なぜそんなことをしたの?」


駅の事を話し始めた彼の意図が何なのか分からなかったが、私は思わず尋ねる。

「なぜだろうね。でも当時の人たちはそうしたんだよ。どちらか一方を殺し、もう一方を生かすよりも、その中間に新たな駅を作ることで両方を生かそうとしたのかもしれない。あるいは、合理性よりもバランスの良さを選んだのかもしれない。今となっては、その本当の理由は分からない。でも、そのおかげでこの駅は駒場東大前駅という二つの駅が融合した駅として、立派に機能していると思わないか?」

 相変わらず私には、彼が一体何を伝えたいのかが分からなかった。でも、そのうち彼の考えていることがおぼろげながら見えてきた。そうか、私と姉のことを言っているのだ。


 もしかしたら、このことが話したくて、わざわざこの場所に私を連れてきたのかもしれない。今まで口数が少なかったのも、ずっと私にどう話そうかと頭の中でまとめていたからかもしれない。

 そう考えると、いつもはマイペースと思っていた彼が、急に頼もしく思えてきた。

今の彼の言葉のおかげで、私の中の姉の影が少しだけ薄らいで、私自身と融合した気がした。ほんの僅かではあるけれど…。


「ありがとう」

 少し後で、私はただ一言そう言った。彼はちょっと照れた顔をして、また黙り込んでしまった。

 もう少し二人で歩いていたかったので、近くにある駒場野公園を散策することにした。彼が調べたところによると、そこにはちょっとしたアスレチックもあるらしい。公園に行く途中にある踏み切りを渡ろうとすると、ちょうど警報音が鳴り出し、遮断機が下りはじめた。仕方なく電車が通り過ぎるのを待つため、二人で足を止めた。



 突然、それはやってきた。





 姉の影だった。





 踏み切り内の線路の中央に赤い服を着た姉が立っていた。今までは夢の中で、ぼんやりと現れたことしかなかったが、今日は違う。秋の柔らかな日差しの中に、はっきりと姉の姿があった。それは、永遠に歳をとらない幼女の姿のままの姉だった。笑っているのだろうか。それとも怒っているのだろうか。その表情はひどく曖昧で、しっかりと読み取ることはできない。ただ、私に何かを伝えたがっている事だけは、うかがい知ることができる。しかし、何を伝えようというのだ。私にはそれが分からなかった。するとその答えを導き出すかのように、私の頭の中で記憶が逆流する感覚が起こりはじめた。それは徐々に激しさを増し、ぐるぐるとした渦になっていった。私は、必死にその流れに抗おうとする。思い出したくない記憶だった。姉の無残な姿が蘇りかける。


 次の瞬間、カチッという機械音が頭の中に響いた。まるで私自身のスイッチが切れたように意識が遠のいていくのが感じられた。踏み切りのけたたましい警報音が薄らぎ、視界に広がる景色は少しずつ白みを増していった。



 何かが私の背中を柔らかく包み込むのを感じながら、ゆっくりと私は目を閉じた。





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駒場東大前駅


 駅の名前は、「駒場にある東大の前」ではなく、駒場駅と東大前駅が統合して開業したことに由来する。この二駅は現在の駒場東大前駅のホームの長さ分程度しか駅間距離がなかった。統合前の痕跡は池ノ上駅との間の踏切部分に、駒場駅のホーム跡が残っているだけである。また、井の頭線で唯一戦後に開業した駅であり、最も新しい駅でもある。

 東大駒場キャンパス内には「ルヴェソンヴェール駒場」というフレンチレストランがあり、学生、職員はもちろん、一般の人の利用も可能である。もともとは、旧制一高の同窓会館だったものを、全面的に改修してオープンした経緯がある。テラス席からは、キャンパスに溢れる木々を縫って、すぐ近くを走る井の頭線を眺めることができる。ちなみに、文京区本郷の東大キャンパス近くにも「ルヴェソンヴェール本郷」という同系列のレストランがある。



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