第2話 神泉‐九月  加瀬 鏡子

 渋谷駅に着くと、井の頭線の各駅停車がちょうど到着したところだった。急行を待つ乗客たちをしり目に、あたしはその列車に乗り込む。ホームには、過ぎゆく夏の暑さがまだ残っていたが、車内に一歩踏み込むとひんやりとした冷房の空気が、汗ばむ体を冷やしてくれた。


 わずか一駅しか乗らないのだが、いつも乗車時間が長く感じられるのはなぜだろう?これからしようとしている事への後ろめたさが原因かもしれない。今から会うのは、三十近くも歳が離れた五十五歳の男だ。妻子もいる。いわゆる不倫の関係というやつだ。そういう関係になってから、もう二年になる。もういい加減にやめたいのだが、やめられない…。もちろん、彼の事が好きだということもあるが、それだけが理由ではない。彼と付き合っていれば、お金に不自由しないという事もある。あたしが欲しいと思うものはたいてい買ってくれる。今日着ているヴェルサーチのスーツも、クリスチャンルブタンの靴も、 プラダのバッグもみんな彼が買い与えてくれたものだ。楽な方へ楽な方へと流れてしまうのが、あたしの悪い癖だ。


 でも、最近はいい加減に別れなければと本気で感じている。彼が奥さんと離婚する気がない以上、誰も幸せにはなれない出口のない関係だと実感し始めたからだ。彼は吉祥寺の旧家の跡取りで、とてもあたしなどと第二の人生を歩めるという境遇にはない。あたしにはそれが、身に染みて分かってはいるのだが、現実を認めたくない気持ちがどこかに残っているのだろう。別れなければと頭の中では分かってはいるのだが、いまだにそれを言い出せずにいる。


 そもそも最初に声をかけてきたのは、彼の方からだった。彼とは、あたしが勤めているアパレル企業の創業二十周年記念のパーティーで出会った。都心の有名なホテルの宴会場を借り切って行なった祝宴で見かけた彼は、五十代の男性にしては若々しく清潔で、何よりのその年代の誰よりも服の趣味が良かった。


 真夏のパーティーだったが、アパレル業界らしくおしゃれでシックな装いの出席者が多かった。そんな中でも彼はひときわ目立っていた。ブルーグリーンのジャケットに、淡いブルーのシャツ。それに、シャープなシルエットの濃いネイビーのパンツを合わせていて、ブルーのグラデーションでまとめられていた。同系色でまとめすぎると気障なものだが、胸元のアイボリーのチーフが全体の調和を整え、清潔で落ち着いた雰囲気を醸し出していた。


 その後の二次会のワインバーで、彼はあたしの隣に座り、二時間をほぼ二人だけで話し込んだ。好みの映画や本、お酒の趣味などが驚くほどに一致したのが印象的だった。三次会は、二人だけでホテルのスカイラウンジへとすすんだ。あとはお決まりのパターンで、その夜は二人でホテルに泊ったのだった。


 ある時、なぜあたしに声をかけてきたのかを聞いたことがあった。すると、彼は笑って「別れた先妻に似ているから」と言っていた。でも、そんなのウソに決まっている。


 それ以来、月に一度か二度の割合で密会を重ねている。文字通り、密会という言葉がふさわしいだろう。円山町の暗いホテルの一室で、肌を重ねるだけの関係なのだから…。いつもここで会うのには理由がある。お互いの家からほどよく離れていて、それぞれの会社の同僚に会う可能性も少ないからだ。


 光の全く入らない室内で交わっていると、そのことだけに集中できるからあたしは好きだ。二人の中途半端な関係や、先のない未来の事など、面倒くさいことは何も考える必要がない。現実逃避ということはよく分かっている。でも、やめられないのだ。


 列車が発車するまでのわずかな間、そんなことを考えていると、ぼんやりと眠けが襲ってきた。心地良く疲れた頭で車内を見回すと、あたしの正面の席に小さな女の子が腰掛けるのが見えた。まだ三、四歳だろうか。お手製らしい赤いワンピースがとてもよく似合っている。あたしと目が合うと、にっこりと素敵な笑顔を返してくれた。不思議なことに、保護者らしき連れの姿は見当たらない。この娘一人だけで乗っているのかしら…。疑問に思いながらも、頭を休めるつもりで少しだけ目をつむった。昼間の慌ただしい仕事の疲れが、全身にけだるく残っているのが感じられた。


 乗客が混み始めてきた車内は少しずつ賑やかになってきた。人々の話すざわざわという話し声が耳に心地良く響く。これから過ごすはずの、楽しくも後ろめたい事への予感が、疲れたあたしの体をリラックスさせてくれた。


***************************************************************


「まもなく~神泉~」というアナウンスの声で、慌ててあたしは目を開けた。いつの間にか、うたた寝をしてしまったようだ。

 まだ眠い頭を軽く振りながら、あたしは席を立ち出口のドアへと向かう。列車はゆっくりと音を立てて止まった。いつもと同じように、改札に程近いドアが開くのを待つが、いつまで経っても開く気配はない。反対側のドアが開いたのかと思い、振り返るが、やはりそちらも閉まったままだ。


 不審に思い、車内を見渡すが、すべてのドアが閉まったままだった。それどころか、あたしが乗っている車両には、乗客が一人もいないことにその時初めて気が付く。あれだけたくさん乗り込んできた人たちは、一体どこへ行ってしまったのだろうか。あたしの正面に座った、赤い服の女の子の姿も見当たらなかった。車両すべての乗客が、わずか一駅の間にいなくなってしまうなんていう事が起こりうるのだろうか。


 ゾワッと私の背筋が凍りつく。間違いない。あたしの周囲で何かが起こっている。そう確信する。車内には、現実的でないひどく乾いた空気の匂いが感じられた。


 あたしは今いるドアに両手をかけ、顔を近づけてガラス戸の向こう側を覗き込んだ。そこには駅はなく、外は真っ暗なトンネルだった。隣のドアまで行ってみたが、同じことだった。次のドア、次のドアへと同じ事を繰り返す。そして、車両の一番後ろのドアの外に何か白いものが、浮き上がっているのが見えた。


 そちらに近づき、顔を寄せてみると、ガラスから透けて見えるトンネルの壁に『ここではドアがあきません』と書かれた張り紙が目に入った。向かい側のドアに走りよると、そこにも同じものが貼ってあるのが見えた。『ここではドアがあきません』と…。


 あたしは隣の車両に移動した。やはり乗客の気配は感じられない。ドアもすべて閉まっている。手近なドアに近寄って外を見ると、やはり先程と同じ張り紙が貼ってあった。どのドアへ行っても同じことだった。開いたドアはひとつもなく、同じ文面の張り紙だけが、ドアの外にぼんやりと浮き上がっていた。

『ここではドアがあきません』

『ここではドアがあきません』と…。


***************************************************************


 いくら思い返してみても、そこからの記憶はない。次の瞬間、目の前がブラックアウトして、あたしの意識は急激に現実から遠ざかっていった。いや、非現実からだろうか。


 次に意識が戻ったのは、駅員室と思しき部屋の中だった。あたしは長椅子に横たわり、二十代の若い駅員と五十を越えた駅長と思われる服装の二人が、私の顔を覗き込んでいた。額には、よく冷やされたハンカチが当てられていた。

「大丈夫ですか?」初めに声をかけてきたのは、若い駅員だった。

「いったい何があったんですか?」あたしは思わず訊き返す。先程の記憶から、事故か何かに巻き込まれたのではと思ったのだ。


「先程到着した列車の扉付近で、女性が突然倒れこんだとの通報があったので、ひとまずこちらに運ばせていただいたのです。もしまだお加減がすぐれないようであれば、病院への配車を手配致しますが、ご気分はいかがですか?」駅長らしき年配の男が答えた。あたしが何も答えずにいると、彼はさらに話を続けた。


「お名前は、加瀬鏡子さまでお間違いはございませんか?失礼ですが、お鞄の中にあった免許証を拝見させていただきました。緊急の事態が生じる場合もあると判断いたしましたものですから…。意識を失う前後でご記憶になっていることは何かございますか?」落ち着いた口調で、彼は尋ねた。


 あたしは、若い駅員に差し出された水を受け取り、その冷たさを味わいながら一口飲んだ。そして、自分の身の上に起った事を、記憶を確かめるようにしながら話した。

 駅到着のアナウンスの後に列車が止まったが、ドアが開かなかったこと。そこに駅はなく、真っ暗なトンネルだったこと。乗客や乗務員の気配がまるでなかったこと。『ここではドアがあきません』という張り紙が見えたこと…。


 話せば話すほど、自分でも夢を見ていたのではないかと思えてくる。実際に若い駅員は、私が酔っていると疑っているのか、しきりに鼻を利かせていた。でも、それは確かに現実に起こったことのはずだ。あたしはあの車両の、ひんやりと乾いた空気の感覚をまだしっかりと覚えている。


 すると、それまであたしの話を黙って聞いていた年配の駅員が、ゆっくりと口を開いた。

「そうですか。とても不思議なお話ですね。しかしおそらく、お客さまは何かまぼろしをご覧になったのでしょう。

 私はこちらの神泉駅の駅長をしております和久井と申します。確かにここ神泉では、以前は列車が到着しても開かない扉というものが存在しました」

「開かない扉があった?」やはり彼は駅長だったのだ。和久井氏の話を聞きながら、あたしは尋ねた。


「そうです。そもそもこの駅はトンネル駅なのです。渋谷という土地は文字通り、谷のようにすり鉢状になっていまして、例えるなら蟻地獄の穴のような状態です。ですから、井の頭線を開通する時に、渋谷との間にまたがる土地を無理やり掘って作ったのが、この神泉という駅なのです。その関係で以前はホームの長さは、運行する全車両分もなく、やむなく一部の車両の扉を閉めてホームに通じる部分だけの扉を開けて運行していました。そして、閉められた扉の外には、『ここではドアがあきません』という張り紙をしていたのです」


「けれど、今はそうではないということですか?」あたしは訊いた。

「そうです。駅舎改良に伴い、ホームを延長したのです。ですから、現在はすべての扉が開きます。そういうことですので、もう開かない扉というものは存在しないのです。トンネル内のその張り紙も、すべて撤去されました。加瀬様がご覧になったという張り紙は、現在は存在しないはずの物なのです。

 失礼ですが、以前にも同じような経験をなさったことはございませんか?あるいは、電車に乗る前に風邪薬か何かを飲んでいらっしゃいませんでしたか?」


 温和な口調ながらも、鋭い眼差しであたしの瞳をじっと見つめて、和久井氏は尋ねた。あたしは目をつぶり、静かに呼吸を整えた。それから、彼の目をしっかりと見つめながら答えた。

「いいえ、こういったことは今まで経験したことはありません。今回が初めてですし、心療内科などの通院歴もありません。それに、この一年近くは薬と名のつくものは飲んだこともありません。ですから、精神的なものでも薬によるものでもないと思います。そういったことをご心配されているのであればですけれど…。

恐らくは、夢でも見たのでしょう。疲れてうとうとしていたのだと思います。大変お騒がせしました」


 そう言いながら、自分の身になぜこのような現象が起ったのか、その理由があたしには分かったような気がした。そして、そう気づいた以上、もうここにいる意味もないと感じた。それまで腰掛けていた長椅子から、あたしは静かに立ち上がった。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。でも、もう大丈夫です。幸い怪我もありませんし、病院に行く必要もないと思います。この後の予定もありますので、これで失礼させていただきます」

「本当に大丈夫ですか?万が一ということもありますから、形だけでも病院で検査された方がいいんじゃありませんか?それに一応こういった場合は、書類を作成する決まりなんですが…。」


 若い駅員が呼びかける声を無視して、あたしは出口のドアへと向かい、その扉を開ける。


 狭い階段を上って地上に出ると、まもなく闇に染まりゆこうとする外気が、あたしの頬に触れた。夏の終わり特有のはかない暑さが、街にはまだわずかに残っていた。

 それからあたしは、いつも向かうホテルとは反対の道を歩き出す。一歩一歩踏み出される自分の足取りを確かめながら、あたしは思う。開かないドアがあたしの前に現れることは、もう二度とないだろう。






------------------------------------------------------------------------------------------------



神泉駅


 相対式ホーム二面二線を有する地上駅で橋上駅舎を持つ。駅本体のほとんどがトンネル内にあるため、地下駅の趣がある。かつてはホーム有効長が十八メートル車三両分しかなく、吉祥寺寄りの二両はドア締切り扱いが行われていた。それ以前には一部列車の通過措置をとっていた時期があった。その後、二十メートル車である一〇〇〇系電車の営業運転を開始する前にトンネル拡幅によるホーム延伸を行い、全車ドアが開くようになった。ドア締切り扱いが行われていた時代には、トンネル内のドア前にあたる箇所に「ここではドアがあきません」の文字があった。



------------------------------------------------------------------------------------------------



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る