井の頭Lovers

金崎 なお

第1話 渋谷-八月  井上 春菜

 日曜日の夕刻、マークシティのホテルのラウンジは、カップルや家族連れの客で混み合っていた。遮光ガラスのおかげで、八月の日差しはここまでは差し込んでこないが、外の暑さの名残りが人々の顔にぼんやりと漂っていた。最近お気に入りのバラのハーブティーを注文してから、ふと辺りを見回してみる。その途端、何人もの男性が一斉に私の顔から目をそらした。

また見られていた…。もう慣れっこになってしまったが、やはり少し緊張する。常に見られているという感覚は、それを経験した人でないと分からない事のひとつだろう。芸能人という訳でもないのに注目を浴びてしまうのは、私の顔立ちのせいだ。

美しすぎるのだ。

別に自慢しているわけではない。事実なのだからしょうがない。それに今日は、大事な人に会うために、持っている服の中でも私に一番似合うスカイブルーのワンピースを着てきた。二時間かけてメイクとネイルも施したし、ヘアサロンで髪のセットもしてきた。だから、否が応でも目立つのだ。

 お茶が来るまでの間を利用して、席を立って化粧室へと向かう。暑い中を歩いてきたせいで、ファンデーションが汗で流れ落ちそうになっている。鏡を見ながら丁寧にパフで顔を整え、ついでに口紅も引き直す。

 席へ戻ると、注文したお茶を若いウェイターがちょうど運んできたところだった。私は、彼に向ってニッコリと微笑みかける。まだ新人だろうか。やや緊張気味だった彼は、さらにもう一段階、緊張の度合いを増した様子だ。小刻みに震える手でカップとソーサーをテーブルに置くと、何も言わずに足早に立ち去ってしまった。可愛いものだ。ついからかいたくなってしまう。

 自分が注目されているという事実に慣れない頃は、私自身も緊張し続けていて、その美しさを持て余し気味だった。でも今は違う。せっかく授かったこの美貌を利用しない手はない。美の魅力を活用しないのは、神の意思にも反することだとさえ最近は思えるようになった。

 今待ち合わせをしている秋本貴志と付き合うことになったのも、この容姿によるところが大きいと思っている。ハーブティーが冷めないうちにバラの香りを楽しみながら、彼との出会いを思い返してみる。


    ***************************************************************


 彼は私の勤めている総合商社の先輩社員で、新エネルギー開発事業部に属している。新エネルギー開発事業部というのは、太陽光や風力、地熱などの次世代エネルギーの開発、普及に携わっているセクションだ。未来のエネルギー問題を担っているという意味でも、社内の花形部署と言えるだろう。その部署の中でも彼は成績優秀で、家柄、学歴、顔立ち、服のセンスとどれを取っても申し分ない。まさにエリートを絵にかいたような男だ。もちろん女子社員の人気も高い。そんな彼が声をかけてきたのは、私が入社して半年たった頃、今から二年ほど前の秋のことだった。

 

 主要部署を短いサイクルで経験する、慌ただしい新入社員研修が終わり、当時私は本社の総合受付に配属されていた。初めての正式な配属先という事もあり、覚える事が一杯で、緊張する日々が続いていたのを覚えている。総合受付は、自社ビル一階のエレベーターホール前にあり、社内外からの問い合わせ、社員とのアポイントメントの取り次ぎ、周辺地理の案内などを行なっていた。一日に案内する件数は数十件を超えていたろう。そして、その日の仕事がようやく終わりかけた、五時十五分前に私の所にやって来たのが秋本貴志だった。

 彼は、少し困った顔でこんな相談を切り出したのだ。

「君、悪いんだけどちょっと頼まれてくれないかな。実は急な接待が入って、今日これからお客様をどこかそれ相応のお店に連れて行かなければならないんだ。どこかいいお店を探すなんてことは、この受付でできるだろうか?」

私は大丈夫と笑顔で答え、飲食店ファイルに手を伸ばした。社外のお客様におすすめのお店を尋ねられることが多いので、受付ではジャンルごとにファイリングされた店舗情報が用意されていた。そのファイルを引っ張り出しながら、私は尋ねた。

「和食がいいですか? それともフレンチやイタリアンですか?」

「それが、和食が食べたいと言っているんだが、お客様というのがあそこに座っている彼らなんだよ。だから、イスラム教の食事制限に沿ったお店でないとまずいんだ」

 彼が目で示した方向をみると、アラブ特有の真っ白いガウンをすっぽりと着て、立派なあごひげをたくわえた男性が五人、ロビーにある革張りのソファーに腰かけていた。傍らには、年配の日本人が笑顔で対応していた。彼の上司のようだ。


 話を聞いてみると、彼らはサウジアラビアにあるエネルギー開発企業の役員だそうだ。実際は三日後に来日する予定だったのだが、何の連絡もなく日程を繰り上げて来たのだという。今日の昼過ぎに成田に降り立って、自分たちでここまでやってきたそうだ。

あらかじめ予約していた接待の場所は、今日は席が空いていないと断られたという。だから、どこか別に適当な場所を見つけなくてはならないのだ。それも今すぐに。

 厳格なイスラム教徒は、豚肉を不浄のものとして食べないことはよく知られているが、他の肉でも殺す前に祈りを捧げるなど、ハラールと呼ばれるきちんとした手順で処理されたものでなければ、食べてはいけない決まりになっている。私は、手持ちのファイルでは役に立たないと判断し、すぐにネット端末をたたいて情報を調べはじめた。

 イスラムの宗教的にコレクトとされている食材で、料理を提供している和食店というのは、都内でも数えるほどしかなかった。さらに、刺身や寿司などの生食は、いくら一般的になったとはいえ、好き嫌いが分かれるので避けたほうがいいだろう。そういった条件に沿うお店を端末に表示されたリストから絞り込んでいった。そして二分ほどで、これはと思うお店を三軒プリントアウトした。

 一つは赤坂にある天ぷら料理のお店。そして、両国の海鮮ちゃんこなべ屋。最後は、比内鶏を使った個室もある渋谷の焼き鳥屋だった。それらの店の資料を彼に渡し、お店を決めてもらえれば、すぐに席の空き状況を調べて予約をする旨を伝えた。

「天ぷら、ちゃんこ、焼き鳥か…。どの店もハラール食材を使っているんだね。 うーん…、君ならどの店にする?」

 彼はリストを見て迷いながら、いたずらっぽく笑って尋ねた。予想以上に早くお店が見つかりそうで、少し余裕が出てきたのかもしれない。

 しかし、彼の笑顔を見ても、私はできるだけ真面目な顔を崩さずに答えた。彼が私を試しているような気がしたからだ。

「そうですね。天ぷらは目の前で揚げるのを見る事ができて、ショー的な要素が強いですね。ですから、外国の方には楽しめるかもしれません。でも、日本に何度も来ている方たちであれば、そういった事は既に経験済みでしょう。ちゃんこなべは、季節的にまだ旬ではない気がします。なので、私だったら焼き鳥を食べてもらいます。アラブにも串焼き料理があるので、日本風串焼きとして焼き鳥を紹介すれば、面白いかもしれません。食文化の違和感をそれほど感じることなく、食べられるという点でもお勧めです」

「焼き鳥か…。分かった。じゃあすまないけど、すぐにそこに予約を入れてくれないか」

 先程の笑顔を引き締め、再び真面目な顔に戻って彼は指示を出した。私はすぐにその店に電話して、彼と上司を含めて七名分の席を予約した。金曜日という事もあり、かなり多くの予約が入っていたようだが、幸いにもまだ満席にはなっていなかった。

「ありがとう。恩にきる。今度食事でもごちそうさせてもらうよ」そう言うと彼は、自分の名刺の裏に携帯の番号を書き込んで私に渡し、私の携帯番号入りの名刺も受け取ったのだった。

 横で一部始終を見ていた受付の先輩は、羨ましそうな、悔しそうな顔で渡された名刺を覗き込んでいた。


 彼から連絡があったのは、翌日の土曜日の朝だった。卵とトーストで簡単な朝食を済ませ、のんびりとカフェオレを飲んでいると、携帯の着信を知らせるメロディが鳴った。なぜか私には、その電話が彼からだという確信があったのを覚えている。

「休みの日に悪いとは思ったんだけど、一言お礼が言いたくてね。昨日のお客様はあの店をとても喜んでくれたよ。すべてハラール食材で調理していて、おまけにアラビア語のメニューまで用意してくれていた。あれは君が手配してくれたのかい?」

深煎りのコーヒーとミルクの香りを楽しみながら、私は嬉しくなって答えた。

「ええ、少しでもお役にたてればと思って…。ネットに載っていたあのお店のおすすめメニューをウェブ翻訳して、お店にファックスさせていただいたの」

「助かったよ。先方のお店のスタッフもありがたいと喜んでいたくらいだよ。それで、ぜひ約束の食事のお礼をしたいと思ってね。急なんだけど、今日これからの予定はある?」

 彼の積極的なアプローチに少し戸惑いながらも、私は悪い気はしなかった。約束をすぐに実行しようという真摯な態度にも好感が持てた。

「予定はないわ。今日は何をしようかしらって、コーヒーを飲みながら考えていたところ。でも、こんな朝からごちそうしてくれるの?それにもう、朝ごはんなら食べ終わったところよ。」

 そう答えると、彼は笑いながら受話器の向こうからデートに誘ってきた。

「ドライブにでも行かないかい?こんなに天気のいい日に、外に出ないなんてもったいないよ。」

 その日は、秋とはいえ朝から暑さが残る陽気だった。私は、日焼け止めファンデーションをしっかりと首の根元まで塗り、急いで身支度を整えた。白いブラウスに濃い茶色のスカートを合わせ、つばが広めのストロー素材の帽子もかぶっていくことにした。

三十分ほどで、彼の車が到着した。銀のプリウスだった。さすが新エネルギー開発事業部に所属しているだけのことはある。

「三軒茶屋に住んでいるなんて奇遇だね。僕の妹の学校はこのすぐ近くなんだよ」

 私を車にエスコートしてくれながら、彼が言った。どこに行くのかと尋ねると、軽井沢だと言う。なんでも、彼お気に入りのカレーを食べさせてくれるお店が、軽井沢にあるらしい。首都高から関越自動車道に乗り換え、三時間ちょっとのドライブを私たちは楽しんだ。

 彼は現在、駒沢にあるマンションに一人で住んでいるのだという。実家は吉祥寺で、そこには父親と義理のお母さん、そして、妹さんが住んでいるのだそうだ。趣味は乗馬で、大学時代には全国大会にも出場したということだ。軽井沢には父親の別荘があって、小さな頃には家族でよく行ったことなどを話してくれた。

 どちらかというと、彼のほうがたくさん話していた。会社で会っていたとはいえ、プライベートでは初対面なので、私が緊張していたせいもあるだろう。それに、もともと私は口下手な方なのだ。会社では、てきぱきとしているし、どちらかというと早口で話すタイプなのだが、プライベートとなるとなぜか頭の中で言葉がうまくまとまらない。だから、いつも会話が途切れ途切れになってしまう。人見知りをする性格だからかもしれない。

 でも彼は、私がうまく話せない時でも辛抱強く笑顔で聞いてくれた。的確に相槌を打ち、分かりづらい部分には質問をして、話の輪郭をはっきりさせてくれた。彼の質問に答えているだけで、自分が何を一番話したいのかが明確になる気がした。

 どうして、そんなに聞き上手なのかと尋ねると、中学生から入った全寮制の学校の授業で習ったのだという。

「その学校では、授業の中で表現力のレッスンがあったんだよ。そこでは、ディベート形式で、自分の主張をいかに分かりやすく相手に伝え、どうすれば多くの人の支持を得られるのかを勉強したんだ。その当時はみんな、その授業を言葉遊びやゲームみたいに思っていて、夢中で相手を打ち負かすことばかりを考えていたけどね…。

 でも、今考えるとその時の経験は、対人関係のコミュニケーションや仕事のプレゼンテーションをする時にとても役に立っている気がする」

 その学校は一般的には、超一流の私立校として知られている。だが、それを自慢する訳でもなく、そこで学んだ事をどうすれば、社会や他人のために役立てられるかを考えているような気がして私は感心した。

そんな彼のおかげで、やや緊張気味だった私もリラックスでき、お店に着く頃には、少しずつだが打ち解けて話せるようになっていた。たくさん会話したせいもあり、二人ともおなかがペコペコだった。


 カレーは想像していたほど辛くはなく、食べやすかった。隠し味にりんごをすりおろしているせいか、さわやかな酸味と甘さが口の中に広がって飽きない味だった。

「昔は夏休みになると、家族で軽井沢の別荘に来て夏中を過ごしたんだよ。僕はその当時からここのカレーが大好きで、子供の頃は両親にせがんで本当によく食べに来たんだ。だから、カレーというと自然とここの味を思い出すんだ。辛い本格カレーも好きだけど、ここのは毎日食べても食べ飽きないんだよ。実際ある年には、ほぼ毎日食べに来ていたくらいだよ。ねえ、そうだったよね。」と、彼は厨房にいるお店の主人に尋ねた。もう八十近いだろうか。白髪の主人は、先程から私たちの食べる様子を見ながら、話をじっと聞いていた。彼から尋ねられると、優しそうな笑みを浮かべて、黙ってうなずいた。

 しばらくすると、お店が混み合ってきたので、私たちは主人に挨拶をしてお店を出た。そして、彼と二人で、秋がはじまったばかりの軽井沢の木々の中をゆっくりと散策した。


    ***************************************************************


 そんな風にして彼との交際は始まった。もう二年になる。そして二年という期間は、そろそろお互い将来のことを意識し始める時期でもある。彼は二八歳、私は二五歳。結婚するにも申し分ない年齢だ。そして今日、彼から大事な話があるという連絡があった。待ち合わせに指定してきたのは、渋谷のシティホテルのラウンジだ。これは期待するなというほうが無理な話ではないだろうか。でも、そう思いながらも私の心に一抹の不安と、慙愧の思いがよぎる。彼はもしかしたら、別れ話を持ち出すつもりなのかもしれない。私に見切りをつけたのかもしれない。そう考え始めると、思い当たることが次々と湧き上がってくる気がして、思わず私は思考をシャットアウトする。こればかりは考えても仕方がない。結婚するかしないかは、彼が決めることだ。ありのままの私を見てもらった上で、判断をゆだねるしかない。


 午後五時の約束の時間を、五分過ぎた頃に彼が現れた。時間に正確な彼にしては、珍しいことだ。

「ごめん、ごめん。仕事の整理が追いつかなくてね。遅くなってしまって…」

日曜まで仕事をしているというのも、彼らしくない。仕事は家まで持ち込まず、仕事とプライベートを両立させるというのが彼のスタイルだからだ。もちろん、仕事を手早くこなす実力があるからこそできる話なのだが…。

「珍しいわね。日曜日まで仕事なんて…」

「うん、ちょっと事情があってね。今日来てもらったのは、そのことも関係しているんだよ」

「仕事の話なの?」

「いや、そういうわけじゃないんだ。後で詳しく話すよ。まずは冷たいものを飲ませてもらっていいかな。のどがカラカラなんだよ」

 そう言って彼は、先程のウェイターを呼ぶとアイスティーを注文した。

「うんと冷えたやつをミルクもレモンも抜きでね。」

 ウェイターに微笑みかけると、彼も笑顔で足早に厨房に消えていった。そんな姿を見ていると、彼には生まれついて人を喜ばせる才能があるように思えてしまう。つい私まで笑顔になる。

 アイスティーが来るまでの間、彼は私の髪型が変わっていることに気づき、とても良く似合っていると言ってくれた。そういう変化にもちゃんと気づいてくれるから、ついつい私も気持ち良くなってしまう。待ち合わせの時間まで用事がなかったので、美容室に行ってきた事と、そこで勧められたヘアスタイルに勇気を出して挑戦してみた事を話す。

 アイスティーが運ばれてくると、彼は一気にそれを飲んでしまった。余程のどが渇いていたようだ。最後の一滴まで残らず飲み干すと、人心地がついた顔で彼はふぅーと一息ついた。

それから、彼はおもむろに話し始めた。

「さて、急な話なんだけど、実はニューヨークへの駐在が決まったんだ。」

 明日の天気の話をするような顔で、こともなげに彼は言った。

「もともと海外赴任は希望していたことだからね。しかもニューヨーク支社といえば、戦略上も重要な部署だ。喜んで引き受けたんだよ。」

 彼はそこで言葉を切ったが、私は何も言えない。もちろん彼の業績のためには、とても喜ばしいことだ。でも、突然すぎる。やっとの思いで祝福するのが精一杯だった。

「おめでとう…。でもいつ決まったの?」

「おととい内示があったんだ。正式な発表は来月になるだろうから、このことはまだ黙っておいてくれよ。赴任は、来年の一月からになるね。これから忙しくなるよ。」

「そうね。本当によかったわね。ニューヨーク支社といえば、本当に重要なセクションだものね。向こうでの生活も楽しみでしょうね。」

「春菜、君も行くんだよ。」

 彼はいたずらっぽく笑っていった。

「え…」私は言葉に詰まる。

「先程、君のご両親にもお話してきたんだ。あとは君の返事を待つだけなんだよ。

 僕と一緒にニューヨークへ行ってくれないか?」

 そう言うと、彼はポケットから小箱を取り出して静かに開けた。中には、大ぶりのダイヤモンドのリングが光り輝いていた。

 彼の無邪気さが、私を混乱させた。あまりに唐突すぎる。思わず涙がにじみ出てきて、両手で顔を覆う。

「嫌なのかい?」

 心配そうな声で彼が尋ねた。

「そうじゃないの。あんまり嬉しくて…」

 私は必死で涙をこらえ、真顔になってから彼の目をじっと見つめる。

 ようやく夏の暑い日差しも弱まり、夕日がラウンジの中を照らし始めていた。混み合っていた店内も落ち着き、ホテル本来の静かで穏やかな雰囲気を取り戻しつつあった。人々の話す声も、これから迫る夜を意識して、ゆっくりと落ち着いた様子になっていた。そんな静寂を意識しながら、私は自分が緊張し始めるのを感じる。それから、ゆっくりと口を開いた。

「とてもありがたいお話だけど、お返事をする前にお話ししなければならないことがあります」

 改まった口調でそう言うと、私は背筋を伸ばして覚悟を決める。判断するのは彼だ。そして、その結果がどうであろうと、私はそれを受け入れなければならない。

「私には、あなたにまだ話していないことがあるの」

「何だい、改まって?」彼が無邪気な笑顔のまま尋ねた。

 一瞬、私は「冗談よ。」といってはぐらかしてしまいたい衝動に駆られるが、どうにかそれを押しとどめる。きちんと話さなければ…。それが彼の真摯な対応に対する私の義務だ。

 無性にのどが渇いた。もう氷が溶けて、汗をかいた水の入ったグラスを口に運ぶ。二口飲んでから、私は小さく深呼吸をして話し始める。

「--実は、私のこの顔は作り物なの…。つまり、生まれついての顔ではないの…。大学三年の時に、私は美容整形の手術をして顔を変えたの」

 一気に言ってしまってから、彼の表情を見る。でも、何を考えているのかは、私にはうかがい知ることができない。私はかまわず話を続ける。もう話し続けるしかなかった。

「大学二年生のときにひどい失恋をして、何もかも嫌になってしまったのね。しかも、ふられた原因が、私の顔がどうしても好きになれないって言われたものだから…。

 それで、思い余って手術をしたのよ。今思えば、間違った選択だったかもしれない。でももう手遅れね。この新しい顔で、散々いい思いをしてしまったんだから」

 そう自嘲気味に話すと、私は彼の目を見て微笑もうとする。でも、今まで自然に動かすことができた筋肉が急に作り物の感覚になり、うまく笑うことができない。

「整形した顔だから私と別れたいと言っても、私はあなたを責めたりなんてしないから大丈夫よ。悪いのは今まで黙っていた私のほうなんだから。あなたを騙していたわけだから」

 張り詰めた空気が、二人の間に流れた。私の顔には細かい汗がにじみ出し、エアコンの冷たい風がそれを凍らせた。しかし、顔は凍えつきながらも、後悔と恥辱とで私の体の中心は次第に火照っていくのが感じられた。

 「--君は別れたいのかい?」

 それまで黙って私の言葉を聞いていた彼は、思いのほか明るく、そして軽い口調で尋ねた。

 私は、彼が何を言おうとしているのかが理解できなかった。だからじっと黙っていた。

「どうなんだい?君は僕と別れたいと考えているのかい?」

 聞こえていないと思ったのか、彼がもう一度尋ねた。

「そんな訳ないわ。ただ、事実を知ったことで、あなたに無理をしてほしくないだけ…。私の本当の顔を見たいというなら、見せてあげるわ。それを見た上で判断してほしいの。正直今の顔とは全然違うから、幻滅するかもしれない。でも、そんな理由で別れるのは誠実でないという偽善的な思いで付き合って欲しくないの。そんな関係には、必ずどこかで無理が生じる。そして、無理な関係というものは必ずいつか破綻する運命だと思うの。私が言っているのはそういうことなのよ」

「--知ってたよ」


 一瞬時間が止まる。


「えっ」


「顔のことは知ってたよ」

「いつ知ったの?」震える声で私は尋ねた。

「君のご両親のところに二回目に遊びに行った時だったかな。君が席を外している時にね、『時間のある時に一度話ができないか』とお父さまに言われたんだよ。そしてその次の日、会社が終わった後に、近くの喫茶店でご両親と再度お会いしたんだ。そこで君の手術の事を聞いた。ひどい失恋で自暴自棄になっていたことや、君が顔を変えることで生きる希望が湧いてくるならと、ご両親も同意して手術を受けたことをね。そして、それからの君は見違えるように明るくなったので、ご両親は心底安心したそうだよ。でも、君に交際相手が実際にできてみると、相手が手術のことを知った時にどう反応するかが、とても心配だったと言っていたよ。もし、最悪の結果になったら、今度こそ君が立ち直れないんじゃないかとご両親は案じていたんだ。だからもし、この話を聞いて付き合う気持ちに少しでも迷いが生じたのであれば、何も言わずに君の前から姿を消して欲しいと言われたよ。もちろん手術のことを聞いたとは君に告げずにね。正直僕は驚いたよ。手術のことにもだけど、それ以上に、ここまで娘のことを思っているご両親のお人柄にね。だから、この人たちの娘ならば大丈夫だと僕は思ったんだ」

「でも…」その次の言葉が出てこない。

「君の昔の写真も見せてもらったよ。今の君の顔もきれいで素敵だけど、それとは違った意味で僕の心を打った。なんというか…、こんなことを言うと失礼かもしれないけど、なぜだか懐かしい気持ちになる笑顔だった」

 思わず私は赤くなる。そして彼は、テーブル近くに来たウェイターにアイスティーのお代わりを頼むと、私にも何かいるかと尋ねた。私は黙って首を振る。三分ほど二人とも何も言わずに沈黙が続いた。


「このビルに入っている井の頭線渋谷駅の以前の姿を知っているかい?」

 二杯目のアイスティーが運ばれて来ると、唐突に彼は関係のない事を話しはじめた。いぶかしげに思いながらも、私は知らないとかぶりを振る。

「今の駅はすっかり建物の中に入ってしまって、外の景色はわずかに残された小さな窓からしか見えないけど、昔は違ったんだ。改修前の渋谷駅は今よりもう少しハチ公寄りにあって、ホームからは大通りがしっかりと見渡せた。学生時代、列車が来るまで待っている間、僕はよく夕暮れの街並みをそのホームから眺めるのが好きだったんだ。そこから眺めていると、不思議なことに家路に着く人がみな微笑んで見え、道を走る車さえも夕日に染まって優しく見えた。

 うまく言えないけど、君の写真から感じたのはそんな印象なんだよ。すべてを優しく照らし、包み込んでくれる。実を言うと、ご両親に無理にお願いして一枚譲ってもらったんだよ。ほら」

 そう言うと、彼はパスケースの奥のほうから写真を一枚抜き取って、私に見せてくれた。

 そこには、昔の私がカメラのレンズを見つめ、はにかみながら微笑んでいる姿が写っていた。髪は今よりもだいぶ短く、化粧もほとんどしていない。眼鏡の奥からのぞく目は一重で、大きな丸鼻の下にはあごが軽く突き出ているのが見て取れる。久しぶりに見る自分の姿に、正直私は戸惑う。しかし、じっと見ていると、しだいに懐かしさが込み上げてくる。その顔に浮かんでいる表情は、紛れもなく本物の笑顔だった。鏡を見て、研究し尽くした二十パターンの笑顔にはない温かみがあった。私は、彼女の事がとても愛しく感じられた。以前はあれほど嫌っていた顔立ちだったというのに。


「ねえ、お腹がすかないか?これからご飯でも食べに行かない?」

 私の戸惑いを打ち破るように、屈託のない声で貴志が話しかけてきた。

「何が食べたいの?」

 流れ落ちそうになる温かい涙をこらえながら、私は尋ねる。

「焼き鳥はどう?実を言うと、今日は朝から無性に焼き鳥が食べたくてしょうがないんだよ。そういうことってあるだろう?」子供っぽい彼の言葉に、思わず私は微笑みながら答える。

「いいわよ。あなたとデートするきっかけになった、あの比内鶏の焼き鳥屋さんがこの少し先にあるけど、そこはどう?」

「いや、そうじゃないんだ」彼は私の提案にかぶりを振ると、何かを思い浮かべるように天井のほうに視線を向けてから語り始めた。

「今日僕が行きたいのはね、そういう高級なところと言うよりも、もうちょっと違う雰囲気のお店なんだよ。店内は煙たくて、店員さんの威勢がよい。炭火でジュッと良く焼いたのをカウンター越しにサッと出してくれるようなお店。気取った感じがなくて、素朴で温かみのある店がいいんだよ」

 私は、彼が行きたがっているお店というのを頭の中で想像してみる。そして、彼がなぜそういうお店に行きたがっているのかを理解しようと努める。

「いいわよ、ジュッと焼いてサッと出す、そういうお店に行きましょう」私はよく考えてから答えを出す。何かが私の頭の中でふっ切れた気がする。

「良かった。君がそういうお店を嫌がらないかどうか心配だったんだ。実はこの近くに僕の行きつけの店があってね、そこにしよう」

 私は笑顔でうなずくと、椅子から立ち上がり、彼の後ろに続く。そして、バッグを持っていない方の手で、そっと彼の手のひらを握る。今日からは作り物でない、本物の笑顔を見せられそうな予感を感じながら。






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渋谷駅


 渋谷マークシティの二階に乗り場があり、頭端式ホーム二面二線の高架駅となっている。同施設が建設される前は上屋だけの駅で、銀座線の車庫やバス(それ以前は東急玉川線の電車)も見えたが、建設後は駅が〇.一キロメートル西方へ移動し、ビル内に覆われてそれらは見えなくなってしまった。現在は、二番線ホームの小さなガラス窓の窓越しからわずかに外の景色が望めるのみである。




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