第2話 それは世界の瓦礫の中か

シンポジウムのため地方の複合施設へ訪れた大学准教授の菱田は、遭遇した不可思議を棚に上げ、悠長にタバコを楽しんでいた。

 「先生、おいしいですか?」「そうだね、悪くはない。ブラックコーヒーがないから、こちらの手がヒマそうだけどね」「私はミルクと砂糖の入ったコーヒーが飲みたいです」「へぇ……僕はコーヒーに不純物を入れると、お腹がごろごろするからね、君は甘いのが好きなんだ」「んふふ、先生かわいいです」

 軽い会話に満足して、特徴的な赤色をボディに灯した愛車のボンネットに腰掛け、大きな瞳を半月にして微笑む。カールを何重にもした、子犬のようなボブカットに、ラフな白いTシャツの首には大きなサングラスがかかっている。ベージュのショートパンツには太めの黒いしっかりとした革のベルトがあり、そこからは凶悪的な若さを主張する白い足。その先にはあつらえの整った黒いサドルシューズがある。バッグも持っていたはずだが、車の後部座席に置いてあるのだろう。

彼女は今年、菱田の大学へ入学してきた生徒で、名前を菱田碧緒衣(りょうでんあおい)という。菱田とは同じ漢字を性で書くが全て音読みである。逆に菱田は全て訓読みになる。彼女に言わせれば、それが運命のパズルだそうだ。

 しかし、菱田にとっては、運命的なパズルよりも必然の流れとして引き合わされた現実がある。以前論文のためのインタヴュを彼女の血縁に申し出た事がある。偶然にも、そこへ碧緒衣が遊びに来ていたのだ。まだ小学生だった彼女に、その記憶はないだろうと、菱田は腕時計を見た。

「ん……試してみるか」

 菱田は何かしらという碧緒衣の好奇心にこたえぬまま、時計のボタンを操作する。

時刻合わせをしてみたのだ――だが、正確無比の電波時計は、ぐるりと12の首を刈るように針を回したあと、迷うことなく、元の位置に戻り、時を刻みはじめた。わずか数秒である。

「どうしたんですか先生、時間なんかあわせて…それ、電波時計でしょう? くるいっこないわ。こぉんな、色とりどり、ふたりきりの世界になったのに、無粋です」

 大げさな手振りのジェスチャを追いかけるが、何が無粋なのか菱田にはわからない。碧緒衣の態度は、これが夢なら夢でも構わないというものだ。嬉しそうに腰掛けたボンネットをゆらしている。都知事の年収にも勝るその車に、そんな事ができるというのは、彼女の類い希な裕福さを物語っている。

 菱田にとって、モノとは研究対象であるが、そのモノに執着があるわけではない。モノは歴史が系譜として保存発展していくものだからだ。それその物のソリッドとしてではなく、歴史というリキッドに意味がある。これが菱田の中にとって、人間と物体との差であった。

「さぁ、これからどうするか……ここで待ってたって、シンポジウムが始まるわけでもないし」

「いいじゃないですか先生、デートです、デート。遊園地だって映画館だって騒がしいくらい……ふたりにはこれくらいがベストです」

 菱田の苦笑いは碧緒衣の笑顔に全て飲まれた。

 打開策を紐解こうとする菱田と、楽しもうとしている碧緒衣。それぞれアプローチは違っていても、今というソリッドな空間を保持しようとしている事に変わりはない。まだ学部生である碧緒衣だが、研究分野に進めば面白いのではないかと、菱田は思っていた。

「おや、先客ですかな……」

 低いジェントルな声が、背中から響いてきた。菱田はこれが夢かと振り返る。

「はい、景色と雰囲気を楽しんでおります、ふたりして」

「ほほう、それはお邪魔でしたな……失敬」

 菱田が言葉を選んでいるその刹那に、碧緒衣は老紳士に挨拶を返していた。この順応こそ若さの早さか、碧緒衣の思考の飛躍かは、まだ判然としない。

「しかし、若いお二人が訪れるような場所でもないでしょう。何か理由が?」

「ええ、実は道に迷いました。私は菱田碧緒衣――あおいは、紺碧のぺき、鈴緒のお、いはコロモです。こちら、私の大学の先生です」

「初めまして、菱田と申します」菱田は碧緒衣に遅れて挨拶をする。

「大学の……フィールドワーク、というわけでもないようですな……おっと、これはいけない、名乗るのが遅れました、私はニビカワと申します」

 ニビカワと名乗った老紳士は、丁寧に腰を折って対応してくれる。

「ニビカワさん、私たちは今日、こちらで催されているシンポジウムへ来たのですが……」

「こちらとは――もしや、後ろのアレですか?」

 ニビカワは菱田らを通り過ぎ、指先を空へ向ける。年の頃なら70に近いだろうか。しかしその指はしわも少なく、とても綺麗だった。

「ええ、そうです……その建物である予定でしたが、ご覧の様子です」

「ふむ……どうも答えるに困りますな。あの建物が使われていたのは、私が産まれる前の事だと聞いております」

「産まれる前、ですか……」菱田はつぶやき、驚きの同意を求め、碧緒衣を見つめるが、交わったあと視線はぐるりと空へ巡った。

「先生……」一巡り旅行を終えた碧緒衣の視線が帰ってきた。「ここは、私たちがいた世界ではないようですね……」納得したという顔で話す。

「考えにくい事だけど……あるいは……」あるいはどうなのだと、菱田は考える。ファンタジックな物語のように、二人して光の道――今回の場合、霧の道を抜けて、別世界に来てしまったのか。はたまた、その道程で事故に遭い死んでしまったのか。その場合、死後の新聞にはどう報道されるのだろう。教え子と大学准教授、禁断の愛の果てか――しかしどちらも独身、取り沙汰されることもなかろう。

 菱田は改めてニビカワの姿を見てみる。言葉は通じる、名前も同じ国の匂いがするものだ。ニビカワの言葉通り、何十年も歳が経過しているとして、言語コミュニケーションで困ることはなさそうだ。

「先生、どうお考えですか? 私は…何でも構いません、お互いを知るものが私と先生だけ……これってちょっとスペシャルですね」

 若さの順応は疑問もロマンチックに隠すようだ。

「スペシャルな体験であることは認めよう。だが……」「あら、ニビカワさんは服装も私たちの文化と代わりありませんし、車を見ても驚きもしません。それは類する物を知っているから、でしょう?」碧緒衣は挨拶のために腰を離したボンネットを、ノックする。よく知る金属とは違う、軽い音が響く。

「知らない事に対して畏怖する人は、知らない振りをするか、それを自分の中から消してしまう……とすれば、菱田さんの言う事も頷ける、か。それに服装はその土地の歴史でもある。戦争などあったとすれば、軍服なりの形式がどこかに残るものだ……そう考えれば、この世界は僕たちの世界とあまり変わらない歴史の流れにあると考える事もできる」そうでしょう、と碧緒衣は、優雅に微笑んだ。

「若いお二人には、秘密の会話もあるようですね……」「これは、失礼を……」「いや、構わんよ。恋人同士の世界は、この歳になれば見ていてほほえましいものです。それに私もあなた方には秘密の対話を行っているところです」恋人同士という部分に当然否定が入るものと、菱田は引いていた。「亡くなった奥さんかしら……」碧緒衣が耳打ちしてくるが、ニビカワの対話相手の事をいっているようだ。

「恋人同士ではなく……ゼミ生というわけでもないので、何と言っていいのか」「なら、恋人同士でも構いませんね、他の方に認識して頂くには、それが簡単です」「だけど……」一歩近づき、むき出しの森の土をサドルシューズが踏みつけた。後を追って、碧緒衣の白い指が羽ばたき、菱田の口にとまった。

「本当の認識は、個人の中でなさればいいものです。ソリッドな者同士が液体的に混じり合うことを望むから、間違うのです」にっこりと碧緒衣は笑ってみせる。菱田は十以上も離れた生徒に、あり方を宣言されたように感じた。齢にして、まだまだであると、嘆息する。

「改めて、申し訳ありませんでした。ニビカワさんはこの辺りの地理に明るいのでしょうか?」菱田は、二人の世界が開くのを待っていてくれた老紳士に向き直る。

「そうだね……詳しくはない。私も訪問者だからね。連れもいるのだが、もっと下のほうで、作業している」ニビカワは指を崖の先へと向けた。

「そうですか……それは残念。ここがどうしてこうなっているのか、あと、車にご飯もあげなくちゃ」「車は生きてないだろう?」「先生、お堅いです……ニビカワさん、この辺りでガソリンを入れる事ができる場所はありますか?」

 ぷぅと頬を膨らませたついでに、碧緒衣は給油ノズルを差し込むジェスチャをしてみせる。

「ガソリン……そんなクラシックカーには見えませんが、それはガソリンで動くのですか?」随分とノスタルジィだと、ニビカワは顎に指をあてている。

「ガソリンが珍しい……じゃあこの世界の車は、既にすべて電力やその他のもので動くのですか?」碧緒衣の問いに、一瞬、ニビカワの表情が止まる。

「この世界、というのは……?」「そ、それは……」口ごもり、どう説明すればと脳の中で、会議を始めた菱田は、言葉に迷う。

「私たち、どうやら道に迷って、別の世界から、来てしまったようです」

 碧緒衣は、そのままの事情を的確に説明して聞かせた。

「ほう……別の世界から、ですか」

 しかし、聞いたニビカワは、それほどの驚きも戸惑いも示さなかった。

「そういうこともあるでしょう」「別の世界からきた……それで納得なされると?」「そういう事もあるかもしれない、この世界では」ニビカワは口元をあげて、甘く微笑む。

「どうして……」差し伸べた菱田の手を、ニビカワの言葉は迎える。


「この世界には、魔法がある」


「はは……魔法、ですか……」菱田の感覚は、複合施設の剥がれたモルタル片が作る、ささやかな瓦礫に埋もれた。



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異世界魔法に論理の槍を 藤和工場 @ariamoon

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