激鬱の始まり

 引越しの日取りが決まった。元妻の退院の次の日に僕の荷物を搬出、その一週間後に元妻の荷物の搬出だ。それだけの仕事を済ますと、元妻は入院した。病名はプライバシーに関わるので伏せておこう。

 僕は文庫本や漫画本を売りに出した。とは言っても、もう元いた店にはいかない。行きたくない。なので、宅配便でやりとりできる業者を選んだ。選んだのは元妻。もう、おんぶに抱っこである。僕のやる気の炎は尽き掛けていた。それを必死にこらえてダンボール詰めをした。ほとんどが本だった。この地でAmazonにて買った商品のほとんどは廃棄になった。返す返すも口惜しい。持ち金の三分の二が灰になって消えるのだ。捨てられる方の身になってみる。人の役に立つ、人を楽しませるために生まれてきたのに、その役目を果たせないまま焼却される。彼らも悔しかろう。その恨みを僕は一身に背負うのだ。心が苦しくなる。切なさを胸に抱いて、僕は荷物を作り、ゴミ出しをした。時間に割と余裕があったので比較的苦労をせずにできた。


 その間に元妻の見舞いにも行った。元妻は比較的元気だった。僕は安心した。彼女に何かあったら、僕は行くところがない。ホームレスにならなくてはいけない。目を閉じればこの寒空の下、ダンボールに身を包んだ僕が見える。震えている。いや凍えている。もはや、この冬を越すことは不可能だろう。現実に立ち返っても体は震えていた。


 元妻は無事に退院した。僕は荷物持ちのために迎えに行った。最初はタクシーを使ってという話だったが、元妻が、歩けるというので、地下鉄とJR、それにバスを乗り継いて帰った。僕はとりあえず言った。

「退院おめでとう」

「あいよ」

「明日の引越し、搬出に付き合ってね」

「ええっ? この体で行かせるの」

「見ているだけでいいから」

「しょうがない」

 もうこの時僕の精神は、知らない人とやりとりなどできなくなっていたのだ。この後、二人は、大好きな大泉洋の出ているドラマの話や長瀬智也主演の『泣くな、はらちゃん』が意外と面白いなどと、たわいもない会話をしていた。何気ない時間がありがたい。


 翌日早朝、二人は僕のアパートまで行った。元妻はしんどそうだった。申し訳ないことをしたなと思った。これなら軽躁状態の方が良かったとさえ思えた。軽躁ならば、一人で引越し業者と応対できる。しかし、フラットを通り越して、気分はどんどん、急降下してきている。躁の後には鬱が来る。躁鬱病、正式名称双極性障害。まさにその名の通りの状態だ。

 早めに来た引越し業者との折衝を元妻に任せて、僕はロフトで引っ越し作業を見つつ、

「この『出入り自由の監獄』からおさらばか」

と感慨に浸っていた。悪い思い出ばかりだったけれど、初めての一人暮らしは、前半は楽しかった。あんなことにならなければ、今後も続いていただろう。でも、運命のいたずらで、今日出て行くことになった。とりあえず、ありがとうと言っとくか。そう考えていると、

「積み終わったよ、荷物」

元妻の声。

「じゃあ、急いで転居先に行かなくちゃ」

 僕は慌てた。バス通りに出る。タクシーは意に反してこなかった。すると、反対車線にタクシーがいる。元妻は素早く歩けない。僕が行くしかない。最後の勇気を持ってタクシーに乗り込み、反対車線に行くようお願いした。これが最後の人との折衝だったかもしれない。

 タクシーに乗り込み転居先まで行き、引越し業者の搬入が終わると、どっと疲れが出た。でも、これをもう一回やらなくてはいけない。元妻の分である。それは一週間後だった。


 それから一週間、僕は新居の片付け、元妻はダンボール詰めをしていた。僕はなんだかやる気が出ずに、ぐずぐずと片付けをしていた。引越ししたというのに、気分が晴れない。これまでしでかした迷惑の数々。警察にまでお世話になってしまったという羞恥心。これからやってくる、鬱。いろいろ考えるがまとまりがつかない。嫌になって、考えるのをやめた。そして横になった。何もかもを眠って忘れようと思った。夢の中では僕は主役でヒーローだ。楽しい夢に心が躍る。夕方目覚めると、ガックリくる。

「夢は夢でしかない」

 そそくさと帰り支度をする。まだここには住めない。元妻が引っ越してきて初めて生活できるようになるのだ。


 ようやく、元妻の引っ越しの日が来た。僕は猫のアビをケージに入れて、新居まで運ぶことと、荷物の置き場所を引っ越し業者に知らせるのが役目だ。とはいえ、置く場所は一ヶ所だけだから特に問題はない。そのうち、元妻が来て、僕は用なしになる。

 僕は、僕の部屋である、畳の部屋で横になった。片付けは全然終わっていない。かろうじて寝るスペースは確保されていた。それから何ヶ月も僕は寝たきりになってしまった。朝起きるのは十時過ぎ、朝飯を食べたら布団へ、三時ごろ目覚めて、何か食べると、元妻が仕事から帰ってくるまで寝ていた。夜も睡眠薬を飲んで熟睡。完全にダメ男である。思考は鈍り、髪はボサボサ、髭ボウボウ。獣のようだった。気分は沈み込み、何もやりたくない。ただ、寝ていたい。そして寝れる。寝ることで、脳が回復を図っているのではないかとも思った。

 体重も百キロに近づいてきた。もう、日の目は見ないなあという思いがますます、気分を下げる。だから寝る。誰も文句を言う人がいないので、こんな生活を続けていた。

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