台風の夜に気が狂う

 十月に入って、毎週クリニックに通うようになった。しかし、リーマスはある一定の血液濃度に達しないと効果が現れないそうで、実際、僕も全然躁状態に変化はなかった。


 その日は日曜日だった。夕方から夜半にかけて、台風が関東地方に接近すると天気予報が伝えていたが、空はまだ晴天で、気分の良くなった僕は、近くの神明社前のバス停まで自転車で行き、アウトドア用の椅子を取り出して座り、iPodを聞いて鼻歌を歌いながら、バスの乗降客を眺めていた。はたから見たら気味が悪かったと思う。


 午後三時を過ぎると雲行きが怪しくなってきたので、アパートに引き上げた。この時はまだ僕の精神は正常だった。四時くらいからはテレビをつけて天気予報を見ていた。そして『笑点』を見ようと思ってチャンネルを変えた。でも別の番組をやっていた。気がつけば、まだ一時間前の四時半だった。この辺りから頭がおかしくなってくる。時計を見るたびに時間が元に戻るのである。さっきは四時五十分だったのに、次に見ると四十五分に戻っている。「なんか変だ」と思って、また時計を見ると五時になっている。「おかしいな」と思ってもう一度見るとまた五十分だ。これで完全に錯乱した。五時半になって『笑点』を見る。ふじいあきらのマジックをやっている。トリックがみんな分かる気がする。大喜利が始まった。なぜか答えが先に分かって、問題が後から出てくる。物事の前後がみんな逆になる。僕はだんだん、気持ち悪くなってくる。それがパニックを引き起こす。僕は完全にいてもたってもいられなくなってくる。だが立っても座っても状態は変わらない。吐き気を催してトイレに行くが吐けない。しょうがないから水を流す。なんと水が流れない。溢れ出しそうになるトイレの水。「なんなんだ」僕は逃げ出した。完全に錯乱する。頭が締め付けられる。パニックが止まらない。ニーチェは最期、狂い死にしたという。そんなことが頭をよぎる。僕も狂い死にするんだと思った。「そうだ」と最後の最後に思い出した。飲み残しのデパスがある。それを二錠飲む。規定値以上だ。けれど、狂った脳を落ち着かせることはできない。僕は布団に必死にしがみついて、あっちの世界に行くのを防ぐ。あっちの世界ってなんだろう。人間の脳はその数パーセントしか活動していない。それが全部活動を始めたら、人間は狂い死にしてしまうという。まさにそんな気分だった。僕はただ思った。

「死にたくない」

 しかし、パニックはどんどんひどくなっていき、僕はとうとう気絶した。


 目覚めると朝だった。台風は去り、かすかな日差しが窓を光らせていた。僕は生きていた。あの猛烈なパニックも去り、正常に戻っている。一体何だったんだろう。冷静に分析してみる。おそらく、台風の強烈な低気圧が脳に、異常をもたらしたのっだろう。時間が、行ったり来たりしたのはたぶん、僕が百円ショップで買った数個のデジタル時計の時間がそれぞれ、まちまちで、それを交互に見たために、混乱したんだろうと思う。。でも『笑点』でふじいあきらのマジックのトリックが見えたり、大喜利の答えと問題が逆になった理由は全く、わからない。やっぱり錯乱していたのだろう。最後、気絶したのはデパスが効いて、眠ってしまっただけだろうと考える。

 トイレに行きたくなった。でもトイレは水があふれて使えない。何かが詰まっているのだろう。僕はどうしていいのか分からず元妻に電話した。そうしたら管理会社に電話してくれるという。しかしそれまでが問題だ。僕は、今になってみると、よく見つからなかったなと思うのだけれど、アパートの裏にある、森で立ちションをした。森は個人の持ち物だ。見つかったら相当怒られたと思う。でも、まだ躁状態の僕にはそういうことができた。怖いもの知らずなのである。


 午後には元妻が来てくれた。そして管理会社委託の修理業者が来てトイレのつまりを直してくれた。原因はよく分からなかった。業者は「何なんだ、何なんだ」と繰り返した。それ以来、僕はトイレのつまりを非常に気にするようになった。便器から溢れそうになる水。すごい恐怖だった。あんな思いは二度としたくない。

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