ようやく精神科に行く

 ある日、郵便ポストを見たら、元の会社から手紙が来ていた。中を開けてみる『あなたの財布が警察署に届いています。至急取りに行ってください』

 と書いてある。まさかねえ、と思ったら財布がどこにもない。僕は慌てて警察署に向かった。だけど不思議。なんで落とした財布のことを元の会社が知っているのだろう? なんで警察は僕の財布には住所の書かれている自動車の免許証が入っているのに連絡して食えないのだろう? この二つは未だ解けない謎である。名探偵さん来て解いて! という感じである。警察に行くと、財布の中には十万円以上入っていたので、横浜銀行に預けた。小切手を発行するのでそれを横浜銀行へ持って行って換金してくださいということだった。先日の事件につき、今回も警察のお世話になるとは思わなかった。それにしても僕は何日間、財布なしで過ごしていたんだろう。今となっては恐ろしい話だが、その時は特に恐怖は感じなかった。躁状態バリバリである。外は暑い。狂気の夏はまだ終わらない。


 さて、精神科クリニックの予約日が来たのだが、どういうわけか、また財布が見つからない。また落としたかな? いや、それはない。相変わらず部屋の床は散らかっており、見つけることができない。ちょうどそこへ、元妻が来た。僕はお願いして、クリニックに「風邪をひいたから予約日を変更してほしい」と電話してもらった。一人だったら、自分で電話したんだけど、元妻がいるとつい甘えてしまう。昔からの悪い癖だ。躁状態なんだから、電話ウェルカムなのになあ。

「来週の水曜日だってよ。私も行くからね」

 と元妻が言う。

「なんで?」

 と聞くと、

「結果が知りたいじゃない。あなたはたぶん躁病よ」

元妻は答えた。

「躁病……まさか。それは違うよ」

 僕は元妻の意見に同意しなかった。病気という感覚がなかったからだ。なんか人生の歯車が狂っただけ。いずれ元にに戻ると思っていた。その点で、元妻の感覚は鋭い。『家庭の医学』を見ただけで、僕の病気を看破してしまうのだから。


 翌週の水曜日、元妻が迎えに来た。僕も財布を探し当てて、出発準備OK。今日は出がけのトラブルはなかった。

 バスに乗って駅まで行き、そこから電車で一駅で、目的の駅に着いた。クリニックまでは歩いて五分くらいだ。途中のシンフォニーホールで小用を足す。(この一文だけで場所がどこかわかる人もいるな)

 クリニックはタワービルの二階にあった。先生は、あの前に通っていた、ペイズリー柄の服を着た強面の男性医師。このクリニックでは半袖の医務服を着ていた。順番が呼ばれるまでかなり待つ。僕はじっとしてられず、貧乏ゆすりを繰り返していた。元妻はどっしり構えて、クリニック備え付けの雑誌を読んでいる。落ち着いたものだ。

 やがて、先生が僕の名前を呼ぶ。その瞬間、先生の顔色が変わったのが分かった。人の顔色が変わるのを僕は初めて見た。それだけ、僕の様相が変化していたのだ。

 先生が聞く前から、僕は今日までに起こった出来事を詳細に話した。それは先生の付け入る隙を与えないほど激しいものだったらしい。僕はいたって普通に話しているつもりだったのだが。

 ようやく、僕が話をやめると、先生はこう言った。

「完全なる、躁病です」

 僕は後ろを振り向いた。元妻が、

「ほら見たことか」

という顔をした。

 至急、テンションを下げ、感情の起伏を抑える治療をしなければならない。ここで、どういう薬が処方されたのか紹介したかったが、資料が残っていないので残念ながらできない。ただし、今も服用している、

『リーマス』

だけは紹介できる。抗躁剤としては、ほぼ、このリーマスが処方されるらしい。あとは抗不安剤と睡眠薬が処方された。(と思う)


 まだ薬を飲んでいないので、僕の気持ちは高め安定だった。二人で高そうな昼食を摂り、電車で元妻のマンションに行った。そこで『家庭の医学』を見せてもらった。まさに僕の今の状況だった。なんで誰も気づいてくれなかったんだ。なんで、一緒に住んでもいない元妻がすぐに看破できるんだ。様々な感情が脳裏に浮かぶ。

 その日、夕食を共にしたかどうかは覚えていない。かつては記憶の良さが売りだった僕が、躁病になってから、記憶が曖昧なことが多い。唯一の利点がなくなってしまったらあとはどうすればいいのだろう。ちょっと不安がよぎる。でもすぐ立ち直る。だって躁病だもん。


 翌日は久しぶりによく寝た。いつもほとんど寝てなかった僕にとっては奇跡に近い。眠れるということは躁状態が落ち着いてきたということだが、一回、薬を飲んだからってガラリと変わるわけではない。僕は一日じゅう家の周りを徘徊していた。事前に用意していたキャットフードを猫多発地域にばらまいて、大勢の猫を呼び集めたり、危険な、けっこう険しい森の山道をずんずん進んで、素っ転び、膝を怪我したりしていた。とにかく気分は最高で清々しかった。

 そしてその頃から自分を神なのではないかと思うようになってきた。

 なんでそうなってしまったかは、次のエピソードでお話ししたい。



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