激躁の日々

 僕のアパートの隣の部屋にTさんという人が住んでいた。僕がまだ正常な時はほとんど交流がなかったのだけれど、病気になって部屋に入ることが多くなると、自然に顔をあわせることが多くなった。初めのうちは、

「最近、僕の部屋がうるさくてごめんね」

と謝っていた。何せ、眠れなくて気分が高揚している。僕はiPodで音楽を聴きながら、それに合わせて大声で歌っていた。その時、ギターのものまねなんかしていたものだからエレキベースを購入したというわけだ。でもなんでベースなんだろ。それが今でも分からない。それはともかく、僕はそのことを謝ったのでけどTさんは、

「そんなことないですよ」

と体に似合わず、少し疳高くて優しい声で言ってくれた。Tさんはまるで鎌倉の大仏のような人だった。読売新聞の配達員をしているらしく、夜中の二時頃、部屋を出て行っていた。僕は、その頃はもう、完全に眠れなくなっており、眠れないことを気にすることもなくなっていた。つまり一日中起きていた。だから彼が出て行くバイクの音が分かる。頑張れよと思った。さて、自分を振り返ると、毎日毎晩、全然眠くないし、全然疲れてもいなかった。昼間は自転車を乗り回して、近所の神社仏閣を巡っていた。僕の住んでいるところは寺や神社が多数あってそれらを見つけることが非常に楽しかった、一種の仏教気違い、神道気違いになっていた。仏像の模型、フィギュアを買い集め、寝床の上に並べていた。中でも一番高価だったのは一万五千円もする不動明王立像だった。僕は毎日線香をあげていた。ただし火はつけずに。だって、さすがの僕も僕の気が狂っていることだけは認識していたんだもの。絶対に火をつけたら火事になると思った。同様の理由で、煙草も吸わなかった。僕はずっと前に喘息で死にそうになったことがあるので、それ以来禁煙していたんだけど、コンビニでレジ前に煙草の新製品が置いてあって、思わずそれとライターを買ってしまった。よっぽど部屋で吸おうかと思ったんだけど、

(絶対、火事出すなあ)

と考え直して、隣のTさん(僕は心でごっつぁんと呼んでいた。昔働いていたところにそっくりな子が居たんだ。その愛称の流用。以後、ごっつぁんと呼ぶことにする)に、

「煙草吸う?」

と聞いたら、

「吸います」

というので、あげた。本当は向かいの豪邸のいつも日向ぼっこしている、おじいさんにあげようと思ったんだけど、そこの家人に気持ち悪がられて断られたので、僕を嫌がらない、ごっつぁんにあげることにしたわけだ。それからも、お菓子やペットボトルのお茶をことあるごとに、ごっつぁんにあげた。お供えみたいなものだ。それくらい、ごっつぁんは優しかった。

 そのごっつあんに何か良いことをしようと思って、ある日僕は、

「新聞とってあげるよ。ただし、読売新聞じゃなくて、神奈川新聞だけど」

とごっつぁんに言った。するとごっつぁんは、社員を連れてくるという。ごっつぁんはアルバイトだったのか。

 やがて、社員を連れて、ごっつぁんが戻ってくる。

「新聞を取ってくださるそうでありがとうございます。読売新聞ではダメなんですね」

 この人はカマさんという。この人も優しい人で、無理強いはしなかった。

「うん、僕ジャイアンツ嫌いだから。ベイスターズのことが載っている神奈川新聞がいいの」

「わかりました。じゃあ形式だけ読売新聞をとったことにしてください。差額はお支払いしますから」

 やっぱり、読売新聞を取らないと成績にならないらしい。僕はごっつあんのために新聞をとるのだから少しくらい妥協しなければいけない。だから承諾した。その後、カマさんとは散歩の途中でよくあった。いろいろ話をしたけれど、今の僕は脳細胞が死んでしまっているので思い出せない。なんか、故郷を捨てたとか言ってたな。人それぞれ悲しみはある。記憶は遠くに行ってしまったが、いい人だったことは覚えている。読売新聞はいい人ばっかりだなあと思ったが、カマさんにそっくりな姿形のオヤジがいて、カマさんによるとおっかない男らしい。たまたま僕はいい人に当たっただけだった。


 こんな話ばかりを書いていると僕の激躁状態は去ったのかと思われそうだが、そうじゃない。ますますひどくなっていく。僕は毎日、散歩に出かけた。場所は市民の森である。森の中に入ると心が少し、落ち着いた。野良猫がたくさんいた。結婚している時は猫を飼っていた。懐かしい。誰かに餌付けされているらしく、ここの野良猫は人懐っこい。撫でさせてくれる。今度は猫の餌を買って持ってこようと思った。しばらく行くと大きな木の枝があった。僕はそれを杖みたいにして歩き出した。自分より背の高い枝である。三国志の武将になった気分だ。そのまま住宅街に出て歩く。周りの人が奇異の目で僕を見る。それでも平気だった。僕はこれから起こるトラブルに立ち向かうかのように闊歩した。

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