激躁深まる
エレキベースを二本買った。それも左利き用だ。僕は左利きなのだ。言っておくが僕はベースギターを弾けない。コードもわからない。教則本も一応買ったけれど。何書いてあるか分からない。付属のDVDを見たけれど何にもわからない。ただ、ガチャガチャと引き廻すだけである。ピックは百枚以上持っている。ピックにも種類があるみたいだが、その区別がつかない。ピックよりハサミを三味線のバチのように弦にぶち当てる方が面白い。
僕は元の勤め先にある公園で、ライブをすることにした。もちろん、ベースギターを弾くことはできない。ここで登場iPad。中にはCDを買いまくって集めた四千六百曲。そのうちの何曲かというよりほとんどは一生聴かないだろう。そこから厳選した、四百曲のトップレート。その中から選んで歌おう。iPadはイヤホンをつけなければ、外に音が出る。それに合わせて歌えば、音程を外してもiPadがカバーしてくれる。僕は、ベースギターとiPadを持って公園に出かけた。ベースギターを適当にかき鳴らし、ライブスタート。まずはガツンとTHE YELLOW MONKEYの『LOVE LOVE SHOW』かき鳴らすぜ。♪……お姉さん……♪
駐車場から出てくる車から、ギャラリーが怪訝そうな顔してみているよ。爽快だねえ。
次はしっとりと大人の歌だ。中西保志『最後の雨』♪……本気で忘れるくらいなら……♪ いいねえ、ベンチに座ったおじいちゃんが聞き惚れているよ。
じゃあ次はヤンキーを喜ばそう。氣志團の『One Night Carnival』♪……俺んとこ来ないか……♪ やったね。車に乗ったヤンキーが拳を振り上げてるよ。
さて、次はMr.Childrenでも行ってみようか。『HANABI』♪……サヨナラが迎えに来ること最初から分かっていたとしても……♪ 泣けるね、このセリフ。
最後は何にしよう。一青窈『ハナミズキ』♪……君と好きな人が百年続きますように……♪ しっとり決まったな。はい今日のライブはおしまい。ご静聴ありがとうございました。
僕の最初で最後のライブ大成功には終わった……わけがない。
僕はここで大事なことを思い出した。
「あっ、そうだ。ソフトバンクショップに行って携帯を何とかしなくっちゃ」
僕は注意力散漫で、唯一の外部との連絡手段携帯電話をトイレに落として壊していたんだ。
「この際、スマホに変えようかな?」
僕はショッピングセンターのSoftBankショップに行って、機種変更を行った。
「iPhone5ご希望ですよね。売り切れ入荷待ちになります」
担当のYさんが言う。
「ううん、4Sでいいの」
型落ちの方が安いと判断した僕は言う。
「白と黒がありますが?」
「じゃあ白で」
「ごめんなさい。白は在庫切れで」
「じゃあ黒でいいよ。それにしても在庫何にもないねえ」
僕はにやけて言う。この時点でYさんは僕が狂っていて、面倒くさい客だと気がついたようだ。しかし、彼女は接客のプロだった。面倒くさい客のあしらいを心得ている。いい、係員に当たったようだ。
「メールアドレスを決めてください」
「へいへい」
僕はyorosikumaと書いた。
「ローマ字読みしたらダメですよ」
「すみません、もう読んじゃいました」
「素早いねえ」
「あと、オプションですが東日本大震災援助の募金を月百円いただくというのがあるのですが」
「おう、いいよ。百円でも千円でも取ってくれ」
「百円で結構です。ではオプションにご加入ですね」
「おう」
「ではお会計七万円です」
「カードで」
「かしこまりました」
しかし、カードはAmazonでの無駄遣いで月の限度額を超えていた。ノーサービス。
「じゃあ、現金で」
僕は財布を出した。
「一枚、二枚……六万円しかないや。ATMで降ろしてくる」
僕は銀行のATMに行こうとした。確か一階にあったはずだ。だが、もともと方向音痴な上に、激躁状態で自分がどこにいるか良くわかってない僕はふらふらと下の階に行ったものの銀行ATMにたどり着けない。仕方ないから目についたセブン銀行のATMで一万円、引き落とした。手数料がもったいない。もったいない。
帰り道も迷ってしまい、やっとの事でSoftBankショップに戻った僕は、ようやくiPhone4Sを手に入れた。ここで、激躁状態の脳は新たな妄想を生む。スマートフォンと一緒になぜかWi-Fiも買った気になっていたのだ。アパートへ戻って片手にベースギターを抱え、もう片方にiPhoneの入った袋を持った僕は、袋の中身を見て、
「Wi-Fiがない。あれ? 買ったっけ、買わなかったっけ」
とわけがわからなくなってしまった。健忘は激躁状態ではよく起こりうることだ。そして妄想も。
翌日、Yさんに確認しようとSoftBankショップに行った僕だったが、Yさんは不在。そこで新人さんらしい子に「Wi-Fiの忘れ物はなかったか?」と尋ねる。「ない」という。「買ったか買わなかったかわからないか?」と聞くと販売履歴はないという。自分でも自信がないので、買わなかったことにした。これで、妄想はおしまい。景気付けに回転寿司屋に一人で入ってしこたま食べた。後にも先にも飲食店に一人で入ったのは、この一回限りである。激躁は恐れや不安を心からなくしてしまう。外で歌を歌い、一人でSoftBankショップに入り、回転寿司を食べさせる。その程度なら人に迷惑はかけないが、さらに激躁が進むととんでもない騒ぎを引き起こす。他人を恐怖の渦に呑み込ます事件の数々がこの後待っている。でも、言い訳になるが、これらはすべて、普段の、本当の自分、アイデンティティが引き起こしたものではない。セロトニンとノルアドレナリンの異常放出が引き起こした、人格の変貌というか、うーん、要するに気が狂っていたということだ。僕はこの頃、狂人だったのだ。頭の中がくるくる回転して、何の脈絡もない考えに基づいて行動する。一貫性は何もなく、ただ楽しいことだけやっていた。心に不安がないから何でもできる。自分に過信があるから誰にも負けない。激躁は収まる気配がなかった。こうしてどんどん他人からの信頼を失っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます