激躁の始まり

 躁状態、あるいは躁病は自分で病気だと気づくことはほぼ不可能である。何せ、気分がいいのだ。心身ともに充実感を感じる。この状態では自分を健康だと感じる。実際、僕も血糖値が下がり、アレルギーの皮膚炎がきれいに消えた。これで自分が病気だと言えるだろうか?

 でも僕は充実した心身の裏に何かとてつもない落とし穴が開いているのをほのかに感じ取っていた。睡眠は一日に長くて一時間だ。これはおかしいと思いつつ、起き続けてしまう。電話嫌いのはずなのに、何かあるとすぐ電話してしまう。違う、普段の僕じゃないと感じつつ行動に出てしまう。iPodで曲を聴きながら歩いていて、歌い出してしまう。人が見ている。そんなこと知ったこっちゃない。違う、僕は恥ずかしがり屋で、人前で歌なんか歌えない。心が綱引きするが、やる気、勝気がかってしまう。どんどんと、奇行が増え、仲間が離れていく。そしてその日を迎えた。


 その朝、僕は近所の寺にいた。なぜ、そんなところにいたのか? それはその寺のご本尊が不動明王だったからだ。不動明王は酉年の守護仏である。僕は酉年だ。小さい頃から不動明王を信仰と言ったら大げさだが、信じていた。躁病になって、その信仰心が強くなってきた。いや、異常に強くなった。だからこの寺に来た。ご本尊は障子に隠れて見ることができない。僕は隙間をちょっと開けて本堂の中を覗いた。まばゆい何かが見えたが、それがご本尊だったかどうかは分からない。本堂を覗いた天罰はすぐに来た。帰り道で突然、自転車の後輪のチューブが脱腸してしまって、タイヤからはみ出してしまい、そのはずみで、チェーンまで外れてしまったのだ。僕はファミリーマートの店先で、ケラケラ笑いながら、チューブとチェーンを直した。まるで見世物のようだった。それにしてもよく自力で直せたものだ。(ただチューブはパンクして、ボロボロだったので後日、馴染みのホームセンターで取り替えてもらった。ああ、あのホームセンターにもいくらつぎ込んだだろう?)


 その日は休み明けの遅番だった。僕は出勤すると、誰も片付けてくれない、自分の荷物、商品を片付けだした。その途中で、女史が現れて、

「統括店長とミーティングをするので会議室に来てください」

と言ってきた。

「はい」

 と返事した僕にはそのミーティングの内容がすぐに把握できた。

(ああ、今日でクビか)

 僕は会社のエプロンを外して、女史と会議室に向かった。


 会議室には統括店長様が偉そうに鎮座していた。僕はこの男が大嫌いだったので、にらめつけてやった。

「統括店長のKです」

 統括店長様が偉そうに名乗った。知ってるわ。

 それから不毛の会話が続いた。驚いたのは僕が『冷蔵庫事件』の時に書いた反省文をやつが持っていたことだ。当然といえば当然か。今日のこのミーティングという名の解雇通知を仕掛けたのは全て女史なのだ。結局、自分で解雇通知ができないから、統括店長様が、悪者になるっていう筋書きだろう。だから統括店長様が、

「これが、あなたの契約書です」

と一枚の紙を出してきた時に僕は、

「ああだ、こうだと御託を並べていないで、結論を言ってくれ」

とキレた。

「契約は更新……しません」

 統括店長様は言った。

「なら最初からクビです。おしまいでよかっただろ。反省文とか出しやがって、人の気持ち弄んで、時間の無駄だ!」

 僕はこの瞬間から激躁状態に入った。しかし、よく暴力事件に発展しなかったものだ。暴力はいけないという気持ちは維持していたようだ。とにかく「時間の無駄だ」という捨て台詞を残して僕は会議室を出た。そして事務所で帰り仕度をしていると、間が悪いというか、もうちょっと考えて行動しろよというか、とにかく、統括店長様と女史が事務所に入ってきた。というか入ってきてしまった。その顔を見て、僕の怒りはさらに大きくなる。

「崇徳上皇を知っているか!」

 僕はわけのわからないことを言った。たぶん、その年の大河ドラマ『平清盛』を見てのフレーズである。

「讃岐の地から、お前たちを呪ってやる」

 そう言って事務所を飛び出した。

 それから廊下に置いてあった長椅子に座って、元妻にメールを送った。元妻はこの会社の本店で働いていた。メールの返事はすぐ来た。公休日だったのか?

『いつまでも、こんな会社にいることない。よかったんじゃないの』

 それが元妻の意見だった。そうか、よかったのか。ハハハハハと僕は笑った。激躁状態の僕は無敵だ。先の心配なんて、サラサラしない。それより統括店長様にどうやって呪いをかけるか。そればっかり考えていた。一応、正常な精神状態にある今でも、あの統括店長様には呪いをかけ続けている。効果のほどは確かめようにない。

 そのあと人の良い、主任と女史がお別れに来た。

「突然のことでびっくりしています」

  人の良い主任は言った。女史からは記憶に残る言葉はなかった。

「じゃあ、さようなら」

 もう、この会社に関わることはない。その時はそう思っていたんだけど……。

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