躁転 ③

 僕はその頃ハイテンションの最高潮に近づきつつあった。まず、夜ほとんど眠らなかった。毎晩、眠っても一時間くらいだった。いつも何かしらやっていた。大抵は部屋の片付けがメインだった。でもやってもやっても片付く気配はない。それどころか散らかる一方だ。片付けのアイデアが次から次へと浮かんで、浮かぶたびに、一からやり直しているんだから、進行するわけがない。その上、Amazonでの買い物は狂ったようになり、毎日、宅急便と佐川急便、時に日本郵便が商品を大量に届けにくる。僕は宅急便のお姉さんとお兄さん、佐川急便のお兄さんとすっかり仲良くなってしまった。もしかすると仲良くなったと僕だけが思っていて、相手は気味悪がっていたかもしれないけれど、とりあえず、顔見知りになり、道で会えば、挨拶するようになった。


 仕事の方は、まだ続けていた。上司に一介のアルバイトが猛烈に怒りをあらわにしたのだから、何かしらペナルティーがあっても良さそうなものだが、なぜかなにもなかった。しかし、その裏で大きなものが動いているとは僕のあずかり知らぬことだった。

 九月から新担当になったので、僕は文庫の棚を整理しだした。前任者が、正直無能で、棚がぐちゃぐちゃになっていた。だから僕は端末から、ワーストリストを打ち出して、それを返品する作業をしだした。自分の部屋は片付けられないが、まだ仕事の方は真っ当にできていた。不思議だ。


 僕が作業をしていると、契約社員の女とおばさんアルバイトたちが、女史を囲んで、何かしゃべっている。僕は何となくピンときて、

「ねえ、僕のこと?」

と割って入った。すると女史が、

「あなたはあっちに行っていなさい」

と僕を遠ざけた。図星だったようだ。


 二日後、僕は主任に呼ばれた。この主任が前の文庫担当者で、人は良いけれど、全く仕事ができない男だった。そんな彼が僕を呼ぶ。

 彼は言いづらそうに口を開いた。

「ちょっとアルバイトの間で問題が出ています」

「なんでしょう?」

「あなたがセクハラまがいの行為をしているというのです」

「はあ?」

 僕はびっくりした。そんなことした覚えが全くなかったのだ。

「全くの冤罪です」

 僕は言い切った。しかし、

「でもSさんのお尻触ったりしているでしょう?」

 Sさんは僕と同じ年の主婦だった。別に恋愛感情も何もない。

「ああ、してました。でも、あくまでジョークというか、冗談でやっていたことで、Sさんも分かっていると思っていました。そうでなかったのならば反省します」

「Mさんも、言っています」

「いや、そちらは全くの誤解です。何もした覚えありません」

 僕は強く言った。

「そうですか」

 主任は去って行った。

 ああ、この前のおばさんたちと女史の会談はこのことだったんだなと僕は思った。それなら女史自ら聞きに来ればいいのに。僕にビビっているんだな。また怒ると思って怯えてるんだな。僕はそう考えた。それは卑怯なことだと思った。


 翌日とその次の日は、僕の公休日だった。僕はAmazonで買った自転車を乗り回していた。耳にiPodのイヤホンをつけて。危険だとは全く感じなかった。恐怖という感情が欠落してしまっていた。

 それもこれも躁病が生み出した産物とは全く思いつきもしなかった。この時点で、誰かが、躁病だと気づいて病院に連れて行ってくれれば。引き返すことのできる最後のチャンスだったと思う。しかし、僕も、周りの人もそれに気がつくことはなかった。精神科へ行くのはまだ先の予定だった。その時が精神科に行く期日だったならば。たらればが多くなったが、僕はこの身に起こった不幸を呪っている。だがもう起こってしまったことだ。諦めるしかない。


 時は着々と僕を躁病の最高潮へと進ませていく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る