躁転 ②

 冷蔵庫事件で僕は反省文を書かされた。全く納得はいかないが、女史の命令だ、致し方あるまい。こうなったらこの反省文を一個の自分の作品、私小説にしてしまおうと考えて、パソコンに打ち込んだ。現在、その全文をここに掻き出そうと思ってパソコンの書類ファイルを調べてみたのだが、ファイルがない。たぶん、正気に戻った時に、あまりに狂った文章だったので、恥ずかしくて、残してはおけないと削除したんだと思う。けれど、反省文の中身がどんなものだったかも、書類ファイルを削除したことも記憶に残っていない。躁状態の時の記憶は断片的である上に、年数が少し経ちすぎている。それに、躁状態になったことで、脳に何らかのダメージがあったことも否定できない。例えば、別れた元妻と行った北海道旅行や香川旅行などは、ほとんど忘れてしまっている。楽しい記憶は消え去り、苦痛の記憶ばかりが脳みそに張り付いて離れない。こびりついて、どんな道具を使っても取ることが出来ない。それを思い出すたび、自殺の誘惑にかられる。絶望的な人生だ。


 九月になってもこの年は暑かった。狂気の夏がまだ続いている。当然僕の躁状態も続いている。秋は僕を助けに来てはくれなかった。また、事件を起こしてしまう。それは九月の祝日だった。敬老の日だったと思う。月曜日だったから。ハッピーマンデー法に秋分の日は引っかからない。だからそうだ、敬老の日だ。九月から僕は文庫・文芸・美術書・専門書のグループ長になった。僕は、蔵書を見てもらえば分かるように、文庫が大好きだ。だから「僕は文庫しか見ないよ」と冗談で喋っていた。そしたらグループの二人の若者が冗談を本気に捉えてしまった。その話を女史から聞かされた。今の若者には柔軟な考え方ができないものが多いとその時、思った。その一人は僕の心を苦しめる二悪の一人で、もう一人は写真家を目指して、勉強中の若者だ。ただ、やる気というか、覇気に欠けている。正直、芸術家を目指すには闘志が足りないと思った。ただ、本は結構読んでいた。僕は写真家希望の若者に、使わなくなったiMacを進呈した。パソコンが壊れて使えないというからである。ついでに、そのパソコンに接続していたプリンターもくれてやった。両方とも、どうもありがた迷惑だったようだ。「全然インターネットに繋がらない」とぼやいているのを立ち聞きしてしまった。僕はでも、へこたれなかった。いいことしているんだ。結果が残念に終わっても仕方あるまい。ただし、これも躁状態のなせる技だった。躁になると、気前が良くなる。


 話が逸れた。敬老の日のことだ。その日は何か起きるような気がしてならなかった。だから、ゴミ捨てを女史に命じられても「ほらきた。嫌がらせ」と軽く流せた。本来ならゴミ捨ては下っ端の偏屈野郎が行くのが通例になっていた。それを破って、僕にゴミ捨てを女史は命じたのだ。嫌がらせの第一弾っていう感じだ。そんな仕打ちを受けても僕は我慢した。そんなことでキレて、会社を辞めなくてはならなくなっては損だ。ぐっとこらえていた。

 しかし、次の嫌がらせが僕の逆鱗に触れた。

 レジで接客していた僕は、お客さまの波が少しおさまったところで、左の人差し指を額に当てて、何か考え事をしていた。すると、その姿を見た女史が、

「それが接客する態度ですか! レジから出なさい」

 と僕レジから追放した。お客さまはどんどんレジになだれ込み並びだした。僕は事前に契約社員の女に、

「レジから追い出されたので、混んだらよろしくお願いします」

と言ったのに、契約社員の女はレジに、入らない。ここで、はたと気がついた。僕をレジから出した以上、女史がレジに入るべきである。それをしないで店長席に座っているのは怠慢だし、売り上げを考えない、浅はかな行為だ。許せない。僕は事務所に入って大声で叫んだ。

「堪忍袋の緒が切れた。そこにいるんだろ。出てこい!」

 自分でも驚く大音声だ。もともと僕は気弱で、大体のことは我慢して穏便に済ましてしまっていたけれど、今回は我慢できなかった。床に座り込み、右手に持ったハサミを扇子代わりにバシバシと床に打ち付けた。すぐキレるのは躁病の特徴である。

 女史は青ざめた顔で表に出てきた。そして一言、

「ハサミを離そうね」

と言った。完全にビビっていた。僕は言いたいことを洗いざらい言った。女史は、

「うんうん」

と頷いた。

 いくらか落ち着いた僕は、『出入り自由の監獄』自分の部屋に帰されることになった。女史は僕が従業員通路を通って、帰るところまで、見送ってきた。そして、

「明日も休んでいいからね」

と僕に言った。僕は休みたくないけれど、上司の命令だから休むことにした。

 この時の事件で、女史は僕をやめさせる決意をしたんだと思う。自分が悪者にならない方法で。それはとても狡猾だった。僕はこの女史を許さない。自分の手を汚さず、一人の人間の運命を破壊するような攻撃をしかける。虎の威を借る狐のやり口だ。そういや、顔も狐に似ている。僕をやめさせたいなら堂々と口に出せばいい。それができないなら、店長なんてやめちまえ。この事件は、躁状態が消え、鬱になっても、フラットな感情になっても、僕の方が正しいと思っている。レジが混んでいるのに入ることのできない不甲斐なさ。人員が少ないのに、レジに入ろうともしない、契約社員の女、そして店長である女史。売り上げを本当にあげたいのかと疑問に思う。そんな人間がトップにいる集団では売り上げが上がるわけない。150坪の小さい書店だからこそ、上司は積極的に店に出て、人の何倍も働かなくてはいけないと思う。これは僕が躁病だから言っているんじゃない。真実として訴えているものである。

 しかし、僕がこの時点で躁状態だったのは間違いない。でなければ、上司にはむかい、ハサミをバンバン、床に叩きつけたりはしない。頭のおかしな人間が戯言を言っていると思われるのがオチであった。

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