躁転 ①

 その前日まで、自分ではなんともないと思っていた。


 夏休み、お盆中の日曜日だったと思う。僕はいつものようにパンを食べ、髭を剃って出かけようと思ったんだ。朝のルーティンを確実にこなしている。それよりも朝四時には目が覚めて快調だから、いつもより早く行って、休憩室で飲み物でも買って飲もうとまで思っていたんだ。ところが、ところがである。さっきから探してるのだが、携帯電話と財布と鍵が見つからない。おかしいな。それにしても床の上に物が散乱している。なんなんだろう、この汚れっぷりは! 掃除をしなくちゃいけないなあ。いや、そんなこと言っているヒマはない。早く、携帯電話と財布と鍵を探さなくちゃ。この床のどこかにあるはずだ。はじから探していこう。うーん、見つからない。困ったな、このまま見つからないと遅刻だ。まあ、いざとなったら自転車で行けば三分だからいいけれど。本当は自転車通勤禁止だけどね。やっぱり見つからない。あっ、携帯電話見つけた。財布も見つけた。あとは鍵だ。えーと、あったあった。見つかった。iPod touchのじろうをベルトに付けてっと。あー、時間がない。こんな時は禁断の自転車通勤。レッツゴー!

 僕は全速力で自転車を漕ぎ、なんとか始業時間に間に合った。僕は正直に女史に、

「遅刻しそうだったので、自転車で来ちゃいました」

と言って、怒られた。フフフ、怒られるのは覚悟の上だ。日曜日は繁忙日だ。こんな日に休む社員はクソ役立たずだ。僕はそう思いながら仕事をこなした。体が軽い。僕はテキパキと働いた。そうしたらあっという間に就業時間だ。今日は、近くのホームセンターに買い物に行こう。目的のものは特にないけれど、なんか目についたら買っちゃおう。と思ってふとベルトを触るとiPod touchのじろうがいない。慌てて、各所を探しまわるがじろうは見つからない。仕方ない、N電気で新しいの買おう。名前はさぶろうだ。僕はN電気で三台目のiPodを買った。部屋に帰るや否や、約四千曲入っているiTunesからiPod touchにデータを転送する。しかし、データが満杯になってしまい、全曲入れられない。

「あーっ、ギガバイトの小さいの買っちゃった」

 僕は叫んだ。じろうは32ギガバイトなのにさぶろうは16ギガバイトだった。ショックを受ける僕。でも、

「なあいいや。また買えばいいさ」

と気にしない。気がつけば時刻は午前四時。

「もう朝じゃん」

 と僕は思う。まあ、テレビでも見るかと、日本テレビの『おは4』をつけた。

 今日も朝のルーティンだ。パンを食べて、髭剃って、歯を磨いて。あっ、忘れてた。サプリメント飲まなくちゃ、と僕は十種類のサプリメントを飲む。そのあと、お薬を服用する。結構手間がかかる。さて、行く準備を。あれ? 携帯電話と財布と鍵がない。またかよ。しかし、床が汚いな。どうしてだろう。ああ、今日はゴミの日だ。ゴミ出し、ゴミ出し。あっ、時間がない。とりあえず、携帯電話を探そう。そして遅刻するって連絡しよう。ええと、あっ、見つかった。電話電話で僕は会社に電話する。出たのは契約社員の女(前の人とは別)だった。

「あの、具合が悪いんで遅刻します」

 と僕が嘘をつくと、

「いつこれますか?」

冷淡な声。

「十時くらいには」

「そうですか。早く来てください」

 本当に冷たい声だった。その理由がわかったのは後々のことである。要するに、その前から僕の様子が変だったのだ。それを知っていて、冷淡な声を出していたのだ。おかしいならおかしいって直接、本人に言ってくれたらなあと今でも思っている。そうしたら、精神科に早めに行って、躁病だとわかって、早めに処置できたのに。だから、その人のこと恨んでる。まあ、仕方のないことだけど。

 結局、財布と鍵が見つかったのは十時すぎだった。会社には十一時にようやく着いた。

 ここに至って、僕も何か変だと思った。しかし、おかしいのは脳だと思ってしまった。躁鬱病も本当は脳の病気なんだけれど、治療は精神科の領域だ。僕は自分が躁病だとは思わずに、脳に異常がある。たぶん、若年性痴呆症だと思い、脳神経科に行ってCTスキャンをしてもらった。その結果は、

「きれいな脳をしているねえ」

というものだった。僕はホッとすると同時に「じゃあ、なんなんだ? この状況は」と考えながら、今度は内科に行った。内科といっても前に通っていた心療内科のことである。僕はそこで、血糖値の薬と、皮膚のアレルギーの塗り薬をもらっていた。先日来た時、血液検査をしたので結果を聞く。

「いいですねえ。血糖値、下がっていますよ。ただねえ、ちょっと熱中症の気配が見えますねえ」

 へっ? 熱中症。ここで僕は大きな勘違いをまたした。物忘れが激しいのは熱中症のせいだと思い込んでしまったのだ。

「わーい。理由がわかれば怖いものなし」

 すっかり勘違いした僕は水分をたっぷりとるべしと、スーパーでボトルを買えば、タダで汲める水を使って麦茶を作った。ボトルもいっぱい買ってしまった。六つである。とにかく複数買わないと気が済まない。躁病の典型なのである。


 事件は六つのボトルのせいで起こった。僕が会社の冷蔵庫にボトルを四つ入れて満杯にしてしまったのである。そのことは謝る。しかし、人のボトルをかってに冷蔵庫から出して放置する。それに僕はキレた。『ボトルは一つまで』と書かれた張り紙を破り棄て『売られた喧嘩は高く買い取ります』という張り紙を代わりに貼った。怒りはそれに収らなかった。雑誌の社員はとっても無能な文具の女性社員の兼任なのだが、無能だからきちんとできない。それをいつもは僕がやっているのだが、その日はムカついて帰ってしまった。それというのも、夕方からのバイトさんが、急にお休みになったのに、その無能社員はガントチャートの変更すらできなかったのだ。一番頭にきたのはこのことであった。だけど『冷蔵庫事件』が一番表立ってしまって、僕は大悪人になってしまった。女史はこの話を聞いて、なんとかして僕をやめさせようとした。でも僕はやめなかった。


 そうしている間に第二の事件が起こった。それは次のエピソードでお伝えしよう。

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