発症直前

 躁の前には鬱がある。二月だったと思うが、その鬱状態がやってきた。その原因を作ったのは悪人の店長だった。

「店長があなたを切ろうとしている」

 そう伝えてきたのは庶務のおばちゃんだった。庶務は店長席の斜向かいにあり、どこでもお決まりだと思うが、庶務のおばちゃんは情報をたくさん持っている。そのおばちゃんが、僕にそう言ってきたのだ。その瞬間、僕の心にはとてつもなく重いものがのしかかってきた。僕は、

「クビになる前に自分からやめよう」

そう決心した。

 そして暗い気持ちで仕事をし、暗い気持ちで部屋に戻った。


 部屋に戻るとロフトに上がり、その日、所用で留守だった店長にメールを送った。

『店長が僕をやめさせたがていることを庶務の人から聞きました。それでしたら、僕の方からやめさせていただきます。いや、やめさせてください。お願い致します』

 ロフトに敷いた布団に寝そべって、電気もつけず、暗い気持ちで僕はメールを打った。開店から五年。嫌いだった契約社員もいなくなり、ようやく一息ついたと思ったらこの有様だ。くそっ。やめてからどうするというあてもない。しかし、ここは男の意地だ。普段、軟弱で軽薄だと思われている僕。けれど、心の中に日本刀を持っている。こうなったら、身の破滅とわかっていても、男を貫こう。暗い部屋の一角で、僕はそう決めて、布団に身を沈めた。

 すると、店長からメールが返ってきた。

『明日は休んでください』

 明日は店長の公休日だった。つまり、決戦はあさってということだ。


 次の日は気分が重くて、横になって過ごした。食欲もなく、食料を仕込む気にもならず、好きな読書をする気にもならないで、一日中ぼんやりしていた。死の誘惑が頭をよぎる。でも、いざとなったら怖気付いてしまう。結局、僕は自殺なんかできないだろう。こうやって、うじうじして生きていくんだ。強烈に自己嫌悪に陥った。なんともやるせない気分な一日であった。


 翌日は遅番だった。僕は昼過ぎに会社に行った。そして静かに仕事を始めた。すると、店長が呼びに来た。

(これでクビか)

 僕は覚悟を決めた。

 店長は僕に他のメンバーのリーダーになって欲しいのに、それができていないと、僕を注意した。

「できますか?」

 と言われた。

「できません」

 と僕は答えた。人の上に立つのは大嫌いだ。それはそうと、やめさせるのか? やめさせないのか?

「やめさせません」

 店長は言った。僕もやめるとは言わなかった。男の意地はどこに行ったんだろう。ただ、この人とは合わないなと感じた。先輩が懐かしい。


 そう思っていたら、店長が異動になった。しかも、左遷である。僕は自分の呪いの力にびっくりした。こういうことがよくあるんだ。ただ代わりにくる人間が悪い。バツイチのおばさんだった。僕の記憶にはいい思い出がない。これからがたいへんだなと思った。


 新店長の女史は、とても下手に出てきた。僕の店での影響力を測りかねたのだろう。

「よろしくね」

 と声をかけられるまで僕はずっと知らんぷりをしていたんだ。だって、怖かったんだもの。

 とりあえず、平和裡に挨拶できたんだよかった。しかし、この女史が僕の発症に大きく関わった、というか主たる原因はこの人だとはっきり言える。それはさて置き、もう直ぐ、夏が来る。僕を駄目にしてしまった狂気の夏が来る。ここまでは長い前置きであった。ここから真の苦悩が始まるのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る