離婚

 2011年3月11日。僕たち夫婦は横浜スタジアムで横浜対ヤクルトを見ていた。バレンティンがホームランを打ってベイスターズはボロ負けだ。そしたら試合中に地面が揺れた。ビルが揺れるのを初めて見た。未経験の揺れだ。ワンセグテレビを見ていた後ろのおじさんが言った。「震度7だってよ」

 僕らは割と仲の良い夫婦だと思っていた。それなのに……。全て、あの日起こった東日本大震災のせいにしてはいけないだろうな。


 結局は僕の性格のせいだろうな。一例をあげたら、マンションの自治会の役員にウチが当たったんだけど、僕は嫌がってやらなかった。前回、役員に当たった時も妻がやった。本来ならば今度は僕がやるべきなんだろうけど、他人と話すのが苦痛な僕は強硬に拒否した。だから、しぶしぶ妻がやったのだけれど、その出来事で二人の間にビシッと亀裂が一本入った。次の亀裂は僕が固定資産税と自動車税を払わなかったことである。固定資産税は全額妻が払い、車は結局、廃車になった。要するに全ての原因は、僕の収入が少なすぎたことにあったのだ。全てに嫌気のさした妻はついに禁断の言葉を言った。

「離婚しましょう」

 僕は突然の台詞に動揺した。そして、とりあえず、ふて寝した。しかし寝たところでこれは悪い夢でもなんでもなかった。現実だった。妻は心の強い人だった。そして、一度決めたことは貫くという、まっすぐな人だ。僕は早々に白旗を上げた。妻は早速、マンションの売り出しにかかった。その間、僕は何もせず、ぼんやりしていた。未だにこれが現実なのかどうか分からない、いや分からないふりをしていた。

 妻はインターネットなどを駆使して不動産仲介会社を選び出し、一番最良の会社を選び出した。そしてすぐに販売相手が決まったという連絡が来た。マンションは割合高く売れた。僕にもそれなりの金が手元に入った。でも、その間、僕がしたことといえば不動産売買契約の実印押しだけだった。あとは全て妻任せ。僕は内心、離婚することに納得がいっていなかった。十年間、同じ状態でやってきたのに、なんで今になってという気持ちだった。しかし、妻の方には離婚するということに対する明確なビジョンができているのだろう。マンション売買をする彼女の姿は嬉々として動いているように見えた。

 十二月の寒空のことだった。


 2012年、僕にとっては忘れられない年がやってきた。マンションの引渡しは一月末に決まった。僕たちはそれぞれの新しい住処を決めなくてはならないのだが、僕は何にもしなかった。妻の住むところも、僕の住むところも、両方妻が探しているのだ。その頃の僕は本当に何にもしない駄目な人間だった。今思えば、鬱状態だったのかもしれない。相変わらず、精神科には通っていたが、一ヶ月に一度というペースで、これといった変化は見られなかった。

 妻から僕の住むアパートが決まったとメールが届いた。職場から十分ほどの場所だそうだ。僕はもうどうでもいい感じになっていた。けれど、一度は見に行かなくてはならない。契約するのは僕なのだ。駅からは結構遠かったが、職場やバス停には十分ほどで行けた。部屋は六畳一間。ロフトが付いている。けれど座ってみたら頭がつかえた。ここは布団敷いて眠るしかないなと思った。風呂トイレはユニットバス。トイレにシャワーは付いていなかった。そして何より、日差しが当たらない。昼間から電気をつけておかないと暗くって、何にも見えない。僕はこの部屋を『出入り自由な監獄』と名付けた。

「どう?」

 と聞かれたが、どうもこうもない。家賃三万七千円だ。今の収入には見合っているだろう。

「ここでいい」

 僕は言った。あくまでも「ここがいい」のではなくて「ここでいい」だ。

 引っ越しは翌日。荷物のダンボール詰めは妻とその義母がやった。僕は何にもやっていない。いかに僕の心が落ちていたかがわかるであろう。その日、その日をボケーっと過ごし、心の中では死にたい、死にたいと思っていた。


 だが、引っ越し当日になると、やけくそなのかもしれないが、妙にやる気が出てきた。とはいえ、難しいことや折衝は妻任せ。僕はひたすら、蔵書(なんてかっこいい書き方したけど全部、文庫本)を棚に入れていた。

 夜になって、二人で最後の食事を近くのショッピングセンター(僕の勤め先)でして、さようならということになった。


 翌日から一人の生活が始まった。恥ずかしながら一人暮らしは初めてで、その分新鮮だった。

 買い物、食事の支度、掃除、洗濯。全て自分でやる。なんとなくやる気が出る。やる気、やる気、やる気。

 その頃から僕の脳の中では、セロトニンが放出されていたに違いない。だがその頃はまだ適量だったのであろう。


 明日が、マンション引渡しの夜。僕はマンション最後の日に、積み残しの荷物がないか見に行った。すると、妻がいた。妻は泣いていた。新しいアパートが広くて、一人で住むには寂しすぎるという。それなら離婚しなけりゃいいと僕は思った。


 僕の一人暮らしは順調に春を迎えた。だがすぐに、今思えば予兆だったんだと分かる出来事が発生するのである。


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