第6話 八月二十九日 棘の峠の細道で

 夕焼けが綺麗だった。

「うん、絶景」

 僕の家は二階建てで、上の部屋はお父さんとお母さんの寝室や色々なものを押し込む場所になっている。階段は居間の脇だから普段ミナミちゃんを上げる事は出来ないのだけれど、今日はお母さんが町内会の話し合いで留守だった。お父さんも仕事でいない。普段塞ぎっぱなしのベランダ、風を受けながら気持ち良さそうに眼を細めて、ミナミちゃんは夕日を見る。

 住宅街は高い建物が無い。高くても二階建てで、僕の家もそうだった。殆どが平屋だし、家の前は道路だから余計に開けた感じで、夕日もひどく綺麗に見えた。熱の篭った空気が太陽を膨らませるみたいにして、強くなった光が町中をバラみたいに赤くしている。六時を過ぎてもまだこんなに赤く明るいのは夏だからだろう。ミナミちゃんは帰るのを億劫がって、ぼんやり遠くを眺めている。僕はそんな彼女の髪を、見上げていた。

「夕焼けは綺麗だね」

「眩しくて暑いよ」

「でも綺麗だよ。これから夜が来るのにね。暗くなって怖くなって、何も見えなくてつかめなくて声も聞こえなくて眠るしかないような夜が、来るのに」

「イバラに守ってもらえば気持ち良く眠れるかな?」

 ミナミちゃんは、苦笑いを見せた。


「 ―――― 」


■□■□■


 ミナミちゃんが玄関から僕の家に入ってくるのは、珍しいことだと思う。いつも一緒に遊んでいるけれどその場所は大概外で、部屋に入ってもらうことがあっても経路はいつも窓だ。彼女のために開けている窓なのだからそれは必然。だから、ドアから入って来るのはなんだかくすぐったいような気がする。ミナミちゃんもそうなのかちょっと落ち着かないようにして、ベッドにぺたんっと腰を下ろした。煩わしいのか三角巾で腕を下げてはいないけれど、固定されている様子は半袖だからよく見える。

「ミナミちゃん、はい」

「うい、ありがと」

 麦茶のお盆を机に置いてグラスの一つを手渡し、もう一つを自分の口元に運ぶ。一口二口、こくこくと飲んでから――僕達は同時に、溜息を吐いた。

 ミナミちゃんがうちに玄関から入ってくるのは珍しいけれど、『彼』と一緒に入って来たのはもっと珍しかった。具体的に言うと二年前の夏休み、引越しの挨拶に来た時以来になるだろう。その時と違うのは『彼』がうちに上がっていること、そしてミナミちゃんと僕がこうして避けられていること。うちのお母さんと何か話しているようだったけれど、内容は見当も付かなかった。こくこくと半分まで麦茶を飲み、僕はもう一度息を吐く。

「でも珍しいよね、えっと、『お父さん』と一緒に来るのって」

「ん、なんか今朝急にね。どしたのかな。よく判んない」

「そっか。何か食べる? 今日だったら色々いっぱい、お菓子とか持って来れるよ。お客さんいるって判ってるし、食べすぎって怒られないだろうから」

「良いよ、悪いし」

「うん」

 ミナミちゃんは小さく喉を鳴らしながら、少しずつ麦茶を減らして行く。『彼』と来ているのが落ち着かないんだろう、僕は机の上で作り掛けの工作をぐりぐり手で弄る。乾かないようにラップで包んでいる使い掛けの紙粘土と、沢山作られた小さなハート型の断片。顔を上げたミナミちゃんが立ち上がってそれを覗き込み、一片を手にとって見せる。

「何、夏休みの工作? 何作ってるの、これって」

「うん、バラ作ろうと思って。花弁から作って、乾かしたら色を塗って重ねてね。図書館から一本貰ってきて、それをお手本にしようかなって」

「へえ、手間掛かりそうだね。真面目で感心?」

「別に真面目じゃないよ。作りたいだけだし」

「そっか」

 ミナミちゃんはそれっきり言葉を止める。居心地の悪い時間が流れているのは、きっとこの家の中に彼がいるからだろう。だから僕はなんとなく落ち着かなくて、そわそわする。ちまちま作った花弁を全部床にぶちまけたい感じだった。ミナミちゃんも同じなのか、困ったような顔で僕を見下ろしている。僕は麦茶を呷って、感覚を洗い流した。

 ……、……、……。

 よし。

「そうだミナミちゃん、図書館のこと聞いた?」

「え? 図書館って、何かあったの?」

「今朝のラジオ体操で引率の人が言ってたんだけどね、なんか悪戯があったんだって。本棚が全部倒されて、だから暫く閉館するらしいよ」

「うえ、それは片付け大変そうだね。しっかし困るなー、そうなったら何処で涼めば良いのか判んないよ、あそこが一番快適なのに。診療所とか暑すぎ。ん、そう言えば、ちょっと前に学校の水飲み場が壊されたって話も聞いたね」

 むうっと唸ったミナミちゃんの言葉に、僕はこくんっと頷いてみせる。一昨日回って来た回覧板に書かれていたのでも見たんだろう、公共施設、子供の関わる場所だから、気を付けるようにと書いていた。小さな学校だから大袈裟なセキュリティなんかも無いし、進入は簡単だから、余計に変質者を警戒しているらしい。まあ僕も入れたし、大人ならもっと色んなことが出来るだろう。

 くるくると指に髪を絡めて軽く引っ張りながら、ミナミちゃんはグラスに刺さっているストローを噛んでいた。麦茶はもう殆ど入ってなくて、氷だけが底にある。僕も残っていた半分を飲み干してそれをお盆に戻し、立ち上がった。

「行ってみようよ、お家出て」

 ミナミちゃんも、グラスを置いた。


 いつものように手を繋いで歩くと、町中がちょっとずつ慌しいのに気付く。ミナミちゃんはきょろきょろと珍しげに辺りを見回していて、だから僕は彼女が転んだりしないように後ろを気遣って歩いていた。ふあ、とか、ほお、とか、たまに声が聞こえる――僕も、少しだけ辺りを見た。今までは提灯がぶら下げられているだけだったお祭りの準備が着々と進んでいる。商店街でも随分色んな飾り付けがしてあったっけ。蛍光色の造花を軒にぶら下げたり、大きな提灯を置いてみたり。

 そろそろ出店の人もやって来たらしくて、あちこちから良いニオイがしていた。アメリカンドックや焼き鳥、わたあめの屋台がちらちらと道の脇に見える。お祭りは食べ物を買うのが好きだった。ゲームは苦手、籤引は大概よく分からないものが当たるし、射撃や掬いモノは得意じゃない。ミナミちゃんはそっちの方が、得意そうだけど。

「あ」

「ん? や、二人とも」

 公民館の玄関前では、ホヅミさんが立ち尽くしていた。

 相変わらず長い髪を流してヒールの高い靴を履いているけれど、髪には小さな簪が刺さっているようだった。この人でもお祭りの気分に浮かされるんだ、と僕はよく判らない感心をする。ミナミちゃんがやッと手を上げるのに、彼女は笑って見せた。手にはいつものように、本の入った鞄を提げている。

「何やってんですか、そんなとこ立って」

「いやいや、中々の惨状だなーっとねー……ほら、ここからよく見えーからさ。酷いもんだよー」

 指を差す方向にあるのは窓、そこからは図書館の中がよく見えた。バラの花瓶だけはいつも通りに佇んでいるけれど、その奥ではドミノ倒しになった本棚が見えている。無事なのは端っこの二つぐらいだろうか。横に連結してる長いものだから、あれを直すにはかなり時間が掛かりそうだ。暫くどころじゃなく休館しそうな様子に、ミナミちゃんもうっひゃあと声を漏らす。

「ひっどいね、殆ど全滅? うわー、うわー。ちょっと読んでみたいのとかあったのに、あれじゃ豪快に下敷きだよ……絶対涼んでられない、確実に片付け手伝わされる」

「子供はそんなされなーわよ。でも、うん、酷いね。結構レアな絶版本とかあったのに、勿体なーわー。忍び込んで保護しちゃおーかしら」

「人はそれを火事場泥棒と言うわね」

「やー、今日も良い天気ねー。明日のお祭りも綺麗に晴れそーで、期待期待」

 はっはっは、とあからさまに嘘くさく笑いながらホヅミさんは玄関に入って行った。僕もミナミちゃんの腕を引いてその後ろに続く、いつものようにスリッパを出してあげて、教育委員会の部屋に。珍しく慌しくて、いつも机に向かっているばっかりのおじさん達がわたわたと歩き回ったり電話をしたりしていた。

 電話を置いた辻元さんが僕達に気付いて、いつものようにやんわり笑う。それは殆ど苦笑だった。

「ごめんなさいね、今日は図書館閉まってるのよ。ちょっとごたごたしてて……」

「あー、玄関から見えてました。図書館の様子、どーですか? やっぱり復旧に時間が掛かりそうで?」

「ええ、何せ殆どの棚が倒されてしまっているものだから、一ヶ月ぐらいは閉めることになるかもしれなくて」

 うえー、とミナミちゃんが声を漏らす。

「見せてもらっても、構いませんか?」

 ホヅミさんの言葉に、辻元さんはいつものように鍵を持ってきて図書館に続くドアを開けた。

 窓から見た時も酷いと思ったけれど、中で見ると尚更にその酷さは伝わってきた。床に本がぶちまけられて散らばって、脚の踏み場も無い状態になっている。光が入ってるとそれがよく見えた。児童書も参考書も小説も伝記も広報も、ぶちまけられてまぜこぜになっている。部屋に入られることを、本達が集まって徹底して拒んでいるみたいだった。無事なのは奥の壁側からの二つだけで、あとは完全に倒れている。どこから手を付けたら良いのか判らないみたいで、手付かずにされていた。

 ホヅミさんは一つ嘆息をしてからスリッパを脱ぎ、レースの靴下でざくざくと本の中を歩き進んで行く。ミナミちゃんが同じようにするから、僕も倣った。本を踏むのは何だか変な感じだ。ぐらぐらして危ないから、ミナミちゃんの手はしっかり握っている。

「酷いものでしょう、五万冊が」

「ええ、ひどーですね……入館者の事故ですか? それとも、誰かの悪戯?」

「私はいつも最後まで残っていますけれど、昨日点検した時は何も変わりがありませんでした。朝に来たら、こうなっていて――だから、昨日私が帰った後に、誰か残っていたか入ってきたかしてきた人がいたんでしょうねえ……ほら、そこの」

 つい、と辻元さんが指を差した方向に、僕達は首を向ける。ドミノ倒しの一番下になっているのは入り口近くの児童書の棚で、その上には、一輪の白いバラが置いてあった。

「犯人が、置いていったんでしょうね。なんでそんなの置いたのか判らないけれど」

「あの、辻元さん」

 コンコンとノックが響いて声が掛けられる、ちょこんっと覗くように控え目な様子で顔を出していたのは皆川さんだった。いつものように淡いパステル色の服で、コードレスの電話を持っている。

「お電話、です。駐在所から」

「ああ、ちょっと待ってもらって。……そういうわけで、今日は閉館なんです。すみませんねえ」

「いえいえ大変でしょーから、こちらこそ失礼しました。ところで辻元さんは、誰か心当たりとかありませんか? 帰る時に誰か見たような気がする、とか」

「そんな……私は」

 言って辻元さんは、チラリとドアを睨んだ。

 その向こうの、皆川さんを睨んだ気がした。

「見たような気がしますけど、気のせいかもしれませんし。さ、二人もちゃんとスリッパ履いてね。滑らないように、気をつけて」

 にっこりと貼り付けたような作り笑顔に促されて、僕達はスリッパに足を突っ込む。お辞儀をして教育委員会から出ると、ミナミちゃんがホヅミさんを見上げた。ホヅミさんもミナミちゃんを見下ろして、二人は一緒に軽く肩を竦めて見せる。

「なんともはや、だわねー。アレだけ蔵書がぶちまけられてーと何か盗まれてたとしても判んなーし。稀少本が根こそぎ無くなってても、あれじゃー判んなーわ」

「実はホヅミさんが欲しいの盗んだんじゃない? 秘密の通路でちょちょいっとさ」

「残念ながら、昨日は妹と飲み明かしていたアリバイがあーのよ。行き着けの居酒屋で水割り一杯十時間」

「駄目大人の鑑ね」

「あたしは飲めなーの、妹は滅茶苦茶強いんだけど。それなら、『秘密の通路』知ってる二人はどーなのかしら?」

 くすくすと見下ろされて、僕達は顔を見合わせる。首をくーっと傾げて、決まっている答えを僕が零した。

「一緒に寝てた」

「身内証言、アリバイ不成立、ってね。しっかし何かな、最近物騒だねー。二週間前に車ぶっ壊され事件、三日前に小学校で水飲み場破壊、昨夜未明に図書館ドミノ」

「同じ人の仕業とは限らないんじゃない? 車は一つだけ時間が離れてるし、やり方で言うなら図書館だけ違うもの。二つは何かで壊されてるけど、本棚は違うでしょ」

「んでも、狭い町に二人も変な人がいるとは考えたくなーわ」

 それはそうかもしれない。ミナミちゃんはむうっと唸ってスリッパを脱ぐ、僕はそれを重ねてケースに放った。それから靴を履くのを手伝って、玄関を潜る。

「二人、これからどーするー?」

「学校行ってみない? ミナミちゃん。水飲み場も見てみるとか」

「そだね、開いてたら涼めるかもしれないし。学校って何もしなくても廊下涼しいから、忍び込めればこっちのもんだ。ホヅミさんは?」

「取り敢えず本が重いから、家に帰って置いてくる」

 それは至極当たり前の言葉過ぎて、逆になんとなく笑いが込み上げて、だから僕達は少しだけ笑顔を作った。


「騒がしいねー」

 公園の前を通って学校に向かい歩いていると、金槌で釘を打つ音が強く聞こえてくる。フェンス越しに中を覗くと、ど真ん中にやぐらが立てられていた。もうそろそろ仕上げに入っているんだろう、何人ものおじさんやお兄さんが一生懸命に木を運んでいる。提灯を垂らしたワイヤーをやぐらの上に集めると、テントの骨組みみたいな形が出来た。僕には見慣れている光景だけれど、ミナミちゃんは珍しそうにしている。煩いのか、顔は顰められたままだったけれど。

「トンテンカンテン煩いー。螺子使いなさいよ螺子、あれならチュイーンで済むじゃない。ああいう音って、苦手」

「僕は結構好きだけどな。出来上がって行く音、リズムがあるみたいで面白いし」

「ふいん。そっか、もうお祭りなんだっけね」

 街のお祭りは毎年八月の末に始められる。今年はもう明日に迫っているそれは三十日と三十一日の二日間で、他と比べれば少し短いらしい。それほど目立ったことも無い当たり前のお祭りだから、そんなものなのだろうと思う。これを楽しみたいから子供は宿題を一生懸命にするし、僕も、その例に漏れてはいない。とは言え、プリントは貸したきり返って来ないのだけど。

 やることもそんなに派手じゃなかった。神社の奥に仕舞ってある神様の入った箱みたいなのを引っ張り出して山車に乗せ、街中を引いて周るぐらい。山車は結構大きくて中には人も入れるから、いつもお囃子や山車を引くのに疲れた子供でぎゅうぎゅうになっている。あの狭い感じは結構面白い。中に屋台で買った綿飴なんかを持ち込んで、知らない子も一緒に混じりながら回して食べるのも、あの中でだけ出来ることだろう。

 もっとも僕は、ミナミちゃんと一緒に行った事はない。

 人混みは面倒臭いとか。

 とても、彼女らしいことだ。

「ユーヤ、今年は誰と行くの?」

「お父さんのお休みに被ってないし、お母さんは町内会で出すお店のお手伝いだから、一人だよ。でも食べ物買えたら別に良いし、ミナミちゃん来るなら」

「あたしも行こうかな。今年はちょっと、行ってみたいかも」

 ミナミちゃんは顰めていた顔を少しだけ緩めて、僕を見下ろす。道路を渡って酒屋さんの角を曲がり、僕達は小学校に向かった。僕は彼女の手を握り締めて、彼女は僕の手を握っている。白い手と、白い手。日に当てられたそれは眩しくて、眼を刺して、苛々する。

 白い手。青白い。浮いた静脈。ポニーテールの項。赤い痕はもう無い。見上げる。金髪。目に痛い。刺して痛い。棘のように。ジレンマのように。手が汗ばんで。握っているのが煩わしい。べたべたと。気持ちが悪い。

 僕はそっと、彼女の手に爪を

「あれ」

 ミナミちゃんが足を止めるのに、僕は麦藁帽子を引き下げた。下ろし過ぎて完全に視界が遮られ、あわあわともう一度直す。何やってるんだろう、少し自分に呆れながら彼女の視線を追うために顔を上げる。学校に続く緩やかな坂道を、見覚えのある人影が降りてくるのが見えた。ふらふらと少し揺らぎながら、歩いてくる。

 ミナミちゃんが僕を見下ろして、首を傾げた。

「何やってんだろうね、センセ」

 それは、皐月ちゃんのお母さんだった。

 ふらふらと俯き加減にしていた先生はふっと僕達に気付いて、あら、と小さく声を漏らした。少しだけ小走りに僕達は近付き、簡単な挨拶と一緒にお辞儀をする。先生は僕達よりもっと簡単に軽い挨拶をして、薄っすらと判りやすい作り笑顔をしてみせた。

「どうしたの、二人とも。学校に忘れ物でもしていたのかな」

「はい、工作セット忘れて。先生どうしたんですか、学校に行ってたんですか?」

「ええ、この坂の上には学校しかないからね。……ユーヤ君ちょっと、皐月のこと聞いて良いかしら」

 ずずいっと迫ってくる風ではなく、先生は淡々とほんの少し身体を屈めて僕を見下ろした。ミナミちゃんの事は殆ど眼中にない様子で、僕も半分ぐらいはそうだろうと思う。先生の眼中にあるのは、皐月ちゃんだろう。

「皐月、このところずっとレッスンサボりがちなのよ。苗の世話がどうとか言って、いつも学校に行って。一度きつく叱ったのだけど、それから直ぐにあの水飲み場が壊されて――土が湿って苗が腐るとかで、前よりもっと掛かりっきりになってるの」

 声にはまるで抑揚が無くて、魔女か何かみたいだった。別に怖くは無いけれど少し息苦しくて、僕はそれとなく帽子のつばを掴んで引き下げる。視界は狭くなるけれど先生の顔も見えなくなって、丁度良かった。ミナミちゃんは僕の手を握り、指を絡めながら遊んでいる。僕も、それに応える。

「何か、聞いてないかしら。あの子が何か言っていたとか、持っていたとか。何でも良いの。ユーヤ君、あの子とは仲が良いんでしょう? 昔は一緒に遊んでいたし、席だって隣だし」

「何かって、なんですか?」

 僕はなるべく、意外っぽく訊ねる。

 先生はほんの数瞬だけ言いよどんで、だけどやっぱり淡々と答えた。

「あの子が、水飲み場を壊したんじゃないかと思っているのよ。レッスンから逃げるために、そうしたんじゃないのかしらって」

 逃げたいから、逃げる場所をもっと強くするための行動を起こす。どうすれば大儀が立つか、どうやれば名分が出来るか。そういう考えで、大切なものを致命的でない範囲に傷付ける。危険に晒してみる。死んでしまう呪いを、百年の眠りで代替するように。

 ミナミちゃんは不意に手遊びを止めて、僕の手を握った。先生の顔は判らないけれどミナミちゃんの顔はよく見える。口唇を小さく噛んで、視線を逸らしていた。――音楽教室の裏、あの時のように。

 僕は帽子を上げて先生を見る、そして、首を横に振った。

「わかんないです。でも皐月ちゃん、いつも一生懸命してました。レッスンも、花壇のお世話も」

「本当に知らない?」

「はい。夏休みは学校で会うわけじゃないし、最近は殆ど遊んでないから」

「そう――そうね。それじゃあね」

 言って、先生は僕達を通り過ぎる。いつもはもっと背筋を伸ばして歩くはずなのに、今日は何だか幽霊みたいにのっそりとしていた。ザッザッと音がするのはサンダルを引き摺っている所為だろう、ひどく覇気がない。僕は冷たくなったミナミちゃんの手を温めるように握って、ゆっくりと坂道を登る。

 最初はなだらかなのだけれど、登り切る頃には少し息が上がって足が痛くなっていた。ミナミちゃんは顔に張り付いた髪を鬱陶しそうに弾いて、ふいーっと伸びてみせる。やっぱり三角巾で吊っていないと使っちゃうみたいだから、気を付けて欲しいんだけど……あまり使わないでいても、後で困るらしい。リハビリとか、色々あるからと。

 水飲み場は校舎に向かって右側にあった。そのまま迂回すると、裏の花壇に辿り着く。多分皐月ちゃんがいるのだろうけれど、僕達はまず水飲み場を見ることにした。足を進めて壁を回り込むと、それが日に照らされている。むー、とミナミちゃんは声を漏らして、それを眺めた。

「中々徹底的に壊されてるんだね、これはまた。直すの大変なのかなあ、体育の後とか、使えないと結構不便なのにさ」

「夏は特にね。でも本当、滅茶苦茶にされてるんだ」

「うん、ちょっと予想外だった。精々蛇口が盗まれてるとかそんな感じだと思ってたよ」

 蛇口が四つ横に並んでいるコンクリートのそれは、ごく普通の形をしていたけれど、今はそれが殆ど残っていない。角の殆どが欠けて転がり、水を溜めておく堀のような部分もあちこちが抉れたようになっていた。底には亀裂が走って、蛇口はねじれたり、取れたりしている。ミナミちゃんは後ろにも周って、観察しているようだった。

「水道管までやっちゃってるってことは、暫く水浸しだったろうね……うん、土のとこがぐちゃぐちゃだ。これは花壇まで行ってるだろうね、根腐れしたら大変だよ」

「今は、水道が止められてるみたいだね。どうやってやったんだろ、やっぱり大人の人かなあ」

「どうだろ……ン」

 ミナミちゃんは固定された手を付いて、底を覗き込む。体重を掛けたら悪化してしまうから、僕は手を離して逆側に周り、ミナミちゃんの身体を支えた。何を見ているのか、僕も視線を下げると、それは亀裂の中心部分らしい。抉れるように凹んでいるそこに、ミナミちゃんは指を這わせ、何かを確認するようにしている。

 髪が落ちて顔は見えないけれど、ふうんっと息を漏らすような声が聞こえた。

「ミナミちゃん?」

「ここ、尖ったものが落とされたんだね。真ん中が角になってる。なんだろ……ハンマーとかああいうのだと、柄が縁に当たって届かないよね」

「すごく大きいハンマーとか」

「それならもっと壊されてるんじゃないのかな? ほら、角のとことか、縁とかだけでしょ、壊れてるの。弱かったり薄かったりするとこばっかりなんだよ。なんだろ、何かを落としたのかな、そういう感じ。石とか、どかーんって」

 ミナミちゃんは顔を上げて、ふるふるっと首を振りながら髪を払う。

「どうだろ、ウチの車と同じなのかな。よくわかんないや……と、そだ、皐月いるのかな?」

 水溜り跡のぬかるみをふんずけながら、ミナミちゃんはひょいっと向こう側を覗く。並んでいる花壇の真ん中辺り、四年生のそこには、やっぱり皐月ちゃんが向かっていた。スコップを土に立てているけれど、ざくざくした音はしない。土が湿ってる所為だろう。ミナミちゃんはてこてことその後姿から覗き込み、僕も同じように、する。

「うわ」

「っひゃ!?」

「何これ、ひっどいな……どうしたの皐月、これ」

 びくっと肩を震わせて驚く皐月ちゃんに、ミナミちゃんはしゃがんで視線を合わせる。皐月ちゃんは握っていたスコップをぎゅぅっとして、土にざっくりと突き立て――立ち上がった。

 花壇は滅茶苦茶になっていた。育ち始めていた苗はぐしゃりと潰されて、ようやく一本残っているかいないかの状態になっている。踏み荒らした様子じゃなく、靴跡なんかはまったく付いていなかった。皐月ちゃんが掘っていた所為なのかも知れないし、そうじゃないかもしれない。

「水飲み場、壊されてたでしょ、あれ……一緒に、苗がぐちゃぐちゃにされてたの」

「ぐちゃぐちゃって、踏み荒らされてた?」

「わかんない。潰されたみたいにみんな、ぺちゃんこだった」

 ひっく、と小さく皐月ちゃんは喉を鳴らす。

「やっと大きくなってきたのに、水浸しで、苗も……ひどいよ、こんなの。レッスンしないからって、こんな」

「皐月ちゃん?」

「何でもない。ちょっと、乾いた土取って来るね。無事だったのだけでも、家で世話してあげたいから」

 言って、皐月ちゃんは駆けて行った。

「……んんううー」

「ミナミちゃん、何唸ってるの?」

「いや、判んないなって。お母さんの方は皐月の仕業だって疑ってるけど、皐月の方はお母さんの所為――いや、仕業だって、思ってるのかな。なんかなんかなんかなーって、そんな感じ。よく判んない、けど」

 立ち上がって、ミナミちゃんはその視線を花壇に下ろす。

「また、バラなんだね」

 図書館と同じかな。

 小さく呟いて、彼女は腕を組む。そのまま上を向いて少し唸ってから、僕の手を引いて歩き出した。

「バラがばらばら、バラかあー。ああ、美女と野獣だっけ? あれかな」

「アレって、何が? ミナミちゃん」

「あれって確か主人公、本が好きだったでしょう? でもって野獣はバラを持ってたんだっけ、この前ユーヤが見せてくれたじゃない。図書館で本が倒されて、バラは潰されて」

 言われて見れば確かに、そんな感じだ。だけどそれが何の意味を持つのか判らないし、ミナミちゃんもそうらしいと見えてうんうん唸っている。考えをまとめている最中なんだろう、くるくると髪に指を絡めながら繋いだ手を振っている。

「あー、でもどうかな、それだとうちの車はわかんない。やった人が違うのかな? でもそれじゃあ誰なのかってことになっちゃう」

「市の方から来た泥棒じゃない?」

「だから盗まれたものは無いんだって。んー、んうー」

 ミナミちゃんは唸りながら、いつものように脚の向くまま適当に歩いて行く。公園の前を通り過ぎて音楽教室の角を曲がり、隣町に入っていた。資材置き場からは積み上げられた木材やブロックが見える、やぐらの材料もあそこから持って来てるのかと、僕はぼんやり思った。

「図書館に小学校、バラに本、水飲み場と本棚……公共施設繋がり? でもやっぱりうちと繋がらないし」

「うわっ」

 ぐるりとミナミちゃんは方向転換する。捨てられたぼろぼろのブロックに足を突っ掛けてその背中に倒れ込むと、ミナミちゃんは笑って僕の頭を撫でた。


 ミナミちゃんとはいつものように家の前で別れた。玄関にお客さんのらしい靴はないから、『彼』も帰ったんだろう。僕はいつものように台所に向かうけれど、お母さんは料理をしていなかった。繋がっているダイニング、ソファーに腰掛けて、僕を見る。

「お帰りユーヤ、手は洗った?」

「うん」

「ちょっとこっち、おいで」

 なんだろう、いつもと違った空気に僕は少しだけ居心地が悪くなる。仕方なく脱いだ麦藁帽子が名残惜しくて、膝に乗せたままお母さんの隣に座った。少し距離を取っているけれど、気になるほどではない微妙な位置。身体を僕の方に向けて、お母さんが見下ろしてくる。お腹の奥がぎゅうっと気持悪い、手に汗が噴き出した。

 こういう状態が好きな人なんか居ないだろう。じっと見下ろされて、黙られている。何を話し出すのか判らない、判らないことが気持ち悪くて不安になる。ミナミちゃんが学校でなんとなく、差別の無い孤立になるのもその所為だ。彼女は笑ったり怒ったりするけれど、他人に話し掛ける事は無いし、されてもやんわりと拒絶する。判らないことは、怖い。人となりや性格、何が好きで何が嫌い。判らないのは不安だ。だから魔女は、鏡に確認する。

「今日、お隣のお父さん来たよね。あれね、あの子の髪の事だったの」

「……髪?」

 やっと口を開いたお母さんの言葉に問い返せば、こくんと頷かれる。汗が引いて行く感覚と一緒に、僕は麦藁帽子を離した。汗でじっとり湿ったそれをぱたぱた動かして、僕は足をふらふらさせる。髪と言う事は、染めたこと意外無いだろうけれど、それがどうしたって言うのか。

「なんでいきなり染めちゃったのか判らないんだって、お休みで一緒にいるんだけど、原因が判らないって……判らないと、怒ったりすることもできないでしょう? だから困ってるみたいで、何か判らないかって」

「ふーん?」

「お家に来ないからお母さんはあんまり判らないんだけど、ユーヤはよく遊んでるでしょ? だから、原因みたいなことがあるなら、何か判らないかなあって」

 ミナミちゃんの金髪。

 ミナミちゃんが髪を染めたのは、夏休みに入ったその日のことだった。八月一日、皐月ちゃんの家から犬が消えた日。その朝に僕はミナミちゃんの部屋の窓から入って、バスルームで髪を染めた。斑が出来ないように気を付けながら、綺麗に染めた。金色に染められた髪はくるくるの天然パーマ、赤いリボンはお姫様。陰鬱そうだった顔を微笑ませて、ミナミちゃんはありがとうと言った。

 僕は、どういたしましてと言った。

 誰にも晒すのが嫌なのに、僕には許してくれた彼女。

 握った掌、僕は爪を立てる。

 強く、爪を立てる。

「何かね、小さいことでも良いから、何かあったなら教えて欲しいって。すごく丁寧に言われちゃってね、こっちの方がなんだか何も言えなくて申し訳なくなっちゃう感じだったんだよ。だからユーヤ、何か知ってる事があったらで良いから、教えて欲しいなって。夏休みでもその前でも、ユーヤ何か判ること――」

「無いよ」

 僕は、きっぱりと言い切る。

「四年生からは教室二階になるでしょ? 高学年のことって全然判らないし、僕と遊んでるときのミナミちゃんはいつも同じ感じだよ。髪の色だって、気まぐれだよ。もしかしたらいきなり戻すかもしれない」

 僕はぴょんっとソファーから飛び降りてキッチンに向かう。今日のおやつはコーヒーゼリー、ミルクを取って部屋に向かう。ドアを閉じて開いている窓を確認すると、一息吐けた。机に向かって椅子にぼすんっと身体を下ろし、溜息を吐く。机の上に広げられた工作、何気なく取ったのはカッターナイフ。僕はその刃を、きちきちと、鳴らす。

 白々しくて苛々する。気持ちが悪くてぐらぐらする。胸の中に重い石が入って、それがお腹をぎゅうぎゅう押さえつけているみたいだった。吐き出せるほどに小さくも無くて、胸を開かないと出て行かない。だけどそんなことは出来ないから、ただぐいぐい僕を押さえつける。苛々する感覚は気持ちが悪くて。だから苦手だった。こういう面倒臭い感覚は、嫌いだった。苛々するのは嫌だった。怒ったり、泣いたり、そう言うのは。

 痛くて怖くて、嫌いだ。

 ぼんやりと、カッターを鳴らす。

 紙粘土の真っ白な花弁に、僕はそれを突き立てた。


「なんかユーヤ、ちょっとピリピリだね」

「え? 何それ、何が?」

 最近の日課、夜にやって来て窓から引き上げられたミナミちゃんはベッドに座って、僕を見た。パジャマ代わりのシャツと短パンに着替えながら僕が聞き返すと、彼女はもごもご口篭る。声は潜めてばれないように、僕達は一緒のベッドに寝転がった。明かりを消して小さな電灯を点け、顔を合わせる。くるくるの髪をいじりながら、ミナミちゃんはなんとなくね、と呟いた。

「なんとなく、ピリピリな感じ。こう、静電気を発してるよーな」

「そうかな。そんな事ないと思うよ、いつも通りだし」

「だからなんとなくね。別に何でもないんだよ、ほんと」

 言ってミナミちゃんは仰向けになる。解かれた髪がふわりと舞うのに僕は明かりを消して、彼女の方を向いた。お腹を壊さないようにタオルだけを引っ掛けて、僕達は目を閉じる。たまに頬に触れる彼女の髪を感じながら、そっと服の端っこを握る。ミナミちゃんは一度寝付くと朝まで起きないから、こうしていても気付かれたりはしない。

 そっと手を離して、僕は身体を起こす。

「ゆーや?」

 まだ寝付ききっていなかったのか、ぼんやりとミナミちゃんが僕を呼ぶ。

「おトイレだよ」

「そっかあー」

「うん」

 ちゃんといるから、と、僕は口唇だけで呟く。

 誰が居ても誰が居なくても、僕はいつもミナミちゃんの側にいる。だからミナミちゃんは何も不安にならなくて良いし、寂しくなったりしなくて良い。何があっても何が無くても、僕はいつもその隣にいる。その隣に、いたいと思っている。

 すうすうと寝息を漏らして今度こそ眠った彼女の髪に、ちょっとだけ指を絡めてから、僕は今度こそ立ち上がった。


「そういやここのお祭りって、お神輿とかどんなの?」

 公園の木陰に座って、僕達は木に凭れていた。図書館が使用禁止となると、後は行く場所なんてここぐらいしかない。大分出来上がったやぐらはもう金槌の音も聞こえなくて、飾り付けをしている最中だった。いつもより大人の出入りが激しいのを、子供達も楽しそうに見上げている。ミナミちゃんもそれを眺めながら、少し興味深そうにしていた。

「ここのはお神輿じゃないよ、山車って言ってね、車輪が付いてて、長い紐でそれを皆が引っ張るの。大人も子供も皆で」

「へえ、そうなんだ?」

「夜中まで街中回ってから、山の方に行くんだよ。そこで飾りとかそう言うのを燃やしてお終いにするの。やぐらは三つあってね、二階建てで、上は飾りだけど下は入ったり出来るんだよ。秘密基地みたいで、ちょっと面白いんだ」

「秘密基地か、なんか良い響きだね。ちょっとだけなら入ってみたいかな、――ぁ」

 ミナミちゃんが小さく声を漏らすのに、僕は麦藁帽子を上げる。やぐらと集まってる人達が相変わらずに見えたけれど、そこから少し外れたベンチに親子が座っているのが見えた。藍色のベビーカーを挟んで、母親と男の子が並んでいる。それはとても見覚えのある人影で、とても懐かしい人影でもあった。

 お祭りを楽しみにしている人達とは明らかに相容れない様子が、彼ら――大樹くんとそのお母さんからは、発せられている。

 でもどうしたんだろう。確かお母さんは診療所で受けた検査の結果が出て、もっと大きな病院に入院することが決まったと聞いていた。大樹くんと桃花ちゃんは引き取ってくれる親戚がいないから、施設に行くことになったとか。学校でみんなに挨拶をしたりはしないらしいし、音楽教室も手続きを踏んで正式に辞めたと先生は言っていた。なのにどうして二人、いや三人はここにいるんだろう。

「今はお別れ中なのよんー」

「っわ!」

 突然にょっきりと上から声を掛けられて、僕達は思わず声を上げる。慌てて見上げると、ホヅミさんが悪戯ッ気のある笑顔で僕達を見下ろしていた。わざわざ足音を消して忍び寄ってきたんだとしたら相当に性質が悪い、そうでなくても、気付いてない相手を驚かすのは良くない。心臓が痛い、ばくばくしてる。

「びっくりした、ちょっと心臓が商店街福引当選内臓一周旅行を果たして口から軽快にこんにちはしそうになっちゃったじゃないっ。驚かさないでよ、ホヅミさんてば」

「はっはっは、鍛錬が足りなーわよ子供達。しかしやーな所に居合わせちゃったね、お互いに。中々こういう状況って好きになれなくて、にゃーごしちゃうわ」

「こういう状況? そういえば、お別れ中って」

「そ。最後のお別れ。家族三人の、ね」

 苦笑するホヅミさんの言葉に、ああ、と僕達は頷いた。お別れ、最後の――もう会えるかどうかもよく判らない、家族が壊れる寸前を、僕達は見ているんだろう。これからあの三人は離れる、施設と病院に。桃花ちゃんはまだ赤ちゃんだから、大樹くんとは別の場所に行くことになるのかもしれないんだ。だから、これは最後。

 僕達が壊す家族の最後を、僕は何だか酷く冷静に、冷めた眼差しで眺めている気がした。

 何も感じない。クラスメートを一人街から追い出す形になって、その家族を完膚なきまでに破壊した形になっているのに、僕は何も感じていなかった。可哀想とか悪いことをしたとか、楽しいとか良い気味だとか。そんなことは何一つまるで感じず、ただ眺めている。無感動だ。掘り出した犬の屍骸を引き千切るよりももっと、何も感じない。

 ミナミちゃんが、僕の手をぎゅうっと握る。

 ミナミちゃんは、優しい。

 多分、ちょっと優しすぎるんだと思う。

 だから大樹くんが僕達をじっと睨んでいるのが辛いんだろう。憎しみとか悪意とかそういうものを向けられるのが怖くて嫌いなんだろう。だけど僕はどうでも良い。それが僕達に向けられているものでなく、ホヅミさんに向けられているのでもミナミちゃんに向けられているのでもなく僕一人だけを確実に見ているものだろうと――

 どうでも良い。何も感じない。

 ミナミちゃんを怖がらせる視線があるから、その手を握っているだけだ。

「……ああ、そーいや二人とももう聞いた? 神社のお賽銭箱がね、壊されたってさ」

「賽銭箱?」

 ホヅミさんの言葉に僕達はその視線を彼から逸らす。そーそー、彼女は頷いて、肩を竦めた。よく見ると昨日より一本簪が増えている。夜には浴衣でも着て、山車を引っ張るのかもしれない――うん、この人ならやりそうだ。

「神社ってあそこだよね。賽銭箱、どうなってたの?」

「今から見に行くところー。通り掛ったらちーっと色々見付けちゃった感じでにゃーごな気分になっちゃったけどね。二人とも、一緒に見に行ってみる?」

「目は多い方が良い?」

「そうそう、そう言うこと」

 神社の境内の上、真ん中には、木片が散乱していた。あまり注意して観察した事は無いけれど、確かあそこには僕ぐらいなら入れそうに大きな賽銭箱がある。

「あれ。片付けとか全然されてないね、なんでだろ」

「ここってうちの先輩の実家でねー、手ぇ付けないように一升瓶でお願いしとーたの。そう言うわけで、見てみよーかね」

 よッと三段跳びに階段を跨いで、ホヅミさんは境内に上る。壊されているのはお賽銭を入れるぎざぎざの所が大部分のようだった。箱の上に何か落とした形で、構造の問題もあってか木片があちこちに飛んでいる。

「賽銭箱の中身は無事だったの?」

「千円札落ちてるし、そうなんじゃなーかしらね。木っ端と小銭が混じってより分け大変そーだわー……水飲み場壊したのと、同じかな? エモノは」

「だと思う。ほら、これ」

 屈み込んで床や木っ端を眺めていたミナミちゃんが、境内の一点を指差す。僕とホヅミさんはそこを覗き込む、木っ端に紛れて判りにくいけれど、どうやら境内自体に付いている傷らしい。指でその部分を撫でて形を確認し、彼女は顔を上げる。

「この角が当たった感じの傷ね、水飲み場にもあったから。でも判んないなー、学校に図書館なら公共施設繋がりだけど、神社は絶対違うし……」

「民家の車なんて尚更にねー。考え方によってはエスカレートしてーのかしら。民家の車、小学校で雨ざらしの水飲み場。施錠された閉館後の図書館――」

「賽銭箱って簡単じゃない?」

「いや、祭りの準備でね。最近はここって結構ごった返してーのよ、昼夜問わずで……今日は流石に人払いしてーのだけどね」

「つまり、間隙を縫ってってことなのかな。うーん、よく判んない……っと?」

 ミナミちゃんが賽銭箱の中に手を突っ込もうとするのに、僕はそれを止めた。だからどうして彼女は怪我をしている手を使いたがるのか、縁に手を付いて身体を支えるのに無事なほうを使うからだろうけれど……僕は代わりに手を入れる。指の絆創膏に、棘が引っ掛かった。

 入っていたのは、白いバラ。

「バラ? 図書館と同じだーね、入ってたの?」

「うん、そうみたい。お賽銭箱の溝からは入らないから、やった人が追いてったんだと思うよ」

「学校とも同じなんだよね。バラ――バラかあ。皐月、どうしたのかな、あの苗」

 ふっとミナミちゃんが小さく呟く。僕はバラをホヅミさんに渡して、あ、と声を零した。

 神社。この近くには大樹くんの住んでいた借家がある。大樹くんと皐月ちゃんは仲が良かった、二人の家が近いから。皐月ちゃんの家もこの近くで、そして――バラ。

「ね、ミナミちゃん、もしかして皐月ちゃんじゃないのかな」

「皐月? って、何がさ」

 きょとんっとしてミナミちゃんは僕を見る。ホヅミさんから回されたバラを受け取って、それをくるくるペンのように回した。ペン回しが出来ない僕には棘だらけのバラでそんなことの出来る彼女のワザは嘆息モノだけれど、今はそう言っている場合でもなくて。

「この近く、大樹くんの家からちょっと行った方なんだけれど、皐月ちゃんの家もあるんだ。結構近いんだよ、昔はよく行ったから憶えてる」

「確かに近いけど、でも学校や図書館は? それに学校は、皐月だって育ててたバラがぐちゃぐちゃにされてたじゃない」

「それが、目的だったんじゃないのかなって」

 僕の言葉にミナミちゃんは首を傾げる。ホヅミさんは皐月ちゃんを知らないから黙って聞いているだけだ。僕は言葉を繋げる、あまり喋るのは得意じゃないから畳み掛けるようにとは行かないけれど、精一杯にミナミちゃんに向かう。

「えっと、先生も言ってたでしょ、最近皐月ちゃんがレッスンしないって……でも花壇がぐちゃぐちゃになったら、お世話しなきゃって理由が出来るもん。ただ花壇がぐちゃぐちゃになるんじゃ疑われちゃうでしょ? だから、水飲み場壊したんだ」

「でも、皐月ってちっちゃいでしょ。ユーヤよりちょっと大きいぐらいで、あたしよりは背も低いのに、そんなこと出来る?」

「うん……出来る、と思う。ミナミちゃんも言ってたでしょ? 水飲み場、あんまり力の掛かってる壊し方じゃないって。何か硬いものを投げるとかすれば出来るよ」

「そっちはカムフラージュで、目的は花壇だった、か。でも、それなら図書館や神社は? あと、車もね」

「それも、かむふらーじゅ……じゃないかな。学校だけだと心配だから、暈すみたいに色んな所、って。図書館はどこかの鍵を開けておいけば後で忍び込めるし、神社は、近くだからここに居てもおかしくないでしょう?」

「機を伺うには丁度良い、ってこと? バラを置いていったのも、花壇を荒らしたことを誤魔化すために?」

 僕は頷く。

 そう考えれば整合性は出来る。バラのことも神社のことも、図書館のことだってそうだ。本棚は強く押せば子供の力でも簡単に倒れる、皐月ちゃんは小柄だけど僕よりは背も体重もあるだろう。踏み台代わりの脚立だって置いてあるから、それを使って上側を押せばもっと簡単に出来る。誤魔化すために重ねて、暈して行く。そこにあった目的を、不自然や失敗を。

「他には、大樹くんだって疑えると思うよ。神社なら大樹くんだって隙を見付けやすいし、皐月ちゃんとは仲が良かったから、頼まれたのかもしれないし」

「それは、……どうかな。あたしはあんまりあの二人判らないし、でも、世話したいはずのバラをあんな風にはしないと思うよ。それは、不自然。それに皐月、あれを鉢に入れてたから、家に持って行くつもりだったんじゃないのかな。それじゃ、逃げられないよ」

 きゅう、とミナミちゃんはバラを握る。

 棘が刺さるのは、痛くないのかな。少しだけ、僕は思った。

「あ。ユーヤ君」

「え?」

「三時近いけど、教室行かなくて良いの?」

 すい、とホヅミさんは僕に腕時計の文字盤を示す。そうだ、今日は音楽教室の日だった――まずい、早く行かないとまた怒られる。ミナミちゃんは苦笑いで僕の背中を押す、僕はそのまま、走り出した。


 走った所為で収まらない咳を掌に吐きながら、僕は椅子を引いて席についた。少し遅れて先生には怒鳴られたけれど、チャイムには間に合ったから気にはしない。遅刻してないんだから、お母さんに言い付けられたって大したことじゃないし。口を手で塞いでいると、隣にいた皐月ちゃんが僕の背を撫でてくれた。やんわり断って、僕は呼吸を整える。

 やっぱりあんまり走ったり運動したりって言うのは苦手だ。発作を起こすことは本当になくなって来たのに、咳き込んで止まらなくなることはしばしばある。このままじゃいつまで経っても身長が伸びそうになくて、それはちょっと心配だった。けふっと最後に小さく漏らして、僕は深呼吸をする。

「大丈夫、ユーヤくん?」

「うん、平気……ありがとね、皐月ちゃん」

「あんまりぎりぎりだと危ないよ、この頃お母さんすごく早いし、怒りっぽいからね。あれ、どしたのそれ」

 ちょんっと差されて、僕は自分の手を見る。多分右手の中指に巻かれている絆創膏だろう、僕は苦笑いを作って顔を上げる。思い出すとちょっとひりひり痛む、今までは気にならなかったのに。

「工作の宿題あるでしょ、カッター使ってたらちょっと切れちゃって。血は出てないんだけど、引っ掛かったら怖いから」

「カッターって、痛そうだなあ……私はバラの観察日記付けてたんだけど、どうしようかな、もう」

 皐月ちゃんは小さく呟いて、溜息を吐く。たしかにあんな風になったら観察日記も付け辛いだろう、荒らされて途中からは鉢植えになった、なんて説明も書かなきゃいけないんだろうし。相当堪えているらしくて姿勢も少し悪く、背中が曲がってしまっている。いつもはもっとしゃんとしているのだけれど。

 楽譜を開いた所で、またその視線が僕に向けられる。

「観察日記もだけど、日記もどうしようかって思っちゃう。絵日記の宿題出てたけど、なんかね。今朝大樹くんがうちに来て、お別れの挨拶って……ユーヤ君のうちにも行ったのかな?」

「僕は遊んでたからわかんないけど、多分来ないんじゃないかな」

「どうして? 仲良かったのに、クラスだってずっと一緒で」

「学級一つしかないからだよ、それは。ちょっとね、色々――」

「そこの二人!」

 怒鳴り声に、僕達は前を向く。教卓に手を付いて、先生がこっちを強く睨んでいた。皐月ちゃんがごくんっと喉を鳴らして唾を飲むのが聞こえた、気がした。

「私語するなら出て行きなさい、みんなの邪魔になるでしょう! 子供じゃないんだからちゃんとしなさい! 二人とも今日は居残りするように!」

 僕は何も感じない。

 怒鳴られたって怒られたって居残りさせられたって。

 そんなのは、ミナミちゃんに会う時間が減るという意味しかなくて、それは少し苛立った。だけど怒られることや言い付けられることは、どうでも良かった。どうでも、どうとでも。

 ふっと、僕は鼻から息を漏らした。


 居残りをサボるのは初めての事だったけれど、帰りの波に紛れてしまえば見付けられる事はない。夕焼けの中、足にぶつかって煩わしい大きな鞄をがりがりと軽く引っ掻きながら僕は郵便受けを見る。見えていたのは大きな封筒、それを取ってから玄関をくぐって部屋に向かう。ドアを閉じて封筒を本棚に軽く押し込み、窓の外を覗いた。ミナミちゃんはまだいない、ホヅミさんと一緒に何かしてるのかもしれない。

 それを考えると少しだけ苛々したけれど、僕は深呼吸を一度することでその感覚を逃がした。封筒を開いて中を見ると、貸していた宿題のプリント集が入っている。残っているのは算数の五枚だけだから、今日と明日で終われるだろう。工作はちょっと心配だけれど、少し夜更かしすればどうにかなる。

 バラは花弁にも全部色が付いて、あとは組み立てるだけだった。上手く出来るかどうかは判らなかったけれど、とりあえず形になれば良いと思っている。それにアクリルの覆いを被せて、あとは学校に無事持って行く事が出来れば。

 木工ボンドを取って、僕はバラを組み立てる。

 中心部分を作ったら、少し乾かすために置いておく。窓を見ると夕焼けはもう過ぎかけて、空には濃く紫が掛かっていた。ミナミちゃんはまだ来ないらしい、僕はプリントを広げる。棒グラフはよく判らなくて好きじゃない、ページを捲ると、数直線が見えた。これも苦手。パーセントをつかえば良いとミナミちゃんは教えてくれたけれど、殆ど魔法の呪文だ。

 ぱさりと落ちてきた手紙を、拾う。

「ふっきゃあ!」

「ッうわ」

 どばたんっと音がして、悲鳴が響く。僕が慌てて窓から外を見ると、ミナミちゃんが地面に尻餅を付いていた。足は踏み台代わりのブロックに掛かっているから、多分滑って落ちたんだろう、だけど、ミナミちゃんは震えている。少し顔が青ざめて――まさか。

「ミナミちゃん、腕ッ!」

 転んだ時に反射的に付いたらしい腕は、左だった。三角巾を外していたからだろう、固定している腕がぶるぶると震えている。僕は慌てて窓を全開にし、足を桟に引っ掛ける。

「ユーヤ、どうしたの……ユーヤ!?」

 ドアの開く音と声、お母さんが僕達を見つける。

 靴下のまま外に飛び降りて、僕はミナミちゃんの身体を支え起こした。自分の小ささが本当に恨めしい、本当は抱きかかえて運びたいのに、下から支えるばかりだなんて。歯を食い縛って、ミナミちゃんは走る。僕も一緒に走る、背中からはお母さんの呼ぶ声がした。僕は振り返らないで走る、ミナミちゃんを支えながら、ぎゅうっと抱きながら、お母さんから逃げるために――暗くなり始めた外に向かって、走った。

 立ち止まったのは、公園だった。

 息を整えてミナミちゃんは蹲る。上がって落ち着かない呼吸を抑えながら、僕は屈んで彼女を覗きこんだ。蒼褪めていた顔は少し色が戻っているけれど、やっぱり普段よりはずっと白い。口唇を噛んでいる歯も、小さく震えていた。

「ミナミちゃん、平気? 痛い? 大丈夫? ブロックから落ちたの、他にぶつけたとこない?」

「……、……大丈夫、大丈夫。ごめ、ちょっと、足滑っちゃってね。なんかブロック踏んだらずるって、ずれたみたいで――ごめん、ユーヤ」

「病院行こう? 見てもらわないと危ないよ、どこか悪化してたら大変だから、ね? 僕も一緒に行くから、だから」

「ユーヤ」

 ぽんぽんっと、ミナミちゃんが僕の頭を撫でる。

 拍子に、ぱたぱた涙が零れた。

「ユーヤこそ足、痛そうだよ? あたしは大丈夫、ね――だからユーヤは、自分の心配しなきゃ駄目。傷からばい菌入ったら大変だよ、ちょん切ることになっちゃうかもしれないでしょ? だからうちに帰って、手当てしなきゃ駄目」

 言われて僕は足元を見る。白い靴下は汚れて、所々に赤い色が浮かんでいた。だけど痛くない、僕は、何も感じない。

 ミナミちゃんは僕の頭を、ぽんぽんと撫でる。

 僕は何も感じない。

 ミナミちゃんの痛みすら、感じられない。

「ミナミちゃん、は、いつも――そうだ」

「ユーヤ?」

「おばさんに腕掴まれた時だってそうだった、いつも僕のこと心配して、僕の不安ばかり心配して、僕の心配は心配してくれなくてッ」

「ちょ、こら、ユーヤ」

「ミナミちゃんはいつもそうだ、いつもそうだいつもそうだ! 自分が痛いこととか怖いこととか話してくれないし、許してくれない、僕はいつも心配なのに、なのにッ!」

 げほげほと咳が込み上げた。しゃくり上げて僕は言葉を吐き出す、ミナミちゃんは立ち上がって、僕をぎゅうっと抱っこした。すっかり飾り付けられたやぐら、周りには露店。紫を濃くしていく空の下、あちこちにぶら下げられている提灯がやんわりと僕達を照らす。ミナミちゃんの髪にも柔らかい夜が薄く落ちる。お祭りの空気がじわりじわりと滲み出している公園の前で、僕は泣いていた。胸が重苦しくて気持悪い、泣くのは面倒だ。鼻水が垂れる。だけど込み上げる。ミナミちゃんは痛いはずの腕で僕を抱いて、撫でる。僕は縋るように抱きつこうとして、やめる。

 腕で顔を拭いて、離れた。

「ユーヤ」

「ミナミちゃん、ちゃんと病院行って」

「平気だってば。後で、ホヅミさんとこの妹さんにでも看てもらう」

「いもうと……?」

「ん、さっきまでちょっと邪魔しててね。今日は休みだって言ってたから、ちょっと見てもらうぐらいなら出来ると思うし。それで変だったら病院行くから、ユーヤもちゃんと足の手当てするんだよ」

 ぐし、と僕は鼻を啜って、頷く。

 ぽんぽんと優しく撫でる手に、爪を立てたいと、思った。


 家に帰ると、当たり前のようにお母さんに怒られた。窓から出るなんていけません、裸足で出るなんて。足の手当てをしながらもぶちぶちと、ぐちぐちと。

「あの子、いつも窓からユーヤとお話してるの?」

「……たまに」

 部屋に入って来たり、一緒に寝たりすることもあるけれど、わざわざ言う必要は無いだろう。僕は小さく頷く。お母さんは、ふーん、と鼻を鳴らした。

「ユーヤ、やっぱりお母さん、ユーヤにあの子と遊んで欲しくないよ。こっそり会ったり、こういう風に怪我するんなら尚更。そういうこと腕白で良いかもしれないけれど、痛いことなんて格好良くないんだよ。変なことするのは、駄目なんだよ」

「…………」

「消毒したけど、変な感じとかするならちゃんと言うんだよ。お母さん今から町内会の出店手伝ってくるけれど、ユーヤは今日のお祭り、出るの禁止だからね。こんな足なんだから、工作とかエレクトーンの練習とかしてなさい」

「……はぁい」

「出ちゃ駄目だからね。駄目なんだよ?」

 何度も念を押して、お母さんは出て行った。玄関で鍵の掛けられる音を確認して、僕は部屋に戻る。床に落ちた手紙を流し読みしてから放り、窓から少し身体を乗り出した。踏み台代わりにしているブロックはお母さんに持っていかれたりしていないようで、ちゃんとそこにある。隣町の資材置き場からこっそり持って来るのも大変だから、それは助かった。滑ったと言っていたけれどどうしてだろう、少し欠けているからその所為かもしれない。また新しいのを持ってくるのも、億劫だった。

 机に向かって、作りかけのバラを掴む。なんとなく湧きあがってきた握り潰したい衝動を堪えながら固まっているのか確認して、外側の花弁をぺたぺた付けた。角度が中々難しい、どうすれば綺麗に見えるのか判らない。図鑑と比べたりするけれど、引っ繰り返せないからお手本にはならなかった。ボンドが乾かないうちに調整するけれど、いまいち。図工はあんまり好きじゃない。

 窓は開いている。風は入らなくて、むしむしした空気だけが入ってくる。それは気持ちが悪くて、とても不快だった。だけど僕は窓を閉めない。小さな扇風機を回しながら、塗ったニスを乾かす。その合間に算数のプリントを。針金で出来たバラの芯に棘を。棘を、棘を。


 お姫様をぐるぐるに囲む、イバラ。

 ヤマアラシのジレンマ。

 指を差した針は眠りを。

 覚ます王子様を、僕は。


 プリントと工作が終わった頃には、日もすっかり落ちていた。お母さんが作り置いてくれたお夕飯をレンジで暖めて食べる。お父さんもお祭りに寄ってから帰ると朝に言っていたし、一人で食べるご飯は変な味だった。半分しか美味しくない。いつもはお母さんやお父さんが居て、そうじゃなかったらミナミちゃんがいる。一緒に半分こするのは嬉しくて、美味しかった。

 お風呂に入っても、本を読んでいても。

 ミナミちゃんは、来ない。

 時計は十時を指している。お父さんもお母さんはまだ帰って来ないだろう。いつもなら二人で横になってる時間なのに、僕は一人で床に座っている。ベッドに寄りかかりながら窓を眺めて、彼女がいつものように金色の髪を揺らせながらやって来るのを待っている。どうして来ないんだろう。どこかに行ってるのかな。

 お祭りに行きたいって、言ってたっけ。

 行ったのかな。

 ホヅミさんと。

 僕は立ち上がる。学習机、一番下の大きな引き出しを開けると中には運動靴が入っていた。表向きには防災用だけど、実情は眠れない夜にミナミちゃんが呼ぶ時出て行けるためのもの。泥だらけのそれを持って窓の桟に腰掛け、履いてから、飛び降りる。お祭りは商店街や会社のある通りがメインだから、住宅地は静かなものだった。みんな向こうに行ってるのか、人影がなくシンとしている。僕はその中を、歩く。肩が痛くて、少し、呼吸も荒かった。ずり下がってくる麦藁帽子を直すことも出来なくて、俯いて歩く。夜でも、顔を隠していられるのは安心出来た。


 誰にも顔を見せないで。

 ローブを引き被るように。

 夜を歩いて。

 お姫様。

 金色の彼女を。

 僕は守りたいから。

 彼女が傷付かないように。

 彼女が痛くないように。

 ぐるぐるぐるぐる。

 気持ち悪くないように。

 王子様に、なりたい。


「駄目だよ、ユーヤくん」


 僕は顔を上げる。外灯に照らされて立っていたのはホヅミさんだった。長い髪に幾本もの簪を差して、濃い赤の甚平姿。腕を組んで僕を見ている。ミナミちゃんの家の前にいる、僕を見る。

 彼女の後ろに隠れるように、金髪が見えた。

 ふわふわの金色が、見えた。


 僕は、持っていたブロックを、アスファルトに落とした。


■□■□■


「針の道とピンの道、かあー」

「何、ミナミちゃん?」

「ああ、うん。赤頭巾でさ、狼が赤頭巾に聞くんだよ。森を行くとき、針の道とピンの道のどっちが良いかってさ」

「どう違うのか判んない……」

 ミナミちゃんは肩を竦める。

「この針ってね、縫い針の事なの。ちくちくする、あの細いのね。ピンって言うのは名札なんかに付いてる丸いの――安全ピンって言うじゃない。あれのことね」

「あ、そうなんだ」

「そうそう。縫い針で縫いとめる真面目な方向か、ピンで仮止めしてやり過ごす簡単な方向かって。結果は同じなんだよね、同じゴールに向かって、でも近道と遠回りがある。そう言う事なのかな?」

 ぐぐ、と伸びをして、彼女は唸る。

「あたしは簡単な方が良いな。すぐにほつれちゃっても、直すのだって簡単じゃない。留めてるのが外れたら、直せば良いだけだもん」


 それは、留めていた場所が外れた時だけで。

 針を通していた穴が広がって、破けて、解れて。

 そうなったらきっと直らない。

 それは縫い針で留めた箇所も、同じだけれど。

 空けられてしまった穴から広がる亀裂は――


■□■□■


「何処から、説明したものかしらーね――」

 ホヅミさんは息を吐いて、仕方なさそうな視線で僕を見た。哀れんでいるようで、悲しんでいるようにも見える。僕は麦藁帽子を下げるのも忘れて彼女を凝視していた、正確には、彼女の後ろに隠れて金色の髪だけを僕に見せている彼女を見た。ミナミちゃんは僕を見ない。大樹くんを見なかったように、僕を見ない。皐月ちゃんが犬を殺した時のように、俯いている。

 怯えて。怖がって。痛いことを嫌って。面倒なことを厭って。

 不自然。

 適当に、理由を付けられていたと思ったのに。

「じゃ、最初の不自然から行こうっか。神社でお賽銭箱を見に行った時、ユーヤくんは皐月って子と、大樹くんが怪しいんじゃないかって言ってたね。どっちも子供だ。車とか水飲み場とかを壊す、結構な力技なのに、君は『子供でも出来る』って妙にきっぱり言い切った。ちょっと妙だなと思ってね……何か重いものを使えば確かに可能かもしれないけれど、それを使うだけの体力が子供にあるのかは疑問だよ。発想の逆転、誰かを犯人にしたいなら、それは何故か。犯人を、知っているから」

 かつん、と彼女は僕に一歩踏み寄る。靴音に視線を落とせば、簪に甚平と言う格好にも関わらず、彼女はヒールの高いサンダルを履いていた。お祭りで歩くのにそれで良いのかと思う。絶対に転びそうだ。

「それに君は言ったね、『重いものを投げれば』って。単純に考えれば、『重いものを落とす』方が労力も少なくて自然だ。なのに投げるって言う発想をした、それも、不自然だったよ。後は逆算の演算だね。雨ざらしの水飲み場と車は簡単に壊せる、図書館もルートは確保出来ていた。それは、あたしが教えたことだしね。本棚は奥の二つが残ってた、窓を堺に向こう側の二つだ。君の靴、随分汚れてるね。窓から出る専用だっけ。水飲み場の時に泥が付いたのかな」

 一歩、また、距離が詰まる。ミナミちゃんは彼女の甚平の裾を掴んでいるようだった。ちらちらと髪だけが見えていたのに、今は仄白い顔も見える。表情は、伏せられて判らない。

「バラを潰したのは、多分君の個人的な感情が由来していたんじゃないのかな。だからそれを誤魔化すために図書館で本棚にバラを置いて、お賽銭箱にも同じように残した。最初の車には残さなかった辺りからもそう。調達は図書館から。あそこにはいつもバラがある」

 一歩。

「理由を推し量ることは出来ないけれどさ。凶器はもう明確だね、そのブロック。君の部屋の窓下に置いてるらしいね。今日はその位置が変わっていた、いつもは壁にくっ付いてるのに今日はそうじゃなかった。そんな重いものを持ち上げたり移動させたりする理由は何か――壊すため。一度使ったら壊れちゃいそうだけど、隣町の資材置き場にごろごろしてる。見に行ったらぼろぼろなのが一個捨ててあったよ」

 また、一歩。

「指に怪我をしているね? 君の部屋にカッターはあるけれど、工作の作業ではもう使い終わってる。ブロックで擦ったか、お賽銭箱の木っ端が飛んだか。どっちにしろ切り傷じゃないだろうから、見ればそれは明確だ。もしかしたらだけど、やぐらの資材壊したとか道路にゴミぶちまけたとか――あれも、君のしたことなのかな」

 バラの芯に巻く紙テープを切ったのは、一番最初の作業だった。普通のそれだと形が歪になるから、真ん中から筋を入れて太さを半分にして。あとは紙粘土で花弁を形作って色を塗ったり、ニスを塗ったりするだけだった。針金を指に引っ掛けていたとでも言えば、良かったのかな。僕は笑おうとする。笑えない。笑いたくもない。可笑しくもない。オカシクない。


 僕はオカシクなんかない。

 ミナミちゃん。

 僕は、ただ彼女を。


「さて、理詰めはここまで」

 一歩、いつの間にかホヅミさんは僕の目の前までやって来ていた。ミナミちゃんも随分近い。相変わらず隠れるようにして、僕に顔を見せようとしない。ポニーテールにくるくる巻き毛、金色は僕の色。僕が染めた、僕が許された色。

 一歩、いや、半歩。ホヅミさんに促されて小さく足を踏み出したミナミちゃんは、陰鬱そうな表情を少しだけ上げて、ちらりとだけ僕を見て、またその顔を俯かせて。僕はそれをじっと、もしかしたら呆然と、眺めて、見上げて。

 何を期待しているのかは判らなかった。

 何も感じていないのかも、しれなかった。

 予感だけが、胸の中でぐるぐると気持ち悪く――

「ユーヤ」


 ぽつりと。

 彼女が。

 僕を呼ぶ。


「なんで、こんなことしたの」


 ぷつりと。

 彼女が。

 僕を裏切った。


 距離を詰めるのは一足飛び、僕は彼女に手を伸ばす。くるくるの巻き毛に手を伸ばす。反射的に身体を引かれたけれど、彼女を逃がさないで。その髪に手を伸ばして、赤いリボンを掴む。僕が結んだあのリボン。あの時から彼女の髪をくるくると纏めていたそれ。僕達を繋いでいたそれ。引っ張ればちょうちょ結びは解けて、髪が広がる。金色の巻き毛、お姫様の髪。

 ミナミちゃんは表情を歪ませて怯える。

 解けた髪の狭間から覗いたのは、地肌。

 彼女が髪を、染めた理由。

「ミナミちゃんが、何も言わないからだッ」

 僕は俯く、帽子を下げて彼女に向かう。顔を見ないで視線を上げないで、そうやって彼女に言葉をぶつける。

「ミナミちゃんが僕に何も言わないから、言ってくれないから! 髪がそんなになったのも、腕折られたのも、いつも青痣作ってたのも知ってたのに、判ってたのに! ミナミちゃんは僕に何にも言ってくれなかった、いつも一緒にいたのに僕に何も言わなかった!」

「ひ、ひあああ」

「待ってたのに、待ちくたびれて待ち疲れてそれでも待ってたのに、ミナミちゃんは僕に何も言ってくれなかった! なのに、この人には許したんだ! ホヅミさんには近付かせて、僕にはッ」

 いつもは人を煩わしがって適当にあしらってそれを気付かせない彼女が、

 彼女には怖いことを晒そうとした。

 不自然が嫌だと、怖いと、簡単に告げようとした。

 心の中に、踏み込ませた。

「ミナミちゃんのお父さんを、僕は――」

 バラを潰したことには意味なんか無かった。でもそれが意味だった。ホヅミさんの言った通り、僕の私情。私怨。あれは、そういうものだった。水飲み場を壊した後で裏庭に行って、随分育ったバラを見て。僕はそれを、壊したくて溜まらなくなった。花壇に向かってスコップを下ろしていたいつかの彼女の姿が、陰鬱そうに家路につくミナミちゃんによく似ていたから。その背中を見るのが、もう嫌だったから。

 あのバラがどんどん大きくなって、ミナミちゃんを包んでしまう気がしたから。そのまま隠して、眠らせてしまいそうだったから。

「ちょっと、待って」

 混乱したように戸惑ったように、ホヅミさんが声を漏らす。

「『ミナミちゃんのお父さん』って、それは、ユーヤくんのお父さんじゃないの? この家、ここがミナミちゃんの家? 君達、姉弟じゃ――なーって、こと?」

 彼女は僕を見下ろす。僕達を見下ろす。僕は彼女を見上げる。そんなどうでも良いことに、愕然とした表情で眼を見開いている彼女を見上げる。

「おかしい、でしょう。親の虐待が兄弟の一方にだけ向かう事は多々ある、ユーヤくんが音楽教室行ってるのにミナミちゃんは違うとか、そういうことだと――じゃあ、どういうこと? それは、何?」

「ホヅミ、さん?」

「誰が、ミナミちゃんを着替えさせてるの? 誰が、髪を洗ってあげてるの? 誰が、包帯や固定を直してるの? 誰が、怪我したこの子にワンピースを出してるの? 誰が、履きやすいようにローファー出してるの? 誰が、靴下履かせてあげてるの?」

「え――」

「親、でしょう?」


 ミナミちゃんには、お父さんしかいない。

 でも、『彼』は。

 くるくると髪を引っ張るクセ。

 折れた左腕は、利き手じゃない。


 僕は落としたブロックを掴んでホヅミさんに投げる、そのままミナミちゃんの腕を掴んで、祭りの騒がしい商店街へと駆け出した。


■□■□■


「ミナミちゃんも魔女になれる?」

「なれるよ」

「僕もなっちゃうのかな」

「なれないことも、ないんじゃない?」


■□■□■


 山車の中にいた子達も、夜遅くなるほどに消えていった。途中乗ってきた皐月ちゃんに貰ったキツネのお面、そのゴムを引っ張りながら僕はぼんやりと小さな白熱灯を見上げる。ミナミちゃんは髪を僕の麦藁帽子の中に隠して、膝を抱えながらそこに顔を埋めていた。

 二人だけで、小さな空間にいる。

 飾りを焼くのはお祭りの二日目だけれど、一日目も山には行く。そこで一晩を明かして、次の日には山から出て行って公園のやぐらに行き、そこからまた山に戻る。山の神様に降りて来てもらって、それを里に運び、また戻すということらしい。生活の時間に絵地図を作った時、習ったっけ。

 人混みに紛れているだけだとすぐに見付かってしまうだろう。かと言ってバスなんかは止まっているし、そもそもお金なんてない。そうなったら、通り掛った山車に飛び込むしかなかった。暗黙の了解のようにこの中には子供しか入れなくて、中学生でも滅多に入ってこない。ここに居れば、ホヅミさんには見付からないだろう。大樹くんはお祭りどころじゃないだろうし皐月ちゃんの顔は知られてないから、あの人が頼りに出来る子供はいない。

 逃げてどうするのか、考えてなかった。

 ただ、逃げておきたかった。

 いつもみたいにミナミちゃんと二人だけに、なりたかった。

 粗末な板張りを小さく鳴らして、僕は座りなおす。お尻がちょっと痛かった。ふっとミナミちゃんが小さく顔を上げて、また伏せる。僕は何も訪ねない。いつもの距離を保つ、棘を刺さないように、刺されないように。

「……お母さん、ね」

「え?」

「あたしのお母さんね、自殺、したんだ」

 ぽそぽそ。

 小さく、くぐもった声で、ミナミちゃんは零す。

「あたしが、三年の時。ここに引っ越してくる直前だった。その頃はお父さん、仕事忙しくてあんまり家に帰って来なかったから、あたし、お母さんと二人で暮らしてるって思ってたぐらいだった。でもお母さんは違って、三人家族なのにって、思ってたみたい」

 少し顔を上げて、ミナミちゃんは淡々と喋る。誰も居ない小さな空間、ごろごろと車輪がお尻の下で転がっている。引っ張って行く大人の声は、遠い。

「ノイローゼって言うんだろうね。お母さんいつも三人分のご飯を用意するようになった。それまではお父さんが居ない時、ご飯用意しなかったんだけどね。お父さんの好物ばかり作るようになった。繋がってない電話に向かって話しかけるようになった」

 がたん、と音がする。車が斜めになったから、山を昇り始めたんだろう。壁に背中を預けて、僕はミナミちゃんの言葉を集める。逃がさないように、ぎゅうっと抱くように。

「あの時、夏休みになってから、叩くようになって。怖くて、見付からないように音立てないで歩いてた。あの日、帰ったら、お母さん座椅子に独り言向けてて――どうしたのって訊いたら、首締められた」

 音を立てないで歩くクセ、黒いワンピースは喪服。帰りたがらなかったのは父親が怖いんじゃなくて、家が、怖いから。そこにいることが我慢できないから。閉塞されて息苦しい。夜の放浪、朝の散歩。だから彼女は家を抜け出す。夏が怖いのは、思い出す、から。

 零さないように。

 言葉を。

「あたしの縄跳びの紐でね、ぎゅうーって。どうやって逃げたのか判んないけど気付いたら外に居て、もう一度家に帰ったら、お母さんが首吊ってた」

 異常な行動、不自然な行動。だから彼女は怯える。それが命に関わることであるように、致命傷のように。怖いことだから、不安なことだから。殺されるから、死にたくないから。ぐるぐるとお腹の中で渦巻く不快感が怖くて、彼女は、不自然を嫌う。解消するために、動く。


 受け止めて。

 飲み込んで。

 抱き締めて。

 受け入れる。


「だから、此処に引っ越して来たの」


 ミナミちゃんはそれっきり顔を伏せて、黙った。

 僕も、黙った。

 学校に続く坂で皐月ちゃんのお母さんに会った時、ミナミちゃんはらしくなく少し怯えた様子を見せていた。多分それは、先生が母親だったからだろう。大樹くんを待ち伏せていた音楽教室の裏でずっと俯いていたのも、彼の母親が原因だったからだ。母親は、怖い。鏡の奥を信じきったお后様は白雪姫を殺す。鏡は、父親だという。ミナミちゃんがいつか、言っていたっけ。

 怖くても、欲しかったんだろう。

 ホヅミさんに求めていたのは、そういうものだったのかもしれない。

 ――――でも、僕は。

 山車が止まる。

 お面を下ろして顔を隠し、僕はミナミちゃんの腕を引っ張って暗い山の中に飛び出した。

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