第5話 八月二十三日 おかしな家

 なだらかな坂道を登り終えると、そこには石畳が広がっていた。提灯を沢山ぶら下げられたくすんだ色の古い鳥居を潜ると、小さな境内のある神社が見える。僕には見慣れた光景だけれど、ミナミちゃんはそうでもないらしくて、辺りをきょろきょろ見回していた。一週間後に迫ったお祭りのために飾り付けもされているから、変な感じでもある。神社自体は古いのに、提灯や蛍光色の造花はそれとまるで調和していない。人の出入りはまだそれほどでもないから、余計にそれが浮いている。

 小さく木立に囲まれているから、たまに子供が蝉を取りに来ることもあるけれど、夏休みも終盤になるとその姿も無いらしかった。子供も子供なりにお祭りの準備をしている。宿題を終わらせて。

「へー、ラジオ体操ってこんなとこでやってんだね。知らなかったや」

「学校で渡ったプリントに書いてたはずだけど……」

「あたしがそんなのに目を通していると思ったら大間違いよ、ユーヤ」

「だろうけどね。えっと、こっちだよ」

 暑いのか腕を吊る三角巾をぱたぱたと動かしているミナミちゃんの手を引いて、僕は境内に向かった。ぐるりと迂回して裏に回ると、薄っすらとしていた異臭が途端に強くなる。うげ、と小さく呟くミナミちゃんに苦笑してから脚を進めると――そこには、彼女が。

「うい、遅かったね、二人とも」

 ホズミさんが、軽く腕を上げて僕達に笑い掛けた。


 ラジオ体操の場所が変更になった、なんてことを図書館でミナミちゃんに話したのは別に意味の無いことだった。毎日顔を合わせていると単純に話題が無くなって、だから、些細なことでも話すようになってしまう。話題の提供が僕に偏っているとなると尚更だった。首を傾げてみせるミナミちゃんは、生返事の後で僕に問い掛ける。

「なんだって、いきなり? 今までは一ヶ月ぶっ通しで同じ場所でやってたんでしょ……多分?」

「うん、そうなんだけどね。集合場所の神社の裏で――」

「大量の酒瓶が見付かーたのよ」

 今日は特等席争奪戦に勝ったホズミさんが、本に眼を落としたままでそう答えた。クーラーの風が少し揺らせた髪に指を通して、彼女は視線をこっちに向け苦笑する。

「ホームレス? そーゆーのが住み着いてる可能性があるってんで、やっぱり移動せざるを得なくなったってーかね、保護者側の突き上げもあるだろーし。そこまでして決行しなければならない意義がラジオ体操にあるのかは謎なんだけど」

「一応健康な心身のためって言う名目があるらしいけれど。ミナミちゃん、どうする?」

「ん? どうするって?」

 きょとんっとした顔のミナミちゃんを見上げて、僕は座りなおす。

「行ってみるのかなって。図書館でも面白そうなのは大概読んじゃったって言ってたでしょ? 神社だったらここからそんなに遠くないよ、商店街抜けたらすぐ」

 そもそも僕達の街は狭いから、結構簡単にあちこちが区切られている。商店街、住宅街、ちょっとした会社のある通りの突き当たりに公民館や役場と言う感じ。神社があるのは住宅街の辺りだからそれほどの遠出でもないし、むしろ家からはここより近い方だ。

「今朝のことだからまだニオイがすごいけど、何か残ってるかもしれないし。そろそろお昼だから、行くならご飯食べてからの方が良いと思うけど」

「ふいんー、どうしよっかな。まあ行ってみても良いかもね、何かあったら面白いかもしれないし――うん。何かも、見付かるかも」

「何か?」

 ミナミちゃんはチラリとホズミさんを見て、曖昧に笑う。多分後で二人になったら話してくれるんだろう、僕は肩を竦めて頷く。無理には踏み込まない、いつもの僕達の距離。近すぎるけれど、お互いの距離感覚は掴んでいる、つもり。

「子供だけーてのは、あんまり感心しなーわよー?」

 ホズミさんは本を閉じて苦笑混じりに呟き、僕達を見た。僕とミナミちゃんも彼女の方に視線を向ける、日の当たらない窓からは青い空がよく見えた。彼女は本をぱたぱたと積みながら腕時計を見て、少し思案顔になってみせる。

「と言うか、あたしも午後からちょっと行こうと思ってたんだけどね。良かったら二人も一緒に行かなーかしら、眼は多い方が便利だかーさ」

「ホズミさんも? なんでまたそんな不法投棄ゴミ放置現場に興味が――秘密基地でも作ってたの? それとも野次馬根性に押されて?」

「敢えて突っ込まないでおいてあげようミナミちゃん、でもおねーさんは怒らせるとちょっとにゃーごになって思わずネコじゃらしで叩きまくったり部屋の隅でルービックキューブ始めちゃったりするかもしれなーわよ」

「ルービックキューブは世代がずれてる気がする」

「懐古主義なの、古い物好き。新しい物好きとそー変わんなーもんよ、自分にとって目新しいものが面白い」

 いつものように持ち込みの本を纏めて抱え、ホズミさんは席を立つ。一時ごろに行こうかな、なんて呟いて――ドアが閉じられると同時に、ミナミちゃんがくすくすと笑い出す。僕はそんな彼女の様子に首を傾げた。彼女は窓辺のバラを眺めながら肩を揺らし続けている、すぐに玄関からホズミさんが出て来るのが見えた。相変わらず高いヒールの靴ですたすたと歩いて行く、僕達の方はまったく見ていない。

「いやいや、くすぐったいもんだねぇ……んじゃ、一時ごろってご指名が来たしその辺りにしよっか。今日は教室無いよね、だったら少しはゆっくりしてられる? ユーヤ」

「くすぐったい……? えっと、教室はお休みだけど。それでミナミちゃん、さっきの『何か』って何?」

「ああ、ほら、この前うちの車が壊されたでしょ? ちょっとあれが気になってたんだ」

 よいしょ、とミナミちゃんは椅子に座り直す。片腕が使えないからスカートが捲れて、僕はそれを引っ張って直した。少し屈み気味になって、ミナミちゃんが上目遣いに僕を見る。ほんの少し、心臓が跳ねた。

「車上荒らしじゃなかったんだ、盗まれたものはなかった。でもただ壊したかったなら、なんでうちだったのかなって……夜はシート被せてるんだよ。壊したいならその結果がよく見えるようなのを選ぶんじゃないかな」

「それは、確かにそうかも……だけど」

 ミナミちゃんはくるくると、吊られて固められた腕の先で指を回してみせる。

「うちの車でなきゃ駄目ってのなら、その理由が気になってね。浮浪者がいるんだとしたらそれが一番怪い奴だし。あと、この頃結構あるでしょ? ゴミ箱引っ繰り返して道路に投げ捨てたり、公園のやぐらの資材壊すとかの悪戯」

「同じ犯人の可能性がある?」

「そ」

 ミナミちゃんは笑って僕の頭を撫でるけれど、いつもみたいな心地良さは感じられない。本当に浮浪者がいるのなら、そういう人に近付くような危ない事はしてもらいたくないし――犯人を追い掛けるなんて、やめて欲しい。ミナミちゃんの性格からして不可解があれば動くだろう事は判っていたんだけれど、でも、車の事は嫌だった。どうせあんなの、『彼』の車なのに――ああ、そんなの、関係ないか。

 肝心なのはそこに、不可解が付随しているかどうか。

 僕は溜息を吐いて、苦笑を作る。同時に十二時を告げるチャイムが鳴った。スピーカーが近い所為か妙に響いて頭がくらくらして、ミナミちゃんも少し顔を顰める。煩い合図に従って僕達は立ち上がり、図書館を後にした。


「しっかし、くさーわね。饐えたって言うか腐ったってゆーか……ユーヤ君は、積まれてーの見たの?」

「あ、うん。ラジオ体操で早く来ちゃった子達が遊んでる時に見付けて、僕もその時に見たよ。ほとんどがお酒の瓶だったから、これもそのニオイだと思う。他には漬物のパックとかが落ちてた。多分おつまみ」

「ふいん、じゃあ結構前からあったのかな……どのくらいか憶えてる?」

「ちょっとした山みたいに積まれてたかな。よく見てたわけじゃないから、判らないけど」

 僕の言葉にミナミちゃんとホズミさんは揃って息を吐く。腕組みをしてむうーっと前屈みになってみせるホズミさんと、髪をくるくるいじりながら空を見上げるミナミちゃんは、様子が綺麗に対照的だった。二人とも黙りこくって、たまに視線を巡らせるけれど、これと言って残っている手掛かりなんかない。子供も引率の人もわたわたしてたし、ごみ収集の業者さんも来たから、結構この辺りはごちゃごちゃになっていた。ゴミは勿論、足跡なんかも完全に残ってない。ちょっと気持悪い空気が、あるだけで。

 僕が手持ち無沙汰になっていつもの麦藁帽子を軽く下げたところで、示し合わせたように二人が歩き出した。神社を囲むようになっている木立、その茂みの部分を別々にがさごそと漁り出す。僕はミナミちゃんに駆け寄るけれど、そこには別に何も無い――すると、また違う茂みに向かう。やっぱり、何も無い。ホズミさんも同じように茂みを覗き込んでいる。何をしてるのか、全然判らない。

「あった?」

「んにゃ。そっちは?」

「なーわね」

「うにー、だね」

「にゃーご、だわ」

 二人は視線を交し合って、むうっとする。

 あのコインランドリーの時にも思ったのだけれど、この二人は馬が合うらしい。最近は図書館でよく行き合う所為か取り残されることが多くて、それがちょっと寂しくも苛々するような。僕はミナミちゃんの三角巾を軽く引っ張る、ミナミちゃんはいつものようにその視線を下ろしてくれる。

「どしたのユーヤ、おトイレ?」

「違うよ。二人とも何してるの? 何か、探してる?」

「うん、残りをね。あると思ったんだけど無いんだよねー、その酒瓶の山の残り部分。でもそうなると、どういうことになるのかな」

「どーなのかねー、中々変なことになーわねぇ。確認取ろーにもユーヤ君……とゆーかその時集まってた子供は、ユーヤ君以上のことは言えなーだろーし」

 確かに僕と同じぐらいの驚きと僕と同じぐらいの眠気、そして僕と同じぐらいの『どうでもよさ』を感じていたのなら、他の誰に聞いても感想は同じようなものだろう。酒瓶とおつまみのゴミが大量に捨てられていた、それだけだ。強いて言うならその量が凄かった、でもそれだけでは釈然としない何かを、二人は感じているらしい。そしてそれを僕は感じられていない。二人だけの共有。

 ほんの少しの苛立ちは煽られて、嫌悪感を育てて行く。目深にした麦藁帽子をミナミちゃんが苦笑混じりにぽんぽんっと撫でた。長い金髪、くるくるのそれがちらちらと影の中を掠める。かつこつ、近付いてくる音はホズミさんのハイヒールだ。頭の上で溜息が交わされる、僕は口唇を噛む。なんとなく身体をずらせば、ミナミちゃんの影になった。いつもの位置は、やっぱり馴染む。

「しゃーない、もーちょっとツテを辿ってみよーかね。二人もおいで、三人寄れば文殊らしいし」

「ツテって、ホズミさんそんなのあるの? むしろここで役立つツテって何」

「これをよーく観察せざるを得ない状況になった人。そもそも見つけたのはラジオ体操組だけど、その子達が片付けたんじゃじゃなーでしょ? じゃあ片付けた人に聞けば良いってことで、聞きに行くの」

「誰に?」

「下着泥棒に」

 うふふー、と、ホズミさんは悪戯に笑って見せた。


「いい加減その件は忘れてくれると、激しく助かる……」

「いやいや忘れられなーわよ、なんてったって初めて自分が巻き込まれてしまった犯罪沙汰だったんだかーね。怖い怖い、夜道って危険ー」

「ちょ、人聞きの悪いこと言わないでくれよ」

 情けなさそうに頭を掻いて、お兄さんは身体を小さくする。あんまり綺麗とは言えないアパートの一室、麦茶を出されて僕達――僕とミナミちゃんにホズミさん、そして部屋の主であるお兄さんはテーブルを囲んでいた。狭くて生活臭が色んな所から立ち上っているそこは、なんだか変な空間だ。一人で暮らしてると、こんな風に色んな所に色んなものを好き放題に置いちゃうものなのかもしれない。僕の部屋だって僕が場所なんかを決めているけれど、本当は違うのかも。そう思うぐらいに、なんていうか、ごちゃごちゃだった。

 ジャージにシャツと言う姿はパジャマか部屋着で、前にコインランドリーで会った時のツナギとは随分印象が違う。だけどちょっと色白で気の弱そうな、良く言えば優しそうな目元は、やっぱり同じだった。笑いながらからかうようにするホズミさんに、お兄さんは頭が上がらないらしい。あれが縁で友達になったって、面白いなあ。

「でも八月朔日、なんでそんなの調べてるんだ? 不法投棄って、別に役所勤めでもないのに」

 話を変えようと必死になってるお兄さんの言葉に、ホズミさんはああと生返事をして麦茶を呷る。

「昔もあそこで家出少女が隠れてた、ってことがあってねー。もしかするとまた誰か隠れてるかもしれないなーって思ったんだけど、アテが外れた挙句ちょっと変みたーでさ。まあ、リラックスしてよーく思い出しなさーよ」

「何故俺の部屋で俺が命令される……?」

「黙れ下着ドロ」

 るるー、と泣くその様子には、なんかちょっと可哀想になってくる。ミナミちゃんは笑いを堪えているけれど、あんまり人事じゃない。僕もこの人と同じに、あまり押しの強い性質じゃないし。言われるままに正座して、お兄さんはホズミさんに向かい合う。背中が緩く曲がっていた。

「とりあえず、どんな風に運ばれてきたのか憶えてる限り正確に細かく」

「うーん――朝の結構早く、七時頃かな。夜勤だったからそろそろ帰るかって支度してたら行って来いって駆り出された。瓶が大部分なのと、境内が狭いから、誰かの軽トラで行ったんだったかなあ。子供はもう殆ど居なくて、引率の人が待ってただけだったよ」

「ふいん」

 ミナミちゃんが小さく相槌を打つ。お兄さんはむうっと眉間に皺を寄せて、思い出しながら続ける。

「結構な量だったね、ケース三つ分ぐらいはあったと思うよ。種類とかバラバラだったから、正確なところは判らないけれど……とにかくニオイ、酷かったなあ。あとはトレイとかパックがあった。なんのだかは、ちょっと判らないけど、漬物みたいな感じ」

「残ってなかったの、中身とか」

「どうだろう、あったとしても腐って判らなかったんじゃないかな。虫も結構湧いてたし、食べられてたのかもしれない」

 むー、とホズミさんは黙る。

「何か気付いたこととかは、無かったよ。とにかく量があったってだけで、でも盗まれたって話は聞かないから、やっぱり分別面倒で勝手に捨ててたんだと思うかなあ。浮浪者だったら他にももっと食品ゴミがあるだろうし、生活臭も無かった」

「お菓子とかお弁当とか、あと、ペットボトルとかかな。そういうのはなかったの?」

「うん、無かった。風に飛ばされてもあの辺りは茂みがあるし、雑木林だからね。でもそっち側は綺麗なもんだったよ。子供達が遊んだあとぐらい」

「けんけんぱとかか」

「今の子がやるか? まあそんな、棒でがりがりやったよーなの」

「……最近、やぐらの資材が壊されたりって悪戯あったじゃない。あれと似た感じとか、あった?」

 言われてお兄さんは少し表情を引き締める。自分の考えだけど、と前置きしてから、小さくわざとらしい咳払いをした。

「あれとは、違う感じだと思う。あれは何て言うか、ガキがむかつくから何かに当たったとかそう言う印象なんだよ。ばら撒いたりぶちまけたり、そういうのってさ。でも今回のは、なんか目的があるような感じに見えるからさ。同僚はまたかーとか言ってたけど、俺は、違うんじゃ……ないかなっと」

 尻すぼみなその言葉にミナミちゃんは小さく頷いて、髪をくるくるといじった。同じように、ホズミさんはぱたぱたと手で肘を叩いてみせる。何か気に入らないように二人が顔を顰めるのに、お兄さんは居心地悪そうに座り直した。ずりずりと膝で僕に近付いて来て、不安そうに見下ろしてくる。僕も彼を見上げる――多分、お互い同じような顔をしていただろう。

「……なんなの、二人」

「……わかんない」

 肩を竦め合う僕達を無視して、二人は難しい顔を続けていた。


 お兄さんの部屋を出た後、ホズミさんはちょっと他のツテを当たる、と言って僕達と別れた。ミナミちゃんはむうむうと小さく唸りながら歩く。

 目的地は決まっていなかった。そうやって歩くのも僕達にはよくあることで、ぐるぐると同じ場所を回ってみたり、色んな道に入ってみたり。たまに隣町に入っちゃうこともあったけれど、流石に迷う事は無い。商店街をのろのろ歩くと、夕方よりは少ないけれどやっぱり人通りがあった。麦藁帽子を目深にしながら僕はミナミちゃんの手を引っ張る。少し涼しくなっては来たけれど日中はやっぱり日差しが強くて、じりじりとした汗が浮かんできていた。僕はまだ平気だけれど、ミナミちゃんは包帯が蒸れて暑そうだし……図書館なんかに行った方が良いのかもしれない。でも今向かってるのは真逆の方向だから、どこかで方向転換出来れば良いのだけれど――僕は顔を上げる、と、見知った顔と目が合った。向こうも気付いたらしくて表情を変える。彼は、ベビーカーを押しながら脚を進めて来た。

「ミナミちゃん、ちょっとこっちで待ってて」

「ん? あ、うん」

 ぽんっと麦わら帽子を撫でられて、僕は少し彼女から離れた。

「ユーヤ珍しいな、こっちで会うなんて。何してんの?」

「ちょっとお散歩してるだけ。大樹くんも、桃花ちゃんと?」

「まあ、そんな感じ……あとほら、買い物しなきゃいけないから。ベビーカーあると夕方、混んじゃって大変なんだよ」

 彼は言って、苦笑いをしてみせる。見下ろしたベビーカーは夏らしい夜空模様。日よけの為だろう、バスタオルも被せられてすっぽりと影に覆われていた。

 一年の頃から音楽教室でも学校でも同じクラスだから、僕と大樹くんは今もそれなりに仲が良かった。妹が出来てからの彼はオーバーなぐらい過保護なのだけれど、良いお兄ちゃん振りとも言えるからちょっと微笑ましい。家のお手伝いも頑張ってるから、あまり遊ぶことはなくなったけれど。

「桃花ちゃん元気?」

「あ、今寝てるから触るなよ」

 言って彼はベビーカーを少し引く。

「元気だよ、最近はあんま夜泣きしなくなってさ。夏休みだから隣のばーちゃんに預けるの止めて面倒見てるんだけど、お陰で宿題全然出来ねぇの。習字とか絵とかさ……ユーヤはもう終わってる?」

「プリントは大分、あと絵と読書感想文は。教室もあるからちょっと大変かも」

「だよなぁ、絶対多いって宿題。六年になったら遊んでられなくなりそう」

 肩を竦めて笑ってから、ちらりとその視線が僕の頭を追い越した。その気配に僕はちょっとだけ、麦藁帽子を上げる。

「……ユーヤ、ミナミと遊んでんの?」

 大樹くんは少し声を落として、僕を覗き込む。相変わらず僕の方が随分身長が低いから、影が被って来て、ちょっと息苦しかった。僕はなんとなく、身体を一歩引く――けれど、大樹くんは同じだけ近付く。その視線はちらちらと僕を通り越していた。それほど人通りがないのだから、見ているのはミナミちゃんだろう。なんとなく、上げたばかりの帽子を下げる。

「止めとけって、ミナミと遊ぶの。金髪とか絶対先生達に怒られるし、下手したらユーヤだって巻き添え食うって。不良だぞ、万引きとかする……隣でも、離れといた方が良いって」

「ミナミちゃんはそういうことしないよ……」

「お前が思ってるだけだろ、影で何かやってたらどうすんだよ」

 別にどうもしない。

「あ、そだ、終わってるなら明日プリントちょっと見せてくんない? 桃花の涎で印刷わかんなくなってるとこあってさー、頼むわ」

「うん、別に良いよ」

「さんきゅ。んじゃ俺行くから、明日なっ」

 言って大樹くんはベビーカーを押す。ミナミちゃんの脇を擦り抜ける時にちょっとだけ顔を上げて彼女を睨むようにしていたけれど、年下の男子に睨まれたぐらいじゃミナミちゃんはまるで気にしない。と言うよりもミナミちゃん、大樹くんをまるで見ていなかった。髪をくるくる弄りながらぼんやりと考え事をして、それに完全に没頭しているらしい。

 麦藁帽子をぐいっと引っ張って、僕はミナミちゃんの手を引く。このまま歩いて行けば多分神社に着くから、そこからUターンして図書館に行こう。少し汗ばんだ手をズボンで拭くと、ミナミちゃんが僕の服をくいくい引っ張った。

「ユーヤ、今の子何処に行ったの?」

「え? 買い物に行くって言ってたけど、なんで?」

「あー、なるほどね。なら良いんだ、なんでもないから」

 ミナミちゃんは服を離す。僕は首を傾げて、彼女の手を握り直した。


 神社に着くとミナミちゃんは顔を上げて、ああ、と小さく呟いた。そのまま脚を進めて裏に回る。境内や鳥居のある表にいればそれほど気にならないのだけれど、回り込むと途端に気持悪いニオイが漂ってきた。悲しいことにこういう単純なニオイには喘息って反応しないから、離れる理由には出来ない。ミナミちゃんは殆ど気にしないでしゃがみ込み、すんすん鼻を鳴らしていた。片手だけだとバランスが悪そうで、僕も隣で膝を曲げ肩を支える。ニオイが近くて、お腹がぎゅぅっと気持ち悪くなった。

「ミナミちゃん、臭くないの?」

「くさい。もう吐きそうなぐらい臭いよ、正直。あーもー本当今にげろりんな気分」

「じゃあ何で……」

「臭いのが、不自然なのよ」

 ミナミちゃんは顔を上げる。拍子にぐらりとした身体を支えて、僕はいつものように腕を引いて立ち上がるのを手伝った。流石に気分が悪くなったのかミナミちゃんは鼻をひくひくさせながら表に回り、その途中で少し足を止める。見遣ったのは地面だ。硬く踏み均されているそこをよく見ると、お兄さんの言っていたように棒で引っ掻いたようなあとが見える。何か書いていたのかもしれないけれど、形はよく分からなかった。

「ん……なんだろコレ」

 言って彼女は線の上を指差す。そこには薄っすらと、星のような形が押し付けられて見えた。

「靴跡か何かじゃない? 小さい子のズックって、そう言うの付いてるから」

「その割に踏んだ痕は無いみたいだけど……まあ、いっか。うー、くちゃいくちゃいくちゃいー」

 ミナミちゃんはむうっと唸り、境内に腰を下ろす。周りの木立が小さく揺れて、風が通った。けふっと一度力の無い咳を漏らしてから、立ったまま僕は彼女を覗き込む。

 吊られた腕、指先はくるくる回っていた。

「不自然って、何が? ホズミさんと一緒に茂み探してたのもその所為なの?」

「うん、その所為。あたしはその酒瓶の山って見てないんだけれど、ユーヤが言うには随分な量だったみたいだし、お兄さんも同じこと言ってたから本当に――大人が見ても山だったんだと思うの。だからなのかなって思ったんだけど、でも変なんだよ、不自然」

「何が?」

「酒瓶、なんだから、中身は入ってないはずでしょ?」

 ついっとミナミちゃんは指を立ててみせる。僕は頷く――そう、中身は入っていなかった。口が開いていたのかどうかは憶えてないけれど、中身が入っているのは無かったように思う。山みたいに積み重なって酷いニオイだったし、それは今も残って……あれ。

 それは、おかしくないだろうか。

 空っぽの瓶だったのに、ニオイがこんなに染み付いてる。

 それは、なんだか不自然だ。

「中身……入ってたかも、しれない?」

「このニオイだとそんな気がするのよね。まだどこかに残ってるのかと思ったけど、茂みにはそういう気配が無かったし、木立は見通せるから無いのは判る。となると不自然なんだよ、ゴミとして捨てて行ったなら中身は飲まれて空になってるはずだもん。お酒の入ってる瓶を捨てたなら、その理由はなんなのかってことになる」

「酒屋さんが古いお酒を捨てたとか?」

「だったら瓶は回収するんじゃないのかな。ん……そっか、ごみ収集でお兄さんが来たって事は、酒屋さんが集められない状態だったってことで」

「瓶は割れてたよ、どのくらいだったのかは憶えてないけれど、だからだと思う」

「と言う事は」

「お酒自体を捨てたかった」

 僕の言葉にミナミちゃんは頷いて、くるくるの髪を軽く引っ張ってみせる。浮浪者の仕業が完全に否定されたのは進展だったのかもしれないけれど、でも、じゃあ誰がしたのかと言うのはむしろ判らなくなってしまった気がした。お酒を捨てたい誰か、お酒を飲ませたくない誰かがいて、その人が多分あの酒瓶の山を作ったひとなんだろうとは思うけれど――ミナミちゃんは、うがー、と小さく唸った。

「わっかんないなー、お酒なんか捨ててどうするってのさ。神社に放火でもしようとしたのかな、でもだったらそんないっぱい集める必要は無いんだよね。大体なんで神社なのよ、普通にゴミ捨て場に捨てれば良いだけじゃない」

「ねぐらとか、そういうのにしてる訳じゃないなら確かにそうだよね。普通のゴミに捨てられないような理由があったのかな……カラスが煩いとか、近所の人に何か言われるとか」

「やたらに量が多いとか。でも、どのぐらいの期間で集まったのかが判らないと、多いのか少ないのかって判らないんだよね」

「そんなに――」

「そんなに長い期間じゃないと思ーわよ」

 僕は境内のミナミちゃんに向けていた視線を鳥居にやる。ぐりぐりと肩を回しながら疲れた様子で歩いて来たのは、ホズミさんだった。なんでこんな所に、と思ったけれど、当たり前といえば当たり前かもしれない。ここが一応初めの場所なんだから。

 こつこつと石畳を鳴らしながら彼女は近付いて来て、境内の前に立った。ミナミちゃんを基準にして、僕とホズミさんとで二等辺三角形が出来た形になる。腕を組んで彼女は肩を竦め、僕達を見下ろした。

「峠は過ぎた感じだけど、まだ一応夏だしねー。ニオイってかなり誤魔化されにくいと思ーから、結構最近のことじゃなーかしら。なんで神社なのかってのも問題ね。本当、普通に捨てられない理由があるんだとしたら、それが多分ネックになーのだろーなー」

「で、ウワサのツテはどうなったの、ホズミさん。あたしはそれをちょっとかなり期待している感じなんだけど」

「あははははー、守秘義務」

「うわ卑怯」

「口外法度で教えて貰っちゃったからね、ちょっと秘密にさせてもらーわ」

 言って彼女は苦笑混じりに、自分の口元にばってんを作って見せた。どう言う方向のツテなのかよく判らないけれど、あまり頼りになりそうな気配はない。それが役に立つのなら、彼女はここに戻って何かを調べようとは思わないはずだろうし。

 ミナミちゃんはちえーと小さく呟いて、突っ込んで訊こうとしなかった。ただいつものようにくるくると髪をいじったり、引っ張ってみたりを繰り返している。神社にお酒を捨てる理由と言うのを、考えているのかもしれない。

「ちなみに話せる範囲でちょっと集めてみた情報は、この辺りに浮浪者や家出人はいないらしいって事と、お酒の盗難被害は出てないってこと」

「ん。あ、そっか、盗んだものだって可能性もあったんだね……じゃあ、普通にお金を出して買って、それをわざわざ捨ててるってことなんだ。尚更訳わかんないなー」

「簡単なのが良いのかしらー?」

「簡単に、解体できるものが良いの」

 くひひっとミナミちゃんは笑う。

「簡単に理解できて、簡単に判って、簡単に単純に簡潔に。そう言うのが好き。判らないことがなくなれば満足。判らないことがあるのは」

「ミナミちゃん、ちょっとこの辺歩いてみよう」

「え?」

 きょとんと顔を上げたミナミちゃんの手を掴んで、僕は軽く引っ張る。

「神社だけじゃなく、どこか目立たないところに何かあるかもしれないでしょ? 神社の裏に捨ててたったのだって、もしかしたらそこがただ外からあんまり見えない場所だからってだけなのかもしれないし。だからちょっと他の所も見てみようよ」

「あ、そっか、そういう考え方もありかな……ホズミさん、どーする?」

「にゃーごになるのはやだからね、あたしは止めとくよー。ま、頑張って、ヘンゼルにグレーテル」

「? うん、じゃあ頑張っとく」

 言ってミナミちゃんは立ち上がる、僕はすぐにホズミさんに背を向け、少しだけ急ぎながら鳥居を潜った。くすくすと小さく聞こえる声を無視して、帽子を目深に被り直す。何だか苛々して、ミナミちゃんの手を握る力を少し強くした。伝わってくる体温がいつもみたいに優しくない、ただ汗ばんで気持悪い。

 判らないことがあるのは。

 その続きを、そんなに簡単に口にしてしまわないで。


 結局他の場所では酒瓶やゴミを見付けることが出来なかった。僕とミナミちゃんはぽすんっとバス停のベンチに腰掛けて息を吐く――時間はもう五時に近いから、二時間近く歩き続けていたことになる。流石に足が痛かった。

「ちょっと疲れたねー、何にも見付からなかったのが収獲と言えばそうかな」

「何にも見付からなかったのに、収獲なの?」

「向こうが神社に捨てなきゃならない理由があるってことになるじゃない。その理由がなんなのかを考えれば、どうにかなるような気がしないでもないでしょ?」

「でもそれ、本人に聞かないと判らないんじゃないかなあ……図書館のバラだってそうだったし」

「そうとでも考えないとこの疲れが報われないわ」

 それを言われると何も返す言葉が無い。誘った僕を責めているのではなく、単純に自分の疲れを無駄だったことにしたくないだけなんだろうけれど、ちょっとだけ心が痛いよミナミちゃん……と、僕は視線を逸らす。夕方の商店街は随分混み合って、買い物袋をぶら下げたおばさん達で沢山だった。バスを使うんだろう、こっちに向かって来る人もいる。あまり並ぶようだったら僕達も退いた方が良いし、そろそろ門限も近いから――

「ッひゃあ!?」

 裏返った声が突然上がって、僕は反射的にミナミちゃんの手を引っ張った。だけどその身体は動かない、誰かがミナミちゃんの肩を掴んでいる。ミナミちゃんは腕で這うように逃げようとするけれど、片腕が使えない所為で突っ張りが効かず、ただ身体が崩れるだけ――僕はしがみ付くようにその身体を支える。普段は気にならない自分の小ささに、酷く苛立った。

 ミナミちゃんの肩を掴む手は強く力が込められていて、爪が真っ白になっていた。血管が浮かんでるそれはまるで離す様子が無い、僕は首を伸ばして、それに噛み付いた。

「いッづ」

 上がった声は、女の人だった。

 やっと取れた手、僕はミナミちゃんを引っ張ってベンチから立たせる。そのまま逃げようとしたけれど、ミナミちゃんは逆に僕の手を引いて止めた。それでも少し距離を取って、彼女は視線を上げる。僕も両脚を少しずらして、すぐ走れるようにしながら相手を見上げた。

 ぼんやりとしながら僕に齧られた手を眺めているのは、やっぱり女の人だった。年は僕のお母さんと同じか少し上ぐらいに見える。目の辺りがしわしわで、ちょっと黒くクマが浮いているようだった。着ているワンピースは皺くちゃで、なんだか、その辺で買い物をしてる人たちとはちょっと違った感じがする。手には、大きなビニール袋を二つぶら下げていた。見覚えのある顔だったけれど、今はどうでも良い。

 少しの間何も見てないようにしていたおばさんは、突然ハッとして、僕達を見る。

「ご、ごめんなさい、つい――」

「つい、なんですか?」

 ミナミちゃんが少し身体を前に出して、いつものように僕の前に立つ。それはいつものスタンスのはずなのに、なんだか嫌だった。僕はミナミちゃんの手を掴んで、横に立つ。せめて同じ位置にいようとする。おばさんは僕達の視線にたじろぐように、小さく頭を振った。

「ごめん、なさい――その、本当にごめん、なさい」

「つい、ってなんなんですか」

「肩、肩にゴミが、付いて――いたの、だから、その、ごめんなさい」

 それはあまりにもわざとらしくて、どう聞いても嘘としか思えないような言葉だった。だけどミナミちゃんは僕の手を引いて、そうですか、と小さく頷く。そのまま――駆け出した。

 ミナミちゃんが騒がなかった所為だろう、少し訝しげな視線を向けてくる人達はいたけれど、大きな騒ぎにはならなかった。一気に公園までを走り抜けて、ミナミちゃんはフェンスに背中を預ける。らしくなく少し息が上がっていた。僕はまあ、言わずもがなで少し咳き込んでいたけれど。

「あー、びっくりした……」

 言ってミナミちゃんはぐいぐい髪を引っ張り、むっすりとした顔をしてみせる。それは確かに彼女の台詞だけど、同時に僕の台詞でもあった。そして、ミナミちゃん自身にも、言えることだった。

「ミナミちゃん、なんで逃げたの?」

「何でって、変な人に目を付けられるのが御免だからに決まってるでしょ。下手に顔覚えられたら困るよ、あたしは今更だけどユーヤは違うでしょ」

「僕だってそんなのどうでも良いッ」

 ついいつもより強い口調で言うと、ミナミちゃんはきょとんっとした顔で僕を見下ろす。反射的に両手で麦藁帽子を引っ張って、目深にしてしまった。ミナミちゃん相手に顔を隠す必要なんてないはずなのに、どうしてだか、そうする――顔が熱いのは、走った所為じゃない。小さな苦笑の気配と一緒に、ぽんぽんっと帽子を叩かれる。

「心配してくれて、ありがとね」

 ミナミちゃんは僕の手を、握った。

 それはいつもの体温で、滲んでいた涙は引っ込んだ。

「それにしてもなんかあからさまな誤魔化しだったわね、あれ。今時肩にゴミが付いてるなんてセクハラ課長でもやらないわよ」

「ミナミちゃんって変なこと知ってるよね」

「別に変じゃないもん。でも本当、なんだったんだろ……あたし達なんかおかしなこと、してたかな?」

 首を傾げる彼女に、僕はふるふると首を横に振った。そもそも会話は丁度途切れ目だったし、していたことだって、ただベンチに座っていただけだ。僕は脚が地面に届かなかったから少しぶらぶらさせていたけれど、別に当たり前のことだと思う。ベンチ――バス停。

「バスに乗りたかったのかしら」

「いやそれは無いと……」

「ベンチに座りたくてあたし達が邪魔だったとか」

「スペース空いてたよ」

「時刻表が見えなかったのかもね」

「僕達で隠れるような位置になかったから!」

「まあ冗談はこのぐらいにして。本当になんだったのかなー、あの人」

 言ってミナミちゃんは三角巾にぶら下げられた腕、その肘を絶えず擦っていた。いつもは髪をいじっているか腰に当てているかだから、なんだかちょっと変な感じがする。掴まれた肩は左、折ってる腕の方だけれど――もしかして、何処か変に伸びたのだろうか。声を掛けようとするけれど、遮るようにミナミちゃんは小さく唸る。

「何であんな買い物してたんだろ」

「そこは突っ込みどころじゃないよ」

「いや突っ込みどころだったわよ、ユーヤは見なかった? あの人が持ってた買い物袋二つあったんだけど、どっちにもいっぱいに、ヘアトニックが入ってたの」

「ヘアトニック?」

 僕が言葉を繰り返すと、ミナミちゃんは頷いて肘を擦った。

「安売りでもあったのかもしれないけど、それにしたって買い過ぎだし――大体ああいうのって、お一人様いくつまでって制限されるものでしょ。正規の値段だったら、あんなに買って何に使うんだろうなーって、なんか不自然」

 ミナミちゃんにとっては危害の可能性があったことより、不自然の存在の方が重要らしかった。なんだか彼女らしいと言えばそうなんだけれど、それでも釈然としないむずむずした感じが胸の奥に生まれる。渦の中に小石が混じるような痛い気持ち悪さは、ぐちゃぐちゃした感じだった。

「あの人知ってるよ、前にお母さんと買い物行ったお店で見た。その時もいっぱい買い込んでたみたいで、お店でも開いちゃいそうだったよ」

「床屋かしら。でもよくそんなの憶えてるね、ユーヤ」

「その前は診療所でよく見てたから。一年の頃は喘息の発作よく起こしてて、だからいつもいた人の顔って結構覚えてるんだ。名前とかは別だけど」

「あたしは全然覚えてないなー、この頃通ってるのに」

 僕はミナミちゃんの肘を擦る。

 門限を告げる五時のチャイムが、遠くで聞こえた。


「ユーヤ、お風呂でちゃんと洗った? 何か今日すごく変なニオイしてたよ、あんま変なトコで遊んだりしたら駄目だからね」

「そんなにしてた?」

「お洋服もくちゃいよー。もう、一人だけ別にお洗濯しちゃうんだからね」

 お風呂を出たらご飯を食べて、すぐ部屋に戻ると窓の下にはミナミちゃんがいた。最近の日課、いつものように腕を引いて部屋の中に入ってもらう。お陰で机の上に広げられた工作は全然進まなくて、バラの芯がやっと出来ただけだった。紙テープとカッターの上には、楽譜が乗っている。ガラス代わりのアクリル板で覆いも作らなきゃだから、ちょっと急がないと。

 今日はミナミちゃんもお風呂上りらしくて、いつもより波の緩い髪からは少し水が垂れていた。シャンプーのニオイがくすぐったくて、なんだか変な感じになる。声を潜めてこっそり一緒にいるのは、なんだかひどくどきどきすることだった。

「なんかね、お風呂出てから服のニオイ嗅いだら凄くてさー」

「僕も言われた。全然気付かなかったんだけど結構染み付いてたみたいだね」

「あはは、かなり生臭いもんね、あれは」

 ぺたんっと床に座り込んで、ミナミちゃんはいつものように童話を捲る。今は腕を吊っていないけれど、あまり使わせるのも心配だったから、僕は彼女の右隣に座って片側を引き受けた。ぺらぺらと捲られていくページ、一番カラフルなそこを開いて、ミナミちゃんはくすりと小さく笑う。ヘンゼルとグレーテルに出て来た、お菓子の家。

 そう言えばホズミさんが、僕達のことをヘンゼルとグレーテルとか言ってたっけ。しっかり者のお兄ちゃんと兄思いの妹――なんだか自分が女々しいと言われたみたいで、ちょっとむかむかする。確かに役に当てはめるならそうかもだけれど、女の子に例えられて嬉しいとは思わない。

「お菓子の家なら可愛いけど、お酒の山じゃなー。甘いニオイと饐えたニオイの間には、天と地ほどの差があるよ。アンデルセンとグリムぐらいの違いだね」

 どっちが天でどっちが地なんだろう。

「食べ物で出来たねぐら、って意味なら同じなんだろうけどさ。ユーヤ知ってる、ヘンゼルとグレーテルのお母さんと魔女ってね、同じ人なんだよ」

「お父さんの後妻になって子供を捨てさせたってお話でしょ、聞いたことある」

「んーにゃ、違う。実の母親が、魔女なの」

 ミナミちゃんはぱらはらっとページを捲る。

「継母って言われてるところが実は本当のお母さんだって話は、よくあるんだよ。で、継母は大概魔女でしょ。白雪姫だってそうだし、ラプンツェルも、育ての親が魔女だからね。グリムでは母親と魔女が同一人物で、父親と王子様も同一人物なんだってさ」

「……よく判んない。お父さんはお父さんで、王子様は王子様でしょ?」

「根本的なところでは、ってこと。頼りになる両親の違う面ってことだよ。親としての面があって、悪いところは魔女、良い所は王子になって出て来るの。仕事に行ってる父親より、家で一緒に過ごす母親の方が悪いところが見えちゃうのかもね。だから魔女って、女の人なのかも」

「でもシンデレラの魔法使いは良い人だよ、あと、イバラ姫もそう。ああ言うのは?」

「すぴー」

 寝ないでよ。

「よく判んない」

 それは僕の台詞だよ。

 でも、確かにお母さんが魔女と言うのは判る気がした。僕のお母さんも普段は優しくてのんびりしてるけれど、夏休みに入ってからは僕がミナミちゃんと遊ぶのを嫌がって止めるように言ってくる。魔女ってつまり、そう言うことなんだろう。なんとなくだけど、判る。

 僕がグレーテルなら、その魔女を倒すことが出来るのだろうか。

 そして、ヘンゼルを助け出すことが出来るのだろうか。

 ぽそぽそと小さく交わす会話を少し続けて、明かりを消す。僕達は一緒のタオルケットに包まって、少しの間だけ一緒に眠った。


「はい大樹くん、プリント」

「お、悪いなユーヤ、助かるわ。届かないとこに置いてるつもりなんだけど、なんで子供って大事なのに限って汚すかなー」

 小学三年生だって充分子供だと思うけれど、僕はそうだね、と適当に頷いておいた。大樹くんのプリントは確かによれよれになって所々の印刷が見えなくなってしまっている。ちょっとだけだと思っていたけど、これは写すのに時間が掛かりそうに見えた。

「桃花ちゃん、もう歩けるようになったんだっけ?」

「最近掴まり立ちするようになってさー。あちこちで色々引っ繰り返したりすると、結構大変だわ。昨日なんか隣のばーちゃんの湯呑引っ繰り返しちまってんの。火傷はしなかったけど、入れ歯入れてたらしくてよー」

「そ、それはちょっとやだね」

「かなりやだって。そういやユーヤ、昨日夕方頃にミナミと商店街にいたろ」

 唐突な言葉に僕は目を丸める。大樹くんは僕のシャツをぐいぐい引っ張って顔を近付け、声を潜めた。ちょっと酸っぱいような変なニオイがするのは、プリントに染み付いた桃花ちゃんの唾液だろうか。赤ちゃんってミルクしか飲まないと思ってたけど、案外変に臭うのかな。ちょっと鼻がむずむずするけど、大樹くんは気にならないみたいにしてる。

「毎日一緒に遊ぶのとか、やめとけって。ちょっとずつ距離置くようにしないと絶対なんかあるから。昨日だって酒のニオイしてたし」

「あれは別にそう言うのじゃないよ、神社裏に行ってたからそれが移っただけで」

「なんでそんなトコ行くんだよ」

 むっとした顔で大樹くんは小さく僕を睨む。

「とにかく一緒にいるの止めた方が良いって。なんか巻き込まれたらユーヤが一番迷惑掛けられるんだからさ、クラスの奴とかと一緒にいろよ。プールとか色々遊ぶトコあるじゃん」

「そうかもね……」

 始まりのチャイムが鳴って、僕は席に戻る。大樹くんの席は比較的後ろだから先生の目も届かないだろうけれど、下手にプリントを取り上げられたりしたら面倒臭い。けふっと小さく咳を漏らして僕は楽譜を開く、今日からは新しい曲だけど練習はしてなかった。最初だから別に怒られはしないと思うけれど――五線の上に、僕はドレミを振っていく。

 それにしても、何で大樹くんはミナミちゃんのことをあんな風に嫌うんだろう。あの時、一年の夏休みのことを根に持ってるとしても長すぎだ。かと言って二人が一緒に遊んでいるのも見たことはないし、いじめられたってことも聞かない。ミナミちゃんはいじめられないしいじめない、クラスメイトともそれ以外とも先生とも、何も関わろうとしない。自分から積極的に動かないだけで、言われた事はするし授業でグループを作る事になったら普通に加わって行く。程よく一人――それは僕と同じだ。

 だから誰かに嫌われるようなことは難しい。嫌うような箇所も好かれるような箇所も見せない相手を、嫌うのは難しい。僕のお母さんはミナミちゃんが髪を染めた辺りから煩くなってきたけれど、大樹くんもそうなのだろうか。

 判らない。

 ほんの少しシャーペンを立てて、僕はページを裂いた。

 好かれるのも嫌だけれど、嫌われるのも嫌だ。それが理由の判らないことなら、尚更に。判らないのに嫌われる、それは、理由がないのに嫌われているのと同じようなもので、それは不自然で、ミナミちゃんにとっては怖いもので。

 人に嫌われることを、ミナミちゃんはどうとも思わない。そこに理由がちゃんとあって、判っていることなら、自然だと受け入れられる。不自然でないのならどんな状況も判ったと頷ける、そう言う性格。だけど不自然なものなら、それは。

 理解出来ないことが怖い。

 不自然が嫌い。

 その理由は、きっと。

 先生が手を叩くのを合図に、僕はホワイトボードへと顔を上げた。


 お囃子や流し踊りの音が日に日に大きくなっていくのが鬱陶しい帰り道で、僕はぴたりと止まった。居残り無しで教室を終えて、いつものように帰ろうとしているのが現状なのだけれど――念のために鞄を探る、でもやっぱり探し物は見付からない。

「どうしよっかなぁ……」

 プリントを返してもらうの、忘れちゃった。

 もう五時の門限は過ぎているから家に戻ると出られないし、でも窓の下ではミナミちゃんが待っている。宿題も大切だ、プリントは全教科が纏めて一綴りになっていて、僕は算数がまだ殆ど終わっていない。明日は教室の無い日だし、明後日まで手を付けられないと言うのも困る。少しだけ考えて、僕はさっきまでのように歩き出した。まずは、ミナミちゃんが優先。

 見付からないように窓の下に行ってミナミちゃんを連れ出して、その後で大樹くんの家に取りに行こう。ラジオ体操に行く時いつも通る道の途中だったから場所は覚えてる、神社の近くをちょっと入った所だ。同じような借家がいくつか並んではいるけれど、表札が出ているから判るはず。帰る時に声を掛けてくれれば良かったのに。

 僕はミナミちゃんの手を引っ張って、歩いていた。

「ごめんねミナミちゃん、付き合せちゃって」

「良いよ、しょうがない。宿題順調なの? 明日は図書館でお勉強でもしよっか」

「殆ど終わったよ、残りはプリントがちょっとと工作だけ。明日はもう一回お兄さんの所に行ってお話聞きたいって言ってたじゃない、そっちに行こうよ」

「じゃ、お仕事休みだったらね。えっと、この辺なの?」

 ミナミちゃんは顔を上げてきょろきょろする。同じ家がいくつも並んでいるのはちょっと変な感じで、なんだか合わせ鏡の中みたいだった。どの辺りだったか、僕も顔を上げて視線を巡らせる。向こう側で、赤ちゃんの泣き声が聞こえた。

「あ、多分こっち」

 この辺りで赤ちゃんがいるなら大樹くんの所か、そうでなくてもご近所繋がりで大樹くんを知っている人のところだろう。近いみたいだしきっと道も教えてもらえる、僕は泣き声のする家の庭に入って窓のある側に向かった。

 見覚えのあるひよこのおもちゃを握りながら泣いているのは、桃花ちゃんだった。だけれど、それを抱いているのは――

「あら、どうしたの?」

 赤ちゃんを抱きながらにっこり僕に笑い掛けたのは、知らないお婆さんだった。

「あれ……あの、その子桃花ちゃん、ですよね?」

「ええそうだけど、ああ、もしかして大樹くんのお友達? 大樹くんなら今お買い物に行ってるはずよ、今日は習い事の日だからちょっと遅くて。迎えに来ると思うから、こっちで一緒に待ってる?」

 どうやらここは大樹くんの言う、お隣のお婆さんの家だったらしい。どうしようか、居ないんだったらお婆さんの言う通りここで待たせてもらうのが良いかもしれないけれど、ミナミちゃんもいるし……僕は少し考えて、それから、気付く。窓の下にある石の上、お婆さんのものらしくないハイヒールが置いてあった。しかもそれには、なんとなく見覚えがあって。

「お客様ですか? でしたら私はそろそろお暇させて頂きますね」

「あら、良いんですよ八月朔日さん、ゆっくりして行って下さいな。ね、桃花ちゃんも遊んで欲しいもんね?」

「でもお邪魔ですから――ありゃ」

 身体を乗り出して来たのは、やっぱりホズミさんだった。

 彼女は僕の顔を見てきょとんっとしてから、にゃーごだねぇと小さく笑う。どうして彼女がここにいるのか、何でこの人はこんなに神出鬼没なのか、考えている僕の後ろでミナミちゃんは暢気に手を上げながら挨拶していた。お婆さんは僕達を手招き、それにつられてなんとなく腰を下ろす。

「中々にゃーごな偶然だねぇー、どしたの二人とも」

「大樹くんって、この赤ちゃんのお兄ちゃんに宿題のプリント貸して、返してもらうの忘れたから取りに来たの。赤ちゃんのいる所だと思って来たんだけど……」

「大樹くん、いつもならこの時間いるんだけどねぇ。もうちょっとしたら帰ってくれると思うから、ここで待っててねぇ」

「うりうり、赤ちゃんうりうりー」

 お婆さんの腕の中でまだ少しぐずっている桃花ちゃんの頬っぺたに、ミナミちゃんはつんつくと指を当てて遊んでいた。涎や涙でべちょべちょしているけれど、気にはならないらしい。前掛けで軽く顔を拭いてあげてから指を当てると、桃花ちゃんはきゃっきゃと笑って手を伸ばす。どうやらミナミちゃんの髪が気に入ったみたいで、触りたそうにしていた。

「あはは、可愛い可愛い、ぷにぷにしてるなー。ねえお婆ちゃん、いつも赤ちゃんここにいるの?」

「そうねぇ、お買い物に行く時とか、習い事の時はお願いされてるねぇ。お嬢ちゃん、赤ちゃん好き?」

「可愛いから好きっ」

 言ってミナミちゃんは吊られた腕を軽く擦って見せた。多分抱っこしたいんだろうけれどあの腕じゃ無理だし、出来たとしても多分ひたすら髪を引っ張られるような気がする。くすくす笑っているホズミさんを見上げて、僕はちょっとだけ、声を潜めた。

「何してるんですか、ここで」

「茶ーしばいて和んでーわよ?」

「そうじゃなくて、どうして此処にいるのか聞いてるんですけど」

「あたしとしては君達がここに来たことの方が、よっぽどにゃーごなんだけれど」

 言って彼女は軽く伸びをしてみせる。言うつもりが無いらしいことには突っ込まないけれど、やっぱり気になるものは気になった。そういえば昨日も、何かのツテについては言おうとしなかったっけ。もしかしたらこのお婆さんが、そのツテから聞いた何かなのかもしれない。僕は赤ちゃんを抱っこしているお婆さんを見るけれど、どう見てもどこにでもいるのんびりしたお婆さんにしか見えなかった。

「おばーちゃんごめん、桃花迎えに……あ」

 がらがらとベビーカーを押しながら急ぎ気味に走ってきた大樹くんの腕には、白いビニールの買い物袋がぶら下げられていた。少し息が上がって赤い顔は、僕達を――いや、ミナミちゃんを見て、少し顰められる。それから僕を見て、あっと声を漏らした。

「やっべ、そーだユーヤのプリント返してなかったんだ、悪い今取ってくるッ」

「あ、うん、ごめん」

「ちょっと待っててな、すぐ戻るからッ!」

 言って彼は桃花ちゃんをお婆さんから受け取った。荷物があるから重そうだったけれど、ゆっくりとあの夜空模様のベビーカーに下ろし、さっきみたいに乱暴にはせずちょっと小走りに出て行く。腕に食い込んで重そうな荷物だったけど、あんな急いで大丈夫なのか、少しだけ心配になった。転んで桃花ちゃんが飛んだりしたら大変だ。あれって車輪がつるつるだから、滑りそう。

「あれが大樹くん、か」

 ホズミさんが小さく呟くのに、ミナミちゃんが顔を上げて彼女を見上げた。だけどホズミさんはそれを無視して、お婆さんを見る。脚を出して靴を履きながら、何気ない調子に問い掛けた。

「今のがお兄ちゃんですか? しっかりしてそうな子ですね、それに、元気そう」

「ええ、元気で良い子なんですよ。小さいのにお家のお手伝いをよくしてねぇ、桃花ちゃんも小さくてお世話大変だろうに……夏休みなのに、殆ど遊ばないでお家のことしてて。本当、お母さんがもうちょっとしっかりしてたら、ねぇ」

「小さい子がいる時は世話に掛かり切りになっちゃうものですよ、うちも弟がいたから覚えてます。煩くて、でも煩くないと心配になっちゃって、変になるものですよ」

 妹だけじゃなくて弟もいたのか。一体何人兄弟なんだろう、どうでも良い事を考えていると、大樹くんがプリントを持って駆けて来た。くっきりとビニール袋の痕が付いてしまっている腕を見ながら僕はそれを受け取る。ホズミさんと一緒にお婆さんに挨拶をして出て行くと、桃花ちゃんのぐずっているらしい声が隣から響いてきた。

 小さい子供って煩いのに、本当、よく世話なんか出来るな。ぼんやり考えながら僕はミナミちゃんの手を掴もうとするけれど、すかっと外れる。見れば、髪をぐるぐるいじりながら考え込んでいるらしかった。ホズミさんも同じように腕を組んでぼんやりしている――なんとなく足を止めれば、二人も同じようにした。

 なんか、ちょっと、苛々する。

 胸の奥がぐるぐるぐるぐる、気持悪い。

「ミナミちゃん、どうしたの」

「んー?」

「何か考え込んでるでしょ、どうしたの? 何かあった?」

「ちょっとね。それよりユーヤ、早く帰った方が良いよ、もう門限過ぎてるから。行こう? ホズミさんも、じゃあね」

 言ってミナミちゃんは僕の手を引っ張る。ホズミさんはひらひらと僕達に手を振っていた。


 家に帰ったらすぐに部屋に向かって、ミナミちゃんを窓から引き上げた。まだ少し何か考え込んでいる風だった彼女は、だけど、僕の顔を見て困ったような笑みを浮かべてみせる。本棚に寄り掛かって座っているその隣に腰を下ろして、見上げるようにした。ミナミちゃんはいつもの本を取って、何気なくその表紙を手で撫でる。

「まだちょっとよく判んないんだけどね……えっと、誰だっけ、大樹? もしかしたらあの子、なんか関わってるかもしれない」

「関わってるって、捨てられてたお酒の事に?」

「うん、言い切れないんだけどそんな感じがするの。だって、じゃなかったらあそこにホズミさんが居たの変な感じじゃない? あの人も一応調べてて、だったらどうしてあそこに居たのか。単純に怪しい人の所を当たってたんだとしたらあのお婆さんかもしれないけど」

「隣に用があってそこが留守だったから、かもしれない。僕達が行ったみたいに」

「そう。まあそれはそれで一旦置いておくんだけど、大樹もね、なんか変なの。不自然なんだよ」

 ミナミちゃんは吊られた腕を三角巾から外して、その指先で髪をくるくるいじって見せた。あんまり痛くないって判るとすぐに使っちゃうから心配なんだけれど、少し髪をいじるぐらいなら多分大丈夫だろう。ぐいぐい引っ張られる金色の髪が絡み付くのを眺めながら、僕はミナミちゃんが言葉を整理し終えるのを待つ。

「昨日もあの子、ベビーカー押してたでしょ」

「うん、桃花ちゃん……赤ちゃんのお散歩だって言ってたけど」

「赤ちゃんなんか入ってなかったよ」

 ミナミちゃんは僕の顔を見た。

「寝てるにしたって、赤ちゃんの顔をすっぽり隠しちゃうわけないよ。息苦しくなってすぐに起きちゃうし、大体夏の昼間にタオルなんか掛けないと思う。赤ちゃんは肌弱いから、蒸れるとすぐに汗疹出来ちゃうし。あの時は買い物に行くって言ってたから、きっと荷物でも入れるんだと思ってた。でも、違う」

「違うって、どうして?」

「だってあの子、今日もベビーカー押してたでしょ? 家から取って来たのかもしれないけど、だったら買い物の荷物は置いてくるのが自然だし、腕にかなりくっきりビニール袋の痕がついてた」

「ベビーカーを押してなかったなら、腕に掛けたりしない……つまり、今日も昨日も、空っぽのベビーカーを押してたことになる? でも、なんで」

「昨日は赤ちゃんが入ってるって、ユーヤには言ったんでしょ?」

 ミナミちゃんの確認に、僕は頷く。

「寝てるから起こしちゃ駄目だって、触って欲しくなさそうだった」

「空っぽだったんじゃなくて、中に入ってるものを見せたくなかったのかもしれない。それにあの子の家、神社にかなり近い……でも、それだけなんだよね。本当にそうなのかは、判らない」

 筋は通るのだけれど確信はない。確かに想像としては良く出来ているけれど、何か証拠がないとそれは決め付けられないんだ。ミナミちゃんもそれを判っているからか、うーんと頭を抱えてしまっている。かりかりと本の表紙を軽く引っ掻きながら、随分苛々しているらしい。もうちょっとが踏み込めないのがもどかしいんだろう、僕は立ち上がって鞄を引っ張った。こういう時は、少し気を逸らしていた方が良い。

 机の上、工作を押し退けて鞄を置き、僕は大樹くんに返してもらった宿題のプリントを出す。だけどそれは何だかがさがさしていてちょっと皺くちゃで、変なニオイがした。開いてみると殆ど白紙で、何より、書いてあるのが僕の名前じゃない。多分慌てて間違っちゃったんだろう、何のために取りに行ったんだか判らない――僕は溜息を吐く。ミナミちゃんが、すんっと小さく鼻を鳴らした。

「ユーヤ、何のニオイ?」

「あ。返してもらったプリント、大樹くんのだったみたいで……桃花ちゃんの涎だと思うよ、かなり皺くちゃでなんだかニオイがついちゃってるから」

「ちょっと貸して」

 ミナミちゃんは僕の手からプリントを奪うようにして、すんすん鼻を鳴らした。ただの変なニオイだと思うのに、なんでそんなに熱心に嗅いでるんだろう……うー、と少し考え込んでから、ミナミちゃんは小さく呟いた。

「このニオイって――――」


 一足先にそこにいたのは、ホズミさんだった。沢山詰まれてはいたけれど酒瓶ほどの嵩にはならないゴミを見下ろして、脚で軽く蹴ったりしている。たった一日でこれだけなんだから、本当に、神社の裏に積まれていたのは短い期間で溜められた分だったんだろう。辺りに漂っているニオイに軽く顔を顰めてから、ミナミちゃんは彼女を見上げる。

「ホズミさんのツテ、病院の人だったのかな。この前も診療所で身内がどうとか言ってたもんね、そこから考えれば判りやすかったのかな」

「んー、妹が事務しててねー。本当は患者の事って口外法度だから、あたしに漏らしたのでもかなり倫理に悖るってブツブツ言ーてたけど。二人の方こそ、よく判ったねー? 何がヒントになったのかな」

「ま、色々と」

「色々にゃーごなのか」

 昼間だって言うのに、そこは薄暗かった。神社の裏と同じに日が殆ど入らないから、誰か人が入って来ることもない。踏み均されていない地面は柔らかくて、だからくっきりとベビーカーの轍が残っていた。お兄さんの言っていた『子供が遊んだあと』は、これのことだったんだろう。車輪にでこぼこが少ないから、対になっている痕に気付かなければ棒で引っ掻いたように見える。でも滑り止めが無いわけじゃない。夜空模様のベビーカー、星型の浮いた車輪。神社で見たのと同じソレが、轍の上で規則的に走っている。

 こんな所に三人も人が居るのはそれだけで珍しくて変なことなんだろう、だけど、四人目の彼がやって来るのは自然で必然なんだろう。僕はじっと麦藁帽子を掴んで、ただ彼を待つ。一昨日は確か、こんな時間に商店街で会ったような気がするけれど。

 からら、と小さく車輪の回る音がして、ミナミちゃんとホズミさんは黙る。

 僕は、麦藁帽子を下げた。

 ミナミちゃんは大樹くんのプリントに染み付いているニオイは涎じゃないと否定した。桃花ちゃんに顔を近付けて遊んでいたから判るんだろう、赤ちゃんの涎は、そんなにキツいニオイはしないものらしい。確かに隣の僕にもそのニオイは気にならなかったし、涎掛けだってべろべろだったけど臭くはなかった。じゃあ一体何のニオイなのか、彼女は、あの神社の裏に染み付いていたニオイだと言った。大分薄くはあるけれど、それによく似た刺激臭だと。

 それはつまり、お酒の臭いなのか。ミナミちゃんは違うと否定した。似てるけれど少し違うもの――ヘアトニックの、ニオイ。アルコールが大部分で香料も少し混じっているから、こんなニオイになる。

 昨日の夕方に商店街でミナミちゃんの肩を掴んだおばさんは、大量のヘアトニックを買い込んでいた。僕達は神社の裏にいて、あそこのニオイが身体に染み付いていた。つまりはお酒臭かった。おばさんは、つい、と言った。お酒のニオイに反応してしまったと言うことは、つまり。

 大樹くんのプリントからヘアトニックのニオイがして。

 神社の裏にお酒を捨てていたのが大樹くんで。

 お酒のニオイにつられたおばさんが、ヘアトニックを沢山買っていたなら。


「こんにちはだね、三坂大樹くん」

 音楽教室の裏、ベビーカーに手を掛けながら呆然と僕達を見る彼へと最初に声を掛けたのはホズミさんだった。

 軽く手を上げながらいかにも気安そうに、よく知ってる相手にいつもの挨拶をしているだけのような調子で笑う。散らばったヘアトニックの空を眺めていたミナミちゃんも少しだけ視線を上げて、そのままどうでも良さそうに下ろした。僕は帽子を深く被って、その下からそれとなく覗いている。

「あー、別に不法投棄に関してはそんな怒ったりしないから気にしなくて良いよ、子供のすることだからね。あたしはただ、いくつか君に確認したいことがあるだけだからさ」

「――――か、確認、て。何。なんで、ここ」

 緊張しているのか引き攣ったような声で、彼は答える。いつものように元気な感じじゃなくて、まるで別の人みたいに固い顔をしていた。日陰に居る所為なのか、酷く蒼褪めて顔が真っ白に見える。実際、白かったのかもしれない。

「まず、一昨日神社の裏で見付かったお酒の瓶を中心にした大量のゴミ、あれを捨ててたのは君だね? 普通にゴミ捨て場に出すと『彼女』が拾ってきちゃうし、出来ないように中身をぶちまけると他の迷惑になるからそうしたのかな。世間体を気にするような年じゃないだろうし、まあ、自分が見たくないってのはあったかもしれないけれど」

 大樹くんの口元は、ぱくぱくと金魚みたいに動いてる。

「それと、ここに捨ててあるヘアトニックの空も君が捨てたもの。理由は同じで、神社が見付かっちゃったから次の場所としてここを選んだんだね……夏休みも殆ど遊べなかった君が出入りしてたのは、ラジオ体操場所の神社の他に、この音楽教室だけだったから」

 ふるふる、ふるふる。肩の震えがベビーカーまで伝わったのか、タオルを掛けられたそれがガタガタ鳴っていた。中に入ってるのはやっぱり桃花ちゃんじゃないんだろう、きっと今彼女は、隣のお婆さんのところにいるはずだ。昨日みたいに、一昨日みたいに。

「でもって、そのベビーカーに入ってるのは、今日の分だね。漬物なのかお酒なのかヘアトニックなのか判らないけれど、君が家から持ち出してきたそういうアルコール類だ。君がここに捨てよう思って来た、魔女の家を作ってるお菓子だ。そうだね、ヘンゼルなお兄ちゃん」

 ひゅうひゅうと、呼吸音が聞こえる。

 ホズミさんは一つ溜息を吐いてから、一歩足を踏み出した。

「最後の確認。……『彼女』、君達のお母さん、最近アルコール中毒がぶり返してきたんだね」

 大樹くんはぺたんっと膝を付いてベビーカーに凭れ掛かる。ホズミさんは脚を進めて、そこに掛けられたタオルを取り去った。中に詰め込まれていたのは案の定ヘアトニックと、お酒の瓶。ミナミちゃんはそれを一瞥した。僕は彼女の手を握って、空いた手で帽子をぐっと引っ張る。

 ホズミさんは大量の酒瓶が捨てられていたのを見て、まずアルコール中毒を連想したらしい。中毒患者に家族や介護人がいる場合、極力それらを遠ざけようとして、突飛な場所に隠したり捨てたりすることがあるからと。だからあのお兄さんに酒の中身が入っていたのかを確認しに行った。そして、自分の妹にも確認した。この辺りに住んでいてアルコール中毒症状を抱えている患者はいるか、そして、最近の通院状況はどうなっているのか。狭い町のこと、探す手間は掛からなかった。

 神社の一番近くに住んでいる大樹くんのお母さんの所に行ったのは、偶然だったらしい。でもそこで丁度、赤ちゃんの入っていないはずのベビーカーを押している彼を見た。ミナミちゃんと同じに彼女もそれを不自然に思って、だから、その行動範囲で次のゴミ捨て場になりそうな場所を探していた。そしてここで、僕達に会った。

「魔女はお菓子の家から出してしまえば、母親になるはずだもんね――妹ちゃんのためにも、どうにかお母さんに元に戻って欲しかった。だから、必死でお酒を隠してたんだ。隠し切れないなら捨てたんだね。でも、どうやっても、どこからか持って来ちゃう。最近はあからさまなお酒だけじゃなく、アルコールが含まれるものなら何でも良くなって来てた」

「ッ……ぅ、……う、ぁ」

「周りに相談しても良かったんだよ、そう言うの。お母さんを信じたかったのかもしれないけど、でも、……君は子供なんだからさ。メルヘンみたいにはいかないんだよ、グレーテルみたいに魔女は倒せない。頑張っても、出来ない事はあるんだよ」

 大樹くんはがたがた震えている。ホズミさんはぽんぽんっと彼の頭を撫でるようにした。お婆さんの家でも思ったことだけれど、この人、普通に喋れるならそうすれば良いのに。そんなことを考えながら僕はミナミちゃんの手に指先を絡めて、いつものように遊ぶ。だけど、いつもなら応えるミナミちゃんは、動かないでただじっと立っているだけだった。俯いて眼を伏せて、見ないようにしてる。大樹くんもホズミさんも僕も、見ないようにして押し黙っている。

 不自然を説明する仮説を確かにするためには、こうやって確かめるのが不可欠だった。ミナミちゃんはいつものように、それを優先した。自分の中の気持ち悪さを、怖さを、消してしまうためにここに来た。だけど、本当は嫌だったのかもしれない。どろどろ気持悪い、こういう、状況。

 面倒臭くて鬱陶しくて煩わしい、こういう状況が、嫌だったのかもしれない。

「お、母さん――お母さん、こっちに来てから、良くなってた。お父さんいなくなって、殴られたりしなくなって、だから良くなってた、のに、夏に入ってから――またッ」

「……ん、よしよし」

「判んなくて、怖くて、だから、戻ると思ってッだけどすぐにまたお酒買ってきて、それに……あれも、飲んでた。怖かった。怖かった、怖かッ」

 怯えるように引き攣った声で彼は捨てられたヘアトニックのボトルを見る。そして、同時に僕達を見止めた。僕達と言うよりは、ミナミちゃんを見付けて――睨み付けた。僕は帽子の影からそれを眺める、至極どうでもよさ気に。ミナミちゃんは眼を逸らし続けて、俯き続ける。

 大樹くんは、怒鳴った。

「なんでだよ! 同じなのに、なんでお前は大丈夫なんだよ! お前だって俺と同じのクセに、親居ないくせに、なんで、ずるいだろ!?」

「ちょ、こら、大樹く」

「ずるいよ、なんで俺と桃花だけこうなるんだよッ! お前だって同じのクセに、母親いないクセに! お前はいつもユーヤと遊んで、いつも笑って!」

 ホズミさんの腕を抜けて、彼はミナミちゃんに詰め寄った。肩を掴まれてがくがくと揺さ振られ、ミナミちゃんは顔を顰めるけれど、何も言わないし抵抗しない。泣きながらなじり続ける大樹くんに、僕は。

「ユーヤくん駄目!」


 僕は。

 彼を突き飛ばした。

 捨てられたゴミの中に突き飛ばした。

 そして、ミナミちゃんの前に立つ。

 庇うように、庇えるように、庇えてるように。


 ホズミさんは急いで大樹くんを抱き起こすけれど、彼はそれを嫌がるように暴れて腕を振り回した。でも、所詮は子供の抵抗だ。簡単に押さえ込まれて抱き締められる。ホズミさんはそのまま立ち上がって、赤ん坊をあやすみたいにぽんぽんっと彼の背中を叩いた。僕は帽子の下からそれを眺める。別にどうとも思わない。別にどうでも良い。彼も彼女もどうでも良い、どうでも良くないのは、ミナミちゃんだ。僕はミナミちゃんの手を掴む、とても、冷たい手を。

「あたしは」

 ミナミちゃんは小さく、呟いた。

「君の方こそ、いつも笑ってると思っていたけど」


 大樹くんの腕にはいくつもの小さな火傷が見付かった。タバコを押し付けられた痕らしい。念のため桃花ちゃんと一緒に病院に行ってから、役場に行って相談をすることになった。ミナミちゃんはそれを聞いて、少しだけ顔を顰め――

「それ、役場に行かなきゃ駄目なの? お母さんの病気、治せば終わることなんじゃないの? そんなしたら、あの二人お母さんと離れることになっちゃうんでしょ?」

「重度の中毒と診断されたら、施設にも行かなきゃだからそうなるだろうね。そうじゃなくても虐待があったような感じだし……それは、別れた父親の方かもしれないけれど。でも赤ちゃんがいるから大事を取って、やっぱり離されるかな」

「診療所で入院して治ったりとか、するんじゃないの?」

「ここの診療所に入院設備はないし、あったとしてもそう簡単に治るものじゃないんだよ。依存症とか中毒は、本当に断ち切りにくいものなんだ。結構地獄の苦しみらしいよ、ああ言うの」

「……お菓子の家から、出られないんだ」

 ミナミちゃんは、小さく呟く。

 魔女はお菓子の家から出られない。ヘンゼルとグレーテルは逃げ出すことが出来るけれど、帰り着いた家にお母さんはいなかった。つまり、そう言うことなんだろう。魔女を倒したらお母さんはいなくなるし、でも魔女をお菓子の家から出すことは難しくて、結局別れることしか出来ない。

 家族と離れることしか出来ない。

 ホズミさんと別れて、僕達は一緒に家路につく。お隣同士だから、殆ど玄関を潜るまで一緒に歩く。いつものように手を繋いで並んで、ミナミちゃんは何も言わなかった。僕も、何も言えなかった。指を絡めて遊んでみたり、軽く手を振ってみたり。いつものことなのに、どうしてだか、気まずくて。

「でもちょっと気になるな。なんかこれだと、ゴミぶちまけたりとかうちの車壊してたのは本当、大樹じゃないっぽい。まったく紛らわしいなー……ヘンゼルはお家の中で、グレーテルと仲良くしてて欲しいよ」

「ミナミちゃん」

「うん?」

「ミナミちゃんもしかして、ヘンゼルとグレーテルの最後嫌い?」

「うん、ちょっとね」

「そっか」

 依存は断ち切れない。中毒は簡単に離れられない。ミナミちゃんは『彼』からそれでも離れられないし、僕も彼女から離れる事は出来ない。大樹くんも、お母さんを見捨てられない。

 だけどどれも同じ事ではないから、僕は同じクセにと言った彼を突き飛ばす。

 お祭りの音が、あちこちから聞こえた。流し踊りの音楽、お囃子の練習。やぐらを作る金槌の音は無かったけれど、代わりに街中が活気付いて騒がしい。カラフルな蛍光色の造花、小さな提灯や、神社にちなんだ狐のお面。鈴の音。太鼓。

 何があっても何が無くても、進んで行く時間。

 軽く包帯を擦るミナミちゃんの手を離す。彼女の家から聞こえたお帰りと言う『彼』の声に、僕は小さく舌打ちをした。


「ユーヤ、お帰り。手洗って、おやつは冷蔵庫に入ってるからね」

「はーい」

「あ、そだ、お父さんのヘアトニック新しいの出さなきゃ。ユーヤ、これ買う時にお酒臭いお酒臭い言ってたっけね。もー、いつまでも子供みたいにお店で騒ぐの駄目だよ?」

「だってお酒臭いもんー。味もそうなのかな?」

「流石に飲みたくない……。そう言えば大樹くんのお母さん、まだ治ってなかったんだってね、アルコール中毒。ずっと平気そうだったのに」

 町は狭い、隠しても言わなくても大概の事は漏れて伝わってくる。大樹くんが引っ越して来た理由だって誰も明言しなかったけれど、みんな知っていた。同じように、そのお母さんが診療所でアルコール中毒の治療と相談をしていたことも、診療所の常連から知られていた。知らなかったのは噂に疎いミナミちゃんや、市で働いてるからこっちに深く関われないホズミさんみたいな人ぐらいだろう。本人も何かの拍子に再発しないよう気をつけていた――『お酒』には。

 僕はおやつの水羊羹を冷蔵庫から取って部屋に向かい、作り掛けたバラの棘の無い茎を握った。

 予行演習か、通り過ぎて行くお囃子の音が近くて、一瞬耳を聾す。

 窓からはミナミちゃんの金髪が見えた。

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