第4話 八月十九日 図書館の枯れない薔薇

 ミナミちゃんが腕を折った。

 左腕をぶら下げる白い三角巾は大きくて、彼女の身体の正面を隠すようになっている。日差しを受ける清潔な色は、僕が染めた金色よりも眩しい。小さな診療所の待合室、日向ぼっこのように身体を伸ばしながら眼を閉じているミナミちゃんを、僕は見下ろしていた。僕が音楽教室の発表会に行っている間に折ったらしい、詳しい事は聞いていないけれど、訊いても、言ってくれないだろう。だから僕はただ、付き添っている。

 小さな受付の中で看護士さん達がテキパキ作業を進めていた。早く会計に呼ばれないかな、と僕は身体を伸ばして覗き込む。小さな町だから、待合室はのんびりしたお年寄りばっかりだった。置いてある本なんかも本当に子供用の絵本か大人用の週刊誌だけで、少し退屈。一年の頃は発作をよく起こしていたから通い詰めていたけれど、変わってない――ぐったりしているミナミちゃんの顔色が悪くて、なんだか、時間の止まったお城で置いてけぼりの気分だ。

 ころん、とミナミちゃんが寝返りを打って眼を開ける。

「暑い」

「ワンピース、厚いからね」

 ぱたぱたスリッパを鳴らして、彼女はむずがるようにする。ずり落ちた靴下をちょいっと直して、またぱたぱた。口唇を尖らせる様子がらしくなく可愛くて、ついでに自分だけ取り残された気分が抜けて、僕は少しだけ笑う。

「あらホントだ、着易さ重視なのかもしれなーけどこれは暑いよー。生地が冬物じゃなーのさ」

「ひゃっ」

 突然頭の上から降ってきた声に、僕達は揃って小さく声を上げた。そんな僕達の肩をぽんぽんっと二度ずつ叩いて、声は笑いを零す。慌てて顔を上げればそこにいた彼女にミナミちゃんは驚いて――僕は、まず嫌悪した。そんな様子に気付かず、彼女は笑い続ける。

「病院では静かにしなさーな」

 ホヅミさんは、言った。

「でもほんと、まだ真夏日が続いてーのにそれはなーでしょ。もーちょっと融通してあげなーとだめだよユーヤくん、おねーちゃんの為だ」

「いやいやユーヤに甲斐性は別に求めてないからあたしは良いんだけどね、と言うか、随分唐突に会ったねにゃーごのおねいさん。どっか悪いの、こんなとこで」

「うんにゃ、ちょっと仕事でね」

 言う割に、ホヅミさんの姿はどう見てもただの休日っぽかった。細いシルエットのカッターシャツと、脹脛までのジーンズ。背中を覆う真っ直ぐで真っ黒な髪はヘアバンドで上げられていて、そこだけは前に会った時と同じだけれど、格好はまるで違う。彼女はミナミちゃんの隣に腰掛けて、ふー、と小さく息を吐いた。ミナミちゃんは身体を少し僕の方に寄せる、単純に、上から頭を覗き込まれたくなかったんだろう。それから顔を上げて、小さく首を傾げる。

「仕事って、病院関係のお仕事? その割にはすごくラフな格好してるよーに見えるけど……スーツの方が私服なの、ホヅミさん」

「どんな変人趣味だと思われてるのさ。身内のツテだったんで気楽にってね、どーせ今日は休日だっしー。この後は図書館にでもしけこんで涼もうかなってさ」

「図書館かぁ……ふいん、良いなあ。ユーヤ、あたし達も行こっか」

 ミナミちゃんが僕を見て、笑う。

「いつもみたいに公園行っても、これじゃーね。今は祭りのやぐら作ってて煩そうだし――久し振りに行くのも悪くないでしょ」

「そうかも、だけど」

「あはは、夏休みだもんねー、読書感想文の宿題でもやりに行くのかなー?」

「宿題って何処の星の言葉ですかい、ホヅミさん」

「宿題とは三次元中太陽系第三惑星地球極東日本全般で使用される日本語、そこにおける学校施設から生徒に乱発される課題を示す言葉だよ」

「あ、じゃあ判んないや、あたし地球人でもドイツ人だから」

「まあ未成年がドイツジンを飲むなんて、中々通なお好みチョイスじゃなーの」

「いえいえお酒なんて、ミネラルウォーターで世の中は充分です」

 そして取り残される僕。

 一通り遣り取りが終わると、ミナミちゃんは僕を覗き込む。その唐突さにちょっとだけびっくりして、ちょっとだけどきどきした。顔が赤くなってないか心配で、思わず少し身体を引いてしまう。だけど同じだけ、彼女は距離を詰める。いつもの距離感を維持されるのが、少しだけもどかしい。

「ユーヤは嫌かな? どっか行きたいとこ、あったりするかい?」

「……、ううん。良いよ、行こうミナミちゃん」

 僕が笑うと、お会計でミナミちゃんが呼ばれた。ぽんぽんっと僕の頭を撫でてからおでこをこっつんとして、ミナミちゃんは立ち上がる。僕はその背中を見送ってから、玄関に向かった。スリッパを脱いで靴を履き、彼女の靴を出す。いつものようなスニーカーじゃなく、今日はローファーだった。やっぱり、履きやすさ重視なんだろう。ホヅミさんはヒールの高いサンダル……痛くないのかな、これ。前のハイヒールと同じで、十センチ近くありそうだ。

「なんつーか、服と良い靴と良い、大雑把な選択だねー?」

 くすくすとホヅミさんが笑うのを、僕は無視する。

「うい、お待たせユーヤ」

「おかえり。じゃあ行こっか、ミナミちゃん」

「あーちょっとタンマ、その前に」

 ミナミちゃんはしゃがみ込む。覗き込まれるのを嫌がる頭頂部を、僕に晒す。

「リボン結びなおして」


 公民館に行って玄関を潜り、教育委員会の部屋に向かう。殆ど顔馴染み状態になっている辻本さんが僕達に笑い掛けて、いつものように鍵を掛けてあるコルクボードに手を――

「あら。図書室の鍵がないわねぇ、さっきも誰か使ったんだったかしら」

「あ、えっと、確か朝に空調の点検して……すいません、こっちの机に放ってました、どうぞ」

「そうだったの。鍵の管理は大切なことよ、ちゃんとしてくれないと困るわ皆川さん」

 向こう側の机に向かっていた眼鏡を掛けた女の人が慌て気味に顔を上げて、僕達の方へと鍵を持って来た。あまり話はしないけれどこの人もよく知っている顔だ。ふわりとしたパステルカラーの服をよく着ていて、優しそうなイメージの人。彼女から鍵を受け取った辻本さんは小さく鼻を鳴らしてから、にっこり笑いなおして僕達を見下ろす。

「それじゃ、こっちね。そう言えばいつものお嬢ちゃん、その腕はどうしたの? 転んじゃったのかしら」

「ん、そんな感じ。じゃあ借りますね」

 ミナミちゃんはどうでも良い相手には別に勘違いの訂正もしない。だから僕は理由や詳細を聞かなくても、それほどの胸騒ぎや苛立ちは覚えなかった。ドアに鍵を差し込んでノブを捻ると、途端に空気は冷たくなる。パソコンが置いてあるから空調完備で、夏場は特に気持ちが良い。それに、あんまり人が居ない。

 並んだ大きなテーブルの隅っこが僕達の定位置だった。北向きの窓に面した箇所で、日は入らないけれど明るい場所。近くには小さな台があって、春夏秋冬を問わずいつも白いバラと赤いカスミソウが花瓶に生けている。お花も綺麗だし冷房も直撃しない、ベストポジション――だけど、そこに、ホヅミさんも向かって行く。コンパスの差で僕達は、当たり前のように負けた。

 ミナミちゃんは仕方ないと小さく苦笑して、ホヅミさんから席一つ空けた椅子を引く。僕はその間ではなく、逆隣に入った。出来るだけあの人とは距離を取っていたいし、色々な意味で関わりあうのがイヤだった。不意に間を詰められるような言葉を向けられるのは息苦しくて好きじゃないし、この人自体の性格がなんだかよく判らなくて少し怖い。怯えているわけじゃないけれど、気持悪い。

 彼女は肩に掛けていたショルダーバッグを膝に乗せて、何冊かの本を取り出して積んだ。ただ涼みに来ただけじゃなかったらしい、ミナミちゃんは手を伸ばしてその分厚い本を一冊取り、ぱらぱらと見る。僕も覗き込むと、なんだか外国語が書いてて判らなかった。二人一緒に挫折すると、ホヅミさんが小さく笑う。

「小学生にはちょっと早いんじゃなーかしらねー? アルファベットの小文字もわかんないでしょ、下手すると。ああ、でも最近の小学校は英語とかやるんだっけか」

「うちの学校はしてないけど、何これ? 欧米ロマンポルノか何か?」

「んなわけあーかい。花言葉の本でね、ちょっと調べてるもんだかーさ」

「ふーん? 診療所での仕事と何か関係有り?」

「全然。あっちは仕事でこっちは趣味、ガーデニングは楽しーのです、名前にもちなんでね」

 名前。確か、葉桜とか言ってたっけ。本に向かおうとしていた彼女は。ふっと思いついたように、僕達を見る。

「君達は知らなーかな、十年ちょっと前に事故で男の子が亡くなったんだけど、その子が担ぎ込まれたのがあの診療所でさ。それを調べようってお仕事でね、にゃーごだけど」

「それで給料貰えるなら仕方ない。ちなみに転校生だからわかんないわ」

「まったくにゃーごなことですよん」

 二人の会話には入り難いし、あまり入りたいとも思わない。窓辺のバラを数えたり、壁に掛けられている色んな写真を眺めてみたりしながらちょっと時間を潰したけれど、それもなんか惨めで、僕はぴょんっと席を立って書架に向かう。ミナミちゃんも椅子を立った。児童書は入り口に一番近い棚、出鱈目に詰められた雑多な本はよくある低学年向けの本。もう少し奥の方の古い棚は、僕やミナミちゃんのお気に入りだった。

 アリスに星の王子様、マザーグースに長靴下のピッピ。小公子や小公女、赤毛のアン、勿論、グリム童話も。何を読もうか僕は書架を見上げる、うーん……ホヅミさんの言う通り、読書感想文の宿題を考えると、無難なのは宮沢賢治の選集だろうか。みんなも大体この辺りを取るだろうし。きょろきょろと探せば、少し上の方にそれはあった。六段になっている棚の、上から二番目。しかも大判、周りはきちきちに詰まっている。

 ……。

 届かなそうだな。

「どしたのユーヤ、届かないなら取ってあげるよ」

「あ、うん。上から二番目にある宮沢賢治の選集……でもミナミちゃん、背伸びとかして大丈夫? 腕伸びちゃったりしない?」

「この体勢で腕を伸ばす事の方がよっぽどの芸だと思うけどなー? んしょッ、と、あ」

 本に指を引っ掛けてちょいちょいと取り出すと、本棚がきつかったのか、隣の本も倒れてしまった。抜き出すと同時にそれも引き摺られて、ぱたんと床に落ちる。僕は慌ててそれを拾う、よく見慣れたタイトルの本。ミナミちゃんは取れた本を腕に抱いて、僕の手元を覗き込んだ。

「『美女と野獣』? 何それ」

「あれ、ミナミちゃん知らない? えっとね、野獣にされちゃった王子様が、自分の屋敷からバラを持って行った商人に子供を差し出させて、その女の子と暮らしてる内に元に戻るお話。映画とかになってるんだけど――」

「あたしに映画は判らない」

「だよね」

「でも聞いた事はある気がするなあ、あらすじ。もしかして鏡で家の様子が判ったり、野獣が一回死んだりする? 女の子のお父さんが病気になったりとかさ」

 あれ、珍しい。ミナミちゃんは本当に、御伽噺全般ではなくメルヘン――グリム童話にしか興味を示さないのに、それ以外のお話を知ってるなんて。でも、シンデレラや白雪姫も映画になっているから、もしかしたらこのお話も原作みたいなものがあるのだろうか。落ちた本を戻さずに持ったまま、僕達は席に戻る。ホヅミさんは本に集中しているみたいだった。ほんの少し、安心する。

 ミナミちゃんはパラパラと本を捲って拾い読みしているようだった。片腕が使えないのは不便そうだったけれど、それほど分厚くも無いからすぐに終わって、やっぱり、と小さく呟く。

「うん、グリムに同じのがあったね。『夏の庭と冬の庭』って言ってさ、ここにはタイトルの通り、半分が夏で半分が冬の庭が出て来るんだ。野獣が死んだ時はすべての庭が冬になり、王子に戻ると夏になる。夏って言うのは生命力とかその美しさなんだろうね……冬に咲く花の立場が無いよ、椿とか」

「僕は知らないお話かも……うちの本にあったっけ、それ」

「どうだろうな、無いかも? んー、んー、でも、そうだ。これもバラの話なんだね」

 言ってミナミちゃんは本を広げる。そう言えば確かに、女の子が野獣の所に行く理由になったのは、野獣の城にあるバラをお父さんが折ってしまった所為だったっけ。映画でのバラには野獣の寿命をあらわす意味があって、いつもガラスで風除けをしていた。あのビジュアルは綺麗だったからよく覚えてる。けれどそうやって守っていたものも、枯れて、しまって。

「グリムではね、野獣の城でもてなされた父親が、生垣のバラを取ったことで野獣を怒らせる。生垣って言うのは心の壁なのかもしれないね。棘だらけで自分の中、領地を守る。それを奪われるって言うのは心を毟られることなのかも」

「なんだかそれってすごく酷いことみたいだね。でも大事なものは簡単に毟れちゃうほど弱くて、そもそもバラの生垣なんてちっぽけで、綺麗なだけで……優しいだけで」

「そして奪い取らーた心の欠片は娘に渡る」

 唐突に入り込んで来た言葉は、ミナミちゃんより向こう側から響いた。本に眼を落としたまま、ホヅミさんが小さく笑っている。予期しない割り込みに僕は言葉を失い、ミナミちゃんは、その通りと笑った。

「父親を経由してして渡って行く野獣の心の一部、父親を経由して連れて来られる娘。最終的には城の女主人として、バラの生垣を、つまりは野獣の心をすべて手に入れる。ん、なかなか上手いこと出来てるのかもしれなーね。しかしミナミちゃん、よくそんなオハナシ知ってたねー?」

「メルヘンは心を潤してくれるからね、うるうるだようるうる」

「それはまたにゃーごなご意見で。バラか、バラ……宮沢賢治もバラって単語はよく使ってたなー。透明薔薇の火、とか。バラも出張多くて大変だね」

 言って彼女は窓辺に置かれた花瓶を見る。白いバラの生けられたそれは、そう言えば、いつもそこにあった。年がら年中枯れたことがないように、時間が止まっているように。

「こら、あんまりお喋りしちゃ駄目よ」

「あ、はーい」

 辻本さんがいつものようにドアを開けて僕達に声を掛ける。そして、僕達はそれぞれ読書に没頭した。


「図書館のバラ? 変なこと聞くね、ユーヤ」

 帰って来たお父さんも一緒に三人でお昼ごはんを食べるのは、夏休みに入ってから毎日のことだった。つるつる滑るプラスチックの箸では上手くスパゲッティがつかめなくてもどかしい。ケチャップがシャツに飛ばないように気をつけながら、僕はうんとお母さんに頷いた。

「あそこっていつもバラがあるでしょ? どうしてかなって、お母さん達は知ってる?」

「お母さんはあんまり図書館行ったりしないなぁ……お父さん、判る?」

「え? そうだねぇ……大学の頃は貧乏でよく通ってたけど、その頃からはもうあったなぁ。北向きの窓の所にあるやつだろう? 台の上で」

 のんびりした調子でお父さんが言うのに、僕は頷く。

「うん、それ。誰か持って来たり育てたりしてる人とかいるのかなあ?」

「お花屋さんで教育委員会の人って、聞いたことないなあ、お母さん。あ、そう言えば噂がなかったっけ。図書館におばけが出るって」

 お母さんの言葉に、お父さんはぷっと吹き出して笑う。

「おばけって、ママ……昔あったねぇ、そう言えば。花を食べる幽霊が出るって。でも結局毎日花があるんだからってことで、すぐに消えちゃったろう。ああ、でも」

 ぽそりとお父さんは、なんでもない風に、独り言のように呟く。

「あの花、萎れてるのとか替えてるのとか、本当に見たこと無いねぇ……」

 ご飯を食べたらお皿を下げて、僕は部屋に戻る。本棚の前にしゃがんで指を引っ掛け、出したのはグリム童話全集だった。目次を探すけれど、『夏の庭と冬の庭』は見付からない。やっぱり僕の知らない話なんだろう。ついでに借りてきた宮沢賢治の選集を捲ると、すぐに目当ての文句は見付かった。

 透明薔薇の火。

 微熱の事らしい。

 ……よくわかんない。

「バラ、かあ――んむ」

 僕は机の上を見る。そろそろ始めようと思っている工作のため、材料の紙粘土がそこに置いてあった。何か作ろうと思ってはいたけれど結局何にするかは決めていなかったっけ。美女と野獣のあのバラとか、良いかもしれない。ガラスの覆いの中にある枯れないバラ。すごく、綺麗なイメージだ。

 上手く出来たら、ミナミちゃんにあげようかな。

 僕はちょっとだけ笑う。

 頑張らないとね。

 麦藁帽子を被り直して部屋を出てたら廊下を通って、キッチンに向かっているお母さんの後姿を見る。洗い物をしている背中、お父さんはお仕事に出るのにまだ間があるからで、ダイニングでテレビを眺めていた。囲碁番組の宿題をメモしているらしい。良い手を考えるとプレゼントが出るとかで、仕事中にもそれを考えるのが暇潰しだとか。背中を丸めて書きとめる姿にちょっとだけ笑ってから、僕はお母さんに駆け寄った。

「お母さん、僕遊びに行って来るね。三時には帰ってくるから」

「教室あるもんね、忘れちゃだめだよ。……でも、またあの子と一緒?」

 お母さんは僕を振り向いて、少し困った顔をする。

「ユーヤ、お母さん言ってるよね、あんまりあの子と遊ぶの、なんだかなーって。それで音楽教室に遅刻したことも一回じゃないし。ね、駄目なことだよ、遅刻って。ねえお父さん」

「うん? 別に夏休みなんだから遊ぶのは良いと思うけどねぇ……まあ、他の子と一緒でもとは思うよ? 音楽教室の友達と一緒なら、遅刻もしないんじゃないかと思うし。昔は皐月ちゃんや大樹君とも遊んでたろう? お隣の子も、悪い子じゃないとは思うんだけれど、あの髪、ちょっとねぇ」

「骨折だって鉄棒から落ちたって言うじゃない、危ないことするからだよ。……良いよ、行ってらっしゃい。でもユーヤ、本当に、考えておいてね。お母さんユーヤの事、心配してるんだから」

 言ってお母さんは僕の麦藁帽子をとんとんっと叩く。僕はそれに返事をしないで、行って来ますとだけ答えた。聞こえた溜息は知らん振りで、僕は駆け出す。別に怒ることじゃない、こんなのは、いつものことだから。ミナミちゃんが気にしないように、僕だって今更お母さんに言われるぐらいのことは気にしない。僕は何より、彼女が大切なんだから。

 ミナミちゃんの家の前、停まっている車を見付けた一瞬だけは――『彼』を思い出す苛立ちを隠せなくて、バックミラーに映った顔を歪ませたけれど。


 図書館は半分別の建物みたいになって、そのスペースだけ公民館から外れた歪な形をしている。角に出来た日陰に座って、ミナミちゃんは涼んでいた。日の当たらない北向きの場所は玄関からすぐに見えて、頭の上の窓からはバラの花瓶も覗ける。僕の背が小さい所為か、ホヅミさんの姿は見えなかった。近くにあるちょっとした林から聞こえる蝉の声が、煩いぐらい響いている。体育館の方からはお囃子の練習らしい、笛や太鼓の音も聞こえていた。同じ建物の中にある図書館は静かなのに、外にいると聞こえるのだから、ちょっと不思議。

 ミナミちゃんの隣に座って、僕はなんとなく、バラの話をしてみた。

「枯れない花かぁ……曼珠沙華だね」

「え? なに、ミナミちゃん」

「何でもない。でも確かに不思議なもんだね、ユーヤのお父さん達の学生時代って、十年ぐらい前かな? その頃に比べたら教育委員会の人たちだって変わってるはずなのに、ずっとそこにある、か」

「不自然な感じしない?」

 僕の言葉にミナミちゃんは、ほんの少し震えた。

 折れてない右の手、指先を絡めるのはいつものこと。ぐにぐにとお互いにする手遊びは、手を繋ぐのと同じぐらい有り触れた仕種。ミナミちゃんの震えは止まって、冷たくなりかかっていた指先にも体温が戻る。今日はいつもより少し弱いのかもしれない――だったら、僕が、守らなきゃ。

 ミナミちゃんを怖いことから、守らなきゃ。

 せめて眼を逸らすために、せめて眼くらましのために。

「不自然、だね、確か、に」

「バラを生けることに何かの意味でもあるのかな? ただの花じゃなくてバラじゃなきゃいけなくて、そしてそれをずっと十年も続けなきゃいけない理由があるんだとしたら、なんなんだろ。図書館の隣にあるのって教育委員会だけだから、多分その誰かがしてるんだよね。バラと一緒にあるの、カスミソウだっけ。もしかして、あっちに意味でもあるのかな」

「んー、どうかなあ」

 ミナミちゃんは曖昧な様子で笑ってから、僕の手を遊ぶ。ぼんやり上げられた視線、三角巾で吊られた腕。白い布から僅かに覗ける左手は、人差し指を立ててくるくると回している。いつもならきっと、髪をいじっている仕種だ。蝉の声とお囃子の中、くるくると指を遊ぶ。

 僕は横顔を見ながら小さく笑う。

 ミナミちゃんが、考え出した。

「うん。何処に何の意味があるのかもよくわかんないなー、白いバラか、花言葉とか関係してるかもね。カスミソウも一応調べておこうか。図書館だし、教育委員会の名簿ぐらいならどこかにあるかな。町史とか漁れば、おまけにでも出て来そう……この十年レギュラーな人がいたら、それが、生け続けてる人だろうしね」

 言ってミナミちゃんは立ち上がろうとするけれど、吊られた腕を動かそうとしてバランスを崩した。僕はその手を引っ張って支えるけれど、どうやら壁にぶつけてしまったみたい。口唇を食い縛って震える仕種に、僕は――

「ミナミちゃん、その腕」

「ん、何、ユーヤっ」

 ミナミちゃんが笑う。僕は口を噤んで、なんでもないと首を横に振った。

 ワンピースのおしりをぱたぱた払って玄関へ、脱いだ靴を揃えるのも、スリッパを出すのも僕。それは何一つの不自然も含まなくて、だからミナミちゃんは、僕に手を引かれることを何も疑わない。ふわふわと金色が、視界の端で揺れる。いつもの景色は変わらない。

 変わらない。

 『彼』がどうしたとしても、僕達は何も何一つも。


 ホヅミさんは見えないんじゃなくて、少し席を外しているみたいだった。本はあるけれど本人はいない。特等席はやっぱり涼しくて、僕とミナミちゃんはちょっとだけそこに陣取りながら花瓶を眺める。貸し出し申請用紙の裏側に書いて行くのは、生けてある花の内訳だ。

「ピンクのカスミソウが五本、白いバラが六本、えーっと、花言葉ってつぼみなんかも関係あったっけ。全部開いてるし、萎れてるのも無し」

 ミナミちゃんの言葉を書き留めて、僕は顔を上げる。少しくたびれて傷だらけの茶色い台の上に置かれた、陶器の花瓶。黒っぽい色に溶け込むみたいに、そこに何かの花が描いてあるみたいだった。花瓶に花を描くのってくどくないのかな……そんなことを考えながら、僕はぱたぱたとスリッパを鳴らす。椅子に座っていると床に足が付かなくて、どうしてもスリッパが邪魔だった。ぽいっと飛ばして、僕はミナミちゃんを見上げる。

 身長が違うんだから、当然座高だって差が出る。そしてそれが逆転することはないんだけれど、僕は座っている方が好きだった。こっちの方がミナミちゃんとの距離が近い気がする。僕と同じようにぱたぱたとスリッパを鳴らしながらミナミちゃんは何度目かの数え直しをするけれど、訂正はいらないみたいだった。

「僕、花言葉の本探してみるね。あと教育委員会の広報も」

「重いし届かないかもだから、花言葉はあたしがネットで調べるよ。ユーヤは広報だけで」

「でもメモ取るのも本の方が楽だし、ミナミちゃん片手だとしんどいでしょ? 大丈夫だよ、本ぐらい――いたッ!」

 椅子から降りた僕の足に何かが刺さって、思わず声が出た。本を読んでいた何人かが僕を見た。スリッパを脱ぎっぱなしにした所為かな、何か踏んだみたい……足を上げてみる。靴下のお陰で血が出たりはしてないけど、何かがめり込んでる違和感があって、僕は爪の先でそれを取り出した。

「ユーヤ、何踏んでたの?」

「わかんない、なんか欠片っぽい」

 僕は小さなその異物をテーブルの上に落とす。硬いけれど軽い音、紫色のそれ。ビーズのような見た目とサイズなのに妙に尖ってて、穴も無い。欠片としか言いようが無い感じ――なんのだろう。そもそもここって、ワレモノなんかないのに。

「靴下履いてて良かったね、痛くない?」

「うん、もう平気。じゃあ本探してくるね」

 別に大したことじゃない、僕はスリッパを履いてもう一度書架に向かう。えーと、花言葉……植物の棚にあるかな。それとも文学の方かも。こっち側は比較的大人が使う所為か、児童書の棚みたいに乱れていなくて気持ちが良かった。きょろきょろ視線を彷徨わせると、僕の頭の位置ぐらいの棚に、一冊だけ横になっている本を見付ける。

 背表紙を後ろに向けているから何の本かは判らないけれど、ちゃんと収まるスペースがあるのに、それだけが他の本の上に寝そべっていた。誰かが面倒がったんだろうと思ってなんとなく手に取ると、『花言葉全集』と言うタイトルが目に入る。面倒臭がりの人にちょっとお礼を言いながら、次。

 郷土史や町史があるのは、一番奥の棚だった。古い本が多いからなのか、本棚で窓の光を遮った場所にある。空気が篭って埃っぽく、近付く僕は少しだけ咳を漏らした。大人もここにはあんまり入らないから誰もいないだろう――

 と思ったら、先客。

 ホヅミさんが、本棚に冊子を戻している所だった。

「ん? おやおやユーヤくん、珍しい所に御用だね」

「うん、ちょっと……けほッ」

 小さく咳が出て、僕は口元を塞ぐように押さえた。だけど埃が変なところに入ったらしくて、中々止まらない。大きく咽るほどじゃないんだけれど、小さなものが止まらなくて、少し涙が滲んだ。ありゃっとホヅミさんが声を漏らして、僕を覗き込む。

「この辺り埃っぽいからなー、もしかして気管支ちょっと弱いのかな。ちょっとこっちおいで」

 身体を傾がせた僕の身体を後ろから抱いて、彼女は引き摺るようにずりずりと移動した。スリッパが脱げるとかお腹が見えるとかそれ以前に、何をやってるのか判らない。そして咳をするのに忙しい。連れられたのは奥、壁と書架の間。

 そこには暗い色の遮光カーテンが掛かっていた。ホヅミさんはそれを軽く手で開く。クレセント錠は上を向いて鍵が掛かっているようだったけれど、彼女が手を掛けると、それはすんなりと開いた。

 僕がきょとんとすると、彼女は悪戯っぽく笑って見せる。

「この鍵、随分前から欠けて掛からないようになってーのよ。奥まって目立たなー位置にあーから誰も気付かなーのだけど、日中は結構風が入るの。調べ物するなら、これで換気すると少しはいーかも」

「へぇ……」

「あたしの姉さんも喉弱かーたからね、この辺りで遊ぶ時はよく開けてたーけ。ちょっと暗くて、面白い雰囲気だかーさ」

「弱かったって、今は治ったの?」

 治るなら僕も早く治したい。見上げると彼女は曖昧な苦笑を浮かべて、僕の頭を軽く撫でた。誤魔化し方に覚えがあって、一瞬後で思い出す――ミナミちゃんと、同じ。

「治ったかも、しれなかったんだけどね」

「何それ……」

「んじゃねん」

 ひらひらと手を振って、彼女は歩いて行く。なんだったんだろう、僕は小さな咳を手のひらに向けて、本棚を見上げた。

 大量の薄い冊子の中から教育委員会の広報を探すのは、ちょっと面倒だった。何せ本当にどれも薄っぺらくて背表紙の文字も小さいし、他の色んな部署の広報も同じサイズで並べられている。やっとの事で見付けたけれど、何年分ぐらい持って行けば良いのかが判らない。お父さんの学生時代で、その前ぐらいからあった方が良いから、十五年分ぐらい……両手にずっしりと、重い。やっぱりミナミちゃんにはさせられないよね。

 よろけながら席に戻ると、ホヅミさんの荷物はなくなっていた。もう帰ったらしくて、僕は少し安心してしまう。ミナミちゃんは机の上にさっきの欠片を転がして遊んでいるようだった。小さいそれが逸れないように指先にくっ付けて、転がして――僕は持って来た本を机に置いて、椅子に腰掛ける。

「ミナミちゃん、本」

「んー。なんかなー」

「ミナミちゃん?」

 ぐりぐりと欠片をこね回すようにしながら、彼女は眼を細めている。

「どうしたの、ミナミちゃん」

「んー、この欠片どっから出て来たんだろうと思ってさ。あ、良く見たら片面だけが紫なんだね。裏は黒い」

「誰かの服に付いてたんじゃないのかな? 広報、一応十五年分持って来たけど、判るかなあ……この年から花を生け始めた、とか、書いてると思う?」

「いや、そんなの探さないよ」

「え?」

「あれ」

 言ってミナミちゃんは僕達の正面にある壁を指す。そこには写真が掛けられていた。近くの山で取れるちょっと珍しい花や、今年度の教育委員会の集合写真――あ。

「集合写真を取るの、いつもここでしょ? 光が直接入らないし、白黒印刷だと煩くなっちゃう本棚も入らないから、丁度良いんだろうね。だから集合写真だけ確認していけば良いの。ユーヤは花言葉調べてメモしてて、あたしは広報やるから」

 花言葉辞典は分厚いから、確かにそれは僕がした方が良いだろう。ペンとメモを引き寄せて僕は目次を引く。判らない漢字をぎこちなく写しながら、ばさばさと本を捲って行くミナミちゃんの横で。

 白く包まれた手の指先は、くるくると回っている。

 この時間が続き続ければ良いと、僕は思った。


 遅刻寸前で慌てながら走っていた音楽教室の玄関で、皐月ちゃんに会った。

「あれ、ユーヤくんっ?」

「どうしたの、皐月ちゃん。こんなギリギリなんて珍しいよね?」

「あはは、学校の花壇があるでしょ、あのお世話に夢中になっちゃった。お天気が良いから雑草がすごく育っちゃうんだよ、もう大変なの。でもね、苗が随分育ったんだよ! 早く蕾ができないか、すごく楽しみ!」

 皐月ちゃんは嬉しそうに笑って見せる。昔はよく笑っていたけれど、そう言えばこんな顔を見るのも久し振りかもしれない。バラ、学校の裏庭の――なんとなく、胸の奥に小さな渦が起きる。

 あれは、ミナミちゃんのなのに。

 僕は笑顔を作る。

「そうなんだ、咲いたら僕にも教えてね、見に行くからっ」

「うん、来て来て! 綺麗になるように、栄養のあるものいっぱいあげなくっちゃ」

「遅い!」

 クラスのドアを開けると先生がそう言って僕達を睨んだ。とんとんっと楽譜の冊子を指で叩く様子は怒っているらしいけれど、まだチャイムは鳴ってない。皐月ちゃんがすみませんっと勢い良く頭を下げるのに倣って、僕もぺこりとお辞儀をした。そして、席に着く。

 このところの皐月ちゃんは、何だか随分明るくなってた。音楽教室でも話す相手はあんまりいなかったのに、今も隣の席の子とお喋りをしながら笑っている。反対に先生はぴりぴりするようになって、ちょっとしたミスにも怒鳴るようになっていた。別に僕はどうとも思ったりしない、前みたいに少し穏やかな先生の方が良かったとか、俯いてることの多かった皐月ちゃんの方が付き合いやすかったとか、そんなことはまるでどうでも良いことだった。問題は、遅刻寸前だったことをお母さんに言われるかどうかと言うこと。また何か言われるのもイヤだな、そう言えば、練習もしてなかった。

 元々あまり好きなわけじゃないんだし。

 言われたから、習ってるだけで。

 大きな鞄を開いて楽譜を出す。広げてエレクトーンの上に乗せ、姿勢を正してそれを眺めた。ページを捲ってリズムを復習しながら、なんとなく、何の気なしに。

 楽譜の余白を破る。

 ぺりぺりと、破る。

「あ、ユーヤくんいけないんだっ。楽譜は大事に、だよ?」

「皐月ちゃんも前向いてなきゃ、じゃない?」

「良いよ、お母さんの顔なんかいつも見てるんだからー。楽譜が可哀想でしょ、だめっ」

「はーい」

 こんな事やってるぐらいなら、ミナミちゃんと一緒にいたいのに。


「花言葉って色々ありすぎて難しいなー……どれを選んだものか、もしかしたら、二つの意味かもしれないし。数字も答えも判らない掛け算みたい」

 メモを眺めながらミナミちゃんは唸る。確かに、花言葉は一つの花に対して沢山の意味がありすぎた。白いバラは、あなたを尊敬する・私はあなたにふさわしい・尊敬。ピンクのカスミソウは切なる喜び。だけど、バラ全般とかカスミソウ全般とかがあって選ぶのが本当に難しい……バランスを考えての色なのか、意味があっての色なのか、それすらも判らないし。

「花言葉って、受け取るほうが自由に意味を取れるようにされてるんだって。だから、やっぱり僕達には選べないと思うよ」

「んーんーんー、それはそれで中々に……うーん」

「ミナミちゃんの方は? えっと、十二年前の広報から?」

「多分そうかな。十三年前のはね、なんか事故があったらしくて装丁がいつもと違うから写真が無いんだ。ホヅミさんが言ってたやつかな――でも十二年前のから、色は判らないけどカスミソウとバラは写ってるよ。花瓶も模様が同じだし。ここの写真は毎年六月に撮られるから、十四年前の六月から十二年前の六月に掛けて生けられ始めたんだろうね。この頃と今と、居る人は……」

 ミナミちゃんは壁に掛かっている写真と広報を見比べる。

「辻本さんだけかな」

 優しそうな垂れ眼のおばさんだけが、そこにいた。


 職員室のようなイメージの強い教育委員会の部屋にいたのは、皆川さんだけだった。辻本さんがどこにいるかと聞いたら、眼鏡を忙しなく直しながら、今日は早退――大人は早引きと言うみたい――だと教えてくれた。別に明日でも良いか、どうせ今日は時間も無い。それから急いで家に帰って鞄を取って来たのだけれど、あんまり足の速くない僕だから、ぎりぎりになってしまった。この大きな鞄が悪いのだとも思うけれど、面倒だから言い訳はしない。

 居残りのレッスンを受けると、殆どクラスの子はいなくなっていた。僕も早く帰ろうと廊下を歩いていた所で、その真ん中に見覚えのある人影を見付ける。

「…………」

 カッターシャツにジーンズ、長い髪はヘアバンドで留められている。彼女は身体を少し屈ませながら壁を見ているようだった。僕にはまだ気付いていない、けれど、もう視界には入っている。一歩踏み出せば彼女は――ホヅミさんは僕を見て、笑い掛けた。

 別に驚かなかった。

 ただ、単純に不愉快があっただけで。

「あにゃ。今日は良く会ーねユーヤくん、ここの生徒だったんだ?」

「うん、中学年クラス。ホヅミさん、何してるの?」

「あたしもここの生徒だったから、久し振りの休みにちょっと寄ってみただけー。居残りされらーてたの? 遅刻でもした?」

 本当の事を言われると、ちょっと苛々するもので。

「お姉ちゃんいなーね、一緒に通ってるんじゃなーのかな?」

「ミナミちゃんはここに通ってない、です。何か用でもあるんですか?」

「敬語しなくていーよ、慣れてーし。そっか、じゃー今ミナミちゃんはお家に一人なんだね」

「……お家にはいないと思う」

「なんで?」

 嫌いだから。

「……なんとなく」

 ホヅミさんはそっか、と頷いて、突っ込んでこなかった。ぼんやりと壁に展示されたコンクールの賞状や写真を眺めている。僕は代表に選ばれることも立候補することもないから、別に関係のない写真ばかりだ。知り合いがいたって、別にどうもしない。

 そう言えばこの人、まだ僕とミナミちゃんのこと姉弟だと思ってるのかな。全然似てないと思うんだけど、手を引っ張られて歩いているとそう思われても仕方が無いのかもしれない。説明するほどの事でもないけど、なんとなく、嫌な感じだ。あのコインランドリーでも他の場所でも、姉弟のふりなんて沢山したはずなのに。

「なんとなく、ねー。そっか。それなら、いーけど」

 この人は。

 何を、言ってるんだろう。

「ユーヤくん覚えてーかな、前にあたしが言ったこと。ちゃんと実行してくんなきゃにゃーごだよ、もう、地球温暖化並の勢いでにゃーご。わかってーと思ったんだけど、見込み違いかな」

 何を。

 言って。

「君はちゃんと、ミナミちゃんを守れー子だと」

「僕」

 うるさい。

 黙れ。

「急いでるんで、そろそろ帰りますね。ちょっと遅くなったから、お母さん心配するかもしれないし。それじゃあホヅミさんさようなら」

 笑って僕は走り出す。夕焼けの眩しさに苛々した。赤くて苛々した、熱くて苛々した。まるで自分の顔みたいで、苛々した。ミナミちゃんはどこにいるだろう。家に帰っているだろうか。僕の部屋、窓の下に座っているだろうか。早く帰ろう。早く帰ろう。

 早く、ミナミちゃんのところに帰ろう。

 そして、手を繋ごう。


 次の朝、ラジオ体操のために起きると、お母さん達がパジャマのままリビングで話し込んでいた。眠い眼を擦りながらおはようと挨拶すると、ぱたぱた駆け寄られる。

「ユーヤ大変だよ、昨日ね、お隣の車が車上荒しに壊されたんだって!」

「車上荒しってなに、お母さん?」

「えっと、停めてある車から何か盗んだり、壊しちゃったりすること。うちとか他のご近所は大丈夫だったみたいなんだけど、まだ調べてる最中だって。ボンネットがべこべこになってたりフロントガラスが粉々だったらしいから、きっとすごく乱暴な怖い人がやったんだよね。うちも怖いなあ」

「そんな立て続けに同じ所ではやらないよ、ママ。でも用心はしなきゃだなぁ、戸締りとかは特に」

「ユーヤの部屋はいっつも窓開いてるから、駄目だよ。ちゃんと締めなきゃ、絶対駄目だからね」

「……お母さん、ラジオ体操遅れる」

「そんなのお休みだよ、危ないんだから!」

 危ない危ない繰り返すお母さんに溜息を吐いて、僕はソファーに座った。テレビはまだニュースしかやっていなくて退屈、欠伸がふわふわ込み上げて来る。これならもう一眠りしちゃった方が良いかも知れない、ミナミちゃんが来たら、起こしてくれるはずだし。お腹は空いたけどご飯は無理っぽいから、やっぱり、寝るしかない。

 宥めているお父さんの横を抜けて、僕は部屋に戻る。ベッドに入ろうとタオルケットを上げたところで、外から小さな声が響いた。窓から下を見ると、金色がふわふわと揺れている。

「……ミナミちゃん?」

「いたた……あ、ユーヤおはよ。なんかブロックに座ったらなんか刺さったみたいでさ。起こしちゃったかな?」

「ううん、起きてた」

 そっか、とミナミちゃんは立ち上がる。

 腕は吊られていなかったけれど、包帯でぐるぐる巻きだった。朝の分の痛み止め飲んでいないんだろう、動きが少しぎこちなくて表情も硬い。見ると、二の腕の付け根辺りに知らない痣が出来ていた。尋ねそうになって、飲み込む。引き攣った笑みを受け入れる。

 着てるのはパジャマっぽいTシャツで、髪もいつものように纏められていなかった。もしかして部屋から抜け出してきたのかもしれないけれど、そんなの、考えなくても良いことだ。

 ミナミちゃんが来たら、迎える。

 手を繋ぐ。

「よい、しょ」

 窓枠にクッションを敷いて、痛くないように、ミナミちゃんの身体を引っ張る。椅子の上に足を付けたら靴を脱がせて、部屋の中に。

 それから僕達は少しの間、手を繋いで一緒に眠った。


「バラの原種ってね、結構シンプルなんだよ。ちょっと花弁は多いんだけどそれ以外はあんまり、今のと似てないんじゃないのかな」

「げんしゅ?」

「折り紙、みたいなものだね。手を加えると鶴になったり金魚になったりするでしょ、その、一番最初のもののこと。バラとかの花にも、動物にもある。全然似てないことが多いんだけど、バラのは本当、可愛い花だよ。棘もちゃちだし」

「ふーん……」

「だから、バラの生垣も、イバラの城も、本当は優しくて小さくてささやかなものだったのかもね。魔法の力で守られてるだけ。残酷な話は後付けも多いんだよ」

「じゃあ、野獣のバラは、きっとその小さくてささやかなものなんだね」

「ん?」

「映画では、野獣が持ってる一輪のバラが寿命の時計だった。風除けが取れただけで花弁が落ちちゃう、弱いものだったんだ。でも、もしかしたら全然弱くないのかもね。風一つでぐらぐらして、それが当たり前なのかもね。枯れない花なんか、ないんだから……」

「そうだね。曼珠沙華なんかどこにもないんだから」

「なに、それ……」

「ありえない花だよ」


 起きたのは八時を回った頃だった。お母さんはとにかく慌てて、僕のことなんか思い出さずに近所の話し合いに参加していたらしい。ミナミちゃんが外に出るのを手伝ってからパジャマを着替えて、いつものように麦藁帽子を被る。書置きをして鍵を掛け、ミナミちゃんの家の前で待てば、すぐに彼女も出て来た。慌てていたのか三角巾はゆるゆるで、リボンも傾いている。少し歩いてからそれを直して、昨日のように図書館に向かう。

「提灯増えて来たねー、まだ十日近くあるのに。お祭りまで」

「二日しかやらないのに、夏休みはずっとそれ一色な気がするよね。それまでに宿題終わらなきゃな……工作やだな」

「ん、何作るの? 手伝おうか?」

「まだ秘密。でも、自分でするよ」

 スリッパを出して足を通す。玄関から人影は見えなかったから、きっと僕達が一番乗りだろう。ノックをして部屋に入ると、辻本さんがのんびりした笑顔で僕達を見た。

「朝から早いのね。でも、あんまり出歩くのも、気を付けなきゃ駄目よ。今朝は何だか物騒なことがあったみたいだし」

「そうみたいですね。えっと、辻本さんに聞きたいことがあるんですけど、良いですか?」

「あら、なぁに?」

 鍵を取ってドアに向かおうとしていた彼女の身体が止まって、僕達を見下ろした。柔和そうな様子はいつもと変わらない。十年以上前の写真にも、同じような様子で写っていたっけ。ミナミちゃんはくるくると吊られた腕、三角巾の中で指を回す。僕はいつものように麦藁帽子を目深にして、その後ろに立つ。

「図書館にあるバラって、どうして生けてあるんですか?」

 ミナミちゃんの言葉に。

 辻本さんが手を握り締める。

 いつも柔和そうに笑っている目元が、一瞬だけ僕達を強く睨んだ。

「調べてみたら、十二年前辺りからずっとあるんですよね。ただの生け花じゃなく、いつも同じ花だってことは、何か理由でもあるのかなって。花言葉とか調べてみたんだけどよく判らないから、辻本さんはずっとここにいるみたいだし、知ってるかなって」

 辻本さんは眩暈でもするのか、軽く目頭の辺りを手のひらで押さえた。口元は一文字に引き結ばれて何も言おうとしない。ただ眩暈が偶然起きたわけじゃないんだろう、何か。

 ミナミちゃんが首を傾げると、金色の髪が揺れる。

「ただの、生け花よ。理由は私もよく知らないの、その頃はここに来たばかりだったから――ごめんなさい。でも、別に理由なんて、何にも無いんだと思うわ。本当、何も」

「……そうですか」

 言ってミナミちゃんが図書館へのドアに向かうと、小さく溜息を吐いた辻本さんがその前に入る。鍵を開けてくるりと回せば、ドアが開いた。一番乗りの場所は誰も居なくて、とても気持ちが良い。騒がないようにね、といつもにように釘を押されてからドアが閉じられる――同時に、ミナミちゃんは特等席へ。

 朝だからか、空調は少し肌寒く感じた。バラは相変わらずに生けてある。ミナミちゃんはその本数を確認して昨日のメモと突き合わせ、うん、と頷いた。まだ代えなきゃいけないほど痛んでもいないし、当たり前だろう。

「さて、どうしよっかユーヤ」

「どうしようって、何を?」

「だってさ、辻本さんは絶対嘘吐いてると思うんだよね。十三年前からここにいるのはもうあの人だけで、だから、このバラを生け続けてるのはあの人でなきゃおかしいの」

「あ……」

「で。理由がないならないで良いんだけど、そうじゃないでしょ? 『よく知らない』って言う事は、理由はある、ってことなんだよ。つまり、教育委員会の誰でもない人が、この花を生けてる。……おかしいでしょ? 許可も取らずに、さ」

 くるくる、右手の指で髪をいじりながらミナミちゃんは天井を見上げた。僕もそれに倣ってみるけれど、ただ白い板があるだけで、何も見えない。解体の仕方なんて、何も。スリッパをぱたぱたと鳴らせば、いつものようにそれは脱げてしまった。拾おうとずりずり身体を下げて足を伸ばす――靴下の裏にざりっとした感触が走って、ほんの少し痛んだ。

「あう」

「ん、ユーヤ?」

「またなんか刺さった……なんなんだろ、昨日から」

 スリッパを引き寄せてから、僕は足の裏を見る。やっぱりに靴下に引っ掛かっていた欠片は、真っ黒だった。昨日みたいに紫の面はない。本当、何の欠片なんだろう――からんっと小さな音と一緒にテーブルに落としたそれを、ミナミちゃんが拾う。

「ああ――そっか、うん」

「ミナミちゃん?」

「図書館にもあるんだよね、割れるもの。壊れて粉々になってこんな感じの欠片になるもの、あるじゃない。そうか、やっぱり、だったら」

 ぶつぶつと小さく呟くミナミちゃんを見上げて、僕は首を傾げる。図書館にあって、割れるものなんか無いはずだ。本棚と本が大部分で、ちょっとした筆記具や貸し出し申請用紙があるぐらい。他には、机や椅子――あ、と、僕も気付く。目の前に、それはあった。

 ミナミちゃんは椅子を引いて、ぴょんっと飛び降りる。そのまま足を進めれば、あるのは花と、それを生けている花瓶。古びた木の台に乗せられたそれは黒く、描かれている花は、馴染む暗い紫。昨日落ちていた欠片は、確か片面だけが紫をしていた。

 ミナミちゃんは花瓶の首を持ってそれを観察する。

「……欠けてるところは、別段無いみたいだなー」

「でも、色だって同じだよ? 底とか口とか、何処か小さくでも欠けてない?」

「全然。大体底が割れてたら水が出ちゃう――あれ?」

「どうしたの?」

「これ、水入ってないや」

「……え」

 花を花瓶に入れるのは水を吸わせる為だ。なのに水が入ってないなんておかしい、僕はミナミちゃんから受け取って、花瓶を抱える。確かにそれは陶器の重さと冷たさだけがあって、水の音はまるでなかった。花がわさわさと揺れる音だけがする。

 朝だからまだ入れていないだけなのかもしれないけれど、昨日だってお昼まで、誰かが水を入れたことなんてなかった。午後も同じ。ご飯を食べている間に誰かがしたのかもしれないけれど、その人だってご飯を食べる時間なんだから、そんな面倒はしないはずだ。少ないわけじゃなく、からっからに、入っていない。

 生花なのに。

「欠けてない、けど、欠片はある。枯れない花には水が無い。なんかな、変な感じ」

「なんだか吸血鬼みたいだね、変なの――あうっ」

 花瓶を置いて台に手を付くと、ちくりとした痛みが走った。なんだか昨日からこんなのばっかりだ、ささくれにでも引っ掛けたのかも――でも、そんなに木が毛羽立ってる様子は無い。身体を屈ませてじぃっと見ると、実はそんなに古くもなさそうな様子に気付く。傷がある所為かそう見えたみたいだけど、それも、どうしてだかそれも手前側にしかない。

 ちらりと、何かが木肌で光った。

「――あ」


 日中は図書館で、読書感想文を書いたり宿題のワークをやったりした。順調に消化してはいるのだけれど、やっぱり月末のお祭りにちゃんと間に合うのかは不安になる。終わらないと行かせて貰えないし。

 ミナミちゃんは本当に何もやっていないから、きっとひどく怒られるんだろう。冬はするんだけれど、夏の宿題は絶対にしない。転校してきてから毎年のことなのに、考えると少し気持ちは暗い。

 午後になってからはホヅミさんが来た。相変わらず自分で持ち込んだ本を抱えていて、僕達が座っているのを見ると、苦笑していた。特等席取られちゃったか、なんて。僕達は譲らなかったから、彼女は一つ椅子をおいた席に着いた。別に何も話さず、ただ、いた。

 もしかしたら観察されていたのかもしれないし、見守られていたのかもしれない。

 三時少し前に、ミナミちゃんと別れた。家に戻って荷物を取り、音楽教室に。今日は余裕を持って行ったから予習も出来て、特に先生から何を言われることもなかった。終わったらまっすぐ家に帰って、部屋の窓から顔を出すと、ミナミちゃんが踏み台のブロックに座っている。朝と同じように手を引っ張って引き入れ、取り留めない話をした。童話を読んでみたり、その裏話を聞いたり。話の途切れ目に宿題のことを振ってみたけれど、耳を塞がれた。ミナミちゃんって、本当……。

 夕飯を食べてからは、暫くリビングに居た。ミナミちゃんも家に戻っているから、暇で。お母さんはまだ今朝の事でうんうん言ってたけれど、お父さんはもう呆れているみたいだった。少しテレビを見てから、部屋に戻る。お母さんを連れて来て鍵が掛かってるのを確認してもらって、あとはドアを閉じて、電灯を消す。

「――さてと」

 机の小さなライトを点けて、僕は一番下の大きな引き出しから防災用の体育靴を出す。さっき閉じたばかりの窓の鍵をすぐに開けて、音が出ないように開けた。外に出ようとして、ベッドを見る。タオルケットじゃ枕も突っ込めないけれど、まあ、良いか。飛び降りたら窓を閉める、そして、そっと抜け出す。

 近くの交差点には、もうミナミちゃんが待っていた。三角巾は掛けていない。折れていない右手を繋いで小走りになり、公民館に向かう。道に沿うようぶら下げられた提灯は明かりを灯していて、少し走りやすい。

「ミナミちゃん、腕、走っても大丈夫なの?」

「心配しすぎだってユーヤ、薬も飲んでるし、そんな酷くもないんだよ。固定してるのには変わりないしさ。しっかし、なんかなー……こういう夜の外出って、いけないことしてる気分」

 今更のことを、本当に楽しそうに言う。

 必要に迫られてのことじゃない、自分から出て行く夜は、確かに少しだけ楽しいのかもしれない。

 彼女と一緒に居るからなのかもしれない。


 花瓶を置いてある台の一部分だけがささくれ立っているということは、そこだけに何か力が入っていると言うことだ。前を向いている部分だから確かに物がぶつかる事は多いかもしれないけれど、でも、あれはもう十年以上あの場所から動かされていない。花瓶も花も、あの台も同じだったのだから。まさか服が擦れるだけで傷む事は無いだろうし、それに、あそこには欠片が埋まっていた。黒い陶器の、昨日も今日も僕の足に刺さった棘のようなそれ。

 めり込んでいると言うことは強い力で押し付けられたと言うことだ。欠片は飛んでいる、だけど、花瓶に傷は無い。そして水も無い。だから僕は考えた、ミナミちゃんも考えた。

 この花瓶は、割られているのかもしれない。

 だから欠片が飛び散っている。

 この台に叩きつけられているのかもしれない。

 だから欠片がめり込んでいる。

 そして毎日、花も花瓶も取り替えられているのかもしれない。

 だから、バラはいつまでも枯れない。

 公民館の玄関に着くと、僕達は身体を壁に隠した。北側の窓からは玄関がよく見えてしまう、反面、玄関からもよく見える。暗い図書館の中、バラは花瓶に生けられていた。それがまだなのか、もうなのかは判らないけれど。

 隣の教育委員会の部屋には、明かりがついていた。職員玄関は裏だから、帰る人に見付かる事は無いだろう。何か起こるまで見ているのも疲れるし、誰かが通り掛らないとも限らない。人が居ないのを確認してから、僕はミナミちゃんのシャツを引っ張った。ぐるりと建物を回って、裏に向かう。確か、この辺り――指を引っ掛けた窓は、からりと小さな音を立てて開いた。

「ユーヤ、開けておいたの? 準備良いなあ……」

「違うよ、ここの鍵って壊れてるんだ。クレセント錠が欠けてるんだって――」

 ホヅミさんの顔を思い出して、僕はちょっと口唇を噛む。

 近くにあったファンに足を引っ掛けてよじ登り、僕は図書室に入る。ミナミちゃんは片腕が使えないからちょっと難しいだろう――辺りを見る。分厚い町史を引っ張り出して、外に落とした。それを踏み台にミナミちゃんを引き上げる、回収は後でどうにかしよう。奥の本棚、埃っぽいそこの陰に隠れて、僕達はしゃがみ込む。

 ずっと座っているのは退屈だけれど、待っていることしか出来ないんだから、仕方ないだろう。お父さんが言っていた幽霊は夜に出ていたんだから、僕達もその幽霊を待つには、夜と言う大雑把な時間を見張っているしかない。

 僕達は黙っていた。

 繋いだ手、指を絡ませて遊びながら、黙って待っていた。


「……!」

 そんなに長い時間は、掛からなかった。ミナミちゃんが小さく息を呑む音に、僕は少し身を乗り出す。隣の部屋から逆光を背負って入って来る人影は、そんなに背の高くない、女の人のようだった。あまり身を乗り出せないから確信は持てないけれど――彼女はドアを閉じ、ゆっくりと、窓辺に向かう。慎重な様子で、足を進めてくる。

 そして花瓶の首を持ち。

 台の上に、叩き付けた。

 陶器が粉砕される音は、図書館全体に響いた。僕は思わず肩を竦めるけれど、ミナミちゃんは平然として彼女の後姿を眺めている。ガンガンと何度も叩き付け、花瓶はもう首しか残っていない。それすらも床に叩きつけて、だむだむと地団駄を踏んでいる。

 暫くそうしていたと思うと、やがて彼女は息を整えて、くるりと身体の方向を変えた。ミナミちゃんはそこで身を乗り出し、顔を確認しようとする。僕も同じように、その人影を凝視した。

 ドアを開けると隣の部屋の明かりが漏れて、その顔が照らされる。

 辻本さんの、顔が。

「…………」

 ドアが閉じられる。

 ミナミちゃんはまた身体を隠して、隣の様子を伺っていた。僕も少し煩い胸に手を当てながら同じようにする。繋いだ手はまだ絡めらめて、何気なくなんでもなく遊ばれていた。そうしていると、少しだけ、落ち着けた。

「……ミナミちゃん、見た?」

「うん、見た」

「辻本さんだった……よね?」

「視力が正しかったらそうだと思うんだけど、あの人があんな乱暴なことするかな――いや、事実見たんだから、確定か。まさか双子ってことはないだろうし」

「それは幾らなんでも……それより、良いの? 話聞くんじゃなかった?」

「いんや、ちょっと腑に落ちないことがあるからさ」

 言ってミナミちゃんは少し身体を乗り出して、ドアを睨む。白い包帯で固められた腕は、髪をいじる仕種で指先だけがくるくると回っている。何かを考えているんだろう、何かの、引っ掛かりを。

「腑に落ちないって、どうして?」

「あたし達、今朝は一番で図書館に行ったでしょ? その時にいたのは辻本さんだけだった。でもって図書館には新しい花瓶があった。辻本さんが壊して、代えてるなら、今それを同時にやった方が自然だと思うんだよね。でも今は、そのまんま放っといて行っちゃった」

「お掃除道具、取りに行ったのかも」

「だから見てるんだけど――あ」

 ミナミちゃんは慌てて身体を乗り出し、拍子に転んで床に這った。隣の部屋から窓越しに漏れていた明かりが、ぷつんと消える。他の人がいる時にあんなことはしないだろう、つまり隣の部屋にはもう誰もいない、片付ける人はいなくなる――そして、花を代える人も。

 うにーっと小さく呟いて、彼女は溜息を漏らした。僕はその身体を支えて起こさせる。

「さすがに一晩見張ってる気力はないんだよねぃー、誰かが通り掛ってさっきの本見付けたり、家でばれたりしたら厄介だし。今朝も変なことあったから、面倒……」

「でも、朝じゃないなら、夜なんだよね。こんな遅い時間に――」

 ふっと隣の明かりが点いて、僕達は息を呑む。辻本さんが帰って来たのだろうか。でも、明かりは消して行ったし――忘れ物? 心臓がうるさい、なんだか、どきどきする。でも、もしかして、まさか。

 ドアが開けられた。

 彼女はバラを抱えていた。

 そして、花瓶を。

 彼女が窓辺に立ったところで、ミナミちゃんが立ち上がる。僕はそれを支えた。走り出す後ろに従う、窓辺の彼女は、僕達に気付いても逃げなかった。ただ驚いた顔を――眼鏡の奥に、浮かべていた。

「花を生けてたのは、貴方だったんですね」

 ミナミちゃんは言った。

 皆川さんに、言った。


 次の朝も、ラジオ体操は無かった。だから僕はタオルケットの中に包まって、寝不足の頭を枕に沈めている。そば殻の枕はざらざらうるさいけれど、夏はこれの方が、熱が篭らなくて気持ち良い。台所からはお母さんがご飯を作っている音が、とんとんと響いていた。これも眠気を誘って心地良い。今日は、図書館で眠り直そうかな。あの暗い本棚の辺りなら、窓さえ開けてれば気持ち良さそう。

 でも、ミナミちゃんは図書館に行きたがるかな。

 僕は眼を閉じる。


「私ね、元々は、先生だったの。と言うか、教育委員会って殆ど、学校の先生だった人なんだけれど。勿論、辻本さんも」

 窓から入った僕達は図書館の机に座りながら、皆川さんの言葉を聞いていた。彼女は箒でてきぱきと割れた花瓶の破片をちり取りに集めて、散らばった花を腕に抱える。水が入っていないから、片付けは比較的簡単そうだった。僕達は手伝わない、と言うのも、裸足だから歩き回ること自体がちょっと危ない。ミナミちゃんはくるくると髪をいじりながら、窓を見ている。僕の膝には、一本分けてもらった白バラが置いてあった。これをモデルにすれば、工作も少しは楽になりそうだ。

「私と辻本さん、昔は同じ小学校にいたの。彼女は一年生の担任で、私は、養護教諭……保健室の先生ね、それだった。別にただの同僚、だったんだけどね。昔、ちょっと、色々」

「十二年前、十三年前かな。なんか事故があったみたいなことが広報に書いてたけど、それ関係?」

 ミナミちゃんの言葉に、皆川さんは俯いた。

「鉄棒の授業があってね。それで、一年生の子が怪我をしたの。たんこぶしかなかったけど、頭だったから、一応早退させて病院に行ってって言ったんだけど……担任だった辻本さん、そのまま、一日授業受けさせた。夜になってその子、急に具合が悪くなって、死んじゃった」

「…………」

「ご両親には鉄棒のこと、何も伝わってなくてね。他の先生にも、そうだった。低学年だとはしゃぎすぎてよくあることだから、辻本さんも気にしてなかったみたい。でも私は、ずっと気になってた」

 大きなビニール袋に花と花瓶の欠片を入れて、皆川さんは続ける。

「次の年に辻本さん、教育委員会に行くことになったの。長年、良い先生だったからね。その時私、ああそっかって思った。辻本さん、だから、面倒が嫌だったのかもって。そしたら――悔しくて」

 花瓶の欠片がかしゃかしゃ落ちる。

 ミナミちゃんはくるくると、髪をいじっている。

 僕は、花瓶を見る。

 白いバラ。

「うちの母親がね、芸術教室で陶芸教えてるの。この花瓶も、生徒の習作。あの子のお母さんも生徒で、いつも、それが終わるの待ってたんだ。良い子だったんだよ、元気で、ちょっと照れ屋で。私が話し掛けた時も、最初は逃げたっけ。そんな子が、死んじゃったんだよ。あの人の所為で、死んじゃった」

「昔は、窓から入って片付けしてたんですか?」

「うん。最初に生けた時、次の日に無くなってて。見てたら、あの人が壊してた。だからずっと続けたんだ、忘れさせないために――絶対、忘れさせないために」

「……でもなんで、白いバラなの?」

「お墓参りの花だからだよ」

 僕の言葉に、ミナミちゃんがきょとんとした。

 皆川さんは、頷く。

「辻本さんがあの子のお墓に置いたのが、白いバラとピンクのカスミソウだったんだよ。百合とか菊とかじゃなくて、バラだった。なんだろう。それも、私は、なんだか許せなかったな……」

「だから壊さずにはいられなかった、か」

「だろうね。あ、皆川さん、僕教えて欲しいんだけど……花瓶に描いてるお花って、なんなの?」

「え? これは、リンドウだよ」


 僕達の外出はばれていなかった。元々こういう事は前からあったんだし、今更の結果だ。警察の人が見回りをしていて、それに見付からないようにするのは少し面倒だった。ミナミちゃんは家の前で少し躊躇って、僕の手を、離し辛そうにしていて。帰りたくないんだろう、いつもいつも、本当は帰りたくなんかないんだろう。解体は終わってしまったから、もう、気を逸らすことの出来るものだって何も無い。宙ぶらりんでいられる夏と冬の半分こは終わって、待っているのは、冬の庭。

 だから。

 僕は寝返りを打つ。

 ふわふわした感触が、鼻先を掠めた。

 目の前には金色の髪。

 夏の向日葵みたいな、明るさ。


 隣に眠る彼女を起こさないように、僕は笑う。

 ほんの少し顔が熱くて、まるで熱でもあるみたいな感覚。


 リンドウの花言葉は、悲しむ君が好き、だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます