第3話 二年前 眩しき手掛かり

 彼女が僕の隣に引っ越して来たのは一昨年、僕がまだ小学校に入ったばかりで一年の頃だった。初めての夏休みも終わり掛けたある日、父親と一緒にやって来たミナミちゃんは三年生。勿論まだ金髪じゃなかったし、ポニーテールでもなかった。お愛想でも笑って挨拶をする父親と逆にむっすり黙り込んでいる彼女は、くるくるの髪を無造作に下ろして顔を半分隠していて。黒いワンピースに白いカーディガンも相俟って、ちょっと怖いと思ったのが、第一印象。

「うちの子は一年生なんですよ、小学校はお隣だから同じですよね……ユーヤ、後で案内してあげたら?」

「え」

「だって、来たばっかりだったら通学路とか判らないでしょ。お隣さんとして教えてあげなきゃ駄目だよ」

 それはそうだと思うんだけれど、正直気は進まなかった。

 彼女はずっと黙りこくって俯いたままで。

 少しだけ、童話のお姫様を思い出させた。


「それで、ここで曲がるの。えっと、そこの看板目印にすると良いかも」

 酒屋さんの大きな看板を指差す僕に、彼女は何も応えなかった。学校までは二十分ぐらいの道のりだから遠くはないのに、家の場所が住宅街でも奥まっている所為で通学路は複雑になっている。僕も春にはお母さんと一緒に練習したっけ。目印を憶えれば一度で判る道筋だからこれも一度で終わると思うんだけど、やっと半分で僕はもう疲れていた。彼女があまりにも、黙っているから。

 お喋りな子の方が付き合いやすいのは、その子が何を考えているのかすぐに判る所為なんだと僕は思う。黙っている子は何を考えているのか判らなくて、だからちょっと怖い。けど、二人っきりでずっと歩いてるのに一言も喋らないなんてのは、無口とか言う問題じゃない気がした。

 もしかしたら喋れないのかな。喋れるのに黙っているんだとしたら、僕は嫌われてるのかもしれない。会って三十分の相手にそれはちょっと悲しいから違うと思いたい、でも、頷いたり肩を叩いたりそういうことすらしてくれないと、やっぱり疑ってしまう。

 そして何故か、彼女は足音を立てないで歩く。街の中は月末のお祭りに向けて、あちこちからお囃子の練習や流し踊りの曲、やぐらを立てる金槌の音が聞こえてきていたから、余計にそれは判り難かった。ちゃんと付いて来ているのか不安になって何度も後ろを振り向かなきゃいけないのは、身長差も手伝ってちょっと首も疲れる。僕はちらりと後ろを見た――立ち止まって道の向こう側を見ている彼女が見えて、溜息を吐く。

「ねぇ、ちゃんと付いて来てよっ。これじゃ学校に着かないよ」

 僕は彼女の手を引っ張る、その手は乱暴に振り払われる。何か汚いものみたいな扱いをされるのは嫌だけど、怒るのは苦手だ。その後でぐるぐる後悔しちゃうから。そもそも何を見てたんだろう、僕は視線を向こう側に向ける。停まっている黒い車を見ているわけでないなら、公園を眺めているんだろう。真ん中にはまだ骨組みだけしか出来ていないやぐらが見えた。遊びたいのか、見たいのかな。でも今は学校に行く練習中だし、寄り道すると今までの道が判らなくなっちゃう。

 うーんっと僕も立ち止まっていると、公園の中、腕を振りながら駆け寄って来る子達がいた。見慣れた姿に僕もぱたぱたと手を振って、呼び掛ける。

「皐月ちゃん――大樹くん」

 大樹くんは小学校でも音楽教室でも僕と同じクラスの子で、元気な腕白タイプの男の子だ。隣にいる彼女と同じでこの町には引っ越してきている。入学の時期だったからそれほど目立たなくて、今はもうすっかり町にも溶け込んでいた。授業は騒いでばかりで腕白、でも掃除当番なんかはサボらないから、案外は真面目な所もある。

 引っ越して来た事情を学校で説明されることは無く、ただ家の事情とだけ聞いていた。それでも狭い街だからすぐに、お母さんが離婚してたらしいと言う話を色々な噂の中に聞くことになった。小テストのプリントに書く苗字をよく間違えるのが隣の席の子から広まったこともあって、『そういうこと』として皆は理解している。誰も、直接尋ねたりはしない。

 皐月ちゃんとは家が近いらしくて、そのせいなのか結構仲が良かった。必然的に僕達は三人で一緒に遊ぶことが多い、それが夏休みだと尚更で、最近は特にだった。

「何やってんだよユーヤ、さっきお前の家行ったらいないって言われたぞ。学校行ったって言うから忘れ物でもしたのかって思ってたけど、何しに……あれ」

 彼はそこで、少し距離を取った位置に立っていた彼女に気付く。見た事が無い子だからだろう、少し訝るように首を傾げてから僕を見下ろした。少し顔を近付けるように背を丸め、覗き込んでくる。

「そいつ誰? 今一緒に歩いてたんだよな、イトコとかか?」

 言って大樹くんは指差す、彼女は黙ったままで何も言わない。仕方なく僕は彼を見上げる――同い年なのに結構ある身長差は、ちょっと悲しい。

「お隣に引っ越して来たんだ、三年生だから皐月ちゃんより一つ上で、名前は」

「ミナミ」

 ぼそりと低く、なのにはっきりと彼女は言う。

「……ミナミちゃん、って言うの」

 少し訝りながらも、僕は彼女の言葉をなぞる。

 今までまるで喋らなかったのに。

 どうやらお姫様じゃ、ないみたいだ。

「ふーん、で、何してんだ? 遊ぶなら俺達と一緒でも良かったのにさ」

「そうだね、遠くに行ったりしないし、この辺なら案内出来る、から」

「ううん、今は学校までの道順教えてるだけ。そだ、二人も良かったら一緒に――」

「いらない」

 彼女の二言目は、拒絶だった。

 きょとんっとした僕達に背を向けて、彼女は歩いて行く。相変わらず音を立てないで、髪をふわふわさせながら早足に遠ざかる後姿。僕はそれを慌てて追い駆ける。掴んだ手は、やっぱり何か汚いもののように振り払われた。少し手がぴりっとして、痛い。

「一人で行ける。手続きに連れて行かれた。あんたはその二人と遊んでいろ」

 言って彼女は駆け出す、その姿はすぐに、黒い車に隠れて見えなくなった。


 入学祝でおばあちゃんが送ってきてくれた本はグリム童話だった。のんびりしたお母さんと違ってしっかりしたおばあちゃんは、今も近所の食堂でせっせと働いている。お母さん曰く、おばあちゃんは根っから大人の考え方しか出来なくて、子供のことがよく判らない人だったらしい――料理からオモチャから本まで、どういうモノをどういう子にあげたら良いのかが、判らない人なのだと。だから小学生の男の子に贈るのがグリム童話でも変じゃない、むしろ自然なんだろう。僕はそれを、なんとなく納得している。

 フルカラーで挿絵の入ったその本には沢山の話が収録されていて、その中の一つに、六羽の白鳥と言う話があった。悪いお后が魔法で白鳥にしてしまった六人のお兄さんのため、六年間黙ってイラクサのガウンを編み続けるお姫様のお話。つまりは魔法が解けるように願を掛けて喋らなかったんだろう――もしかしたら彼女、ミナミちゃんもそうなのかもと、思っていた。

「なんかあいつ感じ悪いぞ、滅茶苦茶に」

 むっすりしながらブランコを立ち漕ぎしている大樹くんの言葉に、皐月ちゃんも控え目な頷きを見せた。僕はどうしようか迷う、みんなで同じ事をすると悪口みたいな展開になりそうで嫌だし。ぐいぐいと足に力を込めながら高くブランコを揺らして、彼は口元をへの字にしていた。座りながら控え目に揺らす皐月ちゃんは、ちょっと困ったようにしている。怒っているのが怖いんだろう、中学年クラスにいる先生……皐月ちゃんのお母さんも、いつも怒ってるし。

「俺達なんもしてねーのにあの態度、なんかムカつく。ユーヤあいつと仲良いの?」

「ううん、僕も今日初めて会ったの、挨拶に来て。ずっと喋らなくて、さっき初めて声聞いた」

「なんだそれ。黙ってずっとここまで歩いて来たわけ?」

「僕は喋ってたんだけど、あの子はそうだったよ」

 喋るだけじゃなく手も差し出してたんだけど、と僕は払われた自分の手のひらを見る。別に汚れてはいない。保健の先生は手には一番ばい菌が付きやすいって言ってたっけ。テレビで見たことがある、潔癖症って言う病気があって、汚いものが怖いから何も触れないとか。でも、なんか彼女はそんな感じじゃない気がする。無口だし。もしかして空気も汚いのかな、排気ガスとかあるから。

 トンテンカンテン、公園の真ん中にやぐらを立てる音が僕達の周りをぐるぐるしていた。あんまり近すぎると頭の中ががんがん響く、組み立てているおじさんやお兄さん達は煩くないんだろうか。そんなことを考えながら、僕は考える。彼女、ミナミちゃんのことを考えてみる。

 別に僕としては彼女が無口でも潔癖症でもそうじゃなくても構わない。構うのは、彼女に嫌われることだ。理由もなくつんっとされるのは嫌だし悲しい、大樹くんみたいだと怒ったりもする。仲良くする方が簡単なのに……もしかしたら、緊張とかしてるのかな。僕は引っ越したことが無いから判らないけれど、知らない所ではどきどきする。おばあちゃんの家に行ったりすると、お隣さんと会うのもどきどきするし。

「あ、そうだ。僕の家行ったんだよね、何か用だったの? 今日は見張り、皐月ちゃんだったよね」

 話題を変えようと僕は二人を見る。見張りと言うのは別に何かの遊びじゃなく、本当に『見張り』をすることだ。

 僕達それぞれの家から大体同じ距離にあると言うことで、三人で遊ぶ時――二日に一度ぐらいはこの公園に来ている。その内に自然と辺りの風景を憶えていって、最初にあの車に気付いたのは皐月ちゃんだった。朝から夕方までずっと同じ場所に停めっ放しになっている黒い車で、持ち主らしい人が帰って来ることがあるにも関わらず、僕達が帰る夕方頃までずっとそのままになっている。いつ、誰が運転して行ってるのかは全然判らない。

 夏休みの注意事項が書かれたしおりには変な人に注意するよう書いていて、皐月ちゃんはそれを思い出したらしい。この辺りに親戚で足の悪いお婆ちゃんが住んでるから心配だし、公園って子供が集まる場所だから最後の一人になっちゃった子が誘拐されたりするかも、なんて。

 僕はちょっと考え過ぎだとは思うんだけれど大樹くんはそんな事になったら大変だと、交替で見張ろうなんて提案をした。三人で遊ぶときは皆で、それ以外の時は曜日を決めて誰か一人が。大樹くんのお母さんは今お腹に赤ちゃんがいて、二人が怖がらないように変な人は絶対捕まえるんだ、っと意気込んでいる。

 むすむすしながらブランコを揺らしていた大樹くんは、僕が掛けた声にその表情をパッと緩めた。揺れを止めようと速度を落としている姿に、皐月ちゃんがくすくす笑う。あのねと言いかけた彼女にダメダメと制止を掛けてから、大樹くんは僕を見下ろす。

「あのなあのな、赤ちゃんがどっちか判ったんだって!」

「え? どっちって、何が?」

「だから、赤ちゃんが男か女か! まだこんなにちっこいのに判るんだぜ、なんもついてないから女みたいだって! 妹が入ってるだよ、妹ーッ!」

「凄かったんだよ、私の家に来た時も玄関で叫んじゃって。すっごく嬉しかったんだね、大樹くんてば」

「そうなんだ、生まれてくるの楽しみだね! それで男の子だったらどうする?」

「どっちでも絶対可愛いから良い!」

 と彼はいつもより興奮して大きな声になりながらはしゃいで見せた。ブランコの上で跳ねるのは危なっかしい、でもそれだけ大樹くんには嬉しいんだろう。僕も皐月ちゃんも一人っ子だからその気持ちは判らないはずなのに、近くに居ると何だか気持ちが移ってくる感じがする。

「早く生まれないかなー、なんかもうすっげー長いッ。冬まで待ってらんねーけど、あんま早く生まれたらちっちゃくなるって言うからなー、うー早く冬になれーッ」

「それって早く夏休みが終わるってことだよ」

「それはやだ」

「我侭だね……ふふふっ」

 皐月ちゃんが声を立てて笑う、僕もつられて、笑った。


 人を嫌いになるのはとても悲しいことだし、とても疲れることだと思う。幼稚園の時にブロック遊びをしていて、自分が集めていた分を横取りされたことがあった。僕はその子と泣くぐらいの喧嘩をしたまま過ごして、だけどお昼寝の時間はそれが気になってずっと眠れなかった。仲直りをするのはちょっと怖く、でも眠れない時のぐるぐるした気持ち悪さよりはずっと良くて、だから僕は、誰かを嫌いに鳴ったり怒ったりするのはとても難しいことなんだと思ってる。

 ずっと怒ってたり、ずっと嫌ってたりするのは、すごく疲れるだろう。

 だから彼女もいっぱい喋って力を抜けば良い、そうすれば仲良くしやすいから。僕は机に向かっていた身体を伸ばす、長い曲やきちきちに音符が詰まっている曲にドレミを振るのはかなり疲れた――皐月ちゃんはすらすら読めるって言うから、僕も二年生になれば読めるのかな。早くそうなってこれから解放されたい。

 楽譜を大きな鞄に入れて、次は宿題のワークを引き寄せた。今日の分は三ページ、苦手な算数からにしようと思ったところで、僕は窓に目を向ける。夏だから網戸にしていて、その向こうに明かりが見えた。すぐ、お隣に。

「ふーん……」

 明かりが灯るまで気付かなかったけれど、お隣のどこかの窓とここは丁度同じ高さにあるみたいだ。中までよく見える、空っぽの部屋。こっちから見えるって事は向こうからも見えるんだろう、それは、ちょっと嫌だった。覗かれるのは怖い。僕は身体を机に向ける、少し屈めば見えないだろう。こうやって隠れていれば、少しは気が楽だ。

 荷解きをしているらしい音が聞こえる。お家の荷物を全部出して行くんだから、暫くは落ち着かないだろう。彼女も手伝っているのかな、と、小さく声が聞こえた。

「ッうあ」

「……?」

「ご。ごめんなさ……うわあッ!」

 がたんがたん、何かが崩れる音がする。箱を落としてしまったのかな、だとしたら危ない。女の子なんだからあんまり大きなものは持てなそうだし、お父さん手伝ってあげれば良いのに。ここからは二人とも見えない位置にいるらしく、僕は音だけに耳を澄ます。ごとん、がたん、ばたん。

 ちょっと煩いから楽譜に付いていたCDを掛ける。僕はふうっと一息吐いて、ワークに向かった。


 次の日はお昼に皐月ちゃんが迎えに来た。十二時近く、お母さんには渋い顔をされながら、公園に向かう。住宅街にも外灯から外灯までにワイヤーが渡されて、提灯がいくつもぶらさげられていた。知ってるお店の名前を探しながら目的地へ。いつものようにブランコに立っていた大樹くんは僕達を見て軽く手を上げ、すぐのその視線を逸らした。何かに怒っているという様子じゃなく、何かを見ているらしい――僕は顔の向きを追う。いつもの車が停まっていた。

「どうかしたの、まさか何かあった?」

「いや、そうじゃなくてさ。皐月とちょっと話してたんだけど、あの車に人が戻ってくる時間って決まってるみたいなんだよ」

「え?」

「昼過ぎぐらいでさ、いつもご飯食べに家に戻る頃に来るんだって。ユーヤの時も大体そんな時間だったろ?」

 お昼のチャイムが鳴ったらすぐに帰るなんて言えない。

「だったらここで見張ってられるじゃん。あいつ、いつもちょっと入ってすぐ走ってくから、追い駆けようぜ」

 確かにそれなら見張りを始める時間としては丁度良いぐらいの時間だ。でも、肝心の追い掛けることには大樹くん以外向いてないように見える。僕は走ると咳が止まらなくなるし、皐月ちゃんはスカートを履いている。

 僕はなんとなくフェンスの向こう、車に視線を向けた。手前に木陰に被ってて中がどうなっているのか、誰かが乗っているのかは判らない。とりあえず日陰なのは涼しそうだ、ブランコは日当たりの良すぎる場所にあってくらくらするから。陰になってるところにあるのは鉄棒だけで、あとは木が――

「、」

 声を出しそうになって、それを止める。

 木陰には、彼女が座り込んでいた。

 とは言ってもしゃがんだりしている訳じゃなく、足を放り出して木に背中を預けているらしかった。背中がごつごつ痛そうだけど、昨日と同じ白いカーディガンを着ているからそうでもないのだろうか。木陰に入るぐらい暑いなら脱げば良いのに。

 彼女がまるで動かない所為なのか単純に車しか見てないからなのか、二人はミナミちゃんに気付いていないようだった。あるいは、どうでも良いのかもしれない。でも僕は車より、彼女を眺めていた。もしかしたら何か動くのを待っていたのかもしれない、眠っているのかもしれない相手に。いばら姫の王子じゃあるまいし――読書感想文のために読んだのがいけなかったのかな、あの本。昨日からこんなことばっかり考えてる気がする。

 なんとなく、気になって。

 カンカンカンカン、響く、金槌の音。お祭りの、気配。

 全部が遠ざかって静かな錯覚の中で、僕は彼女を――

「来たッ」

 大樹くんの声に僕は視線を車に戻す。走ってやって来たのは、お父さんよりもちょっと年上ぐらいのおじさんだった。体格は普通で背の低い、スーツ姿の普通の人に見える。彼は慌てて車に乗り込んで、すぐにそこから出て来た。大樹くんはブランコから飛び降りて僕の腕を引っ掴み、そのまま走り出す。準備運動無く身体を動かした所為で、息が詰まった。なのに大樹くんは気付かないで、ぐいぐい僕を引っ張る。

 通りを一本抜けると、そこは小さく短い商店街だった。会社とかそういうビルもここに集まっている、おじさんはそのうちの一つのビルに走って入って行った――大樹くんも、そこに向かって走る。もう見えているんだから今更走らなくても良いだろうに、僕は思いっきり咳き込んだ。自動ドアの前で停まって、彼はちえっと小さく舌を鳴らす。真正面には小さなエレベーターホールが見えていた。

「くっそ、逃げられた」

「ッ、……逃げ、……?」

「きっと追い駆けられてるの判ったからあんな走ってたんだぜ、あーゆーおっさんだったら会社とかに逃げても見付かりにくいじゃん。子供が入ると滅茶苦茶怪しいし。だから逃げ込んだんだ、あったま来るなーッ」

 どうして単純にここが職場だと考えないんだろう。

 悪人は穴掘って地下に居るとでも思ってるのかな。

 ひゅうひゅうと喉が嫌な音を立てて、僕は小さな植え込みを囲う石に座り込んだ。背中を丸めて咳き込みながら必死で息を整える――小児喘息って結構面倒だ。一度発作が起こると止まらなくてお腹が痛くなるし、息を使う所為か胸も痛い。顔が熱くなって涙や鼻水が出て来るし、口を閉じていることが出来ないから唾液も垂れてしまう。こくんこくんと何度か喉を鳴らすと少し収まった――発作までは、行かなかったみたい。助かった。

「ちょ、平気かよユーヤ」

「ん、なんとか……」

 手で顔を拭ってから僕は視線を上げる。見上げた大樹くんの頭、その向こう側の壁に何かが見えて目を凝らすと、駐車場の位置を示すパネルがあるらしかった。ごしごしと涙を拭って立ち上がるとまだ眩暈がする、歩き出した彼に付いて、僕は足を無理矢理進めた。

 道路端の縁石を、ちょっと強く蹴り付ける。

 足が痛かった。


「とにかく尻尾を掴まえてひっ捕まえなきゃなんないんだよなッ」

 ブランコの上で胡坐を掻けるのはちょっとした才能かもしれない。大樹くんの足を見ながらそんな事を考える僕と違ってちゃんと聞いていたらしい皐月ちゃんは、軽く首を傾げていた。きちんと足を揃えているのが彼女らしい、スカートだからだろうけれど。走りたくはない、でもスカートは嫌だな。僕の思考はまたずれて行く。

 やぐらを作っていた人達が丸くなってお弁当を食べている公園で、僕達は三つのブランコを陣取っていた。

「捕まえるって言っても、どうやって? 大人のひとだよ、相手」

「大人でもなんでも一人だろ、俺達は三人じゃん。どうにかなる」

「仲間呼んだらどうするの?」

「騒げば近所の人が出て来てくれるって。問題はそこまでどう持って行くかなんだよなー、実際に誰か誘拐してるのを見付けられれば良いんだけど――ん?」

 きょと、と大樹くんが言葉を止めるのに、僕は顔を上げた。何かを見付けたらしい、僕がそっちを見ると、コンビニの袋をくるくると回しながらミナミちゃんが歩いていた。横から見ると下ろしっ放しにされたくるくるの髪が風で揺れて、とても柔らかく気持ち良さそうに見える。すたすたと早足にさっきまで休んでいた木陰に入って、また凭れ掛かった。お昼ご飯なのかな、家に帰らないんだろうか……考えて、ああ、と思う。お仕事で人が居ないのかもしれない。昨日も、お母さんは来なかったし。

 彼女がどうしたんだろう、僕は大樹くんを見る。と同時に、腕を引っ張られた。皐月ちゃんも同じようにされてて、僕達は顔を付き合わせる状態になってる。見るからに、内緒の事を話し合っています、と言う感じだ。

「な、あいつのこと囮にしようぜ」

「おとり?」

「そうそう。あいつが公園に最後まで残るようにしてさ、そしたらあいつが攫われるだろ? そこで俺達が捕まえるんだよ」

「そんな事しなくても、僕達の誰かが囮になれば良いんじゃないのかな」

 かと言って僕は、怖いからやだ。

「駄目だって、二対一だとちょっと不安だし」

「それじゃ、あの子、ミナミちゃんだっけ、お願いしに行かないと――」

「良いんだよ、秘密にしとけば」

 ふんっと大樹くんが息を吐くのに、皐月ちゃんが目を丸くする。僕も同じように目を見開いた。言わないってことは、つまり、完全に騙すってことなのか。

「助けてやればちょっとは愛想良くするだろ。だからユーヤ、お前さ、あいつと遊べよ」

「え……」

「隣なんだし、一応一緒に歩いたりしてたんだろ? 俺とか皐月が近付くより、お前が行った方が自然なんだって。でさ、他に人が居なくなったらトイレとか行って離れれば」

「誰も居ないって、それじゃ二人はどこにいるのさ」

「車の方に行って見張る。皐月の親戚、この辺にいるんだろ? 入れてもらって、そこの窓から見てればすぐに判るからさ。安心しろって」

 ぽんっと肩を叩かれても、何をどう安心したら良いのか判らない。あんなに無口な子とは普通に遊ぶことだって出来るか判らないし、囮に使ったなんてばれたら絶対に怒るだろう。ミナミちゃんではなく、僕や彼女の両親が。

 無理だと言おうとした肩を何度も叩かれて、取り敢えずはお昼ご飯のためにと解散になってしまった。もう何も言えなくされてる。走って行く二人と対照的に、僕はのろのろ歩いた――歩くのすらしんどいとか、それ以上の不安が圧し掛かって、ただ気持ち悪かった。

 ちらりと彼女のいる木陰に顔を向ける。まるで動く気配がなくて、なんだか木にくっ付いてるみたいに見えた。眠っている間に埋まってしまって動けない、包まれて出られない。眼が覚めたら簡単に歩き出すのだろう、でも、今は。

 いばら姫だ。

 影響を受けやすいのは駄目だな。僕は前を向いて、さっさと家に向かった。


 一緒に遊ぶと言っても、話し掛けて仲良くなるのは難しかった。僕は傍らにある鉄棒にぶら下がって、ただ一人で遊んでいる。冷たい金属は心地良いし、何より日陰にいられるのは役得なのかもしれなかった。でも視界の隅には確実に彼女が居て、あまり落ち着けない。早く帰ってくれれば『公園で最後の一人』なんて都合の良い状況が無理だと判って、大樹くんが何か違うことを考えてくれるかもしれないのに。それでも、今日は彼女が帰るまでこうしていなくちゃいけないというのは、変わらないか。

 視線を逸らして車を見てみると、中にはやっぱり誰もいないみたいだった。カメラが仕掛けられてるとかそういうこともなく、ただ停めてある。

 元はと言えばこの車がこんな所に停まっているからいけないんだ。本当に、どうしてこんな所で。会社が向こうで、駐車場もちゃんとあるなら、ここに停める必要はない。住宅地と商店街はちょっと距離があるから不便だし、そもそも、毎日何をするためにここに戻ってくるのかも謎だ。車に少し入ってすぐ出て行くだけ――その少しの間に、中で何かしているのか。だとしたら何を。

 誘拐犯でもなんでもなく、ただここに置いてあるだけでも、変な人だから笑えない。

 どうなってるんだか。

 くるんっと蝙蝠になって鉄棒にぶら下がると、彼女の姿が見えた。珍しく動いていて、どうやらペットボトルで水を飲んでいるらしい。真っ黒なワンピースだと暑そうだもんね、と適当に納得しながら、僕は頭に血が上る感覚を楽しんだ。

 カンカンカンカン、金槌の音が僕達の間を埋める。

 それはちょっと息苦しくて、だけど少しだけ、安心した。


 結局判ったのは、彼女の門限が僕と同じに五時らしいと言うことだけだった。確かにその時間になると大部分の子供が帰って行くんだけれど、だからこそ問題でもある。その時間近くには人が居ない、気まぐれで少し粘れることがあれば、一人になることもあるかもしれない。

 つまり、続投要請。

「鉄棒で一人遊びって、絶対詰まらないのになぁ……」

「ん、ユーヤ、どうかした?」

「ううん、なんでもない」

 今日のおやつは牛乳寒だった。お母さんが作るこれはとにかく甘くて美味しい。滅多に作ってくれないんだけど、誕生日やクリスマスにはフルーツみつまめと混ぜてくれる。今日は、買い置きしてた牛乳の賞味期限が危なかったらしい。

 お母さんは台所に向かって、お夕飯の支度をしていた。その背中を見ながら僕はダイニングテーブルに向かって、あむあむと牛乳寒をスプーンで掬う。足をぶらぶらさせながらお母さんの後姿を見ているのは、いつも楽しい。

「今日は皐月ちゃんと遊んでたの?」

「うん、あと大樹くんも」

「そっか、ちょっと声掠れてるよ……あんまりはしゃぐと発作起きちゃうから、気を付けなきゃ駄目だからね。吸入器は持ち歩けないんだよ」

 六歳の誕生日プレゼントだった家庭用吸入器は、僕の腕がいっぱいになるぐらい大きい。授業で一度発作を起こしかけて以来のお母さんの口癖だ。とんとんっと野菜を切りながら一瞬だけ振り向いて、お母さんが笑う。

「あの子とは遊んでる? お隣の」

「あー」

 なんて答えたら良いんだろう。

「うん、ちょっと遊んだよ。一人遊びの方が好きだって」

「そうなんだ。……聞いたんだけどね、あのお家、お母さん亡くなったんだって」

 僕はかじっと、スプーンに歯を立ててしまう。

「きっと寂しいと思うんだ。大樹くんのお家だってお父さんいなくて大変そうだし、ユーヤ、ちゃんと一緒に遊んであげるんだよ」

 可哀想。

 僕の手を払った彼女。

 いばら姫。

「遊ぶって言ってくれたらね」

 僕は寒天の器を持って、部屋に向かった。

 難しいことは誰だって嫌なはずなのに、結構大人は子供にそういうことを望みたがる。可哀想な子には同情しろとか、エレクトーンはちゃんと練習しろとか。でも僕はお母さんが編み物の練習をしたり、お父さんが目隠し碁の練習をするのを見たことがない。苦手は苦手、と大人は放り出してるような気がする。なのに、子供は放り出せない。

 僕だって僕を嫌うような子を可哀想と思うのは難しい。机に器を置いておやつの続き、スプーンで白い塊を掬って口に運ぶ。部屋で食べるのは禁止されてるから、ちょっとドキドキしていつもと違う味みたいだった。薄暗いから机の電気を点けようとして、隣からまた音がするのに気付く。

 窓同士の距離は離れている、でも高さが本当にぴったりだから中は覗けるし、音もよく聞こえた。向こうも明かりが点いていなくて室内の様子は判らないのに、音だけは、判る。

 女の子が何か言ってる。テレビの音じゃなく、多分、ミナミちゃんの声だ。やめてとか、怖いとか、嫌だとか――死にたくない、とか。

 そして、がたん、と大きな音。

 がんがんと何かがぶつけられる音。段々彼女の声が聞こえなくなっていく。僕は身体を机に向けて、窓から見えないようにする。齧ったスプーンから染み出す鉄の味が気持悪い。心臓がどきどきする、発作が起きる時みたいに。

 何、これ。

 何が起こってるのか、判らない。

 やがて打ち付けられるような音も止まって、シンと何も聞こえなくなる。僕は恐る恐る窓を覗く、と同時に、明かりが点けられた。くるくるの黒髪はやっぱり、彼女。もともと整えられていなかったそれが、もっと乱れているように見える。

 ふっと、その顔がこっちを向いた気がして、僕は思わず隠れる。頭を抱くようにして伏せるのは、地震にでもあった時みたいだ。髪を掴んで、ぎゅうっと引っ張る。痛みは、感じない。

「ッ…………」

 そのまま。

 僕は、震えた。


 鉄棒にぶら下がる。

 逆上がりは出来ないし、前回りをするにも僕の身長は足りなかった。公園の鉄棒が特別大きいわけじゃなく、学校の鉄棒も同じようなもの。幼稚園の鉄棒はどうだったか、思い出そうとして、それ自体が無かったことを思い出す。頭に血が上れば考えるのが上手くできるかもしれないと思ったのに、そうでもなかったみたいだ。脚を外して僕は蝙蝠を止め、地面に足を付ける。拍子にちょっとだけ、咳が漏れた。

 彼女は今日も木陰でぼんやりとしている。

 だから僕も、鉄棒で遊んでいる。

 一人遊びはやっぱり、詰まらない。

 ここからは車が障害物になって見えない皐月ちゃんの親戚さんの家で、大樹くん達は昨日言っていた通りに車を見張っているらしい。つまり向こうからも僕達は見えないんだから、別に放り出して帰っても良いだろう。なのに僕は律儀だから、ここにいる。わけじゃない。律儀なんてことは、全然無い。

 ただ、なんとなく彼女と一緒にいてあげようと思っただけで。

 相変わらず僕達の間は金槌の音で満たされているけど。

 後悔は半分ぐらいで、全部じゃない。

「あんた」

 声を掛けられて思わず、僕は手を滑らせた。まだ脚を上げる前で良かった、思いながら視線を彼女に向ける。呑んだ息が変な方向に入ったのか、小さく咳が漏れた。木陰には彼女一人、鉄棒に向かってるのは僕一人。話し掛けられる他人は、僕しか居ない。彼女は風で乱れる髪を、鬱陶しげに掻き上げた。

 顔は青白くて、目付きはちょっと悪い。眠いみたいに。眼を覚ましそうなお姫様、みたいに。

「名前、なんだったか」

「あ。えっと」

「ユーヤ、とか呼ばれてたか。あんた、昨日見てたな」

 彼女は睨むように僕を見る。

 くるくると髪に指を絡めながら、眼を細めて見下ろすように顎を突き出しながら。

 僕は思わず唾を飲む。昨日のこと、僕が見たのは、部屋の窓から見えたのは――聞こえたのは。

 彼女はずるりと、座り直す。

「ここであたしのこと、見てたろう」

「あ、――え?」

「今日もこれ見よがしにそこで。一体何してる」

 女の子らしくなくぶっきらぼうに言って、彼女は僕をじっと見詰める。その視線はやっぱり見下すようなものだったけど、僕は身体中に浮かび上がっていた冷や汗がすぐに引いて行くのを感じた。生温い風がそれを直ぐに乾かしていって、少し肌寒い感じがする。気のせいだろう、でもそれは気持ち良かった。

「あの子らと何か相談して、その後からずっとだ。人を見張るみたいにして気持悪いことこの上ない。わざとらしいな。何企んでいようが子供の考えることなんてどうでも良いが――苛々するものは、苛々する。不自然なことをするな。不愉快だ」

 ぐいっと、彼女は自分の髪を強く引っ張る。

 ずっと木陰にいるから乱れが少ないのか、昨日みたいにその髪が鬱陶しげだとは思わなかった。きちんと梳かされているらしくて頭の上では綺麗に分け目が出ているし、白い顔を縁取るようにしているクセッ毛はとても綺麗に見える。悪い目付きも、離れていればそんなに気にならない。勝気な様子、皐月ちゃんとは逆な感じの女の子だと言うだけだ。

「不自然、って?」

 僕は彼女の言葉を繰り返す。

「あたしはあんたらをかなり突き放したのに、あんたはそこにいるだろう」

 ついっと彼女は僕を指差す。

「話し掛けてくる訳でなく、ただそこでわざとらしく遊んでる。しかも好きでやってる様子じゃない、さっきから身長が足りなくて蝙蝠しか出来ないようだしな。木陰に入りたいならどこでも入ればいいのに、それでは落ち着かないんだろう。だとしたら、あたしを見ている可能性が、高い」

 腰を上げて、服を払いもせずに彼女は脚を進めてくる。

 カンカンカンカン、やぐらの音。

 煩いのかほんの少し顰められた顔は、髪で隠れる。

 表情が掴めない。無口と同じで何を考えてるのか判らない、それが、少しだけ怖かった。その少しを除いて何を考えているのかは、自分でも判らない。

 ただ、どきどきした。

 なんだか、どきどきして止まらなかった。

「好きなだけ見れば良い。ただし理由は教えろ」

「――、あ」

「判らないことがあるのは、気持ち悪くて吐き気がする。そういう不自然、あたしにとっては――死活問題だ」

 僕は。

 吐き出すように、何もかもを話した。

 黒い車のこと。一度だけ帰ってくる持ち主。追いかけたこと。大樹くんの提案。彼女を囮にしようと考えていたこと、何もかも、全部。どうせ二人からは僕達が見えないんだし、声なんて聞こえるわけが無い。そんな打算があったわけじゃなく、僕はただ何も考えずに、彼女に話していた。相槌も打たずに黙ってじっとしている様子は、やっぱり何を考えているのか判らなくて怖い。くるくるの黒髪で真っ白な顔を隠しながら、彼女はただ僕の方を向いている。

 こっちを向いているだけで、何も聞いていないのかもしれない。

 ガラスの棺の中で、泣いてる小人達も知らん振りの、お姫様みたいに。

「…………」

 僕は言葉を止めて、深呼吸をした。殆ど洗いざらい喋ったのに、やっぱり彼女は何も反応してくれない。ただ押し黙って顔を隠したまま、微動だにしなかった。居心地が悪くて胸の中にぐるぐる変な渦が出来ている、そこに小石が混じってたまにちくちくと痛い。目立った不快感じゃないのに、地味に不安で不安定だ。車に酔ってしまったみたいに、気持悪い。

「何だ」

「っえ?」

「何か待っているような顔をしている」

 髪で完全に隠れている眼は、ちゃんとこっちが見えるらしい。僕はおろおろと手を意味無く彷徨わす。何か待ってるって、確かに反応を待っているし、何て言うか――。

「なんとも……思わないの? その、囮にしようとしたとか、僕達がしてることとか」

「別に何も。あたしは不自然な状況が無くなればどうでも良い」

 言って彼女はぐったりと木に凭れ、いばら姫の続きのように眼を閉じる。手にはペットボトルを持って、指先はくるくるとキャップをなぞるように回っているようだった。まだ水が半分以上入っているそれを見下ろしながら、僕はもごもごと口の中で言葉を濁す。

「何か感想を求めてでもいるのなら答えても良いが」

「き、聞きたい、です」

「阿呆らしい」

 ばっさりと一言で、彼女は切り捨てた。

「ただ駐車しているだけの車に何を誘拐犯だの夢見がちな設定を付けてるんだか判らないし、本気でそれを信じているのなら通報なりなんなりする方が建設的だ。自分達で捕まえられると思っているのならば大間違いだな、大人の腕力は子供なんぞまるで歯が立たない。何より囮と言いながら、その実がただの仕返しとは、幼稚」

 大樹くんごめん、フォローの言葉がないよ。

「で、でも、あの車が変なのは本当だよ。僕と大樹くんとで持ち主追い掛けたら、通りの向こう側の会社の人だったみたいだし」

「会社の駐車場が埋まってる可能性」

「う」

「まあ確かに、昼時だけ戻ってきてすぐにまた居なくなると言う行動は少々不自然かもしれないな。忘れ物を毎日しているとも考え難いし、昼と言うことは昼休みの時間帯。何かをしに来ているのだとしたら、何を……ん」

 不意に彼女は立ち上がる、僕は思わず脚を半歩下げた。やっぱり服を払うこともせず、ミナミちゃんは公園の出口に向かう。少し歩いた所で僕を振り向き、声をあげた。

「早く来い、ユーヤ」

「え、え? な、何、どこに?」

「その会社に案内しろと言ってる。あたしも少し興味が湧いた」

 言って歩き出す彼女に置いていかれないよう、僕は小走りにその後姿を追い掛ける。小さく漏れた咳は、手のひらに押し込ませた。




「こっち側の通りは商店街があって、ちょっと奥に行くと会社とかがあるんだよ」

「知ってる。昨日粗方歩いた」

「一人で?」

「狭いからな」

「迷ったの?」

 黙られた。

 何も聞かないでおこう。

 昨日はこの辺りで発作を起こしかけたんだっけ。あんまり無理な運動するとそうなるって、同じクラスだから大樹くんも知ってくれてるはずなのに。ちょっとは考えて欲しかった、僕はけこっと名残の咳を漏らす。相変わらず彼女は音を立てないで歩くけれど、今日は隣にいるから付いてきているのが判った。手は伸ばさない、また払われるのも嫌だし。

 お祭りの準備で提灯がぶら下げられている道の中、脚を進めると目的の場所にはすぐに着いた。エレベーターホールのよく見える、ビルの自動ドア前。駐車場を示すパネルも同じだから間違ってはいないはずだ。入っちゃいけないって言われたことがあるわけじゃなのに、やっぱりこういう場所って入りにくい……ミナミちゃんは締めっぱなしのドアの前に立って、じぃっと中を眺めていた。

「見ても判らないよ、僕も後ろ姿しか覚えてない。それに、都合よく出て来てくれないと思う」

 エレベーターの上に掛けられている時計は十一時、あと一時間半も時間を潰すのは疲れる。だけどミナミちゃんは僕の言葉に答えず、何かをじっと見ているようだった。僕も、その視線を追う。

 エレベーターは一機だけで、近くに受付があるみたいだった。掃除をしているおじさんがちらちら僕達を見ている。他に何かあるだろうか、と、階数表示が動くのに気付く。そしてどうやらその脇に、会社の名前がいくつか並べられているらしいことにも。

「……西藤商事、柚木興信所、皆川芸術教室、えーと、小早川不動産……?」

「何階に行ったかは判るか」

「あ。ううん、ごめんなさい……」

「走ったと言っていたか。咳で咽てでもいたな」

 言って彼女はドアから離れて、駐車場案内のパネルを見上げる。建物を二つ挟んだ場所にあって、どうやら他のビルと共用らしかった。それだったら停める場所がないかもしれない、でもそれを確認しに行くより前に。

「な、なんで知ってるの。僕が喘息持ちだって」

「喘息なのか」

「え?」

「今日は声が掠れているし、喉が鳴っている。咳も多いから、風邪かと思った」

 確かに一度咽ると暫く余韻を引き摺るけれど――僕はちょっと、びっくりする。これも彼女が『昨日は掠れていなかったのに今日は掠れている僕の声』と言う不自然について考えただけの事なんだろうか。僕は驚いて、少しだけ感心する。

 くるくるとペットボトルを回しながら歩き出す彼女の後ろを、僕は慌てて付いて行く。足音を立てないままで早足になってるのが、ちょっと変わってると思った。普通に歩いているだけでないとしたら、彼女には一体どういう理由があるんだろう。隠れなきゃいけない忍者みたいな、そういう理由。

 ふっと、昨日窓から覗けた様子を思い出す。

 隠れなきゃ、逃げなきゃ、ならない理由。

 苦い唾を無理矢理飲んで、僕は跳ねる心臓を押さえた。

「ここか」

 ぽそりと声を漏らす彼女の声に、僕は顔を上げた。


 僕達の住んでいる街は、隣町やちょっと向こうの市に比べるととても小さい。どの家でも車を持っているけど、それは買出しに行ったり帰省の時に使うものだ。少なくとも僕の家ではそう。街のどこかに行くなら、車なんか使わない。

 つまり、街の中での通勤に車を使う人は少ない。第一住宅街はすぐ隣だし。

 駐車場は、がらがらに空いていた。共用の理由はそこにあるのかもしれない。

 そうなると本当にどうしてあの車があそこにいつも停められているのか判らない。他にもいくつかの駐車場を見て、そのどこも同じように空いているばかりだったのだから尚更だった。今日は平日だし、いつもあんな感じなんだろう。それでも、違う通りに駐車する。その理由は、なんなのか。

 今、ミナミちゃんはそれを探している。

 車にべったりと貼り付いて。

「み、ミナミちゃん、あのねッ」

「別に何かが設置されている気配はないな。カメラ類があるなら誘拐を疑って良いかもしれんし、テープやフィルムを変えに来てると考えれば短い時間だけ帰ってくると言うのも判るが」

「だから、その」

「何か動物が居る様子もない……熱帯動物でも飼っているなら、エサやりを考えられると思ったが。ここは日が当たるから、黒い車ならかなり暑い」

「ねぇ止めようよッ」

「何か隠してるのか、乗用車ならそうそうは退かせない――下、マンホールか」

「スカートで這い蹲るの止めてよーッ!」

「あんたさっきから煩いな」

「煩くもなるよ……」

 車が置いてある場所は通学路に面している関係で、けっして人通りは少なくない。現に僕達をちらちらと見て行く人が何人もいるし、向こう側のお家では、ガラス越しに何か大樹くんと皐月ちゃんが腕を振ってジェスチャーをしている。

 多分そこから離れろとか、近付くなとか、公園に戻れとかそう言う事を示しているんだろう。大樹くんがあんまりばたばたするものだから、皐月ちゃんがそれを宥めようとおろおろしている。僕だってできればこの車に近付きたくはない、なのにミナミちゃんはそんなのまるで気にせず、マンホールは無いなーなんて言ってる。結構マイペースらしい。

 這い蹲ってアスファルトの上を観察しているのを見ると、僕にはどうしようもないと強く思わされる。今度からはこの子といる時は帽子を被った方が良いみたいだ、目立たなくて丁度良い。身体を起こしたミナミちゃんは、車をじーっと観察している。よくある乗用車で色は黒、車高はちょっと低くて、僕の背ぐらいだった。ミナミちゃんには、顎ぐらいの高さ。彼女はその周りをぐるぐる回りながら、手でくるくるとペットボトルを回す。

 何をしているのかまるで判らないのが悲しくなって、だから僕は大樹くん達に助けを求めた。だけど一方的に手を振るばかりで僕が困っていることにはまるで気付いてくれないし、出て来てくれる気配も無い。酷いや。居た堪れなくなって視線をずらすと、バルコニーの奥にカーテンで上半分が隠れている大きな窓を見付けた。多分二人がいるのとは違う部屋だろう、中の明るさが違う。そこには椅子に座っているらしいお婆さんが見えた。親戚さんだという人だろう、相手も僕に気付いたみたいで、ぺこりと頭を下げるとひらひら手を振って来る。日向ぼっこをしているんだろう、冷房の効いている家の中なら気持ち良さそうだ。

 良いなあ、なんだかのんびりしてて。僕ものんびりしたい。

 でも僕は彼女を見張ってる、はずが、引き摺られていて。

 なんだかよく判らないのが、この状況だ。

「よく判らないな。何の変哲も無い車のようだが」

「何か変哲のある車だったらすぐにお巡りさん呼んでると思う」

「屁理屈煩い――ん」

 ふっと彼女は視線を上げる。僕も釣られて顔を上げようとして、その前に腕を掴まれた。強く引っ張られて無理矢理近くの縁石に座らされる、彼女も一緒に座り込む。どうしたのか問い掛ける前に、僕はばたばたと走ってくる足音に気が付いた。公園の時計を見ると、時間はお昼過ぎ。帰って来る時間だ。

 まさかこんな近くでやり過ごすつもりなのか、早く逃げなきゃいけないんじゃ。本当に誘拐なんかされないと思う、でも、なんだかドキドキする。きっと持ち主が近くにいるからだ。

 彼女が僕の手をぎゅうっと握ってる所為じゃない。

 ガチャッと鍵の開けられる音、ばふっとドアの開く音。ちょっと軋むのはサスペンション、ドアが、閉じられる――開けられる、閉められる、鍵を掛けてまた走り去って行く。

「……本当にあっという間なのね」

 ぽつりと彼女は呟いた。

 僕は立ち上がって、ご飯の時間だからと、逃げた。


 手が冷たかった。

 すごく冷たかった。

 夏なのに冷たかった。

 冷や汗みたいに冷たかった。

 昨日窓辺で身体を伏せながら噴き出した汗みたいに冷たかった。

 だけど、僕は、熱かった。


「駄目だろユーヤ、あんなことさせてッ!」

 午後一番、公園に行く前に僕は大樹くんに捕まって、怒られた。

「見張ってなきゃ駄目なのに、なんで車に二人で近付いてんだよ。あいつが来ても全然離れなかったし、危ないだろ!? 本当に誘拐されたらどーすんだよッ!」

「だって、ミナミちゃんが勝手に行っちゃったから、付いてないわけにもいかなくて……」

「付いてなくて良いんだよ、あいつなんか囮なんだから、お前まで近付くのが駄目だって言ってんの! ったく気をつけろよッ。今皐月一人にしてるから、俺は先に行くからなっ!」

 一方的にびしっと言い放って、彼は走って行く。僕は怒るのが嫌いで、怒られるのだって勿論好きじゃない。ちょっと悲しくなって、僕は引っ張り出してきた麦藁帽子を少し目深に被った。日陰が出来るだけじゃなく、顔を隠せるのはちょっと良いかもしれない――ぎゅうっと、掌の中に爪を立てる。苛々してまた縁石を蹴ろうとして、止める。代わりに自販機を蹴った。それからのろのろと、公園に向かう。

 途中で向こうから歩いてきた女の人が甚平姿なのに、僕はああ、と思う。お祭りも近いんだっけ、無理矢理明るい事を考えようとする。神社の服を着た人と一緒だから、お手伝いさんなのだろうか。お母さんも行くって言ってたのを聞いた気がする。髪に何本も簪を差しているのが綺麗で、僕も楽しみな気分になれた。でもその前に宿題を片付けなきゃいけない。後回しにしている工作をどうしようと考えて、また気分が沈んだ。あんまり手先は器用じゃないし……カツカツする足音、女の人の足元を見ると、ハイヒールを履いていた。なんかちぐはぐなのが、ちょっとおかしい。

 ミナミちゃんは木陰で木に凭れながら、ペットボトルを傾けていた。僕に気付くとちらりとだけ見て、すぐどうでも良さそうに視線を逸らす。水のボトルは新しいのか、まだ残りが沢山入っていた。

 僕は何となく、彼女の隣に座る。

「また見張りとやらか」

「……よく判んない」

「ちゃんと見張ってろとでも怒られたか」

 くひひっと小さく笑う様子にちょっとだけムカッとして、それから、彼女が笑って見せるのが初めてだと言う事に気付く。なんだかよく判らない所が多いだけで、普通の女の子なんだと、今更ながら判ってきた気がした。

「別にそんなんじゃないよ。でも、まだ何かするの? 危ないよ、それにちょっと怖い」

「するさ。やり残しがあるんでな」

 彼女は立ち上がった。やっぱり服は払わないから、よく見ると随分黒いワンピースが汚れてしまっている。ちょっと躊躇ってからぱたぱたそれを払うと、彼女は一瞬身体を硬くして――小さく、ありがとう、と言った。

「やり残しって何?」

「サンシェード……日除けに何か挟まってた。見ようとしたところで帰って来られたからな」

 言いながら彼女は公園を出て、また車に近付く。大樹くんの姿が見えて、皐月ちゃんと一緒にぱたぱた手を振っていた。僕はそれからそっぽを向くように違う窓を向く――また、あのお婆さんがバルコニーの奥で日向ぼっこしているのが見えた。ぺこりと頭を下げると、やっぱりおばあさんは手を振って見せてくれる。そう言えば足が悪いって皐月ちゃんが言っていたから、あそこから動けないのかもしれない。

 皐月ちゃん達の手がいよいよ勢い良く振られて、僕はどうしたのかと首を傾げた。ぺたんっと運転席の窓に手を付いていたミナミちゃんを振り向くと、ゆさゆさと車を押している。乗用車は、小さな地震みたいに揺れていた。

「…………」

 お昼時は人通りが無くて良かった。そして、麦藁帽子を被って来て良かった。

 僕がここにいるってことがばれなくて。

「ユーヤ」

「何」

「手伝え」

 突然共犯要請。

「もう少し強く揺らさないと落ちない、乗用車は平均一トンある。千キロだ。一人じゃ無理がありすぎる」

 じゃあ諦めればと言うことを、彼女の目付きは許していなかった。僕はしぶしぶ彼女のいる運転席側に回って、隣に立つ。確かに日除けに何かが挟まっていて、もう少しで落ちそうな様子だった。ゆさゆさ、彼女が押すのに合わせて、僕も押してみせる。足を踏ん張ってぐいぐいと、精一杯。

 タイヤが小さく歪んで、ぐわんぐわんとしていた。僕はもう一息と強く押す、中でぱさりと音がして、ミナミちゃんは息を吐いた。

「上手く行った」

「おめでとう」

「あんたも手伝ってくれてありがとう」

 彼女は僕を見下ろしてそう告げる。それは服を払った時と同じだった。ありがとうと言えるのは良い人だと、僕は思う。何か押し付けるばっかの大樹くんなんかよりは、よほど良い。

 ミナミちゃんは身体を屈めてシートの上に広がった封筒や紙を凝視する。眼を凝らすと余計に睨むような目付きになって、それがちょっとおかしい。

「何かな、写真。妙に古いのと、新しいのと――なんだ、書類かこれは。一体何の」

 ぼそぼそ言うミナミちゃんの隣で僕も中を覗き込む、彼女と違って屈む必要が無いのはちょっと悲しい。古い方の写真には男の子とその母親らしい女の人が並んでいて、新しい方にはおばさんが写っていた。目の下のほくろの位置が同じだから、多分古い方のお母さんと同じ人だろう。新しい方も最近のものではないみたいだけれど、と言うかそもそも、これが車が停められている原因には見えない……ミナミちゃんはじっとシートを眺めている。もう一枚の書類は、字が細かくて見えなかった。僕は顔を上げて、また辺りの見張りをする。

「……ふん」

「ミナミちゃん?」

「いや。不愉快なだけ」

 ふぅッと小さく肩を竦め、彼女は屋根に置いていたペットボトルを手にくるくると回す。中に入っているお水がぱちゃぱちゃと音を立てて――僕は目を眇める。反射って結構目に痛い、こしこし目を擦ると、彼女はその視線を僕に向けた。

「熱中症か? 日陰に居たほうが良いなら向こうに戻るぞ。他にめぼしいものもなさそうだし」

「え、あ、大丈夫。ちょっと反射で眼が」

 なんだか気を使うみたいな優しいことを言われてちょっとびっくりした。思わずどもった僕に、彼女は別段気にした素振りを見せず『そう』とだけ頷く。

「まあ夏だから日も強いしな……ん。反射。反射か……」

 言ってミナミちゃんは縁石に腰を下ろして、膝の上に肘を付く。ペットボトルはアスファルトに置いて、指先はくるくると髪をいじっていた。考え事のポーズ、何か思いついたのかもしれない。僕は隣に座って、ペットボトルをくるくると回して見た。お婆さんが顔を傾げているのに、ぱたぱたと手を振る。大丈夫です、なんて言うように。皐月ちゃんと大樹くんも、どうしたのか判らないみたいだった。

「……ふん。反射か、そういうことも、ある。これ自体じゃなくて、何か外。そういう考え方」

 彼女は立ち上がって、車のフロントガラスを覗き込んだ。だけどそれは車の中を見たかったわけじゃないらしくて、すぐにぐるんっと首が回る。くるくるの黒い髪が揺れて顔に当たるのを煩わしがってか、指を入れて掻き上げた。その視線の先にあるのは――バルコニーの奥には窓、上半分に掛かったカーテン。お婆さんの家で、彼女の部屋がある方角だ。

「アレ、か」

「ミナミちゃん?」

「あの家だな、多分そう。ここのフロントガラスに反射して光が行くとしたら、丁度あの窓。あそこに光を当てるのが目的だとしたら、なんでか。植物でも置いてあるのか――」

「ミナミちゃん、駄目だよっ」

「何だ、煩いな」

「だって――」

 僕はミナミちゃんが指差している手を下ろさせようと、その手をぐいぐい引っ張る。お婆さんを指差している形になっているから、訝っているらしくて、しきりに首を傾げてこっちを見ていた。ミナミちゃんは訝しげに窓を見て、やっぱり、訝しげ僕を見下ろす。

「なんなんだ」

「あそこにお婆さんが座ってるの、見えるでしょ? こっち見てるから指差したりしたら駄目だよ」

「え?」

 彼女はきょとんと表情を崩して、僕を見下ろした。


 門限を告げる五時のチャイムと共に僕が帰路に付こうとすると、案の定大樹くんに呼び止められた。むすっとした顔からなんとなく言われることに見当は付いて、だからこそ、このまま走って逃げたい。でもそうなるとまたもっと怒られるだけで、だから、僕は止められるままに停まった。公園のフェンス脇、夕焼けは暑い。あちこちにぶら下げられた提灯には明かりが灯され始めていたけれど、殆ど目立っていなかった。

 皐月ちゃんは少し後ろで、おろおろしながら僕と大樹くんを見比べていた。もしかしたら八つ当たりとかされちゃったのかもしれない、だったら後で謝っておかないと悪いだろう。その前に怒られなくちゃいけなくて、それはちょっと、しんどくて怖い。

「ユーヤ、お前ちゃんと話聞いてたか? 車に近付くなって言ったじゃん、本当に誘拐されたらどうしようかと思ったんだぞ。皐月と二人じゃ助けらんないかもしれないんだし。なんでちゃんと言うこと聞かないんだよ」

「と言われても……」

「あ、あの子に無理矢理引き摺られたなら、そう言ってね。ユーヤくんも頑張ったと思うし、だから、大樹君も怒らないで」

 皐月ちゃんが必死でフォローしてくれているけど、大樹くんは相当怒ってるみたいで足がぱたぱた言っていた。なんとかどうにか、誤魔化せないかな。素直に謝るのが一番良いんだろうか。でも許してくれるか判らない。ミナミちゃんも結局、ああそう言うことか、と言って納得しちゃって何も教えてくれなかったし。

「あのな、攫われたらどーなるのか判んないんだぞ。外国に売られるかもしれないし、殺されて海に沈められるかもしれないんだからな」

 ここから海までってかなり遠いよ。

「ミナミちゃんが近付くのは良いの?」

「だからそれは俺達で助ければ良いだろ、お前は駄目なんだよ」

 なんか。

 ちょっとだけ、胸の奥がぐるぐるする――

「大きなお世話だからそんなのしてくれなくて結構だわ」

 声に大樹くんが振り向くと、そこには腕を組んで立っているミナミちゃんの姿があった。青白い肌に黒い髪、白いカーディガンは夕焼けに赤く染まって、白雪姫みたいな色をしてる。くるくると髪をいじりながら溜息を吐いて、心底馬鹿にしたように顎を突き出して見せた。ミナミちゃんの方が背は高い、でもそれは単純に見下ろしているだけじゃなく、なんて言うか、見下しているイメージ。

 げ、と大樹くんが声を漏らして、僕を見る。皐月ちゃんは、おろおろとおさげを揺らして辺りをきょろきょろしていた。

「ユーヤお前言ったのか、ばらしたのか!?」

「僕はッ」

「今聞いてただけだ、すらすら自白ご苦労。ついでに――この不自然、解体してやるわ」

 僕の言葉を隠すようにして彼女は言葉を繋げる。面倒臭そうに鬱陶しそうに僕達を眺めながら髪をくるくると回して、魔法使いのようについっと、向こう側に見える車を指差した。

「毎日同じところに停まってたまに持ち主が戻ってきては何かよく判らない行動をする、だから何か調べようとするのは自然な行動だが、判らないのはどうして本人に直接聞かないのかだ。怖いと思ってるなら最初から何もしなければ良い。この臆病者が」

「ッだ、誰が臆病者だよッ!」

「まあそんなことはどうでも良い。解体を始めるぞ。まずあの車の持ち主は興信所に勤めてる、判りやすく言うと探偵みたいなの。調査員」

「へ?」

 唐突な言葉に、僕達は思わず声を上げた。

「あんた達だって後を付けたなら判るだろう。入っていったビルには興信所があった。ついでにあの車の中に、興信所の調査書や書類が入ってたから確定して良い。そいつが何をしてたかと言えば、そこらの家を覗いていた。よく言えば警備していた、だな」

「な、なんだよそれ」

「そもそもあんた達が誘拐なんて考えたのも、変質者が出ると学校で教えられたからなんだろ。向こうの家に老婆がいるが、どうも寝たきりの様子。狙われたら危ない。だがそれだけが理由なわけでもなく、その人、どうやら車の持ち主の母親らしい」

 流石に僕達は絶句する。

 どこからそんなこと判るんだ。

「入ってた書類に書いてた。離婚で分かれた母親だと。写真とホクロの位置が同じだったから本人だろうな」

 大樹くんが、離婚と言う言葉に身体を硬くする。

「わ、私、お婆ちゃんに聞いたことある……昔、最初の旦那さんが事故で死んだって。それで、旦那さんのお家に子供が取られちゃったんだって。でも、そんな」

「『そんな』訳で見張っていた。単純に混乱させるのが嫌で、黙って見守っていたのかもな。だがあそこ、バルコニーに屋根があるから立ってると見えないし、しゃがみ込むと怪しすぎる。それで使ったのがあの車――運転席に座ると眼の位置が低くなるから、中が判る。何もなく無事にいるか、それを確認する為に昼間は戻って来ていたと言うこと」

 反射から車の向きでそんな考えに着地するのがよく判らない、でも確かに、彼女の言葉には妙な説得力があった。大樹くんも何か言い掛けて口の中をごもごもと鳴らすのに、結局言葉が続けられないでいる。彼女は僕達へと脚を進めてくる、やっぱり音はしない。そして、僕の腕を掴んだ。

 やっぱり、冷たかった。

「あんた達も来い、ガキ大将とお嬢」

「な、なんだよッ」

「お嬢って……」

「五時ってのは仕事が終わる時間だ。だから、本人に聞いて確認を取ればいい。そのお嬢がいれば真偽は判るだろう。信用できないなら名刺ぐらい貰っておけば良いね」


 結論から言うと、彼女の解体は正しかった。

 ミナミちゃんが淡々と説明をするのに最初は驚いて、それからおじさんは僕達に名刺を示し、怪しい者じゃないと説明してくれた。お婆さんと親子だと言うのも本当らしい、そして、皐月ちゃんがいくつか確認したこと――お婆さんのフルネーム、結婚前の姓と結婚後の姓、年齢なんかを、すらすらと答えていた。

「そっか、でも、だったらちょっと判るかも、しれない」

「判るって皐月ちゃん、何が?」

「えっと、あそこのお部屋、バルコニーで屋根があるでしょ? だから暗くなっちゃうのに、窓辺はちゃんと日が当たってるの。不思議だったんだけど、車があっち向いてたなら、光が反射して入って来てたんだなって」

 確かにあそこは屋根があって、あまり日向ぼっこには向いていないようだった。だからあの場所から車を動かせなかったのかと、ミナミちゃんも僕達も納得する。覗くだけならどの角度でも出来るのだから、同じ場所に置く理由は、そこにこそあったのかもしれない。

 大樹くんは随分むっすりしながら判ったと言って、帰って行った。これで見張りからも解放されるのに、明日は音楽教室の日だから、全然休む間が無い。新しい曲の練習もしなきゃいけないし、宿題のワークも昨日の分と一緒にやらなくちゃ。部屋の中、机に向かおうと思ったところで、窓を叩かれる。

 黒い髪、くるくる巻き毛。ミナミちゃんの頭が、見えた。

「……何してるの」

 窓を開けて思わず聞いた僕に、彼女はほんの少しだけ笑って見せる。

「見えたから来てみた。入って良いか?」

「門限過ぎたら友達入れちゃ駄目なんだけど――」部屋のドアは閉まってる。「上がれるなら、良いよ」

「うん、お邪魔」

 窓の桟に手を掛けて、鉄棒みたいな要領でミナミちゃんは身体を持ち上げた。流石にちょっと高くて大変らしい、どうにか足を引っ掛けて、腰掛ける。靴を外に放ってから、ぺたんっとフローリングに足を付けた。

「どうしたの? 僕、何か忘れ物でもしてたっけ」

「いや、人の家に入ってみたかっただけ。……うちの家の窓と、高さが同じなんだな」

「人の家なんか見ないよ」

 僕は咄嗟にそう言う。

 彼女は、それもそうかと頷いた。

「そもそも、明かりがついててもよく見えないし。あれだけ離れててお婆さんのホクロが判ったり、車の中のちっちゃな書類の字を見れるミナミちゃんとは違うよ」

「眼は悪いの?」

「普通だよ」

「ふーん……ん。なに、これ」

 本棚を眺めていたミナミちゃんは、下段の百科事典に一冊だけ混じっていたグリム童話に指を引っ掛けた。そう言えばあれが送られてきた時に掛けてあったリボン、何かに使えるかと思って鉛筆立てに掛けてたっけ。しゃがんでぱらぱらと眺める後ろに近付いて、僕は、彼女の髪を軽く括る。カーディガンの影、白い項が――

 首に。

 真っ赤な。

 縄の、痕が。


「何やってる」

「あ。ううん、髪鬱陶しそうだから、括ったら良いかなって。でも、櫛とかが無いと駄目だね」

「ああ……そうだね、結ぶか。ところでユーヤ、これ、綺麗な本だな」

 彼女はちょっとだけ表情を緩めて、僕にグリム童話を示す。確かに最後の解説ページ以外は全部カラーで挿絵が載っているから、とても綺麗な本だ。装丁も凝った感じだし、女の子が好きそうではある。

「良かったら貸すよ。汚さないで返してくれれば良いし」

「いや、それは悪いから、見に来ることにする」

「窓から? だったら、ブロックでも持ってきて踏み台にすると良いかもね」

「良い考えだ。明日どこかから持ってくるかな」

「隣町に良いところがあるよ、資材置き場になっててね」

 ミナミちゃんは、笑う。

 僕も、笑った。


 笑うしか、なかった。

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