第2話  八月十四日 ぐるぐるの夜

「ユーヤ、行くぞ」

 ミナミちゃんが僕の部屋の窓を叩くのは日中に限ったことじゃない。朝一番に飛び込んでくることもあれば、逆に、真夜中のお誘いを受けることもザラだった。だから僕は夏休みだと言うのに夜更かしをしてテレビを見ることも出来ないのだけれど、別に迷惑だと思ったことは無い。ミナミちゃんとテレビを比べるのなら、僕にとって大事な方というのは考えるまでも無く判りきって、決まりきっていることだから――ミナミちゃんに手を伸ばされたらそれは絶対に取る。だから今日も見たかったアニメ映画をビデオに撮って貰っておいて、正解だった。

 防災用で部屋に常備している白い体育靴は便利で、こういう夜も役に立つ。足をぶらぶらと揺らしながら、僕はアスファルトを眺めた。昼間は日が当たってキラキラと小さなガラス片が見えるのに、夜はただ黒くてざらざらした影が凹凸を知らせるだけ。

「あ、蜘蛛」

「踏んじゃえ。夜の蜘蛛は縁起悪いよ」

「でもそんなの可哀想だよ」

「ならあたしが踏む」

 昼と夜で色が違うのはそれだけじゃなく、ミナミちゃんの髪もだ。チカチカする蛍光灯にやんわりと照らされた金色がくすんで灰色のようにも見えて、一晩で髪が真っ白になってしまった童話のお姫様を思い出す。ぼんやりとした考え事の裏にがらごろと響く洗濯機の音を聞きながら、僕達はコインランドリー前のベンチに座っていた。頭の後ろには大きな窓があって、そこから漏れる明かりだけが頼りになっている。都会よりは田舎に近いこの街は街灯も多くは無くて、夜はどこだって真っ黒に暗い。月末のお祭りのために下げられている提灯も、今は真っ暗でおばけみたいだ。

「君達、何してるんだい?」

 背中を屈ませて覗き込んできたのは、作業着のお兄さんだった。目の下に隈を作って眠そうに目を細め、優しそうな声を出す。夜中にこんなところで座り込んでいるのを訝ったんだろう、僕が答えるより前にミナミちゃんが顔を上げた。単純に、自分の頭を見られるのを嫌がっただけなのかもしれないけれど。

「お父さんが来るの待ってるの、お洗濯している最中だから見張っていなさいって言われて」

「ああ、そっか……お父さん、どこ行ったの?」

「あっちのコンビニで、アイス買って来てくれるって」

 彼女はついっと、道路を挟んではす向かいにあるコンビニを指差す。こっちに向いている窓が小さいからあまり明かりが見えないけれど、看板は確認できた。ああ、と彼は頷く。

「そっか。子供だけでいるのは危ないからね、ここから離れちゃ駄目だよ?」

 ふんにゃりと笑ったお兄さんはそう言って、ミナミちゃんの頭を撫でようとする――けど、避けられた。少し肩を落としてから僕にも手を伸ばす、ぽむぽむとささくれた手の感触を素直に受け取れば、のんびりした笑顔で彼もまた建物に入って行く。大きなビニール袋を持っていたから、やっぱりお洗濯の用があるんだろう。ミナミちゃんはふぅっと息を吐いて、お兄さんと同じように僕の頭を撫でた。馴染んだ小さな手の感触は気持ち良くて、それがいつもより冷たくても、落ち着く。

 じめじめと、ほんの少し気持ち悪い空気。屋内なら空調があってまだもう少し涼しいかもしれないけれど、今は多少不快でも外に居るほうがミナミちゃんには良いみたい。半そでのTシャツから覗く二の腕に付けられた大きな痣をちらりと横目にしながら、僕はぱたぱたと首元を手で仰いだ。家に居たくない、閉鎖されたくない、だから外に。だけどそれだけでは駄目で、寂しくないように怖くないように僕の手を引っ張る。


「ミナミちゃん、なんで僕を誘ったの?」

 それは僕が初めてミナミちゃんから夜の脱走に手を引かれた時の言葉だった。とは言っても誘われた直後ではなく、後で落ち着く場所に腰を下ろしてからのものだったけれど。彼女はまだ青褪めていた顔を軽く上げて、もう一度下げて、囁くように微かな声を精一杯に漏らして見せたっけ。

「……迷惑掛けて、ごめん」

「あ。迷惑じゃないんだけど、でも、夜にお外に出るのって危ないんだよ? 変な人に誘拐されちゃうとか、テレビでやってたの見たことあるもん。お母さんだって言ってたよ、大人と一緒で無いと駄目って」

「はは、そらそーだね……変質者の活動時間ってのは、夜が多いらしいよ。やっぱりあれかな、お天道様の下では憚られる性癖を持っているから、って言うのかも。犯罪の発生率って夜の方が高いんだよ、今は白昼堂々なんて珍しくなくなっちゃってるけれど、昔はね」

 言ってミナミちゃんは忙しない様子で、髪を絡めた指をくるくると回す。

「夜の所為って言うか、月の所為だって言う説もあったんだったかな。満ち欠けによって犯罪発生率が上下するとかなんとか、こっちは統計でもう否定されてるらしいんだけどね――っと、ユーヤにはちょっと難しいか。ごめんごめん」

 くひひっと漏らされた声は、いつもより少し引き攣っているような気がした。

 唐突に話の方向性を変えるのは、ミナミちゃんの癖の一つだった。自分の考えを滔々と語り出すのと似ているようで違うものと気付くのに少し時間は掛かったけれど、今なら見分けられる。自分の考えや主張をただ提示するのではなく、それまでの話題から遠ざけようとたくさんの言葉を重ねる。会話が途切れていたわけでもないのに何の関連性も無く不自然にいきなり、と言う辺りがミナミちゃんらしくない綻びを見せて――でも僕にはそれに気付かない振りをして乗る以外、彼女のためにしてあげられることが思い付けなくて。

「眠れる森の美女だっけな。あれもそう言えば、お姫様のお城は闇に閉ざされちゃうのよね」

 いつものように引かれるのは童話のお姫様、ぐいぐいと自分の髪を引っ張りながらミナミちゃんは僕を見下ろしてみせる。

「闇って言うのは言うまでも無く夜で、うん、あの場合は夜にしておく事で場を保存し、ある意味の平和にしていたってことになるのかな。夜って昼ほど時間の移り変わりの感覚が掴めなくて、だから止まっているようにも見えるし。あの話はそれでも犯罪は起こったけどね、王子の不法侵入と言う」

「でも、あれはお城が迎えてくれたんじゃなかったっけ。他の人に対しては確か、バラで攻撃してきたんだよね」

「夜に囲まれた場所は、犯罪を受け入れるってか。それはそれでなんとも暗示的なことじゃない、御伽噺の暗喩ってどこまで現代に通じるのか分からないんだけれど、ヒネクレには案外寛容なのかもしれないわね。白雪姫と同じなんだけれど、この話でもお姫様は王子様に助けられるのとはちょっと違って――王子の犯罪は、不法侵入だけじゃない。『そういうこと』を連想させるのも、夜の特徴なのかもね」

 言って彼女はまたその視線を空に戻し、くるくると指を回して髪をいじる。

 そういうこと、と言うのは、男の人が女の人に、その……と言うことなんだろう。確かに、同じ状態や光景を目にしても昼と夜とでは感じることが違う、きらきらとざらざらのアスファルトみたいに。

 夏の終わりも近付いていた夜、明々と光の灯された提灯が世界中を照らすように揺れている商店街は、少し遠い。僕達のいる場所は、少しだけど確実に、離れすぎていた。離れすぎて、別の世界みたいだった。夢の中みたいだった。二人で同じ夢を見ているみたいだった。一緒の何かに溶け出して、棘も刺さらないほど近くに――いるみたいだった。

 心地よくて、まどろむ。

「でも夜は独立した概念じゃない、トランプみたいな裏表があって、夜の裏側には昼がある。太陽を神様扱いするって言う考え方があるんだけれどね、それを引き立てるために、夜が必要なんだよ。劇的な朝のためにはオーバーな夜が必要で、素敵なハッピーエンドの前には暗い悲劇がなきゃいけない。王子様の犯罪はなんかどっちつかずで、夕焼けか朝焼けみたいなものなんだろうね」

「夕焼け?」

「そ、夕焼け」

 ミナミちゃんはちょっと笑って僕を撫でた。

「メルヘンにはそういう皮肉なところって結構多いよ、元が教訓話なわけじゃないからなのかな? イソップやアンデルセンなんかの童話とはちょっと違うんだよね……あ、メルヘンってドイツ語なんだけどね、グリム兄弟ってドイツ人だから、あたしはグリム童話だけをメルヘンと思ってるの」

 悪戯ッ気のある声を漏らして、ミナミちゃんは僕の手を握る。冷たい指先はまだ小刻みに震えていて、汗でじっとりと湿っていた。ほんの少しの不快感はあったけれど、結局僕はそれを離さずに、握られたままにしておく。その日からお祭りを二つ越した指先はまだ握られている、つまり今夜も、あの延長上にあるのだった。


 沈黙に居た堪れなくなったのか単に飽きたのか、ミナミちゃんはふいーッと顎を反らせて息を吐いた。いつものようにくるくるの金髪を指に引っ掛けて、それをぐいぐいと引っ張る。たまに抜け髪が零れるように白い手首を伝って落ちて行くのが、糸紬するお姫様を思わせた。だらしない調子で意味も無く笑ってみせる顔を見上げ、なんとなく惰性で、だけど付き合いのお愛想ではなく、僕も笑みを浮かべる。

「しっかし暑いねー。カラッとした暑さはまだ平気なんだけど、こう蒸し暑いのは好きじゃないや。苦痛になるぐらいの過ごし難さでないと夏休みなんか貰えないのかもだけど、やっぱりやだねぇ……特に夜はかなりイヤ。日中なら仕方ないって諦められるのになー」

「今日は夜から蒸し暑くなるって、天気予報で言ってたよ。湿度が上がるんだって、もしかしたら雨が降るかもしれないね」

「それはやだなー。傘も無いのに雨降られは御免だわ、じめじめ指数が百パーセントを超えて最高に気持ち悪くなっちゃうしさ。水も滴る良い女ってのは嘘だね。あめあめ、ふったら呪うぞー。大体晴天が続くのに突然土砂降りになるとかぜってー不自然だよ、気象庁説明して謝りに来いってもんだよ」

「確かにじめじめするのはやだね…僕もあんまり好きじゃないや、お天気の方が気持ち良いもん」

 話題が無いときには天気の話をする、とはワイドショーに出て来た言葉だけど、案外本当に無難で良い話題なのかもしれない。ミナミちゃんはぶらぶらとベンチの下に下ろした脚を揺らしながら笑う、僕もそれを見て笑う。笑っていられるのは良いことだと思う、何の意味も無くても。

「あたしもやーだわねー。蒸し蒸しで暑いと身体が伸びーわよ、にゃーごみたいに」

 …………。

 ん?

 予期せぬ方向から響いた声に、僕は思わず自分の隣を見上げた。ミナミちゃんが座っているのとは逆隣、少し距離を置いた場所に女の人が座っている。長い髪を後ろに流して前髪はヘアバンドで軽く上げ、歳は、ちょっと若い……新任の先生ぐらい、だろうか。紺色のパンツスーツは少しくたびれていて、一日着っぱなしのものらしいと言う事が分かる。胸のポケットに何本ものペンや小物が入っていて、出し入れの時に付いたのだろう、青やピンクのパステルカラーが白いシャツを少し汚していた。首元にはスカーフが巻かれていて、とても暑そうに見える。

 目を細めて頬杖を付き軽く溜息を吐く彼女に、僕はミナミちゃんを隠す形で身体をずらし軽く腕を広げた。女の人はそんな僕の様子に一瞬呆けて見せてから、ああ、と軽く手を叩く。わざとらしいぐらいの仕種が余計に僕の緊張感を誘うのに、彼女はいかにも軽そうな笑みを浮かべて、ひらひらと手を揺らした。

「だいじょーぶだいじょーぶ、ほら、あたしってば全然怪しくなー、極々ふッつーのお姉さんだからさ? 変質者じゃなーって、そんなにゃーごみたいに警戒しないでよー、弟君」

「し、知らない人に近付いちゃいけないもん。僕達お母さん待ってるんだよ、そこのコンビニからすぐ帰って来るんだからッ」

「だったら尚更、そんなにゃーごリアクションしなくったって良いんじゃなーのん? ま、責任感が強い男の子ってのは嫌いじゃなーけどね……警戒されるとお姉さんのガラスのハートが傷付いちゃうー」

 ところどころ間延びした声は、特別低くも高くもない。だけど言葉の使い方、と言うよりは、雰囲気とか、そこに込められている覇気の量が薄くて、変に落ち着く感じだった、何か含むような、それでも押し付けがましくはないイメージ。すんなりと受け入れてしまいそうなのを、僕はぎゅうっと奥歯を噛んで堪える。

 ふふっと自分だけ笑って、お姉さんは立ち上がった。ギシッとベンチが鳴る、雨ざらしでボロだから動くと音が出るはずなのに、どうして気付けなかったんだろう。ちゃんとしなきゃ駄目だったのに――ミナミちゃんを背中に隠して、僕はお姉さんを見上げる。苦笑と共に差し出された手が頭を撫でようとするのを、今度は避けた。夜中に子供に話しかける人はどんな人でも、怪しんでおかなきゃならない、まして、知らない間に隣に座ってる人なんて。

 身体を引くと、後ろに居たミナミちゃんがトントンと軽く僕の肩を叩いた。見れば口元には笑いさえ含んでいる。お姉さんの話し方を受け入れたのか、僕を撫でてから彼女に視線を向ける。お姉さんも、眼を僕からミナミちゃんに向け直した。

「何か御用ですか、にゃーごのおねいさん」

「にゃーごはそっちなんじゃないかと思うんだけどねー。うん、とりあえず、こんな夜中に子供二人ってのがちょーっと心配でね。職業柄、失礼ながらも声を掛けさせてもらーましたと言うところ?」

「職業柄?」

「まあただのお節介と言っても間違いじゃなーから、大した事じゃなーのよ。親が近くに居るんならそれで良いけど、気をつけなきゃ駄目だよ。弟君もお姉ちゃんも、可愛い盛りの子供なんだからね」

 姉弟と思われたのは心外だけれど、でも、彼女の言葉には別段不審な点は無かった。足元に置いていた袋を持って彼女も建物に入って行く。見ると袋に入れてある柔軟剤と洗剤のボトルが随分重そうなお得用で、それがここにいる事も含めてひどく印象と合わない。入れ違いに作業服のお兄さんが出て行く――あの人といい、なんだか今日は随分お節介が多い。いつもなら誰も僕達のことになんか気を留めないのに。それが、今のミナミちゃんには丁度良い、周りの温度なのに。

「職業、ねー。ふいんふいん、それならまあ、不自然ではないか。しかしなんだろ、警察かな? 市の方には署があったよね、外れに少年院があるから……まあそれは良いとして、ユーヤ」

「あ、あう」

「ちょっと気が立ってるよー、それこそにゃーごみたいにさ?」

 つん、とミナミちゃんが僕の額を軽くつつく。

 僕は頷いて、ミナミちゃんに謝った。


 それから何人もがコインランドリーを出入りしたけれど、僕達に声を掛ける人はいつも通りに誰一人としていなかった。お姉さんはランドリーに服を突っ込んでからすぐに近くにあるコンビニに向かう。雑誌か何かを立ち読みして時間を潰すんだろう、待っているだけなのは退屈だからそうする気持ちは分からなくも無い。僕だって病院なんかの待ち時間はそうして潰すし。目の前を通り過ぎる作業服を尻目に、そんな考えを浮かべては沈ませる。

 僕とミナミちゃんはと言うと、変わらずに取り留めの無い会話を続けていた。別に何をするでもなく、エレクトーンのレッスンはどうだとか、お祭りの提灯をぶら下げるのは早過ぎないかとか。話しているのは僕ばかりで、自然と話題もそこに停滞していた。ミナミちゃんは自分のことを話したがらないし、僕も、ミナミちゃんから聞きたいことは別段思い付かない。ミナミちゃんが生活と呼べる時間の大半を僕と過ごしているのは判っていることだった――夏休みなら、尚更に。

「あれ、ユーヤ?」

「え。あ、大樹くん」

 掛けられた声に視線を向ければ、そこにはクラスメートが歩いていた。ベビーカーを押しているけれど中に赤ちゃんの姿は無くて、洗濯物を入れた紙袋が入っている。重いから手押し車にしたんだろう、夜色のベビーカーには星の模様が散っている。現実の空とは、違って。

「何やってんだこんなとこで、親にでも――あ」

 そこで彼はミナミちゃんに気付いたのか、表情を固める。彼はあまりミナミちゃんのこと好きじゃないから仕方ないけれど、こんな所で隠せる場所もあるわけはない。

「……あんま、夜に外出るなよ。誰と一緒でも」

「大樹くんはどうしたの? お洗濯、一人で?」

「ああ、うん。ちょっと洗濯機壊れたみたいで、うち赤ん坊いるから洗濯物すげー溜まるんだよ。今桃花が寝たから出て来たとこ」

 そっか、と僕は相槌を打つ。

「今日は雨が降りそうだから早く帰れよ?」

 言って彼は僕の前を過ぎて行く。ベビーカーを置きっぱなしにしてコンビニに向かって行く後姿に、ミナミちゃんがご苦労だねーと呟いた。

 屋内の時計を見ればもう一時を回っていた。ラジオ体操で早起きをしているからいい加減に眠気が強い、でもまだもう少しミナミちゃんと一緒にいたい気持ちが大きくて、僕は欠伸を噛み殺す。まだ目が冴えているらしい彼女は僕の様子に気付かない、僕を、見ていない。その前をさっきのお兄さんが荷物を抱えながら慌て気味に走っていくと、入れ違いに、幼稚園ぐらいの男の子が父親らしい人に手を引かれて入って行った。元気なものでばたばた走り回る音と声が聞こえる、耳に付く高い声に僕が肩を竦めると、ミナミちゃんが笑う。

「ユーヤもあのぐらい元気にはしゃいでみれば良いのにさー。子供の内は精々子供らしくしておくのが花と言うものよ、騒いで暴れて何ぼのモンね」

「ミナミちゃんも子供じゃないの?」

「大人だもーん。夜中の外出には大人が必要でしょ、ユーヤの保護者だもん。あたしは大人っ」

「なんか騙されてる気がする……」

「気のせいよ」

 がらがらと、籠をひっくり返したような音が聞こえた。子供は洗濯物を振り回しながら僕達の前を通り過ぎて駆けていく、お父さんはそれを追い掛ける。小さい子供って本当に元気だ、性格の問題なのかもしれないけれど――くすくすと、ミナミちゃんはそれにまた笑いを漏らす。

 握った彼女の手の震えは消えていたけれど、まだ、冷たくて。

「こんな夜中に来なくても良いだろうにね、しかも子連れで。早く寝た方が仕事のためにも幼稚園のためにも良いんだろうに……っても、変則的な時間帯の仕事もあるか」

「んー、お家に洗濯機ってないのかなぁ?」

「あっても時間帯によっては使えないんじゃない?」

「どうして?」

「ユーヤは一軒屋だもんねー。アパートなんかだとね、近くの部屋で洗濯機回されてると夜中って結構響いちゃうのよ。そう言うの遠慮して、コインランドリー使うって人も多いんじゃないのかな。今仕事が終わったって人とかね」

 一軒屋はミナミちゃんも一緒なのに、と僕は首を傾げるけれど、ミナミちゃんはそれを説明するつもりは無いみたいだった。彼女がこの街に引っ越して来たのは二年前だから、もしかしたらそれまではアパートで暮らしていたのかもしれない。ぱたぱたと僕達の前を横切ってランドリーに入って行く緑のツナギを眺めながら軽く眼を擦る、ミナミちゃんは鼻歌なんかしながら空を見上げている。刺激の無いものだけを受け入れることで、自分を守っているのかもしれない。

 目の前を、バラの花束を抱えた女の人が通って行く。どうしてだか花瓶も一緒に持っていた。僕はそれを見て、思い出す――いばら姫。ミナミちゃんは言っていた、棘はお姫様を守るものだと。自分を守る。彼女の腕は、今、棘なのかもしれない。僕も触れたら刺されるのかな――それとも、避けてくれるのか。

 それなりに空気は綺麗だから、月はよく見える。星座は分からないけれど星も光っていた。授業で貰った早見盤を思い浮かべるけれど、どうにも重ねることは出来ない。記憶が頼りだからと言うだけでなく、僕は、ああ言うの、苦手。

 のんびりとした足取りで出て行く男の人を視界の隅に引っ掛けながら、僕はミナミちゃんと空を見上げる。酔っ払ったおじさんがゴミ箱を蹴飛ばして道路を汚すのを笑いながら、明日のラジオ体操は半分諦めていた。こうして一晩中ミナミちゃんに付き合っているのも良いかも知れない、だけど、やっぱり。皆勤賞だとスタンプセットが貰えるんだっけなあ。うとうとし掛けた首がこくりと落ちてしまいそうになった瞬間、その声は、響いた。

「ちょっとあーた、なにやってーのよ!?」

「ふあッ?」

 響いた声は存外に近い。僕が慌てて顔を上げると、そこにはさっきのお姉さんが仁王立ちになっていた。その声はさっきまでのふわふわとした一種の心地よさがまるでなくて、もしかしたら双子の別人なのかもしれないとすら思える。だけど声以外、シャツの汚れだとか格好だとかは、まるっきりさっきのお姉さんで。

 睨まれているのは僕達ではなく、僕達を飛び越した、向こう側だった。ベンチの右と左に分かれている戦局、そこにいたのは作業服のお兄さん。その手には――えっと、その、女の人の上の下着が握られている。お姉さんの声から察するに、それは彼女のものなのだろう。つまり現状、この状況。

「下着ドロなんて良い度胸してるじゃなーの、ドラム回してんだからそんな遠くに行くわけなーでしょ? 人の洗濯物、どーしよーってーのよ!」

 泥棒さん?

 眠気が吹っ飛んだ頭を上げて、僕は左右をきょろきょろと見遣る。お兄さんは泣きそうな顔になって、両手で下着を握り締めていた。よく見ると一つだけではなく、二・三枚持っているらしい。これは、文句なしに現行犯と言う奴なのだろうか。厄介ごとに巻き込まれるのは御免だ、僕達を挟んでやらないで欲しい。僕はミナミちゃんの手を引っ張って立とうとするけれど、どうしてだか動かなかった。手が重い。僕は彼女を見上げる、ミナミちゃんは――

 俯いていた。

 顎を限界まで引いて、項を晒して。

 指先が冷たく、かたかたと。

 食い縛られた口唇が、それでも、震えて。

 そうこうしている内に、お姉さんがずかずかとお兄さんの方に歩み寄る。詰め寄ったりはせずにただ間合いを縮めるのは、つまり、僕とミナミちゃんの前に移動したと言うだけのことだ。余計僕達が立ち上がり辛くなっただけ。僕は思わずぎりっと口唇を噛む、どこまでも邪魔くさい。

 お兄さんは半歩だけ身体を下げて、顔をぐしゃぐしゃに歪めていた。あの、あの、と何かを言い掛けているけれど、お姉さんの剣幕に押されて言葉が出ないらしい。それでも自業自得だ、その内に見回りのお巡りさんが自転車でやってくるだろうから、連れて行かれてお終い。早くそうなって欲しい、僕はお姉さんの足元を睨む。それから顔を上げて、お兄さんを見た。なるべく睨んでいることを悟られないように気をつけながら、その姿を観察する。

 緑色のツナギになっているその作業着は、通りの先にあるゴミ処理施設で働いている人の制服だ。隣に殆ど社員専用みたいなアパートがあるから、もしかしたらそこに住んでいる人なのかもしれない。色白で、少し無精髭があって、泣きそうな目は真っ赤で――なんだか随分弱気そうな人だ。この状況なんだから、実際弱いのだろうけれど。

「早く、そのブラ返しなさーよっ。つーかそれ全部妹のじゃない、喧嘩売られてーのかあたしは! いや違って、よそ様に触らせるようなもんじゃなーってことぐらい判ってーでしょー!」

「あ、あの、ごめんなさい、そのッ」

「いーいーかーらー! 謝るのはあとでじっくり、とにかくさっさと返しなさー!」

 お姉さんは地団駄を踏んで見せるけれど、お兄さんは余計に口ごもって下着を握り締めてしまった。逆効果に逆効果を重ねている様子はなんだか見世物みたいだったけれど、いつまでも続けられるものじゃないし、続けられても僕達には迷惑でしかない。反響する声に思わず辺りを見回すけれど、幸い人通りはなかった。今のところ。

 でもこの調子で騒がれたら野次馬さんが出て来るのだって時間の問題だろう。下手をすると僕達を知っている人が来るかもしれない。夜間外出を咎められるのは面倒だし、それに――今はミナミちゃんを、不特定多数の大人に晒したくない。まったく本当に変なところに挟まれた、せめて声を掛けようとするけれど――取り乱している大人には、子供の立場でどんな理屈を言っても無駄のような気がするし。

 何より、お姉さんに声を掛けるのが、なんとなく躊躇われる。

 この人とは、あんまり関わり合いたくないと思えて。

 それは単にこの状態が理由なのではなく、もっと嫌な、嫌な何かがあるような気がして。

 だから、僕は逃げようと、ミナミちゃんの手を強く握る。

 だけどそれはやんわりと払われて――

「ミナミ、」

 パンッと、大きく手を打ち鳴らした。


 その音にお姉さんの言葉が止まって、お兄さんの視線がこちらに向けられる。二人とも今初めて僕達を確認したとでも言いたげに、まじまじとベンチを見下ろしていた。居心地が悪い、帽子が無いのが心細い。顔を隠すための道具として、あれほど便利なものは無いと心底から思う。人に顔を覚えられるのなんか御免だ、不便でたまらない。

 腕を前に突き出して、『いただきます』のようなポーズのままで止まっていたミナミちゃんは、そのまま勢い良く首をお兄さんの方に向けた。ポニーテールの金髪と、それを留めるリボンがぐるんと振り回される。遠心力に従うように彼女の手が突き出されて、びしッとお兄さんを指差した。

「お兄さん、へたれだねッ!」

「え、あ」

「ミナミちゃんッ」

「へたれ一番だね、そんなだから誤解されるんだよ、キング・オブ・へたれ!」

 指は一本、人差し指がずずいッと立っている。名前の通り、それは誰かに指先を突き付けるポーズだ。だけど僕はお兄さんがぎゅうっと口元を結ぶ様子に、そのもう一つの意味を思い浮かべる。小さく見上げるようにお兄さんを見ているミナミちゃんは、指先も上を向かせている。差していると言うよりは立てている――お兄さんからは、きっと、こう見えるはずだ。

 『口元に、指を立てている』。

 『黙っていろ』と言うことだ。

「誤解って、どーゆーこと、お嬢ちゃんや」

 むうっとお姉さんがミナミちゃんを見下ろすと、彼女は頭頂部を見られるのを嫌ってか、ぴょんっとベンチから飛び降りた。そして短く移動し、お兄さんとお姉さんの間、丁度真ん中辺りに立ってみせる。くるくると髪の先を回して遊ぶ、何かを考える仕種。だけど、その指はすぐに外された。

「まずはだよお姉さん、お姉さんはそこのコンビニで時間潰してたよね? 立ち読みしてたのか何してたのかはしらないけど、あそこってこのランドリーに向かった窓はないんだよ。だからこっちの様子を逐一見ていたわけじゃない、間違ってないよね?」

「そ、そりゃ、……そーだけど」

「んじゃ、誤解しちゃっても仕方ないかな。このお兄さんね、下着泥棒したんじゃなくて、ただ、落し物を拾っただけなんだよ」

 へ?

 呆気に取られたのは僕だけじゃない。お姉さんは勿論、お兄さんも、あんぐりと口を開いていた。だけどその空隙に付込むようにして、ミナミちゃんは幾分早口気味に言葉を繋げる。それは、畳み掛けると言ってもいいような語調だった。妙に断定的と言うか、なんと言うか――。

「さっきお父さんと息子みたいな二人連れが来てね、子供が随分走り回って騒いでたんだよ。あちこちひっくり返したみたいな音が聞こえてね、籠とか雑誌とか、そこらにあるのを全部さ。その内によそ様の洗濯機まで開けちゃってさ、生渇きの洗濯物振り回して外まで出て」

「それがどーだって……」

「お父さんが慌ててとっ捕まえたんだけど、子供が中々服を離さなくてね。ぶんぶん振り回してたんだけど、さっきやっとアイスに釣られて引き上げてったの。その後でこのお兄さんが通り掛って来たんだ、そーだよね? 見てたでしょ、親子連れ」

「え、あ、う」

「ほらうんって言ってるし。そしたらそこに下着が落ちてたんだよ。多分、ブラのホックなんかが引っ掛かってて、振り回されて飛んじゃったんだね。暗いからお父さん気付かなかったんだよ。お兄さんはそれを拾って、見付けただけ」

「……それで、届けようとしたところで、あたしが声を掛けてしまった。混乱した彼がこの状態になってパニック全開へたれ一番――って、言いたいわけなのかな? お嬢ちゃん」

「そう言いたいわけなのですよ、おねいさん。擦れ違わなかったかな? 親子連れと」

「見たような気はするけど、何組かあったからねー……お嬢ちゃん、ちょっと確認しても良いかな。その子供が開けたのが、本当にあたしの使ってる洗濯機だったのか。その子が振り回してた洗濯物って、何だったの?」

 ミナミちゃんは首を傾げて見せて、それから指を髪に絡め、弾いた。

「スカーフだよ。マントみたいで面白かったんだろうね、お姉さん、洗ったでしょう?」

 その言葉に、お姉さんは、肩を竦めて頷いた。

 ミナミちゃんはいつもの笑みを漏らして、お兄さんに向き直る。

「ほらお兄さん、いい加減下着返さなきゃだよ。その為に、ここまで来たんだから」

 ミナミちゃんの言葉にお兄さんはハッとして、それから、お姉さんを見た。さっきまでの剣幕の影はどこにも無く、ただ呆れたようにしているその表情には、怒りらしいものはまったく残っていない。そこに安心したのか、彼は足を進めて、手に握り締めた下着を差し出した。ワイヤーが少し捩れているそれを受け取って、お姉さんは、溜息を吐く。

「悪いけど、謝らなーからね。紛らわしいし、下着握り締められたってところでこっちも色々恥ずかしかったわけだから」

「あ、は、はい、その、誤解させるようなことしてすみませんッ」

 がば、と疑われた方であるお兄さんが頭を下げているのは、なんだか妙な光景だった。僕はなんとなく冷めた視線でそれを見上げる。ミナミちゃんは、それを、口元を押さえながら見ていた。なんだか笑いをこらえるような仕種にも見えて、だから――

 僕は溜息を吐いて、空を見上げた。

 いつの間にか出て来た薄雲が、月に笠を被せていた。


 そんなわけで、お姉さんとお兄さんは仲直りした。お姉さんは残りの洗濯物、下着やスカーフを一つ一つひっくり返しながら確認して、少し足早に立ち去っていった。夜中だし、若い女の人だから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。お兄さんはなんだか随分丁寧にミナミちゃんにお礼を言っていたけれど、彼女は取り合いたくないようにけらけらと笑って流していた。子供にあんな風に謝る事が出来るのはちょっと珍しいタイプだろう、作業着の後姿を見送るミナミちゃんは、少しだけ楽しそうだった。ああいう大人は、ミナミちゃんでも好感が持てるらしい。

「道理に従うのに吝かでない性格ってのは、良いね。世間的にはへたれと呼ばれ言われるんだろうけれど、それでもッて思うよ。あたしはああ言うの嫌いじゃないねー」

 くすくすと笑いながら、ミナミちゃんは自分の髪の端っこで遊ぶ。まるでいつもの様子は、少しだけ僕を安心させた。

 時計は午前二時を指していたけれど、僕の眠気はさっき目の前で繰り広げられた騒動によって吹き飛ばされてしまっている。ただ溜息を吐いて、段々と翳っていく月を眺めた。雲が厚くなっているような、じめじめとした湿気が膜を張ってでもいるような、どっちにしろあまり気持ちの良い夜空じゃない。湿度がその大きな原因ではあるのだろうけれど。

「ミナミちゃん」

「うん?」

「なんであんな大嘘吐いたの?」

 ミナミちゃんは。

 誤魔化すでもなく、とぼけるでもなく。

 ただ、笑って見せた。

「大嘘ってほどでもないでしょ、精々小嘘ってとこだわ」

「僕も見てたけど、あの男の子が振り回してたのはスカーフじゃなくて、お布団のカバーだった。お姉さんの洗濯物には無かったよ。だから、あの時に飛んだものじゃない」

「うん、そうだね」

「だからやっぱり、下着を持っていったのは、あの人」

「うん」

「なんで庇ったの?」

 男の人が女の人の下着を持っていくのは、納得出来ないことじゃない。なんて言うか、それはミナミちゃんが病的に嫌い死活問題と呼ぶ不自然とは遠く離れた、ごく自然で当たり前のことだ。僕もいつか大人になったら判るのだろう、あんまり判りたくないけれど。とにかく、ここで重要なのは――たとえ目の前で犯罪が行われたとしても、それは、まるで不自然じゃないことだったと言う事実だ。

 どんなことでも、そこに不自然と言う不可解が付属しない限り、ミナミちゃんは完膚なきまでに物事を受け流す。判っていることなら、どうでもいい事なのだ。1×1の問題を解かないで無視するようなもの。そして興味の対象外に、ミナミちゃんは、一瞬だって見向きもしない。だからそう、現状のミナミちゃんの行動が、不自然なのだ。

 あくまで僕にとって、だから、ミナミちゃんにとっては自然なものなのだろうけど。

 でも、ミナミちゃんの行動を理解出来ないというのは、なんとなく僕がむずむずと気持ち悪い。

「あの人、何度もここを出入りしたよ。お姉さんのかは判らないけれど、女の人の生渇きな洗濯物を持ってくのだって見た。でもそれだけじゃない。僕は、お兄さんが、それを持ってここに帰ってくるのも見てたんだ」

「ふいん」

「ミナミちゃんも見てたなら判ると思うんだけれど――でもそれは、別に何にも不自然じゃないことだと思ったよ。洗濯機の中を漁って下着を盗むよりは、一旦全部持って帰ってから目当てのもの……って言うのかな、それを持っていくのが、人に見られなくて安全だろうし」

「うんうん」

「だから、ミナミちゃん、どうして?」

「んにゃ? ユーヤ、わかんない?」

「え?」

 ミナミちゃんは笑って、僕の前に立てた人差し指を突き出す。あのお兄さんに見せたのと同じ、だけど、違う。僕を黙らせようとするものではない。この指先の意味は、『一つ』だ。

「あたしが動く理由なんてのは、たった一つ」

「『不自然』を解体するため?」

「そう。んじゃ、ここにあった不自然って、なんだった?」

「そんなの、何にも――」

「あったんだよ、一つだけ、ね」

 一つだけ。

 僕が見落としている、ことがある。

 それは、一体――

 僕はお兄さんが出入りした回数を思い返す。自分のものと思しき荷物を抱えて一回、それを取って二回。もう一度来て三回、お姉さんの洗濯物を持って行って四回、返しに来て五回に帰って六回、だから、さっきので、僕達の前を横切ったのは七回目だ。短時間に随分の回数だと今更思う。見落としている点はないか、他のお客さんはどうだったか。緑色の作業着だけしか、覚えていない。もしかしてそれも同じ作業着と言うだけの違う人だったのだろうか? でも、それは考えにくい。ミナミちゃんだって、そうは言っていない。言っていないだけで本当は、とも――ああ。

 僕は頭がこんがらがるのを感じる。

 諦めて、ミナミちゃんを、見上げた。

 ぼやけた月光で髪を透けさせて、彼女はくひひッと笑って見せる。

「安全な場所に獲物を持って行った、誰にもばれずに選んだ。だとしたら、どうして、それを素手に握り締めてここに戻ってくる必要があったの?」

「――あ」

 僕は思わず、声を上げた。

 そうだ、あのお兄さんは逃げようとしたところを見付かったわけじゃない。ここに戻ってこようとしたところで、お姉さんに見付かったんだ。あんな目立つものを手に直接握り締めてここに戻ってきた、だとしたらそれは一体どうして。それはミナミちゃんを突き動かすのに十分な――不自然、だ。

 でも、でも、と思う。ミナミちゃんは考えていない、いつものようにその髪をくるくると指に絡めていない。それはつまり――考えることはもう終わっていると言うこと、なのだ。

「ね、それって、十分面白い不自然でしょ。他にも小さいポイントは色々あったんだけれど、これがやっぱり一番引っ掛かったポイントだったね」

「そ、そうだよ――どうしてそんな、そんなこと」

「色々と仮説は立ったんだけど、一応あたしはもう解体出来た気分かな? 確認したかったことはしてもらったし、だから、もう終わってるね。ユーヤも考えて見れば? 結構すぐに判るもんだと思うよ」

 言われて僕は、改めて自分が見たものを思い出す。ミナミちゃんと話していたし、眠気もあったから、殆ど注意を払っていなかった。どれもぐにゃぐにゃとした記憶ばかりで、どれが信じられるものなのかも判らない。何を見たっけ。何度か出て入ってを繰り返すお兄さん、ふにゃりとワイヤーの曲がった下着、作業着はゴミ処理施設の――だめだ、どれを思い出せば良いのか、まるで判らない。ミナミちゃんが覚えてるのに、僕が覚えてないなんて。

「ミナミちゃん……」

「あり、ギブアップ? くひひ。んー、とりあえず、前提がいくつかあるね」

 言ってミナミちゃんは、立てた指をくるくると回してみせる。

「まず、引っ掛かったポイント――どうしてお兄さんがわざわざ戻って来たのか、ここは良いよね。もう一つは、お兄さんが持って行ったもの」

「ものって……あのお姉さんの下着、でしょう?」

「それだと不十分。正確には?」

「正確にはッて」

「下着は下着でも、あれはブラだけだった。そう言う趣味ってセンもあるのかもしれないけれど、まだ正確じゃない。お姉さん言ってたよね、あれは全部、『妹の下着だ』って」

「え――」

「さて、どういう趣味だろ。それは趣味だけで片付けられるものじゃない。何か、お姉さんの下着と、その妹さんの下着に差異があるとしたら、それはなんだと思う?」

 下着の差異。僕は回想する。下着。あるものにはあって、あるものには無い――下着。握り締められた生渇きのそれ、ワイヤーがぐにゃりと曲がって――あ。

「もしかして、」

「ワイヤー、なのかなー?」

 …………。

 ん?

 予期せぬ方向から響いた声に、僕は思わず自分の隣を見上げた。ミナミちゃんが座っているのとは逆隣、聞き覚えのある声はほんの少しの間延びを帯びる。視線を向けて仰ぎ見れば、そこには、紺色のパンツスーツの女の人。足元には洗濯物の入った袋が。ただしそれはもう、洗濯済みの。ヘアバンドで留められた前髪が、はらりと落ちて。暑そうなスカーフに、少しだけ指を引っ掛けて。

 お姉さんが、僕達の隣に座っていた。

「そうだね、ワイヤー。お姉さんのブラジャーには多分、入ってないんじゃない?」

 ミナミちゃんは何一つも驚いた素振りを見せず、笑いながら指を振ってみせる。お姉さんは肩を竦めて、頷いた。肯定、だけど、それが一体どういう意味になるのか、僕には判らない。ワイヤー……金物?

「んで、それがどーなるのかなー? あたしは一体、何を誤解したのかな」

「仮説でしかないけれど、一応不自然がないものだから、まあその程度として聞いてちょうだいな? まずあのお兄さんの作業服。緑色のそれをこの辺で使ってるのは、通りの向こうにあるゴミ処理施設だけ。だから、お兄さんが働いてるのは、ゴミ処理施設である」

「うん、綺麗な三段論法」

「ありがと。つまり、もう判ったよね」

「うん、判った」

「そういうこと」

 僕を挟んで、お姉さんとミナミちゃんが頷きあう。二人は納得しているみたいだけれど、僕にはまるで話が見えない。ここで証明終了なんかされたら――ん、と、ミナミちゃんが僕を見下ろす。

「ははん、ユーヤ、まだ判ってないのかな?」

「あ、あう」

「じゃあ、もうちょっと説明しよっか。まず、お兄さんがコインランドリーを使った。使い終わって出て行った。その後に、お姉さんが入ってきた。お姉さんが使ったのは、お兄さんと同じ洗濯機だった」

 出入りの前後で言うのなら、その仮説に無理はない。お姉さんが入っていくのと、お兄さんが出てくるのは、丁度入れ違いだったし。

「そこに、お兄さんの忘れ物があったとしたら?」

「――――忘れ物?」

「それがなんなのかは判んないんだけれどね、金物だったんじゃないかってことは判るわ。で、一応大事なものだったから、それがないと困る。取りに帰って来たけれど、もう次のお客で塞がってた。洗濯物を漁ってたら、あまりにも怪しい。だから、荷物を全部持って行って、そこから目当てのものを探そうとした」

「だ、だけど、ならどうして下着を?」

「そこがミソ、だね」

 ミナミちゃんは笑って、指先をくるくると魔法使いのように回してみせる。

「とにかく早く見付けなきゃならない。自分の部屋に持って行こうとした所で、お兄さんは見付けたんだね。アパートのお隣にある、ゴミ処理施設を」

「それを――どう、やって」

「うん、ああいう施設ってね、分別のために色んな機械があるんだよ。ゴミをチップ状にする巨大ミキサーとか、おっきな焼却炉とか、あと……金物を吸い寄せるための、強力な磁石とか」

「――あ」

「四年の社会科見学で行った時に見せた貰ったんだけど、あれを扱う人って金物は一切身に付けちゃいけないんだって。忘れ物は金物だから、その磁石で見付けた。慌てて返しに行って、だけど、磁石にはブラジャーが残ってた。ワイヤーがくっついちゃったんだろうね、あれって言うのは形状記憶合金――つまりは、金物で出来ているから。それをもっと慌てて返しに行ったところで」

「あたしに見付かった。大パニックになって、そしてあとは、ここで繰り広げられた通りってことだーね……うん、確かにドラム回し初めの時に金属音みたいなのしてたね、言われて見ると。すぐに聞こえなくなったけど、あれだったのかな」

「案外家の鍵で、だから職場に行ったのかもね」

「なるほどそれは盲点……うふ、お嬢ちゃん中々面白いねー。と言うか、楽しーわ。にしても、よくスカーフと下着を一緒に洗ってるって判ったね?」

「だってお姉さん、洗剤と柔軟剤は持ってきてたのに漂白剤はなかったでしょ? 色が落ちるようなものを一緒に洗ってるんじゃないのかなって……余計なお世話かもだけど、スカーフは手洗いした方が良いと思う。高いものだったらね」

 その言葉にくすくすとお姉さんは笑って、自分の膝を軽く叩いてみせる。僕は彼女とミナミちゃんを交互に見上げて、それから、溜息を吐いた。ミナミちゃんはいつだってそうだ、解いた事はどうでも良いから、すぐに忘れてしまう。僕に残る釈然としない心地なんかには気付いてくれない。いつもはそれでも構わないと思ってる、ミナミちゃんが不自然に気持ち悪くなりさえしなければ僕は何がどうだろうとどうでも良いのだから。

 だけど、今回は、どうしても、気になって。

 どうしても気になる、不自然があったから。


「ミナミちゃん、もう一つ質問しても良い?」

「ん、なーに? ユーヤ」

「どうしてミナミちゃんは、あのお兄さんを庇ったのさ」

「あー、ユーヤが怖がってたからね。さっさと片付けたくて、結果ああなっただけ」

「ぼ、僕怖がってなんかっ」

「あたしの手ぎゅーってしてたでしょー? それにさ」

 ミナミちゃんは人差し指を、僕の額に当てて見せた。

「あのお兄さんは、あたし達のこと心配してくれたから」

 そして、お姉さんを見上げる。

「お姉さんも、ね。お節介な人は嫌いじゃないんだよ、あたし」


 その言葉に、お姉さんは吹き出した。さっきまでの小さな笑みではなく、くっくっくッと、本当におかしそうに肩を揺らせて見せる。細められた目がゆっくりと開いて、そして――

 睨むように、ミナミちゃんを見据える。

 ミナミちゃんは、表情を変えない。

「嘘吐きだね、お嬢ちゃん。君はあの場をとりあえず納めて、それから残りの洗濯物を確認したかったんだ。無くなっていたのが妹の下着だけだったのか、本当にブラはワイヤーが入ってるのと入ってないのの二種類だったのか。他の衣類は、一切金具のないものだったのか――そこが判らないと、君の仮説が不安定なものになってしまうからね。君はただ自分の好奇心を満たしたかった……違うな、逆の論理。わけの判らない部分があると言う不安要素を根こそぎに排除したかったから、あの場を片付けたんだよ」

 お兄さんと対峙していたときのように硬い声で、お姉さんはミナミちゃんを見下ろす。

「さて、それはどーだろ。あたしには何のことだか、さ」

 ミナミちゃんは笑って、空を見上げる。

 星は雲に攫われて、もう、そこにいるのは月だけだった。

 夜は僕達を覆っている。犯罪を迎合する闇が、僕達を包んでいる。僕はミナミちゃんの手を掴んで、ほんの少しだけ座りを浅くした。いつでも立ち上がれるように、いつでも駆け出せるように、いつでも逃げられるように。お姉さんは黙っている、ミナミちゃんは鼻歌を始めた。僕も知っている曲、エレクトーンの発表会で聞いた――トロイ・メライ。

 笠月を見上げながら、彼女は笑っている。

 お姉さんも――笑った。

「くっふふふ……別に良いさ、良いんだよ。あたしはそーゆーヒネクレって面白くて大好きだかーさ」

「あらあらそれはありがとうー?」

「どういたしましてだねー。ところで君達のお父さんだかお母さんは、いつになったらコンビニから出てくるのかな?」

 あ。

 しまった、そう言えば、そんな嘘を。

 思わず顔に出た僕を見て、お姉さんはけらけらとまた笑い出す。

「あのおにーさんと会わなかったら、あたしは君達に説教かましてるとこだったよー。彼には、感謝しとーてね」

 言って彼女はぺしぺしと僕の背中を叩く。もしかしたらこの人がコンビニに行ったのは暇つぶしのためじゃなくて、僕達の親を探すためだったのかもしれない。本当に今日はお節介な人が多過ぎる――溜息が、出そうだ。ミナミちゃんは僕を彼女から奪うようにぐいっと引っ張り、少し鼻白む。

「じゃあ貴方がここに戻ってきたのは、今度こそあたし達に説教するためなのかな?」

「いーや、本当のところを聞いておきたかっただけ。しっかし君達は本当に面白いね。仕事柄色んな子供と関わるけれど、そのどれとも違った捻くれ方をしてると見えるよ」

「仕事柄って、さっきも言ってたけど……おねいさん、何してるヒトなの?」

 僕の言葉に、お姉さんはスーツのポケットに手を突っ込んだ。紺色のスーツとは妙に合わない、ゲームセンターで取ったような、パステルカラーにハムスターのイラストの付いた小さな財布。その中から出て来たのは、白にちょっとだけ赤を混ぜたような色合いの名刺だった。小さく書いているのは職業だろうけれど、暗くて読めない。一番大きな字が名前なのだろうけれどそれもまた……。

「は、はちがつ…えっと」

「あ、読めないよね、ごめんごめん。ホズミ、ッて読むんだよ。八月朔日、葉桜。ちーっと珍しい苗字に名前かな。職業は見ての通りだね。ま、そんな感じで、君達の名前も一応教えてくれる?」

「僕はユーヤ……えっと、こっちはミナミちゃん」

「ん、ユーヤくんにミナミちゃんだね。んじゃ取り敢えず」

 お姉さん、ホズミさんは、一度僕達に渡した名刺の裏にひらがなで自分の名前を書いて見せてから、ぐいっと右手の親指を立てた。1と表したわけでもなければ、何か不穏な意味と言うわけでもないだろう。ましてやグッドサインでも。にっこり笑って、彼女は僕達を見下ろす。

「もう丑三つ時なんだから、家に帰れ」

 オクターブ低い声は、そう命令した。

「む、そうだね。そろそろユーヤも眠いだろうし、帰ろうか。ホズミさんも気を付けてね、変質者が一応怖いかもしれないからさ」

「それはあたしのセリフでしょーが、まったく可愛くない子だことー。ユーヤ君、ちゃんとミナミちゃんのこと守るんだよー? 雲も出て来たから、下手すると一雨くるかもしれなーしさ」

「あ、あうっ」

 べちべちと叩かれて、僕はベンチから立ち上がらされる。ホズミさんも腰を上げて、大きく伸びをしてみせた。案外女性にしては背が高いのかも、思ったところで、足元に視線を下ろす。十センチはありそうなハイヒールを履いていた。転ばないのだろうか、やっぱり色んな意味でこの人の方が心配かもしれない。コツコツと音を立てて僕達に背を向けた彼女は、五歩ほどのところで振り向き、ミナミちゃんを指差す。

「ああ、そうそう、ミナミちゃん。冷水と温水を交互に当てるとね、綺麗に消えるわよ、それ」

 ミナミちゃんは咄嗟にシャツの袖を押さえるようにして、その下にある痣を隠す。ホズミさんはその仕種を見たのか見なかったのか、判らないぐらいにすぐ僕達へと背を向けて――

「ユーヤ君、ちゃんとミナミちゃんのこと守るんだよ」

 もう一度、そう言った。

 別段速かったわけじゃない、そうだとしても、相手は歩いているんだから走れば十分に追い付けただろう。だけど僕はしなかった、追い掛けたかったけれど、追い掛けたくなかった。関わり合いたくないと思ったあの時の心地がまた込み上げてくるのは、彼女のスーツが暗い夜に溶けていたからだろうか。長い黒髪と深い青は簡単に見えなくなる、音楽の授業で習った魔王みたいに、ぼんやりとしたその輪郭が僕の背中に冷や汗を浮かばせた。彼女の前でミナミちゃんの手を離すのは嫌で、僕も離れたくなくて。ミナミちゃんを守りたいのだから、ミナミちゃんから離れたりなんかしたくないんだから、そう言い訳をしながら僕は逃げる。怖いものから逃げている、僕を飲み込んでしまいそうな怖い黒から逃げている。

 ひゅぅっと息を呑んだミナミちゃんは、大きな溜息を一つだけ吐いて、僕の手を引いた。その手は震えていなかったけれど、ひどく冷たくて、なんだか――なんだか、死の眠りに就いているお姫様のようにも思えて。だから、僕はぎゅうっとその手を握る。お姫様を守る夜のように、もしかしたら、棘のように。

 だけどきっとそれは無意味で無力だ。ミナミちゃんを動かすのはいつだって違和感で、それ以外では浮上も沈殿もさせられない。今日だって、ミナミちゃんが動いたのは、不自然の解体のためだったんだから。

 それでも、と。

 それでもと、僕は、思って。


 家の近くに来たところで、ホズミさんの言ったとおり雨が降り出した。僕達は慌てて手を振りながら、互いの家に駆け込む。窓から入った部屋の中、家は静かだから、外出はばれていないだろう。水が入ってこないように窓を半分ほど閉じてから、僕はポケットの中に手を突っ込む。そこに入っていた名刺を、デスクライトで照らして見た。インクは滲んで表面は殆ど読み取れず、裏にペンで書かれたひらがなの名前だけが、耐水性のインクだったのかはっきりしている。

 薄紅色のそれを丸めてゴミ箱に放り込み、僕はベッドに転がった。少し湿った身体には不快感が纏わりついたけれど、すぐに渇くだろうから気にしない。明日はカラッと晴れるだろうから、窓を開けていれば布団だってすぐに乾燥するだろう。

 僕は、眼を閉じる。

 夜は悪いことをさせたがる。だからミナミちゃんは部屋の窓を叩いたし、あの男の子は洗濯機を開けた。耳障りな声を上げて走り回るあの子には、でも、悪気なんてまるで無かっただろう。ただ、はしゃいだだけだった。でもそれと同じことが彼女にも言えるとしたら、ううん、彼女の傷の原因にも言えるとしたら、僕は――肩を竦めて顔を顰めるだけのことなんか出来ない。きっと僕は許せないだろう、きっと僕は、『彼』を許さないだろう。大きな痣はすぐに消える、だけど傷付けられた心は絶対に消えない。消えたりなんかしない、そんな簡単なものじゃない。

 もしも僕が『彼』を殺したりしたら、それは夜の所為に出来るのだろうか。

 夜が僕をはしゃがせたと、言えるのだろうか。

 だったら、僕にも『彼』にも、夜なんか来なければ良いのに。

 ミナミちゃんを傷付ける夜なんか、来なけりゃ良いのに。

 『ユーヤ君、ちゃんとミナミちゃんのこと守るんだよ』と言うホズミさんの言葉が頭の中にふわりと沸いた。僕は大きく息を吐いてその言葉を掻き消す、頭の中からも心の中からも追い出す。何も知らない大人の言う事なんか、気にしない。僕はいつものようにミナミちゃんの手を掴んでいればそれで良い。ミナミちゃんの手に掴まれて、一緒に歩けば、それでいいんだから。

 僕は腕を天井に向けて伸ばす、そのまま、シーツの上に落とす。

 明日は、ミナミちゃんがいつもみたいに元気になっていますように。

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