棘の童話
ぜろ
第1話 八月七日 王女の箱庭
ミナミちゃんが髪を染めたその日、皐月ちゃんの飼っている犬が逃げたらしい。学校が夏休みに入った丁度その当日、一週間前。今日になって初めてその噂を聞いたミナミちゃんは、ふいん、と一つ小さな息を吐いた後で僕を見た。ニヤリ、浮かべられていたのはいつものように意地の悪い笑み。
「わんこ脱走ねー? 一週間経っても見付からないってのは珍しいな、何処にいるのか隠れてるのか、もしかしたら飼われてるのか。音沙汰皆無で見付かってないってのは、中々に興味深い」
じりじりとアスファルトが熱気を立ち上らせる道をミナミちゃんと歩いて行く。目深に被った帽子は日射病を防いでくれるけれど、ひたすらに帽子の中が蒸れて暑い。ぱたぱたと軽く仰ぎながら、僕は彼女を軽く見上げる。十センチの身長差は、結構大きい。
「興味深いって……ミナミちゃん、皐月ちゃんと仲良かったっけ?」
「んにゃ、話したことは殆どないよ、学年も色分けも違うし。単純にわんこの行方が気になるだけ――室内犬でしょ? すぐに見付かりそうなのに見付からない、不自然なのが気に入らないだけ。赤頭巾の逆だね、お婆さんの牙や爪」
皐月ちゃんは僕より一つ上でミナミちゃんより一つ下、四年生だ。僕が知ってるのは同じ音楽教室に通っているからで、ミナミちゃんが知っているのは去年の学芸会を覚えているからだろう。彼女は赤信号を見上げる、僕は歩行者用ボタンを押す。とおりゃんせが鳴るのを待ちながら、僕は傍らの彼女を見上げた。
「誰の犬でも良いんだよ。とりあえず不自然だなーって思ったから、気になっただけ。ほら、わんこって帰巣本能があるでしょ? だからちょっと逃げてもすぐに戻ってくるのが普通だと思うんだよね」
「迷子になっちゃってるのかもしれないよ?」
「あるかもしんないけど、だって、あたしが聞くぐらいに噂が広まってるんだよ?」
つい、とミナミちゃんは自分の顔を指差した。僕はああ、と納得する――ミナミちゃんは噂話に、とことん疎い。ご近所で付き合いのある子供は僕だけだし、夏休みになるとそれに磨きが掛かって、よっぽどの事でない限りは何も耳に届かない状態になるのだった。つまり現状、犬がいなくなった件は、『よっぽどの事』なのだろう。それなりの範囲に広がっていると考えて良い。それでも見付からないとなると――。
「不自然でしょ?」
「不自然、かも」
「不自然なのよ」
強い肯定の言葉と同時に信号が変わって、彼女は僕の手を引きながら歩き出す。僕はそれにつられながら足を踏み出し、彼女の脹脛にある大きな痣を見下ろしながら帽子のつばを軽く下げた。不自然を見付けると解体したがるいつもの癖、夏はいつもよりそれが強くなる。僕は気付かれないように苦笑して、繋いだ手にほんの少し力を込めた。
「取り敢えずは一通り、この辺りを探してみるのが先決なのかな?」
いつも通りに僕達は、公園に来ていた。むしむしとした暑さを上からも下からも感じながら、地面に木の枝で書かれた地図を見下ろした。ミナミちゃんは手の甲で軽く汗を拭い、上着の襟元をぱたぱたと広げる。
「えっと、皐月の家が此処だよね。わんこってどんなの?」
「パピヨン、えっと……ちっちゃくてふわふわした、耳の大きい犬だったよ。白と茶色が混じってて、青い首輪してた」
「小さいって、具体的には?」
「んー、このぐらい、だったかな?」
僕は両手を胸の前に浮かせて形を取る。まだ子犬だから、本当に小さかったっけ。何度か散歩しているのを見たことがあって、抱かせてもらったこともあった。僕の腕にすっぽり収まるぐらいの大きさで、軽くて。
「すごく人懐っこくてね、僕も抱かせてもらったことがあるよ。ふわふわ可愛かった。抱くとじたばたするのに、降ろすと寂しがって脚に懐くの」
「子犬、ねぇ……えっと、パピヨンって小型犬だっけ。それで子犬だって言うならかなり小さいよね」
むうっと唸って、ミナミちゃんはぐるぐると地面の地図を囲んだ。皐月ちゃんの家の近くに小さな四角、道を示す線がいくつか、その先の凸型は学校。隣り合っている二つの小さな丸は少し離れている、僕達の家だろう。他にも小さな商店やちょっとした施設を示す記号が、いくつか書かれている。
「行動範囲は精々ご近所レベル、その辺に重点置いて探してみよっか。髪飾りと胸紐持って行きましょ」
「……何それ、ミナミちゃん」
「あれ、知らない? 魔女のお后が白雪姫を探す時に持ってたんだよ。髪飾りには毒を塗って、胸紐は絞め殺すためにね」
いつも通りにグリムを引いて、ミナミちゃんは笑う。白雪姫は黒髪だから、今のミナミちゃんには少しイメージが合わなかった。探し求めるお姫様自体が犬だし、仕方ないけれど――探すお姫様、どこにいるのか判らない。ラプンツェルやいばら姫の方が彼女には近いかな。そんな事を考えていたところで、ミナミちゃんがぽそりと呟く。
「もう毒林檎食べさせられた後かもしれないけど」
「……不吉なこと言わないでよ」
「でもそっちの可能性の方が高いと思うわよー。まあどうでも良いか、不自然が解消されればあたしとしては万々歳だからね」
ぴょんっとベンチから飛び降りて、ミナミちゃんは背伸びをする。言葉の中の不穏さとは裏腹に、陽光に溶ける金色の髪はとても綺麗に見えた。ひらひらする赤いリボンも、同じに。絵本に出て来るお姫様みたいな姿は、眩しすぎて目に痛い。棘のあるバラの痛さってこんな感じなのかも。
歩き出すミナミちゃんに付いて僕も立ち上がろうとする、とそこで、彼女も僕を振り向いた。くるくるの髪が揺れて顔に掛かり、すぐに肩に落ちる。僕は首を傾げる、同じように、ミナミちゃんも。
「ユーヤ、今も皐月と仲良かったっけ。家に行ったりしてるの、わんこ抱かせてもらったってさ」
「あ、ううん、最近は全然遊ばないよ。教室で席が隣になってるぐらい。皐月ちゃんのお母さんがお散歩してるの、何度か見ただけ」
「ああ、なるほどね。喘息は? あんた、動物の毛は特に駄目だったはずでしょ」
「外みたいに風通しのいい場所なら大丈夫だよ。それに、生え変わりの時期でもない限り抜け毛もそれほどないから」
「ふいん」
ミナミちゃんは納得したという様子を見せてから、なんだか微妙な顔で僕を見る。逆光を背負っている所為なのか、それが一体どういう表情なのかを観察することはできなかったけれど、なんだか口元が物言いたげに数度もごもごしたような気がした。彼女は溜息でそれを崩し、軽く肩を竦めて見せる。
「つーても、あたしはあんま良い印象無いな、あの人」
「そんな悪い人じゃないよ――先生って」
皐月ちゃんは音楽教室でエレクトーンを習っていて、お母さんはそこの先生だ。僕も生徒の一人だから、練習の度に二人とは顔を合わせている。学年は違うけれど教室は三・四年生の中学年組で同じ、一・二年クラスでも一緒だったことがあって、それ以来の付き合いだ。皐月ちゃんはいつも真面目に楽譜に向かっているし、先生は熱心に僕達を指導してくれる。ちょっと厳しいけれどちゃんと誉めてもくれるから、嫌われてはいない。嫌われてない人は、いい人だと思う。
それでもミナミちゃんが先生に対して悪いイメージがあるのは、去年の学芸会その一回にかなりのインパクトのあった、ってことなんだろう。
「とにかくわんこ探しに行こうか、ユーヤ」
ミナミちゃんが差し出した手を取って、僕は今度こそベンチから立ち上がった。
ミナミちゃんが最初に目を付けたポイントは、道端の側溝だった。犬の視点で物を見れば自ずと行きそうな場所は見えてくる、とのことだったけれど、公道を這い蹲るのはどうかと思う。大体熱くないんだろうか、立ち上る熱気には立っているだけでもくらくらするのに。ミナミちゃんのスカートが捲れないように裾を引っ張る僕は、まるで飼い主のような心地だった。ミナミちゃんは側溝に頭を突っ込む、髪が垂れないように押さえる片手が塞がっている所為か、不安定らしかった。
「み、ミナミちゃん、人が見てるよぅ」
「んーんーんー。犬ならこういうところ、入っちゃいそうだなあ。この頃は雨って降ってないよね、だったら流されることはないだろうから、深くなってる所に沈んでるかな? よし、ユーヤ、持ち上げろ」
「え、ええ!? んっ……お、重すぎるッ……」
「仕方ない、ならば潜り込め!」
「何で僕なの!?」
「あんたの方が身体小さいでしょう、ほらほら早くッ!」
「そんなの無理、僕だって入らないよッ!」
「ええぃこの軟弱者!」
またはちょっと立派な門構えのある純和風なお家の生垣。
「これも怪しいわね、ちょっと調べてみよっか……んー、案外薄いのね、こういうの。防犯意識皆無じゃない。侵入者をどう防ぐつもりなのかしら」
「ミナミちゃん、なんかぽきぽき折れてる音がする」
「良いからしっかり探しなさい――って、きゃあぁあッ!」
「ミナミちゃん!?」
「く、蜘蛛の巣あったぁああー! やだ、ここ調べない! ユーヤ、次行くわよ!」
「あ、待って髪に引っ掛かって」
「やだやだ取ってぇえッ!」
ちなみに引っ掛かってるのは、折れた生垣の枝だったり。
或いは、長毛種なのだろう、炎天下の中でも毛皮を着込んでいる巨大な犬。
「このぐらい毛が長いとさ、やっぱりこう……ちょっとぐらい隠れること、出来ないもんかなー」
「無理だと思うよ、流石に。だってほら、座ったりしたらぺちゃんっと潰れちゃうでしょう? それを考えると――」
「どれどれ、死体がひっからまってないかな」
「ダニじゃないんだから! ッ……う、けほ」
「んぁ? わ、ちょっとユーヤ、顔真っ赤! 苦手なら向こう行ってなさい、あたしが一人でするからっ!」
「ちょっと、ウチの犬に何してるの!?」
「げほ、ミナミちゃッ」
「あーもうッ逃げるぞユーヤぁ!」
「げほ、ちょっと待、げほッげ、げほげほげほッ!!」
「……んむー」
不機嫌そうな声はむずがる赤ちゃんみたいだ。思いながら僕は傍らのミナミちゃんを見上げる。結局ご近所を数周しながら、まったく手掛かりはない状態だった。生きてる姿は勿論、死んでる姿も、そんな噂すらもまるで聞かない。僕は汚れてしまった服と、少し解れた麦藁帽子を直す。日はまだ高く、だから、ミナミちゃんはまだまだご近所を回るつもりだろう。正直勘弁して欲しい、思ったところで、彼女は足を止めた。肩に鼻をぶつけそうになって、僕も慌てて止まる。
見上げれば、ミナミちゃんの顔は不機嫌と言うよりも――面倒臭そうに口唇を尖らせながら、眼を細めていて。
「不自然、なんだよね」
「ミナミちゃん……?」
「子犬かつ室内犬、それなら体力の問題もあるしそんなに遠くには行けないはず。注意深く探せば何かちょっとぐらいは――死体だとかエサを漁った後だとか、見付かるはずなんだよ。でもまるで気配が無い」
ミナミちゃんは、深く溜息を吐いて、髪に指を絡ませる。
「本当に白雪姫だね、小人の家に逃げ込まれてるみたいでさ。ふん。そうかも」
「そうかも、って、何が? ミナミちゃん」
金色がくるくると回るのを、僕は見上げる。公園まで歩いて、月末にあるお祭り用の資材が積み上げられている公衆トイレの影へ。日向のベンチも埋まっているから、仕方なく。
童話に当てはめて考えるのはミナミちゃんの癖、二年前から慣れているはずなのに、意味を汲み取れなくて首を傾げることも少なくない。僕は木材に背を凭せ掛けながら、上に座って空を見上げているミナミちゃんを見る。スカートの中が見えるから、足を開いて座るのは止めて欲しい。
「自主的に逃げた。だけど、家を出たらそれ以降の目撃情報がまるで無い。家から出ると同時に、外部の目に触れなくなっている。魔法使いに連れ去られたみたいに……はは、ラプンツェルだね。メルヘンって根本的なキャラクターは少ないから、そういうものか」
自分で言って詰まらなかったのか、ふんっと鼻で笑う。
「両親がラプンツェルを取り戻せなかったのは、魔女が付いていた所為だね。成長したら今度は高い塔に閉じ込められて手が出せなくなる。誰からも見付からなくなって、届かなくなって、そういうこと。白雪姫が小人に匿われるのと同じ」
「……よくわかんない」
ミナミちゃんが引く童話は、グリムに限っているのが特徴だった。白雪姫はもちろんラプンツェルも知っている、魔女に育てられて高い塔の上に閉じ込められた女の子が、王子様に出会う話だ。手の届かない場所にいる女の子――見付けられない、届かない犬。でもこの辺りにはそんな建物は無いし、昇れたとしても独力では無理だろう。
ミナミちゃんは苦笑して僕の頭をぽんぽんっと叩く。もうちょっと考えて、言われているようで、ううんっと唸ってしまった。見付けられない女の子、見付けられない犬。見付けられないのは、魔女が攫ってしまったから。手が届かないように隠されているから、つまり……?
「ラプンツェルには魔女がいるんだから、わんこにも魔女がいるってことだね。小人じゃなくて魔女なんだよ。判るでしょ?」
「魔女って――あ、そっか。誰かが隠したから、見付けられない。でもそれって」
魔女が、隠す。ラプンツェルは魔女に連れて行かれたけれど、皐月ちゃんの犬は自分で逃げ出した。それを見付けた誰かは、首輪もしているんだから飼い犬だと判ったはずなのに、隠してしまった。だから見付からない。それはつまり、持って行かれたと言うことだ。持って行かれた、泥棒――違う、生き物だから、この場合は――
ミナミちゃんは指を弾いて、髪を軽く飛ばす。
「つまりは、誘拐ってこと」
家に向かう道を途中で止まり、僕は手を引かれるままミナミちゃんの家に向かう。僕の家は目の前、と言うか、お隣だ。見慣れた細い木はまだ若い柘榴、その横を通り過ぎて、ミナミちゃんは玄関に向かう。駐車場を覗いて『彼』が帰っていないことを確認してからゆっくりと鍵を開け、僕を中に招いた。二階建ての小さなお家だけれど、使っているのは一階だけで二階は物置状態らしい。だからミナミちゃんの部屋も、階段の前を通り過ぎた先にある。
パイプベッドと学習机、小さな箪笥しかない部屋。埃っぽい空気に小さく咳き込む僕の頭を撫でて、ミナミちゃんは壁際のパソコンに向かった。やたらに大きくて古い、どこかからのお下がりらしいと聞いたっけ。床に直接置かれているそれを起動してインターネットの検索サイトを開き、ミナミちゃんは膝に乗せた大きなキーボードに細い指を走らせる。
「えっと、なんだっけ。チワワ?」
「パピヨンだよ。えっと、確か生後間もない頃に引き取って、今は二ヶ月目だって」
「血統書の有無とか、判る?」
「そこまでは……」
「んじゃ、一応両方で検索してみよっか」
言ってミナミちゃんはマウスを動かす。ずらりと並んだ検索結果から探す目的の情報は、ずばり値段だった。並ぶ小型犬の子犬、愛くるしい写真には目もくれず、ミナミちゃんは数字だけを眺めていく。ペットショップのサイトをいくつか開いて、その中から平均を出しているらしい。僕は算数が苦手だから、暗算なんてとても出来ない。
手持ち無沙汰の間に、僕は窓を見た。カーテンはピンクに赤のチェックで下にはレースが付いている。向こう側には僕の部屋の窓が見えた。そういえば一階同士だから、同じ高さだっけ、離れているから中は見えないし、見ないけれど。
「血統書付きなら、軽く二十万……普通でも十万ぐらいにはなるみたい。金のガチョウだね。誘拐なら、もうちょっと色が付くかも」
呟くミナミちゃんに、僕は視線をディスプレイに戻す。
「それって、すごいの?」
「まあそこそこすごい、大人のお給料一か月分ぐらいだし。ユーヤ、今日はレッスンないんだよね? 皐月も家にいるかな」
「あ。ううん、皐月ちゃん生き物係だから、多分学校で花壇の世話してると思う」
「んじゃ、学校行こう」
手早くパソコンの電源を落として、ミナミちゃんは小走りに玄関に向かう。別に急いでいるわけじゃなく、とにかく早く家から出るために。僕もその後を追う、いつもならきちんと履く靴も、今だけは踵を潰した。玄関を潜って、ミナミちゃんが鍵を掛けている間に靴を直す。イバラに追い出されるみたいだ、なんて、少しだけ思う――お姫様が追い出されるなんて、変な感じ。
そして、手を引かれるままに、学校に向かって走った。
「……、……でも、ミナミちゃん」
「何?」
「どうして、皐月ちゃんにお母さんに言わないの? 大人の人に言った方が、良いと思う……んだ、けどっ」
「言ったでしょ、……あんま、良い印象ないんだってば」
ミナミちゃんは言って、前を向く。冷たい手に片手を引かれ、もう片手で帽子を押さえ、僕は引っ張られるままに彼女の後ろを走った。
去年の学芸会。
去年と言う事は一年前で、だから僕とミナミちゃんは今より学年が一つ下だった。二年生と四年生、そして、皐月ちゃんも勿論今より一つ下の三年生。僕達の小学校は学芸会で奇数学年が合唱を、偶数学年が演劇をするのが慣習だった。合唱は指揮も演奏も全部生徒がするもので、メインメロディはやっぱりピアノ。なんだけど、舞台への持ち運びの関係でエレクトーン。
去年の三年生で、そのエレクトーンをするのは朽木さんと言う女の子だった。隣町の音楽教室に通っている人で、発表会でも見たことのある上手な子。立候補だったからすんなり決まってクラスは練習に入っていたのだけれど――暫く後の放課後、皐月ちゃんのお母さんが学校に乗り込んできた。
学芸会の練習は居残りすることが多いし、僕がいた二年生の教室は丁度低学年用玄関の隣だったから、その騒ぎはよく覚えてる。先生達に詰め寄るように声を上げている皐月ちゃんのお母さん。いつもより何倍も怖い顔で、魔女みたいにしながら、怒鳴り散らす。
どうして皐月が伴奏者じゃないの。
あの子は毎日八時間もレッスンしてるのに。
本当はやりたがってるんだから。
大体そんな事を言っていたような気がするけれど、あんまり大きな怒鳴り声だったから殆ど覚えていない。かなり大きな騒ぎになって、近くの教室にいた低学年の子達はみんな怯えていた。僕は大樹くんというクラスメートに連れて行かれてこっそり見に行ったけれど、校長室から暫く怒鳴り声が聞こえていたっけ。ミナミちゃんの話だと、二階にある高学年の教室にも響いていたらしい。結局騒ぎを聞いた朽木さんが泣き出して伴奏者を降り、皐月ちゃんがその代わりになって、学芸会は進行された。
皐月ちゃんは元々大人しく静かな性格でいじめられたりはしていなかったのに、それ以来、クラスからは浮き気味になってしまった。陰口めいた悪口を聞き始めたのも、それからだ。皐月ちゃんは悪くない、皐月ちゃんは立候補もしなかったし、ちゃんと歌の練習を頑張っていた。その居残りの所為で、レッスンの時間が減ってる、って……先生は、怒っていたみたいだけれど。
短い坂道を上った先には、白い校舎が見える。時計台は午後二時を指差していた。夏休みだからひと気が殆どない学校は、なんだかいつもの騒がしい様子を覚えているとちょっと不自然な感じに見える。流石に息を切らした僕達は少しペースを落として、校舎の裏にある学年の花壇へと向かっていた。喉が渇いてひりひりする、後で水飲み場にでも寄りたい。思いながら、僕はミナミちゃんを見上げる。
呼吸は上がっているのに、その顔はまだ蒼褪めているように見える。僕は繋がれて汗ばんだ手を少し引っ張って、歩くペースをもっと落とすように促した。だけど、ミナミちゃんは逆に、僕の腕を引く。強がるのは良いけれどこっちの心配も判って欲しい。
「へーき、もう、おちつく」
言ってミナミちゃんは手の甲で汗を拭う。
ぐるりと校舎を回ったところでその足が止まった。
出会い頭、直面していたのは、女の子。
皐月ちゃん、だった。
太い三つ編みを後ろに流して、額は綺麗に開いている。太目の眉、白くてシンプルなブラウスにチェックの赤いキュロット。肩から掛けられたバッグは四分音符がプリントされている見慣れたもの、音楽教室で渡される鞄。土だらけの軍手を持って、少し驚いた顔で、彼女は立っていた。出会い頭に顔をつき合わせた形のままに、ミナミちゃんと――皐月ちゃんは、向き合って止まっていた。
僕は帽子を、少し目深に被りなおす。
「……びっくりしたー。皐月、今帰るとこ? 出会い頭の正面衝突しちゃったもんだから、思わずタイミング逃しちゃったわ」
「え。あ、う……うん」
唐突に口火を切ってひゃーっと声を漏らしてみせるミナミちゃんに引き摺られる形で、皐月ちゃんはこくりと頷く。性格同様に声も大人しい。
白いブラウスが汚れるかもしれないのに、皐月ちゃんは構わないで土だらけの軍手をぎゅっと胸の前で握り、ミナミちゃんを見上げていた。僕よりは背が高いのだけれどミナミちゃんよりは低い、丁度中間になっている。それにしても、手が力の入りすぎで震えてるのは……怖がられてる、のかな。僕はミナミちゃんを見上げる。そりゃそうか、金髪だもんね。元々の問題もあるし。
「でも丁度良かったや。ちょっと付き合って欲しいんだよね、聞いて欲しいことと聞きたいことがあるんだ」
「き、聞きたいこと……?」
「ほら、わんこが逃げたでしょ、皐月んち。そのことなんだけど、」
「しッ知らないよッ!!」
皐月ちゃんは。
叫ぶように、怒鳴った。
ミナミちゃんが肩を震わす。
あ、と、気付いたように皐月ちゃんが肩を下ろす。
「ご、ごめ、なさ……で、でも、ほんと、私知らないの。私二階に居たから、何にも見てないし」
「二階?」
唐突な言葉にミナミちゃんが訝って眉を寄せる。
「意味がちょっと判んないよ、それってわんこが居なくなった時のこと?」
「あ、えっと、メル、犬が上がってきたら危ないから、階段は柵で閉じてるの。私の部屋は二階だから、あの時もそこに居て、全然判らなかったし。それに、日中はずっとリビングだから……」
「リビング? 犬のことかな、放しっぱなし?」
「ううん、柵で囲って、お母さんが見てる」
「へえ……室内犬って言うんだっけ? そうやって飼うもんなの?」
「その、夏は窓が開いてるから、お昼の間はそうしてるの。お母さんが目を離した隙だったって言ってて。き、きっとちっちゃいから、抜けちゃったんだよね。お母さんも忙しいから、判らなかったんだと思うよ。飛び越えたのかも、だし――でもどこかにいるよ、きっと……」
訴えるように呟く皐月ちゃんの肩は、ふるふる震えていた。僕は黙ってそれを見上げる。ちらちら落ち着かない視線で俯き、脚も少し震えていた。なんだか酷く怯えて、緊張している。何かを問われることに警戒しているようだった。誰かを怖がってる、ミナミちゃんにじゃなく――何に、誰に?
「そのどこかについて、ちょっと話があるんだけど」
ミナミちゃんの言葉に。
皐月ちゃんの震えは、一層強まった。
「えーっと、その前に一つ確認して置きたいんだわ。わんこって血統書とかそういうもの付いてるの? こう、買った時に結構高かったとかそういう話を聞いてないかなって」
「え。あ、えっと……確か、そういうのあるって、聞いたけど」
「なる。ならちょっと確率高くなるかな、それならね、……誘拐の可能性、ちょっと考えられるよ」
「え?」
皐月ちゃんは心底驚いた様子で、俯かせていた顔を上げる。目はぱっちりと見開かれて、ミナミちゃんの顔を真っ直ぐに見上げていた。白い顔は日に当たってもっと白く見える、だけど、さっきまでのような青白さはない。足の震えも、軍手を握り締めていた手の力も。ただ単純に――驚いて。
「ペットの密売買ってのの可能性? 血統書付きならかなり高く売れるんだ、だから、誘拐もあると思うわけ。ただ単純に犬が逃げたってだけの話でなく、警察なんかにも一応届けを出した方が良いのかも」
「そ、そんなの、あるわけないよ」
皐月ちゃんはなんだか気が抜けたように、小さく肩を竦めて見せる。ミナミちゃんはその様子に小さく、判らない程度に、眉を寄せた。皐月ちゃんはそに気付くことなく、軍手をにぎにぎしながら言葉を繋げる。
「メルは自分で逃げたんだもん、近くにそんな都合よく悪い人がいるわけないし……まだ見付かってないだけで、きっとどこかにいるよ。もしかしたら誰かが拾ってくれてるのかも、しれない。お母さんも」
ふっと、彼女は言葉を途切れさせる。息が詰まるように一瞬、力の抜けていた手がぎゅうっと握られた。
「お母さんも……今はびっくりしてるけど、きっとすぐ落ち着く、から」
「……皐月?」
ミナミちゃんが訝しげに表情を曇らせるのに、皐月ちゃんは顔を上げた。
「それに血統書がなきゃメルはただの子犬だよ、見ただけじゃわかんないし」
「確認したの? 偽物でないかの鑑定もちゃんと?」
「知らないけど……でもうちに泥棒なんか来てないよ、お母さんだって何も言ってなかったもん。私もう行くね、レッスンの時間だから」
「あ、ちょっと」
ぱた、と駆け出して、皐月ちゃんは僕達の横を擦り抜けて行った。んにゃー、聞こえないようにミナミちゃんは小さく息を吐く。僕はそれを見上げようとするけれど、ミナミちゃんは、そのまま足を踏み出した。角を曲がるとすぐに学年別の花壇が見える。僕も引き摺られるようにその後を追いながら、けほッと込み上げて来る咳を逃がす。
校舎裏と言う場所の悪さの所為かそこは殆ど日が入らないらしく、なんだか妙に寂れた様子があった。抜かれた雑草の干乾びたものが、埃と絡まってころころ流れて行く。空気が篭っているのか妙に喉がイガイガして、僕は小さく咽てしまった。こういう場所は、苦手。昔ほど発作は起こさなくなったけど。
四年生の花壇、皐月ちゃんが世話をしているんだろうそこには、太い茎の植物が生えていた。それがなんなのかは花が咲いていないから判らない、蕾も無い状態じゃ判別出来ない。ミナミちゃんは僕の手を離して一人しゃがみ込む、花壇に向かって。
「……なーんかなー」
「ミナミちゃん?」
「不自然」
ぽつりと呟いたミナミちゃんは、俯くように視線を花壇に向けていた。見下ろすのは慣れていなくてやっぱり違和感、僕はなんとなく花壇に目を向ける。なんだか判らない植物は天に向かって伸びているのではなく、地面に向かって垂れていた。俯き加減な皐月ちゃんに、少し似ているような気がする。土にはスコップが刺さって、ぽつぽつと草を引き抜いたらしい小さな穴があった。花壇の脇には、まだ乾いていない雑草が積まれている。
風が吹いて、ミナミちゃんの金髪がふわふわと揺れる。
僕はまた、咳き込んだ。
「不自然、不自然、ふーしーぜーんー。なんか釈然としないなぁ」
「けほッ、……何が?」
「血統書付きだよ? お高いわんこだよ? 充分誘拐って考えられると思うんだよね、犬好きって言うかマニアって言うか、そういうのっているだろうから。なのに皐月、随分あっさり却下しちゃったでしょ? それに、なんて言うか、……探そうって気が無い、みたい」
言いながらミナミちゃんは、ぶちぶちと花壇の外にある雑草を毟る。僕はついさっきまでの遣り取りを思い出してみる、皐月ちゃんの言葉――『きっとどこかで』『誰かが可愛がってる』『お母さんも落ち着く』。確かにそれは積極的に行方を捜そうとしている風ではない、皐月ちゃんの気持ちにお母さんは関係ないはずだし。可愛がっていなかったわけじゃないのが言葉の端々に見える、なのにそれと噛み合わない感じだった。お母さん、先生。どうして、先生なのか。
「なんだっけ。六羽の白鳥だったかな。子供を盗まれたお后様が疑われて、でも喋れない理由があるから、弁解ができず火あぶりにされかかる……そんな感じ」
トゲトゲの草でガウンを編むお姫様の話だろう。何かを知っていても黙っている、彼女。自分の犬がいなくなったのに黙り続ける、その理由。
気付かずに見過ごしていれば自然だったけれど、気付いてしまった瞬間にそれは不自然として胸の中をぐるぐるさせる。皮膚の中に食い込んで手の届かない棘のような不快感に、僕はシャツを握り締めた。汗ばんだ手を拭きながら、帽子を目深に。ミナミちゃんは花壇の外に生えている雑草を引き抜きながら、言葉と共に思考を続ける。僕はまた、咳を逃がす。口元を押さえてみるのだけれど、空気の本質がそれで変わるわけでもない。妙に喉に引っかかる感覚は消えなかった。
「可愛がってなかったとか、そういう風じゃない。でも探したくない。なんでだろ、わかんないな、この不自然な感じ。ぐるぐる気持ち悪くて変な気分」
「誘拐の可能性をあっさり却下したのも、気になるところ?」
「そうだね、そこもネック。なんなのかな……わんこに帰ってきて欲しくない事情でもあるのかな。何かの理由、わんこの理由――」
ミナミちゃんは立ち上がって伸びをする、ふわふわと髪が揺れる。僕はそれを、いつもの身長差で見上げた。振り向いた彼女が差し出した手を当たり前のように取って、歩き出す。
「ちょっとその辺、調べてみよっかね」
「うん。……あ、ミナミちゃん」
「んにゃ、どした?」
「あれって何のお花?」
僕が花壇を指差すと、ミナミちゃんは目を眇めて、ああと呟く。
「バラだよ。結構気難しくて世話が大変なんだよね、だから皐月も手間掛けてるんじゃないのかな。まだ棘もしっかりしてないけど、今のところ順調に育ってる感じだね?」
ふうん、と漏らすと同時に、また咳が込み上げて来る。さっきまでの小さなそれとは違ってツボに嵌まったらしい、僕は身体を丸めて咽た。げほげほと声が響くとミナミちゃんは慌てて、僕を水飲み場に引っ張って行く――そうして僕は、裏庭を離れた。
お母さんも近所の人達もよく言うことだけれど、僕とミナミちゃんは性格にまったく似ているところが無い。ミナミちゃんはおてんば気質なのか大人の言う事を聞かないし、家の中で大人しくしているよりも外で遊びまわっているのが好き。僕は家で本を読んだりエレクトーンの練習をしたりするのが常で、外遊びは得意じゃない。喘息も、あるから。
だからミナミちゃんに引っ張られないと外にはあまり出ないし、
彼女に言われないと何かをすることもない。
こうして動いたりするのも、彼女に頼まれた時だけと決めている。
ミナミちゃんは図書館にあるパソコンで何かを調べると言っていた。何か思い付いたようだったから、戻ったら教えてくれるだろう。その間に、と僕がお使いを頼まれた先は、保健所のある隣町だった。まさか今更そんな所に犬がいるわけはないだろうと思う、一番に探していそうな場所だし。そう言った僕に彼女は違うと答えた。調べてくるのは犬がいるかどうかじゃなく――よく判らなかったその言葉を思いながら歩いて行った、その先。
そこで、その玄関で。
僕は先生――もとい、皐月ちゃんのお母さんと、行き会った。
「あら、ユーヤくん。どうしたの、君の家もペットを飼っていたのだったっけ」
「先生、こんにちは。えっと、違うんだけれど、ちょっと用があって……先生はどうしたの?」
相手が僕の事を知っているなら顔を隠す必要もない、僕は少しくたびれた麦藁帽子を脱いで先生を見上げる。少し蒸れた頭に風が通る、気持ちの良い感覚があった。先生はざっくりしたサマーセーターにアイボリーのスカート、腕には短い日傘を掛けている。少しきつい目付きはいつも通りだけれど、どこか疲れているみたいに見えた。いつもはきっちり留められている頭の後ろのおだんごから、後れ毛がはみ出している。そして、いつもと少し違った感じの苦笑で僕を見下ろす。
「うちの犬が逃げちゃってね、それを探してて。もしかしたら野良と間違われて連れて来られてるんじゃないのかなって……首輪をしているから、処分はないと思うのだけれど」
先生がそこまで言った所で、奥から出て来た作業着のおじさんが僕達に気付く。小さな溜息を吐いてから先生に会釈をして彼は歩み寄って来た。どうやら先生がここに来たのは初めてじゃないらしい――おじさんは先生の前に着いてから、どうも、と、もう一度頭を下げた。
「今日も来てませんよ。こっちも毎日野良を追い掛け回しているわけじゃありませんから」
「そうですか、……でも一応、犬達を見せて頂いてよろしいですか?」
「はい、結構ですよ。どうぞこっちへ、凶暴なのもいますんで――」
「ええ、手は出しません」
慣れた節のある遣り取り、おじさんは僕にもお愛想に笑い掛けてから、こっちですと案内をした。どうやら先生は親子に思われているらしい。無理はないし都合が良いと言えば良いのだけれど、と先生を見上げれば、もうおじさんに付いて歩き出していた。僕は帽子を被り直してその後を追う。
窓から日差しが入って明るい廊下、リノリウムはたまに靴をキュッと言わせる。廊下の突き当たりにある痛んだドアの向こうは薄暗くて、沢山の鳴き声が漏れてくるのが少し怖い。入り口の段差に気を付けながら入って行くと、そこにはいくつもの檻が並んでいた。
保健所に来たのは初めてだけれど、こう言うのはテレビで見たことがある。一週間ぐらい貰い手が見付からなかったら、この犬達はみんな殺されちゃうんだってことも知っていた。大きな犬と小さな犬、いろんな種類の十数匹。先生は檻に向かって足を進める。
「いや、熱心だよねぇ、お母さん」
僕の隣で壁に背中を預け、おじさんは感心したように息を吐く。
「何かしてるのかな、専業主婦?」
「あ。ううん、音楽教室の先生してるの。午後だけのお仕事だけれど」
「お仕事してる人なんだ。じゃあ本当、熱心なんだねぇ」
彼は繰り返してうんうんと頷いてみせる。僕はその理由がよく判らなくて、首を傾げた。
「そんなによく来てるの? 僕、いつも外で遊んでるから知らないんだけど」
「そうなの? 一日に二回は必ず来てるね、午前と午後と。仕事してるんなら色々することもあるだろうし、相当忙しいんじゃないのかな」
「うん、この頃顔色悪くてちょっと心配……」
「そうだよねぇ。いくら犬が大事でも、あれは根詰めすぎだよ。これで死体が見付かったりしたら目も当てられないからねえ」
「そういうのも、ここに運ばれてくるの?」
「ああ、迷惑だから片付けてくれってね。あとは病気を持っているかもしれないから、一応調べることもあるんだよ。今はまだ来てないけれど、来ないで欲しいねえ……」
大人もやっぱり、死んでいることは考えてるみたいだった。死体じゃ確かに運ばれてこないだろう、死体――それでも、先生は探すのかな。
短期間で通い詰めれば、おじさんだって感心する。そこでうんざりにならない辺り、いい人なのかもしれない。僕はそんなどうでも良いことを考えながら、檻一つ一つを熱心に見詰める先生の後姿を見る。
皐月ちゃんも犬を可愛がっていたのだろうけれど、なんだかこの様子を見ると、先生の方がたくさん思い入れを持っているみたいに見えた。そういえば僕が散歩に行き合った時も、いつも連れているのは先生だったっけ。僕は、目を眇めて眺める。ミナミちゃんの言葉を、思い出す。
ミナミちゃんが僕に調べて来いと言ったのは、そこに犬がいるかどうかじゃなかった。見せて欲しいと言っても子供一人じゃ断られるかもしれないから、そうじゃなくて、そこの職員に先生と皐月ちゃんのことを聞いて来いと。この辺りで一番近い保健所はそこだから、犬がいなくなった時点で必ず連絡は入れているだろう。それだけでなく、訊ねて来る可能性も強い。それが、どっちなのかを、聞いて来る。それが――僕の頼まれたこと。
おじさんは僕の事を子供だと思った。だから先生のことを話すけれど、皐月ちゃんのことにはまるで触れてこない。つまり、皐月ちゃんはここに来た事がないと言うことなのだろう。それは仕方の無いのかもしれない、僕だって保健所の場所なんて今まで知らなかったし。
一日に二回。それは少し異常な数だと思える。どれだけ心配していても一日一回で充分だろうし、連れて来られてすぐに殺されちゃうわけでもないんだから、二日に一度でも良いぐらいだ。早く連れ戻したいのだろうけど、それでも――保健所の人に覚えられる。心配していると思わせる。このおじさんだって、先生にそう言う感想を持っている。
周りに、大切にしていたと印象付けてでもいるような。
皐月ちゃんとは正反対の行動。
おじさんの言葉、死体だったら。もしかしたら、それを探しているのかもしれない。死体でも良いから見付けたいと思っているのかも。なら、それは。皐月ちゃんが、探したがらないのは。
どういう意味かは判らないのになんとなく引っ掛かる感覚があって、僕は麦藁帽子をぎゅうっと下げた。
「先生はいつも保健所に行ってるの?」
「え?」
「おじさんがそう言ってたよ、熱心だねーって」
行きの道と帰りの道は、眺める方向が逆だというだけなのに全然違う景色に見える。迷ってしまうかもしれないと思っていたのだけれど、先生と一緒になったお陰でその心配はなくなった。先生を見上げると苦笑の気配と共に、そうね、と言葉を漏らされる。
「連絡をもらえることになっているんだけれど、ついね……熱心と言うより、変な人に見てるのかも」
「そんなことないと思うけど……だってそれって、先生が、犬のこと大好きって思ってたからなんでしょう? それなら、僕は優しい人なんだなーって思うよ」
「優しくはないのよ、全然、優しくなんかないわ」
先生は小さな溜息を零す、僕が首を傾げると先生は足を止めた。つられて止まると、ぽんっと肩を押される。その方向には酒屋さん、前には自動販売機とベンチが隣合っていた。
「何か飲まないかな? ちょっと座って、お話しない?」
僕がお茶を指差すと、先生は軽く笑って、子供らしくないぞと言った。
「本当はね、メル……犬のこと、好きだと思ってなかったの」
コーヒーの缶を手に、先生はそう呟く。ベンチから垂らした脚をぶらぶらとさせるのは、なんだか酷く子供っぽい仕種に見えた。
「犬を飼ったのもね、勧められただけで……なんて言うのかな、少し落ち着きを持つために、ってね。本当は嫌だったんだけど、強く言われたものだから、奮発しちゃったのね。それなら、捨てたり出来ないだろうから」
僕はテレビを思い出す。ニュースの特集でそんなのを見たことがある、動物と触れ合うことで、他人との触れ合いに慣れさせるとか……去年なんかを考えると、言葉をぼかされても、判る気がした。
こくん、とお茶を飲む。
「子犬って、どんなに粗相しても絶対に叩いちゃいけないのね。赤ちゃんを怒っちゃいけないのと同じ。最初はすごくストレスが溜まったけど、やっぱり懐くのが可愛くてね。撫でると嬉しそうにするし……子犬って成犬と全然手触りが違って、すっごく柔らかいの。それが脚なんかに懐いてくるとすっごく可愛いのよ」
「うん、ふわふわしてた。あったかくて、元気で」
「でしょう? お手とか足がちっちゃくて、何度やってもふにふにしちゃうの」
先生ははしゃぐみたいに軽くコーヒーの缶を振りながらくすくす笑う――でもすぐに、それも止まる。
「いっつもね、お散歩してたわ。でもすぐに脚に懐いて、抱っこのおねだりするの。バッグの中に入れちゃって、中でお漏らしされたこともあったかな」
「うわわ」
「お財布が臭くて大変だったわ。でも、どんなに疲れてても忙しくても、ちゃーんとお世話はしてたの。甘えっ子だったけど頭が良くて、うん、可愛かったなぁ……」
「…………」
「いなくなってね、ほんとに寂しいなあって思った。早く帰って来ないかなあって。結構好きだったみたいね。だからすごく心配しちゃうのかな」
先生は自分の額にコーヒーの缶を付ける。
「先生――もし、犬が死んじゃってたら、どうする? それでも、探したいと思う?」
僕は、訊ねた。
それは無神経な言葉だったと思う。とても、無神経で嫌な質問だったと思う。だけど今は先生より、ミナミちゃんが大事で。この不自然の解体が大事で。自分が何を考えているのかまだ纏まってはいないけれど、僕は、そう訊ねた。先生に、尋ねた。
不自然に怯える彼女を見ないために。
先生は表情を変えず、答える。
「探すわ」
「…………」
「だからもうちょっと、探してみなきゃ。ご近所も遠くも路地裏もどこでも、探して、探して見付けてあげなきゃ――お墓だって作れない」
「ユーヤ!」
聞き慣れた声に呼ばれて、僕は顔を上げた。先生も同じように視線を彷徨わせる。お祭りの飾り付けがちらほらとされ始めた道の向こう側、髪を揺らせて走ってくるのはミナミちゃんの姿。結構距離があるけれど彼女はずば抜けて視力が良いし、僕からは金色で判る。近くなるにつれて速度を落とし、ふうっと息を吐いて彼女は乱れた髪を引っ張った。ふわふわ揺れる金色は、きらきらと眩しい。
「遅いから迷ったのかと思ったよ、大丈夫?」
「ミナミちゃんじゃないんだから大丈夫だよ。先生と会ったから、お話してたの」
「先生?」
言われて初めて気付いたように、ミナミちゃんは僕の隣に据わっている先生を見上げる。拍子に少し表情が強張ったような気がしたけれど、それはすぐに溜息で隠された。ほんの少しの違和感は、腕を引かれて立つように促されて消える。ぽんぽんっと麦藁帽子を叩かれる、いつもの仕種。
「ジュース買って貰ったの? ちゃんとお礼は言った?」
「あ、まだ。えと、先生ありがとうございましたっ」
「ううん、良いのよ。……その子、どちら様?」
先生は小さく笑ってから、訝しげな様子でミナミちゃんを見る。金髪が目に付くのか、眼を細めていた。僕の手を握るミナミちゃんの指に、少しだけ力が入った気がする。そして、それが、なんだか冷たい。緊張でもしているみたいに――ああ、そう言えば、先生は苦手だって言ってたっけ。そんなに怖かったのかな、去年の学芸会。僕は手に小さく力を込める。怖く、ならないように。
「お隣に住んでるミナミちゃんです。ほら、早く行こう?」
「え? あ、うん。それじゃあ、失礼します」
軽く頭を下げて、ミナミちゃんは走り出す。僕も先生に手を振って、その後ろに続いた。先生はベンチから立ち上がって、持っていたコーヒーの缶を屑籠に放る。僕はミナミちゃんの手を握る。冷たい手を、暖めるように。
走って向かった先は、公民館だった。僕達の町の公民館はこじんまりしていて、大概の施設を一緒くたにしている。町民体育館も図書館も、自治体の受付も町議会の会議室も――玄関を入るとすぐに職員室みたいな部屋があって、そこは、教育委員会が使っていた。ノックをしてご挨拶、お隣にある図書館の鍵を開けてくれるのは、ここ。いつものように辻本と言う垂れ眼のおばさんが僕達に笑い掛けて、鍵を掛けてあるコルクボードに手を伸ばす。
「お友達迎えに行ってたの? 人が居ないからって、騒いじゃ駄目だからね」
「はーい」
室内は空調が効いていて、ひんやりしていた。僕はミナミちゃんに手を引かれて窓側に向かう。バラの生けてある花瓶の前は、冷房が直撃しないのに丁度良い涼しさになる特等席だった。長い机に収められている椅子を引いて隣り合う、座ると少し身長差が小さくなる。やっと体温が戻り始めた手を離すと、ミナミちゃんはふうっと息を吐いた。眠っていたお姫様の目が覚めるみたいなんて思うのは、彼女に毒されている所為かもしれない。
「まさか遭遇してるとは思わなかったよ、びっくりした。ユーヤ大丈夫? 怒鳴られたり叩かれたり、しなかった?」
「先生だっていつも怒ってるわけじゃないよ、大丈夫。びっくりしたのは僕もだよ? 迎えに来るとは思わなかったから」
「ま、迷子の心配をね」
いつも僕と歩いている所為か、ミナミちゃんは少し外れた道や込み入った路地に入るとすぐに迷う。確か街に引っ越して来た当初も、町内一周するぐらいに迷ったみたいだったっけ。だから彼女にとって迷子は身近かつ由々しき問題なんだろうけれど、僕にはその心配はない。生まれてからずっとここに住んでいるし、隣町ぐらいだったら迷っても自力でどうにかなる。
でも、心配されるのはちょっとくすぐったくて嬉しいことだ。僕がありがとうと言うと、いつものようにミナミちゃんは頭を撫でてくれる。帽子越しでない掌の感覚は気持ち良くて、やっぱり好き。
「調べ物してたんじゃなかったの? ネットするって」
僕は椅子の背凭れに身体を預けて、ぐいっと上半身を捻る。部屋の隅にこっそりと置かれているのは、三台のパソコンだ。デスクトップで大きい、古くて日に焼けているそれ。ああ、とミナミちゃんが頷くのに、僕は身体を戻す。
「それが終わったからユーヤ待ってたのに、中々来なかったからさ。とりあえず話は聞いてきた? 皐月のお母さんとは、何処で会ったの?」
「保健所の前で一緒になったの。中に入れてもらって、捕まってる犬の確認してたよ。その時に聞いたんだけれど、先生随分通い詰めてるんだって。一日に二回も」
「へえ?」
ミナミちゃんは軽く眼を細める。
「毎日通ってるって、おじさんが教えてくれたよ。皐月ちゃんのことは言ってなかったから、多分来てないんだと思う。仕方ないんじゃないかな、いつもレッスンあるし、花壇のお世話のしなきゃいけないみたいだから」
「ふいーん……」
「一日に二回って、すごく多いよね。それだけ心配してるのかもしれないけど、なんか変な感じだよ。周りに『心配してます』って言ってるみたいな、よくわかんないけど、ぐるぐるする」
ミナミちゃんは腕と足を組んで座っていた。くるくると指先は金色の髪に絡められている、いつも見慣れた考え事のポーズ。頷くこともしないで、黙ってそうしている――何かを考えているんだろう。僕は邪魔にならないよう黙る。そして、考える。
心配していると言うことを周りに印象付けているとしたら、それはどういうことなんだろう。自分は心配しているんだから――心配しているんだから、可愛がっているんだから、犬がいなくなったことには驚いている。だから、犬を誘拐した人なんか知らない。自分は犬が消えたことに関係がないと、言っているみたいだ。反対に皐月ちゃんは探そうとしていなくて、保健所にも行っていない。花壇のお世話をしている。どうして、だろう。
犬が居なくなった時に家にいたのは皐月ちゃんと先生だけだ。犬は逃げてから誰にも見られていない。つまり、犬が逃げた証拠は、犬が家に居ないという事実だけだ。つまり、ええと――頭の中がぐるぐるする。皐月ちゃんは二階にいて、先生と犬は一階にいた。犬を隠せるのは。それが判っているから、皐月ちゃんは探したがらない。お母さんを、庇うために。お母さん。繰り返すみたいに、彼女は言っていた。
死体でも探す、先生の言葉。保健所に通い詰める理由。どうしてそんなにも探したいのか。確認しなきゃいけない理由があるのなら。それが、理由なら。
つまり僕が言いたいのは、
「変な感じになってるね」
ミナミちゃんは言って、ふうっと溜息を吐く。僕は考えるのを止めてぷるぷると頭を振った。確かに先生はカッとしやすいけれど、でも、理由が判らない。可愛がっていたなら、尚更に。そんなのは――不自然だ。
「み、ミナミちゃんは何調べてたの?」
「うん? ああ、保険金」
さらりと、ミナミちゃんは言った。それから席を立ってパソコンのあるスペースに向かう、用があるのは、その影に隠れているプリンターだったらしい。何枚かのプリントアウトされた用紙を持って戻ってくるけれど、その間もくるくると髪に指を絡めたままだった。まだ、何か考えている最中なんだろう。
「保険金? って、何それ」
「皐月が言ってたでしょ、血統書がなきゃただの子犬だって。確かにそうで、血統書が本当に盗まれていないんだとしたら、不自然なんだよ。ならそれはどう言うことなのか考えてみたの。犬だけ盗んでも仕方ない、売ることが目的じゃない。それ以外でどういう価値が出て来るかってね」
「価値……?」
「色んな価値があるでしょ? 青髭なら殺した奥さんの遺産が手に入るし、白雪姫は死んでいる姿が綺麗だった。いばら姫なんかは、そうだね……死んでるから、それを助けようとして、沢山の若者がいばらのお城に向かって行く。そういうことだよ」
どういうことなのかよく判らない。
ミナミちゃんは苦笑いをしてみせる。
「生きてないことで、生まれる価値。死ぬことで出るそう言うの、簡単なのはお金で、つまりは保険金。受け取るのは勿論飼い主だから、血統書が盗まれてないのも不自然じゃなくなるんだよね」
当然のようにミナミちゃんは言うけれど、僕は目を丸くしてしまう。それはつまり皐月ちゃんの家族にお金を入れようとしているということで、だったら盗んだのは――ミナミちゃんはぱらぱらと紙を捲りながら、淡々と言葉を繋げる。
「ユーヤの通ってる音楽教室のサイトも見付けたよ。キャッシュと比べてみたら、今の方が受講料値上がりしてるね」
「え、えっと、キャッシュって何?」
「昔のデータみたいなのだね」
「……それってつまり、前と比べてお金が無いってこと?」
「無いってこと。皐月の母親の職場がお金に困ってて、そこの犬が居なくなった。保険金が入ってくるのは皐月の家族。さて、不自然はない」
ふんっと詰まらなそうに、ミナミちゃんが息を吐く。
心臓が、どきどき煩いのを感じる。
「ミナミちゃん、それって、つまり――」
「どしたのユーヤ、顔が赤いよ」
「だ、だって、それってつまり、先生が犬を盗んだってことでしょ? 保険金が欲しくて犬のこと殺しちゃったって、そういうこと――そのお金で、音楽教室をどうにかしようとしてるってッ」
「はずれ」
やっぱりさらりと、ミナミちゃんは言った。
へ、と呆気に取られた僕の前に、彼女は持っていた紙資料を広げて行く。音楽教室のサイトのコピー、そして、ペットの保険会社のページ。その中から小型犬の項目を探しだして、数字の桁を数えた。一、十、百、千、万……あれ。
十万円。
桁が、すごく足りない。
「あたしも同じこと考えたんだけど、これじゃーね。血統書があるにしたって倍が良いとこ、建て直しも買収も、すごい勢いで無理」
「え、え? でも、じゃあ、どうして先生、あんなに通い詰めて……」
「ユーヤって変なトコで捻くれてるよね。本当に心配してたってことにしてあげなよ」
僕より捻くれてるミナミちゃんにそう言われると、ショックかもしれない。彼女はそんな僕の事なんか知らないように、くるくると髪に指を絡めていた。ふわふわしたそれは細くて綺麗、童話のお姫様みたいだといつも思う。今は金髪だから尚更だ。僕があげた赤いリボンと絡み合って、よく似合う――あれも二年前にあげたものだから、何か新しいのをあげようかな。今は帽子の方が、良いかもしれないけど。
そんなずれたことを考える僕に、彼女はくひひっと笑みを向ける。お姫様のイメージを裏切る笑い方は、どちらかと言うと魔女っぽい。毒林檎を持ってくるか、お菓子の家に閉じ込めそうな。それとも、城中のいばらを毟り取りそうな。お后さまを焼けた靴で踊り殺させる白雪姫の横暴な正義も、こんな感じなのかな。
「むしろ気になるのは皐月が犬を探そうとしてないってことだよ。そっちの方が不自然だね、母親と対照的すぎてさ」
「だからそれは、お母さんを庇ってるからで――」
「犬を隠せる立場で皐月が庇わなきゃいけない相手って、母親だけじゃないでしょう?」
ミナミちゃんは、指に絡めていた髪をピンッと弾いた。
「皐月自身、だよ」
僕とミナミちゃんの門限は同じで五時、それは図書館の閉館時間でもあった。まだ明るい道を二人で手を繋ぎながら歩くのは、殆ど日課。くるくる巻き毛は天然パーマ、垂れる金色のポニーテールから覗く項が白くて綺麗だと思いながら、握られた手の冷たさを感じる。いつだってミナミちゃんは苦しいとか辛いとか言わない、意地っ張りなのか強がりなのか、それが僕を不安にさせると気付いてくれない。棘だらけのお姫様みたいに、近付けてくれない。
家路につく時に、いつも言葉少なになることも。
玄関を見付けて陰鬱そうな溜息を吐くことも。
不自然が怖いこと、そのものだって。
きっと、『彼』が、いるからなのに。
「提灯」
「え?」
「提灯、もう下がってるね。気が早い」
言われて僕は視線を上げる。月末のお祭りのための提灯が、お店の軒下にまばらに下がっていた。まだ随分日があるはずなのに、確かに気が早い。でも、楽しみな気持ちが伝わって来る。ミナミちゃんもそれを感じたのだろうか、だけどその顔は青かった。一日の終わり、この時間だけはいつもそう。
ミナミちゃんが外遊びを好む一番の理由はそこで、家にいるのが嫌いだからだ。『彼』のいる場所に閉じ込められるのが嫌い、言葉に出したことはないけれど、そう言う事なんだと僕は思っている。だから時々抜け出して、僕の部屋に入って来ることもある。一階だから出来ることだろう。
家の前につくとあからさまな作り笑顔で、じゃあね、と手を振られた。玄関先に『彼』の車が停まって、その在宅を示している所為かもしれない。ミナミちゃんは何も言わないで、玄関脇に植えられた柘榴を擦り抜ける。そして、見えなくなる。
僕は何も気付かない振りをして、家に入った。
「皐月ちゃん自身、って……どういうこと?」
「だから、皐月だよ。皐月が誰より庇うのは皐月でしょ? ましてあの母親だからね、ばれたらどうなるか判らない。結構ヒステリックじゃない」
確かに先生は怒りっぽい、だから犬を飼うように勧められたんだし。でも、と僕は思う。混乱してよく判らない、皐月ちゃんが犬を攫う理由が、判らない。どうしてそんなことをしなきゃいけないのか、保険金はないだろうし、理由がないなら、それは不自然すぎる。
ぐるぐると頭を抱える僕にミナミちゃんは、どこから説明しようかと苦笑した。そんなの僕だって判らない、だから、答えは『最初から』だ。最初から全部、でないとぐるぐるすぎて目が回る。
「まず、家に居たのは皐月と母親。母親が目を離した隙に犬がいなくなった。犬がいなくなるのを見ていたわけじゃないのは判るよね。持って行ったのが皐月だとしても、母親には判らない。柵を少し開けておびき出すとか方法は色々ある」
「……う、うん」
「母親が犬の不在に気付いた時、皐月は二階にいた。つまり、犬を持ったまま二階に行った。どこかに隠していればばれない、机の中とかランドセルの中とか。あとは何かで覆い隠して外に持ち出せば良い、部屋の中に置いておいたらおもらしとか鳴き声とか、厄介だろうからね」
「でも、理由がないよ。どうして皐月ちゃんがそんなことしなきゃいけないの?」
「それは結構考えられるんじゃないかと思うかな。例えば、母親が実は犬を虐めていた。子犬の世話は手間が掛かるって本人も言ってたんでしょ、カッとなって叩くとか、そういうことがあったのかもしれない。それから守るためとかね。他には、逆に犬ばかり可愛がるからかもしれない。自分にはレッスンレッスン煩いのに、って」
「それは――」
「皐月の手を噛んだのかもしれない。夏は発表会だってあるんでしょ? どーせ皐月も代表になってるだろうし、それでカッとなったのかも。この辺りは想像でしかない――でも仮説としては、上出来じゃないのかしらね。子供が親を裏切るなんてよくあることだよ。好奇心に負けて糸車に手を出すのと同じ」
ミナミちゃんはうんっと伸びをする。
「赤頭巾だって、寄り道したことに意味なんかないんだよ。単純に言い付けを破りたかっただけかもね、そうすることで見返した気分になることもある。皐月は母親に抑圧されてた。だから、不自然と言うほどでもないってだけ……憶測だしね、って言うと、逃げ言葉かな」
僕は何度も彼女の言葉を反芻するけれど、それを引っ繰り返せるような言葉はまるで出て来なかった。確かに、ミナミちゃんの言葉には破綻がない。不自然を嫌うから綻ばないように補完をするし、説得力もある。先生と皐月ちゃんの正反対さの説明、どうやって犬が消えたのか。ラプンツェルは二階にいた。でも、だけど。
僕は、ミナミちゃんを見上げる。
「じゃあ、犬はどこに行ったの?」
「それが判らないのよねー」
彼女は肩を竦めて、あっけらかんと言った。
少なくともご近所のどこかでこっそりと飼っていることがないのは、一日中探し回って判った。じゃあ一体どこに隠してしまったのか、それが判らないままじゃ、結局何も進展していないことになる。僕達は、犬を探している。誰にも見付からないと言う不自然を抱えた、犬を。
不自然。
皐月ちゃんはいつも花壇にいる。
花壇にあるのは、バラ。
僕は、あそこで――
図書館の時計がチリンッと小さく鈴を鳴らして、閉館の合図をした。
ミナミちゃんが髪を染めてから、お母さんは僕がミナミちゃんと一緒に遊ぶのにあまり良い顔をしなくなった。元々ミナミちゃんは風邪でも無いのに学校を休みがちだったし、変なトラブルも起こす。でもミナミちゃんは僕に優しかったし、僕もミナミちゃんといるのは楽しい。僕達は、友達だった。
「ねえユーヤ、今日もお隣に行ってたの?」
お夕飯が終わってテレビを見ていると、お母さんが洗い物をしながらそう声を掛けて来た。ダイニングとキッチンは繋がっているから、会話は簡単に出来る。僕は少しテレビのボリュームを下げて台所を振り向き、お母さんの背中を見る。
「あんまりあの子と遊ぶの、止めにしたら? お友達のことに煩く言うのは嫌なんだけど……夏休みに入ってからあの子、髪まで染めちゃったし。お母さんああいうの、あんまり良いと思わないな。学校でもそう言うの、禁止されてるはずでしょう? 駄目なことしちゃう子と遊んでると、ユーヤも悪いことしちゃいそうだもの」
お父さんは出張で留守だった。僕と二人だけの時、お母さんはちょっとだけ口煩くてお説教臭くなる。お父さんは前に、気が張ってるだけだよ、と教えてくれたっけ。あまり慣れなくてこういう時間は好きじゃない。僕は座布団の上で、膝を抱える。
「全然遊んじゃ駄目って言わないけれど、少し回数減らすとかした方が良いんじゃないかな。ユーヤも他にお友達はいっぱい居るでしょ、皐月ちゃんとか大樹くんとか――かわりばんこにみんなと遊ぶのが、良いと思うな」
「……うん」
水の音と、食器の擦れる音。僕は小さく、でも聞こえるように返事をして、部屋に戻った。階段の影にあるドアを潜って、閉じる。明かりを点けると、真っ黒に塗り潰されている窓が見えた。
窓の鍵は基本的に、いつでも開けっぱなしだった。ミナミちゃんがすぐ僕に声を掛けられるように、学校に行く時も、夜もそうしてる。窓の下にはコンクリートのブロック、隣町の資材置き場から拾ってきたもの。それに乗ると丁度良い高さになって、窓の桟に手を付くと入って来られるようになっていた。お父さん達の部屋は二階で僕の部屋は一階、少しぐらいの物音は気付かれない。キッチンは近いけれど、そこにだって届かないだろう。
ミナミちゃんがいつでも来られるように。
ミナミちゃんがいつでも、逃げて来られるように。
僕は、溜息を吐く。
ミナミちゃんが髪を染めるのは、僕も手伝った。誰も居ない昼間のお家、お風呂場。スーパーで買った染髪料、一番に明るい金色。長い髪に満遍なく行き渡るよう、僕も手伝って髪を梳かした。何度か繰り返して色を付けて、綺麗な金色の髪。美容院に行くのは絶対に嫌だ、それでも、僕には許してくれたミナミちゃん。
ぎゅう、っと、僕は掌に爪を立てる。痛いけれど痛くない。少し湧き上がってきた苛々をぶつけるように宿題に向かう。筆圧が少し強くて、鉛筆の芯が何度か折れた。それでも僕は力を抜かない。綴られたプリントに八つ当たりするように、がりがりと。
苛々、する。
魔女みたいに閉じ込められたら、誰もミナミちゃんを傷つけないだろうか。
『彼』も、お母さんも、届かないように。
「ユーヤ?」
掛けられた声に窓を見ると、そこには彼女の金髪が見えた。
「宿題してたの? 邪魔だったかな」
「今日の分が終わった所だよ、大丈夫。ミナミちゃんはちゃんと進んでる?」
「すぴー」
寝ないでよ。
ドアが閉じられているのを確認してから、僕は彼女の腕を引き上げる。ほんの少し顰められた表情と、いつの間にか腕に付けられている大きな痣には、気付かない振りをして。気付いていることを悟られないようにする、二年間いつも慣れた行動。『彼』に気付かないように、僕はいつも笑ってその隣にいる。
僕が机に向かっている椅子に腰を下ろすと、ミナミちゃんは本棚に寄り掛かっていつものようにグリム童話を膝に載せる。よく飽きないな、僕は一度読んだらもう良いと思っちゃうのに。本が重くて読んでいるのがしんどいし、ミナミちゃんみたいに解説ページまで読むほど熱意もない。
ただ一緒にいるだけの時間を過ごすのも、慣れたことだった。僕は明日の音楽教室に備えて、楽譜にドレミを振ろうと机に向かう。……あれ、楽譜、どこだっけ。まだ鞄に入れてたかな、僕はきょろきょろと床を見回す。ミナミちゃんが、顔を上げる。
「どしたのユーヤ?」
「あ、うん。音楽教室の鞄探してて」
「えっと、ああ、あった」
どうやら本棚とミナミちゃんの影に隠れて見えなかったらしい、ひょいっと彼女は肩掛け鞄を上げてみせる。ベージュ地にブラウンでプリントされたいくつかの四分音符、シンプルなデザインの肩掛け鞄。楽譜が入るようにと大きめのそれは、僕が掛けると足にぶつかって青痣が出来るぐらいサイズが合わない。ミナミちゃんにも少し大きいらしいけれど、それでも僕ほどではなかった。こんな所でまで身長差を自覚したくはないのに、ちょっと凹んでしまう。
「――ン」
ふっと、ミナミちゃんは気付いたように、その鞄を眺める。
「これって教室で売ってるんだよね。一種類しかないの?」
「え? うん、それだけだよ。低学年向けにもうちょっと小さいのがあっても良いと思うんだけど、楽譜とか入らないから駄目なんだろうね」
「ふーん……ああそっか、そうだね。昼に会った時、皐月も掛けてたっけ」
「え?」
不意にその名前が出て来て、僕は首を傾げる。
ミナミちゃんは僕に鞄を渡して、それからくるくると髪に指を引っ掛けた。僕はそれを受け取っただけで結局楽譜を出すことはしない、ただ彼女を眺めている。何か引っ掛かることを見付けたみたいだけれど、なんなのか――皐月ちゃんが鞄を持っていたら、どうだって言うんだろう。
あれ、と、僕は思う。
今日は教室がない、のに、皐月ちゃんは鞄を持っていた。彼女の場合レッスンは毎日ある、でもそれは自宅でのこと。鞄を持ち歩く必要はまるでない――まして。そう、どうして鞄を、花壇に持って行ったりするんだろう。
ミナミちゃんにも大きいんだから、それより小柄な皐月ちゃんにも、大きくて邪魔なはずなのに。
まさか。
「ユーヤ、花壇の裏で妙に咽たよね。あれってそんな空気こもってたかな――うちの方が余程埃っぽいと思うけど。ん、よし」
僕と同じ事を考えたのか、ミナミちゃんは本を戻して立ち上がる。そのまま窓に向かい、足を引っ掛けてから僕を見た。僕も頷く、机の引き出しの一番下、そこには防災用に靴を入れていた。学校指定の白いそれを、引っ張り出す。
ミナミちゃんが外に、降りた。
もともと小さな町だから、夜なんてひと気はまるでない。交番のおまわりさんだって眠っているだろうけれど、僕達は注意して、暗い道を選んでいた。どんな道を通ったって迷う事は無いと思っていた――だって、行き先は。
十字路に出る、右手には坂道が伸びている。
そこを昇れば、学校だ。
白い校舎は、幽霊みたいにぼんやり浮かんで見える。
夏休みで夜ともなると、学校には当然誰もいるはずが無かった。それでも念のため足音を立てないように注意しながら、僕達は歩く。玄関の前を素通りして水飲み場を迂回、裏庭に。じんわりとした夏の湿気は肌に気持ち悪い、でもそれ以上は何も感じなかった。幽霊というものを信じていない理系なお父さんの影響を、こんな所でありがたいと思う。ミナミちゃんと手を繋いでいるからかもしれない。ちらりと覗けば、予想通りに誰もいない花壇が見えた。息を吐いて、僕達はそこに向かう。詰まれた雑草の束を蹴らないように、近付く。
皐月ちゃんがいたのと同じ場所に座り込むと、土の中に差し込まれていたスコップに気付いた。錆びたそれを手に取って、僕は目の前の植物の見下ろす。やんわりとなだらかな棘の子供、ミナミちゃんはバラだと言っていた。その近くにあるのは、幾つかの小さな穴。
「……雑草を掘り返した跡かと思ったけど、足跡なのかもね、これ。小さいから肉球とかわかんないけど」
「かもね」
生温い風が吹くと、一昨日みたいに干乾びた雑草が転がって来た。ミナミちゃんはそれを摘まみ上げる。雑草同士を絡ませててるのは、埃よりももっと硬くてしっかりしたもの。けほッと僕は咳を漏らす――動物の毛は、苦手。口元を押さえるけれど、あまり長居するとまたツボに嵌まってしまうだろう。
「あたしがやるよ、ユーヤ。そこ退いて?」
「ううん、僕がするから」
僕は息を止めて、スコップを握りなおす。
バラの根元を掘り返す。
不自然を掘り返す。
ごつりと、突き立てたシャベルに何かが当たる手ごたえ。
避けた土の下には、汚れた子犬が死んでいた。
「埋まってるんじゃ見付からないはずだね、良い手だよ。城に絡みついたバラの養分は、向かって来た若者達の血だったって言うしねー」
「そうなの? でもそれも、根っこに埋めないと駄目なんじゃないのかな」
「その辺は魔法使いが頑張ってくれたんだよ。でも若者達には良い迷惑だよね、お姫様もお城の人たちもみんな元通りになってめでたしめでたしなのに、生き返るどころかなんの救いも用意されてない――いかにも使い捨て、って感じ」
ふうっと溜息を吐くミナミちゃんの言葉に、僕は苦笑する。御伽噺なんてそんなものだと思う、ヘンゼルとグレーテルだって同じだ。帰って来ても捨てた張本人である継母がいたらハッピーエンドにならないから死んだことにしただけ、ラプンツェルの魔女なんて王子様を突き飛ばしたらそれ以降出て来ない。
犬は元通りに埋めて、そのままにして来た。どうしたいのか、どうするのかは皐月ちゃんが考えることだし、見付けてしまったのだからミナミちゃんも気が済んだだろう。元々、見付かるはずのものが見付からない、その一点の不自然を解体したいだけだったのだから。あとの事には興味がない、見付からない理由、どこにいるのか――ついでに犯人まで判ったのだから、もう充分だ。
だから僕達は、帰る。いつものように手は繋いだまま。大きな痣のある彼女の腕を、後ろから見上げながら。
二学期に一年生が飼っていたハムスターが七匹全部消えることも、最優秀花壇賞が四年生になることも、バラが枯れた頃に皐月ちゃんがその茎を力いっぱい握って手を包帯だらけにすることも、先生が僕達の前でそんな皐月ちゃんの頬を打つことも――
彼女が不登校がちになり、部屋に閉じ篭って一日中エレクトーンに向かうだけの生活になることも。彼女の部屋のベランダからバラの蔦が伸びることも。そんなことは今も未来も、僕達の生活にはまるで一遍の関係も無いことだった。
僕はミナミちゃんと一緒にいるし、ミナミちゃんは僕と一緒にいる。それだけがただ変わらないであるだけだ。ミナミちゃんがいつまでも金色で『彼』のことを隠し続けることも、僕がその手を繋ぎ続けることも、変わらない。たまに爪を立てたくなる衝動をどうにか抑えてやり過ごす事だって、そうだろう。僕達はいつまでも何も変わらないままに並んで歩く。一つだけ確実な、未来。
暗い夜の中、僕の手を引っ張って歩くミナミちゃんの背中を見上げる。金色の髪が垂れる項と背中は、イバラの城に呑まれて行くお姫様の後姿だった。
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