【仮説五】

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Illustration:どこここ


翌日、ビルの下から見上げると朝から実験室の明かりが灯っていた。今朝は早かったので待ち合わせずに来たが、長門はもう来てるのか。四階の事務所に入ると長門の鞄が机の上にあった。学校は休みらしくハカセくんもいるようだ。

 長門の要望で会議室を時間移動技術の研究用スペースにあてている。だいぶ手狭てぜまなのでもう一部屋くらい借りないといけないかもしれない。

 俺は会議室兼実験室のドアを開けて呼びかけた。

「おう、長門来てたのか」

「……おはよう」

「あ、先輩おはようございます」

長門とハカセくんの声だけはするが、実験用長机に向かった二人の背中がじっと動かない。なにをやっているのだろうと覗いてみると、机の上に平たい水槽が置いてあった。

「なにを見てるんだ?」

「亀です」

「亀?」

「覚えてらっしゃいますか、ウサギのお姉さんと祝川しゅくがわの川べりで」

そういえばそんなこともあったな、なんてのは過小表現で、朝比奈さんが誘拐拉致らちされた日のことは忘れもしない。

「川に亀を投げ込んでハカセくんにあげたんだったな」

「そうです。あのときの亀です」

水槽の中には、六年経って大きくなったゼニガメがのっそりと首をもたげて俺を見ていた。

「大きくなった。妙に懐かしいな」

ホームセンターのあんちゃんも喜んでるだろう、かどうかは知らんが。

「……」

これは長門の無言ではなくて、俺の無言だ。この亀がここにいることについて、長門がなにか説明してくれるものとばかり期待して待っているのだが、いっこうにそれらしき解説がない。

「もしかしてずっとこれを見てたのか」

「……そう」

「退屈……、しないか?」

「……しない」

そうか。それならいいんだが。俺もパイプ椅子を持ってきて隣に座った。のそのそと動く亀を三人でじっと見つめていた。

「おはようございまーす、みんなここにいたのね」

朝比奈さんが両手をりながらやってきた。

「そろそろ朝は冷えますね」

「おはようございます朝比奈さん」

「すぐお茶入れますね。あら、それ亀ちゃん?」

「ええ、あのときいただいた亀です」ハカセくんが言った。

「大きくなったのね、懐かしいわ。うちにもこれくらいの亀ちゃんがいてね」

「知らなかった。朝比奈さんって亀飼ってるんですか」

未来で朝比奈さんがゼニガメをペットとして飼ってるなんて、ちょっと想像していなかった。飼うとしたらバイオ養殖されたイリオモテヤマネコとか三葉虫さんようちゅうとか。

「あれ?でもあの亀くれたのってキョンくんと長門さんじゃ……」

「そうでしたっけ?」

俺はカンダタがぶら下がっていたのよりはずいぶんと細い記憶の糸をたぐりよせたが、いっこうに覚えがない。

「あっ、ごめんなさい、このときはまだ……」

朝比奈さんがぺろりと舌を出して自分の頭をコツンと叩いた。前にも似たようなシーンを見たな。俺はこっそりと耳打ちした。

「もしかして未来の情報ですか」

「えっと、禁則事項です」

朝比奈さんはそう言っていつものウインクをした。これは楽しいことが起こりそうな予感がする。オラなんだかワクワクしてきたぞ。

 水槽の中の亀がのっそりと動いて、じっと朝比奈さんを見ている。口をぱっくり開けてエサを要求しているようだ。

「朝比奈さんのこと覚えてるみたいですよ」

「え、まさか」朝比奈さんは笑った。

「鶴屋さんちに泊まったときのこと、覚えてるんじゃないですか。犬も三日飼えば恩を忘れないといいますし」

「亀ちゃん、お久しぶり。元気にしてた?」

朝比奈さんは亀用の固形エサをひとつ箱から出して亀の口元に持っていった。あの日と同じように、パクリとくわえて丸飲みした。朝比奈さんはお茶を入れるのも忘れて亀に見入っていた。それを見て三人も亀に目を戻した。

 亀がゆったりと口をあけてエサを食う仕草、鼻先を水面に上げて呼吸しているらしい仕草、ときおり目を閉じてクビを甲羅こうらの中に引っ込める仕草。じっと、ただじっと見ていた。これはなにかの科学的調査か理論の考察に違いない。

 三十分くらいそうして俺が貧乏ゆすりをしようかと迷っていると、ハカセくんがやっと口を開いた。

「長門さん、分かりましたよ」

「……そう。言語化して」

「亀は自分の中に時計を持っているんですね」

「……そう、正しい」

「まわりとは異なるスピードの主観時間を自分の内部に持っていて、その速度は僕たちから見るとゆっくりに見える、ということでしょうか」

「……正解。亀は甲羅こうらの中に時間平面を持っている」

「じゃあ自分で時間平面を行き来できるんですか」

「……そう。亀がうさぎに勝ったのは、うさぎが怠慢たいまんだったからではない。時間平面を飛び越えたから」

なんだか子供にも分かるような分からないような話だが、亀は時間に対して特殊な生き物らしい。長生きの秘訣ひけつはそこにあるのか。

「……この亀と最初に出会ったときのことを、思い出して」

「ええと、祝川しゅくがわの川べりでした。季節は二月ごろ」

「……映像を思い浮かべて」

ハカセくんは遠くを見るような眼差しをして、少しの間目を閉じた。それから俺のほうを向いて、

「先輩が小亀を投げたとき、水面に派手な波紋が広がりましたね」

「そうだったな。俺もなんであんな行動をしたか未だに分からないんだが」

その答えは朝比奈さんしか知らない。朝比奈さんをちらと見たが、にっこり笑うだけでなにも言わなかった。

「……そのときの波紋を関数で表してみて」

「え、あれをですか」

「……あなたなら、できるはず」

「ええと、ちょっとやってみます」

ハカセくんはなにやらごにょごにょとつぶやきながらホワイトボードに水性マジックを走らせていた。水面の動きを数字で表すなんてできるんだろうか。


 ハカセくんが考えている間、俺は朝比奈さんと給湯室に行ってお茶をてていた。あいつら、今日中に結論出るのかな。朝比奈さんが差し入れてくれた和菓子とお茶をお盆に載せて実験室に戻ると、ハカセくんはまだホワイトボードをにらんでいた。

「ハカセくん、ちょっと脳を休めてお茶でも飲め」

「ありがとうございます」

礼を言ったものの、心ここにあらずという感じで考え込んでいた。長門はふと、湯気の立つ湯のみに目を落とした。ゆれるお茶の波紋を見て、ハカセくんにそれを示した。ハカセくんはなにかを思いついたかのように水性マジックのキャップを取った。さらさらと記号を書いている。

「二次元グラフでいうと、横に進むY軸の、ある点を中心にして左右に広がる切り立った山、その裾野すそのに広がる小さな波ですね」

「……そう。この数式はどこかで見たはず」

「これ、もしかしてシュレディンガーの方程式ですか」

「……正解」

「なるほど!」

ハカセくんの顔が輝いた。どうやら答えにたどり着いたみたいだ。この、詰め込まないで生徒から答えを引き出す教え方は実に効果的だな。長門が教職課程きょうしょくかていを取っていたらいい先生になれたろうに。

「ということは一枚の時間平面の存在って波動関数はどうかんすうで表されるわけですね。固定されてるわけじゃなくて、いつでも確率としてあるわけで、」

それからのハカセくんはホワイトボードにうねうねした文字と数字を書きつづけ、ブツブツと独り言をしゃべっていた。かつてのアインシュタインもこうだったんだろうか。その様子を長門と朝比奈さんが微笑ほほえんで見ている。

 ハカセくんがホワイトボードにアルファベットのUを逆さまにしたような図を描いて俺に言った。

「確率分布の表現形はこうですよ、物理の授業で見たことあるでしょう?」

「すまんが俺にはとんと分からん」

俺は苦笑して答えた。

「長門さん、言わんとするところがなんとなく分かりました」

「すごいわハカセくん」

朝比奈さんがぱちぱちと拍手した。

「時間も空間も考え方は同じなんですね。これが時間平面の存在確率ということは分かりました」

「……ここまでは正しい。次は、これを読んで」

長門は分厚い本を取り出した。それ、医学の専門書?表紙に神経生理学とかと書いてある。

「次は脳医学ですか……。ほとんど知らない分野ですが」

ハカセくんは渋面じゅうめんを作って目次をめくりはじめた。物理学者だけじゃなくて医者にもなれそうな勢いだな。


 数日して、ハカセくんの資料がまとまったということなので、会議室でミーティングを開いた。

「みんな、時間移動技術会議、第一回目よ。いよいよタイムマシンを作るわよ」

「涼宮姉さん、まだ気が早すぎます。まずは時間移動理論を確立しないと」

「えへへ、分かってるわよ」

「ええと、まず、時間と空間の関係について説明します」

パネラーはハカセくん、議事録は俺だ。ハカセくんはホワイトボードに“Space Time Composition”と、サラサラと筆記体で書いた。

「時間とは一直線上に繋がっているわけではなく、一枚ずつの絵が繋がっているようなものだというのがこの理論です。アニメのフィルムを思い浮かべてください。三次元の立体の奥行きを省略したのが、この重なっている絵です」

ホワイトボードには、アニメのセルが横に重ねられたような図が描かれていた。前に朝比奈さんにも聞かされたことがある。

「この一枚一枚のコマは、実はつながりはありません。そこで起る現象はそれぞれ切り離されています。それぞれのコマの間隔は時間の最小単位である一プランク秒になります」

プランク秒がどれくらいの時間なのか分からないが、きっとうんとうんと短い時間なのだろう。朝比奈さんを見るとうんうんとうなずいたり、たまに首をかしげたりしていた。この理論は名前からして朝比奈さんの時間移動技術と同じはずなんだが、これがこのままTPDDに発展するんだろうか。

 俺が眉間みけんに指を当ててもんでいると、ハカセくんが心配した。

「分かりづらいですか」

「いや、気にするな。俺は時間論を考える能力がミジンコ並みなんだ」

「じゃあミジンコにも分かる別の切り口でご説明します」

な、なにげにひどい表現じゃないかそれ。

「ここにトランプがあるとします。Aからキングまで並んだ十三枚のカードを思い浮かべてください。一枚ずつの絵柄は違っていますが、数字だけは一ずつプラスされて繋がっています。この繋がりを切り離してみるとどうなるでしょうか」

どうなるんだろう?

「5のカードから8のカードまでを取り除いて、4と9のカードを隣同士にします。トランプの中にいる人がAから4までの時間を進んで、突然9の時間にジャンプしました。自分が現在いるカードの次のカードが、予定を飛び越えて別のカードになっている状態、これが時間移動です」

なるほど。俺たちが住んでいる時間をカードの数字に置き換えたのか。分かったような分からないような、でもなんとなく分かった。

「では4のカードの次にAを持ってきたらどうなるでしょうか」

「過去に飛ぶのか」

「そうです。これが過去への時間移動です。ジャンプした先のAからは、2、3と続く時間の流れが存在します。要は4の次にAが来ているだけで、カードの並びを動かすことで過去に行っているように見えるんです。これが時間平面理論です」

「すごいわハカセくん、すごくシンプルで分かりやすい理論ね」

ハルヒがぱちぱちと拍手していた。朝比奈さんもうんうんとうなずいていた。どうやらこの理論は朝比奈さんのテストに合格したようだ。


「ありがとうございます。この時間平面カードの並びを壊す理論を、タイムブレーン・デストロイド理論と呼ぼうと思います」

「え……」

朝比奈さんと俺が耳を疑った。

「ブレーンではなくてプレインのはずじゃ?」

「いえ、ブレーンはmembrane、膜の意味です。平面というよりは次元を巻き上げた膜と考えるほうがいいかと思ったので」

ハカセくんは二人の頭のまわりに漂っているクエスチョンマークに気がつかないまま話を進めた。

「では、どのように時間平面カードの並びを変えるかですが、」

ほうほう、実際にやれるのか。

「今のところ説得力のある理屈はありません」

ハルヒはがっくりと肩を落とした。俺も肩透かたすかしを食らって笑った。

「あー、理論まではいいところまで行っていたのに。ぜんぜん手はないの?」

「ええと、まだ実験段階なんですが、」

「それよそれ!実験段階のやつを見せて」

ハルヒがまた目をキラキラさせはじめた。ハカセくんは困りましたねという感じで長門を見た。ハカセくんもだんだんハルヒという生き物が分かってきたようだな。

「ええと、まだ成功率がすごく低くてもしかしてなにも起らないかもしれませんが」

「それでもいいのよ、どんな新しい発明にも失敗はつきものだわ」

長門がうなずいたので、ハカセくんはちょっと待っててくださいといってゴソゴソと機材を用意しはじめた。いったいなにをやらかすつもりなんだろう。ハルヒのエネルギーが俺にも二ミリグラムほど伝染したのか、自分でもワクワクを抑えきれない。

「お待たせしました」

ハカセくんが抱えていたのは亀の水槽だった。え、これで実験するの?

「もしかして動物実験か?」

「ええ。でも心配しないでください、解剖したり脳に電極を繋いだりはしません」

ま、まあそうだろうとは思ったけど。ハカセくんは水槽をテーブルの上に載せた。

「では実験を開始します」

「ハカセくん待って。キョン、念のためビデオカメラを回してちょうだい。成功したら世紀の映像になるかもしれないわ」

はいはい。そんな簡単にスクープ映像が撮れたらワイドショーは廃業しちまうぜ。カメラが回り始めてハルヒが拍手しようとしたらハカセくんに注意された。

「実験中はお静かにお願いします。実験体の気が散りますので」

「えへ、ごめん」

ハルヒはペコちゃんのようにぺろりと舌を出してみせた。

「まずこの亀をテーブルの上に置きます」

亀は持ち上げられて一度首を引っ込めたが、テーブルの上に置かれてゆっくりと首と足を伸ばした。ハカセくんはストップウォッチで時間を計っていた。

「五分経過しました。ここでエサをひとつ置きます」

亀の鼻先から三十センチくらい離れたところにエサをひとつ置くと、のそのそと前後の足を動かして重い甲羅こうらをえっちらおっちらと運んだ。エサのところまで鼻先が届くと、さらに首を伸ばしてエサに食いついた。

「再び同じことを繰り返します」

ハカセくんはそう言って亀を元の位置に戻し、五分後にエサを置くと、亀はまたってエサを丸飲みした。


「また同じことを繰り返します」

「ねえ、いつまでこれやるの?」

ハルヒがそう言ったのは、最初のエサから数えて十回目だった。腹がふくれたのか、亀もそろそろ動きも鈍くなってきている。

「すいません。うまくいくのが二十~三十回くらいやってやっと一回ってところなんです。そのうちに亀の食欲もなくなってきて失敗に終わることも」

「うーん……」

ハルヒは腕組みをして亀をにらんだ。いいかげん飽きてきたようだな。

「朝比奈さんにやってもらったらどうだろう?」

「え、わたしが?」

「この亀、朝比奈さんのこと好きみたいですし」

「ま、またそんな」

好きという言葉に過剰かじょうに反応する朝比奈さんはかわいかったが、相手が爬虫類はちゅうるいじゃどうしようもないよな。もう三億年くらい待てば直立ちょくりつ歩行するようになるかもしれんが。

「ウサギのお姉さん、お願いします」

言われて朝比奈さんはしぶしぶ、さっきと同じことを繰り返した。亀の位置を戻し、腕時計で五分計ってエサを与えればいいだけだ。

 時間を計り始めて二分くらい経ったときだろうか、異変が起った。俺はあくびをかみ殺すのに必死で、ちょうど涙目になっていて起ったことをよく見ていなかった。亀が突然消えたのだ。

「おい、消えたぞ」

「あらっ」

カメラは回っている。十二の瞳全部がその様子を見ている。俺とハルヒが口をあんぐりあけて、亀がいた空間を見ていると、二分ほどしてハカセくんが口を開いた。

「そろそろ五分なのでエサを置いてもらえますか」

「あ、はいはい」

朝比奈さんも呆然ぼうぜんとしていたらしく、慌てて持っていたエサを置いた。次の瞬間、亀が現れた。


 これはいったい、なにごとが起ったのか。

「今の実験についてご説明します」

目の前で起った出来事がショックで、脳内がアナフィラキシーを起こしたように呆然ぼうぜんとしていた。ハカセくんのその説明とやらは俺の右の耳から入って左の耳に抜けていったかもしれない。

「まず、亀に、テーブルに置かれて五分後にエサが与えられるという条件を教え込みます。延々繰り返したのはパブロフの条件反射のようなものを亀の意識に刷り込むためです」

ハカセくんはボードに、饅頭まんじゅうに足が生えたような亀の絵を描いた。

「五分という時間が亀の意識に達した時点で、エサが与えられるのを待てなくなり、数分先の時間平面に移動しました」

なんという大胆だいたんな実証実験だ。物理学と生物学を根底からくつがえすぞ。朝比奈さんが拍手をしたので俺も拍手した。どうやったらこんなことができるのかと長門を見たが、なにも反応はなかった。

「ハカセくん、あんたすごいわ。ノーベル賞ものよ」

やっと口を開いたハルヒが亀をなでていた。亀はイヤイヤをして甲羅こうらの中に引っ込んだ。

「ありがとうございます。でも、亀がどうやって時間平面を超えているのか、どれくらいの長さの時間を超えられるのか、まだ不明な点が多くて」

「目の前でタイムトラベルを見たんだから、これはもう世紀の発見よ。亀の背中にでも乗って行けそうな気がしてきたわ」

お前は浦島太郎か。

「ハルヒ、まだマスコミにネタを売ったりするなよ」

「そんなケチなことしないわよ。みんな、タイムマシンが完成するまでは社外秘しゃがいひだからね」


 それから三十分くらい実験を繰り返したのだが、亀が時間を超えたのを見たのは一度きりだった。ハルヒが亀をなだめたりすかしたりして再現させようとしていたが、首を引っ込めたまま動こうとしない。さすがにエサを与えすぎて食欲がなくなったらしい。

「うーん、みんなおつかれ。今日はここまでにしましょう」

ういーっす、と各々おのおのつぶやき帰り支度をしていた。

「あ、朝比奈さん」

俺は帰りに朝比奈さんを誘うことにした。ようやく実験に道が開けたので、今後の展開で聞いておきたいことがあった。

「帰りにちょっと付き合いませんか。飯おごりますよ」

「え、ほんとに?嬉しいわ」

「キョン、みくるちゃんを悪の道に誘っちゃだめよ」

人聞き悪い、お前じゃあるまいし拉致らちしたりコスプレさせたりしねーよ。


 俺と長門と朝比奈さんは近所のファミレスに入った。さっきの実験はどうも気になる。本当に成功したのか。長門に聞こうとしたときやたら目をそらしていたのが気になる。

「長門、もしかして実験でなにか細工したか?」

「……した」

「あら、そうだったの!?」

「なにをやったんだ?まさか長門自身でタイムマシンを作っちまったんじゃ」

「……違う。わたしは亀を隠して、五分後に戻しただけ」

「なんてこった。それじゃあの亀はタイムトラベルしたわけじゃなかったんだ」

「……人の記憶の中で時間的連続性が途絶とだえた。時間移動とは、そういうもの」

そうなのか。でもそれがどう時間移動技術に繋がるんだろうか。

「じゃあ俺が目をつぶったときお前が消えたとして、再び目を開けたときにそこにいたらそれも時間移動?」

別に茶化ちゃかしてるつもりはなかったんだが、長門は難しい顔をしていた。どうも俺の例えは飛躍ひやくしすぎているらしい。朝比奈さんがそれを聞いて考え込んでいた。

「ある意味それは正しいと言えます。STC理論は論文として表現できるようなものではなくて、どちらかというと概念に近い存在なの。つまり、」

言葉を区切り朝比奈さんは自分のこめかみを指差した。

「意識の中に直結しているの」

「亀の実験とどう繋がるんです?」

「亀には亀の、人には人の時間を感じる部分があって、その能力を拡張して時間平面を超えるの」

「そりゃすごい。念じればなんとかなるもんなんですか」

「いいえ、それだけではないの。亀には時間平面を操作する能力があるけど、わたしたちにはないわ。わたしたちの時間移動は、生物学的な時間移動に電子工学的な時間平面技術を組み合わせているの」

ええと混乱してきた。生物学的ってのは動物が元から持っている時間感覚だろう。それに電子工学をプラスするってことは、機械かコンピュータなんかに助けてもらうってことか。

「じゃあこのままいくと、ハカセくんの理論とは別にもうひとつ必要になるわけですか」

「そう。人の時間移動能力は動物と違ってとても弱いから、別の方法で時間を分割してやらないといけないのね。ハカセくんが言っていた、時間をトランプのカードのように分割する技術が必要なの」

なるほど、バイオテクノロジーにエレクトロニクスが組み合わさってできたのがTPDDなのか。エレクトロニクスのほうはまだこれからって感じだな。

「人が時間を感じる部分ってどうやって使うんですか」

「ええと、具体的に言うと『禁則事項』で、生まれてから時間を感じる部分が生成されるまでは『禁則事項』の過程をたどって、だいたい十五歳くらいまでに『禁則事項』が『禁則事項』するの」

分かりました、もういいですから。という顔をすると朝比奈さんは首をかしげた。

「分かりづらかったかしら」

「いえ、だいたいが禁則事項みたいです」

「あらやだ」

調子に乗ってしゃべっていたつもりの朝比奈さんは自分に禁則がかかっていることを知らなかったらしく、それに気がついて赤くなった。

「ごめんなさい、ぜんぜん気がつかなかったわ。ちゃんとしゃべってるつもりだったのに」

たぶんその禁則事項とやらも俺たちで開発しないといけないテクノロジーなんですね。

「やっぱり説明のしようがないのかもしれないわ」

「……わたしが説明する」

「え、いいのか」

「既定事項を壊してしまわないかしら」朝比奈さんが不安そうな顔をした。

「……この三人の記憶に留まるだけなら問題ない。理論の確立に直接関わっているのはわたしだけ」

「聞かせてくれ」

長門は一息吸って、時間移動理論とやらの言語化をはじめた。

「……基本的には亀と同じ。でも人の脳は亀と違って、時間遡行そこうしかできない。人間のニューラルネットワークを走るパルスと、その認識には時間的なズレがある。平均して〇・五秒。それだけあれば時間平面を超えるには十分」

えーと、ちょっとまた頭痛がしてきた。もっと噛み砕いて教えてくれないか。

「……まず、脳内の神経細胞に電気的な信号が発生したとする。意識がその信号を認識するには〇・五秒かかる。でも意識はその〇・五秒をさかのぼって信号を認識することができる。これが、意識の時間遡行そこう

「つまりだ、やかんが熱いと感じて手を引っ込めた場合、神経が熱さを感じて脳が認識するまでに〇・五秒かかるが、意識はその〇・五秒間をさかのぼって認識するということか」

「……それは脊髄反射せきずいはんしゃ。大脳の機能とは別」

「えーとじゃあ、目に映った映像が脳に伝わって、それがなんであるか認識するまでに〇・五秒かかるが、意識はその〇・五秒間をさかのぼって見ているということか」

「……そう、近い」

俺の例えがやや的外まとはずれだったようで、長門は首をかしげていた。そんな俺のために朝比奈さんがまとめてくれた。

「たぶん神経から伝わる感覚情報ではなくて、純粋に脳の中にある情報の流れに時間逆行的なズレがある、ということでしょうね」

「……そう。人間の脳は、ときとして光速を超える」

なるほど。脳みそに羽が生えて空を飛んでるシーンを想像するほかなかったが、分かったような分からないような。ともかく俺の脳ってすごいことやってんだな。

「その〇・五秒の情報のタイムトラベルは、頭の中でいつもやってるってことなのね」

「……そう。そこに時間平面分割技術を融合ゆうごうさせると、時間移動が可能になる」

「時間遡行そこうってことは、過去にしかいけないってことにならないか」

「……時間平面カードの並びを変えてやればいい」

「そうね。未来のカードを自分がいるカードの一枚後ろに置いてやれば未来にも行けるわ。つまり、未来に行ってるように見えて、実際は〇・五秒の過去に行っているということ」

俺は右手のグーで左の手のひらをポンと叩いた。やっと分かってきた。これはすごい理論かもしれないな。説明している朝比奈さんの顔も輝いた。

「やっと理解できたわ。自分がどうやって時間移動してるのか、ずっと疑問だったの」

それってクマバチが航空力学こうくうりきがく的には飛べないはずなのに、自分が飛べないことを知らないから飛べているという学説に似てなくもないな。

「ずっと言語化できないと思ってたんだけど、さすがは長門さんね」

「……これはただの基礎理論。意識と体が時間平面を超える理論の言語化は、無理」


 物理が苦手な俺のためにおさらいをしよう。

 脳は元々、ある情報をたどって〇・五秒前の世界を見る能力を持っている。本人が気付かなくても日常的にそれを発揮はっきしている。そこで時間平面を動かす技術を使って、並んでいるカードの順番を変えてやれば、あら不思議、過去の世界を見ているはずが未来のカードを見ていたよ、ということだ。カードの並びを変えれば、十年過去でも十年未来でも見ることができる。ということだよな。ちょっと不安だが。

「キョンくんにしては分かりやすい説明だわ」

朝比奈さん、あなたも俺のセリフのまねをするんですか。


 おぼろげながら、どうやって時間移動を実現するか見えてきたようだ。これはひとえに長門の指導による賜物たまものだが、それを検証している朝比奈さんの協力もあってのことだ。もしかしたらこの会社はほんとうに世紀の大発明をやるのかもしれない。そんな気がしてきた。


 翌営業日の夕方、ハルヒが実験室の床をうろうろとっていた。もしかしてお前も時間移動したくて亀になろうってのか。

「バカね、ちがうわよ。亀ちゃんがいなくなったから探してるのよ」

水槽を見たがいなかった。あれがいないと実験できなくなるな。一緒に探している長門に聞いてみたが、本当にいなくなったらしい。

「こないだエサやりすぎて腹壊して逃げてしまったんじゃないのか」

「今朝まではいたのよ。どうでもいい冗談言ってないで、あんたも探しなさい」

いるはずがない机の引出し、ロッカーの裏、天井裏まで一時間くらい探したが、どこにもいない。あの足じゃ、そんな遠くまで行けるとは思えないんだが。

「しょうがないわね。キョン、ゼニガメを買ってきなさい」

「今日はハカセくん来ないから、明日でもいいだろう」

「いいから行ってきなさいよ。交通費と亀代は経費で出してあげるから」

その経費は俺たちが汗水たらして働いて得た金なんだが。やれやれ、俺は相変わらずハルヒのパシリか。散歩のつもりで行ってくるとするか。

「じゃ行ってくるわ」

俺がネクタイをゆるめて背広を羽織はおると、長門が自分も行くと言い出した。そんなに遠くじゃないし別に気を使わなくていいぞと言ったのだが、無言でロッカーからダッフルコートを出してきた。

「今日は晴れてるし、ダッフルコートは暑くないか?」

「……」

まだ十月だし、そんな厚着をするほど寒いってこともないと思うんだが、もしかして最近の長門は冷え性なのか。


 前に買ったホームセンターは、どっちかというと直線距離で北口駅と光陽園こうようえん駅の真中くらいにあって、ここからだと電車に乗るのは中途半端な距離だ。まあ歩くしかないだろう。駅前にも小さなペットショップがあるにはあるんだが、あのゼニガメが時間移動技術に関わっているとしたら、もしかしたら遺伝子の系統とか育った環境が関係あるのかもしれない。そんな遺伝が本当にあるのかどうかは知らないが。

 俺は長門と連れ立って、てくてくと歩いた。ホームセンターは俺たちが映画の撮影をした池のすぐそばにある。北口から歩いて二十分くらいか。古泉に車を借りればよかったな。


 ホームセンターのペットコーナーは熱帯魚の水槽が若干増えたくらいで、六年前とさして変わっていなかった。ケージの犬猫は少なかったが、夏休みに売れ残ったらしいカブトムシのケースとエサの飼育セットがまだ小積こづんであった。夏場は家族連れで賑わったことだろう。

「さて、ゼニガメはどこかな」

亀は熱帯魚の水槽が並んでいる隅に追いやられていた。数年でこの待遇たいぐうの変わりようときたら、時代の流れを感じるね。ミドリガメのほうが多い気がする。勢力バランスも変ったようだ。

「すいません、ゼニガメください」

レジのほうに呼びかけると、アナウンスが流れてペット担当の人が現れた。やや、六年前と同じ人だぞ。まだいたのか。あのときは大学生らしき青年だったが、そのまま十歳くらいプラスしたようなじゅんおっさんが出てきた。ケースやらエサやらをサービスしてくれてやたら親切だったのを覚えている。

「いつぞやはどうも」

と言ってはみたが、覚えているはずもなかろう。

「お客さん、知り合いでしたっけ」

「六年くらい前にゼニガメを買いに来たんですが、覚えてらっしゃらないかもしれません」

おっさんはしばらくうーんとうなっていたが、結局思い出せないらしい。そりゃそうだ。

「それで、そのときのゼニガメってまだ生きてるの?」

「ええ、元気に生きてますよ。ふたまわりくらい大きくなりました」

今朝行方不明になりましたとはとてもいえなかったが。

「そりゃあなによりだね。カメってやつは長生きするからね。亀は万年って言うし、はっはは」

この人はまだ腹は出ていないが、腹をゆすって笑った。

「大きなゼニガメっていますか」

「え、大きいのがいいの?」

「今飼っているやつが淋しそうなんで友達を作ってやりたくて」

亀に友達って俺はガキかと思ったが、ほかに説明を思いつかなかった。

「うーん。大きなゼニガメは置いてないね。これを育てて大きくするんじゃだめなの?」

「できれば大きいやつが……」

そこまででかいやつにこだわるなら川にでも飛び込んで捕まえろ、とでも言われそうな気がする。

「……これ、欲しい」

ずっと黙っていた長門がゼニガメを指差した。

「それでいいのか?」

「……これでいい」

もしかして長門バイオテクノロジーで促成栽培そくせいさいばいさせる気じゃあるまいな。まあ小さくても亀は亀、なんとかなるだろう。

「じゃあこれ一匹ください。小さいケースとエサも」

「まいどあり」

六年前と同じようにケースに砂利じゃりを入れてもらい、今回はエサの代金もちゃんと払った。おっさんはニコニコ笑顔で、亀によろしく、と言った。ええ伝えます、残念ながらどこかで餓死がししてるかもしれませんが。


「どっか寄って帰るか?」

だいぶ時間が余ったので、このまま帰っちまうのもなんだなと思い長門に聞いた。

「……行きたいところがある」

「いいよ。時間あるし」

長門は少しだけうなずいて先を歩いた。図書館か本屋だろうと思ったのだが、そこから二十分くらいかけて祝川しゅくがわ駅に向かった。電車で行くのか。


 日も暮れかかり吹きぬける風がそろそろ冷たくなってきた駅のホームで、膝の上に亀のケースを載せてじっと電車を待った。甘いものを食って帰りたい気分だ。

善哉ぜんざいでも食って帰らないか。北口駅前に新しく甘味処かんみどころができたらしいぜ。あんみつでもいい」

「……そう」

 俺はあんまり甘いのを欲しがるたちではないんだが、疲れてるのかななどと考えつつベンチに持たれていると、どこからか地響きがしてきた。ダンプでも通りがかったのかと思ったがそうではない。聞こえてくるのははるか路線の下りの方角だった。

「な、なんだあの音」

空自の戦闘機でもあんな音はしないぞ。戦車でもないし、あれはどっちかというともっとのどかな、古き良き日本の風景を思い出させるような……ってなに悠長ゆうちょうなこと言ってんだ俺は。遠くで汽笛が鳴った。え、汽笛?

 俺がケースを抱えたまま音の主を探してキョロキョロしていると、長門がベンチからスクと立ち上がった。

「な、長門、あれはいったい何だ?」

長門はなにも答えず、ホームの床に書かれた乗り口の矢印の前でピタリと止まった。

 ホームから西を見ると汽笛の主は、モクモクと黒い煙を吐き、白い蒸気を漏らしながら走ってくる蒸気機関車だった。な、なに考えてんですか、蒸気機関車つったら山口とか北陸とか磐梯会津ばんだいあいづとか、それもシーズン中に走るだけでしょうが。

「長門、なにやってんだ、蒸気で蒸し焼きになっちまうぞ」

「……」

長門は俺に向かって、猫のように手招きをするだけだった。

 轟音ごうおんを響かせながらホームに入ってきた機関車は、砂をかませてレールをきしませながらどっこいしょという感じで止まった。機関車もだが客車もえらく古い、長門は木製のドアを手で押して開けている。それ、手動かよ。

「……乗って」

乗ってって、こいつどこに行くんですか。もしかして行き先に天国行き片道とか書いてませんか。長門が何度も手招きするので足が勝手にギクギクと動いて客車に入った。客室に入ると、なんだか、ずっと前にかいだ記憶があるような、油の匂いがする。床も木製、シートは青い布張りに木製の枠。

 長門は車両の真中あたりのシートにすとっと座った。俺も亀を抱えたまま、向かい側に座った。長門に問い掛ける視線を送ってみるがなにも答えず、窓の外を見ている。

 俺、いったいどこに連れて行かれるんだろう。落ち着け俺、よく考えろ、この状況は前にも、いや一度も似たような経験はない。ここは閉鎖空間へいさくうかんではないし、平行世界でもない。まわりを見回してみたが、客は俺たち以外誰も乗っていない。これは本当に天国行きなのか。俺は今の自分にとって最も身近に感じる亀入りケースをぐっと抱きしめた。亀よ、俺の正気を保つにはお前だけが頼りだ。

 オロオロと考えをめぐらせていると汽笛が鳴って、客車がガクンと揺れて動き出した。びついた連結器れんけつきこすれる音をさせながら、機関車はゆっくりと力強く俺たちを引き始めた。

 長門がやっと俺のほうを向いた。

「……いつか、あなたと旅をしたかった」

それにしちゃあこんな唐突とうとつに、しかも時代錯誤さくごはなはだしい石炭をいて走る列車にしなくても、と思ったが、そうだな、確かに長門を旅行に連れて行ったことが一度もない。それにしてもこの古めかしい車両なんかで……、いや、もうよそう。どうせすぐだ、五分とかからん。これはたぶん、長門のちょっとした遊びなのだ。


 窓の外は蒸気の名残を残しつつホームを離れ、町の風景に変わっていった。長門は窓際の小さいテーブルにひじを乗せ、窓の外を見ている。これはいい絵だ。

「それにしてもSLってのは迫力あるな」

「C56形、一九三五年より一九三九年まで、百六十台が製造されたうちの一台」

もしかして長門は鉄ちゃんなのか。

「……そうでもない」

ミリタリヲタだったり鉄ヲタだったり、いろいろ趣味があんのな。俺より多趣味かもしれん。

 俺もまねをして窓の外を見ていたのだが、流れる風景を見るにつけてだんだん不安になってきた。たった今、北口駅の看板が駿足しゅんそくで走っていったぞ。

「長門、北口通り過ぎたんじゃないのか」

「……そう」

「もしかしてこれ超特急ですか」

「……落ち着いて」

「はい。落ち着いた」

特急が止まるはずの北口駅を走り抜けたってことは終点まで行ってしまいそうだよな。まあいい、そこで降りて折り返せばいいだろう。しかし私鉄のこの路線でSLが走るなんて前代未聞だぜ。駅員も客もぜんぜん驚いた顔をしてなかったが、あれが現代人の無関心ってやつか。

 北口駅からさらに駅をひとつ飛ばして、なぜか列車は下り坂にさしかかった。え?窓の外を見るといきなり壁が迫ってきて真っ暗になった。おいおいこんなところにトンネルがあるなんて聞いてねーよ。もしかして地下乗り入れか!?ってこの路線の地下化は数年先の話だろう。窓ガラスに、長門のなんでもないよという表情の顔が映りこんでいて、俺と目が合った。なんだか笑ってるような気もする。

 ゴトゴトとレールの継ぎ目を車輪がまたぐ音がリズミカルに聞こえ、窓ガラスがガタガタと揺れた。上を見上げるとぼんやりと明かりが灯っていた。蛍光灯じゃなくて、で、電球ですか。えらく懐古かいこ趣味だな。


 窓の外のトンネルはまだ終わらない。このまま行けば隣の県にまで達してしまいそうだ。

「長門、なんだか寒くないか。この車両暖房効いてるのかな」

「……暖房は、ついていない」

俺は凍えそうだよ。長門がダッフルコートを着てるのはそれでだったのか。窓に息を吹きかけると白く広がった。急激に室温が下がっていた。


 県境けんざかいの長いトンネルを抜けると……雪国だった。脳の底が白くなった。信号所を過ぎたあたりで思考が止まった。もう驚かねえ。これはなにかの夢なんだ。随分昔に見た映画が俺の夢の中で再現されてるだけなんだ。俺は急に風景が変わった窓の外を凝視ぎょうしして、目をこすった。列車は森の中を走っていた。杉の木の上に降り積もった雪がこんもりと丸く固まり、機関車の巻き起こす蒸気と風で地面に落ちてゆく。木の枝が窓のそばまで迫っては離れていった。前の車両から汽笛が淋しく聞こえてくる。

「そろそろ教えてくれないか。どこへ行く気なんだ」

「……未来へ」

「この機関車で?」

「……これは時間移動している」

なんと、石炭で走るタイムマシンなのか。デロリアンよりローテクノロジーだな。

 俺が寒さでガタガタ震えていると、長門が立ち上がってダッフルコートを脱いだ。いいって、お前が寒いだろと言おうとしたのだが、コートをシートの背もたれにかけて右手を上げて詠唱した。カシミヤのコートが一枚の毛布に変わった。なるほど。

 長門は毛布を二人の肩にかけて、隣に寄り添った。これは暖かい。

「ありがとよ」

「……」

俺は長門の肩を抱き寄せた。そういえばこんなふうに二人だけでいる時間が、このところなかったよな。


 外を見ると、森を抜けて平地を走っていた。見渡す限りの大雪原だった。ゆるいカーブを描いて盛り上がった白い大地の上に、葉が落ちて裸になった木々が針のように伸びていた。うす曇りの天から舞い降りた雪がどんどん後ろに流れていく。

「なあ長門」

「……なに」

「古泉が言ってたことがあるんだが、この世界って誰かが見ている夢みたいなものかもしれんな」

「……」

 俺たちの乗った列車は、いくつかの丘を越え、いくつかの鉄橋を越え、それからいくつかのトンネルを抜けた。毛布一枚を分け合う俺たちは互いの体温をいとしいばかりに感じあい、うとうとと眠りについた。列車の心地よい揺れに合わせて、夢の中の俺も揺れた。俺たちいったいどこまで行くんだろう。ずっと二人でいられるんだろうか。それとも、たいていの男と女がするように心変わりするんだろうか。居眠りしながらこんなふうに未来を案じたことを、二人でしみじみと話す日が来るんだろうか。

 この列車がたどり着く先に、もしかしたら未来の俺たちがいるのかもしれない。長門は相変わらず本を読んでいて、その隣でうたたねしている俺がいるのかもしれない。ときどき聞こえてくる汽笛の音に目を覚まされつつ、ぼんやりと二人の行く末を考えていた。


「……起きて」

どれくらい眠っていたのだろう、長門の声で目が覚めた。列車の揺れもレールのきしみも止まっていた。

「着いたのか」

「……そう」

ここはいったいどこだろう。窓の外を見たが、あいかわらずの雪景色だった。俺は旅は道連れとなった亀を大事に抱え、毛布から元の姿に戻ったらしいダッフルコートを着た長門の後についていった。俺と長門の体温を残した青いシートをふりかえると、なぜか名残惜なごりおしく感じた。

 木のドアを開けると冷気が入り込んできて俺はぶるっと震えた。ホームに降りると、厚く積もった雪の上に足跡が深く刻まれた。革靴かわぐつの外から雪に温度を吸い取られて、足が冷たかった。

 機関車はモクモクと黒い煙と蒸気を吐いていた。いったい誰が運転してるんだろうかと機関室を覗こうとしたが、汽笛が鳴った。そろそろ出発の時間らしい。

「行っちゃうけど、いいのか」

「……いい」

 ゆっくりと、雪に埋もれたレールをき分けながら機関車は動き始めた。蒸気を吐き吐き、自らの重い鉄の塊を前に押し進めていく。大きな駆動輪に繋がったシャフトが前に後ろに動き、雪のホームを離れていった。ゆっくりと滑り出て行くほかの客室にも人は乗っていなかった。列車はやがて音と共に小さくなり、地平線の向こうに消え、遠くで物悲しく汽笛が響いた。あとには静寂せいじゃくだけが残った。

「行ってしまったな」

一面が白い風景の中、亀入りケースを抱えた野郎と小柄な女の子がポツリとホームにたたずんでいる。そのホームも降り積もる雪に白くおおわれている。

「ここ、なにもないけどどうするんだ?」

「……人を待っている」

こんななにもない場所で誰か迎えに来るのかな。


 雪の向こうから人の影がこっちに歩いてくる。小さな蒸気機関車のようにはっはっと白い息を切らしつつ、雪をき分けて進んでいる。

「キョンくん、長門さーん、やっと会えたんだぁ」

「あれれ、朝比奈さんですか?」

額に汗を濡らし、顔を真っ赤にしながら朝比奈さんがやってきた。かき分ける雪が深くてなかなか進まない。頭に毛糸の帽子を被り、赤い半纏はんてんを着ている。履いているのはモンペに雪靴ですか。そのコスプレは渋すぎますよ。

「会いたかったぁ」

朝比奈さんは俺と長門に抱きついた。さっき会ったばっかりなのにこの感動の再会は、っていったいいつの時代の朝比奈さんなんでしょうか。どっちかというと朝比奈さん(小)っぽい感じがするんですが。

「随分待ったのよ。あの機関車って三ヵ月に一本しか来ないんだから」

「あんまり便利そうじゃないタイムマシンですね」

「うふふ。時間移動列車はレトロ趣味と鉄道ヲタクの人向けなのよ」

どうりでやたら古くさい客車でしたよ、暖房ないし。

 朝比奈さんは思い出したように半纏はんてんそでを振って見せた。

「どうかしらこのレトロ雪国スタイル」

レトロというか、俺たちの時代の北国ならふつーにいると思いますけど、似合ってます。

「寒いでしょう、気象コントロールのせいでこのところ雪が続いてね。とにかくうちに行きましょう」

「気象コントロールって、未来では人工的に雪を降らせてるんですか」

「そうよ。来月から地上で冬季オリンピックがあるの」

なーんだそういうことか、はっはっは。よく分からないまま俺と長門は朝比奈さんの後についていった。

 ホームのあった場所が見えなくなってからさらに三十分くらい歩いたところ、雪の中にぽつりとドアが立っていた。ドアというよりエレベータの箱っぽいんだが。朝比奈さんが手をかざすとそれは開いた。

「二人とも乗って」

なんか前にも似たようなシーンに出くわした覚えがないでもないですが。このエレベータはまったく揺れなかった。ボタンらしいものもなく、右上に赤いカウンタがついているだけだった。あれはもしかして深度表示か。三十秒ほどするとカウンタが二〇〇になり、まさか二百メートルの地下じゃなかろうなと思ったらやっぱりそうらしい。ドアが開き、そこにあったのは超巨大空間だった。天井に青空の映像が映っている。

「うおあああ」

思わず声を上げてしまった。町ひとつくらいは軽く入りそうな空間がそこにあった。

「未来では地下に住むのが流行ってるんですか」

「地上は少し前の時代まで汚染されてたの。自然を保全するためにわたしたちは地下に潜った。地上に建物を建てるのは禁止されてるの」

なるほど。それは賢い選択かもしれない。

「こっちよ、迷子にならないでね」

朝比奈さんは野菜を栽培してるっぽい畑を抜けて、水の流れる公園を抜け、さらにいくつもの建物を抜け、自宅らしき集合住宅に案内した。何で出来てるのだろうか、建物はセメントではなく、硬いけど滑らかな材質だった。ドアがいくつも並んでいて、こりゃワンルームのアパートくらいの部屋だろうなと思わせるくらいに密集していた。地下に住んでるとなりゃ、一人あたりの使える面積は当然せまくなるだろう。

 道々みちみちに地元住民らしい人々を見かけたが、特に未来人らしい格好はしてなかった。服装はシンプルにはなっているようだが、たいして変わらないらしい。てっきりスピードスケートの選手が着るような上下ぴったりのトレーニングウェアみたいなやつかと思っていた。

 朝比奈さんがドアに片手を触れると、すうっとドアが消えた。

「さあ、入って。わたしの部屋よ」

「おじゃましま……」

入ってみて、こりゃたまげた。部屋の広さと、ドアと隣のドアの隙間を見比べた。この広さは物理的におかしい。どう考えても隣のドアを抜けちまってる。何度もドアの外と内側を見比べていると、朝比奈さんがクスクス笑っていた。長門も口のはしで笑っている。

「……これは、空間を閉じ込める技術」

なるほど、外からの見た目より中のほうが広くできるんだな。これは土地の狭い日本ならではの技術かもしれん。

「ともかく入って、お腹すいたでしょう?」

俺は靴を脱いで入った。なんだか妙に懐かしい感じがする。

「もしかしてこれ、長門んちと同じ間取りですか」

「そうそう、長門さんのマンションと同じね。いつもは壁と間仕切まじきりがないんだけど、二人が来るから今朝模様替えしたの」

なるほど、間取まどりを自在に変更できるんですね。実にうらやましい。俺はリビングに案内され、こたつに座って足を突っ込んだら床がへこんでいた。掘りごたつですかこれ。

「いまお茶を入れますからぁ、ゆっくりしてね」

朝比奈さんはスリッパの音をぱたぱたさせてキッチンへ消えた。二人で部屋を見回した。花が飾られ、絵が掛けられ、長門の部屋よりずっと女の子らしい装飾をしている。花柄のカーテン、窓には、たぶん立体映像だろうけど和風の庭園っぽい風景が見えていた。ちょろちょろと水の流れる音も聞こえる。

「いいところに住んでますね」

「そう?ありがと」

朝比奈さんは嬉しそうだった。

「あのじくは朝比奈さんが書いたんですか?」

毛筆で書かれた、縦一メートルくらいのじくが壁に飾ってあった。この人は元は書道部だったよな。

「え、あれって確かキョンくんが書いてくれたんじゃ」

年賀状を書くのすら筆を握ったことがない俺がですか?そうでしたっけ。

「いつ頃の話ですか?」

「ええっと……。ずいぶん前」

「ぜんぜん記憶にありません。長門は覚えてるか?」

それまで黙っていた長門がじくを読み始めた。


 八田やた一本菅ひともすげは 子持たず 立ちか荒れなむ あたら菅原

 ことをこそ 菅原と言はめ あたらすが


「……これは、あなたがんだ和歌」

長門はなんだか、いつもは見せないような照れたようなはにかんだような表情で俺のそでを指先でちまっとつかんだ。


「……お土産」

長門が思い出したように亀の入ったケースを差し出した。

「え、亀さんくれるの?」

「……これと交換して」

「あ、そういうことかぁ。ちょっと待っててね」

朝比奈さんはバスルームから大きなバケツを抱えてきた。

「この亀さん、昨日いきなり部屋に現れたのよ。もうびっくりしちゃって」

「あれれ。これって、ハカセくんの亀じゃないですか。なんでこんなところに」

「やっぱりこれ、あの亀?」

「そうみたいです。今日、というか俺たちのいた時間で会社から消えてしまって」

「会社?キョンくんって今は会社員なの?」

まずい。禁則事項の予感がするぞ。

「朝比奈さんはいつの朝比奈さんなんです?つまり、俺が北高を卒業して大学に入ってハルヒが会社作って、」

「涼宮さん社長なんだ、すごいわぁ」

ということは今俺たちのところに出張して来ている朝比奈さんより以前の朝比奈さんってことか。

「ええと、白雪姫の話をしてくれました?」

「白雪姫?そんな話したかしら?」

あらら、それより若いんだ。どおりで朝比奈さん(小)っぽい名残が。

「七夕のとき、光陽園こうようえん駅前公園で茂みの中にひそんでました?」

「えー、あのときはずっとベンチに座ってたはずじゃ」

これ以上しゃべるのはやめとこう。禁則事項だ。

「ということはええと、俺はこれからいろいろとお世話になるわけです。未来に飛んだり過去に飛んだり」

「そうなの?知らなかった。わたしが知らないところでいろいろと活躍してたのね」

「いえまあ、ほとんどは朝比奈さんに言われてやっただけなんで。どういう理由でやってたのかは今でも分かりません」

「わたしもずっと上司の言うことだけなにも知らずにやってたから。出来の悪い常駐員だったわ」

その上司はあなた自身なのですよ、と教えてやりたかったが、たぶんそのうち分かることだ。って待てよ、朝比奈さん(大)を指示している上司がいるってことだよな。誰なんだろう。やっぱり朝比奈さん(特大)みたいな人がいるんだろうか。

 朝比奈さんは小さなゼニガメの鼻先をつついていた。エサをやるとあのときと同じように丸飲みした。バケツに入ったほうにもエサをやった。

「長門、もしかしてこれのためにわざわざ時間旅行したのか」

「……そう。亀の時間移動能力は高い」

なるほど。長門らしい旅だ。


「名前付けないといけないわね。なにがいいかしら」

まわりの温度が上がったので元気になったのか、子亀は朝比奈さんの手の上でモゾモゾと足を伸ばしていた。

「この子を選んだのはどっち?」

「長門ですね」

「じゃあ長門さん、名付け親になって」

長門はなにかに名前を付けるということがたぶん生涯で初らしく、しばらく考え込んでいた。

「……時間平面による移動を習得した爬虫類はちゅうるいカメもくイシガメ科ニホンイシガメの代理」

そりゃまわりくどいし、だいいち長すぎて覚えられん。

「それにしましょう。略してだいちゃんね」

「……この子は、雌」

「うーん、だいちゃんだと男の子になっちゃいますね。じゃあヨリちゃんでどう。代理に当て字でヨリ」

「……妥当」

「こんにちわヨリちゃん、タヨリにしてるわ」

「……身寄りが出来て、なにヨリ」

「会いたくなったらいつでもおヨリ」

この人たちの突飛な会話についていけてない俺ってどうかしてるんだろうか。


「あっ、忘れてたわ」

朝比奈さんは突然立ち上がって台所に走り去っていった。な、なんだろ。

善哉ぜんざい作ってるの忘れてたわ。二人とも食べるでしょ?」

「え、まじですか。今日ちょうど善哉ぜんざいを食いたいなと思ってたところなんですよ」

「……小豆あずきは、好物」

朝比奈さんがお盆に載せて運んできた漆塗うるしぬりっぽい器に、善哉ぜんざいと、その上には餅が乗っていた。素晴らしい、こんな寒い日にはこれに限る。

 三人でいただきますを言って善哉ぜんざいを食った。餅がうまい。小豆あずきもうまい。

「長門さん、おかわりたくさんあるからね」

「……うん」

心なしか長門の頬は緩みっぱなしなようである。長門はその後もおかわりを続けていたが、俺は二杯目でやめといた。胃の中で餅がふくれ上がりそうだ。


 それから三人で学生の頃の話に花が咲いた。赴任ふにんした当初はハルヒにいじられてつらかったけど、慣れたら快感になってしまって困ったと。きっと自分にはMっ気があるんだろうと。俺は朝比奈さん(大)はSのタイプだと思ってたんだがな。

 俺は腕時計を見た。見ても現地時間に合わせているわけではないので意味はないのだが、そろそろ帰る時間じゃないかと思ったのだ。

「そろそろおいとましたほうが」

「あら、せっかく来たんだから泊まっていって。ちゃんと寝巻きもあるわ」

「え……」

まさか朝比奈さんちに泊まるとは考えていなかった。

「いいでしょ、長門さん」

「……泊まる」

長門のひとことで決まった。まあ、たまにはこういうのもいいか。

「帰るときはどうしたらいいんですか。あの列車って三ヵ月に一本ですよね、まさか三ヶ月もお邪魔するわけには」

「明日、発車時刻に合わせて駅のホームに送って行くわ」

なるほど、未来でもタイムトラベルですね。え……?


「じゃあ、今日はおでんでもしましょうか」

俺はあんまり食えそうにないが、長門はまだまだ食えるだろう。朝比奈さんは大根をもらいに行ってくると言った。未来じゃ食料品店とかないんだろうか。

「ここでは経済の仕組みがお金じゃなくてね、必要なものはジェネレータで生成するの。でも野菜を作るのは無理だから栽培所にもらいにいくの」

「お金がなかったら、ずいぶん平和でしょうね」

「そうでもないの。昔の生活がよかったと思う人たちもいてね」

まあ、未来人には未来人の苦労がある、と。

 長門が台所で手伝おうとするのを、朝比奈さんは「だめだめ、お客様だから」といって追い払った。前にも似たようなシーンがあったな。

 カセットコンロや卓上IHクッキングヒーターらしきものはなく、それ自身で発熱するという世紀の発明品らしい鍋でおでんをつついた。おでんはたいてい朝から仕込みをするわけで、朝比奈さんが大根を輪切りにし始めてから三十分くらいしか経ってないはずだが、なぜかいい味に染みていた。これも時間テクノロジーの恩恵おんけいか。長門はモクモクと食べ、俺はねりからしに涙し、そんな様子を朝比奈さんは微笑ほほえんで見ていた。


 腹がふくれて丸まってる長門がすやすやと寝息を立てる横で、俺と朝比奈さんはビールをすすった。

「長門さん幸せそうね」

「ええ」

「付き合ってるのね」

「ええ。朝比奈さんが卒業してしばらくしてからですかね」

「うらやましいわ……」

俺はほんとはあなたが好きだったんですよ、なんて言ったらえらいことになるだろうから言わなかった。朝比奈さんのことは卒業式できっぱりと忘れたんだから。

「あの、あれからどれくらい時間が経ったんです?」

「今は西暦で数える年号はなくなったんだけど、だいたい三百年後ね」

そ、そんなに未来だったんですか。

「じゃあハルヒとか古泉は」

「ええ。三百年だもの、もう亡くなってるわ」

「長門はどうなったんです?」

「それが、記録がまったく残ってないの。キョンくんと長門さんはある日突然、消息不明に」

うーむ。俺と長門にどういう未来が待ってるんだろうか。

「ふふ。どこか遠くの世界で、二人で仲良く暮らしてるのかもね」

遠くってどこだろう。続きが気になる。

 ボソボソと、懐かしき高校時代の話をした。SOS団の中でも俺と朝比奈さんにはなにか特別な、腹を割って話せる親しさがあったと思う。長門に男と女の間に友情は成立するか疑問があると言ったことがあるが、もしかしたらこれがその友情なのかもしれない。枝豆を口に放り込みながら、その後遅くまで話し込み、あくびを四度したあと隣の部屋に敷かれた布団に潜り込んだ。眠り込んだ長門の両足をひっぱって朝比奈さんの部屋に引きずっていった。


 夢のような一日だった。翌朝、目を覚ましても場所は変わっていなかった。三人で朝食を食べ、それから部屋を出た。

「子亀をかわいがってやってください」

「ええ。大事にするわ」

「あの、よかったら毛布を貸してもらえませんか」

「いいわ」

「助かります。あの列車の中すごく寒くて」

借りるといっても次いつ来れるか分からないのだが。


 俺たちは来た道を逆にたどって出口を目指した。集合住宅の一画いっかくを出て公園を抜け、野菜畑の小道を見ながら歩き、エレベータまで来た。途中で住民がチラチラと俺を見て軽く会釈えしゃくをしていたが、知り合いでもなく見覚えもない。

「俺たちのこと、過去からの客だって知ってるんでしょうか」エレベータの中で尋ねた。

「ええ。キョンくんは歴史上の……ええっと、禁則事項です」

朝比奈さんはウインクしてごまかした。俺ってこんな後世まで知られてたなんて、やっぱハルヒがらみだろうか。


 ドアが開くといきなり風と雪が舞い込んできた。外は吹雪ふぶきだった。

「今日は吹雪ふぶきがひどいから、三ヶ月先に飛びましょう」

朝比奈さんが襟元えりもとを抑えながら言った。二人は朝比奈さんと手を繋いで時間を超えた。

 三ヵ月先には雪がなかった。真っ青な晴れ渡る空に、見渡す限りの緑の草原だった。まだ肌寒いが、春にはこんな風景だったんだな。

 見回すと緑の丘の上にぽつんと白いホームがあった。体中についた雪をはらうと、草の上で溶けてしずくになった。長門の髪についた雪をはらってやった。

 三人は草を踏み分けつつホームまで歩いた。昨日来たときよりさくさく歩き、十五分くらいでたどり着いた。

「もうすぐ来るわ」

朝比奈さんが腕時計らしいものを見た。例の電波時計だろうか。

 遠くで汽笛が聞こえた。地平の彼方から地響きと蒸気を吐く音のボリュームを少しずつ上げてSLが迫ってきた。白い蒸気をもくもくと吐き出しながら、ずっしりと重い鉄の巨体がホームに止まった。

 俺と長門はドアを開けて中に入った。窓を降ろしてホームにいる朝比奈さんと別れの言葉を交わした。

「時代と場所は分かったから、またいつでも遊びに来てね」

「ええ。ぜひ長門と一緒に来ますよ」

「……また、ごはん食べに来る」

朝比奈さんはにっこりと微笑ほほえんだ。まあこれからは朝比奈さんのほうが俺の時代にちょくちょく来ることになるのだが。学生の頃の俺をよろしくおねがいしますね。

 汽笛が鳴った。列車がゆっくりと動き出す。俺は一瞬だけ朝比奈さんの手を握って、放した。無人のホームにぽつんと小さく、いつまでも手を振っていた。見えなくなるまで振っていた。


 窓を閉め、俺と長門は毛布を被って寄り添った。外の景色を楽しむよりこうしていたかった。互いの体温を毛布で包み込んでそれを確かめるように眠った。


「……起きて」

「着いたのか。あれ……」

目を覚ますと、いつもの電車に乗っていた。え、夢オチ?出発のメロディが鳴り始めて俺たちは慌てて電車を降りた。北口駅だった。

「あれれ、夢だったのか」

なんだか気の抜けた気分だ。俺は頭をかきかき、どこまでが本当だったのか思い出そうとしていた。足元に亀の入ったバケツがあり、丸まった毛布が手にあった。顔を埋めてみると、朝比奈さんの部屋の匂いがする。

「……この世界は、誰かが見ている夢のようなもの」

長門が少しだけいたずらっぽく、少しだけ微笑びしょうして言った。

「あそうだ。思ったんだが、朝比奈さんに時間移動で送ってもらえばよかったんじゃないのか」

「……わたしは、あなたと旅がしたかった」

長門がかわいく口を尖らせた。スマンスマン、俺はいつまでも無粋ぶすいなやつだ。

「今度世界旅行にでも連れてってやるからな」

長門はコクリとうなずいた。


 俺と長門は職場に戻った。

「この亀ちゃん、前のとそっくりな気がするんだけど」

「最近はバイオテクノロジーが進んでて、あれと同じ遺伝子を持つ亀らしい」

「へー、そうなんだ」

ハルヒが亀の鼻をつつくと、あいかわらずイヤイヤをして首と足を引っ込めた。出任せを言ってごまかした俺だったが、朝比奈さんがにっこりと微笑ほほえんでいる表情の意味が分かることが嬉しかった。

「亀は元気にしてますか」

「ええ。でもね、ときどきいなくなるの。どこか遠く、未来のわたしに会いに行ってるんだと思う」

この亀も、ほっとけばそのうち戻ってきたのかもしれんな。


 その日の夜、長門が寄せ鍋をすると言って俺たちを招待してくれた。このところ鍋物が続いてるような気がするが、意外と腹は正直に減っていたので付き合うことにした。

 俺と古泉とハカセくんは材料の買出しに行かされ、女三人はそのままマンションに直行していた。

「僕は車で来てますから、乗ってください」

「おい古泉、お前なんでBMWなんか乗ってるんだ」

俺は親のお下がりでカローラだってのに。

「これは機関の所有ですよ。通勤にもこれを使ってます」

「機関の社員ってそんなに待遇たいぐういいのか」

「おかげさまで昇進しまして、これでもチーフです」

「なんだ?その歳でもう昇進か」

「僕は中一のときから働いてるんですよ」

「それもそうか」

俺より勤労きんろう経験長いんだよなこいつは。うらやましい、俺も雇ってもらえないものかな。

「あなたには僕たちみたいに超能力を使うより、もっと重要な仕事がありますからね」

ハルヒのお守り役か。まあ、一銭いっせんにもならんがな。


 野郎三人でスーパーマーケットの食品売り場をうろうろするのもなかなかに勇気のいる所業しょぎょうだ。ハカセくんはカートをゴロゴロと引いて俺の後をついてまわっている。

「その野菜、見切り品のほうが安いですよ」

俺が商品を手に取るたびに、古泉があれこれ突っ込みを入れてくる。

「見切り品って傷んでたりしないか」

「野菜なら多少は大丈夫です。形が悪かったりして売れ残ってるだけですから」

そういうものなのか……。

「古泉は自炊してんのか」

「ええ。とはいってもたいしたものは作っていませんが」

いまだに実家で呑々のうのうと暮らしている俺からしたら、悟りを開いたラマ僧にも匹敵する徳の高さだ。

「一人暮らしの男が作る料理なんて、もう栄養ですよ。コンバットレーション以上のなにものでもありません」


 ふくれ上がった買い物袋を下げて長門マンションまで行った。長門の部屋番号を押すとスピーカーからハルヒの笑い声が響いた。

「おかえり!遅かったわね。あははは」

お前ら、なんだか楽しそうだな。俺たちに買い物押し付けておいて女だけで盛り上がってるようでなによりです。それより自動ドアのロックを開けてほしいんだが。


 切ったり煮込んだり火をつけたりは女どもに任せておいて、俺はこたつで寝転んでいた。古泉がなにかと手伝いたがって台所をうろうろしているのだが、かえって邪魔しているのに気がついていない。台所は女に任せとけばいいんだよ、とか言うとフェミニストに怒られるんだろうか。

 コタツの上にカセットコンロがうやうやしく設置され、玉座ぎょくざの前のかなえのごとくに土鍋が置かれた。底に昆布を敷いて肉魚野菜を詰め込めるだけ詰め込んだ。ほどよく煮立ったところで鍋のなべが開けられると、モクモクと立ち上った湯気が晴れると同時に、水鳥みずどりのくちばしのような十二本の箸がいっせいにエモノを襲った。牡蠣かきやら帆立貝ほたてがいやタラや白身すり身の海代表と、鶏肉豚肉牛肉の陸代表、その他大勢タワシやゾウリ以外ならなんでもありの寄せ鍋を食いに食った。

「長門、ご飯は最後だ。それ突っ込んだら大量の雑炊ぞうすいになっちまう。朝比奈さんももっと食べないと大きくなれませんよ、ほら牛肉牛肉。ハカセくんは頭を使うからもっとカニを食え。ハルヒ!それ俺のエビだぞ」

「なんか言ったかひら、アチチチ」

菜箸さいばしを握ったまま放さない俺って鍋奉行みたいじゃないか。おい、アクだけは、絶対にアクだけは取り忘れんなよ。


 鍋にうどんが放り込まれ、最後に長門願望のご飯が放り込まれて雑炊ぞうすいフィナーレとなった。やがて鍋の底が見えてきて空になり、誰がこれを片付けるんだろうかと考えてしまうくらいに散乱したコタツの上をじっと眺めているのは、やっぱり俺と古泉とハカセくんなようだ。

 さすがの長門も食いすぎたと見えて、冬ごもりの前にひたすらエサを食いつづけて春を待っている丸っこい小動物のように腹を抱えて床に伸びている。ハルヒがその横で、これまた小動物を飲み込んで消化が終わるのを待っているうわばみのようにうんうんうなっていた。食いながら酒をあおっていたのはこいつだけだからな。そんな様子を見て苦笑している朝比奈さんだけが縦になっていた。この人は昔から少食らしい。


「トランプでもしませんか」

適度に腹がこなれたところで古泉が言った。いつもは気が進まない俺だが、よーし今日は本気で相手をしてやろう。古泉はしゃかしゃかとカードを切っていた。妙に手つきが玄人くろうとじみている。フェローシャッフルかそれ、高度なの知ってんな。

「ポーカーでどうですか」

いきなりそれか、最初は小手調こてしらべに七並べとかにするもんだ。ノーレートならまあ付き合ってやるが。

「ドローか」

「あたし、スタッドレスポーカーなら知ってるわよ」

どんなポーカーだそれは、雪中でやるのか。古泉が笑いをこらえて固まったようなスマイルを見せている。

「スタッドはローカルルールがあるので、みんなが知ってるドローポーカーでいきましょう」

 ゲームは最初のうち勝ったり負けたり、誰かが札を間違えて勝負なしだったりしていた。俺が親になってカードを配ったとき、妙な違和感を覚えた。なんだろうこれは、と思って手札を開いてみると、いきなり5のカードが四枚気をつけをして並んでいた。五枚目はジョーカーだった。手が震えてきたのでなんでもないというふうをよそおって口笛なんか吹いてみたりしたのだが、かえって怪しまれたようだ。ポーカーフェイスは苦手なんだ俺。

 強気のハルヒがベットをどんどん釣り上げてゆき、俺は笑いを抑えきれなかった。鼻息が荒かったと思う。だってこんなチャンス、生涯に一度あるかどうかだからな。もしかしてこれで運を使い切ってしまうのか俺。

「な、キョンがファイブカードなんてありえないわ」

ショウダウンしたときのハルヒの顔ときたら。ふっ、お前が最初のチップの一枚をテーブルに置いた瞬間から、俺には未来が見えていたのさ。まあ、ビギナーズラックでこういうことはある。

 ところがである。俺が次に六人分のカードを配り終えて手札を開いてみたとき、目を丸くした。なんでさっきと同じなんだ。もしかしてこれは天のお告げなのか。地味な仕事をやめてギャンブラーとして自分を極めろと。

「あんた!ぜったいイカサマしてるでしょ」

「してねえよ。ちゃんとシャッフルするところも見てたろ」

そでの下から札出さなかった?」

「そんなテク持ってたら手品師になってるって」

全員分のチップを巻き上げながらニヤニヤを抑えきれなかった。

「すごいこともあるんですね」

「キョンくん、もしかしてギャンブラーの素質に目覚めたんじゃないかしら」

「えへへ、俺もそう思い始めていたところです」

そのニヤニヤも、次の手札を配り終えたところでぴたりと止まった。これはおかしい。昔の人が二度あることは三度あるとは言ったが、仏の顔も三度、とも言った。

「すまん、配りなおしだ。カードが固まってる」

「えー、いい手だったのに」

「このカード、プラスチック製だから静電気でくっついてるのかもしれん」

カードをかき集めて丁寧にシャッフルしなおし、再び配りなおした。手札は、同じだった。

「俺、降りるわ」

さすがに四度同じ勝ち方をしたらハルヒどころか神人までもが黙っちゃいないだろう。古泉も朝比奈さんもそろそろ怪訝けげんな顔をし始めている。

「なんで降りるのよ。ちゃんと賭けなさい」

「じゃあ一枚だけ払って降りる」

ハルヒが俺の顔をじっと見た。怪しまれている。

「ちょっと見せなさい」

「うわなにするやめ」

「アンタ!また同じ手じゃないの。イカサマにもほどがあるわ」

「だから降りると言ったんだ」

「だったら、あたしにディーラーやらせなさい」

「いいけど。みんないいか?」

トランプごときでなに熱くなってんのと言いたい感じで苦笑していた。確かに。

 ハルヒがしゃらしゃらとなめらかな手つきでシャッフルし、俺は手札を取った。5のファイブカード、五回目?ここでハルヒを怒らせたら古泉が閉鎖空間へいさくうかん処理に駆り出されてしまうだろう。そうだ、降りなくてもカードを交換して並びを崩してしまえばいいんだった。俺は5のワンペアだけ残して捨てた。

 それからはハルヒの一人勝ちが続き、俺には二度と栄光の5が巡ってくることはなかった。

 5、ファイブカード、五回。それがずっと気になった。この数字の並びかたにはなにか見覚えがあるような気がする。過去か未来か、どこの世界かは分からないが、誰かが俺になにかを伝えようとしているんじゃないか。

 長門の魔法かとも思えたが、俺にいいカードが巡るように取り計らう理由がない。古泉にいたってはとてもそんなマジシャンみたいなテクニックを持ち合わせているとは思えないし、朝比奈さんの既定事項でもなさそうだ。ハルヒの願望ならあそこまで怒ることもないだろう。じゃあ考えられることはいったいなにか。


 長門の漆黒しっこく双眸そうぼうがじっと俺を見つめていた。なにか知られてはならない秘密をひた隠しにしているような、なぜだかそんな気がした。


 夜も更けて四人が帰ったあと、長門を問い詰めた。

「長門、お前は知ってるはずだよな。この世界は何かがおかしい」

「……」

長門はなにも言わなかった。それが返ってこいつの関与を疑わせた。二人はじっと黙ったままにらめっこのように見つめあった。俺もゆずろうとはせず、数分が過ぎてからやっと長門が口を開いた。

「……なぜ、分かった」

「なんとなくだな」

前から思っていたんだが、俺にはそういう能力があるらしい。いつもじゃないが、ここぞというとき俺の中の深層しんそう部分のなにかが反応するんだ。ハルヒが夏休みを無限ループさせたときもそうだった。

「時間のループか」

「……そう、わたしが操作した」

「なんでまたそんなことをしたんだ」

「時間移動技術による未来への影響を試算していた」

「タイムマシンが未来にどう影響するか?」

「……そう。開発はやむをえないこと。でも、選択する理論によっては時空の致命的損傷そんしょうを招きかねない」

長門によれば、時間を壊してしまうと空間が壊れた場合より修復が難しいらしい。空間は分子を動かせば元に戻るが、時間はそうはいかない。ハルヒが壊してしまった十年前の七夕の日、あれは朝比奈さんにも情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいにも修復できない断層だった。しかも今、そのハルヒがタイムマシンを欲しがっている。ハルヒにそんなおもちゃを与えてしまえば危険度が指数関数しすうかんすう的に跳ね上がるというものだ。

「……これは、未来を予測をするための実験だった」

情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいは知ってるのか」

「……そう、承知しょうちしている」

「実験はあとどれくらい必要なんだ?」

「……残り二十四パターン」

「そんなに繰り返されるのはちょっときついぞ」

「……時間移動理論の数だけ試している」

「そんなにあるのか。全部違う理屈で?」

「時間とは、一種のエネルギーのようなもの。それをどうとらえるかで理論が異なる」

俺にはちょっと分からん世界だが、まあここまで来たんだ。最後まで付き合ってやるか。

「……怒っている?」

「怒ってなんかいないさ。ただ俺には教えておいてもらってもよかったな」

「……教えると実証実験として成立しないと考えた」

まあ、それもそうか。答えが最初からわかっていると被験者ひけんしゃにならないしな。

「……すまなかったと思っている」

「いいんだ。お前なりに考えてやったことだし」

それでも長門がじっと俺の表情を伺うように見つめるので、俺は軽く肩を抱きしめた。時間操作は物理世界の情報操作より危険をはらんでいる。俺みたいないいかげんなやつとは砂場の山とエベレストくらいの差があるであろう長門も、慎重に慎重を重ねたことだろう。


 長門の小さな耳のそばでささやいた。

「俺にも観察者としての立場をくれないか。黙って見てるから」

「……分かった」

長門の同意で、次の二十四回は俺の記憶が残ったまま事が運んだ。その間の長門との付き合いは、銀河が一巡りするくらいの時間を繰り返していたのだが、それが合計でどれくらいの長さだったのか、俺はもう覚えていない。


溶明ようめい

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