【仮説四】

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Illustration:どこここ


「ええっと、時間移動技術、秘密連絡会議。その第一回、だよな」

「そんな打ち合わせだったんですか。思ったより楽しそうだ」

楽しいのはお前だけだ古泉。俺たちはこのハルヒによる歴史崩壊の危機をどうやって切り抜けるかを話し合うためにここにいるんだからな。


 就業時間終了後、俺は宇宙人未来人超能力者の各代表を招集しょうしゅうした。ハルヒがいよいよタイムマシン開発に乗り出すというので、あらかじめ話し合っておきたいことがあった。ハルヒが世界平和のためにタイムマシンを開発するとはとても思えん。朝比奈さんによれば、俺たちの歴史は決まったイベントをいくつもこなし続けて今現在の俺たちがいる。ひとつでもイベントが狂えばそこからの歴史は壊れてしまう。朝比奈さんはその歴史上の出来事を丁寧ていねいに保全して正しい流れを維持している。ところがハルヒときたら、そんなけな気な努力もおかまいなしに鼻の一吹きでぶっこわしてくれそうな勢いなのである。

 考えてもみてくれ。ハルヒが本当にタイムマシンを作っちまったらどうなるかを。あいつのことだ、競馬の勝敗をあらかじめ調べてボロ儲けしたり、過去に行って土地を買い占め地価が上がったところで売り飛ばしたり、戦国の武将に会って二十一世紀の武器を贈呈ぞうていしたり、好きな球団を優勝させるためにエコヒイキして事前に球を教えてみるなんてことをやってのけるに違いない。まあ俺はハルヒと同じ球団のファンなので困らないんだが。

 だからといって簡単には阻止そしできない。面と向かって反対しようものならその日から神人が猛威をふるい、閉鎖空間へいさくうかんと現実世界が裏返り世界崩壊の危機に直面する。タイムマシンをおもちゃとして与えといたほうがまだよかったんじゃないかと、そのときになって思ってももう遅いのだ。裏工作して作らせないという方法もなくはないが、ハルヒの願望はただものじゃない、やると決めたら必ずやってのけるのだ。誰を巻き込もうがどんなむちゃをしようが。

「それほど悲観したものでもないと思いますよ」

「ほう、やけに楽観的じゃないか古泉」

俺は集まった三人の顔を見ながら古泉の意見とやらを聞いた。

「涼宮さんはあのように振舞われていますが、他方では非常に理性的な思想の持ち主です。意味もなく世界を崩壊に巻き込むようなお方ではありません」

またそれか。お前が言うあいつのエキセントリックさと理性の両面ってやつを信用したばかりに、今までさんざ振り回されて後始末に追われてたんだぞ。

「まあ、おっしゃることは分かります。あなたの心配がきないのも無理はないでしょう。会社設立前にも話したと思いますが、大学を出てからというもの涼宮さんの思念エネルギーは衰退すいたい一途いっとをたどっていました」

「めでたいことじゃないか」

「ですが涼宮さんにとって願望を実現するエネルギーは、彼女の生きる力そのものなのです。それが消えつつあったので僕は心配していました。個人的な意味で」

「ふつうに人生相談にでも乗ってやればよかったんだ」

「ええ、今思えばそうかもしれません。涼宮さんがそれなりに楽しめる生き方で、できるだけ穏便おんびんに思念エネルギーを縮退しゅくたいしていくなら、機関にとっては理想の展開といえるでしょう。まさにそうなりつつあったわけです」

「ソフトランディングってやつだな」

「そうです。ときに、バイオリズムというのをご存知でしょうか」

「体内のエネルギーが周期的な波を描いてるあれのことだろ。運勢とか」

「そうです。涼宮さんの思念エネルギーのバイオリズムはずっと下り坂にありました。エネルギーというのは下るときにも勢いというのがあり、勢いを貯めつつある一定の基底きてい状態に達するとそこからはもう登るだけになるという」

「ま、まさかこれから暴れるのか」

「そろそろ上昇に転じるような気配がしています。僕達はおそらく、短期的にしか涼宮さんを見ていなかったのではないかというのが、最近の調査で出た結論です」

「最近の閉鎖空間へいさくうかんはどうなんだ?」

「あなたが会社設立をそそのかしてから毎晩です」

そう言ってのける古泉はニコニコ顔だった。最近妙にやつれてきたのはそれでか。

「さっきお前は悲観したものでもないと言ったよな」

「ええ。毎晩のように発生する閉鎖空間へいさくうかんですが、最近妙なことに気がつきました。性質が変わりつつあります」

「どんな風にだ」

「神人が踊ってます」

「は?」

「最初はビルを蹴飛ばしたり頭突きをしたり、一風変わった破壊行為だったんですが。最近ではステップを踏んで車をつぶしたり、後方宙返り二回ひねりしながら高速道路に突っ込み、成功するとガッツポーズさえ見せるようになりました」

「神人までが奇矯ききょうなまねをしだしたのか」

「実に鋭い、ポイントはそこです」

「え?」

「涼宮さんの奇矯ききょうな振る舞いをするエネルギーが閉鎖空間へいさくうかんに漏れ出している、これが新しい発見なわけです」

どうもよく分からんのだが、そうなるとどういうことになるんだろうか。

「神人が建物を破壊するのは、今までは涼宮さんが現実世界でできないさ晴らしをするためでした。ところが閉鎖空間へいさくうかんにおいて目を見張るような華麗かれいなブレイクダンスを披露するようになってしまった。演出にまで技巧ぎこうを凝らし、三体の神人をシンクロさせて躍らせることすらできるようになっています」

「しばらく見ないうちにずいぶんと賑やかになっちまったんだな」

「これらのことから推論できることはひとつ、」

「なんだ」

「涼宮さんは閉鎖空間へいさくうかんの発生を楽しんでいる」

ガーン!!……それってえらく超矛盾してないか。

「ええ、だから閉鎖空間へいさくうかんの質が変化してきたと」

ハルヒのイライラで発生するはずの閉鎖空間へいさくうかんと神人のはずが、本人が楽しんでいる、と。

「そうです。それが証拠に、空間半径は拡大しません。閉鎖空間へいさくうかんに入り込んだ同志たちがじっと見物していても問題ないまでに安定しています。我々は壮大な野外ステージを見物するように神人を見ていました。観客は僕たちだけ、まさにスペクタクルショーです」

スペクタクルって言葉はそういう使い方もするのか?

「つまり涼宮さんが楽しんでいる間は、世界は崩壊することはない。奇矯ききょうエネルギーが閉鎖空間へいさくうかんに持ち込まれることによって、現実世界の涼宮さんの奇矯ききょうさも多少は変化するだろうというのが僕の説です」

なるほど。なんだか納得しそうで納得できない複雑な理屈だが。

「涼宮さんがタイムマシンを作りたいのであれば、多少は付き合ってもいいんじゃないかと思いますよ」

それが言いたかっただけかよ。

「ご清聴せいちょうありがとうございました。本題をどうぞ」

「ああ。そうだった。朝比奈さん、長門、今の古泉の話はマクラだと思って聞き流してください」

「……分かった」

まじめにうなずいている長門に、朝比奈さんと古泉は苦笑していた。

「今日集まってもらったのはほかでもない、ハルヒが開発しようとしている時間移動技術の行く末を検討してどう対処するかなんだが。この中では朝比奈さんが俺たちの未来に詳しいので、まずご意見をうかがいたいのですが」

「わたしの未来とキョンくんたちの未来の事項が一致するかどうかは分からないけれど。前にも言ったとおり、わたしの歴史では涼宮さんは時間移動技術開発を起こした人で、直接関わっているわけではないんです」

「というと、どういう位置にいる人なんですか」古泉が質問した。

「わたしの所属する時間移動管理組織の創始者の支援者、といったことろかしら」

「差し支えなければ、その創始者っていうのは誰かうかがってもいいでしょうか」

「まだ生まれていません。ハカセくんは組織の研究者のひとりです」

「いつだったか俺が花壇で藤原とかいうやつに会ってメモリチップを受け取りましたよね。あれはその後どうなりました?」

「ええっと、まだハカセくんの手元には届いていませんよね。人手を経てそのうち送られてくると思います」

なるほど。そういうことだったのか。

「ということはつまり、涼宮さんの今の行動は既定事項からかなり外れているわけですか」

「外れている部分もあるし踏襲とうしゅうしている部分もあります。わたしは外れている部分についての調査をしに来たんです」

「では、このまま涼宮さんがタイムマシンを完成させてしまったらどういう未来が予測されますか」

「分かりません。まずわたしの使っている時間移動技術が消えてしまうか、上書きされるか。涼宮さんがなにを考えているのか分からないから、まったく予測できないんです」

「問題は、これがハルヒの願望を実現する能力によって動いているというところですかね」

「そうね。それが行使されればどんな歴史も簡単に変わってしまうわ」


 予測できない事態。これが問題なのだ。ハルヒが気まぐれやら思いつきで事を起こすがために俺たちは、ただひたすら後始末に追われるだけなのだ。これを先手にまわる方法はないものか。

 しばらく無言で考えていると、それまで黙っていた長門が口を開いた。

「……阻止そしするより、先導したほうが予測できる」

なるほど。そういう考え方もあるか。

「つまりハルヒの行動をコントロールするということか」

「……そう。生み出されてから十年、わたしが導き出した結論」

さすがは長門、ついに悟りを開いたな。

「そうすると、僕たちでタイムマシンを作ってしまうということになりますか。そんなことが可能でしょうか」

「朝比奈さんのSTCだかTPDDだかはどうやって作るんです?」

「それは禁則中の禁則、絶対に教えてはいけないの」

そうだよな。未来人にタイムマシンの作り方を教わるなんて、俺もどうかしてる。

「長門、時間移動にはいくつか方法があるって言ってたな。使えそうなものはあるのか、時間凍結以外で」

朝比奈さんは三年間の時間凍結のことを思い出したらしく、頬をポッと染めた。

「……現在の科学技術レベルでは、無理」

それは困った。安全な方法で俺たちが、つまり長門が作ってくれれば監視もコントロールもできそうなのだが。

「ロナルドマレット博士の方法ではどうなんでしょうか。実験中だと聞いていますが」古泉がマメ知識を持ち出した。

「……あれは質量のあるものを送ることができないし、タイムマシン完成より以前にはさかのぼれない」

「そうでしたね」

「質問を変えてみよう。タイムマシンを作るのになにが必要なんだ?」

「……プランク長さの粒子を制御する技術、膨大ぼうだいなエネルギー」

「エネルギーってどれくらい?」

「……温度でいうと、十兆度」

さくっと十兆と言われても分からん。

「……ビッグバンから一秒後の温度、超新星爆発の中心温度」

俺にはいまいちピンとこない数字だが、太陽の表面がだいたい六千度くらいらしいからぜんぜん桁が違うということだけは分かった。

「そんなエネルギー、宇宙のどっかにはあるのかもしれんが地球上じゃとても無理だな」

「……」

「どう考えても無理ですね。やはり涼宮さんのごり押しに引きずられてしまうしかないのでしょう。我々は、後始末にてっするだけ」

全員が黙り込んだ。唯一方法を知っている朝比奈さんは禁則事項を破ってまでは教えてくれないだろう。長門は人類の科学技術の進歩には介入しない立場だし。ハルヒが念じれば、時空の穴くらいは開けてしまえるかもしれないが、そんなことになったら過去から未来から情報やら人やらがなだれ込んできて、既定事項どころではなくなってしまうかもしれない。そうなったらいよいよ俺たちの手に負えなくなる。

 運命を受け入れるあきらめにも似た空気が部屋を漂う中、俺はふと浮かんだ疑問を口にした。

「なあ古泉、ハルヒの作る閉鎖空間へいさくうかんって時間がズレてたりしないのか」

全員が俺の顔を見た。え、俺、顔になんかついてるか。

「……名案」

「僕もまったく気がつきませんでした。閉鎖空間へいさくうかんとは機関が便宜べんぎ上つけた名称、あれは涼宮さんが作ったエネルギーの泡と表現するほうが正しいでしょう」

「……あのエネルギーを取り出して、独立した時間フィールドを作ることはできるかもしれない」

古泉と長門がキラキラと尊敬の眼差しを俺に向けてきた。なんだか大西洋をイカダで漂流してて新大陸を発見したような気分だ。

「エネルギーの泡ってなんだ?」

「この宇宙が生まれるとき、最初は量子りょうしゆらぎによって生じた泡のようなものだったのではないかという説があります」

「よく分かるように説明してくれ」

量子りょうし論の世界では、なにもない真空の状態でも、エネルギーだけはゼロ付近でゆらいでいます。簡単にいうとプラスとマイナスの値の間を揺れている振り子のような状態です。これを量子りょうしゆらぎと言いますが、この状態から宇宙の種と呼ばれる次元の泡が生まれます」

古泉がこういうネタになると饒舌じょうぜつになるのはなんでだろうな。

「宇宙の種?」

「ええ。僕たちには見えない小さな領域で頻繁ひんぱんに現れては消えていっている、部分的にエネルギーの集まった状態のことです」

「宇宙がそのへんでウヨウヨ沸いているってことか」

「極論を言えばそういうことですね」古泉が笑った。

「水の温度を上げていくと水蒸気の泡が立ちますが、あれに似ています。水の分子どうしが熱によって動き回り、互いに衝突して気体の小さな泡が生まれ大きく成長します。この宇宙の種も内部に次元構造を持つと泡のようにふくらんで、ある臨界点を超えると本物の宇宙に成長します」

ということは、エネルギーゼロ付近でゆらゆらしている何かが、宇宙の種になってある大きさを超えると宇宙になっちまうってことか。

「そう簡単には成長できません。だから僕たちのいる宇宙は実にユニークな存在なんです」

「……通常、時空の泡は数プランク秒で消滅する」

「そうですね。涼宮さんはその泡の存在を維持できる、あるいは拡大する力を持っていると考えられますね」

「……そう」

「ハルヒの持っている、なにもないところから作り出す能力、ってやつか」

「そうです。正確に表現するなら、僕たちが無だと考えている状態は必ずしもゼロというわけではなくて、多少なりのエネルギーがゆらいで存在する。涼宮さんはそのゆらぎから生まれる泡を使って世界を構築できる」

俺には分からん世界だが、長門は納得したようだった。最初に会った頃、長門がハルヒのことを謎の存在だといっていたが、どうやらそのへんを解明するヒントになりそうだな。ついでに自律進化の可能性とやらも分かるといい。

 四人は円陣を組んだ。ここはひとつ、作戦を練って俺たちでタイムマシン開発を掌握しょうあくするとしよう。


 次の日、ハルヒからミーティングの招集しょうしゅうがかかった。

「みんな、時間移動技術会議よ。キョン、記念すべき第一回なんだから居眠りなんかしてたら減俸げんぽうだからね」

「分かったから、さっさとはじめちまってくれ」

俺には懸念けねんすべき第一回なんだがな。

 長門の仕込みで、ハカセくんにはハルヒを納得させられるだけのトンデモ科学っぽい時間移動理論を予習させてある。すまん、前途有望な若き科学者よ。完成してしまえば理論はあとからでもついてくる。のか?

「改めて紹介するわ。我らがホープ、物理学者の卵、ハカセくんよ」

俺たちはやけにリキを入れて猿みたいに拍手をした。

「す、涼宮姉さん、気が早すぎますよ。まだ理論も確立してませんから」

「大丈夫よ。新しい発明をするには通常の三倍のスピードで科学の先を行かないとね」

カーブを曲がりきれずに崖から飛んでいってしまいそうだが。

「ええと、現在の物理学ではほとんどの時間移動理論が実用化の目処が立っていません。ここはひとつ、新しい理論を生み出してみるのもいいかもしれません」

俺は長門を見たが、計画どおりという表情でハカセくんを見守っている。ハカセくんは誰も突っ込まないのを見て先を続けた。

「アメリカのキップソーン博士が、未来の人類は時空の泡をコントロールすることができるかもしれない、と言ったことがあるんですが、これにヒントを得まして時空の泡を使って時間移動ができないかと考えました」

「時空の泡?」

ハルヒが質問した。俺は一度聞いてるはずなんだが、理解の悪さに加えて高速で消える記憶のせいでほとんど覚えていない。

「時空の泡というのは、この宇宙が生まれたときに生じた、次元構造をもったエネルギーという説明でいいでしょうか」

ハカセくんは教師である長門に向かって聞いた。長門は黙ってうなずいた。

「どうやってその泡を作るの?」

「そのへんに存在しています。見えていないだけで、プランク長さという極々小さな単位の世界でたくさん生まれては消えています」

「それってマルチバースのこと?」

「そうですね。十のマイナス三十五乗メートルという小さな世界では、時空の泡は無数に生まれているので、もしかしたら僕たちのいる世界の兄弟にあたる宇宙がいくつも存在しているのかもしれません」

「なるほどぅ」

なるほどぅじゃないよ。ほんとに分かってんのか。

「それで、このエネルギーの泡の中は別の世界になっていまして、僕たちのいる時間とは独立した時間軸が存在していると考えられます。図をご覧ください」

ハカセくんは宇宙空間を背景に浮いている太陽のような絵をパネルに貼った。

「このまわりを巡っている映画のフィルムのようなものが僕たちの時間です。それに対して、中心にある太陽のようなものが時空の泡の独立した時間です。この泡の中に入ってしまうと、僕たちのいるどの時間にも関係なく存在できます。つまり、僕たちのどの時間にも戻ってこれるわけです」

「その泡というのはブラックホールのように時間が停止しているんですか」古泉が尋ねた。

「止っているというよりはこの周りにあるフィルムとは関係なく存在している、ということになるかと思います。泡には泡の時間があります」

「なるほど」古泉はうなずいた。

「たとえば、太陽と地球を思い浮かべてください。地球には三百六十五日という公転と、二十四時間という自転の時間があります。太陽から地球を見ると、公転も自転の時間もその場で観察することができます。地球上にいる人は四季が巡るのを一年かけて待っていますが、太陽から見れば夏も冬も同時に観察できるわけです」

ハカセくんは息を吸ってまとめた。

「太陽の位置は地球時間に対してゼロです。この理論をゼロポイント時間理論と呼ぼうと思います」

おぉーうとハルヒが拍手をした。俺は相変わらず分かったような分からないような、こういう話になると眠気のほうが頭を占領してしまってなかなか理解に至らない。

「その泡って目に見える状態なのか?」

「泡は僕たちの次元の外にある特殊な次元です。こちらから見れば、空間内部に空いた球状の穴のように見えるでしょうね」

なるほどね。俺は閉鎖空間へいさくうかんの壁に触れたときのぷにょぷにょした感触を思い出した。

「今日のところは以上でよろしいでしょうか。まだまだ勉強しないと皆さんの前で発表するのは難しいです」

「おつかれさま」

俺たちはうなずきながら再び拍手をした。これでミーティングは終わりかという様子でハルヒは腰を上げかけたのだが、古泉がハルヒに言った。

「社長、ここでひとつ事業の展望をお聞かせいただけないでしょうか」

「え、あたしが?」

「はい。タイムマシンでどのような事業展開をお考えか、ご高説こうせつを伺いたいと存じます」

いつもなら、なに変なこときつけてんだと心の声で古泉をにらむところなのだが、これは俺たちの描いたシナリオだった。

「そうねえ……」

「ここで一発、士気を上げるための演説を」

あんまり社長社長と持ち上げると後が怖いんだが。

「分かったわ。えー、あたしのタイムマシン開発は、まず歴史的に曖昧あいまいな事象の検証。純粋に考古学の学術的利用ね」

え、まじでそんなこと考えてんの?四人はぽかんとした顔をハルヒに向けた。

「なによ、あたしだって私利私欲を捨てて学問のために尽くすことだって考えるわよ」

「すばらしい。拝聴はいちょうしておりますから続けてください」

「まず日本人のルーツはどこなのか。大陸から渡ってきたってのが定説だけど、あたしの先祖を類人猿かイブまでたどってみせるわ。それから大和創世の史実を裏付けることね。当時の文献ってほとんどないっていうじゃない、日本史の根底の部分が曖昧あいまいだなんてゆるされないことだわ」

ハルヒはいつから日本人の考古精神に目覚めたんだろう。

「自らのルーツを知らずしておのれを語れず、これがタイムマシン開発にかけるあたしのモットーよ」

「さすがは涼宮さん、科学は人類の進歩のためにある。利益追求時代に一石を投じる言葉ですね」

「すごいわぁ」朝比奈さんが軽くパチパチと手を叩いた。

「えへっ。でしょでしょ」

凡人ぼんじんの俺なんかにはとても持てない思想だよな。俺たち、一生ハルヒについてくぞ」

「……ユニーク」

これが長門の最大の賛辞さんじらしい。

「なんなのよあんたたち、急にいい子になっちゃって。めちぎってもなんにも出ないわよ」

とはいってもハルヒはまんざらじゃないようで、口を餃子の形に開けてのけりながらわははと笑っている。おだてられるのは気分がいいらしい。この分だとひょっとしたら役員報酬ほうしゅうに色が付くかもしれない。

 俺たちは歯が浮くようなセリフをたらたらと述べ続け、たいがい胃が痛くなるほどハルヒを祭り上げた。古泉を見るとうなずいて親指を立てていたので、そろそろおべっか作戦は終わることにした。

 帰りがけ、どうしてもみんなに晩飯をおごるというハルヒに付き合って、俺たちはぞろぞろと飯屋に入った。いつもランチを食ってる店だが。機嫌を良くしたハルヒがビールで乾杯しようとしたのだが、俺はこれから運転があるのでウーロン茶でごまかした。こんなときに飲んでいては作戦遂行すいこうに差し支える。

「どうです、涼宮さんに真正面から反抗するストッパー役より精神的にずっと楽でしょう」

ハルヒと別れてから古泉が言った。

「浮いた歯が抜けそうだぜ」

「僕が長年このキャラを続けられているのも、あなたのように涼宮さんとエネルギーをぶつけ合わないからですよ」

長いものには巻かれろ的なだけだろ。余裕を見せる古泉の言い草にちょっとイライラした。まあ言うのはもっともなのだが。


 俺たちは閉鎖空間へいさくうかんの発生に備えて待機することにした。俺は一度車を取りに自宅に戻り、それから長門のマンションへ行った。夜九時、古泉と朝比奈さんがマンションにやってきた。

「ほんとに閉鎖空間へいさくうかんを切って持ち帰れるのか」

「……成功するかは分からない。空間が少しだけあればいい」

「少しってどれくらい?」

「……数ミリグラム程度」

俺たちがやろうとしているのはつまり、閉鎖空間へいさくうかんが生まれたら速攻で突入して空間の一部をスプーンかしゃもじですくって持ち帰ろうという魂胆こんたんだ。なんせ閉鎖空間へいさくうかんの有効利用など今まで誰も考えたことがなかったので、やれるかどうか長門にも確信がないらしい。

「それで、いつごろ発生するんだ?」

「僕には予測はできないんですが、あれだけ涼宮さんをおだてたのにおかしいですね。今日に限って発生しません」

「お前の説とやらが間違ってたんじゃないのか」

「どうでしょうか。涼宮さんは人からめられるということがなかなかありませんから、なんらかのアクションの材料にはなるはずなのですが」

もっとも、閉鎖空間へいさくうかんの発生を探知できるのは俺以外の三人で、特別な能力のない俺はこいつらの様子を見ているしかない。十一時をまわってもなにも起る様子がないので、今日は泊まっていけばいいと二人をうながした。

「まあ長門がいいと言えばだが」

俺は長門に向かって首を傾げてみた。

「……いい」

待機状態なのでビールは飲めないが、古泉がコンビニで買ってきたつまみをぽつぽつ口に放り込んでいた。

 ぼんやりと取りとめもない世間話をしつつ、時計の針が深夜零時をまわろうとしていた頃、古泉がガバと飛び起きた。

閉鎖空間へいさくうかんです」

そんな、正義のヒーローが変身するみたいにして歯をキラリンと光らせながら言わなくても。ひさびさにかっこいいところを見せられるというのではりきってるのか。俺はとりあえず車のキーを取って上着を着た。

「さて、出動しようか」

「わたしは閉鎖空間へいさくうかんははじめてなのでドキドキしてます」

意外にも朝比奈さんは閉鎖空間へいさくうかん初体験しょたいけんらしい。もしかして長門もはじめてか。

 古泉のスペクタクルショーとやらを見物する気分で、朝比奈さんはポットにお茶とお菓子を用意していた。神人と死闘しなければならない古泉は苦笑していた。俺もどちらかといえば映画か芝居を見に行く気分なんだが。ああそうだ、いつかの約束通りビデオカメラで古泉を撮ってやらないと。


 古泉によると、閉鎖空間へいさくうかんが発生した場所は俺たちの住む町からずっと東のほうらしい。

「時間が押しています、高速に乗ってください」

しょうがない。大枚たいまいはたいて高速道路を飛ばしてやるか。何の因果か、高校の頃に古泉に連れられて閉鎖空間へいさくうかんに行ったそのときのルートをたどっている。

「俺が行ったときと同じ場所か」

「いえ、もう少し南のようです」

都市高速三号から十五号に乗り継ぎ、終点の出口で降りた。

「そのへんで止めてください」

俺はコンビニの駐車場に入れて止めた。

「どうやらこのへんが境界線のようです」

車のドアを開けると、一台のワゴン車が乗り入れてきた。

「古泉、用意できてる?」

「いつでも準備OKです」

後部座席のスライドドアが開いて、なつかしい顔ぶれが現れた。

「あれれ、森さんに新川さん、後ろにいるのは多丸さんですか。お久しぶりです」

歓迎されるのかと思っていたのだが、俺たちがいるのを見た森さんの反応は冷めていた。

「古泉、これはどういうこと?」

「実は別件で彼らも中に入ることになりまして」

「関係者以外は入れてはいけない規則です」

「ええ。ですが涼宮さんの行動をコントロールするために必要なことなんです」

「そう。ではお前の責任以下で処理しなさい。中でなにが起ろうと機関は責任を負えません」

「分かりました」

森さんの態度があまりに冷たいので俺がやめたほうがいいだろうかと考えていると、古泉が耳打ちした。

「すいません。業務上の建前たてまえなので」

機関にもいろいろとしがらみがあるのな。

 森さんはニコっと営業スマイルを見せて言った。

「みなさんお久しぶりです。空間内部では紛争ふんそう地域並みの破壊が行われています。くれぐれもケガをしないように、絶対に迷子にならないようにしてください」

俺たちは遠足に来た小学生のように元気よくハーイと返事をした。あらかじめ森さんにツアーガイドを頼んでおけばよかったな。

 俺たちは車を降りて古泉についていった。長門は四角い水槽のようなものを抱えていた。前にも見たような気がする。もしかして重力子フィールドの箱?

「では空間に侵入します。みなさん手を繋いでください」

三人は古泉に連れられてゾロゾロと歩いた。はたから見れば、大の大人が仲良くお手々つないでいる様子はさぞかし異様な光景だったことだろう。


 目を閉じる必要はなかった。ゼリー状の水の中に入り込むような感覚で世界が変わったことを悟った。

「みなさまようこそ。閉鎖空間へいさくうかんです」

ひさしぶりに見る灰色の天である。夜のはずなのだが、ぼんやりと空の膜が見える。

「それから、あれが話題の神人たちです」

朝比奈さんがわあぁと喜びの声を上げてあわてて口を押さえた。灰色の空間に青白く光る巨人が四体並んでいる。

「……美しい」

長門が青い光を呆然ぼうぜんと眺めながらつぶやいた。もしかしたら見た目ではなくて科学的な測定数値を見ているのかもしれない。

「みなさん、ここからでは見えづらいですからビルの上に登りましょう」

古泉は俺たちをひっぱって、近くの雑居ビルらしい屋上へと連れて行った。前のときのようなデパートは近くにはなかった。

「現在この空間は直径が約三十キロです。完全な球体になっています。位相いそうがまったく異なるため、外部との連絡はできません」

「すごいわ」

ツアーコンダクターの説明に朝比奈さんは感動しているようだった。

「あの神人たちは生きてるの?」

「ええ。もうすぐ始まるはずです」

ああそうだ、映像撮っとかないと。俺はカメラの電源を入れた。

 神人がゆらりと動いた。腰を伸ばし、細長い腕をゆっくりと持ち上げる。四体いるうちの一体が人差し指を突き出した。誰かの仕草に似てねえかこれ。差し出している指が三本になり、次の瞬間、何の合図すらなかったにもかかわらず神人たちが両腕を広げ、前に突き出し、全員が右に向いた。腕を胸のところに引っ込めては出し、引っ込めては繰り出す。完全にシンクロしている。

「すごいわねぇ。音楽が鳴ってたら最高なのに」

「この神人のダンスがどのような意味を持つのか、機関では未だに謎です。各方面の専門家に映像を見てもらったのですが、一説には涼宮さんの宇宙へ向けてのメッセージが含まれているのでないかと」

いや、俺にはなぜか脳裏に流れている音楽があった。なにかで見たことがある、このダンスは。

「これ、どう見てもアニメのオープニングだよな」

「え、そうだったんですか」

「お前テレビ見てないのか」

「ぜんぜん知りません」

「帰ってアニメチャンネルでも見てみろ。ってことはあれか、ハルヒが見てるアニメが再現されてんのか」

「そういうこと、ですかね?」

古泉は首をかしげていた。

 ともかく、目の前で繰り広げられているダンスのスケールもさることながら、足元で崩れていくビル、家屋、ぺしゃんこに踏みつぶされる車、地面から根っこごと引き抜いて投げられる木々の、この神人の持つ壮大なエネルギーには妙に感動した。むかし見た特撮ものでもここまでのリアリティは出せないだろう。カメラのファインダ越しに長門を見るとポリポリと煎餅せんべいを食ってなごんでいる。朝比奈さんはポットからお茶を注いですすっていた。

 音声の聞こえないアニメを見ているような感覚で、三十分ほど神人のパントマイムの芝居が続いた。

「ダンスショーはそろそろ終焉しゅうえんです」

古泉が指差した方向を見ると、いくつもの赤い球が神人に向かって飛んでいった。

「ご覧ください、僕の同志たちです。ほかのより大きめの球が新川、あの動きが素早いのが森です」

初耳だ、人によってサイズやら速度が違うのか。

 赤い球は神人を切り刻み、穴を開けていった。

「では、僕も参加しなければ」

古泉は俺たちから数メートル離れると、旋風せんぷうを巻き起こした。ぼんやりと赤く光る球体がゆっくり浮かび上がった。

「では行ってまいります」

「おう、ケガすんなよ」

古泉が敬礼したような気がしたが、よくは見えなかった。赤い球は一直線に青い神人へと飛んでゆき、腕に絡み付いて切り落とした。俺たちが見ているからか、それともテクニックが上達したのか分からないが、以前に見たときよりスピードが増しているような気がする。

「かっこいいわ……」

「……」

朝比奈さんと長門がうるうるした瞳で古泉の球を追いかけている。まあめったにない古泉の晴れ舞台だ。今日のところはゆずってやろう。


 真夏のホタルより派手に飛び交う赤い球が最後の神人を消し、古泉が戻ってきた。

「いかがでしたか。特撮にも勝る実にリアルなショーだったでしょう」

「全部撮ってやったぞ」俺は液晶ファインダの中の古泉に向かって言った。

「ありがとうございます。後世に残すいい映像になったと思います」

古泉はカメラ目線でガッツポーズを見せた。

「そろそろ舞台は閉幕です。最後にちょっとしたすごいものが見られますよ」

俺は一度見たから知ってるんだが、まあ黙っておこう。

 灰色の空間の天井が割れ、赤い光が差し込んできた。轟音とともに空間が壊れ、欠片かけらが飛び散り元の空間が現れた。車の音、人の話し声、排気ガスの混じった生ぬるい風のにおい。俺たちの世界の空気が戻ってきた。

 長門は抱えてきたガラスケースをじっと見つめていた。中で何かが動いている。

「長門、それ何だ?」

「……異空間を一部閉じ込めた。位相無変換いそうむへんかんフィールド」

なるほど。そのケースのなかでぷよぷよした球体の鏡のように動いてるのは閉鎖空間へいさくうかん欠片かけらか。いつだったかの文庫本のようにゆっくり自転している。

「目的は達したようですね。そろそろ帰りましょう」

俺たちはビルの屋上から降りた。朝比奈さんは映画を見たあとの感動冷めやらぬ様子で紅潮しているようだった。

 俺はコンビニの駐車場で森さんたちに呼びかけた。

「どうも、おつかれさまです」

「大丈夫でしたか?」

「ええ。遠くから見物させてもらいました」

「あまり一般には公開できないものなのですが」

「ええ。俺たちも仕事上必要な調査でして」

森さんは長門が抱えている箱の中身を凝視ぎょうしした。

「それは、まさか……」

「ええ、あの空間のサンプルです。物理学的見地から調べたいことがありまして」

なんてかっこいいことを言っているが、まさかタイムマシンを作るエネルギーにするとは言えなかった。

「持ち出したりして大丈夫なのでしょうか」

「大丈夫だと思います。長門の管理下ですから」

森さんはちょっとだけ考えて言った。

「あの、よろしければ後日、その調査結果というのをいただけないでしょうか」

「え、ええっと。長門、どうしよう」

「……いい。言語化して報告書を送る」

「ありがとうございます。守秘義務しゅひぎむは守りますから」

俺はうなずいた。お互いいろいろと秘密で縛られた仕事してますからね。

 機関のほかのメンツにも挨拶をして、俺たちはその場を後にした。長門と朝比奈さんがじっとケースの中を見つめていた。この閉鎖空間へいさくうかんのカケラ、いろんな意味で注目の的らしい。


「……買い物を、申請する」

長門が出社するなりハルヒに言った。

「え。なに買うの?」

「……加速器一台。そのほか測定機器数台。用途、時間移動技術の実験機材として」

「どれくらいするの?」

「……数千万」

「いいわよ」

おいおい、えらく気前がよくないか。電子レンジみたいな家電を買うのとはわけが違うんだぞ。

「副社長決済よ、あんたみたいな平とは待遇たいぐうが違うの」

平で悪かったね平で。これっていじめだよな。

「よろしければ手配しましょうか。卸値おろしねで入手できるかもしれません」

「助かるわ古泉くん」

「おい古泉、加速器って受注生産の重機器だろう。流通で卸値おろしねなんてあんのか」

「僕の知り合いに医療機器を扱っている業者がいましてね」

ま、またそれか。どうせ機関のコネで裏で手をまわすんだろう。


 似たような展開が何度もあったような気がするのはさておき、手配師古泉の手腕で翌日早々に機材が搬入はんにゅうされてきた。ビルの前に何台もの重量トラックが止まり、ちょっとした渋滞を巻き起こしていた。すいませんねえ、社長の道楽のせいでご近所さんの交通を邪魔しまして。上から見ていると、ハルヒが交通安全と書いた赤い腕章をつけピリピリ笛を吹いて交通整理をしていた。な、なにやってんだあいつは。

 あんなでかい機材どこに置くんだと心配していたのだが、これまた偶然にもビルの二階が全フロア空き部屋になっていて、そこを実験室として借りることになった。

「よく部屋が空いてたな」

「今朝ビルのオーナーから空き部屋が出たけど使わないかと連絡がありましてね」

いくらなんでも出来すぎだろ。機関が財力にモノを言わせて追い出したに違いない。まったくハルヒのこととなったら恥も外聞がいぶんもないんだからな。見透かすような視線を横目で古泉に送ってみたが、こいつはいっこうに動じずにっこり笑うだけだった。

 いったいどれくらいの規模の機材なのかと、古泉と連れ立って実験室に入ると、ヘルメットをかぶった工事の業者に危ないので出て行けと言われ、とっとと事務所に戻った。

「キョン、工事のおじさんの邪魔しちゃだめよ。小学生じゃないんだから」

「分かってるさ」

ってお前がのぞきに行こうとして注意されたのを俺は知っているんだが。

 長門が分厚いマニュアルらしきものを読んでいた。造船やら重機やらを扱っている日本のメーカーのロゴが入っていた。これって国産だったのか。

「高エネルギー研究は日本のお家芸ですよ。政府支援でやってるくらいですから、各国から注目を浴びています」

「そうだったのか。日本もなかなかやるな」

業者が親切なことに通電テストまでやってくれ、検品にうやうやしくサインをしたところで納品書を受け取った。これで煮て食おうが焼いて食おうが俺たちのもんってことだな。

「それはそうと、加速器の運転には放射線取扱ほうしゃせんとりあつかい主任技術者と電気主任技術者の資格がいりますが、どなたかお持ちですか」

「そんなもん持ってないぞ。俺ずっと文系だし。まさか朝比奈さん持ってないですよね」

「え、わたしは時間移動主任技術者しか持ってないです」

「長門は?」

「……すでに、取得済み」

ほんとに?また情報操作とかじゃないのか、と俺と古泉が疑いのまなざしを向けていると、長門はイライラと机からA4サイズの紙を取り出し、壁にガンガンと素手で釘付けにした。タイトルには放射線取扱ほうしゃせんとりあつかい主任技術者免状めんじょうと書かれてあり、文部科学大臣の直筆じきひつサインもあった。どうやら本物らしい。すまん長門、そう怒るな。


 長門の主導でハカセくんの時間移動技術の実験がはじまった。

「これから第一回目の実験をはじめようかと思います。準備よろしいでしょうか」

「あ、待って待って。みくるちゃん、ちょっとこっちに来なさい」

「え、ま、まさか涼宮さん」

「そのまさかよ。今日という今日は着てもらうわ」

「いやだっていったのに……」

「みくるちゃん、これは趣味じゃなくて仕事なのよ。無病息災むびょうそくさいを願っておはらいをしてちょうだい。さもないとタイムマシンが爆発するわ」

朝比奈さんのコスプレが見られるのは嬉しいんだがなハルヒ、あんまりぶっそうなことを言うな。お前がそういうことを口にするとなにかとわざわいが降ってくるんだ。

「じゃ、じゃあコスプレ手当てをくださいっ」

朝比奈さんが意を決したように給料の増額を申請した。いやぁ、世の中金だ、地獄の沙汰さたも金次第よ。

「いいわ。いくらほしいの?」

「ええと、……」

朝比奈さんはハルヒの耳元でごにょごにょ言っていた。

「それはちょっと高いわ。じゃ、これくらいでゴニョゴニョ」

「いいです。交渉成立ね」

世の中どんなことも金次第だと納得したのか、巫女みこ衣装を身にまとって現れた。この神々こうごうしいお姿を拝見するのはずいぶんと久しぶりな気がする。毎日見られるならお賽銭さいせんを投げてもいいくらいだ。ハカセくんははじめて見るらしく、目を細めてハァとため息をついていた。

「すごくよくお似合いですよ、ウサギのお姉さん」

「あ、ありがとうハカセくん」

高校生のころのように顔を赤くする朝比奈さんであった。長門のほうを見ると自分が着るつもりでスタンバイしてたようで、ブラウスのボタンをいじっていた。

「それから有希、あんたにもちゃんと用意してあるわ」

「……分かった」

心なしか喜んでいるようである。

 朝比奈さんと長門がおそろいの巫女みこ衣装で、ここだけ初詣はつもうでかという華やかな空気が部屋をたした。長門が玉ぐしをつつましやかにふって、朝比奈さんが祝詞のりとを述べた。

「て、天にまします我らが父よ~願わくば~」

朝比奈さん、それってなんか微妙びみょうにちがくない?


 巫女みこ衣装を着替えることもなく、長門は実験に取り掛かった。実験室は二つの部屋に仕切られていて、片側にでかいドーナツ型の加速器と測定機器、もう片方はパソコンがずらりと並んだ制御ルームになっていた。

「……冷却パイプ、電源投入」

「スイッチ入れます」

ハカセくんが赤いキャップのついたトグルスイッチを倒した。パソコンのモニタに表示されている折れ線グラフがどんどん下がっていく。これは温度のモニタか。

「温度安定しつつあります。マイナス二百六十度付近です」

「……このまま、二百七十三度まで待つ」

「了解」

それから十五分くらいじっと数値を見つめていた。長門が口を開いた。

「……磁性体コア、稼動」

「電源入れます」

ブーンといううなるような振動が部屋全体に響いた。絶対零度の冷却パイプのせいか、部屋が寒い。

「……重イオンをリングに入射」

「イオン源、稼動します」

落雷を直下ちょっかで聞いたことがあるだろうか。アンテナなんかに落雷すると、ピカッと光るのと同時にドンという振動が伝わる。あれと同じ音が建物全体に響いた。パラパラと天井から粉が落ちてきた。こりゃオーナーに怒られるぞ。

 ドンドンと低音の振動が数秒響き、やがて静かになった。

「今どういう状態なんだ?」

「……原子核を分解してプラズマを作っている。それを時空の泡に注入する」

なにげにすごいことやってんだな。長門はポケットからビー玉を取り出した。

「それ、もしかして昨日のあれか」

「……そう」やたらコンパクトになっちまってる。

「昨日のあれってなによ」

「あ、ああ。ええとなんだっけ」

「……こうエネルギー加速器研究機構かそくきけんきゅうきこうでもらってきた、時空の泡」

「へええ、そうなんだ。筑波のアレでしょ?すごいじゃない」

そんなもんくれるのかあそこは。ハカセくんが驚いて目を丸くしてるじゃないか。

 長門がビー玉を持って実験室に入っていった。監視用の窓からのぞいてみると、リングから脇に伸びた棺桶かんおけみたいな箱にビー玉を仕込んでいる。

「……プラズマ開放。照射開始」

席に戻った長門がキーボードにコマンドを打ち込んでEnterを押した。数秒間はなにも起こらなかった。

 そのときである。俺が異変に気が付いたのは、蛍光灯しかないはずの部屋の中が妙に赤く照らし出されてからだった。俺は赤い光の元を探してふりむいた。それは古泉の体から発していた。

「おい古泉、なにやってんだ!」

「ま、まさかこんなことが。力が開放されていきます!」

長門がエマージェンシーモードと叫ぶのと、実験室から銀色の風船のようなものがふくらんでくるのとが同時だった。朝比奈さんが真っ青になって口を抑え、ハルヒはなにごとかと慌てふためいていた。

 部屋の中の映像が足元から砕けるように落下してゆき、ちょうど栓を抜いた風呂の水のようにグルグルと回転しながらはるか下方へと吸い込まれていった。俺は大声で長門の名前を呼んだが自分の声すら聞こえず、全員の姿がゆがんで宇宙の深遠しんえんへと消えていった。俺はただ闇の中を、猛烈なスピードで落ちていった。


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「キョンくん、大丈夫?」

呼ばれて気がつくと、朝比奈さんがそばに座っていた。俺はむくと起き上がっていた。

「あれ。朝比奈さん。ここはどこです?」

「それが分からないの。わたしも今気がついたところ」

俺と朝比奈さんはまわりをキョロキョロと見回した。どこかの田舎の草原らしい。畑のようなものがところどこに見える。ほかの四人はどこいっちまったんだろ。

 俺は立ち上がって土を払った。時計を見るとまだ一時過ぎだった。

「それにしても、ここ、どこなんでしょう」

「キョンくんの携帯ってGPS付いてるわよね?」

「ええ。めったに使いませんが」

携帯を開いてみたが圏外だった。見渡したところ中継アンテナも立ってそうにないな。

「衛星の電波が入ってきませんね、なんででしょう。それに圏外だから地図が読み込めないんで使えそうにないです」

「そう……」

朝比奈さんがやけに元気がない。ないというより顔色が悪い。

「どうかしましたか、具合でも悪いですか」

「いいえ。キョンくん、驚かないで聞いて。実はTPDDが壊れてしまったみたいなの」

ええっ、とは言わなかった。驚いたことは驚いたんだが、それが壊れたら困るのはむしろ朝比奈さんだろう。未来に帰れなくなるよな。

「そんな。朝比奈さんの時代に帰れないじゃないですか。壊れるって前みたいに自分に盗まれたとか、そういう?」

「いいえ。ここにあるのは分かるの」

朝比奈さんは自分のこめかみを指した。

「あるんだけど機能しないの。さっきの実験で赤い光が見えた瞬間に壊れちゃったみたい」

「修理できないんですか」

「わたしには無理ね。一度未来に戻らないと」

タイムマシンを修理するにはタイムマシンが必要、でもそのタイムマシンが壊れているというこのジレンマ。だがまあ、長門ならなんとかなるかもしれない。

「とりあえずほかの四人を探しましょう。そのTPDDも長門ならなんとかできるでしょう」

「そうね。ここがどこなのか誰かに聞いてみましょう」


 目をらすと遠くに、というよりほとんど地平線のかなたに民家らしきものが見えた。そこに向けて人が歩いた細い道が走っている。俺と朝比奈さんはとぼとぼと無言でそっちに向かって歩いた。

 それにしても、見渡す限りの草原だった。こんな平野が日本のどこかにあったなんてちょっと想像にかたい。空気も澄んでいて、車の音もしない。たまに遠くで鳥の鳴き声が聞こえるくらいだ。

「いい景色ね」

「そうですね」

「今度みんなでお弁当持って来たいわね」

それもいいですね、と言いかけたところで、民家の様子がふつうと違うことに気が付いた。テレビのアンテナがない。電柱がない。屋根瓦がない。どうも農家の小屋のように見えるが。

「よっぽどの過疎地なんでしょうね。家が一軒もないなんて」

「キョンくん、あれは家みたい。人がいるわ」

家の造りは草葺くさぶきというか藁葺わらぶきというか、やけに古風だ。北陸とかにある合掌造がっしょうづくりっぽいな。なんだろう、都会を流れる一級河川の河川敷に住んでるホームレスみたいなもんだろうか。

 即効で世界遺産か重要文化財に指定されそうな勢いの草葺くさぶき屋根の家が数件連なっていた。集落しゅうらくのまわりに石が積んであって小さな垣根かきねになっている。子供らしい人影がじっとこっちを見ていたが、やがて走り去っていった。

「なんでしょう。それにしても変な家並みですね。もしかして遺跡かなんかでしょうか」

「なんでしょう……?」

俺と朝比奈さんの頭にはハテナマークが飛んでいた。

 子供が走りこんだ小屋の中から、その子の親らしき顔がひょいと覗いた。またひょいと引っ込んで、今度は大柄なおっさんが……おっさん!?なんてかっこしてんだ!!Tシャツ一枚に腰ミノ一枚って。せめてズボンくらいは履いて……ドタドタとこっちに向かって走ってくる。

「あ、朝比奈さん、なんか変なのが走ってきますよ」

「ど、どうしましょう。襲われたりするでしょうか」

大男がすごい形相ぎょうそうをして、長い棒のようなものをブンブン振り回してこっちに向かってきた。や、槍ですかそれ。こういうときは俺は男として朝比奈さんを守らなければ、

「に、逃げましょう朝比奈さん!!」

「はいっ!」

忘れていた。朝比奈さんはすその長い巫女みこ衣装だったんだ。俺がすそを踏んづけるのと二人が転ぶのが同時だった。起き上がって後ろを見ると、むんずと胸倉むなぐらをつかまれた。というよりネクタイをつかまれた。

「く、くるしい放せ」

「なにやつ、どこから参ったのであるか」

な、なにその話し方。

「ええと、北口駅から参ったのである」

「北口駅とはどこぞ」

「北口は、北口である。南でも西でもない」

北口駅を知らないなんてかなり遠くに来ちまったな。困った。大男が朝比奈さんをじろりと見て、

「そっちのおなごは連れか」

「さよう、連れにございます。そのお方を放してたもれ」

どこで習ったのかしらんが朝比奈さんが歴史的方言で答えた。

「そうはいかん。エミシの間者かんじゃやもしれぬでな」

エミシ?誰それ。大男は獲物を引いて帰る猟師のように俺のネクタイを引っ張った。

「きりきり歩けい」

朝比奈さんは小さくなって俺と大男の後を歩いてきた。垣の中に入ると人が集まってきた。えらくクラシックなファッションだなと思っていると、皆おっさんと同じ格好をしている。おっさんが着ているTシャツだと思っていたのは、昔教科書で見た卑弥呼ひみこが出てくるような弥生やよい時代か縄文じょうもん時代だったか、あのイラストに描いてあったような一枚布の衣だった。腰ミノはステテコの短いやつみたいな。ヘアスタイルは耳のところで丸く結んでいるが、俺の稚拙ちせつな表現力で説明するなら、イメージにいちばん近いのはレイア姫だろう。

 見回したところ十軒くらいは小屋がありそうだ。茶碗を逆さまにして地面に伏せたような、って、これは縦穴式住居じゃないか。煙が立ってるところを見ると、どう考えても遺跡じゃない。

 俺と朝比奈さんは竹で作られたおりみたいな小屋に押し込まれた。なんか家畜の糞の匂いがするぞ。

「お前たち、しばしここにいろ。役人を呼んで参る」

あの、できれば逃がしてくれませんか。こっちには宇宙人未来人超能力者がいるんです。怒らせないほうが身のためですよぅ……とほほ、俺って役立たずだ。

「キョンくん、どうしましょう」

「まったく、どうすればいいんでしょうね……。あの、たぶん問題なのはここがどこかじゃなくて、いつかですよね」

「わたしもそれを考えていたんだけど、ここって縄文じょうもん時代か弥生やよい時代か、あのへんかしら」

俺もそのへんの歴史は曖昧あいまいにしか覚えてなくて、ええと、仏教伝来お寺にご参拝ざんぱい、より前は分かりません。

 竹の柵を握って外の様子をうかがっていると、ガヤガヤと人が集まってきた。村の住民らしい。俺と朝比奈さんはとらわれの身にもかかわらず、にっこり笑って手をふってやった。子供が何人か手を振り返してきた。くそう、あいつら俺を見て笑いやがったな。動物園の猿の気持ちが分かる気がする。

 そのうちに人だかりが急に静かになり、さっきのおっさんが戻ってきた。何人か人を連れてきている。これまた、なんて格好だ。腰に下げてるのは剣?鉄のよろいですかそれ、なにその半キャップみたいなヘルメット、プッ。笑っちゃ悪いよな、ここは弥生やよい時代かそこらへんなんだ。

「おい、連れ出せ」

「は、はい」

役人らしいやつが命令した。見たところ小さい割にはおっさんより偉い人らしい。竹の柵を開けて俺のネクタイを引っ張った。このおり、その気になりゃ壊せたんだ。何やってんだ俺。

「名はなんと申す。どこから参った」

「ええと、」

キョンですと言おうとして俺が口篭くちごもっていると、役人が朝比奈さんを見て目をまん丸に見開いた。

「こ、これはっナカツヒメ様!!」

そう叫んで朝比奈さんの足元に額をこすりつけた。

「お役人さま、どうなすったんで」

「バカモノ!!こちらにおわすお方は◆※△〓∈●!!」

役人がなにごとかわめき散らしておっさんをぶん殴った。あれ、なんかデジャヴを感じるんだが気のせいか。

「ナカツヒメ様。下々の者がご無礼を働きまして、平に平にご容赦ようしゃを」

「あ、いえ、無礼とは思っておりませんが……」

「ともかくこちらへ。貴人きじんおりに閉じ込めるなどもってのほか」

二人が連れ出されると村の住民が全員ひれ伏していた。おっさんもガタガタ震えて頭を下げていた。

 お役人とやらが膝をついて言った。

「ただいまミコシを呼びます、しばしお待ちを」

「ええっと、かたじけのうございます」

朝比奈さんがちょっと考えて古語こご風にしゃべった。

「そちらのお方は従者でございますか」

役人が俺のほうを見て言った。

「これは、よ、の息子である。無礼があってはならぬ」

「ええっ」朝比奈さん、俺っていつからあなたの養子になったんですか。

「これはミコ様でいらっしゃいましたか。存ぜぬこととはいえ、重ね重ねご無礼の段、おゆるしを」

「う、うむ。大儀たいぎである」

大儀たいぎがなんなのか知らんが、なんとなく偉そうにしておいた。え、俺もミコ様?

 朝比奈さんが耳元でささやいた。

「この人たち、どうして頭を下げているんでしょう」

「その巫女みこ衣装のせいじゃないですか。巫女みこさんって神様に使える人だから、きっとこの時代じゃ王様並みに偉いんですよ」

「そ、そうかしら」

朝比奈さんはポッと頬を染めて、巫女みこコスプレの思いがけない威力に感動したようだった。役に立ったじゃないですか。俺も帰ったら平安貴族コスプレでもするかな。

 ミコシとやらが来たが、足が横に生えたコタツみたいなものが二つ俺たちの前に置かれた。

「これ、なんですか」

御輿みこしにございます。お乗りください」

なるほど、偉い人が乗るやつね。祭りのお神輿みこしの語源はこれか。俺は靴を両手に持って御輿みこしに座った。四人の従者が前と後ろで肩の上に抱え上げ、重そうにそろそろと歩いた。進むとかなり揺れたが、手で支えられるようにまわりに柵がついていた。まったり牛車ぎっしゃとかのほうが楽そうだが、車輪とかはまだないのかもな。

「ナカツヒメ様、いずこへ向かわれますか」

「ええと」

朝比奈さんはどう言えばいいの、という感じで俺を見た。

「おい、ここは誰の土地か」

「はっ。この一帯はオキナガタラシヒメ様の地所じしょにございます」

「じゃあその人のところにやってくれ」

「かしこまりましてございます」

ミタラシだかキナガシだか知らんが、とりあえずこの辺でいちばん偉いやつのところにでもやっかいになろう。なんせ朝比奈さんは巫女みこだからな。悪い待遇たいぐうはしないだろう。

 役人を先頭に、長い行列ができた。朝比奈さんの乗った御輿みこし、その後ろに俺の御輿みこしが続いた。


 眠くなりそうな午後の日の下で行列はゆるゆると歩き続け、小一時間してお屋敷らしいものが見えてきた。草葺くさぶき屋根はさっきの小屋と変わらなかったが、農村の地主風の大きな家という感じのものがいくつか並んでいた。そのまわりを低い塀で囲ってあり、さらに外側には三メートルくらいの堀があって水が流れている。船が浮いているところを見ると近くに川か海があるようだ。

 堀の上にかかった橋を渡って門の前に着くと、先頭を歩いていた役人が突然大声で叫び始めた。

「ナカツヒメノミコト様ご来朝。オキナガタラシヒメノミコト様にお目通り願いたい、願いたい」

江戸時代のドラマに出てくるようなでかいお屋敷ではなく、こじんまりした門だった。門番は分かっているというふうにくぐり戸を開けた。役人の口上があまりにかっこよかったので、登場を知らせるラッパでも鳴り響くのかと思ったが塀の中は静かだった。

 御輿みこしから降りて靴を履いたが、屋敷の中には案内されなかった。縁側らしきところに数人いるが目を合わせようとせずじっと気をつけをしている。役人と似たような剣を腰から下げているが、衛兵なのかもしれない。そっちの剣ほうが豪華な飾りがついていて高そうだが、偉い人なのか。こいつらの着てる服は昔の中国のドラマかなんかで見た覚えがあるんだが、三国志だったか、なんとなくあれに似ている。

 役人がこそこそと俺のそばに近寄って耳打ちした。

「ミコ様、ミコ様……、御前ごぜんですぞ」

振り返ると従者が全員地面にひれ伏していた。俺たち客人なのに、ここにいる人はよっぽど偉い人なんだろうな。俺と朝比奈さんは砂利が敷かれた地面の、一段高くなったところにひざまずいた。

「あれれ~、ナカツヒメにオオサザキではないか。申してくれればよかったのに、来るなら迎えを出したさぁ」

どっかで聞いたような声だな、と俺はゆっくりと顔を上げた。その声の主を見て、こいつは驚いた。

「え、つ、鶴屋さ……」

朝比奈さんが目を丸くしていた。

「さんではないですよね……」

「なんと申した?ツルヤ?誰じゃなそれは」

ここで、「あれれキョンくん、お使いだったのかい」などと言われても不自然ではなかっただろう。鶴屋さんにしては歳を取りすぎているが、そのイントネーションと立ち振る舞い、それからちょっとだけ覗いているかわいい八重歯、どう見ても鶴屋さんなんですが。

「し、失礼しました、ええとオキナガ……様。ごきげんうるわしう」朝比奈さんが再び頭を下げた。

「お主も息災そくさいでなによりである。オオサザキも元気そうじゃの」

「あ、はい。オキナガ様も変わらずおきれいで」

「あははっ。はお主の祖母ではないか、お世辞は抜きでなっ」

ええっ、あなた俺のおばあちゃんなんですか。今日は朝比奈さんがおふくろになったり鶴屋さんがおばあちゃんになったり忙しい日だな。

「それにしてもナカツヒメはともかく、オオサザキはけったいな衣をまとっておるの。近頃は百済くだらでそういうのが流行っておるのかの」

鶴屋さんに見えるこのおばあちゃんは俺の背広とネクタイを指して言った。いくらなんでもこれじゃ時代錯誤さくごしすぎだな。

「えっと、実はインドから仕入れまして。オキナガ様にもお目にかけようかと」

「ほぅ。インドとはいづこかの」

この時代はインドって言わないのか。

「て、天竺てんじくです」

「ほーぅ。天竺てんじく?……天竺てんじくのう。それはどこかの」

困った、天竺てんじくとも言わないのか。

「ええと、百済くだらのずっと南の西です」

「というとくれかの」

くれくれってえと中国だよな。

「さらにまだ南ですね」

「さようか。お主の舶来はくらい好きは聞いておる。そのうちにも見せてたもれ」

「はい。是非ぜひに」

「して、何用かな。聞けば、二人して野っ原をさまようておったそうではないか。なにごとかの」

鶴屋さんは昔の中国の貴族が着るような衣装を着て、金細工の冠を被っていた。あきらかにそのへんのやつらとは身分が違う。巫女みこどころではなさそうだ。

 どう説明したものか、俺と朝比奈さんは顔を見合わせた。

「どうした、なにがあったのか。これ二人とも黙るでない」

朝比奈さんが口を開いた。

「じ、実はTP……、ふ、船が故障しまして、それで方々をさまようておったのであります」

嘘をつけない朝比奈さんがなんとか説明しようとしていたが、まあそれもあながち嘘ではない。時航機じこうきは時間を旅する船みたいなもんだからな。

「なんと。それで船は無事であったか」

「沈んでしまいました」

「従者はどうした」

「乗っていたのはわたしと息子の二人でした」

「そうかそうか。無事でなによりである。館でゆっくり休まれよ」

「おありがとうございます」

二人して頭を下げた。やれやれ、やっと一休みする場所にありついたな。


 鶴屋さんがすその長い衣装を引きずって奥へ引っ込み、ここでやっと屋敷の中へ通された。中はかなり広かったが、ずっと板張りだった。畳はまだ使われていないらしい。廊下を歩きながら朝比奈さんとヒソヒソ話した。

「キョンくん、どうして鶴屋さんがこんなところにいるんでしょう?」

「あれは鶴屋さんじゃなさそうですが」

「ええ。でもすごく、似てますよね」

「それより、あの鶴屋さんはどうして俺たちのこと知ってたんでしょう」

「さあ……」

「朝比奈さんってこの時代に来たことあります?」

「いいえ。七夕より過去にはさかのぼれないはずなの」

そういえば前にもそういう話をしてたな。ハルヒが作った時空のひずみのせいで過去には行けないとか。TPDDが壊れてしまった今ではそれも確かめようがないな。え、ってことは俺も帰れないってことじゃないか!さっさと気づけよ俺。

「もしかしたらここ、平行世界じゃないですか」

「分かりません……。もしそうだとしてもTPDDは使えないわ」

「どこかに長門がいればいいんですが。あとの三人もどこかにいるかもしれませんし」

「そうね。とりあえず長門さんを探しましょうか」

「この鶴屋さんも本人と変わらず親切そうだし、とりあえず世話になりましょう」

他人の空似そらになのか、俺たちの知る鶴屋さんに由縁ゆえんのある人なのかは分からなかったが。


 案内されたのは朝比奈さんとは別の部屋だった。偉い人でも男女は別とみえる。ひんやりと冷たい板張りに壁は土壁と木の板だった。ガラスはもちろん、障子もまだないようだ。四角い長コタツみたいなのは寝床?布は敷いてあるがこれまた板張りだった。とりあえず横になってみたが、こりゃ腰が痛くなりそうだ。

 夕方になって侍女か召使らしき女の人が呼びに来た。

「あの、ミコ様、うたげの支度ができました」

うたげですか。すいません、男用の服を借りれませんか」

鶴屋さんとはいえ、さすがにこの汚れたスーツじゃ失礼だろう。女の人は今すぐお持ちいたします、と言って引き下がった。それにしてもミコ様ミコ様って、まさか巫女みこ衣装を持ってきたりせんだろな。俺にはコスプレの趣味はないんだが。

「ミコ様、お召し物でございます」

「あ、ああどうも」

持ってきてくれたのは巫女みこ衣装ではなくて、やっぱり古代中華風の絹の服だった。唐衣からごろもとかいったっけこれ。聖徳太子が着てるようなのはないのか。着付けが分からないので手伝ってもらった。どうやら冠も被らなくてはならないらしい。重いけどこれは聖徳太子っぽいな。被るというより頭に乗せてるって感じだが。

「あの、いつ頃からこういう格好をしてるんですか」

「これはオキナガタラシヒメ様が百済くだらよりお持ち帰りあそばせたものにございますが」

なるほど。大陸から伝わったコスプレか。

 晩飯のうたげ会に呼ばれる前に朝比奈さんの部屋を訪ねた。

「あら、すっごく似合うわキョンくん」

「そうですか、ありがとうございます」

「前から思ってたんだけど、キョンくんって貴族顔よね」

なんですかその貴族顔って。眉毛剃ったりお歯黒はぐろ塗ったりはしませんけど俺。

「なんとなく都の人って感じがするの。烏帽子えぼしかぶって蹴鞠けまりとかしてそうだし」

「してませんしてません」

二人で連れ立って広い部屋に案内された。いちおう俺は息子って設定らしいんで、朝比奈さんを先に歩かせた。

 晩飯にしてはやけに早いなと思ったが、そういえば電気のなかった時代、特に油とかロウソクが貴重だった時代は日が暮れる前に晩飯を食うのらしい。なにかで読んだ。

「いよぅ、ナカツっちにオオサザキ、よう来た。皆のしゅう主賓しゅひんが参ったぞい」

長い長いダイニングテーブルについている鶴屋さん、すでに出来上がってるようである。

「オキナガ様、皆様、どうもお招き賜りまして」

「固いことは申すな、さあ呑ま呑ま」

俺と朝比奈さんが深々と腰を曲げて挨拶をしようとすると鶴屋さんが手を振って座らせた。テーブルには家来らしい人たちが座っている。二人は鶴屋さんの両隣に座らせられた。いいのかこんな手厚い招待受けて。

「さあ、せ、呑め」

目の前に素焼きのでかい皿が置かれ、それは皿じゃなくて杯だったのだが、白いにごり酒が並々と注がれた。

「こ、これを呑めと」

「なんとぅ、男が呑めなくてなんとする。それイッキに」

「は、はあ」

しょうがないので皿を抱えてチビチビと飲み始めた。溺れるカエルみたいに途中で息継ぎしながらコクコクと、飲み干すのに数分かかった。

「いよっ」

全員がチャッチャッチャと三回手拍子てびょうしをした。そういうならわしなんですか。

「うまい酒ですね」

「そうであろうそうであろう。が特別に仕込んだ酒であるからの」

そうは言ったが、ただのお世辞だ。だいたい俺は酒に弱いし、味もいまいち分からん。米で作ったにごり酒らしくアルコール度が低く、やや甘くて飲みやすい気はする。

 イッキで思い出した。

「オキナガ様、お尋ねしたいことがございます」

「固いことは申すなと言うに。かような席ではおばあちゃんと呼べ」

「では、おばあさま」

「なんだいオオサザキ」

「実は人を探していまして」

「ほう、それでさまようておったのか。して、誰を探しておる」

「男が二人、女が二人。男のほうはたぶん俺と同じような格好をしていると思います。女のほうも異国の服を着てまして」

「最近は異国のころもが流行っておるのかの」

「いえ、そいつら異国から来たので、もしかして迷子になってるんじゃないかと」

「さようか。これ、左大臣さだいじん

大臣と呼ばれた爺さんがそばに寄った。

「オオサザキ、その御仁ごじんの名はなんと申すか」

「男は古泉、女は涼宮、長門と言います」ハカセくんの苗字は分からなかった。

「ということである。大臣、探してたもれ」

爺さんはかしこまりました、と頭を下げて出て行った。鶴屋さんの家臣もたいへんだな。

 箸はないのかと皿のまわりを探してみたが、驚いたことに全員手づかみで食っている。そうか、箸はまだないのか。俺も見よう見まねで二本の指と親指を重ねて、つまみを食うようにして飯を食った。まあごうに入りてはごうに従えというしな。

 うたげに用意された料理は魚がメインだった。米の飯が盛られていたが、やけに色が濃い。もしかしたら玄米とか胚芽はいが米に近いのかもしれん。煮た魚に焼いた魚、さすがに刺身はなさそうだが、ひと口食ってみると味付けが薄い……。

「オオサザキ、口にあわぬか」

「い、いえ。醤油があればなー、なんて」

「ショウユとはいかようなものか」

「え、醤油ないんですか。醤油というのはなんというか、」

朝比奈さんを見たがなんとも困った表情をしている。ここで醤油について語ると醤油の発生過程で既定事項に反するんだろうか。ややこしい。

「醤油というのはくれの調味料みたいなもんでして、魚にかけて食うとうまいんです」

「さようか。ヒシオならあるがどうじゃな」

ヒシオとやらを試してみたが、なるほど、ちょっと塩辛いがいい味だ。醤油の先祖っぽいな。

「オオサザキ、これをしてみよ」

「なんですかこれ」

茶色っぽい、プニプニした餅みたいな石膏せっこうのかたまりみたいな、ちょっと酸っぱそうな匂いがする。切ってみると中は黄色っぽい。少し塩味が効いていて、ビールに合いそうだ。

「変わった味ですね」

の編み出した、ヤギの乳を固めて煙でいぶしたものである。これがまたうまいっ」

鶴屋さんは茶色いかたまりを口に放り込んで、にごり酒をごくごくとあおった。これ、どう見てもスモークチーズだよな。


「ときに、オオサザキ」

「なんでございましょう」

「そちの腕輪、妙な形をしておるの。ちょいと見せてみよ」

うわ、まずった。腕時計したまんまだった。

「あの、これはそのう、妻の形見でして」

「お主、まだきさきは持っておらんだろう」

「え、あの、そうですが、これからもらう予定で」

ああっ、バンド外されて無理やり抜き取られてしまった。

「ふーん、自ら動いておるようだが。これはいったい何であるか」

鶴屋さんは腕時計に耳を当てたり眺めたりしていた。この時代に機械仕掛けで動くものってないだろう。

「そ、それはくれからの舶来はくらいでして」

「これに書かれておる文字は何ぞ」

「その文字はずっと西国さいごくの文字でして」

「何に使うのじゃ?」

「ええと、それは実は時を計るもの……です」

「な、なんと!これが時計であるか。余をからかうでない、時計とは箱に水を入れて計るものであろう。水時計ならうちにもある」

西国さいごくではこれを腕時計、と申します」

「ほほーぅ。異国の時計はかように小さきものなのか。鉄の精錬もさることながら、この氷のように透き通っておるのは何ぞ」

それはガラスといってですね、と言いかけたがまずい展開だ。未来のテクノロジーをここで披露してしまっては、たぶんあとで困ったことになる。朝比奈さんを見ると顔に縦線が入ったように青くなっていた。既定事項を破ってる気がする。

 鶴屋さんはほほーうを連発し、腕時計に見入っていた。くるりと裏返して声を上げた。

「オオサザキ、ここに日本製と書いておるぞ。そこで作られたという意味であろう」

うわあ、これはまずい。絶対にまずすぎる。これが日本で作られるのはもしかしたら二千年くらい先の話なのだが。

「して、ニホンとはいずこよ?」

え、ここって日本って言わないんですかね。

「ニホンというのはええと、その天竺てんじくより遠い西の国のことです」

「さようか。にしても、オオサザキは異国のことばかりで、少しは大和のまつりごとにも関心してもらいたいものよの」

鶴屋さんの愚痴ぐちっぽいしゃべりに、家臣がまったくだというように笑った。

「オオサザキ、ひとつワガママを申してよいか」

「なんでしょうおばあさま」

「この腕輪、に贈ってたもれ」

え……。それは困った。これがもし後世に伝わるようなことがあったらえらいことになるぞ。二千年前の遺跡からオーパーツが出土、なぜか国産の腕時計。

「それは男用でして、女性がすると動かなくなるんでございます」

「またまた、かような嘘を。百済くだらかがみを欲したが、似たような話を聞かされて騙されるところであった。男用のかがみには女は映らぬとな」

誰だそんな嘘を教えたのは。

「では、の土地と引き換えにではどうか」

時計と引き換えに不動産ですか。どう見ても価値に開きがありすぎる。

「おばあさま、差し上げますよ」

「よ、よいのか」

「ええ、このうたげのお礼です」

「さようかさようか。これは嬉しい」

鶴屋さんは腕時計をでるようになでていた。

「これは自動巻きなんでときどき振ってやってください」

「ジドウマキ?振るのか、こうか、こうでよいか」

鶴屋さんは腕を肩のところからぶんぶんと振り回した。俺と朝比奈さんは苦笑しつつ、そうそうとうなずいた。男物の腕時計をはめて腕を振り回す鶴屋さんを見かけるようになるのは、それからのことである。


 それから二週間ほど、鶴屋さんちで世話になった。怪しまれない程度にさりげなく聞いてまわったところ、俺と朝比奈さんには自宅の館があるらしい。場所はオオスミノミヤとか言っていた。

 鶴屋さんが忙しいときや留守中は、俺と朝比奈さんが来客の相手をすることもあった。聞くところによると、鶴屋さんはこのへんの女王様みたいなものらしかった。お役人が毎日目通りを求めてやってきて、水路とか道路工事の相談を持ち込んでいた。

 どれくらいの広さの領土なのかは分からなかったが、外国から使いがやってきていろいろと貢物みつぎものを差し出すくらいの偉い人らしい。日本語をしゃべっているのだからここが日本の領土なのは確かだが、どのへんに位置するのかは分からない。近所の町内地図みたいなものは見せられたが分からなかった。列島地図らしいものは持っていないようだ。

 長門を含む四人の行方はまだ分からなかった。あれだけ目立つ格好をしていればすぐにでも捕獲されそうなもんだが。あるいは向こうから探しにきてもおかしくない。


 ずっとここで待っていてもしょうがないので、俺たちは自宅とやらに行ってみることにした。まだよいではないかと言う鶴屋さんに何度も頭を下げて暇乞いとまごいをした。旦那と息子に先立たれてからというもの、独り暮らしは退屈なのらしい。孫をかわいがる気持ちが分かるな。

「いろいろとお世話になりました。このお礼はいずれ」

「うむ、気にするな。いつでも参れ」

鶴屋さんは腕時計をはめた手をふりふり、門の外まで見送ってくれた。


 俺たちの自宅から迎えに来たという大勢の従者と、それに続く二つの御輿みこしという大げさな行列で、ゆるゆると道を歩いて進んだ。時期的に見て今は十月半ばくらいだと思うのだが、まだ暖かい風が吹いていた。心地よい揺れのせいか、朝比奈さんは御輿みこしのへりにつかまってうとうとと居眠りをしていた。街道を練り歩いた大名行列ではないが、なんとものどかである。あしの生えた草っ原に続く細い道を一日かけて進んだ。行く手の両脇に海が見えてきたあたりで、目的のお屋敷らしきものが見えた。

 造りは鶴屋さんちと似ていたが、敷地内の家の数が向こうより多い。堀はないが塀はちゃんとしているようだ。

「ナカツヒメ様、オオサザキ様、ご到着、ご到着」

前を行く従者が歌うように叫ぶと、門が開いて家臣らしき人々がぞろぞろと出てきた。うわ、俺たちってこんなにたくさん召使がいたのか。

 召使らしい女の人が数人並んで、おかえりなさいませと言った。

「はじめて来るのにおかえりなさいって、俺たちってここに住んでるってことでいいんですよね」

「そうだと思うけど、なぜかしら。会ったことは一度もないのに」

俺だけ先に、離れた館に案内されて中に入った。朝比奈さんは正面のいちばん大きな館に連れて行かれたようだ。ひとりで大丈夫だろうか。

 部屋の中は鶴屋さんちとあまり変わらず、俺用の寝床らしいところは布で仕切ってあった。ここで寝るわけだな。竹簡ちっかんといって、竹を細く切って作った巻物のようなものが並べてあった。何が書いてあるのかと紐を解いてみたが、漢字がぎっしり並んでるだけでわけ分からん。ところどころに米やらあわやら穀類こくるいの文字があるところをみると、どうやら農作物の作り方をまとめた文章らしいんだが、かなの当て字なのか中国語なのかそれ以上は難しくて読めない。ひらがなとカタカナが使われるのはもっと後っぽいな。

 そりゃそうと紙に書かれたもんがほとんどない。和紙みたいなごわごわした厚い紙があったが、丁寧ていねいに綴じてあった。紙がないってことは、トイレでかなり苦労するぞ。忘れてた、トイレはどこだ。

「すいません、トイレはどこでしょうか」

「はい?トイレとはなんでございましょうかミコ様」

「ええと、便所、カワヤ、いや雪隠せっちん、ええい御不浄ごふじょう


 日暮れ前、ここでもやっぱり早めの晩飯らしく食堂に呼ばれた。夜になってだいぶ冷え込んできたので俺は寝床で布団にくるまっていたかったのだが、それでは皆が心配するというので引っ張り出された。飯はみんなで食うほうがうまいというのは古来も同じなんだな。最近じゃ家族がいても独りでぼそぼそと食ってるやつが多いようだが。

 家族は意外に多いようだ。朝比奈さんのまわりに召使らしき人が群れていた。俺の身内らしい人が食堂に飛び込んできた。

「いやっほーうぃ、館のご主人。帰りを待ちわびていたわよ。あんまり遅いんでこのままあたしが屋敷を乗っ取っちゃおうかと思ったくらいよ」

全員がそっちを見た。古代中華風な衣装をまとい、酒の入ったとっくりを抱えた女がいた。なんてかっこしてんだと言おうとしたが、俺もそれなりの格好をしてるわけでなんとも突っ込めない。

「ハルヒ!?こんなとこでなにしてんだ?」

「ちょっとキョン!なんであんたがここにいるのよ」

「す、涼宮さん」

「みくるちゃん、なにしてんのここで」

そばにいた家臣のひとりが怪訝けげんな顔をして聞いた。

「ミコ様、いかがなさいましたか」

「い、いやいやなんでもない。二人とも昔の知り合いなんだ」

朝比奈さんが上座かみざに、ハルヒが俺の向かい側に座った。なにか言いたそうにジロジロと俺を見ている。

 一同が揃ったようだが、誰も食べ始めない。中国みたいにかねがゴワンゴワン鳴るとかないのかな。皆が静まり返ってなにかを待っているところで、痺れを切らした侍女らしい人が朝比奈さんにごにょごにょ耳打ちしていた。

「ええっ、ノリト?わたしがノリトを唱えるの?」

「はい、いつも唱えておいででございますが……」

「みくるちゃん、ご飯食べる前に神様に感謝するアレよ」

「ええっ、そんなのやったことないわ」

「むかし部活でやったでしょ」

そういやそんなこともあったな、って、あれは祝詞のりとじゃなくて読経だろうが。

「しょうがないわね、ちょっと、これ読み上げなさい」

ハルヒが懐から南京玉簾なんきんたますだれのようなカンペを取り出した。竹簡ちっかんのカンペってどういう時代錯誤ですか。

「か、かけまくもかしこき~いざなぎのおほかみぃぃ~」

これが数分続いて、そろそろ飯も冷めそうな頃やっと一同手を打ってから食べ始めた。俺たちの時代でもやってる、小学校で給食を食べる前に手を合わせるアレはここから来てるのかもな。


 手づかみで食うのはスナック菓子っぽくてラフでいいんだが、いちいち手を洗わないといけないのがどうももどかしい。

「すいません、箸はないでしょうか」

「ええっ、箸と申しますと折箸おりばしのことでございますか」

「箸があるんですね。貸してもらえますか」

「なににお使いなのでしょうか」

「ええと、これを食べるのに使いたいんですが」

「それはなりませんミコ様。箸をお使いいただけるのはオオキミだけです」

オオキミってのが誰か知らんが箸の使用権を独占するなんて偉そうだな。そんなならわしがあったとは。生活習慣が違うとどうも調子狂う。

「わたしも箸を使いたんですけど……」

朝比奈さんが拝むようにして言った。やっぱそうですよね。

「箸は神事しんじで使うものでございますゆえ……。でもおきさき様が望まれるのでしたら」

侍女がまわりを見回した。ここで箸を使ったところで、とがめだてする人はいるまい。いったい日本人はいつ頃から箸を使い始めたんだろう。

「じゃあきさきであるわたしが決めます。皆さん、今後食事で箸を使うことを許します」

一同がおおっと驚いた。さすがは朝比奈さんである。神様に仕える巫女みこさんが許可するんだから間違いはない。

 箸が用意されたが、俺がふだん使ってる箸とはほど遠く、箸の片方がくっついたピンセットみたいな形をしている。パン屋でパンを挟むあれ、なんつったっけ。あんな形だ。

「これ、箸なの?」

折箸おりばしにござります」

なるほど。俺は割り箸を割るようにしてパキリと箸を折った。それを見て侍女が真っ青になった。

「ミ、ミコ様、ああ……」

え、割っちゃいけないんですかこれ。

「キョン、ここじゃ箸は神聖にして不可侵の象徴たる存在なのよ。割るとか裂けるとかいう表現は禁句なのよ」

もっともらしいことを言うハルヒは、玄米ご飯をぎゅっぎゅっと固めておにぎりにして食っていた。器用なやつだな。俺はしょうがないので新しい箸に交換してもらってピンセットで挟みながら食うはめになった。後で竹を削って自作しよう。箸の歴史を書き換えてしまいそうだが、それくらいかまうものか。


 皆がガヤガヤと酒をみ交わしはじめたころ、ハルヒがちょっと来なさいと言って俺の襟を掴んでずるずると引いていった。朝比奈さんが心配してついてきた。

「キョン、これってどういうことよ、説明しなさい」

「どういうことと言われても」

「タイムマシンの実験中に事故でタイムスリップしたんだと思うわ」朝比奈さんがフォローした。

「で、ここはいつの時代で、どこなの」

「俺もずっとそれを調べてたんだが、まだ分からん」

「もう、役に立たないわね」

こういうとき古泉なら歴史の知識を披露したんだろうけど。

「お前はここの屋敷にはどうやって来たんだ?」

「海で溺れてて助けられたのよ」

「まじか。それで大丈夫だったのか」

「大丈夫だったからこうやってあんたと話してるんじゃないの」

「ここじゃどういう立場なんだ?」

「どうやら誰かのおきさきらしいわ。旦那は死んじゃったらしいけど」

死んだという話を聞いて、俺は鶴屋さんを思い出した。旦那を亡くして息子も亡くしたとか言ってた。

「死んだってのはお前の旦那だったのか」

「知らないわよ。顔も見たことないのに」

「待てよ、ハルヒが奥さんってことは、じゃあ朝比奈さんはどうなるんだ?ここの主人は朝比奈さんじゃないのか」

 俺は召使のところへ行ってこっそり聞いた。

「あの、つかぬことを伺いますが」

「なんでございましょうミコ様」

「この二人の関係ってどういうものなんでしょうか」

「どうと申されますと」

「この館の主はこっちのナカツヒメですよね」

「さようでございます」

「じゃあこっちは誰?」

「イワノヒメ様はおきさきさまにございます」

きさきが二人もいるんですか?」

「はい、さようにござります」

一夫多妻なのか。こんな美人を二人も嫁にするなんて幸せなやつだ、早死にして当然だ。

「旦那って人はどういう人だったんですか」

「ホムタワケ様でございますか。お父上のことをお忘れになられたのでございますか?」

俺の親父だったのかよ。まあ当然そうなるわな。


「二人とも、同じ男の嫁さんらしいぜ。にしても朝比奈さんのほうが位が上なのはなんでだ」

「みくるちゃんのほうが見た目がいいからでしょ。第一夫人ってやつよ」

ハルヒは腕を組んでフンと鼻を鳴らした。

「そ、そんなことないわ……。涼宮さん、怒らないで」

「まったく、二人も後家さんにしやがって。幸せなのか不幸なのか」

「そんなことはどうでもいいのよ。だから、さっきからなんであんたがここにいるのかって聞いてるでしょ」

「俺は朝比奈さんの息子だからな。御曹子おんぞうしってこった」

「な、あんた!いつからみくるちゃんの子供になったのよ」

うわ、ハルヒ、やめ、ネクタイがないからって冠のあご紐締めるな。ということはあれ、俺の母上の恋敵がハルヒってことになんのか。なんてややこしいんだ。

 うたげは館の主人とその周辺がいないまま賑やいでいた。

「そうえば古泉と長門を見なかったか。あとハカセくんも」

「見てないわ」

「どこかにいるとは思うんだが。あいつらの顔を見ないと心配だ」

「タイムスリップってことは、あたしたち元の時代に帰れないの?」

朝比奈さんのTPDDさえ元に戻れば帰れるんだが、ハルヒにそれをどう説明するか。

「帰れるかどうか分からん。今のところは」

「そんな、なんとかしなさいよ。あたしの生活は二十一世紀にあるのに」

なんとかといわれてもなぁ、俺にはどうにもできん。長門ならなんとかしてくれるだろうけど。

「ともかくまあ、あいつらを探し出すことが先だな。タイムマシンの構造は長門とハカセくんしか知らないし」

「そうね……」

納得したらしくハルヒはうなずいた。


 翌朝、鳥の声で目が覚めた。俺は固い寝床の上で背伸びをしてから顔をぱしぱしと叩き、この夢のような生活が覚めていないことを実感として確かめた。なんと清々すがすがしい目覚めであることよの。

 部屋の外に出るといそいそと働く家臣たちが目に入った。この時代の人たちの朝は早い。日が暮れたらなにもできないからかもしれんが。俺は手ぬぐいを持って井戸に行った。当然水道なんかあるはずはない。

 木のおけに水を汲み、冷たい水で顔を洗っていると頭にボンとボールのようなものが当たって後ろを振り返った。

「あはははっ、避けなさいよキョン」

頭の後ろに目がついてるとでも思ってんのか。ボールだと思ったのは柿だった。

 ハルヒのそばには子供が三人走り回っていた。こいつは怒られそうだというふうに俺を見ている。俺は柿を拾って子供に投げ返した。

「いい?ちゃんと打つのよ」

「承知しました母上」

「は、母上って、そいつらお前の子供か」

「そうよ」

「よくまあ三人もぼこぼこ生んだもんだ」

「失礼ね、あたしが生んだわけじゃ、ないっ、わよ」

ハルヒが本気で柿の実を投げてきた。俺は受け取って布でごしごしこすってかじりついた。

「うわっ、これ渋柿じゃないか!ぺぺぺっ」

「腹壊すわよ」

ハルヒと子供たちがケラケラと笑った。子供ってことはええと、俺の義理の弟になんのか。まじっすか、妹だけでも手を焼いてたってのにちっこい弟が三人もか。

「育てるのたいへんそうだな」

「そりゃもう腕白の盛りだもの。喧嘩したり泣きわめいたりたいへんだわよ」

やれやれ、俺が親でなくてよかった。

「ほらっ、イザホワケ!いくわよ」

ハルヒが柿を投げて、七五三みたいな衣装を着た子が太い棍棒こんぼうをぶんぶん振り回していた。野球やってんのか、そんなことをしたら日本の野球史が変わっちまうぞ。どこかの永世監督が存在しなくなったりしねえか。縄文じょうもん時代か弥生やよい時代か知らんが、古代人はおとなしく蹴鞠けまりでもやってたらどうだ。

「ようし、見本を見せてやるからちょっとお兄さんにかしてみろ」

「はい兄上」

兄上ときたか、いい響きだな。俺はかつてのSOS団所有のバット並みにデコボコした棍棒こんぼうを受け取って構えた。ハルヒは本気らしく、かつて上ヶ原パイレーツを下したときのような超剛速球で攻めてきた。俺は思い切り棍棒こんぼうを振ってジャストミート、したと思ったのだが、ボールだった柿が真っ二つに割れて塀の向こうに分かれて飛んでいった。

「ホームラン!!」

俺はガッツポーズをしてみせたが、何のことか分からないようだった。

「お前ら、勝ったときはこう、親指を立てるんだぞ」

「は、はいっ」

お子様たちは不器用に親指を立てた。なに教えてんだろね俺は。


 そんなこんなで日が暮れる、まったりした生活だった。それから気温がぐっと下がり、俺たちは一冬をこの館で過ごした。長門が見つかるまでは慌ててもしょうがないので、とりえあずオオサザキという人物がやっていたという仕事をこなすことにした。俺の仕事には助役じょやくというか秘書というか先生みたいな人がいたので、まず文字の読み方を習い、それから各地から寄せられる書簡に目を通し、意味を教えてもらいながら返事を書いた。この時代に来てまさかデスクワークをさせられるはめになろうとは思ってもいなかったが。


 暖かくなった頃、鶴屋さんから書簡が届いた。話したいことがあるので会いに来てほしいとのことだった。たぶん退屈で寂しいから酒でも飲みに来いというのだろう。

 俺はもう御輿みこしに乗ってまったり歩くのはいいかげん退屈なので、馬に乗って行ってみようかと乗馬を教えてもらった。衛兵の長で剣術を教えている武人だというガタイのいい男が、体を預けて馬と一体になれと教えてくれた。トナカイの気持ちは分かるつもりだったんだが、馬がなかなか強情なやつで、何度か落馬して踏まれて腹が立ったので馬の尻をぶん殴り、馬と気持ちがひとつになったところでやっと乗れるようになった。俺は道案内に従者をひとりだけ連れて屋敷を出た。馬は意外に揺れて、さらに車高が高くて最初は少し怖かった。馬の車高ってのも変だが。

 小一時間で鶴屋さんのお屋敷についた。そういえばこのお屋敷には船つき場があるが、船で来てもよかったわけだな。

「おーぅ、よう来たオオサザキ」

鶴屋さんは門のところで待っていた。

「オキナガ様、先日はお世話になりました」

「よきかな、よきかな。まあ中へ入れ」

馬を屋敷の人に預けて部屋に入った。

「ほかでもない、タイシのことであるが。長いことやまいに伏せておっての」

「タイシって誰でしたっけ」

「忘れたか、弟君のウジノワキイラツコではないか」

俺に弟がいたとは。それにしても覚えづらい名前だ。流行ってるのか。

「たった今思い出しました、ウジノワキ君ね」

の代わりにあれを見舞ってやってはくれんかの」

「お見舞いですか、参りましょう。どこに住んでましたっけ」

「ウジノミヤである。船で渡るがよい」

なるほど、地名がそのまま名前になってるらしい。


 従者を十人ばかり連れて、土産物を持ってウジノミヤというところを目指した。小船で館の前から海まで出て、そこで漁船くらいの大きさの船に乗り換えた。

 船はしばらく荒れた海を進み、両岸が迫ってきたところを見ると河口に入ったようだ。ウジノミヤは川をさかのぼったところにあるということだった。途中には橋も堤防もなく、だだっ広い平地が延々と続いていた。まだ肌寒い季節だが川岸のところどころに黄色い花がぽつぽつ咲いていて、実にのどかである。

 川をさかのぼっていくと少しずつ気温が下がってくるのが分かった。鶴屋さんちより標高が高いのかもしれない。平野だった風景に、だんだんと濃い緑の森が増えてきた。


 川をさかのぼること二日目、やや京都風のこじゃれた建物が川岸に建っているのが見えた。こっちの屋敷の造りは上品というか俳句のひとつでもひねりたくなるような景観だった。柱が赤く塗ってあり、草葺くさぶき屋根ではなく杉の木の皮でできてる感じの屋根だった。中国の宮廷風なのかもしれない。

「これは兄上、遠いところをようこそおいでくだされました」

ウジノワキらしい若い野郎が出てきた。顔色がよくないが、感じがなんとなく国木田っぽいな。目ぱっちり系のおぼっちゃまみたいな。

「いやいや。おばあちゃんに頼まれてな。具合はどうよ」

皆目かいもくよろしくはありませんが、兄上のお顔を拝見できるとあって今日はこのとおりとこから出ることができております」

ウジノワキとやらは青白い顔をいっそう青くして、小さな咳をこほこほをしつつ口元を抑えた。

「あんまり無理するなよ。おばあちゃんから土産を預かってきたから、栄養のあるもん食って養生しろ」

「かたじけのう存じます。おばあさまにお礼を言っていたとお伝えください」

ウジノワキは椅子から立ち上がって外に出ようとした。侍者が抑えようとしたのだが、たまには日に当たりたいと言い縁側に座った。

 俺はウジノワキの隣に座り、出された白湯さゆをすすった。青白い顔で風に吹かれると倒れてしまいそうなくらいふらふらしていたのだが、その瞳だけは妙に澄んでいて、遠くのなにかを見つめていた。

「兄上……」

「なんだ」

「折り入ってお願いがございます」

「俺にできることならかなえてやりたいが、言ってみろ」

ウジノワキは少し黙り、ふぅとひと息吸って、また吐いてから言った。

「わたくしはもう長くありますまい」

「なにを言う、まだまだこれからじゃないか。すぐによくなるさ」

なんてのは病人に対する建前たてまえなんだが。こんなことを言うくらいしか俺には能がない。

「わたくしは存じております。己に与えられた命を心してまっとうすること、それが生ける者の務めであると」

「……」

「わたくしの亡き後を兄上にいでいただきたいのです」

俺はなんとも言えなかった。突然天から降ってきたようにこの時代に舞い降り、見も知らない人たちに世話になり、今度は家をげとおっしゃる。

「まあそう悲観するな」

「いいえ。自分の余命は自分がよく知っておりますゆえ。兄上以外にこのアマツヒツギをゆずれる者がおりませぬ」

アマツヒツギが何だかよく知らないが、こいつが大切にしている何かなのだろう。じっと見つめるそいつの瞳に、俺は気圧けおされるようにうなずいた。

「分かった、分かったから。ともかく今は養生してくれ」

「ありがたきしあわせ」

俺はウジノワキの肩にもう一枚布をかけてやった。すまんな、俺には医学の知識がないから、お前がどんな病気なのかもどうやって治療するのかも分からん。文明の進んだ二十一世紀に生きてても、俺はあまり人の役に立つことをしてない気がする。

「もうひとつ気がかりなことが」

「なんだ。なんでも聞いてやるぞ」

こうなりゃもう岩を砕けと言われようが川の水を飲み干せと頼まれようがやってやる。

「ヤタノヒメミコのことでありますが、あれのことが気がかりで」

「ヒメ?女か」

「わたくしの実の妹でございます。覚えておいででしょう、稚児ちごのおり、よう三人でたわむれました」

「あ、ああそうだった」

妹と聞いて俺は未来に残してきた実の妹を思い出した。

「アマツヒツギにかれましたならば、あれをきさきのひとりにでもしていただけますまいか」

「な、なんですと」

俺はぬるくなった白湯さゆを噴いた。

「あれは兄上をよく好いております。日ごろは無口なあれが、よく兄上の話をするのです」

「いくらなんでも妹を嫁さんにはできんぞ」

「なぜでございますか。もうおきさきはいらぬと申されますか」

「いや、俺には妹属性はないから」

「属性とはなんでございましょうか」

気にするな、ただの妄言だ。

「あれの母親、ワニノミヤヌシヤカを亡くしましてからはほとんど人前に出ることもなく、ひっそりとヤマノミヤにて暮らしております。あれがあのまま独りで一生を終えると考えると、とても残してはゆけませぬ」

「え、妹ってナカツヒメの娘じゃないのか」

「いえ、母はナカツヒメ様ではなくワニノミヤヌシヤカにございます。わたくしと兄上は異母兄弟でございますゆえ」

なるほど、そういうことか。一夫多妻な上に、母親が違えば結婚もありなのか。

「やっと理解した。だがな、いきなり縁談の話をされてもな、」

「なにとぞきさきに」

これは困った。俺がこの時代で結婚なんかしたら長門はどうなる。歴史を書き換えるとかそういう話じゃない、俺には長門しかおらん。

「しかし、なんで俺なんだ。旦那候補はほかにもいるだろうに」

「なんと申しますか……兄上は昔から妙なおなごが好きですから……」

な、この時代でもそれかよ。ウジノワキが両手をついてなにとぞと何度も頼むので俺は無下むげに断ることができず、あいわかったと返事をした。


 家と継げと言われ、こともあろうに妹を嫁にしろとせっつかれ、俺はうたげもそこそこに鶴屋さんちにとって帰した。はやいとこ俺の時代に帰らないとなぁ。こんなところに長居したら子供作って帰れなくなりそうだ。のどかで魅力的な時代ではあるが。

「ウジノワキに会ってきました」

「おぉ、大儀たいぎであったな。いかがであった」

「だいぶ顔色が悪いようですね」

「そうか。も案じておる」

「アマツヒツギをいでくれと言われました」

「そうか、そうであろう。お主をウジノワキイラツコのところへやったのはほかでもない、それが頼みだったからである」

「それから妹を嫁にもらってくれと泣きつかれましたよ」

「あはははっ、さようか。そりゃ果報かほう者というよりほかないのう」

「いきなり縁談ですからね、困りました」

「でも、まんざらでもないのであろう?」

「どうでしょうね」

どこにいるのか分からないけど俺には付き合ってる人がいます、とは言えなかった。

「オオサザキ」

「なんでしょうおばあさま」

「今すぐにとは言わぬ。タイシの件、考えておくれ。世継ぎがおらぬとも落ち着いて眠れぬのでな」

「ウジノワキさんは元気になりますよきっと」

「さよう、もちろんである。さようならばよいのだが……」

そう言ってうつむいた鶴屋さんは悲しそうな表情だった。

 鶴屋さんにも頼まれてしまったアマツヒツギってなんだろう。ウジノワキ氏の代わりに家をげってことなのだろうか、妹を嫁にしろってことは。じゃあオオサザキとかいう俺の家系はどうなるんだろ。


 共通の父親を持つ、血が半分しか繋がっていないという弟と妹のことは気持ちのどこかで気にはなっていたのだが、当面の俺のやるべきことは長門と古泉を探し出すことだった。あいつらを連れてどうしても未来へ帰らないといけない。社長でもないのになんだかひとりで責任を感じていた。長門も古泉も朝比奈さんも、ハルヒを観察するとか守るとか発生した異空間なんかの後始末に追われるだけで、自ら運命を切り開くという態度を見せない。できるだけなにごともなく過ごそうとしている三人を見ていると、じゃあ俺が全員を先導していくしかないじゃないか、みたいな妙な任務意識があった。

 俺のほうでも方々に人をやってそれらしい人物を探してもらってはいたのだが、返ってくるのはなしのつぶてばかりだった。ハルヒにも朝比奈さんにも古泉風に肩をすくめてみせるしかなかった。


 仕事を手伝ってくれと頼まれて、俺はしばらく鶴屋さんの屋敷に留まった。仕事といっても今までやってたオオサザキなる人物のデスクワークと変わらなかったが。

 それから一ヶ月ほど経ち、鶴屋さんの支配する領土をくまなく探ったが、ひょんなことから古泉と再会することになった。

「ミコ様、ささげものが参りました」

「ああ、膳司かしわでに渡しといて」

膳司かしわでってのは厨房のことだ。たまに家臣や庶民からプレゼントが来る。たいていは地元で獲れた魚や肉なんかだが。

「それが、生きているのでございます」

「猪かなにかか?」

「いえ、大きな鳥でございます」

「鶏とか鴨?」

「もっと猛々たけだけしい、強き鳥にございます」

なんだろうかと見に行ってみると、竹で編まれた籠の中でバタバタやっているのは鷲か鷹のようだった。海が近いからトビかもしれんな。猛禽もうきん類独特の鋭い目で俺をにらんだ。

「かっこいいが、これを食うわけにはいかんな」

「養われてはいかがでしょう」

そうはいっても、飼い方知らんしなあ。昔セキセイインコを飼ったことがあるが、度重なるエサの補給忘れに嫌気がさしたらしく家出してしまったもんな。妹がキョンくんのせいだといつまでも怒ってたっけ。

「聞けば、鳥に詳しい百済くだら出身の御仁ごじんがいるとのことでございます」

「ほう。じゃあそいつを雇おう。ぜひ呼んでくれ」

「かしこまりましてございます」

 五日くらいして、その御仁ごじんとやらがやってきた。謁見えっけんの庭で膝をついてかがんでいた。こういうのはどうも拝まれてるみたいで苦手なんだがな。

「オオサザキノミコ様におかれましてはご安泰をお祈り申し上げる次第にございます」

「うむ。まあ顔を上げてくれ」

「は」

そこでようやくそいつの顔を見ることができたのだが、

「あ……」

「え……」

二人とも固まったまま動かなかった。そいつの目がみるみるうるんでいく。

「あれれ古泉か、こんなところにいたのかよ」

「これはおなつかしう、」

と言いよどんだ古泉は髭を生やし、たぶん百済くだらでは流行っているらしい派手な色の服を着て、黒い冠を被って両手をそでの下で合わせている。そのまま京劇きょうげき劉備玄徳りゅうびげんとくを演じてもよさそうな格好だ。

「お会いしとうございました、ミコ様。酒の君と申します」

「今は酒の君って名前なのか」

「さようにござりまする」

「ああ。呼んだのはほかでもない、この鳥だがな」

倶知くちでございますね。鷹狩りに使われるものです」

「献じられたんだがどう扱えばいいか分からんのだ。食うわけにもいかんし」

「わたくしが飼いならしてみましょう。動物には好かれますゆえ」

「じゃあお前を鳥甘部とりかいべおさに任じるとしよう」

「謹んで拝領いたします」

「そりゃそうと古泉」

「何でございましょう」

「髭が似合ってるぞ」


 謁見えっけんの庭では庶民が偉い人に近づくことはできないので、酒を用意させて俺の部屋に通した。そばで見ると古泉は褐色に日焼けして腕っ節が太く、なんだかちょっと見ないうちにたくましくなっていた。

「よく生きてたなぁおい」

「あなたこそ、よくご無事で」

「それにしても、なんでそんなかっこしてんだ」

「ずっと百済くだらにいたんですよ。あ、百済くだらっていうのは僕たちの時代の朝鮮半島ですが」

そんなこた知ってる、歴史の授業で出たもんな。

「そこで王族の奥さんに気に入られて暮らしてたんですが、その旦那っていう日本人の武将にスカウトされましてね。で、逆輸入されたわけです」

「いつごろこの時代に来たんだ?」

「半年くらい前でしょうか。大陸は面白かったですよ。僕は武将のひとりとして戦場を駆け巡っていました」

なるほど、それでその格好なのか。俺はよろいに身を包んで剣を振り回す古泉を想像して、ちょっとうらやましくなった。

「鶴屋さん似のおばあちゃんには会われましたか」

「ああ、会った。今も世話になってる。ここはどういう時代なんだ?」

「ご存知なかったんですか?古墳時代ですよ。西暦でいうと三百年から四百年くらいですか」

「俺の知ってる日本史とだいぶ違う気がするんだが」

「それは日本書紀にほんしょきとか古事記こじきの文献がだいぶ後になって書かれたからでしょう。この頃の地名や人物名は実際とかなり違っているはずです」

「ここはどこなんだ?」

「ここは確か、住吉宮すみのえのみやですね。当時の政府があったところです。大和朝廷の前身でしょうか」

なるほど。古泉の解説でこの世界がなんとなく現実味を帯びてきた。

「じゃあ鶴屋さんはその女王様?」

「そうです。彼女は確か神功皇太后じんぐうこうたいごうのはずです」

な、なんだってー!!俺の頭の上にΩマークが四つほど並んだ。

気長足姫尊おきながたらしひめのみことが当時の本名で、皇后の称号で呼ばれるようになったのはずっと後のことだと記憶しています」

「なんてこった、皇族にタメ口利いてしまったじゃないか」

「よろしいんじゃないですか。この方は庶民的だったようですから」

「じゃ、じゃあ俺は誰なんだ」

今まで他人を装って召使をこきつかった手前、聞くのも怖いが。

「あなたは大鷦鷯皇子おおさざきのみこ、後の仁徳天皇になる人です」

と、とんでもない話だ。こんなことなら某国営放送の歴史が動く番組でも見ておくんだった。


 これは困った。タイムスリップしただけならまだしも、日本の歴史の根底ともいえるこの古墳時代にしかも皇族のはしくれとして舞い降りたなんて、俺が政治を動かすようになっちまったら未来はどうなるんだ。いや待て、はしくれなんかじゃない、その中心人物じゃないか。

「まあ、歴史というのは流れていくものですから。一人で動かそうとしても動くものではありませんよ。流れに身を任せてみてはいかがでしょうか」

などと古泉は、悟りきったのか脳天気なのか分からないことを言っている。お前はまあはしくれだからいいだろうけど、もしかしたら韓国の歴史を書き換えちまったんじゃないのか。

「それはないと思います。いちおうアジアの歴史は教養としてありますから、それをなぞる以外のことはしていません」

教養がなくて悪かったな。

「ちょっと待て、じゃあ朝比奈さんとハルヒは」

「お二方は無事なんでしょうか」

「ああ。元気でやってるとも。朝比奈さんは俺の母親、ハルヒは俺の親父の愛人みたいもんになっちまってる」

応神おうじん天皇のおきさき様ですか。愛人とは言いえて妙ですね」

古泉はカラカラと笑った。

「ということは朝比奈さんは仲姫なかつひめ皇后ですか。涼宮さんは、ここでの名前はなんと言っていましたか」

「名前はええと、なんつったっけ。忘れた。親父はすでに死んじまったらしい。ここから北のほうに行ったところに俺たちの屋敷があって、そこに住んでる」

「なるほど、大隅宮おおすみのみやですね」

「長門だけがどこを探してもいないんだ」

「変ですね。長門さんならいちばんに探しに来そうなものですが」

「もしかしたら長門だけ二十一世紀に残ってるんじゃないだろうか」

「それも大いにあり得ます。思うに、今回の事故は僕の能力が原因です。実験で使った時空の泡の力場と反発したのかもしれません」

「それはともかく、どうやって帰るかだが」

「朝比奈さんの例のTPDDで帰れないんでしょうか」

「それがタイムスリップしたときに壊れちまったらしい」

「それは困りましたね。助けを呼ぶ方法はないんですか」

「今のところはないと思う。長門だけが頼みの綱だ」

「なんとか帰る方法を見つけないといけませんね」

二人はしばらく黙り込んだ。


「腹違いの弟で国木田に似てるウジノワキってやつに会ったんだが。これが具合悪そうでな。自分が死んだら後を頼むと言われた」

莵道稚郎子皇子うじのわきいらつこのみこさんですか。太子を引き受けてくれというのでしょう。歴史ではそうなっていますね」

「アマツヒツギって何だ?」

「つまり天皇のまつりごと、政治活動のことです」

「俺にそれをやれってのか」

「あなたの今の立場なら、当然です」

「鶴屋さんにもそれを頼まれたんだが。困ったぞ……」

「鶴屋さんもお歳をしてますし、あなたがやらなければ、たぶんこの時代の天皇の血筋が絶えてしまうことになります。日本史の既定事項が壊れてしまいますよ」

「お前がやってくれるわけにはいかんだろうか」

「僕がですか?残念ですが、あなたはすでにその名で知られているので、あなたがやるほかはありません」

「あ、思い出した。ハルヒの名前、イワノヒメとか言ったぞ」

「ほんとですか、磐之媛命いわのひめのみことは僕の姉にあたる人ですよ。後の磐之媛いわのひめ皇后様、つまりあなたの奥さんになる人ですね。なんの因果でこうなったのか知りませんが、これも既定事項ですね、プッ」

この一大事を他人事だと思って笑ってやがる。古泉よ、お前もか。


 次期天皇である太子の位を引き受けるかどうかはともかく、俺は朝比奈さんに手紙を書いた。古泉が見つかったのでそのうち会いに来てくれ、と竹の書簡に書いて直接届けてもらった。もちろん郵便などという便利なサービスはない。

 数日して朝比奈さんから返ってきた手紙には、見つかってよかった、こっちでもちょっと大変なことになってるの、と書いてあった。

「古泉、ちょっと困ったことになった」

「なんでしょう陛下」

「その呼び方やめ」

「なんでしょう殿下」

「それもやめっちゅうに」

「失礼。何が起きましたか」

「ハルヒに言い寄ってる男がいるらしい」

きさきといっても後家ごけさんですからね。涼宮さんのあの美貌びぼう、引く手あまたなんじゃないでしょうか。月夜の晩、とばりの向こうからじっと見つめる熱い視線がひとつ、ふたつ、と」

お前はいつからハーレクインの作家になったんだ。

「ハルヒには三人の息子がいるんだ」

「そうだったんですか。いつ生まれたんでしょう」

「いや、正確には磐之媛いわのひめの子供だが。ハルヒが生んだわけじゃないらしい」

「なるほど養子ですか」

「そいつらを育てるのもなにかとたいへんだから、父親が必要だろうと買って出た奇特なやつがいるらしいんだ」

「この時代、女性は男を選べませんからね。結婚してくれと言われたら予約がなければたいていは通ってしまいます」

「そ、そうなのか」

「ましてやきさきなど、自分の意志などは関係ありません」

「なんて社会だ」

「それが封建ほうけん社会というものです」

古泉が澄ました顔で言うのがしゃくに障る。

「なんとかならないのか」

「なんとかとは?」

「ハルヒだ。あいつがこの時代で結婚なんかしちまったら俺たちの時代はどうなる」

「さあて、どうなるんでしょうか。それは涼宮さんが決めることですよ」

「意外に冷たいのな、お前」

「僕がどう言ったところでなにかが変わるわけではないでしょう。涼宮さんが誰かにれたら、それを止める術はありません」

 俺は想像した。ハルヒが三人の息子をかかえて、見も知らない旦那とこの時代のしきたりにのっとって暮らしている姿を。皇族ってのはいろいろと生活の作法が厳しいと聞く。そんな囲いの中でハルヒがやっていけるのかどうか。ハルヒがこの時代の趨勢すうせいに飲まれて消えてしまってもいいのか。いやいかん、それはだめだ。俺は頭を振った。

「いいや。俺たちは二十一世紀に帰らなければならん。俺には全員を連れて帰る責任がある」

「突然頼もしいですね。ではどうなさるおつもりで」

「ちょっと鶴屋さんと話してくる」


 キョンは単純な男であった。冠も被らずのそのそと館の中に入っていった。たちまち部屋の前にいた衛兵に抑えられた。

「頼もう、頼もう」

「なんだい大鷦鷯おおさざき、騒がしい」

「折り入ってお話があります」

「さようか。皆、ちょいと外しておくれ」

「太子の件ですが」

「おおぅ、引き受けてくれる気になったかの」

「ひとつだけ条件があります」

「申してみよ」

磐之媛いわのひめきさきに欲しいんですが」

磐之媛いわのひめか。しかしあれはお主の父親のきさきであろう」

「今は違います」

「まあそれはそうであるのだが……。本人はどう申しておるのじゃ」

「男が言い寄って来ているらしいです」

「わはははっ。なんとまあ、お主の横恋慕よこれんぼか」

「子供が三人もいては独り身はたいへんかと」

「うむ。もそれを懸念けねんしておった。どこぞに身を寄せられる男がおればなと」

「俺が面倒見ますよ」

「さようか。大鷦鷯おおさざき、ちょっと凛々りりしくなったの。余もあれを次の皇后にしたいと思うておる。本人に尋ねてみるがよい」

「ありがとうございます」


 俺と古泉はその日のうちに馬を走らせて自宅の屋敷に向かった。大隅宮おおすみのみやと言っていたのは土地の名前ではなくて天皇の屋号みたいなものらしい。鶴屋さんが住んでいる住吉宮すみのえのみや、弟がいる宇治宮うじのみやもたぶんそうだろう。

「キョンく~ん、古泉く~ん」

庭で二人が手を振っていた。俺の護衛だとかいって豪勢なよろいに身を包み、剣を腰に下げて様になった古泉の乗馬姿はかなりうらやましかった。こいつはこのかっこうで戦場を駆け巡っていたんだよな。

「これはこれは仲姫なかつひめ様、姉上、ごきげんうるわしうございます」

古泉は馬から下りてそでを合わせて礼をした。

「姉上?あたし古泉くんのお姉さんなの?」

「歴史上、そうです」

「そうだったんだ。あたしずっと弟が欲しかったのよねぇ」

ハルヒがニヤニヤ笑っている。もしかして今回のこれ、お前の仕業なのか。

「古泉くん、よろい姿かっこいいわ」

「ほんと、国を守る武人って感じね」

「おめいただきありがとうございます」

どうでもいいだろそんなこたぁ。長門がいたら男は見た目じゃないと言うに決まってるさ。とほほ。


「ハルヒ、お前に言い寄ってるおっさんのことだが」

「あら、会ったの?なかなかかっこいい人よ」

「結婚するつもりなのか?」

「あたしが?まさか。暇だから遊んでるだけよ」

「今のお前は後家ごけさんだから、そのうち誰かに引き取られてしまうぞ」

「あたしはそんなことしないわよ」

うーん、どうも事の深刻さが分かってないようだ。

「俺は太子になろうと思うんだが」

「太子って聖徳太子みたいな?」

「太子ってのは次の王様とか次の天皇になる予定の人のことだ」

朝比奈さんとハルヒが「へっ?」という顔をした。目が点になっている。古泉、お前の出番だ、NHK歴史番組風に解説してやれ。


「な、なんであんたが仁徳天皇なのよ!」

なんでと言われても、降って落ちたところがそういう運命の人だったんだからしかたあるまい。

「ハルヒ、お前をこの時代で結婚させるわけにはいかない。だから俺のきさきになってくれ」

「ほんとに……あたしでいいの?」

な、なんだその幼馴染おさななじみが結婚を申し込まれて照れ隠しに下を向いてもじもじしてるような仕草は。

「だから、これは芝居みたいなもんなんだ。俺はお前を二十一世紀に連れて帰らないといけない。それに俺には長門がいるの知ってるだろ」

「知ってるけど……。あんた、ちょっとくらいムードってもんを理解しなさいよね!」

ハルヒはドスドスと足音を立ててどこかへ行ってしまった。

「あなたの無粋ぶすいさにも困ったものですね」

「そうね」

古泉と朝比奈さんが苦笑していた。分かっているさ。相手がハルヒだからこんな風なんだ。

 ハルヒが子供を連れて戻ってきた。

「あたしはいいわ。この子達に父親になってほしいか直接聞いてみなさいよね」

ううっ。これは俺に対する大きな挑戦だ。

 やあキミタチ、俺と暮らさないか。違うな。やあ子供たち、お父さんが欲しくないか?なんかしっくりこない。やあみんな、パパだよ。違う、絶対チッガーウ。

「なにブツブツ言ってんのよ。さっさとキメちゃいなさい」

「なあキミタチ。お前たちの父親は俺にとっても父親で、いわば俺とお前たちは兄弟なんだ。知ってるよな?」

「存じております、兄上」

「俺が母上と結婚して父親がわりになるのはどう思う?」

三人は黙り込んでいた。長男の去来穂別皇子いざほわけのみこが手を上げて言った。

「兄上、わたしは父上が恋しいです」

「そうだよな。親父はいいやつだった」かどうかは知らんが。

「俺は父親にはなれないかもしれない。けどな、」

俺は腰に手を当ててみんなを見回して言った。

「一緒に野球をできるぞ」

三人はうなずいた。俺はハルヒを見た。野球を持ち出すなんてずるいわよ、といいたげだったが、男の子というのはそういうもんだ。俺はガッツポーズをしてみせた。子供たちもぐっと親指を立てた。

 俺はハルヒと子供たちを引き取ることになったことを二人に話した。

「ハルヒをきさきにすることになったが、まあ芝居を演じてるみたいなもんだからな」

「おめでとうございます。ゆくゆくは涼宮さんが皇后様に、朝比奈さんが皇太后様になられるということですね」

「そうなるんですか?知らなかった」

「朝比奈さん、これも日本史の既定事項ですよ」

朝比奈さんは自分の専門用語を使われてポッと頬を染めていた。


 翌日、俺はひとりで鶴屋さんの住む住吉宮すみのえのみやを目指した。もう数日泊まってからにすればと三人に止められたのだが、なんとなく待てなかった。ほかにやることもないしな。

「オキナガ様、オキナガ様」

「な、なんじゃ大鷦鷯おおさざきか。戻ったのか」

鶴屋さんは玉座でうとうとといねむりをしていて、口から垂れていたよだれをずずっと拭いた。

「太子の件、うけたまわりたいと思います」

「おお、さようか。引き受けてくれるか」

「ですが、なにぶん未経験ですからおばあさまに助けていただかないと」

「もちろんである。も家臣も鴻業あまつひつぎを支えるにやぶさかでない。だがお主がやる気になってくれたというだけでもうは満足じゃ」

鶴屋さんはヨヨヨとそでで目元をぬぐってみせた。

「お、おばあさま、まだ喜ぶのは早いかと」

「そうじゃの。磐之媛いわのひめとの婚礼の儀を取りはからうこととする。忙しくなるぞい」


 いくら鶴屋さんの取り計らいとはいえ、太子の莵道うじのわき氏が病状おもわしくない手前もあって、俺とハルヒの婚礼の儀は親族だけでしめやかに行われた。

 翌週の晴れた日に屋敷の庭に祭壇と客席を並べ、客が揃ったところではじめられた。ハルヒが屋敷の中から付き添われて出てきた。てっきり十二単じゅうにひとえみたいなのを着せられて出てくるのかと思ったが、そういうのはまだなくて、大陸から取り寄せた仙女の羽衣はごろもみたいな儀式用の衣装を着せられていた。髪を頭の上で二つ丸く結ってしずしずと現れた。十二単じゅうにひとえは平安時代だったか。

 神式の結婚式みたいにふぁーんとか和太鼓が演奏を始めるのかと思ったが、そういうのもなかった。笛もかねもなく、巫女みこ衣装を着た朝比奈さんが長々と祝詞のりとを唱え、鶴屋さんや家臣が祝辞を述べて終わった。その後に饗宴きょうえんの儀とかいうのがはじまり、そこでやっとみんなが酒を飲み始める。

「太子、ご成婚おめでとうございます」

「俺はまだ太子じゃない」

「もう事実上太子じゃないですか」

「安易過ぎるぞ。莵道うじのわきさんの家臣が聞いたら、いらん噂が立つだろ」

「そうですね、失礼しました。事が決まるまではなにも口に出さない、それが政治ですね」

 鶴屋さんが杯を持ってにじりよってきた。

「これ、大鷦鷯おおさざき。そちももっと呑まぬか。祝いごとじゃ」

「あ、ありがとうございます」

今日はつぶれるまで飲まされそうだ。

「ほれ、イワにゃんも呑め」

「いただきます」

軽く口紅を差してうつむいたハルヒは、ちょっと色っぽかった。

「おうおう、イワにゃんはいい呑みっぷりよ。ほれ、もっとやれ」

ハルヒはでかい皿に注がれた酒をゴクゴクと飲み干した。あとでぶっ倒れなきゃいいが。

 どの客もたいがいに酔いが回ってそのまま眠り込んだりしはじめたところで、うたげはお開きになった。最後まで正気のまま座っていた二人は顔を見合わせた。

「ハルヒ」

「なによ」

「似合ってるぞ」

「そういうことはもっと早く言いなさい」

朝比奈さんもうんうんとうなずいていた。俺の心の底のどこかで、これが長門だったらとつぶやく声が聞こえたが。


 それからしばらくして、俺が太子を引き受けると聞いて安心したのか、莵道うじのわき氏の訃報ふほうが届いた。俺は喪服を持って宇治宮うじのみやを尋ねた。古泉の説明では、宇治宮うじのみやというのは俺の時代でいう京都にあるのらしい。

 最初に行ったときには気が付かなかったが、俺が知っている地形とは違い、屋敷から宇治宮うじのみやにはまっすぐ陸路を行けなくて、その方角には湾になった浅瀬の海がある。俺が住んでいる大隅宮おおすみのみやからも、鶴屋さんちの住吉宮すみのえのみやからも、馬で行くときは一旦南に下るしか道がなく、遠回りしなければならなかった。海から船で川をさかのぼったほうが早いらしい。

 莵道うじのわき氏に太子をいでくれと言われたことは俺の努力次第でなんとかならないこともないが、その上に妹を頼むとすがられたのには参った。この時代は政治に結婚はつきものだからな。身内の中から支配階級につながりを持たせようとするのは、宮廷政治にはいつの時代にもあったと日本史で習った。藤原氏やら平家がいい例だ。でもあのときの莵道うじのわき氏を見ていると、純粋に妹の幸せを願って頼んだようにも見える。根回しをするような男ではない気がするが、あるいは俺の人がよすぎるのか。国木田似の病弱な彼の顔が思い出されて不憫ふびんだった。

 俺は船の中で喪服に着替え、川岸の桟橋さんばしに着いて船を下りた。客室を借りてもよかったのだが、さっさと済ませてさっさと帰ることにした。妹君の屋敷は隣に構えてあった。すでに弔問ちょうもん客がひしめいている。


 館の客間らしきところに通され、莵道うじのわき氏の妹が入ってきた。俺は体を腰のところで曲げて軽く手を握ったまま床について、社交上の挨拶をした。

大鷦鷯おおさざきです。この度のご不幸、お悔やみ申し上げます」

この妹君はめったに人前に出ないが、色白でかなりの美人だという噂だ。俺が上座かみざに座っているとうつむいたまましゃなりしゃなりと手をついて伏せた。

「……ヤタノワキイラツメ。いたみ入る」

顔をゆっくりと上げたそれは、長門だった。


「な、長門。こんなところにいたのか」

「……」

「ずっと探してたぞ」

「……わたしも、待っていた」

いつかのような再会のシーンに抱きしめたい衝動に駆られて長門の肩を引き寄せたが、弔問ちょうもん客の手前だ。嫁入り前の娘にそんなまねをするわけにもいかず、慌てて手を離した。公式の挨拶はこれくらいにして、俺は個室に長門を呼んだ。

「この時代にはいつごろ来たんだ?」

「……約半年前」

「古泉もそのあたりだと言ってた。何が起ったんだ?」

「……閉鎖空間へいさくうかんのゆらぎエネルギーが古泉一樹の能力に反応し、次元拡張装置がオーバーロードした」

よく分からんが、漏電みたいなものか。

「どうやって帰る?」

「……今のところ手段がない」

「前みたいに喜緑さんに助けてもらうことはできないのか」

「……それはできない。この時間線には喜緑江美里は存在しない」

「存在しないって、なんでだ?」

長門はなぜか、言ってしまってハッとしているようだった。それから理由を説明しようと口を開いたが、途中でやめて黙り込んだ。なんだか長門らしくない。

「……」

「喜緑さんがいないってことなら、まあ無理には頼めないよな」

長門は何も言わなかった。

「朝比奈さんとハルヒ、古泉には会ったんだが。ハカセくんがいない」

「……彼はこの時間平面にはいない」

「俺たちの時代に残ってるのか」

「……そう。彼は影響を受けていない」

そうか。ならよかった。俺たちと違ってあいつだけは一般市民だからな、できれば巻き込みたくない。

「そういや朝比奈さんのTPDDが壊れちまったらしいんだが、修理すれば戻れるんじゃないか」

「それは無理。TPDDは意識内の概念で構成されている」

「長門にもお手上げか。困ったな」

しばらく考えたが、長門に手の打ちようがないんなら俺がいくらがんばっても無駄だよな。

「ともかくこの時代を生き抜くことを考えよう。お前がいてくれて安心したよ」

「……そう」

「お前のことを莵道うじのわきさんに頼まれた。いい兄貴だよな」

「……」

俺はつとめて明るく振ったのだが、長門は妙に悲しそうだった。

「すまん。仮の身分とはいえお前の兄だったな。あまり親しくはなかったが、純朴じゅんぼくでいいやつだった」

「……気にしなくていい」

「喪が明けたらうちに来い。みんなで一緒に暮らそう」

「……分かった」

長門を見ていると、なんとなく独りにしてはいけないという気持ちが沸いて起る。きさきにしてくれと言われたときに会ってやればよかったと少し反省した。

「実は太子になることになってな」

「……知っている」

「怒らないで欲しいんだが、ハルヒをきさきにするはめになったんだ」

「……怒ることはない。立場上、当然のこと」

「ハルヒに悪い虫が付きそうだったんでな。それに子供が三人もいたんでほっとけなかったんだ」

なんだかすごくいい訳じみてるのは気のせいじゃないだろう。慌てて行動してしまって少なからず後悔しているところだ。

「……子供に父親は必要。あなたが適当だと思う」

「そうか。分かってくれて嬉しいよ」

「……これも、既定事項」

や、やっぱりそうなんですか。ここで俺がしくじったら歴史が狂ってしまうんだろうか。

莵道うじのわき氏と約束したとおり、お前もきさきにしたいんだが受けてくれるか」

「……」

長門は俺の手を握ってコクリとうなずいた。


 葬儀はつつましくり行われた。俺と長門を引き合わせてくれた莵道稚郎子皇子うじのわきいらつこのみこに別れを告げた。若くして生涯を閉じた、この人のなごりが京都宇治川に残っているのを俺が知るのは、だいぶ後になってからだ。


「あたしは絶対に嫌だからね!」

ハルヒはがんとしてゆずらなかった。ハルヒが怒っているのも無理はない。ハルヒのことを気に入っている男がいるというので俺が半分やきもちを焼くような形でハルヒを横取りし、その挙句俺は長門まできさきにしたいと言い出したのだ。


 莵道稚郎子皇子うじのわきいらつこのみこの葬儀が終わって、だいたい三ヵ月の喪の期間が過ぎてからのことだ。それまで俺は鶴屋さんちでまつりごとにかまけていたのだが、即位する前にハルヒに言っておいたほうがいいだろうと考えた。

「お前を皇后の位にしたいと思うんだが」

「ええっ、ほんとに?あたしが皇后様になんの?」

ハルヒは例の、口を半月にした笑顔で言った。もしかして女王様願望があったのか。

「ただし、長門もきさきにしたい」

「な、なんで有希をきさきにしないといけないのよ」

莵道うじのわきさんが死ぬ前に、是非にと頼まれたんだよ。遺言みたいなもんだ」

「いそいそと京都に出かけてたのはそういうわけだったのね」

できるだけ穏便おんびんに口実を作って抜け出していたつもりだったのだが、長門に会いに行ってたのを知られてたらしい。

「俺と長門が付き合ってるのは知ってるだろう」

「知ってるけど……でも」

「お前を皇后にするのは芝居みたいなものなんだ。日本の歴史を壊さないためにだな」

「だったら最初から有希と結婚しなさいよ。二股かけられるなんて、あたし我慢ならないわ」

「俺もそう思ったんだが、この時代のしきたりじゃそうもいかないらしいんだ。ハルヒを気に入って次の皇后に推したのは鶴屋さんだから、そっちを立てないといかん。つまり政治だな」

「そんなのいやよ。あんたとならこの時代で一生を終えてもいいなと思ってたのに……。あんた、あたしと有希のどっちが大事なの!?」

そんな究極の選択みたいにいわれてもなぁ。

「どっちも大事だな」

「もう!あたし絶対にならないから!」

長門のほうが大事だ、とか言ってしまうとまたハルヒが切れそうなので曖昧あいまいにごまかしてしまったのだが、ハルヒはドダダダと足音を立てて走っていってしまった。いや待て、俺とならここで一生を終えてもいいとか言ったか。そんなことになったら困るぞ。俺は全員を連れて二十一世紀に帰らねばならん。ハルヒもだ。


大鷦鷯おおさざきにも困ったもんだのぅ。前から女の気持ちに鈍いとは思っておったが」

鶴屋さんが八重歯を覗かせながらケラケラと笑った。俺には「キョンくんにも困ったもんだねぇ」と聞こえていた。

「はあ。痛み入ります」

「実のところイワにゃんがここに参ってな、愚痴ぐちっておった」

「あいつ愚痴ぐちを言いにここに来たんですか」

「まあ、あれの気持ちも分からんでもない。元はといえばお主が無理をいうてきさきとしてしたのだからのう」

「しかしあのままほっとくわけにもいきませんでしたし」

「お主があせる気持ちも分かる。しかしの、イワにゃんも宿敵が現れて戦々恐々としておるんさ。女の世界というのはそういうものさね」

そうだったんですか。俺の知らない怖い世界だ。

「あれが言うには、もし大鷦鷯おおさざきにめとられなければ自由に恋もできたであろうにと、誰にいうともなく嘆いておった。も多少なり責任を感じておるところよ」

なんというか、ハルヒがそんな風に感じていたとは。自分の軽率さが少しショックだった。

八田皇女やたのひめみことどっちが大事かと問い詰められました」

「そこはのう、嘘でもよいからイワにゃんのほうが大事だと言うんさ。女ってのは大事にされると嬉しいもんさね」

そうなんですか。さすが年の功というか、噂には聞いてますが鶴屋さんもいろいろと苦労なさってるようで。

「まあ今のところは磐之媛いわのひめをおだてて、頃合を見て八田皇女やたのひめみこしいれればよろし」

「そのようにします。おありがとうござい」

「歌の一首でも贈るがよろし、花一輪を添えてな」

歌?俺にラブレターを贈れとおっしゃるんですか。歌っていうか俺の時代でいう和歌だよな。古文は昔から苦手だったのに。しょうがないので古泉に頼んで手伝ってもらった。

「酒の君、ちょっといいか」

「なんでしょう殿下」

「ハルヒに和歌を贈りたいんだが」

「これはまた風流ですね。して、どのような歌を」

「ハルヒを皇后にするという話をしたらブチ切れてな。なだめたい」

「皇后様に?それでなぜご機嫌を損なわれたのでしょう」

「そのついでに長門をきさきにしたいと言ったんだが」

「きっと二股をかけられたと思われたのでしょうね」

古泉はあははと笑った。なんでそう女心を読むのがうまいんだ。

「鶴屋さんから歌を贈れと言われてな。なんとかなだめる歌をたのむ」

「それは殿下ご自身の気持ちが重要かと」

「うーん。俺の古文の成績はずっと一とか二だったからな」

「殿下。この時代ですよ、歌のひとつやふたつはえいじることができないと文化人として軽んじられてしまいます」

「分かった。書くから手伝え」

「まず、皇后となられる磐之媛いわのひめ様のお立場はどうお考えなのでしょうか」

「ここではハルヒが主役だな」

「つまり、磐之媛いわのひめ様が主役で八田やた様が脇役ということでしょうか。二人が一緒にいても磐之媛いわのひめ様が色あせてしまうことはない、と」

「そうだな。それをなにかに例えてみると……なにがいいだろう」

「そうですね。百済くだらの武人はいつも、主力の武器と予備の武器を用意しています。弓は必ず二本持っています。予備の弓を儲弦うさゆづると申しますね」

そんな国語の授業っぽいやりとりをしつつ、以下の歌ができた。


 貴人うまひとの立つる言立ことだて 儲弦うさゆづる絶ゆ間 がむに並べてもがも


「俺は偉い人だから一度しか言わんぞ。主力の弓が切れたときのための予備の弓だが、あくまで予備として用意しておくだけだ。つまり長門はあくまで脇役で、ハルヒが主役であることに異存はないぞ」というような歌だ。庭に植えられている姫百合を数本包んでもらって、ご苦労だが早馬はやうまで届けてもらった。

 この歌、俺にしちゃあ“たいへんよくできました”のスタンプをもらってもいいくらいの出来のはずなんだが、かえってハルヒを怒らせたらしい。翌日ハルヒから手紙が返ってきた。


 ころもこそ二重ふたえも良き 小夜床さよどこを並べむ君はかしこきろかも


「予備があっていいのは服くらいなもんよ。女二人と寝るつもりなのあんたは!何考えてんのよ変態!」と、いうことらしい。この時代の俺たちはただ芝居を演じてるだけだから、まかり間違っても二人と寝るなんてことはありえんだろ。まったく、風流なのか妄想たくましいのか分からんやつだ。この歌を古泉に見せると困ったものですねと笑っていた。

 どうもこの時代に来てハルヒは長門を嫌っているようだ。喪が明けた頃に長門があいさつに来たのだが、ハルヒは会っても目を合わせようともしない。それもそのはず、この時代の衣装に身を包んだ長門はもうれするくらいの美しさで、家臣一同、野郎の視線を釘付けにしたほどだ。部活で巫女みこコスプレをさせなかったのがやまれる。ずっと短かった髪も、この時代に来てさらりとした長い髪になっている。

 しかも教養があっておっとりとした皇女らしい品格があり、臣下にファンも多いと聞く。それに長門の血筋は先代天皇に最も近く、いわば正統だ。ハルヒは自分を差し置いてそういう設定になってるのが気に入らないらしい。


 ハルヒがあんまり怒るので、長門のことはもう持ち出せなかった。ともかく皇后にいてもらうまでは黙っていよう。こういうときはとにかくなだめるに限る。鶴屋さんが説得してくれたのが功を奏したのか、ハルヒはとうとう折れて皇后の位にいてくれることになった。

 しばらくして、俺の即位の礼とハルヒの立皇后の礼が行われた。即位の礼といっても、中身がいろいろと複雑で儀式がいくつか重なっている。朝廷が内輪でやる儀式に、家臣にお披露目ひろめをする儀式、さらに国民にお披露目ひろめをする儀式まである。祝賀会はその後だ。

 なにせ俺にはまったく経験のないことで、宣誓せんせいを唱えるにも挨拶をするにもカンペを用意してもらわねばならなかった。このカンペがまた難しい漢字の羅列られつで、たぶん万葉仮名まんようがなとかいうんだと思うが、読めなくて困った。早くひらがなを開発してくれ。

 国中から祝いの使いが訪れ、外国からも使節団がやって来て、俺とハルヒはいちいち面会に出ねばならなかった。そこで言うべきセリフも決まっていて徹夜で覚えさせられた。国事に詳しい古泉にはディレクター役としていろいろと助けてもらった。


 皇位に就いてから俺は高津宮たかつのみやという屋敷を構えた。朝比奈さんのいる大隅宮おおすみのみやのすぐそばだ。屋敷の場所をここに決めたのは、ここからだとすぐ船を出して宇治宮うじのみやに行けるという隠れた理由もあった。

 しばらくの間、ハルヒはおとなしく育児に専念していた。これはこれでけっこう楽しんでいたようで、寺子屋みたいな塾を開いたり、家臣の子供を集めて中国そろばんを教えたりしていた。

「ハルヒ、漢字はともかくだな、ひらがなとカタカナはまだ教えないほうがいいぞ」

「なに言ってんの、ひらがなは日本人のココロよ」

などとのたまい、俺たち四人が歴史改変しやしないかとオロオロ心配しているのもどこ吹く風だった。

「サッカーを教えるのはまだ早すぎるだろう。日本に伝わったのは千五百年後だぞ」

「これは蹴鞠けまり蹴鞠けまり麿まろ蹴鞠けまりをしませう」

ハルヒさん、蹴鞠けまりは奈良時代におじゃる。

「あんたは歴史零点!蹴鞠けまりは紀元前三百年くらいからやってんのよ」

「そうだったのか、知らなかった」

「といっても中国でだけどね」

子供たちは丁寧ていねいに巻かれた手鞠てまりがボロボロになるまで蹴って遊んだ。稚児ちご衣装のそでを振り回しながらゴールを叫ぶ様子を見ていると、サッカーが国技になってワールドカップ優勝も夢じゃない気がしてきた。がんばれニッポン。


 ほのぼのした宮廷の日々が続いたが、けして長門のことを忘れていたわけではない。俺はなにかと理由をつけて宇治宮うじのみやまで遠出した。長門もあんな遠いところに住んでないでこっちに来ればいいのに、と思ったんだが、ハルヒを刺激しないほうがいいというので俺もまめに遠い道のりを通った。宇治宮うじのみやを去るとき、長門が桟橋さんばしにぽつりとたたずんで、寂しそうにこっちを見ているのが正直つらかった。

 だがまあ、俺としてはこの二人の物理的な距離を楽しんでいないわけでもない。

「キョンくん、なにを書いてるの?」

「あ、朝比奈さん、なんでもありませんよぉ。きっと気のせいです」

「ちょっと見せて」

「いえいえ、なんでもありません。ただの落書きです」

「嘘っぽいですぅ」

うわっだめです、そんなに密着されては。仮にも俺たちは親子なんですから。

「あら、歌をんでいたの?そうならそうと言えばいいのに」

「とても人様に見せられるシロモノではないので」

俺は苦笑いをした。こないだハルヒに歌を贈ったところ酷評されて返ってきたので、少しでも腕を磨こうという俺のささやかなる向上心から柄にもないことをやっているのだ。

枕詞まくらことばとかぜんぜん覚えてなくて。学生の頃に古文の成績は教科一覧の中で最低でしたから」

「あんまり深く考えなくていいと思うわ。この時代の和歌は日記みたいなものだし、物語とか手紙を情緒じょうちょを込めて書くときに歌にすることもあるわ。メモ書きみたいな感じ」

そうだったんですか。じゃあ俺たちの時代でちょっとメールを書いてるような感じですかね。

「そうそう、ギャル文字でちょっとメールする感じね」

朝比奈さんは笑って俺が書いた歌を読んだ。

「あら、あらら。これは、ごめんなさい勝手に見ちゃって」

「いえいえ、朝比奈さんならいいんですよ。ハルヒなんかに見られた日にゃ死ぬまでネタにされそうで」

俺が書いていたのは長門のことをんだ歌だった。清楚な女の子が宇治の片田舎でひっそりと暮らしているのがいとおしい、とかそういう意味のことをんだ。

「素朴でいい感じね」

いやぁ、ははは。朝比奈さんにめられると歌人にでもなれそうな気がしますが。

「よかったらこれ、わたしにくださいな」

「え、これをですか?」

「ええ。いいかしら」

「こんな素人の歌でよければいくらでもさしあげますよ」

「ありがとう。長門さんにも見せてあげたいわ」

そ、それは勘弁してください。あいつにこんな駄作を読まれたりしたらへこんでしまいます。


 そんなある日、鶴屋さんに呼ばれた。

大鷦鷯おおさざき八田皇女やたのひめみこのことであるが、あまり待たせるのもよくない。約束は約束」

「ええ。でも磐之媛いわのひめがなんというか」

「そこでな、磐之媛いわのひめにはちょいと使いを言いつけたい」

「どんな用事でしょうか」

「近いうちに豊明とよのあかりといううたげを催すのであるが、そのときに使う御綱葉みつなかしわという木の葉を使う」

「ミツナカシワですか。玉ぐしみたいなものですか」

「まあ似たようなものだ。それを採ってくるのは皇后が最もふさわしい」

そんなしきたりは聞いたことがないが、鶴屋さんがたった今作ったのに違いない。

「その御綱葉みつなかしわはどこに行けばあるんですか」

熊野岬くまのみさきというところにある」

熊野岬くまのみさきというと……ええと」

「船で伊勢に渡る中途にある、熊野灘くまのなだにあると聞く」

和歌山の最南端くらいか、けっこう遠いな。

「その間に既成事実を作ってしまえば磐之媛いわのひめ無下むげに拒めまい」

磐之媛いわのひめがいない間に八田皇女やたのひめみこきさきに迎えようって魂胆こんたんですね、ひひひ」

「さようじゃ、きひひ」

鶴屋、お主もワルよのう、と突っ込んでしまいそうな策略であるが、ハルヒの目をかすめでもしないといつまでたっても長門を迎えることはできまい。


 俺はハルヒに宛ててうやうやしくみことのりを送った。みことのりってのは天皇が出す命令書みたいなものだ。ハルヒは子供を連れて、ぶつぶつ言いながら船で熊野岬を目指した。

 その隙に俺は、古泉に頼んで長門を迎えに行ってもらうことにした。

「長門をきさきにしようと思うんだが、迎えに行ってもらえないか」

「それはおめでたい。ですが、涼宮さんが荒れませんか」

「多少は荒れるかもしれんが、あいつもそろそろ大人になっていい頃だ。だいたい長門と付き合うきっかけになったのもあいつだし」

「そうですね。あなたなら涼宮さんをなだめられるでしょう」

「長門の兄貴に遺言で頼まれたってのもあるしな。まあこれは俺の希望でもあるんだが」

「さっそく行ってまいります」

「気をつけてな、お忍びで頼む」

「かしこまりました」

古泉はすべて心得ているというように片目をつぶった。

 この間に俺は、敷地内に長門のための館をもう一軒建てるとしよう。さすがにハルヒと同じ館の中じゃ火花が散る毎日だ。S極とS極は近づけないに限る。

 一週間くらいして長門のご一行が到着した。家財道具も一式持ってきたようだ。宇治宮うじのみやには長門の妹というやつが後をいで住むことにしたらしい。

 俺が出迎えようとすると、長門の取り巻きはそそくさと部屋の中に引きこもった。ああそうか、新郎は式の前には花嫁に会ってはいけないんだよな。


 翌日、よく晴れた九月のとある吉日。陽が西に傾いたころ、俺と長門の婚礼の儀が庭でり行われた。屋敷の庭にはいくつものかがり火がかれていて、パチパチと燃える音に混じってコオロギやらスズムシの声が静かに聞こえている。

 司会の巫女みこさんを朝比奈さんに頼んだ。俺が神事しんじ用の礼服を着て祭壇の前でじっと待っていると、客室から長門が降りてきた。式場の両側に並んだ家臣と客人からオオッという歓声が沸いた。おしろいをつけていなくとも透き通るような白い肌に、長い中国貴族風の衣を身にまとい、銀細工の髪飾りをつけている。目の覚めるような真紅しんくの衣装がひときわ映えていた。

 ごくごくゆっくりと、付き人と共に庭に敷かれた布の上を歩いてきた。この時代のしきたりらしく、祭壇のまわりを、俺が右から、長門は左から、ぐるりと回って真中で出会った。イザナギノミコトとイザナミノミコトに由来するらしい。

「長門」

「……なに」

「きれいだぞ」

「……ありがとう」

婚礼の祝詞のりとを述べる朝比奈さんの目が少しうるんでいる。祝詞のりとはカンペなしで、ちゃんと暗記したらしい。二十一世紀ならここでキスのひとつでもするといいのだろうが、これはまあいにしえの儀式、我慢するとしよう。

 神式というから杯を交わす三々九度さんさんくどというのがあるのかと思っていたのだが、この時代にはまだないようだ。古泉の解説だと神前結婚の様式が決まったのは明治以降らしい。

 朝比奈さんが玉ぐしを振って祝福し、全員が祭壇に向かって礼をした。チャチャッと拍手をして婚礼の儀は終わった。

「キョンくん、長門さん、おめでとう」

「ありがとうございます」

「お二人さん、おめでとうございます」

「……」

長門はコクリとうなずいて、古泉から大きな花束を受け取った。

大鷦鷯おおさざき八田やた、めでたきかな」

「おばあさま、ありがとうございます」

「して、お主。磐之媛いわのひめ八田やたのどっちを好いておる」鶴屋さんはこそこそと耳元でささやいた。

「そりゃ八田やたですよ」

「憎いのう。よう、ご両人」

鶴屋さんはわははっと大声で笑った。今宵こよいも酒がうまいようである。披露宴というか酒の席は館の中の広間で行われた。長門と二人で上座かみざに座らせられ、ただニコニコして客人が食ったり飲んだりするのを眺めていた。ここにハルヒがいてくれたら、とふと思った。口には出さなかったが、たぶんみんなもそう思っていたに違いない。


 既定事項にのっとった芝居とはいえ、俺は新婚気分をまったりと過ごした。古泉に案内させて鷹狩に出かけたり、鶴屋さんを連れて生駒いこま山に登ったり、船を出して瀬戸内海を回遊したりと、長門を連れてあちこち遊びに出かけた。

 屋敷の敷地に遠くが見渡せる高台を作り、陽が傾くと長門とそこに登ってじっと夕日を眺めていた。

「最近よく考えるんだが」

「……なに」

「このまま、二人でこの時代で過ごしてもいいかもしれんな」

「……そう」

もちろんそんなわけにはいかないんだろうが、長門は少しだけ微笑ほほえんでいた。俺は長門を抱き寄せて髪に頬ずりし、長門は目を閉じた。俺の生きていた時代とは違う、このゆっくりと流れる時間が好きだった。


 そろそろハルヒが帰ってくるんじゃないかという頃、祝いの客人も減ったので俺は高台に登って昼寝をしていた。長門が冷たい麦茶を持って登ってきた。器を見ると大きな氷が浮いている。

「氷なんかよく出来たな。長門の魔法?」

「……奈良国原ならくにはら氷室ひむろから献じられた」

「氷を地下で保存しておくあれか」

湧き水を冬の間に凍らせて、おがくずに包んで保管しておくものらしい。冷凍庫で簡単に氷を作っている俺の時代じゃ、このありがたみは分からんだろうな。

 長門に膝枕をしてもらってうたたねをしていると、古泉が馬でかけつけた。

「おう、古泉か。なにごとだ」

「陛下、おきさき様、皇后様がお戻りです。住吉宮すみのえのみやの沖に船が見えました」

「そうか、じゃあみんなで迎えに行くか」


 俺は屋敷の住人で暇なやつを全員連れて、海岸まで行列を繰り出した。ハルヒのいない間に長門との婚礼を済ませてしまって、ちょっと後ろめたい気もしていたのだ。

「……ここで、一句んで」

「え、俺が?」

「……そう。既定事項」

「困ったな。ちょっと手伝ってくれ」

「……分かった」

作文の宿題を出された生徒のように俺は竹の板をかかえてうなった。

「今ここで作るってことはハルヒについてだよな」

「……テーマはあなたの自由」

いいのかそんなんで。とりあえず、ここに来ているみんなの歌をもう。

「ええと、あの船なんて船だっけ」

「……鈴船すずぶね

鈴船すずぶね……涼宮ハルヒが乗ってる船か」

ダジャレのつもりではないんだが、船のへりにいくつも鈴を下げているらしい。じゃあええと、難波なにわのみんな、船が来たようなんで、すまんが水に入ってロープをひっぱってここまで船を引いて来てくれ、みたいな歌を書いた。


 難波なにわびと 鈴船すずぶねとらせ 腰なづみその船とらせ 大御船おおみふねとれ


なんだか音頭おんどのような歌になっちまったが、これでよかったのか。長門がうなずいてるからまあいいんだろう。


 船は南から北上し、俺たちが立っている浜に来るのかと思っていたが、途中で船の上が大騒ぎになっていた。ハルヒがわめき散らして海に飛び込もうとしている。腕を振り回してなにごとか叫んでいた。

「な、なにやってんだあいつ」

「……」

飛び込むのが無理とみたハルヒは、なんだか船の荷物をほどいて海に投げ捨てているようだ。どうやら俺に向かってなにか怒鳴っているらしい。

「古泉、あいつなにやってんだろ」

「思うに、長門さんをきさきにしたことが耳に入ったのでしょう。噂というのはすぐに伝わりますから」

「なんてこった」

帰ってきてから落ち着いて説明しようと思っていたのに、人の耳に栓はできないもんだ。ハルヒを他所よそにやって長門をしたことを怒っているのだろう。

 ハルヒは従者が止めるのも構わず、木の葉を山のように海に投げ捨てていた。あれが御綱葉みつなかしわか。困ったぞ、あんなに激怒するハルヒは見たことがない。船はそのまま北上して行ってしまった。

「ありゃ、いっちまったぞ。どこに行く気だ」

「あの分ですと岬をぐるっと回って鶴屋さんのお屋敷にでも向かうおつもりなのでしょうか」

望遠鏡があれば船の行き先をたどれたのだろうが、この浜からでは見えなかった。

「古泉、お前の馬を貸してくれ。俺は一足先に戻るからみんなを連れて帰ってきてくれ」

「かしこまりました」

 俺は馬を飛ばして屋敷の高台に登り、ハルヒの船がどっちに向かっているのかを目で追った。ちょうど湾になったところに入ってくれば鶴屋さんちに行くという宛てもあるのだろうが、船はまっすぐ川を登っていった。その先には長門のいた京都の宇治宮うじのみやがあり、他にも何軒か親戚の住むみやがある。あいつ、いったいどこに行くつもりなんだ。


 なんだか手持ち無沙汰ぶさたで戻ってきた家臣たちに、わざわざ駆り立ててすまんすまんとびた。あの分だと御綱葉みつなかしわとやらは全部海の藻屑もくずと消えてしまったことだろう。俺は別の使いを出して、御綱葉みつなかしわを採りにやらせた。やれやれ、二度手間だぜ。ハルヒが木の葉を海に放り込んだあたりは、それから柏ノ済かしわのわたしと呼ばれるようになったんだとか。


 その日の深夜のことである。屋敷の戸をドンドンと叩く者があった。

「陛下、一大事にございます」

「なんだ、まだ目覚ましは鳴ってないぞ」

「あいかわらず目覚ましが好きですね」

「古泉か、なにごとだ」

俺は寝ぼけまなこをこすりこすりとこを出た。

「神人が現れました」

「まじか。どこだ」

「どうやら川岸のようです。水の中に大きな岩を投げ込んで暴れているとのことです」

「まったく、子供の八つ当たりだな。ハルヒらしいぜ。っていうか、アレが生まれるのは閉鎖空間へいさくうかんじゃないのか」

「それも不思議なのですが、もしかしたらここは異空間なのでは。見てください」

古泉は右手を開いて、赤く光るもやもやした丸い玉を発生させた。通常空間に生まれるはずのない神人が現れるというのは、前にも似たようなことがあった。こいつの能力が使えるのは閉鎖空間へいさくうかんか異空間だけだったな。

「長門を呼んだほうがいいか」

「僕ひとりで十分かと存じます。退治してまいります」

「もう庶民の目に入ってるだろう、朝比奈さんを連れてゆけ」

「朝比奈さんをですか?」

「あれだけの巨人だ、朝廷としちゃそれなりのコメントを出さないといかんだろう。巫女みこさんを連れておはらいをするフリでもしたほうがいい」

「なるほど、政治の力で庶民の噂をうまく丸め込むわけですか」

噂が広まって尾ひれがついてしまうと始末に終えないからな。日本史の教科書に青い巨人が出てきたりしたら困る。俺は大至急朝比奈さんを呼びにやった。夜中ではあるが、この緊急時だ。許してくれるだろう。

 朝比奈さんが寝巻きのままやってきた。

「キョンくん、古泉くん、なにがあったの?」

「ハルヒが神人を出してしまったらしいんです」

「まあ、この空間で?」

「ええ。よく分かりませんが、ここは異空間に似ているらしいんです。古泉といっしょに退治に行ってもらえませんか」

「わたしが神人を退治するの?」

「庶民の目の前でおはらいをしたほうがいいと思うんです。都市伝説が後世に伝わるようなことがないように」

「なるほど、さすがはキョンくんね」

「行ってもらえますか」

「分かったわ。急いで衣装に着替えてくるわ」

朝比奈さんは巫女みこ衣装を取りにやり、客室にひっこんだ。このときほどコスプレが似合う人のありがたみを感じたことはなかった。俺はその間に侍女を叩き起こして祭壇の準備をさせた。さらに従者を二三人つけたほうがいいだろう。

 朝比奈さんが鮮やかな赤い巫女みこ衣装をまとって現れた。新調したらしい。

「後始末をさせるようですいませんが、よろしくお願いします」

「では、行ってまいります」

古泉と朝比奈さんは馬を出した。巫女みこ姿で馬に乗った朝比奈さんはかっこよかった。

 こんな夜中だ、街灯なんかまったくない夜道を全速力で駆けつけるわけにはいかないが。


 神人は古泉の想像をはるかに超えて暴れていたらしい。ハルヒの船が登っていった川の下流に出現していた。まわりに壊せる建物がないからか、生えてる木を引っこ抜いたり石を持ち上げて川の中に投げ込んだりしていたそうだ。そんなに力余ってんなら土木工事でも手伝わせてやる。

 すでに住民の間に広まっているらしく、大勢の野次馬が土手の上から見物していた。見物人の前で従者が祭壇を作り、朝比奈さんが神人をなだめる祈祷きとうっぽい呪文を大仰おおぎょうに唱えはじめた。そこで草陰から古泉の赤い球体が飛び出し、神人のまわりを幾度か回った後に足を切り落とした。神人はぐらりと傾いて自重で崩れ始め、砂がこぼれるように川の中へ消えていった。呆然ぼうぜんと見ていた野次馬が朝比奈さんに向かって拍手喝采かっさいをした。


 明け方、二人とその連れが戻ってきた。おはらいの実物を見たのはどうやらはじめてだったらしく、従者がいたく感動していた。まあ史上初の神人退治だろう。

「古泉、ご苦労だったな」

「もったいないお言葉。神人相手ならお安い御用です」

「朝比奈さんもおつかれさまでした」

「お礼なら古泉くんに言って。わたしはさかきの葉を振ってただけだから」

朝比奈さんは苦笑した。

「古泉、ひと休みしてでいいんだが、ちょっと使いに行ってくれないか」

「なんなりと」

「ハルヒの様子を見てきてもらいたい。たぶん京方面に行ったんだと思う。あの辺には親類のみやがいくつかあるらしいから」

「そういえば淡路宮あわじのみやもあちらですね」

「戻ってきてくれと伝えてもらえないか」

「分かりました。今すぐ出かけてまいります」

ひと休みしろと俺が止めるのも聞かず、古泉は夜討よう朝駆あさがけで馬を飛ばした。こいつのバイタリティには感心する。そのうち大臣にでも取り立ててやらないとな。

 俺は即日、お触れを出した。昨晩のイベントは、川の神が虫の居所が悪くて暴れていたので巫女みこつかわしてしずめたのである、と。なんだか政府がなにもせずおいしいところだけ持っていってる気がする。面目ない。


 古泉はそれから一週間くらいして戻ってきた。── 聞いた話になる。

 古泉は海路を行かず、遠回りして陸路からハルヒを探した。川沿いを登り、出会う村で会う人ごとに尋ねてたどってみると、川の本流と支流が交わるあたりで岸に着けている船を見つけた。まだ京都まではさかのぼっていなかったらしい。

 古泉は船に渡ってハルヒと面会した。

「陛下が皇后様に戻ってくるよう願っておられます」

「古泉くん、そのかしこまった話し方やめて」

「失礼しました。彼が戻ってきて欲しいと言ってます」

「キョンにはまったくがっかりさせられるわ。いつだったか有希と付き合い始めた頃、あたしが怒ったの覚えてるでしょ」

「ええ。涼宮さんに知られないようにこっそり会っていましたね」

「それが腹立つのよ!隠れてこそこそやって、それがばれたとき相手がどう思うか考えたことあんの?」

「まあ彼はそのへんがうといと申しますか、つい安易な方向に走りがちと申しますか」

「でしょ。もう今回のだましちにはアッタマに来たんだから」

「気持ちは分かります。ですが皇后様が不在となると国政もうまく運びません。ここはひとつ、彼を怒鳴りつけてでもまつりごとに戻っていただけないでしょうか」

「そんなに皇后の位が必要なら、有希にくれてやるわ」

「そうもゆかないでしょう……」

さすがの古泉も、今回ばかりは手を焼いたようだ。まあな、いつものごとく俺が悪いんだよな。

御綱葉みつなかしわとかいう葉っぱも捨ててしまったし。オキナガのばあちゃんに会うのも敷居が高いわ」

「それは謝れば許してもらえるでしょう」

「なんであたしが謝るのよ、キョンが悪いのよ!」

「おっしゃるとおりです」

「もう……これは気持ちだけの問題じゃないんだから」

「と、いいますと」

「キョンが最初に有希をきさきにするって話をしたとき、あたしが反対したのは知ってるでしょ」

「ええ。長門さんのお兄さんが遺言で頼んだそうで」

「それはいいのよ。キョンがそのときどうしてもきさきにすると言い張ったんだったら、あたしもあきらめたわ。キョンがそれ以上なにも言わなかったから、納得してくれたんだとばかり思ってた」

「あのときは皇后になってもらいたい一心で、それ以上なにも言えなかったようですが」

「ところがどうよ、ほとぼりが冷めた頃になったらあたしを厄介払いして有希を引っ張り込むなんて」

「ええ。まったくひどい仕打ちです」

「遠路はるばるお使いにやられて、帰ってきてみれば結婚式?あたしの面目は丸つぶれよ」

正論を言われて古泉は何も言えなかった。俺がその場にいたとしてもたぶん何も言えんだろう。

「有希と一緒になりたいのなら、最初からそうしなさい、と伝えて」

「かしこまりました」

「それから、バカキョン、つるが切れた弓は使い物にならないんだからね、と言っといて」

うけたまわりました」

そこではじめて古泉は笑った。俺が贈った歌をネタに怒ってみせるなんて、ハルヒにも少し余裕が出てきたのかもしれない。

「古泉くん、わざわざ来てくれてありがとう。でもあたしは戻るつもりはないから」

 古泉はそこでハルヒと別れた。ハルヒの船は支流に入って奈良のほうに進み、そのままさかのぼっていったということだった。


 古泉が戻ってきたとき、朝比奈さんが心配して俺の屋敷に来てくれた。

「おかえりなさい、古泉くん」

「ご苦労だったな」

「お引きとめできず、申し訳ありません」

「いやいや、いいんだ。俺が悪いんだから」

同じ過ちを二度も繰り返すとは、俺は自分の軽率さに心底後悔していた。

「キョンくん、わたしが行って様子を見てきます」

「お願いできますか。ひとりにしておくとなにをしでかすか分かりませんから」

「ええ。それに、子供たちの世話もありますし」

血は繋がっていないが、俺の子供たちは朝比奈さんの孫になるわけだ。おばあちゃんと呼ばせないところは朝比奈さんらしいが。

「こういうとき、ひとりでいるのはつらいものですから」

ハルヒに同情する朝比奈さんを見ているとよけいに自己嫌悪けんおおちいってしまう。俺ってダメな男だな。


 朝比奈さんが出発して十日くらいして、書簡が届いた。ハルヒは支流の岸に舟をつけて、そこで家を建てて暮らしているとのことだった。質素な造りで、ハルヒと子供たち、それから数人の従者が暮らすだけの小さな屋敷だそうだ。その屋敷を筒城宮つつきのみやと名づけたらしい。

 居場所が分かったので俺はまた古泉を行かせることにした。

「古泉、たびたびすまんが使いに行ってくれ」

「いつでも参ります陛下」

「ハルヒが新しくみやを構えたらしいんで、当面の生活に必要なものを持っていってやってくれないか」

「かしこまりました。従者も少し連れて行きましょう」

「そうしてくれ。それから、できればだが帰ってくるよう説得してくれないか」

「お任せください。皇后様もそろそろ気分的に落ち着いた頃でしょう」


 さて、またもや俺は古泉が帰ってくるのをじっと待っていた。自分で迎えにゆけと言われりゃ、確かにそうなんだが。あれこれ仕事にかまけてなかなか自分の足で動くことが面倒になっちまって、ついつい人を動かすくせがついてしまった。


 古泉は筒城宮つつきのみやの質素な門の前に降り立った。みやとはいうものの、質素と表現するのが過剰に聞こえるくらいなにもない屋敷だった。小屋のような小さな家が数件ぽつぽつと建っているだけで、母屋はまだ建築中だった。ここに来てまだ二十日くらいしか経っていない。

磐之媛いわのひめ皇后様にお目通り願いたい」

門番から中に伝えられて通され、謁見えっけんの庭に膝をついて待っていた。朝比奈さんが出てきた。

「古泉くん、涼宮さんは会いたくないって」

「皇太后様、会っていただけるまで帰りません、とお伝えいただけますか」

「分かりました……」

朝比奈さんは引っ込んだ。古泉は庭の土の上に正座し、両手をついたままハルヒが出てくるのを待った。

 いくら待ってもいっこうに現れず、そろそろ陽も暮れかかってきた。やがて冷たい風が吹き始め、雨がぽつりぽつりと降り始めた。謁見えっけんの庭といっても屋根などない、家の前の草を刈っただけの広場だ。古泉は雨に濡れるにまかせてじっと動かなかった。

 朝比奈さんは、せめて屋根の下に入ってと言いに来たのだが、陛下の伝言を伝えるまではここから動かないと言った。空はだんだん暗くなり、雨も冷たくなっていった。古泉は濡れねずみになったまま、顔を上げようともしなかった。

 朝比奈さんがハルヒに泣いてすがり、せめて話を聞いてあげてと頼んだのだがいっこうに聞き入れようとしない。今回のことはハルヒが一歩でもゆずればそれで解決するのだろうが、それでは筋が通らない。また俺が謝りにでも行けば話は別なのだろうが、なかなかそうもいかず、もしかしたらこじれるだけかもしれないが。降りしきる夜の雨の中、姿が見えなくなってぽつんとうずくまった黒い影になっても動かない古泉に心打たれ、朝比奈さんのんだ歌がひとつある。


 山背やましろの 筒城宮に物申す わがを見れば涙ぐましも


山背やましろ川の岸にある筒城宮つつきのみやで、陛下の言葉を伝えようとする古泉の一途いちずさが見るに耐えない、とかそういう意味らしい。ハルヒがとうとう家の中から現れて、雑巾ぞうきんのようにずぶ濡れになっている古泉にかけよった。

「古泉くん、なんで……なんであんたは、そう一途いちずなのよっ」

「僕は……家臣ですから」

古泉は雨に打たれながらハルヒを見上げた。降りしきる雨の中でハルヒは濡れそぼった古泉の髪をき分けた。濡れたハルヒの頬には熱いものが混じって流れていた。その手が古泉を抱きしめて唇を寄せようとした。だが古泉はそれを制した。

「涼宮さん、それは……だめです。あなたは、彼の妻です」


 ここまで話を聞いたとき、俺はうるうると涙を流した。

「古泉ぃぃ、お前はなんて一途いちずなやつだ。男の中の男だ」

「今の僕の脚色きゃくしょく、気に入っていただけましたか」

え、今のお前の脚色きゃくしょく?なんて野郎だお前は、男の純情をもてあそびおって。

「それはまあともかく、涼宮さんは帰ってきません。生活に必要なものだけではなく、家の建材や大工も手配しておきました」

「おう、すまんな」

「あの感じでは、あの家で冬を越すのは無理でしょう。こことは気温がぐっと違いますからね。そのうち帰ってくると思います」

「そうか、ならいいんだが」

それにしてもひさびさにいい話を聞いたぜ。未来に帰ったらハーレクインを読もう。


「長門、宇治ってところは冬は寒いのかな」

「……平均気温はここより低い。雪が積もる」

「じゃあ筒城つつきも寒いだろうな」

「……そう。筒城つつきで冬を越すのはつらいかもしれない」

長門も心配しているようだ。

「……それに、人がいない」

「ハルヒは賑やかなのが好きだからな。きっと寂しいだろう」

「……そう」

どうやら俺が直接会いに行くしかなさそうだ。

 船に荷物を積む準備をしていると古泉が言った。

「陛下がゆかれなくても、僕が行ってまいりますよ」

「いや、いいんだ。人を使うことを簡単に考えるようになるとロクな人間にならないからな」

「さようですか……」

古泉は妙に感じ入ったようだった。


 季節はそろそろ十一月に入っていた。俺は従者を連れてハルヒに会いにいった。船で川をさかのぼって京都方面に向かう途中、ハルヒが停泊したあたりに俺の船も停まったが、ここまで来るともう空気がひんやりと冷たかった。このへんで冬に採れるという大根畑があちこちで目に入った。支流に入りさらにさかのぼって筒城宮つつきのみやの付近で岸につけた。

 筒城宮つつきのみやは質素というかあばら家というか、まあ本殿ほんでんは完成していたけどちょっと大きな農家の家っぽい感じで、ありゃ見るからに寒そうだ。塀は竹を切って刺して並べただけだった。

 従者をひとりつかわして、俺が来たことを伝えると朝比奈さんが出てきた。

「キョンくん、おひさしぶり」

「朝比奈さん、お元気そうで。ここすごく寒いですね」

「ええ。冬は雪が積もるそうよ」

「ハルヒに会いたいんです」

「あの、ごめんね。涼宮さん会いたくないって言ってるの」

予想はしていたが、朝比奈さんは明らかにハルヒに同情していた。これはこたえる。

「すいませんお手数なんですが、この竹簡ちっかんを渡してもらえますか」

「ええ。渡してきます」


 つぎねふ山背女やましろめの 木鍬こくわ持ち打ちし大根おおねさわさわに が言へせこそ打ち渡す やがはえなす 来入きい参来まいく


山背やましろの農家の女がくわを担いで大根を掘っていた。その葉が並んでいるかのようにざわざわと従者を連れてここまで来たんだから、せめてお前の言い分を聞かせてくれないか。みたいな歌を竹簡ちっかんに書いて渡した。

 出てきた朝比奈さんはボロボロになった竹簡ちっかんを持っていた。

「ごめんね、やっぱり会いたくないって」

「いいんですよ、俺が悪いんです。今回のことはすべてね」

最近覚えたてで歌も作れるようになったつもりだったんだが、趣がまずかったかな。大根にこだわったのはこのところ京野菜きょうやさいの大根ばかり食わせられて、どうも腹が減ると気持ちがそっちに行ってしまうからなのだが。

「ハルヒにごめんなと伝えてもらえますか。今日のところは無理せず帰ります」

「ええ、伝えます。ごめんね」

朝比奈さんに謝られるともうどうしようもなく自分を責めてしまいますよ俺は。


 このまま帰ってしまうのもなんなので、俺は高津宮たかつのみやには帰らず鶴屋さんちまで足を伸ばした。

「すまんのう大鷦鷯おおさざきが間違っておった」

「いえいえ、俺が悪いんです。前にも同じようなことがあったんですよ」

「しかしのう……」

鶴屋さんにしては歯切れが悪かった。ハルヒの留守中に長門をきさきにするという案を出したのは鶴屋さんなのだが。俺は帰ってくる旅の途中、ずっとハルヒの機嫌を直す方法を考えていた。

「ひとつ案があるんですが」

「ほう、聞こうではないか」

磐之媛いわのひめの息子を太子にしてはどうでしょうか」

「ほうほう、なるほどのう。去来穂別いざほわけを太子にのう」

「そろそろ十歳になるらしいんで時期的にまずくもないですし」

「お主、それは実に名案である。息子が太子になれば母たる者、喜ばずにはおれまい」

「正月が過ぎた頃でいかがでしょうか」

「そうさの、早いほうがいい。段取りはそちに任せた」

去来穂別いざほわけというのは、ハルヒの元旦那の長男だ。つまり俺の父親の子供だから弟でもある。ややこしい。ほんとの名前は大江去来穂別皇子おおえのいざほわけのみこという。


 年が明け、去来穂別いざほわけは七五三のような格好をさせられて立太子りつたいしの礼を受けた。百済くだらの太子から友好の証として贈られたという、サボテンのような形をした七枝刀しちしとうを渡した。この妙な形の刀がそのまま現代に伝わっていることを俺が知るのはずいぶん後の話だ。

 式典にはハルヒの姿はなかった。ある意味予想通りというか、期待はずれというか。父兄代表には朝比奈さんがついていた。

「イワにゃんにも困ったもんだのう」

さすがの鶴屋さんも困り果てていた。PTAの授業参観で自分の親だけが来ないという寂しさが分かるなら、子供の晴れ姿くらい見に来てやってほしいものだが。まあなんといっても発端は俺と鶴屋さんにあるんで、式典に来たくても来れない状況を作り出したのは俺たちだし。ハルヒもつらいに違いない。どこか木の陰から見てるんじゃないかとキョロキョロと見回してみたが、それらしい人影はいなかった。


 それから幾度か古泉が慌しく駆け込んでくることが続いた。同時に妙な噂も伝わってきた。奈良の山で青い巨人が暴れて住民が怖がっているらしい。

 新川さんがいないので車で駆けつけるわけにもいかず、古泉は途中まで馬に乗り、そこから先は空中浮遊で飛んでいったそうだ。こんなことを続けていては、そのうちハルヒにバレてしまうだろう。古泉にしばらくハルヒのそばにいてやってくれと伝えた。


「陛下、おめでたい話にございます」

古泉が戻ってきた。

「なんだ?ハルヒが戻ってくるのか」

「あるいはそうなるかもしれませんが、皇后様にお子ができました」

な、なんですと。俺は古泉の耳元でささやいた。

「あの、古泉」

「はい」

「誰の子供?」

「もちろん養子ですよ」

そうか、一瞬ひやりとしたぞ。ハルヒもよくがんばるよな、四人目だな。って戸籍上は俺の子か。

「じゃあ父親らしく名前を考えてやろう」

「それがよろしいかと」

しばらく考えたんだが、ここで史実と違う名前を付けてしまっては歴史が書き換わってしまうだろう。

「古泉、この子の名前は俺たちの知る歴史ではなんと言うんだ?」

「ええと、なんでしたか……覚えがありません」

「ここで違う名前を付けたりしたら困るよな」

「そうですね。でも未来から持ち込んだ情報で名づけたらループしませんか」

「うーん……。しかし違う名前を付けるわけにもいかんしな」

ああそうだった、長門なら知ってるだろう。

「長門、教えてくれ。磐之媛いわのひめの四番目の子供の名前は何になってる?」

「……オオサザキノスメラミコトの子息、オアサヅマワクゴノスクネノミコ」

そんな棒読みでも覚えられないような長い名前、子供が不幸になりゃしないか。変わった名前の子はよくクラスメイトにからかわれてたもんだが。

「これ、このまま付けていいんだよな」

「……いい」

「ループしてもいいのか?最初にこの名前を考えたのは誰ってことにならないか」

「……」

長門はなにごとか考え込んでいたようだが、なんでもないというふうに肯定した。そうか、じゃあこれでいこう。俺は大陸から輸入した紙に、「命名、雄朝津間稚子宿禰おあさづまわくごのすくね」と教えられたとおりに書いてハンコを押した。この頃は紙が貴重品だからな。

 俺は時間を見つけてハルヒに会いにいくことにした。会ってくれるかどうか分からなかったが、食料やら衣類やらを持っていってやるくらいのことはしてやろう。

「ありがとよ。じゃあ命名を直接届けてくるわ」

「……わたしも行く」

「そうか?」

「……涼宮ハルヒの心境の変化が気になる」

「あいつ最近、情緒不安定らしいからな」


 筒城宮つつきのみやに着くと、俺が贈った建材が役に立ったようで屋敷の様子は多少はまともになっていた。建物の数も増え、塀の外に防風林が植えてあった。ハルヒは出てこず、長門だけ呼んで俺にはカエレと伝わってきた。俺は古泉がやったように、謁見えっけんの庭にひざまずいた。朝比奈さんがまあ!と小さく叫んで口に手を当てた。ふつう俺の立場では絶対にしないようなまねをしたので、まわりが慌てて止めようとした。皇后にひざまずく天皇なんてのは前代未聞らしい。長門は後ろでじっと見ていた。

 十五分くらいしてハルヒが出てきた。

「バカキョン!古泉くんのまねをしてもだめよ!とっとと帰りなさい」

「子供が生まれたのに祝いのひとつでも言わせてくれよ」

「じゃあひと言だけ言って帰りなさい」

「頼むよハルヒ、今回のことは全部俺が悪かった」

俺は両手を合わせて拝んだ。

「とんでもないバカね。あんた自分がやったこと分かってんでしょうね」

「分かってますとも。俺は一度やった失敗を二度もするやつなんだ」

キリキリと上がっていたハルヒの眉毛まゆげがやっと下がった。

「しょうがないバカよね、まったく……。ともかく家に入りなさいよ、あんたが風邪で寝込んだら国政はどうなるのよ」

おっしゃるとおりで。俺はようやく腰を上げて館の中に入った。


「……すまなかったと思っている」

長門がハルヒにぼそぼそと謝っている声が聞こえた。

「有希が悪いんじゃないのよ。全部キョンのせいなんだから」

「……わたしにも、責任の一旦はある」

「もう……あんたも人がいいんだから。キョンがバカをやったらちゃんと怒らないとだめよ」

ハルヒは長門を抱きしめて背中をさすった。長門が本気で怒ったら俺なんか分子レベルにまで分解されちまうぞ。


 油の燭台しょくだいを灯すしかない部屋の中はとても明るいとは言えなかったが、子供たちが賑わっていた。

「よう、みんな元気にやっているか」

「兄上!」

全員が足元に寄ってきてすそをひっぱった。父上とは呼ばせないのはハルヒのこだわりなのか。まあいい、俺は新しく養子に取られた赤子を抱いた。正直、抱き方を知らず、どこを持っていいのか迷っていると朝比奈さんが教えてくれた。

「まだ首が座ってないから、頭の後ろを持って」

なるほど、そういうもんなんですね。ちっこい雄朝津間おあさづまは俺の顔を見て火がついたように泣き出した。そんな感動の対面をしなくても。ヨシヨシとかいないいないバーをしてやって、なにやってんだろ俺、みたいに我に返るような俺だったが。抱えて揺すっても二十一世紀の歌謡曲を歌ってやってもいっこうに泣き止まないんで、乳母うばを頼んでいる侍女に渡した。乳母うばの顔を見ると泣き止んだ。

「この子は人見知りするみたいね」

朝比奈さんがクスクスと笑っていた。


「ハルヒ、高津宮たかつのみやに帰ってきてもらえないか」

「いやよ。何度も言ってるでしょ」

「朝比奈さんと一緒に大隅宮おおすみのみやにいてもいいんだ」

「あたしはもう皇后の位を捨てたんだから、国政にはかかわらないわ」

捨てたとは言ってもなあ。

「お前がいてくれないと寂しいんだよ。俺も長門も、古泉も。今まで五人はずっと一緒だったじゃないか」

「あんたはいいわよね、有希と仲むずまじく暮らしてるんだから」

「まさかとは思うがいてるのか」

「バカ!あたしが嫉妬なんかするわけないでしょ!」

「じゃあ何が不満なんだ」

ハルヒは少しうつむき、膝の上の子供をなでてからつぶやいた。

「あたしの、自分の時代に帰りたいの……」

そうか、そうだよな。思ったことをなんでも自由にこなすハルヒには、ルールだらけの政府の仕事は向いてないかもしれない。このまま子育てだけでこの時代に埋もれてしまうのはハルヒのためにならないだろう。それに俺を含めた三人も、この時代で一生を終えるわけにはいかない。


 ハルヒが教えたらしいプロレスごっこを展開する子供たちを見ながら、その日は暮れた。俺は酒も飲まず、質素な飯をぼそぼそと食って客室の寝床に入った。


 曲がりなりにもハルヒのご機嫌を取れたので、俺は長門を連れて高津宮たかつのみやに帰ることにした。仕事がまっている。

「ハルヒ、鶴、じゃなくて気長おきなが様に手紙を書いてくれ。心配してるから」

「分かったわよ。そのうちちゃんと謝りに行くつもりでいるから」

「いつでも帰ってきていいからな。お前の家は向こうだから」

「言ったでしょ。あたしはもう政治には関わらないの」

分かってるさ、だがかすかな希望を残すくらいいいだろ。俺と長門と古泉の三人は、船の上から朝比奈さんとハルヒに手を振った。川を下っていくとゆるやかなカーブの岸がいくつも連なり、桟橋さんばしの二人は見えなくなった。たまには会いに来てやるさ、遠いけどな。

 三人は高津宮たかつのみやの浜で船を降り、そのまま鶴屋さんちまで足を伸ばした。

「さようか。イワにゃんの機嫌も直ったとのこと、よきかな、よきかな」

磐之媛いわのひめはしばらく放っておこうと思います。あれはどうもまつりごとには向かないようなんです」

「そうであろう、そうであろう。あれはもっと自由に生きねばならん。気持ちは分かる」

「それから、曾孫ひまごが生まれましたよ。命名はオアサズマ……ええと、」

思い出そうと必死で考え込んでいると長門が助け舟を出した。

「……おあさずまわくごのすくねのみこ」

「そうそう。それだ」

「それはめでたい。朝妻あさづまか。よき名である」

「そのうち謝りに来ると言ってました」

「よいよい。謝るのはのほうであるから。あれのことはずっと気にしておったでな」

磐之媛いわのひめとはどういう繋がりなんですか。あいつは皇家の出ではないようですが」

「さよう。が若かりし頃のこと、大陸に渡ったことがあってな、」

鶴屋さんが十八歳くらいのころ、百済くだら政府の要請で大陸に派兵する出来事があった。その兵にまじって鶴屋さんも戦場におもむき、一緒に戦ったらしい。きさきであることを隠し、よろいに身を包み剣をかかげた。ジャンヌダルク顔負けのその勇ましさを想像して俺は萌えた。今でもときどき百済くだらに援軍を送ることがある。

「そのときと一緒にいた大和の武将がイワにゃんの父親でな。さよう、酒の君の父君でもある」

「そうだったんですか。くにで男勝りの女武将がいたと聞きましたが、気長おきなが様のことだったんですね」古泉が言った。

「わははっ。女武将とは言い過ぎであるが。あれを見ていると己の若き頃を思い出す。なんでも自分の目で見、聞き、自分の手でこなさねば気が治まらぬでな」

俺の時代の鶴屋さんがハルヒと仲がいいのも、どうやらこのあたりに理由がありそうだ。


 歳の初めから二月にかけて、けっこうな量の雪が降った。今年の冬はやたら冷え込む。この時代に来て二度目の冬なわけだが、俺の時代よりずいぶん気温が低い気がする。もう少しだけでいいから地球温暖化してもらいたいよな、などと勝手なことを考えている俺だ。

 その日の朝も寒くて目が覚め、台所のかまどのそばで火に当たっていた。侍女が男子厨房に入らずなどと怒っていたが、俺は寒くて風邪を引きそうだと震えてみせた。ストーブもこたつもない時代だ、みんなはじっと春が来るのを待っているのだろう。

 軽く朝飯のおかゆをすすって、日が照ってきたので俺は高台に登ってみた。遠くを見渡せるようにと立てた塔だが、ここは吹きさらしなので冬に入ってからは滅多に来なくなった。遠くを見渡すと薄く朝もやがかかっていた。

 長門が登ってきた。

「おう長門、今朝も寒いな」

「……風邪、ひくから」

長門は自分で織ったという木綿のマフラーを俺の首に巻いてくれた。呉服にマフラーってのもまた合うな。

 長門の肩を抱き寄せて互いを暖めあっていると、ふと妙なことに気がついた。民家のあるあたりで、去年まで立ち上っていた煙がまったく立っていない。もしかして過疎化しちまったのか。

「もしかしてあいつら飯食ってないのか」

「……ここ数年続いた百済くだら派兵と厳しい納税のため、庶民の生活は貧困の一途いっとをたどっている」

「そいつはいかんな。国民の生活があってこその国だ」

ここはひとつ、減税措置そちで、などと考えたところでデジャヴを感じた。これは知っている。デジャヴなんかじゃない。日本史の時間に習ったじゃないか。

「長門、大臣とか武官とか、それから地方役人やらを集めてくれないか。ちょっと話したいことがある」

「……あい、わかった」

長門は心得ているというふうにニコリと笑った。俺もだんだん歴史上の人物らしくなってきたじゃないか。

 昼過ぎに、謁見えっけんの庭に人が集まってきた。歩いて来れる範囲で、各地の国長くにおさやらつかさに伝令を出して呼び寄せたが、百人は来ているだろうか。しかし大和の国もいよいよ大所帯だな。

「あー、みんなちょっと聞いてくれないか」

この寒いのに人を集めてなんだろうかと、それまで続いていたザワザワが止んで静まり返った。

「今朝、そこの高台に登ってみたんだが、飯を炊く煙がぜんぜん立っていないのに気がついた。たぶん税率が高すぎて飯が食えないんだろう。そこでだ、まことに勝手ながら今から三年間の税金を免除することにした」

家臣一同がええっと叫んだ。大臣がなにか言いたそうにしている。

「言いたいことは分かってるよ、大臣。まつりごとってのはやたら金がかかるもんだしな。だが国民が飯を食えないでまつりごとだけ賑わってるってのも意味がないと思う。たみあってのおみたみあってのきみだ。はっきり言わせてもらえば、国民が貧しいのは君主の支配がまずいからだ」

大臣はうなだれた。君主の支配が悪いということは家臣の行政もまずいということだ。

「偉そうですまんが、これは命令だ。みやつかさも一切の無駄を省いて節約してくれ。役人は上から下まで贅沢はゆるさん、聖域なき倹約けんやく……え」

あれ、知ってる政治家が言ってなかったかこれ。

 一部で拍手が沸いた。近くの農村から来ていた村長だろう。大臣たちもあわてて拍手をした。一方的にそう言ってはみたが、今後は朝廷も苦労するだろう。ここじゃ日本銀行に金を借りるってことができないからな。こんな勝手に決めちまってよかったのかと長門を見ると、こっそり親指を立てていた。

 俺は竹簡ちっかんに同じ内容を書いて全国にみことのりを送った。税ってのは元々は自発的な貢物みつぎものからはじまった制度だし、それに味を占めて強制的に徴収ちょうしゅうするようになったのは上に立つ者の怠慢たいまんってやつだろう。まあそれで公共サービスが動いてるんだからしょうがないんだが。税をしぼり取ることを当たり前だと考えている役人に、少し考え直してもらいたいものだ。


 それからの数年は水害も干ばつもなく、まつりごとも安泰した日々を過ごした。古泉に頼んで収穫が早い野菜の種を輸入し、それを植える奨励しょうれいを出した。サツマイモなんかがありゃよかったんだが、あれが普及するのはずっと先の話だからな。

 庶民の生活も朝廷の財政のほうもしばらくはいまいちだったが、ひとつだけいいことがあった。あまり付き合いのない大陸のしん高句麗こうくりみつぎをよこしたのだ。最初は戦争を仕掛けるために国の様子をうかがいに来たのかと警戒していた。

「大陸から客人が来たらしいんだが」

古泉と碁盤ごばんに石をぱちりぱちりと打ちながら、酒をあおっていた。

「ええ。伺っています。くれ高句麗こうくりの親善使節でしたか」

「もしかしてお前の仕込みか?」

「いえいえとんでもございません。陛下の徳のなされるところが幸運を招いたのでしょう」

古泉にめられるとケツの穴がむずむずするんだが、まあ与えられた幸運はあまんじて受けよう。

「この不景気だからな。どんな貢物みつぎものもありがたい」

「そうですね。百済くだらと大和が仲がいいので我も我もという感じでしょう。これも政治ですよ」

「大和はそんなに人気があるのか」

「ええ。何度か百済くだらに援軍を出したじゃないですか。戦場でいい戦いっぷりだったので有名になっています」

なるほどね。それでうちと仲よくしたがってるわけだな。これは降って沸いたラッキーかもしれん。

「古泉、頼みがあるんだが、使節団のやつらをできるだけ長く引き止めてくれ。地方を観光案内でもして金を落とさせろ」

「陛下も悪知恵が働くようになりましたね」

古泉は、お代官様も悪よのう、と言いたげにクククと笑った。国益のためならなんでもするぜ。

「ときに、この対局は僕の勝ちですね」

「な、なに。お前は囲碁は強いのか」

「この時代に来て鍛えられましたからね。ほかに遊びもありませんし」

確かに、この時代の娯楽は将棋か囲碁くらいなもんか。

「これは偶然ですかね。数字の4に見えませんか」

俺は碁盤ごばんを見た。古泉が白、俺が黒の石で、白が黒を取り囲むように並んでいる。確かに4っぽいが。何だろう、前にも似たような会話があったような。気のせいか。


 それからしばらく、大陸からの客をもてなすのに忙しかった。思いもよらないみつぎのおかげで多少は財政がうるおったようだ。地方にも少なからず恩恵があったことだろう。聞くところによると使節団は各地で大歓迎され、調子に乗って遊んでまわった挙句、ほとんど一文なしになって帰っていったとのことだった。まあ国内の財政が豊かになったらそのうちお返ししますよ、たぶんね。


 免税のみことのりを出して早くも三年が過ぎ、家計簿がずっと火の車だった高津宮たかつのみやの館はリフォームもされずボロボロになっていた。屋根の杉皮すぎかわわらは補修されることもなく、土壁にヒビが入っても放置状態だった。俺は酒を飲むのもやめ、かゆをすする貧乏暮らしに慣れてしまって税制を復活させるのをすっかり忘れていた。少し痩せたかもしれん。まあこの時代に太ってるやつがいたらそいつは悪代官くらいなもんだろう。

 季節は春、四月ごろだったが、俺はまた長門と連れ立って高台に登った。見渡すと、ほうぼうから煙が立ち昇っている。こいつはいいことだ、そのへんの住民がちゃんと飯を作ってるわけだな。どうやら免税の効果があったようだ。

「国民が腹いっぱい飯を食っているというのは、実に気分がいいもんだな」

「……あなたの人徳」

長門がそう言ってくれると少し誇らしい気分になる。まあ人生で一度くらいは胸を張って言えることがあってもいいだろう。天国に召されたとき、俺は人々のためにコレをやりました、とな。そうすりゃ多少ダメで倦怠けんたいな人生でも大目に見てくれそうな気がする。

「そうだな。なんせ仁義と徳の人だからな。上に立つ者、庶民を顧みなくてはなんとか、だ」

「……そう。ここで一句」

俺は長門の和歌が聞けるのかとじっと待っていたが、いっこうに始まらない。

「長門、まだか?」

「……あなたがうたう」

「って俺かい」

「……これは、既定事項」

「しょうがないな。筆と竹の板をくれ」

これも確か知ってるぞ。教科書で読んだ気はするが、ええと、高き屋に、だったかな。


 高き屋に のぼりて見れば煙たつ 民のかまどはにぎはいひにけり


うろ覚えだがそのまんまだ。意味は覚えてないんで日本史でも読んでくれ。

「……よくできた」

「ありがとよ。でもこれを俺がんで後世に伝わったということはだ、最初に詠んだのはいったい誰だ?」

「……」

長門は難しい顔をして考え込んでいた。


 俺のひと言ではじめた免税のせいで、各地のみやは財政難が続いた。俺はそれぞれの経理担当者に毎月の収支報告をさせ、足りないところは倉から現物支給してやった。諸国のみやつかさには、やれるなら自前で土地の開拓でも商売でもはじめろと伝えた。

 ハルヒの住んでいる筒城宮つつきのみやも同様、貧乏生活を強いられているようだった。俺は衣食住をまかなえるだけの物資を送ってやり、お忍びでたまに様子を見に行った。夜になるとあいかわらず神人が発生するらしく、ご苦労なことに古泉がいそいそと退治に出かけていた。

 夏のある日、俺は休暇を取って長門と筒城宮つつきのみやまで船を出した。まだ仏教が伝来していないんで盆休みってのはないんだが。こんな暑さの盛りは山奥でのんびり過ごしたいもんだ。魚やら野菜やら、穀物こくもつたずさえて子供たちを訪ねた。

「キョンくん、長門さんおひさしぶり」

朝比奈さんが出迎えてくれた。俺の強行した免税のせいで、衣装もツギをてつつ着ているようだ。

「朝比奈さん、すいません。俺のせいで生活が苦しいと聞いてます」

「いえいえ、わたしは平気です。今までが贅沢すぎたんです」

裕福そうな未来人の朝比奈さんにそう言ってもらえるなら、少しは気が晴れるってもんですが。

「兄上!八田やたお姉様!」

子供たちがいつもと同じように駆け寄ってきた。だが三年も経てば子供ってのはがらりと様子が変わる。長男の去来穂別いざほわけは十四歳に、ちっさな赤ん坊だと思っていた雄朝津間おあさづまがもう四歳だ。この時代に来てあくせく働かずまったりと流れる時間を楽しんでいた俺だったが、子供の成長というのはいつの時代も早い気がする。

 俺とハルヒは、長門と遊ぶ子供たちを眺めていた。雄朝津間おあさづまは長門が気に入ったようで、いつも膝の上にいる。長門が小さな子供を抱いているのは、それはそれで絵になるもんだな。

「子供の成長はあっという間だよな」

「そうね……」

「どうした、いつになく元気がないな」

「元気よ」

「なんだ、なにか言いたそうだな」

「なんでもないわよ」

「言いたいことがあるなら言わないと体に悪いと、誰かが言ってなかったっけ」

俺はニヤニヤとハルヒを見た。

「もう。あと二年もしたら三十路みそじになるのかと思うとね」

それは俺もだな。でも歳取って元気がなくなるどころか、俺は毎日が楽しいぜ。

「そりゃあね、あんたには有希がいるからいいわよ」

またそれか。いい男でも見つけて、デートでもすりゃいいだろ、と言いかけて俺は口をつぐんだ。ハルヒが男を作っちまうのが嫌で、俺はこいつをきさきにしたんだった。ハルヒがこの時代で本当に結婚なんかしちまったら、歴史が変わってしまう。

「忘れてた。俺たちはこの時代の人間じゃないんだよな」

「そうよ。あたしたちの人生は二十一世紀にあるのよ」

「しかしなあ。帰る宛てがないんじゃ、とりあえず食っていくしか」

果たして本当にそう?という感じでハルヒは俺を見た。俺もその妥協は正しいのかどうか疑問だった。


 俺も子供たちに混じって蹴鞠けまりをし、屋根の上にまりを上げて何度も侍女のおばさんに怒られた。子供たちはこの時代で生まれ、たぶんこの時代で一生を終えるだろう。だが俺たちは違う。

『わたしたちの生きている時間は、もっと大きな流れの中の一部に過ぎない』

いつだったか長門が教えてくれたこの言葉に、俺はどの時代、どの時間ででも生きていける自信がついた気がする。俺にとって大事なのはどこで過ごすかではなくて誰と過ごすかなのだ。長門がそばにいてくれれば、ハルヒを取り巻くSOS団のメンツがいれば、どの時代どの世界でだって生きていける。そう思う。だがハルヒはそうは思わないのらしい。俺とハルヒの人生観の違いかもしれんが、こいつにはもっと別の、なかなか手が届かない探しものがあるように感じる。


 飯に呼ばれて俺たちは館に入った。子供たちの食欲は旺盛おうせいでガツガツと食っていた。俺はその様子を見ながらひさびさに酒をあおった。人が飯を食っているのを見て幸せになれるなんて、俺もだいぶ変わっちまったな。

 いい感じにほろ酔いになったところで俺は客室の寝床に転がり込んだ。貧乏でもそれなりに幸せになれる、なぜかそんな格言めいたセリフを思いついた。俺のいた未来じゃ、飯が食えるのが当たり前だったもんな。

 だがその未来とやらに、俺はいつか帰らないといけない。


 俺たちが未来に帰るとしたら、朝比奈さんのTPDDが治るか、未来の誰かが迎えに来るしかないだろうな。長門は情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいの力は借りれないと言っていた。未来と連絡がつかないとしたら、どうやら自力で帰るしかないか。

 そういえば一度だけ変わった方法で時間移動したことがある。何年か前の七夕のとき、いやここからだと未来になるのか。朝比奈さんがTPDDを失い、俺と二人で長門のマンションに駆け込んで時間凍結で三年間のタイムトラベルをしたんだった。だがあれは長門が三年間ずっと待っていてくれたからできた芸当だ。今が古墳時代だとして千六百年間も時間凍結を維持できるような……。

「あ、今俺なんつった?」

独り言がぽろりと出た。俺はガバと飛び起きた。今、古墳時代とか言ったな。

「長門、ちょっといいか」

俺は長門の部屋のとばりから呼びかけた。酔っ払った男がこんな夜更けに女性の部屋を訪ねるなんて、あらぬ誤解をされそうだが。

「……なに」

「前にお前のマンションで時間凍結してもらったろ。あれと同じ方法で帰ることはできないか」

「……当該とうがいポイントまで時間凍結を維持するには、物理的に安定した環境が必要」

「要するに千六百年間、建物なりが存在していればいいんだよな」

「……そう」

「俺が知ってる限りじゃ、大仙だいせん公園は俺たちの時代まで存在してるよな。あれは使えないだろうか」

長門の顔が珍しくぱっと輝いた。

「それは、妙案」

大仙だいせん公園ってのは仁徳天皇が眠っているとされている古墳のことだ。俺が授業で習った頃は仁徳天皇陵って名前だったんだが、最近じゃ新たな発見とやらで本人の墓かどうか曖昧あいまいになってしまい、伝仁徳陵古墳でんにんとくりょうこふんとか呼ばれているらしい。

「……玄室げんしつの構造は、時間凍結に適している」

「だが俺たちが棺桶かんおけに埋められるのはいいとして、誰がそれを起こす?」

「……わたしがやる」

「いくらなんでも、千六百年もお前を独りにするわけにはいかん。喜緑さんあたりにでも起こしてもらえないか」

冷たいマンションの一室でぽつねんと俺を待っていた長門を思い出した。千六百年も孤独に時を過ごすなんてちょっと考えられない。三年間でさえ相当つらかったみたいだしな。

「……今の環境では、喜緑江美里には依頼できない」

「やっぱだめか」

「……時間凍結ではなく、こうエントロピー遅速ちそく性時間フィールドを展開すればいい」

「それって何だ?」

「……時間の進みを、超低速にする」

「どういうふうに?」

「……石室の内部と外部の時間の進み方に差を与える」

「ってことは俺たちは棺桶かんおけの中で時間移動しながら、ふつうに会話したりできるってこと?」

「……そう。波動を百七十六万分の一の超低周波に変換すると、およそ八時間の主観時間で到達可能」

「よく分からんが、俺たちの時間を百七十六万分の一のスピードにすれば八時間で現代に帰れるってことか」

「……概算では、そう」

なるほど。やってみる価値はあるか。だが俺の一存でははじめられないな。


 俺は住吉宮すみのえのみやにいる古泉に宛てて、未来に帰る目処めどがつきそうなんで会いに来てくれと書簡を出した。古泉がやってきた三日後の晩、俺は四人を呼んで相談した。

「古墳を使った時間凍結で未来に戻ろうと思うんだが、どうだろう」

「そんなことできるんですか」

古泉の目が丸くなった。

「ああ、前にも一度やったことがあってな。朝比奈さんと俺は三年間、長門のマンションで時間凍結されてたんだ」

「そんなことがあったとは。ですが、今からですと千六百年間も眠ることになりますが大丈夫でしょうか」

「……眠らなくてもいい。時間の進み方が変わるだけ」

「どうやってやるんです?後学こうがくのために教えていただけないでしょうか」

「……うまく言語化できるかわからない」

なんでも知りたがりの古泉に、長門は知ってどうするんだという感じだったが、俺にはとんと分からん物理学用語を使って説明していた。

「それはすばらしい。是非ぜひやりましょう」

「すごいわ長門さん。八時間ならなんとか我慢できるわ」

「……そう」

「ただし、問題が二つあるんだ。まず、ハルヒに時間移動をどう説明するか。二つ目に、先に古墳を作らないといけない。あんなでかいもん、どうやって設計するのかすら分からん」

「最初の問題はあなたに任せるとしましょう。なんなら涼宮さんを酔わせて意識を失ったところで棺桶かんおけに閉じ込めて、」

お前、嬉しさのあまりむちゃくちゃ言ってるだろ。古墳の上に神人が湧いて出たらどうする。

「二つ目は僕にお任せください。大陸で城を建設している知り合いを呼び寄せましょう」

なるほど、そいつはいい助っ人だ。


「キョンくん、もうひとつ問題があるわ」

朝比奈さんが口を開いた。

「涼宮さんの子供たちはどうするの?まさか連れて行くの?」

それはどう考えても無理だ。四人の皇子がいなくなったらこの日本史が根底からくつがえってしまう。

「置いていくしかないでしょうね」

「母親がいなくなって小さな子供たちだけで生きていくのは、残酷すぎると思うわ」

皆は黙り込んだ。確かにそうだ。人ってのは横の繋がりを持って時間の中を生きている生物だ。タイムリミットが来たからハイサヨナラってわけにはいかないだろう。時間移動を繰り返している朝比奈さんだからこそ、身に染みて別れのつらさを知っているのに違いない。

「じゃあ、せめて子供たちが成人するまで待つとか」

「それもどうかしら……」

この時代は十八歳で成人だから、雄朝津間おあさづまが成人するまで少なくとも十四年はここで過ごすことになる。ハルヒがそれまで我慢できるかどうか。

「あの、僕は思うんですが」

「なんだ、言ってみろ」

「別に後生ごしょうの別れになるわけではないでしょう。タイムマシンが完成すればいつでも会いに来れますし」

「それもそうだな。あるいは朝比奈さんのTPDDが治ったら連れてきてもらうとか」

「そうね。成人するまでこの時代にいて、あとはときどき様子を見に来ることにしたらどうかしら」

しかし朝比奈さん、そう簡単に時間移動の許可が降りるんでしょうか。という俺の心配も未来ではなんということはないようで、朝比奈さんはにっこり笑って答えた。

「涼宮さんが願うことはなんでも通るわ」

ハルヒならOKなんですか。時間移動申請の許可と却下の判断って誰がどういう基準で決めてるんだろうか。きっと机の上に足をデンと乗せた偉そうなお役人の気まぐれに違いない。


 まあそういうことなら、とりあえずハルヒと話をしてみよう。俺はハルヒを呼んだ。

「なによもう、やっと子供が寝付いたところなのに」

「すまんな。っていうかすっかりおふくろが板についてきたぞ」

おふくろという言葉を聞いてハルヒはポッと赤くなった。

「で、なんなの」

「未来に帰りたいか」

「帰りたいわよ!今すぐにね」

「まあ落ち着け。ええとだな、長門がいうにゃ、材料さえ揃えばタイムマシンを作れるかもしれない、らしいんだ」

「なによそれ!?詳しく、聞かせなさいぃぃ」

分かった、分かったから帯で首を絞めるのやめろ。

 俺はトンデモ科学っぽい説明で、古墳の内部にタイムマシンを仕込んで未来に戻る話をでっちあげた。あまり深くは追求しないでくれ。

「ふーん。有希、ほんとにそんなんで作れるの?」

「……作る」

「だが古墳を作るのに、今の土木技術だと最低でも二年はかかる」

「二年ねえ。あたしは今すぐにでも帰りたいところだけど」

「だが子供たちはどうする。いきなり母親を失ったら心に傷を負うぞ」

朝比奈さんに言われたことをそのまま繰り返しただけだが、ハルヒははっとした。帰りたい一心で子供のことを忘れていたようだ。

「そうね。置いてはいけないわ」

「かといって連れても帰れない。あの四人がいなくなったら日本の歴史が変わってしまうからな」

「じゃあどうするのよ」

「それでだな。子供が成人するまではこの時代にいて、それからタイムトラベルをしようと思うんだがどうだ」

「ということはあと十四年はここにいるの?」

「そういうことだ。一旦未来に戻って、タイムマシンが完成したらまた会いに来ればいい」

「分かったわ」

「じゃあ俺はとりあえず古墳を作り始めることにする」

「待って、十四年ってことはあたしは四十一歳?ひどいわ……」

ハルヒはがっくりと肩を落とした。四十一歳といや適齢期てきれいき過ぎてるな。かといってこの時代で旦那を探すってのも無理だが。

 ハルヒは腕組みをしたかと思うとテーブルに突っ伏し、溜息ためいきをついた。メランコリー指数が相当な数値まで上がってるぞ。このままだとまた神人が、と古泉を見ると、ハルヒによって力を与えられたこの超能力者は何ごとかを思いついたように口を開いた。

「涼宮さん、僕と一緒に大陸に渡りませんか」

「古泉、唐突とうとつをなにを言い出すんだ」

「大陸?中国に行ってなにするの」

「戦乱の時代ですよ。なにをしても許されます」

「なにを、しても、いいの?」

いかん、いかん、ハルヒの目が少女漫画のめんたまのようにキラキラと輝きだした。こいつがこの目をするときには決まってまずいことが起こる。

「涼宮さんは慣れない様式の生活に、ストレスで参ってるのだと思うんです。ここは羽を伸ばしてもっと自由に生きるべきかと」

「そりゃいいが、子供はどうするんだ」

上の三人はいいとしても、雄朝津間おあさづまはまだ小さすぎる。古泉とハルヒは黙り込んだ。

「……この子は、わたしが育ててもいい。あなたが望むなら」

長門が意を決したように口を開いた。膝の上で雄朝津間おあさづまが眠っている。

「大丈夫か長門」

「……たぶん」

長門がたぶん、と来たか。まあなにごとも経験か。

「そうだな。雄朝津間おあさづまは長門が好きらしいし」

この時代、皇子は成長すると親元を出されて修行に行かされる習慣がある。長男の去来穂別いざほわけもそろそろその時期で、勉学と武術を習わせないといけないようだ。十歳を超えたまんなかの二人もそろそろ考えないといけない。

「分かった。子供は俺と長門と、それからおばあちゃんの朝比奈さんで引き受けることにしよう」

「まあキョンくん、おばあちゃんだなんてひどいわ」

「朝比奈お姉さん、子供たちをお願いします」

「分かったわ。わたしの教育は厳しいですよ」

朝比奈さんはふふと笑ってみせた。

 俺たちで勝手に子供を引き取る話になっちまったが、ハルヒの気持ちはまだ迷っているようだった。

「ほんとに?ほんとにいいの?」

「お前の笑った顔のためならなんでもしてやるさ」

まつりごとはどうするの?」

「そういや、皇后の辞任ってないよな。死に別れでもしないと位はゆずれないはずだ」

「もういいわ、死んだことにしましょう」

いくらなんでもそりゃむちゃだぞ。

「あたしはもう貴族の生活から開放されたいのよ」

俺たち四人はうーんと唸った。ハルヒが死んだことになったら国中が大騒ぎにならないか。

「仕方ないな。死んだフリするか」

「ええ、いいわ、死んだフリなら得意よ」

 ほんとにこんなんでいいのだろうかと何度も頭をひねるような筋書きだが、とりあえず磐之媛いわのひめ皇后は死んだことにして、ハルヒ本体は旅に出るということになった。

「古泉くん、行きましょう大陸に。戦場で思い切り暴れてやるわ」

ひさびさに見る、口を半月の形にして笑うハルヒの上機嫌な顔だった。俺はこれが見たかったんだな。


 とはいってもだな、子供を残していくとあってやっぱり心配は尽きないらしい。翌朝ハルヒは子供たちを集めて話をしていた。

「みんな、ちょっと話したいことがあるの。大事な話よ」

雄朝津間おあさづまはたぶん分からないだろうが、長門に抱かれて聞き入っている。

「母上、大事な話とはなんでしょうか」

「え……と、なんていうかつまり」

お母さんは今から中国に渡ります、なんて言えるわけはないわな。


「あのね、昨日、夢を見たの」

「どんな夢ですか母上」年長の去来穂別いざほわけが興味津々しんしんに尋ねた。

「あたしは川の土手で裁縫をしてたの。そしたら向こう岸に牛を飼ってる人がいて、手を振っているの」

どっかで聞いたような話だな。

「その人は誰ですか」

「あたしが小さい頃に会った大事な人で、名前も顔も知らないんだけど、こっちにおいでって手招きしてるの」

「それはもしかして兄上でしょうか」

「キョンが?ぜんぜんちがうわよ、プッ」

そこで笑うこたあないだろ。

「母上、その夢はどんな意味を持つのでしょうか」

「これはあたしへのお告げなの。向こうの世界にあたしを待ってる人がいて、そろそろ帰ってきなさいっていうことよ」

「どこへ帰られるのですか」

ハルヒは答えに詰まった。

「あのね、黙ってたけど、ママはここで生まれた人間じゃないのよ」

いくらなんでもママはやめませんかママは。なら俺はパパかよ。って未来から来たとか言い出すんじゃないだろうな。

 ハルヒは腰に手をあてて天を指差した。

「ママは……ママはね、お月様から降りてきたのよ」

おおーぅ、と三人が感動して声を上げた。お前はかぐや姫か。

「そろそろ月に帰らないといけないの」

「は、母上、それではもう会えなくなってしまうのですか」

「たまには帰ってくるわ。そうねえ、年に三回くらい」

その三回ってのは盆と正月とゴールデンウイークか。月の世界のスケジュールも現実的過ぎて夢がないな。

「それでね、月に帰るために死んだフリするけど、ほんとは生きてるから。心配しないでね」

それを聞いてまんなかの二人はハルヒに抱きついたが、去来穂別いざほわけはさすが長男だけあって動じなかった。これから大和を背負って立つ太子だからな。

「母上はほかの人とはどこか違っていると思っておりました。月世界の人だったのですね」

「そ、そうなのよ。あたしは月の世界の女王様なんだから」

「もしかして仲姫なかつひめお姉さまもそうなのですか」

「そ、そうよ。みくるちゃんはウサギのかっこして踊ってるの」

朝比奈さんが苦笑していた。お前が女王様で朝比奈さんはバニーガールか。それは間違ってるとは言えないがちょっとひどくないか、無慈悲むじひな女王様。


「ブルータスよ、お前もか。ううっ。こうかしらね」

「ちょっとリアリティに欠けますね」

「今月今夜のこの月をぉ、きっとおまへの涙で濡らしてみせる」

「雰囲気がちがいますね。かなり」

ハルヒと古泉が芝居の練習にしてはやけに気の抜けた遊びをしていた。

「なにやってんだお前ら」

「死んだフリの練習よ。人生最後の瞬間を演じるんだから、迫真の演技でやんないとね、うぐぐぐ、毒をもられた……バタ」

ハルヒが倒れたり起きたりしているのを見て、子供たちが笑いころげている。俺がお触れを出せばそれで済むんだから、なにもそこまでしなくても。

 その日一日中、ハルヒの死んだフリをするリハーサルが続いた。あんまり続けてると子供にトラウマを与えないかと心配したが、まあ楽しんでるようだし、いいか。


 数日して俺は高津宮たかつのみやに帰って仕事に戻った。長門は雄朝津間おあさづまの世話で筒城宮つつきのみやに残った。ハルヒの出発の準備ができたと書簡が届いたのは、それから二週間後のことだった。俺は打ち合わせどおり、皇后崩御ほうぎょの知らせを出した。家臣も庶民も一様に驚いてはいたが、俺が黙ってきさきを召したので皇后が怒って別居していたことは皆知っているようだった。お若いのにまったく惜しいことですと口々に言った。

 俺は大臣に大喪たいそうの礼の準備をさせ、従者を一人だけ連れて筒城宮つつきのみやに行った。ハルヒの死んだフリがばれていなければいいが。などと心配したのは杞憂きゆうだったらしく、ハルヒは祭壇の上でじっとしたまま動かなかった。長門メディカルにより気絶しているらしい。

「ハルヒは気絶しているのか」

「……眠っている。遮音しゃおんフィールドを展開済み」

なるほど、会話は聞こえてないようだ。ハルヒは白装束しろしょうぞくをまとって眠っていた。面と向かっては言えないが、こうやって見るハルヒは美人だった。黙ってりゃふつーに美人に見えるんだよな、こいつは。口調にやたらトゲがあるからなかなか男も手をこまねいてしまうんだ。なんて思ってるとハルヒの眉毛まゆげがピクと動いてあせった。

 親族の弔問ちょうもん客もあるし、まあ今日一日はこのままの姿でいてもらおう。息子たちは喪服を着せられ、複雑な表情をしていた。ママはちゃんと生きてるからなと説明しても、中の二人は泣きそうな顔をしていた。俺たちの少しばかり非常識な事情に付き合わせてしまってすまん。

 弔問ちょうもん客が帰った後、俺は侍女と従者を休ませてハルヒを起こした。

「ぷはあああ、息を止めるのにも限界あるわ」

まさかお前、一日無呼吸だったのかよ。メタボリックの末期じゃないのか。

「んなわけないでしょ」

「母上、生きてたんですね」

息を吹き返した母親を見て、子供たちは安心したようだった。

「子供にしちゃ心境は複雑だろうな」

「もう、あんたたち、泣かなくてもあたしは死なないってば」

ハルヒは子供たちを抱きしめた。

「ハルヒ、いっそのこと連れて行ったらどうだ」

「無理よ。この子達はこれからの日本を背負う立場なんだから」

「そりゃまあ、そうだけどな」

「ちゃんと帰ってくるから。泣かないで待ってなさいね」

今から月に帰るという母ちゃんを前にして泣かないでいられるとしたら、よっぽど自立心の強い子に育つだろう。まあ自立心が強すぎても困るんだが。その俺の予感が当たったのかどうか、この四人の支配する時代はいくさが絶えなかったそうだ。母親がこれだからな。

「みくるちゃん、ちょっと手伝ってくれない?」

「なにかしら?」

ハルヒは懐から合口あいくちを取り出した。女用の飾りのついた小さな刀だ。さやからスラリと抜き取り、朝比奈さんに渡した。

「す、涼宮さん、これでなにをするの?」

「髪をばっさりとやってちょうだい」

朝比奈さんは力士の断髪式に立ち会ったような、神妙な表情をしていた。

「ほんとにいいの?」

「戦場では邪魔になるだけだから。キョンくらい短くしてちょうだい」

せっかくのさらりとした髪なんだから、せめてボブカットくらいにしとけばいいのに。

「いきます!」

ドスを握り締めた朝比奈さんは、ドスの効いた声でひと声叫んでザクザクと長い髪を切り始めた。ぱらぱらと黒い髪が散っていく。せめて最後にポニーテールにしてほしかったな。

「何言ってんの。男ばかりの戦場で髪長くしてたら最初に襲われるでしょ」

バッサリと短くなったハルヒは高校の頃を思い出させた。あれは宇宙人対策のはずだったが、今度は自分が月に行くはめになるとはな。いや、行かないけど。

 ハルヒは自分の髪をひとふさずつ取り、紐で束ねて子供にひとりずつ渡した。

「これがあたしだと思って大事に取っておいてね」

子供たちは神妙な顔をしてうなずいた。それって遺髪か。

「それからこれはキョンと二人に」

「俺にくれてもしょうがないだろう」

「いいのよ、記念だから取っときなさい。もしあたしが身元不明にでもなったらそのDNAが証拠になるから」

「なに縁起でもないこと言ってんだ」

まあせっかくの古墳時代のハルヒの髪なんで三人は受け取った。

 つんつんと髪がはねたイガグリ頭みたいになったハルヒは、男物の衣装に着替え、革をびょうで綴じたよろいを着けた。古泉の剣をシャリンと音をさせて抜いた。

「どうよこの勇ましい姿」

「自分で言うか。まあ、似合ってるが」

「お似合いですよ」古泉と朝比奈さんがうなずいた。

「さあて、湿っぽくなったところでそろそろ出発しようかしらね」

「もう行くのか。せめて大喪たいそうの礼が終わるまでいてくれよ」

「自分の葬式なんかに付き合うほどセンチじゃないわよ。ちょっとシャバの空気を吸ってくるわ」

せめてみんなでお別れのうたげでもやってからにしろと薦めたのだが、ハルヒはさっさと大和の国を出たいらしい。

「古泉くん」

「なんでございましょう」

「いざ、出陣よ」


 桟橋さんばしでハルヒは子供たちに向かって言った。

「ねえみんな、月にウサギの形が映ってるでしょ」

子供たちはうなずいた。

「あれを見たら、あたしのことを思い出してね」

ハルヒは月に照らされながら、はるか西国さいごくを目指して旅立っていった。着替えも家財道具もいっさい持たず、従者は古泉ひとりだった。去っていく船の上から、三人の息子と長門に抱かれた雄朝津間おあさづまにいつまでも手を振っていた。小さくなっていく二人の影を見ながら、いっそのことあいつらくっついてしまえばいいのにと思ったことは内緒だ。


 ハルヒが中国古代史史上、どんな活躍をしたのかは俺の知るところではないが、たまに届く古泉の書簡を読んで俺はワナワナと震えざるをえなかった。ハルヒが将軍になっちまうというとんでもない歴史が展開されるのだが、それはまた別のときに話そう。


 それで歴史上、ハルヒは、もとい磐之媛いわのひめ皇后は西暦三九七年六月に死んだことになっている。


 この時代は墓ができてから葬式を行うのがならわしだ。墓といってもでっかい山のような陵墓りょうぼだから完成するまでに数年かかる。それまではもがりと言って、仮の葬儀みたいな儀式をやるらしい。

 磐之媛いわのひめの遺体はわらで作った人形を布でぐるぐる巻きにしてそれらしいのを用意した。仮にも皇后だ、誰も中身を確かめたりせんだろう。

 俺は鶴屋さんを訪ねた。書簡を送ったので磐之媛いわのひめ訃報ふほうはすでに知っているはずだ。

「さようか、かわいそうに。かわいそうに」

鶴屋さんはホロホロと泣いた。なんだかすごく悪いことをした気がする。

「あれは幸せとは程遠ほどとおい人生であった。残る子供たちには母親の分も幸せに生きてほしいものよ」

いえ、本人は幸せの真っ最中だと思いますよ。今はね。

大鷦鷯おおさざき、折り入って頼みがあるのだが」

「なんでしょうか」

が死んだら墓をイワにゃんの隣に作ってたもれ」

俺は青くなった。

「そんな、気長おきなが様にはまだまだ長生きしていただかなければ」

「人はいつかは死ぬものじゃ。そのときが来て頼み忘れていたでは困るでな。二人の陵墓りょうぼを並べて築いてたもれ」

「分かりました。そのときが来たら、そうしましょう」

「いやいや、もう築き始めていい頃じゃ」

鶴屋さんはまじまじと俺がやった腕時計を眺めた。なんとなく、自分の寿命が残り少なくなっていることを気にしているようでもある。


 生きているうちに建てる墓を寿陵じゅりょうというらしい。長生きを願っての墓みたいなものか、古代人の考えることはよく分からん。俺は古泉の知り合いという百済くだらの建築家と、正しい日本史を知っている長門を連れて、墓をどこに建てるかあちこち視察にまわった。

「長門、おばあちゃんの墓ってどこになるんだ?」

「……それは」

と口を開きかけて、

「……気長足姫おきながたらしひめの希望を聞くといい」

と言った。なんだか意味ありげだ。俺はいちおういくつか候補を選び、墓の大きさやらを検討して図面を起こしてもらっていた。

気長おきなが様、石津原いしづはらという土地は海が近くて石を運ぶのに便利なんで、あそこに決めました」

「ああ、それはどうであろう。の望むのはそこではなくてな……」

今になって変更は困る。もう土地を確保しちまったのに。

「じゃあどこなんです?」

「ええ、つまりな……」

鶴屋さんはなぜか頬を染めて、言いにくそうにしていた。

大鷦鷯おおさざき、ちょっと、こっちへ」

俺は鶴屋さんの口元に耳を寄せた。

「あのな、狭城盾列さきのたたなみに頼む」

「サキノタタナミ?ですか」

「これ、声が大きい」

「なぜそこがいいんです?」

「ええと、つまりその、な……分かっておくれ」

「ごめんなさい。分かりました、そこにしましょう」

なんだか非常に言いづらそうにしているのを聞き出すのも悪いと思い、とりあえず承諾してしまった。狭城盾列さきのたたなみって人に知られるのが恥ずかしい場所なのか。

 狭城盾列さきのたたなみってどこだろうと長門に聞いたところ、奈良の筒城宮つつきのみやの南に稚足彦わかたらしひこが眠る陵墓りょうぼがあるところらしい。鶴屋さんの旦那にあたる足仲彦たらしなかつひこの墓は西へずっと離れた場所にあるのだが、そこではないようだ。

 聞けば、鶴屋さんは旦那よりも叔父の稚足彦わかたらしひこのほうが好きだったのだという。結ばれなかった相手に、せめて墓だけはそばにいたいとの切ない想いがそう望んだのだろう。俺は女手ひとつで大和朝廷をきりもりしてきた鶴屋さんの、そういうけなげな一面が好きだ。

 ということは磐之媛いわのひめと鶴屋さんと稚足彦わかたらしひこの墓が三つ並ぶことになる。もう確保しちまって土台を作り始めてる石津原いしづはらの土地はどうしたものか。石津原いしづはらってのは俺がしばらく住んでいた住吉宮すみのえのみやの南で、古泉に鷹を飼わせていたところだ。百舌鳥野原もずのはらともいうらしい。

「ああそうだ、俺が自分の墓を作ればいいんだ。それが大仙だいせん公園になるはずだ」

ひとりごとが聞こえたのか、長門がうなずいていた。三つ同時に建設をはじめるのは財政的にかなりきつい気がするが、とりあえず磐之媛陵いわのひめりょうと鶴屋さんの寿陵じゅりょうを先に作ろう。


 俺は百済くだらの建築士を連れて狭城盾列さきのたたなみに行った。東と西を山に挟まれた、広い盆地のまんなかくらいにある。ここって確か平城京があったところだよな。この時代から見ると未来のことだが。

 長門に正確な距離と方角を測ってもらい、長さ二百十九メートル、幅百二十四メートルの土地をハルヒの墓として確保した。そこから二キロばかし西のほうに長さ二百七十五メートル、幅百九十五メートルの土地を鶴屋さん用に区切って旗を立てた。こりゃでかい墓だわ。

 建築士に木の板に鍵穴みたいな図を描いて見せて、だいたいこんな形で頼むと言った。設計やら工事のことはその人に任せて、俺と長門は高津宮たかつのみやに戻った。磐之媛陵いわのひめりょうが完成するまでは葬儀もできないしな。


 朝早く、屋敷のまわりがやたら騒がしいので目が覚めた。外に出てみると農民が大勢押しかけていた。

「な、なんだなんだ、農民一揆いっきか。この時代にそんなことがあったなんて聞いてねーぞ」

「陛下、落ち着いてください」

衛兵が俺の声を聞いて駆け込んできた。

「あいつら何しに来たんだ」

みやの様子があまりに荒れ果てているので、せめて修理させてもらいたいとのことにございます。農民だけではありません、地方のつかさおさも来ているようです」

「そういうことか。ええっと、じゃあ頼もうかな。謁見えっけんの庭に入れてくれ」

「かしこまりました」

経費削減で衛兵も減らしたうえに屋敷の塀も崩れかけている。これが農民一揆いっきだったらひとたまりもないだろう。

 俺は礼服に着替えて冠を被り、謁見えっけんの間に出た。

「陛下、税を免じていただいてから三年余りが経ちました。おかげさまで民一同、豊かな恵みをいただいて暮らしております」

「そうか。思ったより効果あったな」

「そこで、お礼とは言うほどのものではございませんが、みやの掃除をさせていただきとう存じます」

掃除というのは控えめに言ってのことだろう。

「じゃあ、頼むわ。ここんとこ隙間すきま風がひどくてな」

免税してから天候も安定し、疫病もなかった。これも陛下のご尽力によるものです、などと祭り上げられてしまった。俺は知らないが、この時代には伝染性の病気も多かったらしい。ワクチンとかないしな。

「あーそうだ。ついでに免税を三年延ばそう」

「なぜにござりますか」

「みなが飯を食えるのが俺にとってなによりの幸せだからな。それに三年後には税制を戻して、墓を作るのに人を集めたい。それまでは楽に暮らしてもらいたい」

あと三年くらいなんとかなるだろう。地方行政はヒィヒィ言ってるが、自力でなんとかしろとしかりつけておいた。たぶん俺の代が終わったらきつい年貢ねんぐ徴兵ちょうへいで庶民は苦しい生活に逆戻りすることになる。だったら、せめて今のうちに楽して蓄えておいてほしい。


 掃除の邪魔だからと住人は庭に出され、むしろを敷いてのんびり白湯さゆを飲んでいた。屋敷はきれいにかたづき、屋根の杉皮すぎかわわらも新しいのに取り替えられている。壁の穴もきれいに塞いでくれたようだ。日本の家ってリフォームしながら住む造りになってるんだよな。

 みんなで飯を食ったあとボランティアの修繕チームは帰ってゆき、俺は倉庫の食料が増えていることに気がついた。あいつらが置いていってくれたらしい。食料だけではなくて布やら食器やらも備えてくれている。自主的に献じるのが本当の貢物みつぎものなんだよな。ありがたやありがたや。


 磐之媛いわのひめの喪が明けた翌年の一月、長門が正式に皇后の位を継ぐための立后りつごうの儀が行われた。ハルヒがいなくなったのでその後釜というわけだ。まだ免税中で、財政が厳しいので親類と地元の家臣だけを呼んで質素にり行った。


 長門が皇后の位にいた日、二人で高台に登った。

「……」

「どうした?」

「……鹿が、鳴いている」

俺は耳を棲ませてみた。どこか遠くでキュンキュンと鳴く声がしている。

「ほんとだな。あれはたぶん雄が雌に呼びかけてるんだろう」

「……そう」

ここから海までの間にあしの生えた広い野原がある。ときどき鹿が出るというから、そのどこかで鳴いているのだろう。

「……あの鳴き声を聞くと、きさきを欲しがった人の気持ちが分かる気がする」

長門にしては感傷的なセリフだ。何が言いたいのだろうと俺は長門の表情を見た。

「それは俺のことかな」

「……」

長門は何も言わなかった。

「それにしても、ハルヒにはすまないことをした」

「……そう」

「あいつをきさきにしなかったら、もっと幸せな人生があったかもしれん。あいつが誰かを選ぶ自由を奪っちまった気がする」

「……あなたは、彼女には彼女の人生があるということを知るべき」

「そう。そうだよな」

俺は遠くの景色に視線を移した。つまり長門は自分だけを見ていてほしい、そう言いたかったのだ。

「すまんな、お前が正しい」

 なぜだか分からんが俺はハルヒに影響力を持っている。望むならコントロールもできる。だがハルヒにはハルヒの、自分の意思で選ぶ道があるはずだ。それを忘れてはいけないんだと思う。それはこの時代でハルヒをきさきにしたことだけじゃなくて、七夕の日にさかのぼってのことでもあるんだが、俺がそれに気がつくのはもう少し先の話だ。

「お前に最初に会ったのは、文芸部の部室だったな。あれから十一年か」

過去に来ている俺からすると計算がややこしいが、いまや二十八歳か。気がつかないうちに年を取ったもんだ。

「……そう。わたしはもっと長い」

「だよな。七夕のときすでに会ってたわけだしな。あのときの三年間、どうやって過ごしてたんだ?」

「……あなたのことを、考えていた」

「どんなことを?」

「……わたしたちの、未来」

長門はその間、夢を見ていた。俺たちと会ってどんな生活をするか、どんな出来事が起こるか。これはその夢の一部なのかもしれない。

 長門の長い髪がさらさらと冷たい風に泳いだ。俺は長門を抱き寄せた。俺の胸に体を預けた長門の髪をなでつつ、二人で日が暮れるのを見ていた。


 鶴屋さんの具合がよくないらしい。ここ一ヶ月ほど寝たきりの状態が続いている。俺はよくない予感がして古泉に書簡を出した。もし帰ってこれるなら、ひと目会いに帰って来いと。

 鶴屋さんの容態ようだいは悪くなる一方だった。この時代の人にしては長寿で、そろそろ百歳になると聞いている。俺は長門と朝比奈さん、それから子供たちを連れて見舞いに行った。

「おぅ、大鷦鷯おおさざき。よく来てくれた。皆も近こう寄れ」

「おばあさま、お加減いかがですか」

「このとおり、歳相応さね」

燭台しょくだいの光でよく分からないが、あまり顔色はよくなさそうだ。

「お主の夢を見たところじゃ」

「どんな夢でしたか」

「妙な世界じゃったのう。家は山より高く、鉄の箱が走っておった。お主たちは見慣れぬ服を着ていた。イワにゃんと仲姫なかつひめがウサギの耳をしておったが、あれはいったい何ぞ……」

鶴屋さんは考え込むように夢の様子を話していた。この人には未来を見る能力があるんだろうか。

大鷦鷯おおさざき、ずっと聞きたいと思っておったのじゃが……」

「なんでございましょう」

「妙なことを聞くが、お主はどこか別の世界から参ったのではないかと、な」

「え……」

鶴屋さんの口からこんなセリフが出ようとは想像していなかった。俺はどう応えたものか口をもぐもぐさせて迷っていた。本当のことを話すか、適当にごまかすか。

「おばあさま、お話しておきたいことがあります」

「なんぞ、申してみよ」

「信じられないかもしれないですが、実は俺は、この時代の人間じゃないんです」

朝比奈さんがキョンくんと叫びそうになって口を押さえた。なぜだか俺は、これ以上鶴屋さんに嘘をつくことができなかった。鶴屋さんは俺の顔をまじまじと見つめ、それから長門と朝比奈さんをじっと見つめた。

「さようか、ずっとそんな気がしておった。どこから参ったのだ?」

「ずっと未来です」

「そうであったか。お主たちはどこか違う星から舞い降りたのではないかとうたごうておった」

「今まで黙っていてごめんなさい」

「よきかな。人それぞれ秘密もあるでの」

鶴屋さんは目を細くして笑い、腕時計を外して俺の手の上に置いた。

「これは、お主の時代に持って帰ってたもれ。の時はそろそろ尽きるでの」

長らく鶴屋さんの腕の上で時を刻んできたこの腕時計も、歳相応に古びてくすんでいた。

「時計をかわいがってくれてありがとうございます」

「なに、礼を申さねばならんのはのほうじゃ」

話し疲れたらしく、ぐったりと横になった。

去来穂別いざほわけ、子供ら、近こう寄ってたもれ」

鶴屋さんは去来穂別いざほわけの頭に手を触れた。

「お前たちは大和を背負って立つ。大陸の国とは仲良くやってたもれ。新羅しらぎ伽羅きゃら高句麗こうくりも、もちろん百済くだらもな。忘れるでないぞ」

子供たちはうなずいた。これから先、半島には何度も出兵して負けて帰ってくることになるのだが、それはこいつらの時代の話だ。


 部屋の外が騒がしい。具合が悪いのに客が押しかけたらしい。いったい誰だ。

「おばあちゃん、おばあちゃんどこ!?」

衛兵が止めるのも構わず、誰かが駆け込んできた。あとから古泉が申し訳なさそうに入ってきた。ああ、帰ってきたのか、間に合ってよかった。

 俺は古泉に耳打ちした。

「って古泉、早すぎるんじゃないのか。昨日書簡を出したばかりだぞ」

「虫が知らせたんだそうです。僕がふんもっふで涼宮さんを抱えて飛んできました」

古泉は男物の衣装を着たハルヒを指した。

「って、ふんもっふのことをどう説明したんだ」

「僕はラマ僧なんです、と」

前にも使わなかったかそのネタ。まったくご苦労だな。


 鶴屋さんはぼんやりと目を開け、目の前に迫る男が誰なのか一瞬分からなかったようだ。

「おおぅ、帰ってきたのかい。それとも、お迎えに来たのかい」

「帰ってきたのよ」

「黙って行っちまうなんてひどいじゃないかえ……」

ハルヒはごめんねごめんねと何度も繰り返しながら泣いた。鶴屋さんはハルヒの頭をなでなでしながら目を細めた。俺は部屋から侍女と衛兵を出し、俺たちだけにしてもらった。

「イワにゃん、大鷦鷯おおさざきのことを許してやってたもれ。あれはが命じたこと。許しておくれ」

「そんなこと、もういいのよ。キョンがバカなのは元からだしね」

ええ、ええ、おっしゃるとおりですよ。

「未来にお帰り。お主の家はそこなのじゃろう」

「そうね、そのうちね。今はこの時代が楽しいの」

「さようか。それはなにより」

 それからハルヒは、俺たちの時代のことをあれこれ話した。朝比奈さんのこめかみに冷や汗がいくつも浮かんでいたが、まあ他人の秘密には干渉しないという鶴屋さんのことだ、問題あるまい。

「イワにゃん、お主もさっさと連れあいを見つけるがよい」

「連れあい?」

「好きな男を見つけて、早く一緒になれと」

「わ、分かったわ」

ハルヒの顔は真っ赤になった。未来に帰ったら見合いのひとつでもさせてやるか。

「それにしてもイワにゃん、なんという格好をしておる」

くるりと振り向いたハルヒの顔には中国武将っぽい髭が生えていた。全員がぷっと吹き出した。なんて顔してんだ。

 鶴屋さんは疲れたのでちょっと休ませておくれと言い、スヤスヤと眠り込んだ。ハルヒの顔を見て安心したのか、なにかにたされた血色のいい寝顔だった。俺は腕時計を枕もとに置いてやり、音を立てないように全員を部屋の外に出した。


「母上、その格好はいただけません。なんてはしたない」

長男の去来穂別いざほわけが、ハルヒがするようにピクと眉毛まゆげを釣り上げて言った。ハルヒは日焼けしてたくましくなっていた。腕っ節も心持ち太くなっているような気がする。殴られたら痛そうだ。髪は中国風に結ってはいたが手入れしてないらしくボサボサにはねていた。ちょっと見にはやぼったい格好をした無精ぶしょうなおっさんだが、瞳だけはいつもと変わらずキラキラと輝いている。

「こ、これは変装なのよ。付け髭よ、ほら」

ハルヒは長く垂れた鯰髭なまずひげとあご髭を外し、子供たちはそれが母親であることにやっと納得したらしかった。

 俺は客室を用意してもらい、そこにハルヒ親子を押し込んだ。今日は親子水入らずで過ごしてほしい。


 夜中に気になってそっと鶴屋さんの部屋を覗いた。長門が脇に座っていた。

「いたのか」

「……なんとなく、気になった」

俺は長門の肩に布をかけてやり、その隣に座った。しんと静まり返った部屋の中で鶴屋さんの寝息だけが聞こえる。

「長生きだよな」

「……そう」

夫にも息子にも先立たれ、太子になった莵道うじのわき氏も亡くなり、俺に鉢が回ってきたのだ。その間ずっと摂政せっしょうとして国を守ってきた。

「……手を、握ってあげて」

俺は言われるままに鶴屋さんの手を握った。起きているのかと思えるくらいにぐっと強く握り返してきた。


「俺はそろそろとこに戻るよ。お前はどうする」

「……わたしはここで明かす」

「そうか。無理しない程度にな。じゃ、頼む」

長門はコクリとうなずいた。俺は長門の髪に軽く唇を触れて部屋を出た。


 翌朝、鶴屋さんの部屋を覗くと長門が妙にやつれた顔をして座っていた。徹夜したらしい。

「どうした」

「……夜中に、何度もあなたの名前をつぶやいていた」

「そうか。ご苦労だったな」

そのとき、眠っていたはずの鶴屋さんが目を開け、大きく息を吸って咳き込むようにしてつぶやいた。

大鷦鷯おおさざき狭城盾列さきのたたなみに頼むよ……」

鶴屋さんはそのままゆっくりと目を閉じて息を引き取った。腕時計が止まった。いくら振っても秒針は進まなかった。俺は長門の手を握り締めた。長門も握り返してきた。


 俺はみんなを呼んだ。ハルヒと朝比奈さんは泣き崩れて鶴屋さんから離れようとしなかった。俺は侍女を呼んで小さな祭壇の用意をさせ、鶴屋さんの好きだったの花を花瓶に活けた。

 次の日、俺は太皇太后崩御たいこうたいごうほうぎょの通達を出した。客間に祭壇を設け、親類だけの弔問ちょうもんを受けた。ひとつの時代が終わり、大和の国は静かに喪に服した。


 数年前からゆっくりと時間をかけて築いてきた鶴屋さんの寿陵じゅりょうが完成まぢかとなり、俺と古泉は下見に行った。すでに完成していてそこで眠っているはずの磐之媛陵いわのひめりょうの中身はただの人形なのだが、鶴屋さんが好きだったという成務せいむ天皇、稚足彦わかたらしひこの墓を挟んでその北側に鶴屋さんの寿陵じゅりょうがある。長さが二百七十五メートルの前方後円墳ぜんぽうこうえんぷんで、丸い部分が北を向いている。まだ石室の天井は閉じられておらず、遺体を収めてからでかい石の板を被せるようになっているらしい。完成するまでちょくちょく見に行ったが、それにしてもでかい。まだ草も木も生えておらず、裸の土の山だ。

「そろそろ完成ですね。たいしたものです」

「そばで見るとでかいよな」

「向こうにあるのが稚足彦尊わかたらしひこのみことの墓ですね」

そっちの墓には誰かが植えたのか、それとも自生したのか広葉樹が立ち並んでいた。下草も生え、野の花が揺れている。

「その向こうがハルヒの墓だよな。本人はピンピンしてるが」

鶴屋さんの墓の、丸く山になったところに素焼きの壷らしきものがいくつも並べられてあった。人をかたどったらしい素焼きも並んでいる。どっかで見たことのある表情だ。

「おい、あのハニワ」

「どう見ても神人ですね」

古泉がクスクスと笑っている。ハルヒの発生させた神人を墓の守りとして置いてるのだろうか。俺も歴史としてこれを知っているわけで、まあこれが既定事項ならしょうがない。


 鶴屋さんの眠る棺桶かんおけは墓が完成するまで磐余若桜宮いわれわかざくらのみやというところに安置されていた。古泉によれば俺の時代の奈良県のまんなかあたりらしい。そこから墓までは北に二十キロくらいだ。

 それから鶴屋さんの大喪たいそうの儀を行った。方々に通達を出していたので海外からもたくさんの弔問ちょうもんの使いがやってきた。


 その日まだ日が昇る前、葬式の行列は若桜宮わかざくらのみやを出た。俺と長門の御輿みこしを先頭に、朝もやの中を誰の声もなくしずしずと行列は進み、これといった坂道も山もない平地をゆっくりと歩いた。左手にハルヒと稚足彦わかたらしひこの墓を見つつ、長い行列が続いた。

 狭城盾列さきのたたなみに差し掛かったとき、長門が手を上げて行列を止めた。行進が止まったので、それまでうつむいて歩いてきていた後ろのほうの連中が何が起こったのだろうと顔を上げた。

 静寂のなか、長門がゆっくりと詠唱を始めた。


 やすみしし あおがおほきさき 高ししる 日のひめ 神ながら 神さりまして

 けふの日に ひつぎ過ぎゆく たまほこの 道をたどれば そのかみの

 日代宮ひしろのみやを いまここに 仰ぎましれぬ そを見れば あが心やすし……


長門の、鶴屋さんの死をいたむ長い長い和歌だった。静まり返った丘の上で長門の細く透き通るような声が響き渡った。神の導きで天へ往かれた気長足姫おきながたらしひめ様のひつぎは、今日、今ここに道を辿たどっている。気長足姫おきながたらしひめ様が子供の頃にいた日代宮ひしろのみやの跡を見ていると、わたしは心が安らぐ。のような意味だったらしい。歌の詠唱は数分続いた。その場にいた全員がそれに聞き入り、かつての鶴屋さんの、子を見守る母親のような優しさと厳しさの両面を持ったまつりごとの日々を思い返しているようだった。

 長門の詠唱が終わると、行列は盛り上がった墓の頂上に続く道に沿って両脇に並んだ。行列の後ろからついてきていた、棺桶かんおけを担いだ従者がゆっくりと現れた。墓の頂上には、まだふたをしていない石室があり、そのなかにある石棺せっかんに遺体を納める。

 石棺せっかんの中に布で巻かれた鶴屋さんの体を納めるとその前に祭壇が作られ、巫女みこ姿の朝比奈さんが祈祷きとうを唱えた。それから祭主の俺が教えられたとおりに弔辞ちょうじを読み上げると、行列の後ろのほうから太鼓と笛、小さなかねが鳴り始めた。竹のハーモニカみたいなやつ、なんつったっけ。能楽のうがくとか神前結婚なんかで聞くアレだ。雅楽ががくなんかこの時代にあったか?

「あれは雅楽ががくではなく、百済くだらから来た三韓楽さんかんがくです。高麗楽こまがくとも言いますが、雅楽ががくの元になったものです」

「お前が呼んだのか」

「ええ。この葬儀ではじめて伝えられたらしいです。既定事項なので別に構わないかと思いまして」

古泉が大陸で世話になった百済くだら王家の弔問ちょうもん団らしい。こいつもたまには気の利いたまねをする。この思いがけない楽隊の登場で、葬列には感動して涙する人の姿を見かけた。

 みやびやかな楽隊の演奏が終わり、屈強な男数人が力を合わせて石棺せっかんふたを閉じた。あとは上から石室の大きな岩のふたをして、土を被せる工事が終ると完成する。


 滞りなく大喪たいそうの儀が終って、俺たちは腰を下ろしてそこからの景色を眺めた。

「これが僕たちの時代まで伝わっているとは、なんだか感慨深いですね」

「歴史の勉強をしておいてよかったわ」

朝比奈さんが言った。時間常駐員は歴史の成績がいいだろうな。たまに間違えたりするのがこの人のお茶目なところだが。

「次は、僕たちの番ですね」

「キョンに有希、タイムマシンはいつできるの?」

「その話なんだが、もう少し待ってもらえないだろうか」

「なにか不都合でもありましたか」

「いや、今ここで政治を放り出したらまた庶民が貧乏に逆戻りしそうな気がするんだ。せめて俺がはじめた免税の分、財政状態が戻るまで待ってもらえないか。それに子供たちのこともあるし、いきなりいなくなったりしたら悲しむだろう」

俺は長門とハルヒの間に座っている雄朝津間おあさづまを見た。

「ええ、いいわ。あたしも向こうでの生活がだんだん楽しくなってきたところよ」

お前が楽しいってことはまわりが後始末に苦労してるってことで、あんまり歓迎すべき事態ではないんだが。そういえば古泉、お前白髪が増えたんじゃないか。

「タイムマシンは必ず完成するから、雄朝津間おあさづまが俺たちの手を離れるまで、もう少し待ってくれ」

ハルヒはうなずいた。急いで帰ることもない。こいつの場合、なにか楽しめるシチュエーションがあればいいのさ。などと安堵あんどしている俺だったが、実は免税したせいで予算が足りなくて、俺の墓の工事がなかなか進んでいないというのは内緒だ。まあ慌てることはないさ。完成に十年かかってもたどり着く時間は同じだろう。


 帰る道すがら、長門と話した。

「鶴屋さんは生前に、俺の墓もここに並べてはどうかと言ってた」

「……あなたの墓も、ここにしたい?」

「いいや。鶴屋さんはハルヒのことが気に入ってたから並べて欲しいと願ったんだと思う。俺は別にハルヒと並んで眠りたいわけじゃないしな」

「……」

「俺はお前のそばにいたい。長門、俺と墓に入るか?」

「……」

たぶん長門は、情報生命体である自分は物理的に死ぬことはないのだと言おうとして、言葉の別の意味に気がついたようだ。うつむいた長門の頬はピンクに染まっていた。


 それから俺たちは、諸国の弔問ちょうもん団をもてなすために高津宮たかつのみやに帰った。ハルヒと古泉は数日子供たちと過ごしてから船で大陸に帰っていった。ふんもっふで帰るのかと思ったが、ハルヒをお姫様だっこで抱えて数時間飛ぶのは、さすがに腰を痛めたらしい。ラマ僧もご苦労だな。


 それからの俺の生活は日々デスクワークにてっし、大和という国は安泰していた。たまに百済くだらから派兵の要請があったり、免税から七年経ってようやく税制が再開されたり、大陸で戦争に負けたりするくらいの出来事はあった。でも国内はいたって平和で、たいした災害もなく少しずつだが豊かさを取り戻していた。俺の隣には長門がいて、総じて静かな人生だったと思う。

 一度次男の住吉仲皇子すみのえなかつのみこを大陸に使いにやったことがある。百済くだらで政治の勉強をしてこい、というのが表向きだったが、本当は音信不通になっていたハルヒと古泉の様子を見に行かせるための口実だった。大陸ではしょっちゅう戦争をやっていて、帰ってきてから大和は平和ボケしていると愚痴ぐちを言うこともあったが、俺の代はそれでいいんだとたしなめた。俺がこの時代を去ったあとはひどいもんだったらしいからな。もしかしたら大陸式の政治を勉強させたのが悪かったのかもしれないが、お役所的に仕事をこなすしか能がない俺にはよく分からん。

 ハルヒは元気らしい。いくつもの戦いで手柄を取り、スクスクと伸びる孟宗竹もうそうだけのように出世したという。根回しやら駆け引きとは無縁の実力の世界だから、ハルヒには合っているのかもしれない。

 俺は少しずつ、長男の去来穂別いざほわけに仕事を任せていった。時節のイベントやら地方へのあいさつやら、太子は早いうちから顔を知られたほうがいい。こいつも出来のいい優等生みたいなやつで仕事をさくさくとこなしていた。ほかの三人もすくすくと育ち、俺と長門の元を去って修行に出た。


 俺はちまちまと工事を続けていた自分の墓を見に行った。耳を澄ますと静かに波の音が聞こえる、海のそばである。まさかこんなでっかいものが、ろくに重機もないこの時代に作られるとは正直言って驚いた。俺の知っている大仙だいせん公園のまわりにはいくつもの小さな古墳があるんだが、あれらができるのはもっと後の時代だろう。息子の墓もこの近くにできるらしいのだが、本人には教えていない。

 ある日の夜、長門が築上中の寿陵じゅりょうに行きたいというので、人目を忍び二人で馬に乗って出かけた。

「なにをするんだ?」

「……時間移動の設備を用意する」

石棺せっかんはまだこれから用意するところだが、どこに作る?」

「……石室を二重構造にする」

長門と俺は丸く山になった墓のてっぺんに立った。石の壁で仕切られた石室が完成していた。そのまんなかに石のひつぎを置くことになる。

 長門は右手を上げて詠唱した。ゴゴゴゴと震動がして足元が大きく揺れ、まわりに置いてあった素焼きが倒れた。長門は石室の中を指差した。一辺が一メートルくらいの正方形の穴が開いている。かさばった上着を脱いで二人でそこを降りていくと、石室と同じ広さの部屋があった。石でできたひつぎが五つ用意されている。

「ここで時間凍結するのか」

「……そう」

前のときは長門んちの和室で綿の布団に寝かされていたんだが、今回はそういうのはないよな。しかも八時間というから、体が痛くなりそうだ。せめて枕を持ち込もう。


 寿陵じゅりょうの外観と石室の設備が整ったので、ハルヒと古泉にそろそろ帰って来いと書簡を出した。実際に帰ってきたのはそれから半年後だったが。使いに出したやつがハルヒの噂をたどって探している途中で迷子になり、手紙が届く頃には年の瀬も暮れようとしていた。

「たっだいまぁ、遅れちゃった」

半年だぞ、遅れたとかいうレベルじゃねーだろ。

「なによ、人がせっかく楽しんでるのに水をさすようなまねをして」

「さっさと未来に帰りたがってたのは誰だっけね」

「ただいま戻りました」

「おう古泉、生きて戻ったか。ご苦労だ」

「おかげさまで。楽しかったですよ、いくつか歴史とは違うことが起きましたが」

「でで、やっと帰れるのね?」

「そろそろ俺の墓が完成するからな。未来に帰る前に家族とゆっくりしていけ」

「そうね。でもあたしはお忍びなんだからね」

ハルヒは髭面でキヒヒと笑った。細かった眉毛まゆげもゴワゴワした剛毛になっていた。

「長門、これからの手順はどうするんだ?」

「……まず、あなたの死亡を通達する。大喪たいそうの儀を行い、わたし以外の全員を石棺せっかんに納める」

「俺たちが先に埋められるのか」

「……そう。いくつかの事務手続きを終えて、わたしも時間移動に入る」

「そうか。じゃあ後始末は長門に任せるとするか」


 俺も自分の後始末をしておかなくてはならない。俺はすっかり頼もしくなった息子四人を呼び寄せた。

「兄上、お呼びでしょうか」

「そうだ。ほかでもない、お前たちに話しておきたいことがあってな」

俺は未来に帰る、と言おうとして朝比奈さんが心配そうな表情で俺を見ているのに気がついた。そんなことが日本書紀にほんしょきに載って後世に伝えられたらえらいことになる。俺は今朝見た、未来の夢を話した。

「ええと、夢を見たんだ」

「どのような夢でございましょうか」

「鶴、じゃなくてひいおばあさまがな、抹茶と大納言だいなごんのジェラートアイスを食っていた」

「兄上、じぇらーと?なんと申されましたか」

「ジェラートアイスとはつまりだな、氷と牛の乳で出来た菓子だ」

ハルヒに二十一世紀風のお菓子を食わされていたらしい息子たちはなんとなく納得した。

「それはまあともかく、ひいおばあさまがその冷やした氷菓子を俺に渡そうとするんだ。でもいくら手を伸ばしてもそれを受け取れない。受け取れないと思っているうちに氷が溶けはじめてしまった」

「……」息子四人は黙って聞いていた。

「それで俺は、おばあさまにアイスが溶けてますよと言った。おばあさまは哀しい笑顔を浮かべられ、俺に向かって手招きをした」

ハルヒまでが聞き入っていた。

「おばあさまの足元にクーラーボックスがあってな、その中に四種類のアイスが詰まっていた。だが俺はとうとうその味を見ることはなかった」

「その夢はどのような意味を持つのでしょうか」

「アイスが溶ける前にこちらに来いということだろう」

「なるほど……」

「四種類のアイスはお前たちだな。クーラーボックスは、まあかごみたいなもんだが大和の国だ。お前たち四人は仲良く暮らさなくてはならない、という意味だと思う」

「なるほど……お告げでございますね」

「そして、俺はそろそろおばあさまのところへ行かねばならん」

四人が息を飲んだ。ひどいこじつけにもかかわらず、真剣に受け止めているようだった。ハルヒと古泉は苦笑していた。

「しかし兄上はまだお元気ではありませんか」

「ああ、それもそうだな」

ハルヒはプッとふき出した。今の俺じゃ心臓発作でも起こさない限り死なないだろう。じゃあ俺もハルヒと同じ月から来たってことでいいや。

「実はだな、俺も月へ帰るんだ。母上は迎えに来たんだ」

「また戻ってこられますか」

「あーどうだろう。気が向いたら俺も母上と一緒に戻ってくるよ」

保証はできないが、タイムマシンが完成すりゃ楽に来れるようになるだろう。

去来穂別いざほわけ、これからはお前の時代だ。俺のなき後を継いで国民のために尽くしてくれ」

この頼もしい去来穂別いざほわけは俺をしっかりとした目で見つめ、強くうなずいた。


 俺は具合が悪いので寝ているというお触れを出し、その一週間後に死んだことになった。ハルヒのときのように眠ったまま動かないというのはどうも苦手なので、俺そっくりの人形を作ってもらってそれを寝台に寝かせておいた。近寄ってよくよく見なければ分かるまい。ハルヒが俺にも変装しろと言い、女装させようとしたので徹底的に拒否した挙句、長門に不可視遮音ふかししゃおんフィールドを作ってもらってそこに隠れていた。これのおかげで屋敷内のいろんな噂を耳にすることができたのだが、立ち聞きしてニヤニヤしている自分が情けなくてやめた。


 俺の大喪たいそうの儀にはやっぱり地方からと外国から弔問ちょうもん客が大勢来ていた。そんなたいそうなことをやった覚えはないんだが、七年間免税したのが有名になったらしく仁と徳の人だったと惜しまれた。それが名前の由来らしい。

 葬儀の当日、高津宮たかつのみやから南へゆっくりと葬列が進んだ。先頭に去来穂別いざほわけと長門の御輿みこしが進んでいく。俺は行列の最後を行くひつぎの後ろで、フィールドに隠れたままくっついて歩いた。ゆるゆると運ばれていく俺の人形を見ながら、なんだか幽体離脱でもしたような気分になっていた。

 今回も百済くだらから楽隊が来ていて、行進しながら曲を演奏していた。これはいいパレードだ。ベートーベンの葬送そうそう行進曲より荘厳でみやびやかで、琴線きんせんに触れる部分がやっぱアジア的だよなって感じがする。

 墓の前に長テーブルくらいの棚を置いて小さな祭壇を作り、布に包まれた人形を石棺せっかんの中に下ろした。弔辞ちょうじのとき、長門が俺の死をいたむ和歌を延々とんでくれた。自分の葬式に自分が参列するなんて、誰もやったことがないようなまねをしている俺だが、秋の空に遠く高く響く長門の歌に感涙してしまった。ほんと、惜しいやつを亡くしたものだ。


 やすみしし わがすめろき わがしとふ 日のみこ……


脇を見るとハルヒが目頭を押さえていた。まさか俺のために泣いてんじゃなかろうな。

「何いってんの、あんたこの和歌知らないの?」

すいません、古文も日本史もほとんど覚えてません。

「これは有希があんたのために贈った恋歌なのよ」

「え、そうだったのか」

朝比奈さんは苦笑し、古泉は肩をすくめていた。まったく無粋ぶすいなやつはこれだからといいたげに、三人は俺をじとっとした目で見ていた。意味がぜんぜん分からなかったとか言ったら長門が哀しい目で俺を見つめそうだ。帰ったら日本書紀にほんしょきでも読もう。

 去来穂別いざほわけの堂々とした弔辞ちょうじが終わって、大喪たいそうの儀は終了した。葬列はそのまままっすぐ住吉宮すみのえのみやに行き、客はそこに泊まることになった。庭にかがり火を灯して弔問ちょうもん客に酒と食事をふるまい、屋敷はいつになく賑やかだった。湿っぽいのはやめてくれと頼んでいたので、まるで祝い事のような告別のうたげだった。

 俺はフィールドから出て、物陰から息子たちを呼んだ。

今宵こよい、行かねばならん。いろいろありがとう。元気でやってくれ」

「兄上もお元気で」

とうとう最後まで父上と呼ばなかったハルヒの息子たちは、誰一人泣かなかった。立派になったもんだ。末っ子の雄朝津間おあさづまは長門に似て無口で、武術よりは学業に長けていた。国木田に、亡くなった莵道うじのわき氏に少し似てる感じがする。


 息子たちは門のところまで見送ってくれた。従者を連れて行くわけにはいかないので、俺たちは歩いて墓まで行くことにした。高く登った月が夜道を照らしていた。白く浮かび上がった石津原いしづはらの土地を、俺たちは誰も言葉を発することなく静かに歩いた。


 丘のように盛り上がった墓の、石室があるところへ登った。まわりの堀にはまだ水は入っておらず、草も木も生えていない。

 石室の下にある長門が作ったもうひとつの石室に、五人で降りていった。部屋の中は暗く、話し声が固い壁に反射して冷たく響いた。

「時間凍結している間はなにもできませんね」

「俺たちひつぎの中ではふつうに動いていられるらしい」

「そうなんですか」

「だがまあ、体力を使わないために眠ってたほうがいいだろう」

「……時間移動中は動かないほうがいい。石室内部の酸素を消耗する」

「そうか。俺たちを埋めた後、長門はどうなるんだ?」

「……工事完了を待って、わたしも時間移動に入る」

「じゃあ、先に眠ってるぜ。待ってるからな」

「……分かった」

まったく、こいつがいなかったらどうなっていたことか。俺は仁徳天皇としてここで一生を終えていたかもしれん。

 ひとつ忘れていた。ハルヒの髭面を見て思い出したが、俺たちはこの時代に来てけっこうな時間を過ごしたので、この姿で戻ったらまわりに説明しかねるだろう。浦島太郎の気持ちになれるのも悪くはないが、いきなり中年ってのもショックを与えかねん。長門にボソボソと小声で尋ねた。

「長門、見た目の年齢を戻してもらうわけにはいかないか」

「……分かった」

長門は心得ているという感じでうなずいた。


「ではみなさん、未来で会いましょう」

五つ並んでいる石棺せっかんに、古泉、ハルヒ、朝比奈さんの順で入った。俺は用意してきた枕をひつぎの頭のところに置いて横になった。長門が石を動かしてふたを閉じ、ひつぎの中は真っ暗になった。それから長門の詠唱が途中まで聞こえ、まわりの音がすべて消えた。シンと静まり返った中で隣の朝比奈さんを呼んでみたが、もうスゥスゥという寝息が聞こえてきた。

 五分くらいしてごそごそと音がした。石棺せっかんふたが動き、長門が顔を見せた。

「どうしたんだ?」

「……工事完了した」

「もう半年経ったのか、早かったな」

「……わたしも、ここに入りたい」

長門は俺を見つめた。一人用の石棺せっかんに二人はちょっときついかもしれんが、まあ詰めればなんとかなる。長門は小柄だし。

「いいよ、おいで」

長門は石棺せっかんに入り込み、重たい石のふたを元に戻してブツブツと詠唱した。貴族の服のまま俺の隣に寄り添った。腕枕をしてやると長門は俺の胸に顔を埋めた。ああ、これがやりたかったんだな。冷たい石のひつぎの中で、長門の体温だけが暖かかった。

 俺と長門はぼそぼそと話をした。未来に帰ってやりたいこと、俺たちの昔のこと。


「じゃ、おやすみ。千六百年後にな」

「……おやすみ」




 ここは、どこ。


 目を覚ますと、なんて状況ではなくて目蓋まぶたは最初から開いていた。白く光る映像が少しずつ明度を下げ、なんとなくそこが、地上の界隈かいわいとは違う雰囲気をかもしているということを理解した。

 俺はゆっくりと起き上がって両腕をさすった。白いトレーナーのような服を着せられている。実感はある。触覚もある。頬をパシパシと叩いてみたが痛覚もある。夢じゃないようだ。俺は白いベットのような台に寝かされていた。マットレスではなく、柔らかくも固くもない不思議な素材で出来ている。

 ベットの下にゆっくりと白いもやが流れていた。雲の上なのかと思って足で探ってみたが、ちゃんと床があって安心した。

 俺はベットから足を降ろし、歩けることを確かめて両足で立った。

「どこだここは」

誰かが聞いているわけでもないのに、もしかしたら誰かが聞いているかもしれないと期待したのか独り言が漏れた。

 そこは部屋ではなく壁も天井もない空間だった。地平線らしいものは見えず、白くぼんやりとした光が頭上から差していた。振り向くと、ベットには支えがなく宙に浮いていた。空中に固定されているといったほうがいいか。

「おーい、誰かいるのか」

叫んでみた。音の反射はなく、声が四方に吸い込まれていく。

「俺は死んだのか?」

「さよう」

振り返ると、どこかで見たことのある少女がそこに立っていた。巫女みこさんの白衣に赤いハカマをまとって、背中に大きな羽根があり、後光が差している。なんかのアニメで見たような格好だな。頭の上に浮いてるのは天使の輪?

「あ、朝比奈さんじゃないですか。なんてかっこしてんですか」

「ほう。お前にはわしが朝比奈みくるに見えるのか」

一人称がわしの朝比奈さんは意表を突いててすごく萌えますよ。

「だってそうじゃないですか、その顔と体型はどうみても」

「わしは朝比奈みくるではない。お前の記憶が相対的にそう見せているにすぎない」

「ほんとに?その胸は朝比奈さん以外のなにものでもない気がしますが。ちょっと谷間見せてもらえませんか」

朝比奈さんの胸に触れるなどと俺も血迷っていたのかもしれないが、その朝比奈さんの姿をした何者かが烈火れっかのごとく怒った。

「ぶ、無礼ものぉぉぉ」

周囲百キロに響き渡ろうかという怒号が雷鳴と共に鼓膜を直撃した。白と青の稲妻いなづまがいくつも走り俺の体を伝って流れた。呆然ぼうぜんとした俺の体から湯気が立ち、髪の毛からプスプスと煙が出ている。

「痛いじゃないですか、感電死したらどうするんですか」

「お前はすでに死んでいる」

いつもなら、ひでぶっ、とか返すところなのだが、こいつに通用するのかわからないネタなのでやめとこう。

「俺は死んだんですか」

「そのとおりだ無礼者め」

「確か古墳で時間移動しようとしてたんじゃ」

「墓に入ったら死んだと同じことだ無礼者」

「そう無礼無礼と連呼しないでくださいよ。人違いだったんですから」

「人違いでも胸に触れるなど言語道断ごんごどうだん

「そうですよね。すいませんでした」

「まあいい」

「ところで、あなたは誰なんですか。神様?」

「お前がそう思うならそう呼べばよかろう」

「じゃあ神様。ここはどこなんですか」

「お前の思考には存在しない領域だ」

「死んだってことは天国ってことですかね」

「天国など、人間が作り出した妄想に過ぎん」

「あれからどれくらい経つんです?」

「ここでは時間の概念などどうにでもなる。時間は空間と同じだ」

この言い方、なにか覚えがあるぞ。誰かが同じことを言っていたような。

「あなたはもしかして情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいの中の人ですか」

「まあそのような者だ」

「ってことは長門のパパさん?」

「わしらに親という概念はないが、そう思ってもらっても差し支えんだろう」

「こ、これは失礼しました。まさかお父さんだったとは。娘さんにはいろいろとお世話に……はい」

「まったく有希の趣味が理解しかねる。こんなチャランポランでいいかげんな男のどこが……。だがまあ、それはいいとしよう」

なにがいいんだかなにを怒ってるんだか分からないが、この思念体は俺と長門が付き合っていることが気に食わないようだ。

「昔からたで食う虫も好き好きと言うじゃないですか。はっはっは」

「お前が言うな、はっはっは」

朝比奈さんの極上スマイルでグーで殴られた。見る者すべてをマゾにおとしめてしまいそうな笑顔だった。

「痛いじゃないですか」

「お前が有希をそそのかして、くそったれなどと言わせたからだ」

「あ、あれちゃんと伝わってたんですか」

「有希にあんなことを言われたおかげで一パーセクほど寝込んだ。メシも食えなかったぞ」

「一緒に寝てた長門はどうしたんですか」

「お前が戻るのを待っておる。地上に返してやるが、ここであったことは他言無用じゃぞ」

「生き返れるんですか、ありがとうございます」

「今回はちょっと有希のおいたが過ぎたようだ。それについてはびる」


 朝比奈さんにふんした思念体のおっさんは、俺に向かって呪文を唱えた。視界が再びぼんやりと光ってくる。

「ああそれから、これは四回目だ」

「何回目です?」

「四だ」

「四ですか」

「そう。四だ」

「四ですか……」

「ヨン」

「四なんですね……」

「ョン」

「……」

「ョン!」

「……」

「キョン!ふざけてないで起きなさいこのアホンダラゲ!!」

「あ……」

目を開けるとハルヒの顔が目の前にアップで映った。同時に大型台風並みの水がバケツ一杯天から降ってきた。カエルが陸の上で溺れたような感覚に襲われて、俺は水を噴いた。

「いまはいつだ?」

「なに寝ぼけたこと言ってんのよ、二十一世紀よ」

ハルヒが涙目で俺のほっぺたをペシペシっと叩いた。

「に、二度もぶった!親父にもぶたれたことないのに!」

「なにアニメかぶれしたバカなセリフ言ってん、の、よっ」

ハルヒにヘッドロックをかけられた。我ながらバカなことを言った気がする。

「はぁぁ、心配しましたよキョンくん。硬直したまま動かないんだから」

朝比奈さんが大きく溜息ためいきをついていた。

「本当にそうですよ。からかったんだったら怒りますよ」古泉が言った。

「ここはどこだ?」

「帰ってきました。伝仁徳陵でんにんとくりょうの真上です」

まわりを見ると石室のふたが開いていた。これ、埋め戻さないと新聞に載るぞ。仁徳陵にんとくりょうで深夜の盗掘、みたいな。

「そういや、ここって確か立ち入り禁止だろう」

「あなたの墓ですから問題ないでしょう」

古泉はクスクスと笑った。


 俺は長門をじっと見た。あれは夢?意識混濁こんだくゆえの幻想?それとも俺は本当に情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいに会ったのか。長門がすまなさそうに俺を見つめている。お前の親父ってやつはいろいろとおもしろいやつだな。

 俺は古泉の腕を握って起き上がった。見上げると雲ひとつない夜空に月がぽっかりと浮かんでいた。もうひとつの月が堀の水面に揺れている。なにもなかったはずの墓のまわりには暗い森の影が映り、あれから時間が経過したことがわかる。どうやら本当に戻ってきたらしい。

「さあ、明日からガンガン働いてもらうわよ。これからはあたしの時代なんだからね」

ハルヒが腰に手をあて、俺たちを指差して言った。やれやれ、長い休暇だったぜ。


 俺たちは懐かしき時代の名残に別れを告げた。単なる偶然か、あるいは長門にちなんで名づけられたのか、この仁徳天皇の墓が雪陵ゆきのみささきと呼ばれていることを知ったのは、だいぶ後になってからのことだ。


 暗転。

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