【仮説三】

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Illustration:どこここ


「さあっ、はじまるざますよ。第一回時間移動技術会議でがんす」

ハルヒ、そんな数ヶ月もすりゃ元ネタが分からなくなるような賞味期限付きのネタはやめろって。

「こないだから熱心に勉強してくれているハカセくんがタイムマシンの作り方を教えてくれるわ。キョン、ちゃんと耳をほじって聞きなさい」

「そんな、涼宮姉さん、まだ理論も完成していません……」

ハカセくんがぽっと顔を赤らめた。思いのほか気が小さいらしい。

「まあまあ、小学生相手に理科の授業をやると思って、気楽にやってくれ」

朝比奈さんが入れてくれた緑茶で落ち着くと、ハカセくんはパネルを示しながら言った。

「今の科学で時間移動につながりそうな理論を探してみました。無限の長さの宇宙ひもを使った理論らしいのですが、一九四九年にクルトゲーデルという数学者が提唱しました」

「宇宙、ひも?そんな昔に?」

長門に付き合って宇宙という言葉にそれほど違和感を感じなくなっている俺だが、それにひもがついているのがどういう状態なのか、いくら考えても想像できない。

「宇宙ひもというのは、この宇宙が生まれたときに発生したと考えられているひも状の物体です。自転していて、質量がハンパじゃないくらいに大きいです。僕たちが住んでいる宇宙を帯のように横断しているんじゃないかと言われています」

なるほど。ともかく重たいひもらしい。

「これでどうやって時間移動するかというと、まず一枚目の絵を見てください」

黒い背景に青い円盤が水平に置かれている絵を指した。

「通常の空間では、このスタート地点から円のまわりを一周して戻ってくるまでに三分かかるとします」

これはふつうにある物理だよな。

「次に二枚目をご覧ください。円の中心に長さが無限の宇宙ひもが一本あります。このひもはすごい速さで自転していて、そのまわりでは時間と空間が巻き込まれる感じにひずんでいます。そして、このまわりを一周すると二分五十秒で済みます」

なるほど。空間と同時に時間も縮んでいると考えればいいのかな。

「三枚目をご覧ください。この絵では宇宙ひもが二本立っています。この二本は互いに移動しています。このとき、片方のひもの空間のひずみがもう片方のひずみを取り込み、一周するとなんとスタートした時間より三十秒前に戻ってしまいます。これが宇宙ひもによる過去への時間移動です」

じゃあ三本ではどうなるんですかと質問してハカセくんを困らせてはかわいそうなので、後で長門に聞くことにしよう。ハルヒはぽかんとした顔をしている。

「もう少し詳しい話をします。アインシュタインの一般相対いっぱんそうたい論によると、物体のまわりは時間と空間がひずんでいることになっています。宇宙ひものような質量の高い物体のまわりでは空間がひずんでいて、さらに自転しているために回転方向に沿ってじ曲がっているのですが、」

ハカセくんはもっといい例えはないかと考えていたようだが、ふと俺に目を向けた。

「風呂の栓を抜くと水がぐるぐると回りながら吸い込まれていきますよね、あんな感じに時空がじ曲がっているわけです」

分かりやすいっちゃ分かりやすいが、それは俺のレベルに合わせてくれたのか、ありがたいのかありがたくないのか。

「このねじれが時間までも回転方向に横倒しにしてしまい、過去と未来が繋がってしまいます。これをレンズ-シリング効果と呼ぶらしいです」

「その、繋がった時間のせいでスタートした時間より前に戻るってことか」

「そうです」

ハカセくんはうんうんとうなずいた。

「ポイントは二つの宇宙ひもが互いに高速で移動している、というところにあるようです」

「で、その宇宙ひもって作れるの?」

「ええっと、宇宙ひもは負のエネルギーでできているらしいんですが。長門さん、どうでしょうか」

「……擬似ぎじ的なものなら、作成可能」

それまで黙って聞いていた長門が口を開いた。

「……エキゾチック物質を加速してリングを作る。それを無限の長さと見なす」

エキゾチック物質?旅に出たくなるような物質か。あれ、このくだらん突っ込みにはなぜかデジャヴを感じる。

「そう。難しいことは分かんないから、実験に取り掛かってちょうだい。機材はどんどん買っちゃっていいわ」

おいおい、そんなこと言って、十人の給料をなんとか払っている会社の台所事情をご存知か。


 そんな経理担当者の心配はどこ吹く風、次の日から実験機材と称する箱がどんどん納入されてきた。

「これどこに置けばいいんだ?会議室にでも置いとくか」

「……実験室の確保を申請する」

「そうね、せっかくやるんだったらちゃんとした研究施設が欲しいわよね」

「僕が手配しましょうか。不動産関係には心当たりがあるので」

「さすが古泉くん、持つべきは不動産に詳しい取締役とりしまりやくよね」

言っとくが、古泉の心当たりってのは実在しないことになってる闇の組織なんだぞ。

 古泉の手配とやらで同じ階のお隣さんが空き室になっていた。これ絶対機関の圧力で追い出されたんだよな、かわいそうに。四階を一社独占状態にした我がSOS団の実験機材がそっちに運び込まれた。ハルヒの要望で部屋と部屋の仕切りに穴を開けてドアが取り付けられた。わざわざ廊下に出て行くのがめんどくさいらしい。

 実験機材というのは見たこともない機械類だった。厚さ三センチのガラスでできた、直径三メートルの密閉された筒。上の部分は天井まで届き、試験管の底みたいに丸くなっている。長門が設計した特注品なのらしい。それから巨大な電磁石が六個あり、特殊な構造らしく自分で丁寧ていねいに銅線を巻いていた。電磁石はガラスの筒のまわりに配置された。ほかにもビーム砲やら測定機器やらがところ狭しと並んでいる。

「長門、放射能漏れとかないよな」

俺はエナメル線を巻き巻きしている長門にこっそり聞いた。

「……大丈夫。部屋全体を、」

長門はちょっと言い淀んで視点をさまよわせ、「重力子フィールドで包む」と言った。

「ならいいが、危険がないように頼む」

「……分かった」


 実験室には制御装置らしいパソコン類が何台も並んでいた。壁に長テーブルをくっつけ、それに液晶モニタをずらりと並べた。何度か機材のテストをして、最初の実験がはじまった。

「十五時四十四分、試作機初号しょごう、実験開始します」

「やってちょうだい」

実験用の白衣を着込んだハルヒが腕を組んでえらそうに言った。

「……電源投入」

「始動しました」

「……真空ポンプ作動」

ブルルルと音がして、プロパンガスのボンベを横にしたようなエアコンプレッサーぽい機械が動き始めた。でかいガラスの筒の中の空気を抜いているらしい。

「……磁性体コア稼動」

「了解。電源入りました」

「……加速砲用意」

「電源入ります」

ガラスの筒には二本の腕が伸びていて、ビーム砲に繋がっている。そこからエキゾチック物質とやらを打ち込むらしい。

「……照射しょうしゃ開始」

長門の合図でハカセくんがスイッチを回した。ガラスの筒の中で一瞬だけ青白い火花が散ったが、その後はなにも起きない。長門もハカセくんも、そのまま数分間じっとしていた。

「何が起きてるんだ?」

「……照明を落として」

長門に言われて実験室の電灯を消した。部屋の中が真っ暗になるかと思われたが、そこで起っている現象を見て俺は目をしばたたいた。ガラスの筒の中に一本の薄紫色に光るリングが浮かび上がっている。

「……美しい」

長門がつぶやき、俺たちはうなずいた。

「このリングを見れるだけでもすごいわね」

「これ、回っているのか」

「……そう。これがエキゾチック物質」

「きれいですね。ふつうは見えないんですが、電子をくっつけて加速しています」

ハカセくんが補足した。

「……磁界じかいを分離。リングを分解」

長門がつぶやいてキーボードのテンキーを叩くと光のリングが内側と外側に別れた。さらに二本とも少し太くなった気がする。じっと見つめていると、内側のリングが外側のリングをおおうようにして動き始めた。内側のリングの半径が伸びて外側のリングを包むように回り、また内側に入る。それを繰り返す。

「二本のリングがシンクロ開始しました」

「あ、つまりこれが二本の宇宙ひもってことか」

「そうです」

なるほど。分かりかけてきた。まずエキゾチック物質が円を描いて無限の長さと同じ状態になる。その円を二本作り、内側の円が外側の円を包むようにして回る。これを繰り返せば互いに動いてることになる。あとはスピードを上げればいいだけか。

「……正解。あなたにしては分かりやすい説明」

それ俺がいつも言ってるセリフじゃん。

 内側のリングはだんだんと回る速度を増し、次第に一本の太い薄紫色のドーナツのようになった。これ、円周方向にも回ってるんだよな。ということはエキゾチック物質は螺旋らせんを描いて回ってるってことか。今日の俺はいつになくえてるな。

「……コアの電圧を上げて。光速の八十パーセントを目標」

「了解。現在光速の五十五パーセントです」

ハカセくんはパソコンのモニタを眺めて数値を読み上げた。リングの色がだんだんと白っぽくなり、ついには目を開けていられないくらいに輝きを増した。

「シンクロ率が四百パーセントを超えました!」

どっかで聞いたようなセリフだな。次の瞬間、プーンともピューンともつかない音がしてリングが消えた。

「すごいわ、光速を超えたのね!」

「ブレーカーが落ちただけです」

「あらっ」

「……実験失敗。契約アンペアの変更を忘れていた」

「んーっ、しょうがないわ。失敗にめげずにがんばりまっしょーい」

ハルヒがグーで天を突くように背伸びをしながら叫んだ。失敗してるときの元気のよさがこれなら、成功したときにはいったいどうなるんだろう。銀河規模の情報爆発でも起こすんじゃないのか。

「今日はいいものを見せてもらったわ。キョン、電力会社に話つけといてね」

へいへい、どうせ俺は雑用ですよ。


 部屋から出ようとして腕時計を見ると五時前だった。窓の外がやたら暗いので雨でも降ってるのかと顔を出したがそうでもなさそうだ。壁にかかっている時計を見ると七時を過ぎてしまっている。腕時計が壊れてるのかと思って振ってみたがちゃんと秒針は回っているようだ。ふと気になって古泉に尋ねた。

「おい古泉、お前の時計ちゃんと七時になってるか?」

「え、今五時ごろじゃないんですか」

俺は壁の時計を指して見せた。

「あれれ変ですね。僕の時計じゃ針もデジタル表示も五時なんですが」

「……リング周辺の時空が少しひずんでいた」

「ってことは二時間くらいタイムトラベルしちまったのか」

「ちょっとした浦島太郎の気分ですね。え、どうかしましたか?」

「いや、前にも似たようなことがなかったか」

「さあ、覚えていませんが。いつごろでしょうか」

「たぶん気のせいだ。気にするな」


 翌日、電力会社の人がやってきて電線とブレーカーを交換して帰った。ソフトウェアの会社でそんな大容量をなにに使うのか怪しまれないかと思ったが、電気を大量に使ってくれるのはいい客らしくホクホク喜んでいた。定額割引サービスも適用してもらったが、果たしてどれくらい節約になるのか。

「十三時二十八分、実験開始します」

「やってちょうだい」

ハルヒが腕を組んでガラスの筒に見入っていた。ところが昨日のようなリングは生まれず、ブーンと消えていくような音がしてまた照明が消えた。

「またなの?もう、電力けちってんじゃないの、このビル」

ビルというより俺たちがアンペアを使いすぎてるだけだと思うが。

 そのとき、部屋の南側の窓ガラスが割れ、いくつもの人影が飛び込んできた。SWATか海軍特殊部隊かと思わせるような風体のやつらがバラバラとなだれ込んできた。数人の黒装束くろしょうぞくが周囲を見回し、背中合わせにしてフォーメーションをとった。なんだありゃ、構えているのはアサルトライフルか!?

 いったい何が起こっているのか、状況判断と思考がなかなか前に進まないうちに大きな音を立ててドアが開いた。ノックくらいしろよと突っ込まないところはすでに俺はパニクってたに違いない。暗がりの中、廊下から射してくる蛍光灯の光だけがまぶしく目に焼きついた。

 開いたドアからこれまた黒装束くろしょうぞくが数人走りこんできた。そのうちのひとりが銀行強盗ばりの声色こわいろで叫んだ。

「全員動くな」

なんのイベントなんだこりゃ、ドッキリか。

「なんなのよあんたたち!」

「ハカセくんはどいつだ」

お前ら、ハカセくんの本名を知らないで来たのか。見かけによらず間抜けだな。

「名前などどうでもいい。どいつだ」

「ぼ、僕ですが」

ハカセくんだけを残して俺たちは実験室の外に連れ出された。

「お前ら全員、両手を上げろ。抵抗すれば撃つ」

「CIA?FBI?あんたらどこの組織よ!あたしがタイムマシンを作ってることを知っての襲撃ね、こんなことをしてタダじゃすまないから」

「黙れ、お前ら動くな。両手を頭の上にあげろ」

そのうちのひとりが俺たちに銃を向けた。俺たちは互いに顔を見合わせ、両手を頭の上に乗せた。数人が駆け寄って後ろ手にし、俺たちは両手と両足をインシュロックで縛られた。朝比奈さんを見たが、若い頃のようにオロオロとはしていなかった。ただじっと黒装束くろしょうぞくメンバーのひとりをにらみつけていた。

「抵抗すれば命の保証はない」

俺は聞き覚えのある女の声に、ふと知り合いの顔が浮かんだ。

「もしかしてその声は森さんでしょう!?」

「う。わたしはそのような名前ではない」

「それからそっちの、迷彩めいさい服着て頭にバンダナ巻いてるおっさん、あんた新川さんでしょう」

「なんのことやらさっぱり分かりませんなあ」

「ってことはこの中に多丸さん兄弟もいるってわけですね」

うちの二人がビクっとした。レンジャーだかSWATだか知らないが、あんたら向いてないわ。と突っ込まれたのが気に入らなかったらしく俺の足元に弾を四発撃ちこんだ。カーペットに穴が開き、焦げくさい煙が立ち込めた。実弾じゃないか、こいつらマジか、サバゲにしちゃ気合が入りすぎてるじゃないか。

 古泉を見ると自分の立場をどうしたものか決めかねているようだった。こいつは以前、機関の命令に背いても一度きりなら俺たちの味方をすると約束している。

「森さん、状況を説明してください」

「その義務はない。お前はすでに機関の人間ではない」

「そ、そうだったんですか。なぜクビになったのか教えてもらえませんか」

森さんは答えるかわりに銃口を突きつけただけだった。

「あんたたち、何が目的なのよ」ハルヒが森さんと思しき黒装束くろしょうぞくに向かって叫んだ。

「時間移動技術のデータを破壊する」

「なんのうらみがあってそんなことすんのよ!」

ひとりがAKライフルをハルヒに突きつけようとした。俺はそれを見て頭に血が登り、立ち上がってそいつに体当たりした。二、三人がバラバラと駆け寄って俺を取り押さえ、森さんと思しきやつからしこたま蹴られた。

「お前たちのせいで三十億人が死んだ。我々はその要因を取り除くために来た」

「なんの映画だそりゃ」

「映画ではない。実際の歴史だ」

あ、もしかしてこいつら未来から来たのか。

「そうだ。お前たちが開発した時間移動技術が要因で国家間の軍事力バランスが大きく崩れた。日本が第二次大戦に勝利し核保有国となった。冷戦はなく延々と紛争ふんそうが続いた。陸地の六十二パーセントが放射能に汚染されている」

「第二次大戦は過去の話だろう」

「お前の頭には時間の概念がないのか」

ってことは、未来にいたやつが歴史を書き換えたってことかな。

「それは分かりますが、その格好は何なんですか。あんたらもどこぞの兵隊?」

「機関はレジスタンスとして政府と戦っている」

「なるほど。ってちょっと待て、あんたらに正しい歴史の記憶があるのはなんでだ?」

その質問には森さんは答えず、その隣にいたやつが口を開いた。

「わたしが歴史を修復したからよ」

そ、その声は朝比奈さん!っていつものメンバーじゃないか。

「もしここで時間移動技術がなくなったら、あんたたちは全員消えてしまうんじゃないのか」

「それでもかまわないわ。世界が守られるならそれくらいの犠牲は安いものよ」

まったくなにカッコつけてんですか、朝比奈さんらしくない。こめかみに手を当てて頭痛を訴えたくなるようなセリフを聞いていると、実験室から爆発音が聞こえた。ガラスが飛び散り、黒い煙をモクモクと吐き出している。ガラスの筒その他実験器具が粉みじんになっていた。ああ、俺たちの出来損できそこないタイムマシンが無残な姿に。

「自分たちがやったことをつぐなうがいい」

黒装束くろしょうぞく全員の姿が徐々に透けてゆき、やがてそいつらはかき消すように消えていった。非常ベルが鳴り、スプリンクラーから大量の水が降り注いだ。

 なぜかここで暗転する予感がしたのだが、そうはならなかかった。手足を縛られたまま、俺たちはずぶ濡れになった。俺は朝比奈さんに耳打ちした。

「あの、今ここにいる朝比奈さんが消えないのはなぜなんでしょうか」

「さっき消えたわたしは、たぶん別の時間線のわたしなのでしょう」

「というと?」

「時間移動理論の資料と実験機材が破壊されたことで、涼宮さんが作るタイムマシンの歴史の流れは白紙に戻ったんだと思うわ。でもわたしが持っているTPDDは消えていないので、元の流れに戻っただけ、ということかしら」

「それじゃ発案者のハルヒが生きている限り同じことを繰り返すんじゃないですか」

「そうかもしれないわ」

俺はみんなを見回した。あいつらは口やかましさに閉口したのだろう、ハルヒの口をガムテープで封じていた。

「誰か両手が効くやつはいるか」

長門が両手を上げて見せた。ハサミで全員のインシュロックを切り離してまわった。

「ぷは、まったくもう!さっさと警察呼んで」

ハルヒの顔にガムテープをいだ跡が残っていた。警察を呼ぶのはまずい気がする。時間移動技術を研究しているなんてことが公の機関の耳に入ったりしたら、CIAやらモサドやらがやってくるに違いない。そもそも通報が原因であいつらがやってきたのかもしれない。

 俺は長門に耳打ちした。

「長門、情報操作を頼む。これが世間に知られると厄介なことになりそうだ」

分かってくれているようで、長門は黙ってうなずいた。右手を上げて詠唱をはじめた。

「有希、なにそ……」

ハルヒがなにごとか言おうとしたが、部屋の中が分子再構成の嵐に見舞われて声はかき消された。光の粒子と化した部屋の残骸ざんがいが竜巻のように螺旋らせん状に回転して広がり、元あった机やロッカー、パソコンのモニタなんかに姿を変えていった。

「……終わった」

嵐が消えるといつもより整然と整った机と事務用品が現れ、全員が自分の椅子に座っていた。服は濡れておらず一滴の水もこぼれていない。だが部屋の電気は消えたままだった。

「え、あれ。なにやってたんだっけあたし」

「ブレーカーを戻そうとしてたんじゃないのか」

「そうだっけ、あ、そうだったわね」

ハルヒは椅子の上に乗ってドアの上にあるブレーカーを戻した。部屋の明かりが元に戻った。俺は天井を指差して長門に言った。

「火災報知器は大丈夫か」

「……警備会社への通報を解除した。涼宮ハルヒの記憶も改竄かいざんした」

「そうか。ありがとよ」

お礼ならいい、と言うはずの長門が言わなかった。じっと無表情のままだ。

「ハカセくん、大丈夫か」

「ええ。やっぱり電力使いすぎですよね」

やっぱりさっきの襲撃は覚えてないようだ。


 ここで少し、朝比奈さんと長門と協議しなければならない。ハルヒに聞かれては困るので三人で喫茶店に向かった。ついて来たそうにしていた古泉はハルヒの子守り役として残した。

「長門、パソコンやら実験データの類は戻ったんだよな」

「……時間を除いて、すべて実験後と同じ状態」

「ということはハルヒがタイムマシンを作ってしまう歴史の流れはそのままってことに?」

「そうなるわね。また彼らがやってくるかもしれないわ」

俺は古泉に電話をかけ、今すぐ部屋の戸締りをして二人を連れて飯でも食って来いと伝えた。古泉が僕は社長の子守りですかとブツブツ言ったのでそのとおりだと答えておいた。

「ええとつまり、まとめるとだな」

ハルヒが時間移動技術の実験をしているところへ、未来から森園生の一団が襲撃に来た。つまり近い将来タイムマシンは完成する。あいつらが言うには、その時間移動技術のせいで戦争が起ったらしい。タイムマシンを使って第二次大戦の歴史を改変したやつらがいたということだ。だが俺たちの記憶にないところをみると、もうひとりの朝比奈さんが修正を加えたようで、歴史には影響していない。

 森園生一団が時間移動技術関連の情報と実験機材を破壊するとあいつらは消滅した。つまり、襲撃はなかったことになっている。

「しかしだ、長門が情報と実験機材を元に戻したのでハルヒがタイムマシンを開発してしまう可能性は残されている。ここからの未来はどうなるんだ?」

「……計算するための要素が多すぎるが、同じ展開を繰りかえす可能性は高い。比喩ひゆを用いるならなら、イタチごっこ」

「朝比奈さんの未来ではどうなるんですか」

「わたしが知っているのは、わたしがいた時間線の未来なのでこの流れの未来と必ずしも一致するわけではないの」

「じゃあここにいる朝比奈さんは、朝比奈さんのTPDDが作られる歴史しか知らないんですか」

「今のわたしはね。未来に戻れば事情も変わるでしょうけど」

「未来と連絡はつきますか」

「それが、さっきの一団がやってきたときから時間平面の並びがひずんで連絡がつかないの」

「ってことは戻れないかもしれないってことですか」

「ええ……」

朝比奈さんの表情に少しだけかげりが現れたが、いつだったか、前に朝比奈さんがTPDDを失ったときよりは落ち着いていた。それを思い出したのか、朝比奈さんは笑顔を作って言った。

「わたしは大丈夫。タイムトラベラーはいつなんどき、時空のひずみに閉じ込められてしまうかもしれないという覚悟はできているの。もし帰れなくなっても、それは任務を全うした結果だから」

時間移動ってのもたいへんだな。家族やら友達と二度と会えなくなるという、潜水艦の乗務員並みの危険性があるわけだ。

 長門が妙に考え込むような表情をしていた。

「どうしたんだ?」

「……さっきの襲撃のとき、わたしの異時間同位体いじかんどういたいがいた気配がある」

「長門もいたのか」

「……不可視遮音ふかししゃおんフィールドの痕跡こんせきが残っていた。わたし以外に考えられない」

「もしかして喜緑さんとか、ほかのヒューマノイドとかじゃ?」

「正体は分からないが、それに準ずる存在。床にかかる重力から計算すると、フィールド内に三人いた」

「ということは、組み合わせとしてはわたしたちがもっとも近いわね」

「それが長門だったとしたら、なぜ接触してこなかったんだろう。黙って見てただけなのか」

「……彼らの目的は不明」

「もしかしたらわたしの、つまりわたしたちの記憶にないということじゃないかしら」

「……その可能性はある」

ええと、つまりどういうことですか。

「隠れていた三人が過去か未来かどこから来たのか分からないけれど、わたしたちの知らない何かを知っていて、それを確かめに来たんじゃないかしら」

「なるほど。……すいません、よく分かりません」

「……過去から来たとする場合、わたしたちとは異なる歴史を持っている三人ということ。未来から来たとする場合、襲撃の時間をポイントにして生まれた分岐かもしくは同じ時間線から観察に来た三人で、これからわたしたちがなにかを行わなければならないということ」

「なんだかややこしいが、俺たちがたくさんいるわけだな」

「いずれにしても、わたしたちがあの時間に戻ってなにかをしなければならないということね」

「……それは正しくはない。わたしたちは未来に干渉する必要がある」

「長門さんどういうこと?」

いつもは歴史を改変するときは過去に干渉するよな。

「……一連の事件はタイムマシンがからんでいる。涼宮ハルヒの時間移動技術が完成するのは、今のわたしたちから見て未来。あの襲撃がどこから来たのかを見定めなければいけない」

「じゃあ彼らをたどってゆけば原因が判明するということね」

長門がスクと立ち上がった。

「……準備は、できている」

「キョンくんも来てくれるわよね」

「え、未来へですか」

駅前で待ち合わせている女の子がBMWとかメルセデスで乗り付けられてちょっとドライブに付き合わないかと誘われているようなのとはまったくレベルが違う、とんでもないお誘いだった。今まで経験した時間移動はずっと過去だった。ずっと待ち焦がれていた未来がようやく拝めるというのだ。

「連れて行ってもらえるのならどこへでも参ります」

俺はいつの頃からか時間移動がやみつきになっているようだ。あの三半規管さんはんきかんが暴走して目が回るような感覚はなぜか忘れられない。

「……この時間線では、かなり危険な状態が予測される」

「ええ。さっきの一団を見る限り、平穏へいおんでは済まされそうにないと思うわ」

俺と朝比奈さんも立ち上がった。三人は手を繋いで輪を作った。

「では行きます。目を閉じて」

「大丈夫ですよ、もう慣れましたから」

足元から重力井戸じゅうりょくいどに落ちたかのように、はるか下方の一点に世界が吸い込まれてゆく。俺たちも漏斗ろうとの底に流れてゆくように円を描いて、最初はゆっくりと、徐々にスピードを上げて落ちていった。


 眼下の風景に朝比奈さんは息を飲んだ。

「ここ、まさか閉鎖空間へいさくうかんじゃないですよね」

閉鎖空間へいさくうかんを知ってるのは少なくとも俺と古泉だけのはずだが、一面が灰色で人気のない世界にそう思わせるだけの迫力がある風景だった。

「……閉鎖空間へいさくうかんではない」

長門がボソリとつぶやいた。さすがの長門も唖然あぜんとしている。目の前に広がっているのは、かつてビルだった瓦礫がれきや、家だった屋根瓦、道路だったアスファルトの塊らしきものが山と積まれた町だった。元はビルだったらしいコンクリの塊から錆びついた鉄筋が飛び出していて、折れ曲がり具合は爆発かそれに似た衝撃によるものだと想像できた。

「場所はどこですか」

「さっきの、喫茶店と同じ地点です」

まわりを見回してみたが看板の跡すらなく、道に立っていた標識もない。土ぼこりを被っていて、かなり前からこの状態にあるのだろう。それどころかここが北口駅前の繁華街だとはとても思えなかった。

 彼方から爆音が聞こえてきた。ヘリの羽根の音だ。俺は二人をうながして物陰に隠れて空を見上げた。軍用ヘリらしきものが二機、東から西へと飛んでいった。

「非常にやばい時代に来てしまったな」

「うかつに誰かに話し掛けたりできないわね」

誰かに遭遇そうぐうしたらまず敵か味方かを問われるだろう。過去から来ましたなんてことになったらとっ捕まって暗い部屋に放り込まれるのがオチだ。

「長門、この時代のお前が味方かどうか分かるまで会わないほうがいいと思うんだが」

「……わたしもそう思う。でも互いの検知を封じるのは不可能」

願わくば、遭遇そうぐうしないようにってとこだな。

「今回の時間移動が長門さんの記憶にあるとしたら、この時代の長門さんはわたしたちがここに現れることを知ってるはずじゃ……」

「……それは心配しなくてもいい。わたしの判断で記憶を禁則事項に指定することはできる」

そもそも、長門が異時間同位体いじかんどういたいと意見が食い違ったり争ったりすることはあるのだろうか。いつだったか長門が暴走したときは、時間的に若い方の長門が未来から来た長門の指示に従った。長門の双子の姉という異次元同位体いじげんどういたいのときは、どちらも主張を変えず町をまるごと破壊するほどの大喧嘩になった。

 俺はあのときの二人の派手な戦いを思い出して鳥肌が立った。

「もし未来の長門が出てきてもできるだけ穏便おんびんに解決してくれ」

「……分かった」

たぶんそんなことは起らないだろうという根拠のない楽観視をしている俺だったが、もし二人の長門が意見を異にするような事態になるとしたら、それぞれの守るべきものが違う場合だけだろうと考えていた。


「朝比奈さんの上司とか仲間で、この時代の誰かと連絡取れませんか。誰か協力してくれそうな人」

「わたしの時間線とはだいぶ違うみたいだから、どうだか分からないけど。ちょっとやってみます」

朝比奈さんは数秒だけ宙に視線を浮かせた。

「この時代のわたしがいます。会ってくれるそうです」

よかった。時代と場所が変わっても、この人だけは俺の味方になってくれると信じている。

「今どこにいるんです?」

「どこかの組織の隠れ家にいるようです。方角を教えてもらったから行きましょう、こっちよ」

先導する朝比奈さんはくるりと振り向いて、末恐ろしいことをサラリと言ってのけた。

「途中に地雷があるらしいから、気をつけて」

「じ、地雷って踏んだらジャンプしてパチンコ玉が四方八方に飛び散るやつですか」

「それだけならまだいい方」

「ひぃっ」

「……大丈夫。わたしが熱光学とエックス線で見ている」

じゃ、じゃあ長門が最初で朝比奈さんが二番手で、俺が最後ってことに。情けない。


 ずっと空は曇っていて、遠くまでは見渡せなかった。今が昼なのか夕方なのかさえ分からない。瓦礫がれきの山を十五分ほど歩いたところで長門がピタリと止まった。

「……」

長門が指差した方向を見ると、ビルの残骸ざんがいの上に人影があった。小柄な、見慣れたボブカットの女の子。この時代の長門がいた。三人が来るのを待っていたようだ。近寄ってみるとどこかの制服らしきものを着ている。海軍か海自か、胸のポケットの上にJMSDFとロゴがある。

「……なにが、あった」

「……時間移動技術がさまざまなグループ、国家の覇権はけん争いの元になっている」

「……この事態になるまで放置していたのはなぜ」

「……説明する義務はない」

「長門、俺にも教えてくれないか。その制服はなんだ?どこかに雇われているのか」

このシリアスな状況でまさかミリタリヲタのコスプレではあるまい。将校らしく、階級章に星がついている。

「……現在SOS団は海軍特殊部隊の傘下にある。涼宮ハルヒ以下四名はそこで勤務している」

「海軍って海自か」

「……憲法九条改正により、正式に軍となった。内外の勢力と交戦中」

まぎらわしいので未来のほうは長門(大)、俺の長門を長門(小)と呼ぼう。俺は長門(大)に向かって言った。

「教えてくれ、お前がいながらなんでこんな事態になっちまったんだ」

「……わたしの仕事は涼宮ハルヒを観察すること。それ以上の干渉はしない」

「それはおかしいぞ。ハルヒがタイムマシンを作ることに関与したはずじゃなかったのか」

「……わたしは関与していない。涼宮ハルヒの願望により実現した。あなたたち三人は時間線を外れている」

「どういうことかしら?わたしたちは同じ時間線をたどってきたはずなんだけど」

朝比奈さんが質問した。

「……涼宮ハルヒの時間移動技術の副作用で、複数の分岐を生み出している。わたしの記憶では、あなたたちがここに来るはずはない」

長門(小)が長門(大)に向かって右手人差し指を差し出した。

「記憶の不整合ふせいごう点を洗い出したい。同期を求める」

「……断る」

「……なぜ」

「……分かっているはず」

長門(小)は明らかにムッとしたようだった。かつて自分が異時間同位体いじかんどういたいとのリンクを拒んだときの返答を自ら受けるとは、これも因果か。

「まあまあ、同期しなくても不整合ふせいごうなポイントを調べることはできる」

「……それも、そう」

二人の長門はうなずいた。


 長門(大)が俺に向かって言った。

「……涼宮ハルヒに会って」

「もちろんそのつもりだ」

「……わたしたちは間違った選択はしていない。でも正しい選択だったとも言えない。それを是正ぜせいできるのは、あなた」

そう、俺はこの話が始まって以来ずっとハルヒのストッパー役なのだ。なにかまずいことが起るたびに俺は尻拭しりぬぐいに奔走ほんそうさせられる。

「先にこの時代の朝比奈さんに会って事情を聞きたい。そっちのハルヒにはまだ伝えないでくれ」

「……分かった」

「この時代の俺は一緒にいるのか」

「……いる」

それを聞いて安心した。だが長門(大)の表情はいまいちよく読めなかった。

「……いつもの場所で待っている」

長門(大)はそう言って灰色の風景にまぎれ込んだ。背中が小さく見えた。


 瓦礫がれきの山を乗り越えつつ俺たちは歩いた。途中で何度も道に迷い、一時間くらい歩いただろうか。いいかげん疲れて、前を行く朝比奈さんにまだ着かないんですかと聞こうとしたところ、後ろから声をかけられた。

「おいそこの三人、止まれ。両手を上げろ」

俺たちはゆっくりと手を頭の上に上げた。

「その声は新川さんじゃないですか」

「な、なんで分かった」

やっぱり。迷彩服でバンダナを頭に巻いて片メガネしてりゃ誰でも分かりますって。一度襲撃されてるし。

「そちらは朝比奈さんですか。なんでこんなやつらと一緒にいらっしゃるのですか」

「ええと、わたしはあなたの知ってる朝比奈みくるではないんです。こっちにもう一人のわたしがいるはずなんですけど」

「どういうことでしょうか」

長門の姿を見て新川さんの表情が気色けしきばんだ。肩から下げたマシンガンのグリップを握り締めている。そのとき別の声が聞こえた。

「新川さん、待って」

物陰からもう一人の朝比奈さんが出てきた。俺の朝比奈さんと寸分違わず、まったく年を取っていなかった。朝比奈さん、あなたいったいどの時代から来たんですか。

「朝比奈さん、やっと会えました」

「キョンくん、お久しぶり」

まぎらわしいのでこの人は朝比奈さん(特大)と呼ぶことにしようか。いや、あらゆるサイズは同じなんだが。特大のほうはOLっぽい服装ではなく、くすんだ緑色のよれよれの軍服っぽいものを着ていた。脇に銃のホルスターらしきものを下げている。

「朝比奈さんってサバイバルゲームやるんですか」

「うふふ、ゲームでも訓練でもないわ。わたしはこれでも少佐なのよ」

なるほど。今後は朝比奈少佐と呼ぶことにしよう。

 少佐のほうの朝比奈さんが俺の朝比奈さんに聞いた。

「あなたはどの時代から来たの?」

「時代というより別の時間線から来たの。わたしの時間平面にはこの歴史はないわ」

「そんな、時間って一直線じゃなかったの?」

「それが涼宮さんの時間移動技術のせいで分岐がはじまったらしいのよ」

「なんてこと……」

「お二人とも、ここでは敵に見つかるかもしれません。ともかく中へ」

新川さんが割って入った。俺たちは瓦礫がれきの山をしばらく進んで、どうも見覚えのある場所に立った。かつてなにかの和風建築だったらしいもののなかに入り、急な階段を降りていった。降りてゆく途中、ところどころに電球が下がっていたが呼吸するように明るくなったり暗くなったりしていた。階段の底のほうから湿った冷たい空気が流れてくる。しばらくして最下層らしい場所にたどり着いたが、そこからもまだ暗くて長い通路が続いていた。壁はいちおうセメントが貼ってあるらしかったが今にも崩れそうだ。足元をちょろちょろと水が流れている。ときどきネズミみたいな黒い陰が小走りに逃げていく。

 俺は朝比奈少佐に小声で聞いた。

「どこに続いてるんですかこの道は」

「この先にわたしたちの居住区があるわ。ここは元々は第二次大戦より前に掘られたもので、それを拡張したらしいの」

そんな隠し施設があったとは、もしかして旧日本軍の地下基地とかじゃ。

 ドアを開けると目を刺すような光に照らされた部屋があった。俺は手をかざして部屋の様子をうかがった。そこは古い造りらしく、壁には白い漆喰しっくいが塗ってあり、低い天井から裸電球が下がっていた。やっぱり旧日本軍の秘密施設ってのが似合って気がする

 アサルトライフルを持った数名が俺の顔を見るなり銃を構えた。ここじゃ俺ってそんなに悪者だったのか。

「みんな落ち着いて、この人は彼本人じゃないの」

朝比奈少佐に銃を下ろすように言われても、なかなか信じようとはしなかった。俺は身体検査を受けてやっと信用されたようだが、長門はそうはいかなかった。

 長門が口を開こうとすると銃口が長門を取り囲んだ。こいつらはやたらビクビクしている。そりゃそうだろう、長門にはどんな武器も通用しないだろうからな。というより、ここまで神経質になるのは長門の実力を少しでも垣間かいま見たことがあるからか。

「少佐、そいつは信用できません」

振り向くと、そこにいたのは森さんだった。

「森さんじゃないですか。お久しぶりです」

森さんは俺の目を見ようとはせず、フンと顔を背けた。その態度はあんまりだなぁ、俺あなたのファンだったのに。国木田がいたら悲しみますよ。

「世界を壊滅させたのはそいつだという話を聞いていますから」

「それはただの噂だ。銃を下ろせ」

朝比奈少佐が命令口調で言ったが森さんは応じようとはしなかった。どうやら階級は朝比奈さんより下らしい。

「できません」

「しょうがないわね。大佐を呼んで、過去から友達が見えた、と」

「分かりました」


 大佐とやらがなかなか現れないので俺は朝比奈少佐に尋ねた。

「朝比奈さん、どうなってるんです?」

「ごめんね、ここは機関の本部なの。神経質なのはそのせい」

「この時代の機関ってなにしてるんですか。レジスタンスとか聞きましたが」

「政府軍と戦ってるの。聞いてないかしら?涼宮さんを含む勢力と戦っているって」

「ええ、チラとは聞いてますが。この時代の俺ってなにしてるんですか」

「敵の本拠地にいるわ。軍の研究施設にいるはず」

「なんの研究施設ですか。バイオ兵器ですかロボットですか」

「時間移動技術を軍事利用する研究をしてるのよ」

それでこの待遇たいぐうだったわけだ。この時代の俺は敵も敵、参謀さんぼう本部くらいのところにいるじゃないか。

「実は俺たち、」

森さん一味に襲撃されたんです、と言おうとしたら長門に止められた。

「……それはまだ未来の情報。言わないほうがいい」

そうか。ということはこれから襲撃に行くということか。どうも時系列が混乱しているようだ。

「大佐がお見えです」

森さんがそう言ったが、誰も構えた銃を下ろそうとはしなかった。軍隊式の敬礼がないのはレジスタンスだからか。


 大佐と呼ばれた小柄なやつが歩いてきた。昔米軍が砂漠で着てたグレーの迷彩っぽい軍服を着て、帽子を目深まぶかに被っている。帽子のひさしをひょいと上げた。

「あれれ、キョンくんと長門っちじゃないか。これまたお若いっ。そっちにいるのはみちるちゃんかいっ」

俺にとってはこないだ会ったばかりだが、なつかしの鶴屋さんがそこにいた。重たいブーツを履いた将校の野戦服やせんふくスタイルだが、長い髪をサラリと背中に垂らしてチャームポイントの八重歯も変わらずにいる。あれから十年は経っているはずだが、この人は年を取らない顔だよな。

「あれ、鶴屋さん。じゃあこの上にあったのはもしかして元鶴屋さんちですか」

「えへへっ。戦争でぶっこわれちゃってね。あの入り口はうちにあった倉さ」

「そうだったんですか。それはそうと、会社の件ではいろいろとお世話になりました」

「固いことは抜き抜き。ふーむ、それにしても元気そうだねぇ」

鶴屋さんは俺と長門をジロジロと見た。

「あたしはてっきりキョンくんはハルにゃんとくっつくのかと思っていたよ」

またまたご冗談を。若かりし頃、未来人か宇宙人かどっちか決めろって言ったのはほかならぬ鶴屋さんですよ。

「あはっ、そんなこと言ったっけね。長門っちもシアワセそうであたしゃ嬉しいさ、いよっご両人」

「……」

長門は少しはにかんでいるのか、俺のそでを指二本でつかんだ。

「鶴屋さんはまだ独身なんですか」

「こんなご時世じせいじゃねえ、とてもお付き合いなんて無理さあ」

「時間移動技術のせいでいろいろあったと聞いてます。内戦とか核戦争とか」

「タイムマシンに投資したのは、うっとこのグループだからね。あたしにも責任はあるのさ」

「今は地下活動ですか」

「まあ簡単にいうと政府と結託したハルにゃんと戦ってるってわけさね。まっ、立ち話もなんだから入った入った」

鶴屋さんに背中を押されて通路を進んだ。壁にはあちこちひびが入っていまにも崩れそうな具合だ。通路は迷路のように入り組んでいた。突き当たりのドアを開けると、こぎれいな和室があった。いつぞやお邪魔した鶴屋邸の離れに似ている。

「秘密基地に畳ですか」

「わははっ、これだけはゆずれなくてね。死ぬときは畳の上って決めてるんさ」

なんだか急に年寄りくさいことを言い出す鶴屋さんは、案外本気なのかもしれないと思った。

 畳の上に正座して待っていると、朝比奈少佐がお茶を運んできた。緑茶のいい匂いが漂う。

「みんな、味わって飲むんだよ。みくるの入れるお茶なんて、滅多に飲めないからさ」

戦争のせいで緑茶はもう贅沢品になってしまったらしい。なんてことだ。


「あれからなにがあったのか、かいつまんで話すよ」


── 鶴屋さんと朝比奈少佐の話をまとめると、次のようになる。


 ハルヒがタイムマシンのプロトタイプを開発し、それを鶴屋さんが親に教えた。親父さんが実験を見に来てこれは世紀の発明だと方々に宣伝してまわった。親父さんには政治家のつてもあって、政府のお役人が見に来た。

 最初は、これは科学の発展に大いに貢献する技術だから、助成じょせい金を出そうという誘いだった。文部科学省、総務省、防衛省、あと得体の知れない連中がそろってやってきた。ハルヒは得意満面な笑顔で承諾した。ところがすでにこのとき、裏では技術を掌握しょうあくするための陰謀が動いていたのである。


 助成じょせい金をもらっている手前、研究結果は逐一ちくいち報告しなければならない。防衛省が噛んでいる手前、守秘義務しゅひぎむという猿ぐつわをかまされることになった。話を聞きつけて海外から諜報ちょうほう組織が紛れ込むようになった。政府はこの技術を使って国際的に優位な地位を獲得かくとくしようとたくらんだ。そこで研究施設の本拠地を防衛省特務機関に移す話が出て、鶴屋さんと親父さんは反対した。

 それから政界からの鶴屋グループへの圧力がはじまった。取引先が撤退し、銀行から融資を断られ、グループの役員が法人税の脱税やらインサイダー取引やら曖昧あいまいな罪状でしょっぴかれた。親父さんは失踪しっそう、一族は離散し、残ったのは一人娘だけとなった。


 鶴屋グループの傘下で、世間に知られていない組織がひとつだけ残っていた。機関である。身寄りを失った鶴屋さんを見かねて、機関が助け舟を出した。そして名前を変え、素性を隠した鶴屋さんは世間から消えた。


 やがて日本は、歴史を書き換えられることを危惧きぐした隣国から攻撃を受け、NATOや日米安保条約を巻き込んだ戦争に発展した。政府主導の元で研究を続けていたハルヒ達は、戦時宣言のもとに軍組織に取り込まれた。


 長引く戦争で国の経済がおとろえた頃、それまで鳴りを潜めていた機関が活動を再開した。目的はハルヒの時間移動技術の破壊だった。

 朝比奈少佐は時間の流れを元に戻すために未来からこの時代に訪れたが、既定事項が崩れたためにTPDDを失って未来には帰れなくなった。機関の協力を得てSTC理論とTPDDをこの時代で作ることにした。その中心人物であるハカセくんは今、スイスの研究施設に避難している。


「、というわけなのさ」

「古泉は今どうしてるんです?」

「古泉くんは涼宮さんと一緒にいるわ。一度、なにか約束したらしいの。SOS団の味方をするって」

あれか、雪山の洋館での約束があだになったのか。あるいは自らハルヒの味方をすることを選んだか。あいつはあれで人情に動かされるところがあるからな。

「ハカセくんとみくるの時間移動技術が完成すれば先手を打てるんだけど、長門っちが向こうにいるかぎりなかなか手が出せなくてね」

そりゃそうだろう。こいつだけは敵に回したくない。

「この長門っちが加勢してくれると随分と助かるんだけどねえ」

鶴屋さんはすがるような目を長門に向けた。

「……できることはしたい。でも、状況を見定めたい」

「うんうん、そうだよねっ。無理強いはしないさ、なんせあたしたちは自由の戦士だかんね」

一族企業おつぶしになっても、財産を失って帰る家がなくなっても鶴屋さんは強かった。大正デモクラシーにこんな人が生まれていたら、もしかしたら日本はいい方向に変わっていたかもしれない。

「鶴屋さん、俺ハルヒと話してみようと思うんです。あいつが私利私欲のためにこんなことをはじめたとは思えないし」

「それもそうだね。それが公正な判断ってもんだね」

「それにこの時代の俺がなにを考えているのか、不可解なところもあるんで」

「今のキョンくんとは会ったよ。彼には彼の考えがあるみたいで、どうもあたしとはソリが合わないんだけどね」

「三十億人も死んだってのに、俺はなに考えてんでしょうねまったく」

「今じゃもう、なにが正しいのかもわかんないさ。ともかく会ってみるといいよ」


 俺は長門と朝比奈さんを置いていくことにした。こういう事態だ、二人にもしものことがあっては困る。それにこっちの長門を連れて行くと向こうも過剰かじょうに反応するだろう。

「長門、こっちの人たちを助けてやってくれ」

「……分かった」

「キョンくん、必ず帰ってきてね」

二人の朝比奈さんが涙ぐんでいた。大丈夫ですよ。俺は滅多なことじゃ死にませんから。

 隠れ家の出口まで鶴屋さんが送ってくれた。

「キョンくん」

「なんでしょう」

「世界がこんなになったのは、たぶんみんなが悪いんだよ。キョンくんやハルにゃんだけじゃない。このままいけばどうなるかって分かっていたのに、誰も止めなかったからさ。あたしもね」

はじめて見る鶴屋さんの悲しそうな顔だった。これからよくなりますよ、とも、俺がなんとかしますよ、とも、俺には答えようがなかった。自分たちがやったことに、みんながツケを払っている。そう思えてならなかった。


 鶴屋さんに教えられた方角をひたすら歩いた。道と呼べるものはなく、人が歩いた形跡のあるところを探しながらたどった。たまに途切れて道を見失い、顔を上げると延々瓦礫がれきの山が続いていた。

 このあたりは確か東中があったはずだ。グラウンドもフェンスも跡形すらない。瓦礫がれきの間に草が生えているところがあるのは、もしかしたらグラウンドの名残の空き地か。折れた電柱らしきものをたどって、俺は北を目指した。道らしいものは線路の跡地だろうか。もちろんレールはないが、枕木とバラストの石が無数に散らばっている。

 歩いてゆくと道は途絶えた。たぶんここが光陽園こうようえん駅にちがいない。見上げると山だけは残っていた。緑はなく、土がき出しで茶色に禿げた丘になっていた。


 道が終わったところにある瓦礫がれきの山の上から見回すと、離れたところに少しだけ広くなった場所があった。そこに長門は座っていた。忘れることがあろうか。高校一年の五月に長門に呼び出されたのがこのベンチ。朝比奈さんとタイムトラベルをしてハルヒの校庭落書きを手伝うことになったのもこのベンチ。戦災で町が再起不能になるまで荒廃したありさまで、この長椅子だけが残ったのはなぜだろうか。

「よう、待たせたな」

「……」

「このベンチ、残ってたんだな。お前が保全してたのか」

「……そう」

言葉が継げない。いつもの俺なら二人の会話はそれなりに続いて、長門から感情を引き出すのにそれほど苦労はしないんだが。この長門は未来の長門であって、今俺といる長門ではない、そんな感情移入をはばむなにかが俺の中にあった。

「長門、教えてくれ。観察するだけで干渉しなかったってのは本当は嘘だろ」

「……そう」

長門は俺の目を見ず、コクリとうなずいた。俺は長門の答えを待っていた。ほこりにまみれた風が二人の前を吹きぬけた。

「……あなたを、失いたくなかった」

長門はおずおずと自分の手を俺の左手の上に重ねた。俺はその手を取って長門を抱きすくめた。ベンチの上でやや腰をひねり気味にしながら、長門は俺の耳元で小さな溜息をついた。

「……」

「お前らしくない」

自分を見失うなんてこいつにはあってはいけない。こいつは俺たちが道を踏み外さないかといつも後ろで見守ってくれている存在のはずなんだ。

「この時代の俺とはうまくいってないのか」

「……微妙びみょう

こういう時代だから、仲むずまじく暮らすってのは無理があるかもしれんな。


 しばらくして長門は手をほどいた。長門が立ち上がると俺もそうした。

「……こっち」

長門はどこか瓦礫がれきの山の向こうを指した。そう、俺はハルヒに会いに来たんだ。

 長門は元公園だった敷地を出て、坂道を登り始めた。道と呼べるものはなく暗くて分かりづらかったが、長門のマンションの残骸ざんがいらしきものがあった。もう、あの長門空間は存在しないのか。

 元玄関だった石の塊を乗り越えて、ストーンヘンジの片割れのような石がひとつだけポツンと立っているのが見えた。二人はその前に立った。長門が石の表面に触れると、石のまんなかがスゥと消え小さな空間が生まれた。

「……入って」

「これ、もしかして昔のエレベータか」

「……そう」

こんな石と化したエレベータでなにをするつもりなんだろうといぶかしんだが、ガクンと音がして箱が降りていくのを感じた。もしかしてこのマンション、地下があるのか。軍の施設にしちゃ、えらく地味な入り口だな。衛兵もいない。

「……ここは秘密の通路。わたし以外通れない」

 三十秒ほどしてドアが開くと、そこから長い廊下が続いていた。固く冷たい灰色の壁に緑色の床が長く伸びている。歩いていくとところどころで監視カメラににらまれた。

「かなり深いのか」

「……地下二百メートル」

「奥にはなにがあるんだ?」

長門は金属製のドアの前で立ち止まり、なにかを言い淀み、それを開けた。

 長門が見せた空間はドーム球場くらいはありそうな大規模な研究施設だった。政府機関だけあってかなりの額をつぎ込んだと見える。高い天井から下がったいくつもの水銀灯、何台ものパソコンと大型モニタ、白衣を来た大勢のスタッフ、ライフルを抱えた何人もの衛兵、車輪がない車のようなものは移動装置か。厚いガラスで仕切られた向こうの部屋に見えるカーブしたパイプは加速器の一部か。


 キャットウォークを通ると、ところどころにいる衛兵が直立不動の気をつけをして敬礼した。長門の階級はけっこう上らしい。俺はそれを見て感心しつつ長門の後ろをついていったが、どうやらこいつらは俺にも敬礼しているらしいのである。

 パイプがいくつも並んだ、ボイラー室か発電施設みたいな場所を抜け、さらに銃器やロボット兵器のようなものが並んだ倉庫を抜け、将校だけが使う豪華なラウンジのような場所に着いた。そこには俺がいた。ハルヒもいた。三十歳は越えてるはずだが、見た目はたいして変わりなかった。

「お前か、じゃなくて俺か」

マヌケなことを言ってしまった。ハルヒはその辺にいた軍服のやつらにあごをしゃくって外に出ろという仕草をした。すげー偉そうじゃん。こいつも海軍っぽい軍シャツを着ている。事務屋の制服ってやつだろう。肩の階級章には横線二本と星が三個ついていた。その隣にいた俺は横線二本に星が一個、ここでもやっぱ平だな。

「来るなら連絡くらい入れろよな。俺が二人もいたら騒動になる」

どうやってだ携帯でかよと突っ込みを入れるのを忘れるほど、俺は圧倒されていた。予想外の展開にだ。俺が軍将校に?ハルヒも?いつだったか海軍将校一種軍服でコスプレさせられたときより衝撃を受けた。

「キョン、やっぱ若いわね」

ハルヒが笑っていたが、なぜかやたらむかついた。いつものスーツじゃなくて軍服だからか。

「教えてもらおう」

俺は精一杯の虚勢きょせいを張ってすごんだ、つもりだった。

「まあそうしゃっちょこばるなよ。一杯飲め」

缶ビールを渡され、椅子を勧められたが俺は座らなかった。

「ああ、これのせいか」

俺(大)はシャツの階級章にチラと触れた。

「軍ってのは一種の生活共同体みたいなもんだ。外から見りゃ殺人集団みたいなもんかもしれんが、中に入れば居心地はいいもんさ。ここで結婚式もやってくれるし産婦人科の病院もあるし、死ねば葬式だってやってくれる」

「だからなんだ」

「俺は格好こそ兵隊だが、鉄砲なんざ撃ったことは一度もないってこった」

「じゃあそのホルスターに突っ込んであるのは水鉄砲か」

「本物に決まってるだろ。お前はなにをカッカしてんだ?」

「そうよキョン、じゃなくて若いキョン、ここにいれば食べるのも住むのも困ることはないわ。好きなこともやれるしね」

そうじゃねえだろ、俺たちの会社はそんなことのために作ったわけじゃねえだろ、と言いたかったのだが、言葉にならずにこぶしを握り締めるばかりだった。

「お前ら、外がどうなってるか知ってるよな」

「知ってるわ。タイムマシンがきっかけだったってことも知ってるわ」

「お前ならどんな願望でも実現できたのに、なんでよりにもよってこんな政府のお乳にすがって生きるようなマネをしちまったんだ」

「仕方ないでしょ。時代の流れに飲み込まれないで生きていくためにはしょうがなかったのよ。鶴屋グループがどうなったか知らないの?」

「それは聞いたが、しかしだな」

やり場のない怒りにかられてスチールのテーブルをドンと叩いた。俺(大)が俺を抑えた。

「まあそう怒るな。もし政府と手を組まなかったら俺たちは今ごろ消されてる」

「長門と古泉がいりゃなんとかなったはずだろ」

「あの頃の俺たちは無力な零細れいさい企業にすぎん。なあ、小さなノミが自分よりでかいバケモンに飲み込まれようとしたとしたら、どうすると思う」

「なに言ってんだお前は」

「背中に乗って毛に隠れて生き延びるしかない」

「それが三十億を殺したやつが言うことなのか」

「俺たちが殺したわけじゃない。時間移動技術はいずれは誰かが完成させた。たまたま俺たちが完成させただけで、最初からこんな展開になるとは思っていなかったさ。車だってそうだろ。家族で休日を過ごすシアワセのワンボックスカーも、軍用になって大砲を積めば人を殺す道具さ」

「バカだろお前。外で人がバタバタ死んでるってのになんだよこれは。のんびりビールなんか飲んで地下でご隠居いんきょ生活か」

俺は缶ビールを投げつけた。やつはけて、缶は壁にあたって転がっていった。

「お前は過去から見てるからそう思うだけだ。時間が経てば同じように考えるさ」

俺ってやつはいつのまにこんなバカになっちまったんだ。俺にはこいつがハルヒの能力を使って野心をかなえたとしか思えん。これでは長門が不憫ふびんすぎる。

 俺はふつふつとたぎる怒りを抑えて真顔に戻した。

「ちょっと二人だけで話したいことがあるんだが」

「なんだ?」

「外で話そう」

俺は親指で廊下のドアを示した。後ろからついてくることを背中で感じて俺は先に出た。廊下には俺たち以外はいない。俺はドアをロックした。

「話ってハルヒのことか」

俺たちにはいくつもの秘密があって、こういう内緒話はたいていハルヒの能力に関わることだが、別にそういう話をしたいわけではない。俺はいきなり腹にボディブロウをかました。腹をおさえてうんうんうなっている俺(大)を尻目にセキュリティカードを取り上げドアを開けた。あいかわらず人を信じやすい性質たちだ。

 俺は部屋に戻るなりハルヒに向かって叫んだ。

「ハルヒ、お前に言ってなかったことがある!」

「な、なによいきなり」

「実は俺はジョ……」

さっと影が動き、長門の冷たい手が俺の口を塞いだ。

「……それを言ってはだめ」

「な、長門」

「……おねがい、言わないで」

長門の目はうるんでいた。俺には分かっていた。これを言えばすべてが終わる。前回とは規模も範囲も違う情報爆発が起こる。次元断層が生まれ俺たちは存在しなくなる。

「……その名前を言ってしまうと、わたしたちの関係は終わってしまう」


 俺は思った。これはもう長門の、情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいの手に負えない事態になってしまったんじゃないかと。ハルヒがはじめた時間移動技術は、たぶん世界中の誰もが欲しがるシロモノで、もちろん政府も軍もその中にいた。各国の思惑しわくが金と権力と政治を動かし、それからドロドロしたなにかが交錯こうさくして俺たちはその渦に巻き込まれてもがいた。海流が逆巻く渦に飲み込まれた小さなボートは、沈まずに生きていくために大きな流れに乗るしかなかった。

 もしかしたら人類はこれを手にしてはいけなかったのかもしれない。過去は忘れ去られるべきだった、未来は夢の中で見るべきだった、と。

 ドアをドンドンと叩く音がした。まずいな。俺は拘束されるか、よくてぶん殴られるかだろう。衛兵がドアを開けると俺(大)が顔を真っ赤にして怒っていた。

「そいつをつまみだせ!」

自分に怒鳴られてもいっこうに動じないのは自分ってものを知っている余裕からか。

「ここは軍の施設だぞ。俺が命令すればお前は消されちまうんだぞ、分かってんのか」

「いいさ、こんな未来はクソくらえだ。俺が消されたらお前も道連れだからな」

ハッとしたようだった。まあ、時間の概念がよく分かってないのは相変わらずとみえる。

 俺(大)は殴りかかろうとするところをドウドウと抑えられ鼻息を荒くしていた。長門が見ている手前、手を出せないんだろう。そいつに冷ややかな視線を送りつけながら、俺は長門に連れられて、来た道を出口に向かった。こんな時代来るんじゃなかった。地球を破滅はめつさせやがって、どいつもこいつもアホだらけだ。谷口のほうがまだましだ。

「ここでいいよ」

俺は公園のベンチの前で別れを告げた。

「……そう。気をつけて」

「お前も元気でな」

「……あなたは、やるべきことをやって」

この長門には分かっていたのだ。俺が歴史を書き換えるためにここに来たことを。そして書き換えた結果、今の自分が消えてしまうことを。こんな不幸の影を背負った長門は見たくなかったが、だからといって消えてしまっていいわけじゃない。なぜだか長門の姿がぼんやりとしか見えない。

 俺はベンチを後にした。長門はいつまでもそこから動かず、去っていく俺をじっと見ていた。あの頃は楽しかった、そう言いたかったにちがいない。


 夜道、瓦礫がれきの山をいくつも超え、おぼろげながら道らしいものを辿たどった。月の光がなかったら迷っていただろう。俺の時代なら長門マンションから三十分もかからないはずなのだが、この瓦礫がれきを登っては降りてを繰り返して一時間以上かかった気がする。着ていた服も顔もホコリにまみれて、機関の基地にたどり着いたのは月がだいぶ傾いてからだった。

「……おかえり」

隠しドアの前に、俺の長門が待っていた。

「長門……」

その姿を見てほっとした俺の目から熱い液体がぽろぽろとこぼれ落ち、視界がぼんやりと見えなくなった。この時代の長門の身に起ったこと、そして俺がこれからやろうとしていることが頭の中をぐるぐる駆け巡る。俺は手探りで長門の肩を引き寄せ、力いっぱい抱きしめ、嗚咽おえつして泣いた。たぶん十年ぶりくらいに泣いた。


 水の出が悪い洗面台で顔をごしごしと洗いながら、軍施設でシャワーを借りればよかったなどという甘い考えを振り払った。長門からタオルを受け取った。つい数分前に長門の前でオイオイと泣いてしまったのを思い出して少し赤面した。

「長門、この歴史は変えないといかん。どうしてもな」

だが、俺がこれをやろうとしていることをこの時代の俺は知っているわけで、それを出し抜こうとしていることをまた知っているわけで、その上を行こうとしていることも、ああっ無駄にややこしい。ひさびさに言ったなこれ。

「長門、頼みがあるんだが」

「……なに」

「これが終わったら俺のここでの記憶を消してくれ。未来の俺に情報を残さないために」

「……分かった」

今回ばかりは仕方あるまい。未来の自分と戦うにはそれしか有利になる方法がない。


 俺は朝比奈さんと朝比奈少佐を呼んだ。おそらくはここが、森さん一味が俺たちの会社を襲撃する流れのスタート地点になるのだろう。

「朝比奈少佐。不本意ながらこの歴史を書き換えてほしいんです」

「ええ。それにはわたしも賛成ですけど、どうやったらできるのかしら」

「十年前に戻ってタイムマシンの開発を阻止そししてもらえませんか」

「キョンくんが戻って阻止そしするわけにはいかないの?」

「ええっと、実はこの組織のメンバーが阻止そしすることが既定事項なんです。俺たちが阻止そししてしまうと俺たちがこの時代に来る理由がなくなってしまうんで」

「でもわたしのTPDDはまだ戻らないし、ハカセくんのほうも進展がないし」

「俺たちの朝比奈さんがいます。TPDDをコピーするなりSTC理論を渡すなりできませんか」

「それは無理だと思うわ」

「なぜです?」

「TPDDってふつうの理論と違って、言葉で伝えられる技術じゃないのよ」

俺の朝比奈さんもうなずいた。どっちが話してるのか俺も混乱気味なのだが我慢してくれ。

「そうなの。この理論は論文とかテクノロジーだけじゃないの。言葉にはできない概念というべきか」

「……わたしが、手伝う」

二人が長門を見つめた。こいつならなんとかできるかもしれないな。今までずっとなんとかしてくれてきた。だがどうやって?

「……言語をともなわない概念の伝達は、一度試みた」

「ああ、それってもしかして、ルソーからシャミセンに生命体を移したときか」

「そう。あの情報生命素子じょうほうせいめいたいそしの構造はDNAなどの言語ではなく、概念に近いものだった」

あのとき巫女みこさんだった朝比奈さんは考え込んでいた。

「やってみる価値はあるわね」

「そうね」

「……セッティングをして」

「分かった。任せろ」


 俺は鶴屋さんを呼んだ。

「ほいほい、なんだいキョンくん?」

「朝比奈少佐にTPDDを復活させたいんです。手を貸してもらえませんか」

「へえええ、そんなことできるのかい?」

「長門の技術で俺たちの朝比奈さんから転送できそうなんです」

「おぉ!その手があったんだね、みちるちゃんも役に立つじゃないか。けへへっ」

どうも朝比奈みちるさんにこだわってるようだなこの人は。あのとき本当のことを教えなかったからスネてるのかな。

「じゃあみくるが時間移動できるようになるんだね。こっちの切り札になるね」

「残念なんですが、この歴史は書き換えないといけません」

「え……」

「ハルヒのタイムマシン開発をなかったことにしてほしいんです。詳しくは言えないんですが、機関の人にやってもらえないかと」

「そんなことしたら、そんなことしたら……この世界が消えちゃうんじゃないのかな」

鶴屋さんの声は消え入りそうだった。そう、この世界は消えなければいけない。俺のエゴだということは分かっている。腹が立ってこの時代の俺をぶん殴った俺だったが、三十億どころかこの世界の全員を消してしまうということで、もしかしたら俺のほうが背負えないくらいの罪を被ることになるのかもしれない。どんな状況にせよみんながそこで生きている。はじめから存在しなくてもよかった世界など、どこにもありはしないのだ。

「長門っちに頼んで今のハルにゃんの施設をぶっ壊してくれるだけじゃだめなのかい?」

「そうすると二人の長門が戦うことになります。前にも似たようなことがあって、それは避けたいんです」

「そうだったのかい……」

「鶴屋さんごめんなさい。歴史の根本から変えるしか方法がありません」

「そう……そうだよね。こんな世界、最初からなかったほうがいいのさ」

「ごめんなさい」

「まあまあ、そんなに卑屈ひくつになることはないさ。もしかしたら別の世界に存在してるかもしれないじゃないか」

存在とはなんなのか、時間とはなんなのか、俺にはとても説明できない。人間ごときの俺には、肯定こうていも否定もできなかった。


 和室の照明をぼんやりとした暖色系にしてもらい、座布団を三枚用意してもらった。ルソーのときはこういてもらったが、そんなものはとっくの昔に消滅している。せめて落ち着けるようにとお茶をててもらった。長門用に巫女みこさんのコスプレ衣装でもあればよかったのだろうが、当然そんなものは残っていない。

 二人の朝比奈さんは対面して座り、その横に長門が立った。長門は二人の両手を互いに握らせ、自分の手をそれぞれの頭の上に置いた。

「……目を、閉じて」

 二人は目を閉じた。長門はぶつぶつと、いつもより長い呪文を唱えた。長門の目はどこか遠く宙をさまよっていて、焦点が合っていない。STC理論を読んでいるのだろうか。

 十五分ほどして長門は手を離した。

「……終わった」

朝比奈少佐が目を閉じたまま右手をこめかみに当てていた。

「戻ったみたいですね。なんだか前とは違う感じがするけど」

「……いくつか修正をほどこした。十五パーセント程度の効率は上がったはず」

「ええっ、ほんとですか。ありがとうございます」

「よかったわねぇ」

朝比奈少佐と朝比奈さんは抱き合った。こうしてみると双子の姉妹みたいだな。


 俺は部屋の外にいた鶴屋さんを中に引き入れた。

「どうかなっ」

「戻ったわ。これでいつでも時間移動できるわ」

「よかったよかった。みちるちゃんも、長門っちもありがとうさ。さっそくだが、作戦を練らないとね」

 俺は鶴屋さんに頼んで特殊部隊を集めてもらった。森さんをチーフとする機関の工作部隊のメンバーを編成してくれるよう頼んだ。

「みんな、みくるにタイムマシンが戻ったようだから、時間をさかのぼってタイムマシンの破壊工作を実行するよ」

タイムマシンを使って別のタイムマシンを壊しに行くなんて、なにか間違っている気もするが。自分たちの存在が消えてしまうということを言っておいたほうがいいだろうか。と俺が心配してるのを、鶴屋さんはサラリと言ってのけた。

「これを決行したら、あたしたちだけじゃない、世界の歴史が変わってしまうからそのつもりでね」

全員が、覚悟の上だというようにうなずいた。レジスタンスというのはそういうものなのかもしれない。

「ハルヒが抵抗すると思うんですが、手加減してやってください」

新川さんはうなずいたが森さんはなにも言わなかった。俺はまた蹴られるんだろうな。


 黒装束くろしょうぞくに着替えた朝比奈少佐は俺に言った。

「キョンくん、いろいろありがとう。これでお別れになるかもしれないけど、わたしのことをよろしくね」

何も言えない。俺はこれ以上なにも言えなかった。ただ手を握り締めただけだった。

 部隊の面々は武器を構えたまま朝比奈少佐を取り囲んで、そのまま時間移動して消えた。新川さんの赤いバンダナだけがなぜか目に焼きついて残った。

 工作員を見送ったあと、俺たちも後を追うことにした。長門によればあのとき不可視遮音ふかししゃおんフィールドの中に俺たちがいたようだから。俺は鶴屋さんに別れを告げた。

「じゃあ鶴屋さん、俺たちは自分の時間に戻ります。いろいろとごめんなさい」

「いいってことさね。スゴロクが振り出しに戻ったと思えばいいのさ」

そう言ってくれる鶴屋さんの顔を、俺はまともに見ることはできなかった。俺の表情があんまり悲愴ひそうだったので、長門が心配したのだろう。俺の目をじっと見て言った。

「……心配しないで。彼らは死ぬわけではない」

「でも世界は消えてしまうわけだよな」

「……分岐する時間線とは、物理世界のコピーが生まれるということではない。多次元的な要素の積み重ねがその後の流れを作るだけ」

一次元の時間軸しか考えられない俺にはよく分からん。

「じゃあさかのぼって歴史を改変したらどうなるんだ?」

「……この歴史のいくつかの要素が消え、元の流れに戻るだけ。異なる要素でも同じ空間に存在できる」

「じゃあ全員が消えるわけではないのか」

「……そう。元の流れに生きている、と考えられる」

どうやら時間論は一生かかっても俺の手に負える問題じゃなさそうだ。

「じゃあそろそろ」

「あそうそう、キョンくんにずっと渡そうと思ってたんだけど」

「なんでしょうか」

「うっとこに江戸時代から伝わる手紙らしいんだけどね。これ、どうもキョンくん宛てじゃないかと思うんだよ」

俺は茶色くすすけた巻物っぽいものを受け取った。

「よく分かんないんだけどさ。倉の中にこれだけが焼け残っててね」

「これラテン語かなんかですか」

ボロボロになった布らしきものを開いてみるが、虫に食われたりかすれたりしてほとんど読めない。かすかにSOSという文字と俺の名前だけは分かった。よくは分からんが受け取っておこう。

「戻ります。鶴屋さん、いろいろありがとう」

「みちるも元気でやんなよっ」

鶴屋さんが笑って軽く敬礼する姿が哀愁あいしゅうっぽく見えた。

 俺と長門は朝比奈さんと手を繋いだ。風景がぐるぐると回転し始め、足元に吸い込まれていく。


 俺たちはちょうど森さん一味が転がり込んできたところに出現したらしい。銃を構えた一団が俺たちを縛り上げていた。長門の不可視遮音ふかししゃおんフィールドで姿をくらまし、部屋の隅で様子を伺っていた。自分が蹴られるのを見るのはこっちも痛い。

「なるほど。ってちょっと待て、あんたらに正しい歴史の記憶がるのはなんでだ?」

「わたしが歴史を修復したからよ」

ってこのタイミングには朝比奈さんが三人いることに?壮観そうかんだなオイ。

「自分たちがやったことをつぐなうがいい」

森さんがすごんだ。ええ。これがつぐないになるかどうかは分かりません。正しかったかどうかもわかりませんが、俺がやれることをやったつもりです。

 時間移動技術が消え、一味もかき消すように消えたあと、スプリンクラーが作動した。濡れネズミなったみんなを見届けてから、三人はまた時間移動した。


 俺たちは出発地点の時間に戻ってきた。さっきと同じ喫茶店のシートに座っていた。コーヒーはまだ冷めていなかった。

「職場に戻りましょう。データが残ってるから、もしかしたら別の森さんの一味が現れるかもしれないわ」

 古泉にハルヒを連れ出せと言い残しておいたので、実験室のドアはロックされていた。自分のIDカードで中に入った。長門が修復して部屋を出たときと何も変わってない。

「どの次点まで戻せばいいんだ?すべて破壊するのか」

「……宇宙ひも理論の実験データを消去、わたしたち以外の記憶を消す」

「じゃあやってくれ」

長門が詠唱し、加速器をはじめとする実験機材、すべての論文、パソコンの中のデータ類、実験データが音もなく静かに消え去った。

「朝比奈さん、これでよかったんですよね」

「ええ。そうだと思うわ」

「あいつら、ちゃんと生きてますよね」

「たぶんね。ここからはじまる新しい世界に生きてるわ」

朝比奈さんが耳に手をあてていた。

「TPDDが消えちゃったみたい」

「まさかそんな」

「……時間移動理論が白紙に戻り、既定事項が消滅した」

「そう……もうわたしは存在できない……みたい」

朝比奈さんの声は段々と小さくなっていった。

「キョンくん、ごめん……ね……」

「朝比奈さん待って!」

俺は朝比奈さんの名前を叫んだ。謝るように両手を合わせた朝比奈さんの姿がだんだんと透けていく。その姿が消えてしまうまでの数秒間、映像が超スローモーションで流れたように見えた。金色のブレスレットだけが床に落ちてくるくると回った。

 出会ってから七年にもなろうかという朝比奈さんと過ごしたこの時間が、その事実すらなかったことに変わり果て、俺は呆然ぼうぜんとしていた。消えてからもその空間をじっと見つめていた長門の目はうるんでいた。俺と長門はどちらからともなく手を握り合い、数秒前までそこにいた、可憐かれんな女性の名残を必死に記憶に刻もうとしていた。


「キョンどこでさぼってたのよ。どうしたの青い顔して」

「朝比奈さんが消えた……」

「朝比奈?誰それ」


 暗転。

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