【仮説二】

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Illustration:どこここ


「みんな、十一時からミーティングよ。タイムマシンについてハカセくんから重大な発表があるわ」

「その議題、だいぶ前にやんなかったっけ?」

「なに言ってるの、これが初めてよ」

え、そうだっけ?俺はカレンダーを見た。そういえばまだ会社作ったばかりだな。この歳で健忘けんぼう症か。


「第一回、時間移動技術会議ぃ。拍手~」

色物バリでハルヒがパフパフでんでん太鼓を叩き、古泉と朝比奈さんがやたらパチパチと拍手している。俺は社交辞令しゃこうじれい程度に叩いておいた。

「改めて紹介するわ。我が社の期待の新人、ハカセくんよ」

「どうも、よろしくお願いします」

「ハカセくんと有希にはタイムマシンを担当してもらうわ」

長門は大学院のほうもあって、さらに開発部の面倒も見ないといけないだろうにご苦労なことだ。

「長門さんのご指導で予習をしてきました。現在の物理学で実現できそうな時間移動をご紹介しようと思います」

「待ってました、いよっ大統領」

どうでもいいチャチャ入れんな。

「数年前、コネチカット大学のロナルドマレット教授が提唱したタイムトラベルの理論ですが、」

そんな物好きな先生がいたのか。奇矯ききょうさでいえばハルヒといい勝負だな。

「変な比べ方しないでよ。あたしはまじめなんだから」

論理的裏付けから言って教授とやらのほうがずっとまじめだと思うぞ。

「ええと、図で説明します。下にある黄色い輪はビームのリングです。ビームを高速で回すと弱い重力が発生します。リングは光子こうしクリスタルと呼ばれる特殊な加速器らしいです。黄色い網目がその重力場じゅうりょくばです」

ハカセくんはホワイトボードに貼り付けてあるイラストの、円筒部分を指した。

「教授の理論によると、この重力場のまわりではリングの回転方向に沿って時空がひずんでいる、つまり時間がループしているらしいです。物体がリングの内側に入って、出てくると過去に到着します」

「その重力場じゅうりょくばは、ブラックホールみたいなものと考えてよろしいんでしょうか」古泉が質問した。

「擬似的なブラックホール、といった感じですね」

「そのビームのリングとやらは作れそうなのか?」

「教授の実験では成功しているようです」

「人間が入っても大丈夫なんだろうか」

「まず小さな物質、たとえば電子などで試してみようと思います。それから少しずつ質量のあるものを試してゆきます」

「それで、実現できそうなの?」

「この理論は数年前から実験されていて、今も研究が続いているはずです。微弱びじゃくながら重力を作るのは可能なので着手も早かったようです」

すでに実証されていると聞いてハルヒの表情が途端とたんに輝きを増した。

「じゃあすぐにでもやれるわけね」

「ええ。加速器さえあれば」

「いくらすんのそれ」

おい、社長がまた突拍子もないことを言い出したぞ。

「値段は詳しくは知りませんが、国の専門の研究施設とか大きな病院なんかにあるそうです」

「うーん。なんとか手に入らないかしらね、中古でもいいのに」

粒子加速器の中古品が出回ってたりしたら一家に一台電子レンジ並みの普及率だぞ。


 翌朝、職場のビルの前に大型のトラックが止まっていた。数人の作業員が木枠で厳重に梱包こんぽうされた、やたらでかい工業機械らしきものを運んでいた。ま、まさか。

「ハルヒ、もしかして下に来てるトラックはうちの荷物か」

「そうよ。昨日粒子加速器がネットオークションに出てたから速攻で落札したのよ。時価の半額だからお買い得だったわ」

なんてこった。粒子加速器がオクに出るようになっちまったのか。しかも時価の半額って、寿司屋のネタみたいに定価があってないようなもんだろ。こんなことができるのは古泉の機関か長門しかいない。俺は長門をチラと見たが、我らが副社長はあわてて目をそらした。やっぱりこいつの仕業か。

「あんなでかいもんどこに置くんだ」

「空いてた二階のフロア借りたわ」

「え、下の住民引っ越したのか」

「今朝引っ越したみたいよ」

夜逃げにしちゃ唐突とうとつすぎねえか。不動産関係は古泉だな。俺は古泉をチラと見たが肩をすくめるばかりだった。やっぱりこいつの仕業か。


 それから一週間くらい、地下鉄でも掘ってるのかと思うような工事の音が床下から響いてまったく仕事にならなかった。三階に住んでいる部長氏以下五名は頭を抱えていることだろう。

 部長氏がドアを開けた。

「あのさ、下ってなにやってんの?でっかい核融合炉かくゆうごうろみたいな機械を運び込んでるけど、SOS団のロゴが入ってたよ」

「さ、さあなんでしょうねえ。きっとハルヒが自転車で自家発電でもするんじゃないでしょうかね」

俺はまゆをハの字にしながら笑ってごまかした。ここで企業秘密を明かしてしまっては新聞ネタになりかねん。同じ職場の仲間に嘘をつくのは気がひけるが、敵をあざむくならまず味方からだ。おかげで夜しか仕事にならず、残業代がうなぎの滝登り状態で人件費が高騰こうとう中だ。

 長門は分厚い取扱説明書らしきものを読んでいた。英語ではなさそうだ。ラベルを見るとMade in Dutchと書いてある。ドイツ製かこれ。

「そういや粒子加速器って放射線技師かなんかの免許がいるらしいぜ。勝手に動かして大丈夫か」

「……問題ない。情報操作は得意」

まあ長門にかかれば資格があろうがなかろうが問題ないだろうけどな。長門いわく、これはハカセくんのための教材なのらしい。長門にしてみればブラックホールを作る程度なら機械なんかいらないということだが、そういやいつだったか、飛んでる素粒子そりゅうしを手づかみしてたな。

「興味深いことに、粒子加速器のスイッチを入れる資格とスイッチを切る資格は別らしいですね。長門さんはどちらもお持ちのようですが」

全員がへええとうなった。そんなところでマメ知識を披露ひろうせんでもいい。

「……通電テストに入る」

「あ、有希待って待って。そういうときはまずおはらいしないといけないわ」

その言葉を聞いて朝比奈さんはぞくっと背中をふるわせた。

「わたしはイヤです!」

「そう言うと思って、ちゃんと用意してきたわよ」

「な、なんで俺を見るんだ」

「キョン、これ着ておはらいしなさい。やんないと減俸げんぽうよ」

なんてひどい社長だ。ハルヒが取り出したのは平安貴族が着そうな束帯そくたいだった。藤原のなんとかとか、源のなんとかが着てそうな、太っててもOKフリーサイズっぽいあれだ。おはらいっていうか地鎮祭じちんさいだよな。

「俺おはらいの呪文とか知らないぞ」

「呪文じゃなくて祝詞のりとよ。ほら、ちゃんとメモ用意しといたわ」

「か、かきくえば~」

「ぜんぜん違うじゃないの。ちゃんと玉ぐしをしゃんしゃんと振って、こう!」

「お前がやったほうが早いんじゃないのか」

「なに言ってんの、コスプレは見て楽しむのがいいのよ」

まあ気持ちは分かるが。コスプレイヤーには自らやってこそ楽しめるって考え方もあるようだぞ。

「こ、こうでいいのか。た、たかまのはらにぃかむづまります~」

俺は書かれているノリトとやらの意味も分からないまま、社長命令とあってはしかたないので読み始めた。ラップの歌詞を棒読みしてるような気分だ。古泉と朝比奈さんが笑いをこらえきれないでプルプルしている。ほんとは巫女みこさんがやるべきなのに。お前まで笑うこたないだろ、ハルヒ。

 読み終えたところで雷でも鳴れば効果絶大だったのだろうが、古い蛍光灯がときおりチラついているだけだった。

「……で、電源投入、ッ」

お笑いのセンスを理解するようになったのはいいんだがな長門、その今まで我慢してましたって笑い方はなんだ。


 フロアのほとんどを占めるでかいドーナツ型の機械に、俺たちは部屋の隅に追いやられて小さくなっていた。制御装置が並び、壁には液晶モニタがずらりと貼り付けてある。長門は椅子に座ってモニタの数値をじっと見ていた。

 長門の指示でハカセくんが操作パネルをいじった。

「冷却部、稼動します」

「……確認した。温度の安定を待つ」

モニタ上の緑のカウンタがぐんぐん下がっていく。な、なんだか寒気がしてきたぞ。ドーナツのほうを見ると冷凍庫の内壁にへばりついているような霜が張りつき、冷気が漂っている。人数分の防寒服を用意したほうがいいな。

 カウンタがマイナス二百度を指し、まだまだ足りない様子でどんどん数字を下げ、マイナス二百七十度付近でゆるやかに止まった。

「長門さん、マイナス二百七十三度に達しました」

「……分かった。磁性体コア、稼動開始」

ドーナツを下から支えている箱の部分がいくつもあるが、それが磁性体コアらしい。IHクッキングヒーターより強い電磁石が入っていて、スチール缶なんか持って近寄ると勢いよく吸い寄せられてへこんでしまうくらいの磁力らしい。

 長門以外のみんながガタガタ震えている。

「な、長門、寒いから外にいるわ」

このコスプレ、隙間が多すぎる。平安貴族はさぞかし寒い冬を過ごしていたことだろう。

「……分かった。数時間、維持する」

 俺のおはらいが効いたのか、通電テストはなにごともなく終わった。あの分だと実験中にハカセくんが冷凍マグロ化してしまうので、制御装置がある一角を仕切って断熱材入りの壁を貼り暖房器具も入れさせることにした。

 電子を打ち出すという棺桶かんおけのような長い箱も運ばれてきた。ドーナツの上に長いパイプを渡し、片側に棺桶かんおけ、もう片側に測定装置を置いた。

「……基礎実験を行う」

「重力場に電子を飛ばしてどれくらい軌道がずれるか測定します」

俺たちは長門とハカセくんの後ろに立って、ドクターウェアの上からダウンのコートを着てハァハァ言いながら実験を眺めていた。もう食肉加工工場とかマグロ冷凍倉庫ででも働いている気分だ。

「熱電子ビームを射出します」

 ゴットンゴットンという音に合わせて小さな火花が散っている。どうやら電子を打ち出しているらしい。

「変ですね。検出できません」

ハカセくんが指差している壁に取り付けられたモニタの折れ線グラフは動かない。

「どういうことだ?」

「電子が的に当たると、その位置からどう軌道を描いたか分かるはずなんですが。まったく数値が出ません」

「……」

長門が無言のままだ。スクと椅子から立ち上がり、制御室を出て棺桶かんおけと的になっている測定装置を調べていた。俺は遠目に呼びかけた。

「故障か、不良品だったとか」

「……故障はしていない」

「もう一度やってみればいいんじゃないか」

「……おそらく、何度やっても同じ。電子が消失した」

電子が消えた?どうやってだろう。長門はドーナツのそばに立って、俺たちには見えないなにかを見ているようだった。右の手のひらを上に向けてフゥと吹くと霧のようなものが発生した。空中を漂っていた霧がやがて渦を描くようにドーナツの中心に向かって移動している。なにか小さな穴に吸い込まれていくようだ。それを見た長門が、

「……特異点とくいてんが生まれている。全員、緊急避難」

と言うのと、朝比奈さんが、

「頭が……痛い」

と言ってこめかみを押さえるのが同時だった。長門が右手を上げて詠唱をしようとしたが、間に合ったのかどうか、次の瞬間ドーナツの中心に向かってすべての光が流れ出し俺の目にはなにも映らなくなった。急速に足元が落下する感覚、これは前にも経験したことがあるが、暗く見えない渦の底が足元のずっと下のほうにあり、俺もそこにいたみんなも壁も部屋にあった机もパソコンもすべてが吸い込まれていった。あとにはただ、自由落下のときに感じる吐きそうな感覚だけがあった。


 気がつくと暗闇の中にいた。目が慣れるのにしばらくかかったが、少しずつ月明かりが見えた。

「おい、みんないるか」

「あたしはいるわ」

ハルヒが全員を確かめていた。

「ハカセくんはどこだ?」

「あれ、いないわね」

古泉と長門の姿を確かめて、ここがどこなのかまわりを見回した。俺たちは湿った土の上にいた。近くにうっそうと茂る森の影が見える。川のそばだろうか、どこからか流れる水の音が聞こえる。

「朝比奈さんはどこだ?ハカセくんは?」

朝比奈さんは少し離れたところにうつぶせて倒れていた。駆け寄ってゆすってみると顔を上げた。

「大丈夫ですか朝比奈さん」

「ああ、キョンくん。大丈夫。いったい何が起こったのかしら。急に頭が痛くなって……あっ」

「どうしました」

「TPDDが壊れちゃったわ」

え、まさかそんな。朝比奈さんが帰れなくなっちゃうじゃないですか

「スペアとかないんですか」

「予備はないの。定時連絡することになってるから、待っていればたぶん誰かが迎えに来るでしょう」

「よかった。一生ここで暮らすのかと」

「そんなことはないわ」

笑う朝比奈さんは少し青い顔をしていた。

「ハカセくんがいないな」

「あれなにかしら?」

ハルヒが指差したほうを見ると、家の明かりらしきものが見えた。家というよりビルっぽい影だが。

「行ってみよう」

だんだんとその建物らしきものが迫ってきて、妙に時代がかった造りらしいことに俺は違和感を覚えた。問題なのは、ここはどこだではなくて、いまはいつだ?なんじゃなかろうか。

 壁に触れてみると石でできているようだった。石造りの建物?丸いアーチになった門に木戸がはめ込まれている。

「えらく古くないか?」

「見たところライムストーンのようですが」

「ライムストーンってなんだ」

「イギリスで使われていた建材の石です」

ってことはここはもしかして、と言おうとしたとき、上のほうからやかましい怒鳴り声が聞こえた。見上げると建物の上にある窓から誰かが俺たちを指差してわめいている。おっさんらしいことは分かるが、どこの国の言葉なのか聞き取れない。

「英語じゃないですか?」

「英語にしては聞き取りづらいわね」

「ほら、どちらかと言うとラテンなまりの、古代英語っぽくないですか」

「そういえばそうね」

お前らはラテン語を聞いたことがあるのかと突っ込みそうになったが、なにいってんの教養のひとつでしょと返されそうなのでやめといた。それより、

「あいつなんて言ってるんだ?」

「そこでなにしてるんだと言ってます」

「じゃあ、旅の途中で迷子になったので助けてくれと伝えてくれないか」

古泉は上を向いてふたこと三言しゃべった。その途端とたん、上から矢が飛んできて足元に刺さった。冗談だろこれ。門が開いてバタバタと大勢が出てきた。な、なんだなんだお前ら。振り回してるのは刀か、いや剣か。両刃もろはの剣がギラギラと俺たちを取り囲んだ。暗くてよく見えないが、その着てるのってよろい

 古泉がなんとかとりなそうとしているのだが、こいつらは表情を硬くするばかりで槍まで構える始末だ。近くで見ると中世だか近世だかの西洋風兵士コスプレっぽい。

「すいません、僕の発音がここのとは違ってるのでかえって怪しまれているようです」

「じゃあここはおとなしく引き下がろう」

「そうもいかないようです。敵のスパイだと思われてるらしくて」

それじゃ俺たちはまるで飛んで火にいる夏の虫じゃないか。

 いちばんガタイのいいやつが一声叫ぶと兵士どもは俺たちの手を皮の紐らしきもので縛り上げ、建物の中にひっぱって行った。中は小さな町のようだった。町というか規模的には村というか。ところどころに明かりがついているのはロウソクか油のランプか。建物の上には屋根がなく、天井がない。ってここ、もしかして城?建物だと思ってたのは城壁だったのか。

 見回している余裕もなく背中を小突こづかれて、俺たちは石で作られた狭い部屋に押し込められた。ドアの外で錠前をかける音がした。部屋の中はわらが敷いてあり、ひどい匂いが鼻を突いた。

「それにしても、ここはどこなんだ」

「イギリスでしょう。言語も、彼らのよろいとか紋章などもそうです」

「じゃあいつごろなんだ?」

「それはまだなんとも。もう少し観察できるといいのですが」

「ねえ、なんかここ、かゆくない?」

ハルヒがボリボリと腕をかきむしっていた。おおかたダニかノミがいるのだろう。南京虫なんきんむしじゃないことを祈る。ハルヒが突然俺にしがみついた。

「ちょっと!今なんか足の上を乗り越えていったわ」

「ネズミだろ。さっきから鳴き声が聞こえてる」

「なんだ。ネズミなの。あたしハムスターくらいなら飼ったことあるわ」

ここにいるネズミはお前が想像してるのとはたぶん大きさも食ってるもんも違うと思うが。ハルヒは安心したのか部屋の隅で丸くなってグウグウと寝息を立て始めた。この非常時によく眠れるよな。

 俺はできるだけハルヒには聞こえないようにと声を落として聞いた。

「長門、なにがあったんだ」

「……おそらく、重力場じゅうりょくばのエネルギーが急増したために時間軸が壊れた。通俗的な呼称を用いるなら、タイムスリップ」

「TPDDが壊れたのもそのせいかしら」朝比奈さんが言った。

「……その可能性が高い」

これは困った。タイムスリップだけならまだしも、こともあろうにイギリスとは。

「ハカセくんはどうなったんだ?」

「……彼には保護フィールドの展開が間に合った。あの時間平面にいる」

「そうか。あいつはまだ未成年だしな。ハルヒの突発的事態に巻き込むのはかわいそうだ」

というか俺は十六歳の頃からこういう事態に巻き込まれてるんですが。

「この世界には情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいはいるのか」

「……いる」

「じゃあ助けてもらえば」

「……それは、できない」

「なんでだ」

「……言えない」

「なんで言えないんだ?」

「……話せない理由は、話せない」

なに言ってるんだこいつはとイライラと長門を見たが、いっこうに動じないようで正面を見据えたままだった。まあいざってときには動いてくれるだろうとすがるような気持ちを長門に向けていた。


 ともかく夜が明けるのを待つことにして、俺たちは部屋の中のきれいなところを選んで横になった。うとうとしていると携帯が鳴った。

「え!?」

ここで携帯が鳴る?俺はポケットから取り出した。眠っているハルヒ以外の全員が俺を見た。鳴ったのはメール着信音だった。にしてもなんでメールなんか来るんだ?アンテナは確かに圏外表示だった。

「バカなことを聞くが、携帯が発明されるのってずっと先だよな」

「ええ。マルコーニの無線通信は確か一八九四年の話です」

マルコーニが誰なのか知らんが、中世にメールをよこすような人間じゃなさそうだな。メール本文の内容は『SOS』だった。

「誰からですか」

「俺かららしい。こんなメール出した覚えはないんだが」

「メールの日付はいつですか」

「俺たちの時間で昨日だな」

「ありえないことですね。タイムスリップした際の故障でしょうか」

そうだとしても、このメッセージは気になる。


 夜が明けたようで、小さな明かり取りの窓から光が差し込んできた。俺はとうとう一睡いっすいもできず、遠くから雄鶏おんどりが朝を告げる声を聞いた。なんとなくこう、しみじみと古き良き時代にこういうのがあったなって感じだ。部屋の中が少し明るくなって、みんなは目を覚ました。


「しっかしどうするんだ?こんな言葉も通じない場所で無事でいられるのか」

「僕はある程度は分かりますよ。ただ、アメリカ英語ではないので僕の発音はなかなか通じないようですが」

俺はハルヒと朝比奈さんを見た。

「発音がきついけど、あたしもなんとなく分かるわよ」

「ええ。わたしも多少なら話せます」

なんだ俺だけ話が見えてなかったのか。まじめに英語勉強しとけばよかった、と思ってもいまさら遅い。

 長門にこっそり聞いてみた。

「通訳してくれるナノマシンとか持ってないよな」

「……ある」

「おっそうか、ひとつカプっと頼む。話が通じないとどうにもならん」

「……頭をかして」

「腕じゃないのか」

「……大脳皮質に近いほうがいい」

なるほど。長門が八重歯で左の耳たぶをカプリと噛んだ。な、長門さん、今ゾクっと電気みたいなものが体を走りましたよ。

 数分待ったがなにも起らない。俺は耳たぶを指差して尋ねた。

「これ、どういう機能?」

「……感覚性言語野および運動性言語野における双方向コンバータ」

ええと、どういうことですかそれ。

「……通俗的な用語を用いるなら、翻訳こんにゃく」

そりゃ分かりやすい、って某未来猫型ロボットのパクりじゃないか。あんまり通俗的とも言えんぞ。

「……」

「す、すまん。そう悲しそうな顔をするな、今の突っ込みはお約束だ」

せっかく用意したのに、と、長門があんまり悲しそうな顔をするので俺はひとり突っ込みセルフフォローするはめになった。

 ボソボソと話をする番兵の声に耳をそばだててみると、ただの雑音にしか聞こえなかったのがだんだんと話の内容が分かるようになってきた。俺以外の四人には必要ないだろうが、こいつぁすげえぜ。これで英検一級も合格できそうじゃないか。

「……それは無理。この地域限定」

チッ、甘かったか。


 木のドアがギイと開いて人が入ってきた。これまた中世の騎士みたいな物々しい格好をしている。うす暗くてよく分からないが、よろいは着ていないようだ。それを見てハルヒが食って掛かった。

「ちょっとおっさん!いつまでこんな狭いっ苦しいところに閉じ込め、ムグ」

俺はハルヒの口を塞いだ。なんでもありませんよ、こいつは腹が減って気が立ってるだけですから。

 騎士みたいな格好をしたやつが俺たち一同を見回し、朝比奈さんを見るなりドアの外に向かって怒鳴り声を上げた。

「番兵!番兵!」

「はいっ」

「こちらの御仁ごじんを連れてきたのは誰か」

「確か昨日の夜番のやつらだと思います」

「連れてこい」

「イエッサ」

「執事を呼んでこい」

「イエッサ」

このおっさんはたぶん番兵よりずっと偉い人なのだろう、着ているものも質がよさそうだ。黒い髪にキキリと引かれた眉毛の線、耳まで繋がったあごひげ。ロビンフッドとかジャンヌダルクの話に出てきそうな風体だ。重そうな指輪をはめているところを見ると、もしかして城主か。

 昨日の夜俺たちを閉じ込めた兵士が現れた。

「この方々を連れてきたのはお前か」

「そうです、マイロード」

「この大バカものぉ!」

兵士はいきなりぶん殴られて吹っ飛んだ。あっちゃー、グーの上に指輪で殴られたら、ありゃ痛いわ。それからおっさんが俺たちに頭を下げた。

「お客様、とんだご無礼をいたしました。今執事にご案内させます、どうぞこちらへ」

いきなり待遇たいぐうが変わったな。俺は、殴られて目のまわりが腫れあがり指輪の形がついている兵士をジロリとにらんで牢屋を出た。ハルヒもジロリとにらんで出た。

「ふん、まったくシツケがなってないわね。位の低い家来はいつもそうよ」

お前に家来の教育をとやかく言えた義理はないがとツッコミを入れそうになったが、自虐じぎゃく的なのでやめといた。

「それにしても、ここどこなのかしらね」

ハルヒはいちばんの博識はくしきであろう古泉に振った。状況判断に関しちゃ古泉より長門のほうが上だと思うんだがな。

「だいぶフランス語っぽいなまりのようです。もしかしたらフランスに近いのかもしれません」

「ということはやっぱりタイムトラベルは成功したのね」

「タイムトラベルというより、不用意なタイムスリップという感じでしょうか」

「そうね。あたしもそう思っていたところだわ」ほんとかヲイ。

古泉は俺をちらりと見て、ハルヒに言った。

「涼宮さん、僕たちが未来の情報を漏らすと歴史が変わってしまいかねません。ここは用心したほうがいいかと」

「っていうと?」

「たとえば百年戦争のことなど、世界史の授業で習ったことは言わないほうがいいかと思われます。それから教科書に載っていても実際の歴史と違うこともあります」

「そうね、分かったわ。黙っておくに越したことはないわ、みんな分かったわね?」

俺たちは少なくとも守ってる秘密がそれぞれにあるからな。お前がいちばん口が軽いんだよ、と突っ込みたいところだがここは素直にうなずいておこう。長門も朝比奈さんもうなずいていた。


 俺たちが連れてこられたのは、映画で見るような玉座というよりはずいぶんと地味な、たぶん主人あるじが客に会うための広間だろうか。壁はレンガのように四角に切られた石でできており、床は木の板で赤い布が敷いてあった。日本でいえば殿様が座っている上段の間というか。

 さっきのおっさんが正装らしいかっこうで出てきた。うやうやしく朝比奈さんの右手をとり、軽く口をつけた。朝比奈さんはかすかに震えていた。

「マイレディ、昨晩のご無礼をお許しください。あなたのようなお美しいお方はさぞ高貴こうきなお生まれのご息女に違いない」

「い、いえ、わたしたちは……」

「どちらの領地からお越しになられたのか、伺ってもよろしいですか」

朝比奈さんはどう説明したらいいのかしらと俺たちを見た。ここで口を挟むのはどうやらまずいだろうと暗黙のうちに気がつき、俺たちは見守るだけだった。

「ええと、わ、わたしたちは日本から来ました。船が難破してたどり着いたのがここでした」

「なんと!ジパング!」

もっと未来から来ましたとでも言われたかのように、おっさんは目を見開いた。

「黄金の国ジパングですと!!家がすべて純金で出来ているという幻の国」

誰だそんな嘘を流したのは。

「嘘つきマルコの話は本当だったんですな」

「あ、えっと、そんな家もあったかもしれません」

マルコって誰だ?古泉が「マルコポーロでしょう」と耳打ちした。そういえばそんなやつが世界史に出てきたな。

「素晴らしい。東洋の美女がはるばる私に会いにきてくださったとは。はじめてシバの女王に会った賢王けんおうソロモンの気分です。おい、外国からのお客様だ、おもてなしの用意をしろ」

長門が朝比奈さんに近寄り、なにやらボソボソと耳打ちしていた。朝比奈さんがおっさんに向き直った。

「あの、マイロード」

「なんでしょう」

「気持ちばかりの差し上げたい品があるのですが……」

長門が俺と古泉に向かって右手を上げ、ボソボソと詠唱した。俺たちはくるりと出口を向いて、足がギクシャクとロボットのように勝手に動いて歩き始めた。

「なんだこれ」

「分かりません。長門さんの魔法でしょう」

シャクシャクと客間の外に出ると、そこには大きな宝石箱のような葛篭つづらが二つ置いてあった。これを持ってこいというのか。二人でやっとひとつを抱えられるくらいの重さで、俺はそこにいた番兵にも手伝えとうながした。

 箱をえっちらおっちらとおっさんの前に運んで、ゴトリと置いた。朝比奈さんが蓋を開けた。

「お近づきのしるし、らしいです」

「オオォォォ」

そこにいた召使やら家来やら衛兵やらが驚嘆の声を上げた。金銀財宝、じゃなくて白いツブツブは真珠か。丸く束になった白い布は絹か。まあ日本の特産品といやこれくらいしかないな。

「素晴らしいシルクと真珠だ。これぞ東洋の奇蹟!」

俺たち、船が難破して無一文でしかも牢屋に囚われてたんじゃなかったっけ。そんな疑問はどこ吹く風、おっさんは真珠を持ち上げてはジャラジャラとこぼしていた。

「マイレディ、このような高価なものを戴くわけには」

「わたしたちには泊まるところがないんです。これでどうか宿をお貸しいただけないでしょうか」

「いやいや、これではお釣りが足りませぬ」

「いえいえ、どうかお納めください」

「いやいや受け取れぬ」

「いえいえお納めを」

どうでもいいけどさっさと商談終えてくれないか。腹が減ってしょうがない。結局この国の王様に献上するのでおっさんが預かるということになった。おっさんは王様ほど偉くはないらしい。地方の殿様、領主ってところか。

「マイレディ、お召し物を用意させましょう。客室のほうへご案内させます」

気がつけば俺たちは薄汚れた二十一世紀の服のままだった。この時代の服のほうがまだましだろう。執事とやらが俺たちを部屋に案内した。新川さんではなかったが。

「執事さん、お聞きしたいことが」

「マイレディ、なんなりと」

「ご主人の名前はなんとおっしゃるの?」

「我が主人あるじはジョンウィリアムスマイト卿と申します。現国王の従兄弟のご子息になられます」

なんだか舌を噛みそうな名前だが、はて、どこかで聞いたことがある響きだな。ジョンスマイト?首をかしげていると、朝比奈さんがなるほどという表情をして俺の耳元で言った。

「スマイトはスミスの古い呼び方でしょうね」

「ええっ」思わず大声を出してしまった。

「どうしたのキョン」

「い、いやなんでもない」

つまり城主はジョンスミスじゃないか!まずいな、ハルヒがこれに気がついたら俺たちは、というより俺自身がえらいことになりそうな気がする。

「スマイト卿はおいくつかしら」

御歳おんとし、二十三才になられます」

全員がエエッと声を上げた。ひげモジャでしゃべりも態度もおっさんくさい、あれで二十三才なら俺たちはどうなる。

「どうかなさいましたか」

「い、いえなんでもありません。ご主人があまりにその、ダンディでいらっしゃるので」

「そうでしょう。家臣のわたくしが申すのもなんでございますが、我が主人あるじはこの国きっての美男子。しかも独身なもので、貴族のご婦人方から引く手あまたでございます」

確かに、あれが独身とあらば物好きな女が大勢寄ってくるに違いない。

「お嬢様方はこちらに、殿方はあちらへどうぞ」

あれが同じ歳なのかと感慨にふけっている俺たちを置いて、ハルヒはさっさと歩いていった。廊下に飾ってあるよろいやら盾やらが気に入ったらしく、甲冑かっちゅうをいじったり剣の柄を握ったりしている。

「これ本物なのね」

ハルヒの瞳に映る、石壁に取り付けてあるロウソクの光が中世の雰囲気たっぷりにキラキラと輝いていた。執事が困った顔をして、お嬢様こちらへと何度もうながしたのであきらめてついていった。


 本物のメイドさんがやってきて、食堂で食事の用意が整ったと告げた。俺たちの薄汚れた格好を見て、着替えるようにと言われ、召使のような格好をさせられた。このタイツ、ちょっと股がきついんじゃないか。股間がちょっと恥ずかしいぞ。

「似合ってますよ」

お前に言われても嬉しかねーよ。それにしてもその格好、貴公子きこうしって感じで堂に入ってるじゃないか。

「ありがとうございます。僕には元々貴族の資質があるみたいです」

「自分で言うか。そういえばあのおっさん、古泉に似てないか」

「そうでしょうか」

ひげで最初は分からなかったが、目のあたりとか、声の調子とか。もしかして古泉の先祖じゃ?」

「そんなはずはありませんよ。僕は生粋きっすいの日本人ですから」

古泉がハハと笑った。

 女ども三人が部屋に入ってきた。

「プッ。あんたたち、なんて格好よそれ」

「この時代の男は衣装なんて気にしないんだよ。男は中身だ」

朝比奈さんがやけに俺たちから目をそらしている。やっぱタイツのせいか。目のやり場に困るのは男だけだと思っていたが、この時代は違うようだ。

 にしても女三人のその衣装、似合いすぎている。朝比奈さんはどんな衣装を着ても、最高の美辞麗句びじれいくを並べ立てても足りないくらいのドレッサーだが、この中世だか近世だかのフリルのついた長いドレスに身を包んだ三姉妹、これは素晴らしい。

「朝比奈さん、すごく似合ってますよそれ」

「ありがとうキョンくん。意外としっかりした縫製ほうせいなのね。手縫いよ」

「質もよさそうですね」

「さすが現地のものは違うわ」

長門がじっと俺を見つめていた。俺がなにか言うまで視線を釘付けにして離さないという覚悟のようだった。

「な、長門」

「……なに」

「似合ってるぞ。すごくかわいい」

「……そう」

そのまま時計を持ったウサギを追いかけていきそうな萌え姿だ。

「ちょっとキョン、あたしはどうなのよ」

「お前はまあそれなりに似合ってるっていうか」

「もうっ」

「涼宮さん、あなたには最高の賛辞を贈って差し上げます。色といいボリュームのあるスカートといい、舞踏会に招待されたら脚光を浴びるであろうこと、まず間違いありません」

「えへへっ、さすが古泉くん。ホメどころを抑えてるわ。キョンはもうちょっと女心ってもんを勉強しなさい、よねっ」

ハルヒは長いスカートのすそを持ち上げて俺のケツを蹴った。タイツが薄いから痛い痛い。


 執事に食堂へ案内された。食堂とはいっても豪華な飾りがあるわけではなく、部屋の真中にやたらでかいテーブルがでんと置いてあるだけだった。床は木目、ところどころ虫が食っていて隙間風が入ってくる。ここの主人は偉い人っぽいのに城の造りはやけに質素なようだ。

 朝飯は、さすがに客に出すとあってディナーに相当する豪華なメニューだった。丸ごと一羽のローストチキンもあるぞヲイ。腹の虫がグゥグゥ鳴っておさまらない。イギリスはメシがアレだとつねづね聞いていたが、もうなんでもいい、どんな味付けでも食ってやる。

「さあみなさま、お席にどうぞ」

お席というのは球場の外野席シートのような横長の椅子だった。領主のおっさんが暖炉を背にした上座かみざに、俺たちは両脇に別れて座った。俺がフォークとナイフを握り締め、さあとりかかるぞと目の前の肉の塊に突撃を開始しようとしたとき、神聖にしておごそかなるソレが詠唱され始めた。

「天にまします我らが父よ……」

あ、ここではそうなのか。ハルヒも朝比奈さんも両手を合わせて目を閉じている。古泉が片目で俺を見て笑いをこらえきれないように震えていた。ケッ、悪かったな、俺は信仰より食い気なんだよ。

 長門より長い詠唱を終え、スープが出されてずるずると音を立てて飲み干していると、隣に座っていたハルヒが行儀の悪い子を叱るように俺の尻を思い切りツネった。イテテなにすんだよと言おうとしたらテーブルの上座からズルズルとスープをすする音が聞こえてきたのでハルヒは唖然あぜんとしてなにも言えなかった。ナイス王様、じゃなくて殿様。

「マイレディ、まだお名前をうかがっておりませんでした」

「わ、わたしは朝比奈みくると申します」

「レディミクル、こちらへはどのようなおもむきで来られたのですか」

「ええと、この者たちとずっと船で旅をしていまして、途中で遭難してしまったのです」

「とするとスペインかベネチアを目指しておられたのですかな」

「ええ、そうです」

ベネチアってどこだっけ、なにいってんのイタリアでしょ、とハルヒと内緒話をした。長門は俺の向かい側にいるのでヒソヒソ話ができない。

 味付けは確かに日本人が食うにはうす味で、というか塩味ついてないじゃんこれ、と突っ込みたくなるくらいに素朴な味だった。俺は備え付けの岩塩をガンガンと砕いて肉といっしょに噛み砕きながら飲み下した。これはこれでうまい。日本の栄養剤漬けブロイラーなんかよりずっといい肉だ。出されたワインは酒をあまり飲めない俺にも分かる高級品だった。おっさんはブランデーをがぶ飲みしていた。食うことはともかくイギリス人は酒にはうるさいようだ。

「ジパングはどんな国なのですか」

おっさんはジパングというところをズィパングと妙になまっている。

「ええと、夏は暑いです。台風も来ます。でも冬になると雪も降ります」

「暑いのに雪が降るとは、変わった国ですね」

おっさんはハハハと笑った。

「南北に長い国なので、北のほうは寒くて南のほうは暑いんです」

「さようでしたか、失礼しました。一国で夏と冬を堪能たんのうできるとは、一度たずねてみたいものです」

「ええ、ぜひいらしてください」

兵士の一人がやってきて、おっさんに耳打ちしていた。おっさんの表情がキリリと厳しいものになった。

「みなさま、申し訳ないがわたくしはこれにて失礼させていただきます。北のほうでぞくが出たとのことなので行ってまいります。執事がお相手しますのでごゆっくりおくつろぎください、ミカーサスカーサ」

おっさんは胸に手を当てておじぎをして食堂から出て行った。意外に忙しい人なんだな。にしてもミカサスカーサってどっかで聞いたセリフだ。

「盗賊が出るんですか」俺は執事の爺さんに聞いた。

「さようでございます。例の、シャーウッドの森の伝承でんしょうのせいでまねをするやからが増えまして」

シャーウッドの森ってなんだっけ?なんかの映画で聞いた覚えがあるが。

「ってことはロビンフッドに会えるのね!?」

ハルヒがまたよからぬことを思いついたと見えて、目んたまがキラキラ度全開にまで達した。

「お会いにはなれません。ロビンフッドは想像上の人物です」

「なーんだ。実在するかと思ったのに」

古泉が内緒話をするようにハルヒに耳元で囁いていた。

「まだこの時代には物語にはなっていないはずです。あながち嘘でもないかと思いますが、そういう人物がいたという伝説を物語にしたものなのでしょう」

「残念。一度山賊になりたかったのに」

古泉が冷や汗を垂らしていた。いっそのことやるか、悪代官を懲らしめるSOS山賊団。


 朝飯をたらふく食って腹もふくれたところで、城の中を案内してもらった。城というのは俺が想像しているような着飾った貴族だけがしずしずと傘をさして歩いているのとは違い、城壁に囲まれたひとつの町のようなものだった。人以外にも鶏やらアヒルやら豚やらがゾロゾロ歩いていて、みなは目を細めてほほえんだ。あれが俺のメシになるのか。

 城壁の中は市場や店が並んでいて日中はわりと人が多い。中に住んでいる人もいるし、城からは離れた畑のそばに住んでいる農家もいる。戦争がはじまると城門を閉じて守りを固めるらしい。城の外は堀になっていて、庶民の生活の場がそのまま要塞になっている感じか。もっとも、戦争がおっぱじまる前に住民は逃げ出してしまうらしいが。


 夕方、城門の上の見張り台から暮れていく夕日を眺めていると、スマイト卿が部下を引き連れて戻ってきた。

「おかえりなさいませ、旦那だんな様」

「おう、今戻った」

「マイロード、おかえりなさい」

朝比奈さんの目がうるうるしている。それもそのはずだ、スマイト卿は鉄の甲冑かっちゅうに身を包み、鉄のヘルメットをかぶって長い剣を下げている。このまま朝比奈さんを馬に乗せて走り去ってもうんうんと納得してゆるしてしまいそうな格好だ。背中には盾を、鞍には弓も下げていた。お付きの兵士が家紋入りの旗を掲げている。

「残念ながら取り逃がしてしまいました。逃げ足だけは速いやつでして」

「マイロード、お姿が素敵ですわ」

「か、からかわれては困ります」

おっさんはポッとひげモジャの顔を染めそっぽを向いた。見かけによらずシャイなのな。


 なんだか俺以外の四人は妙になじんでいて、この時代に溶け込もうとしている雰囲気だった。

「しかし、俺たちこの先どうなるんだ」

「大丈夫でしょう。僕たちがいくらここで時間を過ごそうが、戻った地点は元の時間ですから」

「そりゃまあそうだが」

「戻ったときの僕たちは少しばかり歳を取っているかもしれませんが」

昔話にそういうのがなかったか。

「帰れなくなったらと思うと一抹いちまつの不安がな」

「今を楽しめばよろしいんじゃないですか。僕たちの力で解決できる状態ではありませんし」

「まあそうだな。休暇だと思って二三日ゆっくりしていくか」


 俺は心のどこかに漂っている不安を別のことでまぎらすことにした。さしてやることもないのにやたら腹が減るのがこの時代らしいのだが、晩飯はまだかまだかと待っているとハルヒがとんでもないことを言い出した。

「あたしたちでお芝居をしましょうよ」

「見世物小屋でもやるのか」

「まさか。見せるのはジョンと身内だけよ」

「芝居ってやったことあんのか」

「あるでしょ、あたしたちのオリジナルが」

「そんなもんあったっけ」

「決まってるじゃない、朝比奈ミクルの冒険 Episode_00よ」

その言葉を聞いて朝比奈さんが真っ青になった。

「スマイトさんの前で朝比奈さんにあの格好をさせるわけにはいかんぞ」

「心配しないでいいわ。あたしがミクル役をやるから」

衣装がないのでそれっぽいものを城中からかき集め、スターリングインフェルノは星型に切ったニンジンを棒の先に刺して代用することになった。

 晩飯が終わるとハルヒがみなの前に立ち、丁寧ていねいに貴族式のお辞儀じぎをして舌を噛みそうな口上を述べた。

「マイロード、それからみなさま。今宵こよいは豪勢なお食事にお招き賜りまことにありがとうございます。わたくし涼宮ハルヒが、ささやかながら寸劇をごらんにいれとうございます。それではお楽しみください」

 寸劇という控えめなものではなくて、映画の話ををまるごと、ハルヒが朝比奈ミクルを、長門がイツキを、朝比奈さんがユキ役という、どうにも混乱しそうな配役で演じられた。いくら翻訳されているとはいえストーリーは訳分からん展開だったはずなのだが、スマイト卿は大声で笑い、執事にも、脇で見ていた侍女や衛兵たちにもけっこう受けていた。これじゃ俺ら道化師じゃねえか。日本の印象がお笑い一色になるぞ。


「いっちおくねんとぉにおくねんとぉ、もひとつおまけにさんおくねんまえから~」

芝居も終焉しゅうえん、ハルヒが日本の伝統的な歌を披露するとかいって歌謡曲を大声で歌っていた。いかんな、だいぶ酒が回ってるようだ。

「ほらほらみくるちゃんも、歌って踊ってぇエヘヘヘ」

「あいしてるぅ~、こうですか?分かりません」

執事がハルヒを見ながら言った。

「失礼ながら、あのお嬢様はレディミクルのご侍女ですかそれとも妹様ですか」

「申しわけありません。あれは育ちが悪くてあんな感じなんです」


 大声で笑うスマイト卿を見て、執事が微笑ほほえんでいた。

旦那だんな様があのように楽しそうにされるのは、お父様を亡くされて以来のことでございます」

「そういえばスマイトさんって領主になるにはまだ若いですよね。親父さんはどうなさったんですか」

「去年フランスで亡くなられました」

「戦争ですか」

「はい。この国は戦争のせいでやせ衰えるばかりです。この城も徹底した質素な生活でなんとかしのいでいるところでございますが、台所は火の車、これで疫病でも起こればいったいどうなることやら」

そういえばこの時代はまだ天然痘てんねんとうやら黒死病があったんだよな。

「現国王の名はなんとおっしゃいますか」古泉が尋ねた。

「ご存知でいらっしゃいませんか。エドワード二世でございます」

古泉はなるほどという顔をした。俺の耳元で、

「ここは西暦でおよそ一三〇〇年ごろですね」

「そんな昔なのか」

「百年戦争の前なので比較的安定していると思われます。確かウェールズとイングランドの戦争の後くらいでしょうか」

一三〇〇年といや鎌倉時代か。日本もいくさばっかりしてたような気がする。


 ある日の午後、俺がまったりと昼寝でもしようかとうとうとしているところへ、古泉がチェスでもしませんかと持ちかけてきた。ここはSOS団部室でもないのだが、まあいい。せっかくこの時代にいるんだ、この時代のゲームをしようじゃないか。

「これがいつまで続くんだろうか」

「これといいますと」

「この生活だよ。タイムスリップした俺たちのこの人生」

「さあ、僕にも分かりません。もしかしたら戻れないのかもしれません」

「怖いこというなよ。俺はこんなところで骨を埋める気はないぜ」

ジジくさいかもしれんが、死ぬなら畳の上がいい。

「冗談ですよ。僕たちにどうにもならない事態なら長門さんが動くはずです」

「だがなにもしてないぜ。タイムマシンで事故があったってのに、なぜかあの二人は緊迫感に欠ける」

「この一連の事件は涼宮さんが望んだから、かもしれません」

心に骨があるとしたら、どこかの関節でギクリと音が鳴ったかもしれない。ジョンスミスに会うはずが、とんだ見当違いのジョンスミスに会いに来たわけだ。しかも中世のイギリスとは人違いにもほどがある。

「なにか思い当たる節でもあるんですか?」

古泉が怪訝けげんな顔をして俺を見た。最近の俺はどうも考えていることが顔に出るようだ。

「い、いやなんでもない。あいつの能力行使とやらにいいかげんうんざりしてるところだ」

チェスの盤面ばんめんを見ると、すでに俺の勝ちは決まっていた。

「チェックメイトだ」

「ルールはちゃんと覚えていたはずなんですが、あっさり負けてしまいましたね」

ゲームはルールより戦略だ。古泉、もう少しボードゲームに精進したほうがいいぞ。そのうちカモられる。

「これは偶然でしょうか」

「なにがだ」

「残ったコマが数字の2を描いています」

なんだと。俺から見ると逆だから気がつかなかったが、そういえばアラビア数字の2の形をしている。なんだろうこれは、なにかのメッセージか。

「なあ古泉」

「なんでしょうか」

「未来に救援要請でもしてみたほうがいいんじゃないか」

「といいますと?」

「未来の、タイムトラベルができそうな誰かに」

「誰かって誰ですか」

「時間レスキュー隊か時間移動危機管理機構か、誰かは分からんが。もしいるなら朝比奈さんの上司でもいい。俺たちがここにいることを知らせるべきじゃないかと」

「なるほど。どうやってです?」

「それも分からん」

「メッセージを送るだけなら石碑せきひなどはどうでしょう」

石碑せきひを建てるつったって、ここはイギリスだしなあ。この国の歴史に関係ない遺跡が生まれたりしたら困る」

「そうですね。ここが日本ならまだしも。書物にして保管してもらってはどうでしょうか」

「人の目に触れないと伝わらないんじゃないか」

「考古学者の目に止まれば古文として取り上げられるでしょう。そこになんらかのメッセージを含めておけば誰かが気が付くのではないでしょうか」

古代から伝わる謎のメッセージか。ミステリー好きの古泉らしいアイデアだが。

「分かった。ちょっと手伝え」

 俺は執事になにか書くものをくれと頼み、ペンとインク、それからやたらゴワゴワした紙を受け取った。

「なんだろ、この布みたいな紙は」

「羊皮紙でしょう。イギリスで紙が普及したのは一五〇〇年ごろですから、今よりもう少し後です」

なるほど。まあこっちのほうが長持ちするらしい。

「英語で代筆してくれ」

「かしこまりました」


── SOS団から、未来の誰かへ。二十一世紀でタイムマシンの実験中に事故があり、この時代にタイムスリップしてしまった。俺たちは今十四世紀のイギリスにいる。できるなら助けに来てくれ。


「誰かに渡してくれと書いたほうがよろしいかと」

「ええと、じゃあ。この手紙を読んだ人へ、日本にいる涼宮家、古泉家、朝比奈家の誰かに渡してください、でいいか。長門には先祖ってのがないしな」

「それなら鶴屋家がいいんじゃないですか。あそこは由緒ゆいしょあるお家柄のようですし」

「ああそうだ。鶴屋房右衛門ふさえもんとかいったっけ」

「あのお方は確か元禄時代ではなかったですかね。一七〇〇年ごろでしたか」

「そうだっけ。まあいい、四百年後に生まれることが分かってるなら届くだろう」

あて先に鶴屋さんのひいじいさんだか曾々ひいひいじいさんの名前を追加させ、最後に俺の直筆サインを入れた。木の箱に入れて城の書庫らしいところに保管してもらった。二十一世紀になる前にこれが誰かの目に止まればいいんだが。


 この時代に来て数週間が立ったが、いっこうに誰も迎えに来ない。朝比奈さんの組織も、情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいからの支援もなかった。もしかして俺たちこのままここで一生を終えることになんのか。という心配は俺の気持ち的には果汁二十パーセントのジュースくらいに薄まっていて、メシは食えるし働かなくてもいいしで、貴族の生活をまったりと満喫していた。なんせハルヒは馬で領地を走り回っているだけで喜んでいるし、閉鎖空間へいさくうかんも現れないので古泉もいい休暇になっている。長門は城とか教会の地下からラテン語の巻物を探し出してきて読みふけっていた。なんだろ、錬金術か黒魔術か。まあそれなりに楽しんでいるようだ。


 未来に帰還するための頼みの綱である朝比奈さん本人はというと、最近妙な行動をとるようになった。人目を忍んでコソコソと出かけてみたり、女三人は共同の客室だったのを個室に変えてもらったり、朝いつまでも寝ていたり。

 実はここ数日間、朝比奈さんと会っていない。昼間たまに顔を見るのだが、なんだかそわそわして、用事があるからと姿を消してしまう。ハルヒが執事を連れて市場に買い物に行こうと誘ってみても、逃げるようにして部屋に閉じこもってしまう。

「朝比奈さん最近様子が変じゃないですか」

「俺もそう思った。なにがあったんだろう」

「涼宮さんがちらと言ってたんですが、スマイト卿と二人でいるところを三度ばかり見かけたらしいです」

「それはもしかして男と女の色恋沙汰いろこいざただと」

「分かりません。メイドさんの間で噂になっています」

「過去の時代で恋愛をするわけにはいかないと、自ら言ってたはずだが」

こんな六百年前だか七百年前だかの昔で恋愛など、とうてい無理な話だろう。

「それはそうですが、彼女はすでにTPDDを失ってしまったわけですし、ここで骨を埋める気になったのかもしれません」

それはありえん。朝比奈さんがそんな簡単に未来をあきらめるはずがない。

「だといいんですがね」

古泉はいつもの肩をすくめるポーズをした。


 夜中、といってもこの時代は電気がないからみんなさっさと寝るので、実際は九時ごろだろうか。静まり返った城内に犬の吠える声だけが響いた。ハルヒと長門が俺たちがいる部屋の窓から忍び込んできた。どうやって降りてきたんだといぶかしんだが、長いシーツが二本結ばれて上の階から垂らされていた。なるほど、頭いいな。

「ハルヒに長門、仮にもここは紳士の部屋だぞ」

「気にしないわそんなこと。ねえねえ、みくるちゃんがこっそり部屋を抜け出すところを見たのよ。あたし思うんだけど、あれは逢引あいびき以外のなにものでもないわ」

ハルヒが言ってるのは肉屋のメニューじゃないだろうけど、えらく古風な表現を使うな。まあ時代的には合ってるか。

「気になりますね」

「キッヒヒヒ、でしょう?後をつけてみるわ。全員あたしについておいで」

暗がりで見るそのときの四人の顔のニヤニヤときたら、これから豪邸に忍び込もうとしているぞくを上回る雰囲気だった。長門の足取りがいつもより軽やかなのは気のせいじゃあるまい。

 ゆっくりと部屋のドアを開けると、廊下に衛兵が立っていた。この夜中にご苦労だな。客人とはいえ、こんな夜中にうろうろするのは見咎みとがめられそうだ。

「長門、不可視遮音ふかししゃおんフィールドを頼めないか」

「……分かった」

長門はハルヒに気付かれないように小声でブツブツと詠唱した。俺はハルヒの手を引いて長門を先に行かせ、居眠りをしている衛兵の前を抜き足差し足で通り抜けた。


 廊下に飾ってあるいくつもの鉄のよろいの影に隠れてコソコソと歩いた。踊り場に出るところでハルヒが先に角を曲がり、ドアの影に隠れて俺たちに来いと手招きをした。壁にかかっている鹿の剥製はくせいの頭がジロリと俺をにらんだような気がして、あわてて目をそらした。背中にゾクっと冷たいものが走った。

「どこに行くんだ」

「シーッ、声が大きいわよ」

「どこに……行くんだ……」

「まずはジョンの部屋ね。あんたたちはここで待ってなさい、あたしが先に行くわ」

ハルヒが階段の手すりの陰に隠れながら、匍匐ほふく前進で階段を登っていた。器用なやつだ。俺たちが待っていると、二階の手すりからロープらしきものが垂れ下がってきた。これを伝って登れというのか。

 一人ずつロープを伝って、腕だけで壁をよじ登った。懸垂けんすいもろくにできないのにこういうことになるとなぜか力が出るんだが、俺もハルヒと似たようなもんだな。

 朝比奈さんがしけこんだ先として、いちばんの候補であるスマイト卿の寝室の前で耳をそばだててみた。四人で並んで木のドアに耳を当てた。ここでもし、朝比奈さんのなまめかしい声が聞こえてきたりしたら俺たちはパニックになって耳を塞いだまま一目散に逃げ出すところだが、幸い部屋の中からは何も聞こえてこなかった。

「いないみたいだな。どこに行ったんだろう」

「こっそり二人で出かけたのかしら。庭を散歩してるんじゃない?」

「さあ。この時代のお忍びデートがどういうもんなのか知らん」

「あんた、ハーレクインとか読んでないの?」

ラノベも読まない俺がそんなもん読むわけないでしょうが。

「ハーレクインならもっと過激に、森の茂みに連れ込むとか夜の海を裸で泳ぐとかですよ」

古泉、もういい。それ以上過激なことを言うと、このミッションは即刻中止する。

 長門の液体ヘリウムのような瞳が俺たちを見た。なにしょうもない妄想してんだと言いたいのだろうと思ったが、カギがかかってるはずのドアがギィと音を立てて開いた。さすが長門さん。

 忍び足で中へ侵入を果たしたが、部屋には誰もいない。窓は開いており、カーテンが風に揺れていた。どこからか話し声がする。

 スマイト卿と朝比奈さんはバルコニーにいた。石の手すりの前に並ぶ二人の話し声が聞こえてきた。

「いい月ですね」

「マイロード、ほんとにそうですね」

「ジョン、と呼んでくださいませんか」

「では、わたしのことはみくるちゃんとお呼びください」

チャンって何だ、古代英語じゃあチャン付けがあるのか。

「レディみくる、今宵こよいはとくに美しい……月が」

「ええジョン、きれいな月ですね」

二人は見詰め合っていて、ひとときも目をそらそうとしない。なにやってんのお前ら、月なんか全然見ていないじゃん。

 朝比奈さんは月を振り仰ぎ、なにごとかを唱え始めた。

「来ておくれ、夜よ。来ておくれ、ジョン、月の光よ。あなたが夜の翼に乗る姿はカラスの背に降りつもる雪より白く輝く……」

「すばらしい詩だ」

「昔に習った戯曲ぎきょくなの」

朝比奈さんの顔が真っ赤になっている。

「マイレディ、戯曲ぎきょくとはなんですか?」

「ええと、お話が歌になっているようなお芝居です」

「美しい。まさにあなたを表現するような歌だ」

「そんな……」

今宵こよいのあなたはとくに。見る者すべてを恋に落としそうな美しさです」

「ジョン、あなたはなぜ今までおひとりでいらしたの?」

「あなたに出会うためです」

「まあ……」

朝比奈さんが紅く染まった頬に両手を当てた。こりゃあいかん、完全に二人だけの世界に入っちまってるぞ。と、視界の端に入ったハルヒと長門の様子が変なので見てみると、やや頬を赤く染めて二人の姿を呆然ぼうぜんと見つめている。長門の肩を揺すってみたがまったく反応がない。

「月夜とシェイクスピアの相乗そうじょう効果ですね」古泉がクスクスと笑っている。

「この雰囲気を見てなんとも思わんのか」

「いいじゃないですか。いつの時代も、身分が違っても恋愛は自由です」

「俺たちは違うだろう。歴史が変わるかもしれんぞ」

古泉は我に返ったようだった。俺たちがこんなところで誰かと恋に落ちたら、たとえばジョンと結婚するはずだった誰かが結ばれない歴史になっちまうんじゃないか。仮にもこの人は貴族なんだから、イギリスの王様の家系が変わるかもしれん。

「それもそうですね」

そうですねじゃないって、今すぐ止めろよ。

「でもあの二人を見ているとなんだか……とても止める気にはなれません」

そう言って月影に照らされる二人の姿をうっとりと眺めた。古泉よ、お前もか。


 俺の心配をよそに、朝比奈さんとジョンのまわりはピンク色のかすみがかかっているような雰囲気だった。並んで月を眺めていた二つの影がゆっくりと、どちらからともなく寄り添い肩が触れ合った。朝比奈さんは一瞬だけビクッと体を離したが、首を軽く傾けてジョンの肩にもたれた。彼の手が朝比奈さんの肩に触れ、優しく引き寄せる。冷たい石の上に敷かれた絨毯じゅうたんの上、長く伸びる淡い影がひとつ、二つ。男のほうが抱きすくめると女はそっと目を閉じた。やがて二人の唇が触れ、影はひとつになり、朝比奈さんはジョンの胸に顔をうずめた。


 俺たちはしばらく黙っていた。誰も口を開かないのは、あまりの衝撃にどう反応すればいいか分からないからか、メロドラマを見たときのような感動で思考が止まっているか、そのまま心停止で固まってるかだ。

「まさかこんな展開になるとは」

「こんなロマンチックなシーンを間近で見たのははじめてだわ」

「……わたしも」

ハルヒと長門がはぁーと長い溜息ためいきをついた。息してなかったのかよ。

「もう、二人だけにしておきませんか」

「そうだな。ここから先は無粋ぶすいってもんだ」

珍しく俺も同意見だった。ハルヒと長門はこのリアルなメロドラマの成り行きを見ていたい風だったが、せっついて部屋を出た。


 翌朝、目を真っ赤にした朝比奈さんがやってきた。なんだなんだ、あの後なにがあったんだ。

「みくるちゃん、その目どうしたの」

「うん。みんな、聞いてくれる?」

あの野郎、朝比奈さんになにをしたんだ。コトと次第によってはタダじゃすまさん。俺は壁に掛けてある槍を取ろうとしたが取れない。イミテーションだったのかよ。

「伺いましょう」

ええ、なんでも伺いますとも。俺と古泉の目はなぜかギラギラしていた。

「あのね、わたしは最初に会ったときからずっとジョンさんにかれてたの。ううん、彼もそうだったと思うわ」

「素敵じゃないの。あたしもいい男だと思うわ」

ハルヒが必死でニヤニヤを抑えていた。お前、雰囲気壊すからちょっと下向いてろ。

「それでね、」

と朝比奈さんは言葉を切り、指輪を取り出した。大きな緑色の石が乗っている。ハルヒの目がまん丸になり、いきなり指輪をひったくった。

「エメラルドね。これエメラルドよ」

「昨日、プロポーズされたの」

な、なんだって!?俺の脳裏にΩマークが四つほど並んだ。まじですか。

「すごいじゃないのみくるちゃん。結婚したらあなたも貴族よ、レディ・ミクル=スマイトよ」

「それで、OKしたんですか」

「それはできないわ。わたしはこの時代の人間じゃないもの」

「朝比奈さん、もうジョンさんを未来に連れて帰ったらいかがでしょうか」

「それも無理よ。彼はこの国の歴史を作る重要な人物だから」

そうだったんですか。

「残念だけど、断るしかないわ……」

朝比奈さんは両手で顔をおおって泣き出した。きっと一晩中泣いていたのだろう。

 ハルヒがドアのほうに頭を振って、俺たちに出ろという仕草をした。俺たちはうなずいて、ハルヒと長門を残して部屋を出た。ドアを閉めるときにハルヒが朝比奈さんの肩を抱いているのが見えた。こういう優しいところもあるんだなこいつは。


「厄介な事態になったな。まさか過去に来てプロポーズされるとは」

「この時代の男性は僕たちよりずっと情熱的ですね」

「古泉、お前がもしこの時代に女ができたらどうする?」

「分かりません。立場上の理性と自分の感情がせめぎ合って苦しむでしょうね。朝比奈さんのように冷静に考えられるかどうか自信ありません」

「時代が違うというだけで本当に恋愛はゆるされないのか。たとえば五分過去の時間移動でも」

「ええ。一秒でも一ミリ秒でも時間がズレていることに変わりありません。五分のズレがなにを引き起こすか、危険度は未知数です」

ガソリン車で時間旅行をした博士のセリフじゃないが、タイムトラベルというのは悲しいものなのだな。まさか朝比奈さんがその渦に巻き込まれることになろうとは。

 その日、朝比奈さんは部屋から出てこなかった。ハルヒがそっとしておけというので俺たちはノックもしなかった。


 夕方、色男、じゃなくてスマイト卿が慌しくやってきた。ガシャガシャと甲冑かっちゅうに身を固めている。

「レディみくるはいらっしゃるか」

「ええと、今は部屋に入らないほうが」

「緊急だ。フランス軍がこっちに向かっている」

「ええっ、いきなり戦争ですか。宣戦布告とかないんですか」

「この領地は海峡に面していて、いつでも緊張状態にあるのだ」

そんなとんでもない場所だったんですか。

「ともかく予断をゆるさない状況だ。いざとなったら逃げられるようにしておいてくれ」

「分かりました。この城の守りは大丈夫でしょうか」

「なんとも言えん。このところ続いている戦争のせいで兵も装備も足りていない」

 日が暮れてはじめて、騎兵やら歩兵が続々と集まってきた。もう敵がやってきたのかとオロオロしたが、執事があれは味方の援軍だと教えてくれてほっとした。歩兵だけで千人か、あるいはもっといるだろうか。カタパルトのような投擲とうてき兵器まで並んでいる。ということは敵も同じくらいか、もっといるってことか。

 城内は兵隊であふれ返っていた。住民はさっさと逃げ出してしまったらしく、牛も羊も鶏すらも見かけない。

 スマイト卿がこれから出兵すると言いに来た。

「マイロード、あなたも出陣されるんですか」

「そうだ、私が先陣だ。手柄は取るぞ」

そう言って彼はガッツポーズを見せた。頼もしい。俺もこの時代に生まれてたら英雄になれたかもしれない、なんて非現実的で柄にもないことを考えさせるくらい、この人のよろい姿はかっこよかった。

 朝比奈さんがドアを少しだけ開けて顔を覗かせた。

「マイロード……」

「レディみくる、突然で申し訳ないが出兵します」

「これから戦場へ?」

「フランス軍がすぐそこまで迫っています。もしものときのために逃げる準備をしておいてください」

「そんな突然……」

「この国では、平和は戦いと戦いの間にあるつかの間の休みなのです」

「分かりました。必ず帰ってきてくださいね」

「もちろんです。そのときにはよいご返事をお待ちしています」

「え、ええ」

こんなときだから、朝比奈さんは言葉をにごすしかなかったのだろう。あるいはプロポーズを断る気持ちがゆらいだのかもしれない。


 馬のいななきとよろいこすれる音を響かせながら、スマイト卿は大勢の騎兵と歩兵を引き連れて城門から出て行った。朝比奈さんがバルコニーから手を振っていた。夕日の向こうにスマイト家の紋章の旗がはためき、丘を越えてだんだんと小さくなっていった。

「あの人、無事に帰ってきますよね」

「帰ってきますよ。待つ人がいるかぎり」

そんな保証はどこにもなかったが、古泉にはそう応えるしかなかった。俺がかれたとしてもそう言うしかなかったろう。

「ちょっと放しなさいよ、あたしも戦場に出るんだから!」

階段のほうが騒がしい。執事がハルヒの腕を捕まえて連れてきた。ハルヒは大きすぎる甲冑かっちゅうを着込んでガシャガシャと暴れていた。

「古泉様、キョン様、どうかハルヒお嬢様をお部屋にお連れしてください」

「ハルヒ、なにやってんだお前」

「放しなさいよセバスチャン、ジョンが戦ってるのにじっと手をこまねいてるわけにはいかないわ」

「お嬢様がどうしても前線に行かれると申されまして」

セバスチャン?執事ってそんなかっこいい名前だったのか。

「剣術も知らないお前が行っても足手まといになるだけだろ。それに俺たちはここでは客人だ」

「涼宮さん、あなたには守るべき団があります」

「むぅ……」

古泉がなだめてハルヒはようやく落ち着いた。

「ハルヒ」

「なによ。せっかく着込んだのにもう」

「似合ってるぞ」

ハルヒは何も応えなかったが、鉄ヘルメットの下で笑っていたにちがいない。甲冑かっちゅうを身にまとった、我らが団長、じゃなくて社長。腕章があれば軍曹とか隊長にでもなったんだろうか。


 その夜、戦々恐々としていた俺たちは飯もノドを通らず、早々に客室に引き上げた。

「執事さん、戦いはどれくらい続くんですか」

「二、三日でカタが付くこともございますが、数ヶ月膠着こうちゃくすることもしばしば」

「ということは、スマイト卿は数ヶ月帰らないんですか」

「ええ。遠征の折には帰ってこられないことも多くあります」

「その間の城はどうなるんですか」

「ご懸念けねんはごもっともでございます。領主の中には州の長官に領地を乗っ取られてしまった方もいるとか」

部下にのきを任せたら母屋おもやを乗っ取られたわけだな。

「あなたのようなお方に主人の留守を守っていただければ幸いなのですが……」

執事は目を細めて笑顔を見せた。俺にはカリスマもないし決断力もないし、とても政治家やら貴族の役目は務まらん。それができるのは古泉くらいなもんだろう。


 城のまわりで馬のいななきが聞こえた。数時間前に出て行った味方の騎兵のようだが、帰ってきたのか。スマイト卿が階段を駆け上がってきた。

「マイレディ、今すぐ逃げてください。上陸されて戦線を突破されました」

その場にいた全員が凍りついた。

「敵が侵攻して来ます。秘密の通路を案内します、早く!」

「あなたはどうなさるおつもりですか」

「私はこの城を守らなければなりません」

朝比奈さんは迷っているようだった。俺が引っ張っていかなければ、きっと自分も残ると言い出すにちがいない。

「朝比奈さん、急ぎましょう。荷物なんか置いといていいです」

「え、でも……」

「キョン殿、地下通路をたどると海岸の洞窟どうくつに出ます。そこに船を用意してあります」

 俺は後ろ髪引かれる思いの朝比奈さんの手を引いて、地下通路の入り口まで降りた。地下室の最下層、石の壁だと思っていたところにぽっかり穴が開いていた。スマイト卿が中に入れとうながした。

「全員いるか」

俺は松明たいまつを照らしてメンバーを見回した。ハルヒもちゃんといるようだ。古泉をしんがりに、ひとりずつ入口をくぐった。最後に俺が残り、スマイト卿が言った。

「船で一旦スペインへお逃げなさい。そこからならジパングにも帰れるでしょう」

「分かりました。落ち着くまでスペインかどこかに逗留とうりゅうします。いろいろとありがとうございました」

「レディみくるをよろしく頼む」

俺がうなずくと、朝比奈さんが振り返って叫んだ。

「ジョン、わたし必ず戻ってきます!きっと戻ってきます!」

松明たいまつの明かりに照らされた彼の顔はうなずいた。

「さあ、急ぎましょう」

俺は何度も振り返る朝比奈さんの手を引いて先を進んだ。頭上では投石が炸裂さくれつする音が低く響いている。俺たちは湿った地下通路の奥へ奥へと走った。いつまでも出口にたどり着かない、長い長い時のトンネルの中を。


 暗転。

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