【仮説一】
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Illustration:どこここ
「……海外出張を、申請する」
朝、長門が出社すると突然言った。真剣な面持ちで、まるでこれから情報連結解除を申請するとでもいうような表情だった。
「え、どこに行くの?」
ハルヒもこの
「……スイス、ジュネーブ」
「スイスか、いいな。俺も行きたい」
「あら、ジュネーヴ?いいところですよ、わたしがお供して案内しましょうか」
「……あなた達は、仕事」
自分は遊びに行くわけじゃないんだと、じっと二人を見た。長門にしたら
「有希まさか外国に営業に行くつもり?そこまでしなくてもいいのに」
「……時間移動技術のための研修」
「なんだ、そっか。じゃいいわ。ファーストクラスの航空券と三ツ星のホテル取っていいわよ」
「おいおい、いくらなんでも気前が良すぎないか。ファーストクラスの往復つったら楽に百万越すぞ」
「副社長の出張よ、ケチケチしないの」
平の
「……二人分、申請する」
「ハカセくんね。いいわよ」
「僕が手配して差し上げましょうか。旅行代理店をやっている知り合いがいるので」
横で話を聞いていた古泉が口を出した。お前にかかればチャーター機の手配くらいできそうじゃないか。古泉は、それもできなくはないですが、と肩をすくめてみせた。
「アムステルダムとミラノ、どちらの経由がよろしいですか」
「……ミラノ」
「しばしお待ちください」
古泉はどこか謎の相手に電話をかけ、いつもの
ハカセくんは喜んでいた。なぜか学校が急に休みになり、親の許可もすんなり降りたというのだ。誰の裏操作なんだろね、いったい。第一容疑者と第二容疑者にチラと視線を投げたが、長門も古泉も知らんぷりを決め込んでいる。
「お前たち、荷物は?」
「ええと、長門さんがいらないというので、パスポート以外は何も持ってきていません」
「……荷物など、不要」
確かに一理ある。せっかくの旅行が重たい荷物のせいで楽しさ半減してしまっているこのリゾート時代。異国情緒も肩こりで消し飛んでしまうってもんだ。ともかくまあ、盗られるもんがないのはいいことだ。
「なんかあったら大使館に駆け込むんだぞ、スイスのおまわりさんでもいい」
スイス銀行に隠し口座でも作っておいてやるべきだったかな、などとどうでもいいことを考えていると、飛行場の端のほうからミラノ行き七七二便は飛び立った。ああ、
一週間後、二人が帰ってくるというので車で迎えに行った。
「先輩、先輩っ」
ゲートから大声で呼ぶ少年の声が聞こえた。その後ろから長門がペタペタとゾウリを鳴らして歩いてくる。いつもの表情の長門で、なんだか旅行を楽しんだ
「な、長門、いきなりどうしたんだよ」
「……西洋の空港ロビーにおける、
そうか。すっかり西洋かぶれして帰ってきたようだ。ハルヒが見てなくてよかった。
「ハカセくんもお疲れ。どうだったスイスは、マッターホルンとか見に行ったか」
俺は二人が帰ってくるのを待っている手持ち
「実はほとんど観光はしてないんです。実験施設にいたもので」
「実験って、スイスで?」
「はい。ずっとセルンにいたんです」
セルンって聞いたことないな。どこらへんの町だろ。
「
「そんなところで何の実験?」
「ずっとエキゾチック物質を作ってたんです」
「それって外国に行きたくなるような物質?」
よく分からんが、ともかくハイジャックにも
その、セルンとかに行けたのがよほど嬉しかったらしく、ハカセくんは車の中で物理学専門用語をあれこれ並べてそのすごさとスケールの大きさとやらを俺に説明していた。地下百メートルの
長門が帰ってきて早々の翌日、ハルヒが全員集合をかけた。
「えー、第一回時間移動技術会議ぃ。有希とハカセくんの成果を聞くわ。記念すべき回だから、キョン、居眠りなんかしたら
わかってるさ。我が社の本来の事業内容だからな。議事進行はハルヒ、パネラーはハカセくん、なぜか俺が
「えーと、まず、物理学の世界ではよく知られている時間移動技術について説明したいと思います。図を見てください」
ハカセくんは黒い背景にラッパが二つ並んだような絵を指した。これ、もしかしてハカセくんが描いたのか。妙に絵心があるのは知ってはいたが、こんな科学雑誌っぽいかっこいい絵を描くなんて、進むべき道を間違ってんじゃないか。
「もっともポピュラーな時間移動理論はワームホールを使うものです。
僕たちの住む空間にワームホールで繋がったAの穴とBの穴があるとします。
Aの穴から入った人は即座にBの穴から出てきます。二つの穴がどんなに離れていても、トンネルを移動する時間は一瞬で済みます。
次に、Bの穴が離れたところにあって、光の速度で動いていたとします。光速に近づくにつれ時間の進み方が遅くなりますから、Aの穴との時間差が生まれます。これでタイムトンネルの出来上がりです」
ハカセくんは長門に向かって、これでいいんですよね?という顔をした。長門以外の全員は、は?という顔をしていた。こうあっさり味の時間移動だと突っ込みどころがない。
「そんな簡単でいいのか」
「簡単といいますか、実際には
「Aの穴とBの穴が不思議な空間で繋がってて、Bの穴が光速で移動してるだけ?」
「そうです」
こんな簡単な理屈で作れるならあまり苦労なさそうだが。ほんとにこれでいいのか?俺は長門を見た。長門は研修生を見守っているベテランの教師のような顔をしてうなずいた。
「いや、なんというか、もっと分かりづらい複雑怪奇な方程式やら
「ハカセさん、よくタイムトラベルの疑問点になる空間の座標についてはどうなんですか。宇宙空間で考えたとき、ワームホールの口を地球上に固定しておけるんでしょうか」古泉が尋ねた。
「ええと、これはSFなんかで出てくるタイムトラベルとは違って、こういう性質を持った時空を作る、と考えてください。ですから地球の自転と公転、太陽系の公転などの物理的な動きについてゆきます」
常々思っていた不思議がこれで解決した気がする。映画に出てくるタイムマシンは地球の自転についていってるんだろうかと。百年後、地球が同じ場所にあるとはとても考えられないよな。まあ俺の突っ込みはどうでもいいとして。
「問題点はないのか」
「たくさんありますが、まず、この手法ですとタイムマシンが完成するより過去には行けません」
「それはどうしてだ?」
「ワームホールが完成してから時間移動が可能になります。つまりワームホール発生より以前には行けないんです」
「ほかには?」
「タイムトラベルをしたい分の時間だけ、Bの穴を時間停止させないといけません」
なるほどね。じゃあ仮に五年のタイムトラベルがしたかったら、五年間はワームホールを維持しないといけないわけだ。鶴屋さんに頼むくらいじゃ経費が追いつかないかもな。
ずっと静かだったんで様子が変だなと思っていたハルヒが、目んたまのキラキラを抑えきれなくなってやっと口を開いた。おい、興奮のあまりほっぺたがプルプル震えてるぞ。
「今すンぐにでも実験にかかってちょうだい」
「時間移動には理論がまだいくつかありますが、これを採用していいんですか?」
「シンプルに越したことはないわ。それで、いつから実験できそうなの?」
「機材さえ揃えばいつでもはじめられます」
「経費で落とすから必要なものを言ってちょうだい。なにがいるの?」
ま、また経費か。最近のハルヒの口癖は経費で落とす、らしい。経費って
「重イオン生成器がいります。それから片方の口の時間差を作るためにシンクロトロンがいりますね」
「シンクロトロンって粒子加速器ですね。セルンとか筑波にあるような。放射光用なら確か地元にもありますね」古泉が口を挟んだ。
「それ、どこで買えるの?」
「ふつうには入手できないでしょう」
「どこかに売ってくれるか、作ってくれる会社ないかしら」
「僕にお任せください。探してみましょう」
ほんとに大丈夫か。いくら機関とはいえそんな原子核をいじるような機械が手に入るのか。
「小型のシンクロトロンなら医療機器として使われていますよ。なんとかなるでしょう」
病院にタイムマシンまがいの機械があったなんて知らなかった。古泉が笑って言った。
「あれはタイムマシンではありません。れっきとした医療機器ですよ、放射線治療なんかで使われます」
「そんなでかい機械、置く場所ないだろう」
「このビルのどこかに空き部屋があるはずですが、なかったら作りましょう」
それって住んでる誰かを追い出すってことか。古泉は何も答えず、ただ
翌日、十トントラックが数台とクレーン車がやってきた。窓から見下ろすと、荷台にでかい箱が載っていた。核廃棄物に貼ってあるような黄色いマークが貼ってある。
「なんだあれ、核燃料でも運んできたのか」
「涼宮さんご注文の品です」
「まじで手に入ったのか」
古泉は、だから言ったでしょう、という表情をした。
「さすがにエレベータや階段では運べませんからね、廊下にある
「それはいいんだが、いくらしたんだ?」
「詳しくは機関の経理担当しか知りませんが、地方自治体の予算並み、とだけ言いましょうか」
数千万、いや数億円か。いくらハルヒのためとはいえ、そんな金使わせて大丈夫か。
「昔から金は天下のまわりモノ、と言いますね。いつか我々に
機関の運営の
古泉の予言どおり二階のフロアに空き部屋があったらしく、そこに分割された機械類を運び込んでいた。開発部の連中が興味
部長氏がなにごとかという顔をしていた。
「やたらでかい洗濯機みたいだけど、なにがはじまるんだい?」
「さあ。社長の趣味でクリーニング業をやるらしいです」
「あ、じゃあうちの布団を丸洗いとかやってもらおうかな」
まさかタイムマシンを作ってますなんて言えない。それにしても、部長氏の部屋はベットじゃなかったですか。
「ドアに暗証キーまでつけてるけど、クリーニングってそんなに厳重なの?」
「特許を取るまではまだ秘密らしいです」
「そりゃすごい技術なんだろうね。完成したらぜひ見せてくれ」
俺はいいやともうんともいえない
一週間後、工事が終わった。おそらく機関のコネで強引に空き部屋にさせられた二階のフロアを仕切り、広いほうに直径六メートルくらいのドーナツの親玉みたいなでっかいリングと、車ほどもありそうなスチール製の箱、圧力計やら赤いハンドルやらが並んだ
「みんな、記念すべき第一回の実験を開始するわ。これ着てちょうだい」
こいつは記念すべき第一回が好きなようだ。
「なんだ、白衣コスプレか」
「違うわよ。この部屋は実験室だからホコリを出したくないの」
俺たちは科学者が着るような白衣を着せられて実験に付き合った。ドクターウェア、とかいうんだっけこれ。これで朝比奈さんがナース服でも着てくれたら完璧なんだが。などと考えていると、朝比奈さんがこれまた妙な格好をして現れた。
「スイッチを入れる前にお
「す、涼宮さん、わたしはあれほどいやだって言ったのに……」
「みくるちゃん、これはコスプレじゃないの。立派な仕事よ。どんな建物でも家内安全を願って
「それは知ってるんですけど……
「たまには洋風がいいの。さあこれ読み上げて。その三十円棒付き飴みたいなやつで清めながらね」
ハルヒからメモ用紙を受け取ると、朝比奈さんは銀色のスプーンのような子供のおしゃぶりのようなもので水をぽとぽと
「ア、アッラーフンマぁ~あ、インナぁ~ナスタイーヌカ~ぁ」
それってアラビア地方で朝とか夕方に聞こえてくるアレじゃないですか。コスプレとミスマッチすぎますよ。
「いいのよ。鰯の頭も信心からというでしょ」
そんなバチあたりなことわざ使って、感電しても知らんぞ。
「す、救いたまへ~清めたまへ~」
もうどの神様か分からなくなってきている朝比奈さんが実験機材を祝福している間に、こっそり長門に尋ねた。
「放射能とか有害な電波とか漏れないだろうな」
「……この部屋全体を重力子シールドした。どんなエネルギーも遮断している」
「ほんとだ。携帯が圏外だな」
そりゃよかった。って、部屋の中にいる俺たちはどうなるんだ。
「……実験中は体表にシールドを張る」
「腕に噛み付くあれか」
「……そう」
俺と古泉と朝比奈さんはいいが、ハルヒとハカセくんにあれをやるのはどう反応するか。ドラキュラの真似だとかいって噛み付いてみるとか。
「お
「……全員に放射線パッチを貼る」
「それなに?」
「放射線の
なるほど、それがナノマシン入りか。全員に腕まくりをさせて、長門がサロンパスのようなシールをぺたぺた貼り始めた。まるでニコチンパッチだな。ところが俺の番になるとシールを貼らず、腕にかぷりと噛み付いた。朝比奈さん以外の全員が不思議そうな顔をして俺と長門を見ていたが、長門はなにごともなかったかのように俺の実験着の
長門がパネルをいじって設定を始めた。パネルに色とりどりのランプが灯り、パソコンのモニタに数字が流れた。ハルヒはもう、そのコックピットのようにぴかぴかと点滅するランプ群を見るだけで満足そうだった。ハカセくんは自分のノートを開いて手順を確かめている。
「さあ、緊張の一瞬よ」
「……冷却パイプ、稼動開始」
「いきます」
長門が指示してハカセくんがプッシュスイッチを押した。ズンズンと温度カウンタの数値が下がっていった。数字がマグロの冷凍倉庫よりさらに下がり、絶対零度くらいにまで下がったところで長門がキースイッチを回した。
「……金属磁性体コア、通電開始」
ウンウンと
それから二十分くらい、長門とハカセくんが固まったまま動かないので尋ねた。
「この後はどうなるんだ?」
「……温度と磁場の安定を待つ」
「その後は?」
「……金属原子から電子を
「そのプラズマの中に発生した小さなワームホールを取り出すんですよね」
長門はうなずいた。なるほど。素人は黙って見てたほうがよさそうだ。
「……あ」
「どうした?」
「……イオン源の材料を忘れた」
「材料ってなんだ?そのへんで売ってるようなものか?」
「……水銀、金、鉛などの重い金属。買ってくる」
「待て待て、金ならたぶん持ってる」
長門が椅子から立って出ようとしたので止めた。俺はタイピンを外して長門に渡した。金じゃないが、たしか一部プラチナのはずだ。長門はそれを大事そうに両手で包んだ。
長門は核燃料庫にでも入るような全身黄色尽くめの宇宙服のようなものを着て、ニューヨークの消防士が被るようなヘルメットとマスクをつけ、俺のタイピンを持って隣の部屋に入っていった。
「そんなに危険区域なのかここは」
「……しゅこー」
こいつのフォースは強力だ、とか言い出すんじゃなかろうな。
「……次の段階」
「白金をイオン化する工程ですね」
「……そう。まず、プラチナをガス化する」
白金を蒸発させるってすごいエネルギーがいるんじゃないか。長門が液晶モニタのひとつを指した。CCDカメラの映像らしく、実験室の一角にある大きなガラスの容器の中に金属製の皿が置いてあり、その上にタイピンの
「あれがプラチナ?」
「そうです。温度を上げて瞬間的に高電圧をかけると気体になります」
ハカセくんが一瞬だけスイッチを入れると、パチッと火花が散ってタイピンの
「イオンガスはできたんでしょうか?」
「……ガラスは密閉されて真空。重さが変わっていなければ気体になったということ」
長門は再び、アナキンスカイウォーカーのなれの果てのようなかっこうで実験室に入っていった。モニタを見るとガラスの容器を両手で抱えている。おいおい大丈夫か。カメラに向かってうなずく長門が見えた。まあこいつなら放射能だろうがエックス線だろうがおかまいなしだろうけど。いつだったか朝比奈さんのコンタクトレンズから飛び出た
「次はガスを加速器に注入して電子を抜き取るんですね」
「……そう。光速の八十パーセントまで加速、炭素
退屈したのか、ハルヒがあくびを噛み殺しきれないで涙目になっていた。
「すいません、この作業は時間かかるだけで退屈なんです」
「いいのよ。寝不足なだけだから。気にしないで続けて」
「じゃあ、イオンビームを入射します」
ゴンゴンとビルの工事現場で鉄柱を打ち込むような音が響き、天井の蛍光灯の光がチラチラ瞬き始めた。忘れていたが、このビルの電力足りてないんじゃないのか。
「この音、なんだ?」
「
「ということはシンクロトロンの中は今プラズマ状態ですか」古泉が質問した。
「……そう。クォークの泡が生まれているはず」
「なるほど。陽子と中性子が砕けてるんですか」
ともかく、俺のネクタイピンが
そこからの長門とハカセくんの会話は俺には理解できなかったが、この元プラチナだったものが分解して何かエネルギーのかたまりのようなものになった状態がプラズマらしい。それをZピンチとかいう方法でぎゅっと圧縮して、ウランの十の八十乗倍だか九十乗倍だかの高密度の小さな玉を作る。大きさはだいたい十のマイナス三十五乗メートルとか、俺には想像することすらできない数字だ。
じっとモニタの数値を見ていた長門が
「……すでに空間の
ハカセくん以外には分からなかったらしく、無反応だった。長門はもう一度言い直した。
「……ワームホールの、種」
「ええっ、できたの!?」
居眠りしていたハルヒが突然椅子から飛び上がった。
「……まだ、プランク長さの種」
「そ、そう。どれくらいで芽を出すの?」
長門は自分の例えがまずかったのかと首を傾げたが、
「……この種は壊れやすい。上位の
「その種というのはもしかしてミニブラックホールですか」
「……
そのワームホールの種とやらは、簡単に消滅してしまうらしい。気がつかないとかいうレベルじゃないくらいのほんの短い時間で。
「ということは、そのワームホールの片方を光速で動かせばいいだけ?」
ここでやっと俺が口を挟んだ。
「……まだ。この種は小さすぎる。電子も通過できない」
「電子は十のマイナス三十一乗メートルですから、この種はそれより小さいんです」
ハカセくんが補足した。なるほど。
「で、大きくできるのかそれ」
カメラとかじゃとても確認できるサイズじゃないので、そこにあるものとして俺は言った。長門がジャラジャラとビー玉を取り出した。あ、それ、もしかしていつぞやのアレか?
「……そう、
「ここでやっと使えるんですね」
なるほど。スイスでそのビー玉を作ってたのか。
「……粒子加速砲を用意」
「了解しました」
そんなもんがあったのかここには。日本海を越えて飛んできたミサイルを打ち落とせそうだな。
カメラの映像を見ているとシンクロトロンの外側に並んだ長い
長門の説明によれば、このワームホールの種はAとBの穴の口が前後にくっついた状態にあるんだという。それを広げて、ラッパの管の部分を伸ばしてやらないとモノが通過できない、らしい。
「……空間の
「穴の大きさって確認できるのか?」
「……このサイズでは、現代の技術レベルでは測定できない」
そんな。手探り状態でやるのか。……わたしには、見えている、と、長門がこっそり耳打ちした。なるほどね。
「
「……直径を電子が通れる程度にまで広げた。電子を
さっき使ったビーム砲に真空管のようなものを挿していた。あ、それは分かる。テレビのブラウン管と同じ原理で電子を打ち出すわけだな。
裏でいったい何が起ってるのか分からないのがこの実験のミソらしいが、長門とハカセくんにはちゃんと分かっているらしい。
「電子をくっつけて
「……そう。種を加速器に戻して」
時間差ってどうやって作るんだろ?現代にそんな技術あんのか。
「さっきの説明のとおり、種を動かして光の速度に近づければ時間が止まります」
そういうものなのか。俺は小さな柿の種がリングの中をごんごんと回っている様子を妄想した。
「何回くらい回すんだ?」
「……タイムトラベルしたい時間だけ可能」
「ってことは一時間回せば一時間の時間差?十年だと十年の時間差?」
「……そう。この実験では、五分」
長門が言ったとおり、それから約五分してシンクロトロンの音が静かになった。
「時間差の生成が完了しました」
「……次は、水」
長門は、リングからニョキニョキ生えている管に繋がっているガラス容器の前に、ミネラルウォーターのペットボトルを置いた。それから照明を落とし、部屋を暗くした。
「……電子が通過する。カウントして」
「はい。三、二、一、スタート、一、二、三……」
ハカセくんが数えている間の五分間、全員が無言のままだった。五分後、ほんの一瞬だけペットボトルからストロボを
「あ、チェレンコフ光だよな。今の、」
俺は自分が知っている数少ない物理現象のひとつを嬉々として口にした。チェレンコフ光ってのは、電気を帯びた粒子が光速で水の中を通るときに減速して起る光、だったかな。
「……びんご」
長門がうなずいた。コンマ一秒単位で記録されたモニタのグラフを確かめている。
「……閉じた時間曲線が発生」
「あの、先輩」
「ん?なんだ?」
「実験成功です……」
にこやかに、やや紅潮したハカセくんにそう言われてみんなはやっと気がついた。
「えっ、じゃあ今のは世界初のタイムトラベルだったんですか!?世紀の発明の一瞬だったんですね。涼宮さん、一個の電子が時空を越えて旅をしたんですよ」
古泉が目の前で起った感動のシーンを説明していたが、ハルヒと朝比奈さんはいまいち分かっていなさそうだ。
「長門、その、電子サイズのワームホールとやらはもっとでかくできるのか?」
「……口を広げると不安定になりやすい。質量の大きなものは通過できない」
「許容範囲まで広げるとしたら、どれくらいだ?」
「……直径二十センチ程度」
それだけあれば紙の一枚くらいは送れるだろう。メッセージは送れるわけだ。
時計を見ると昼過ぎていた。俺たちはとりあえず昼飯にすることにして、一旦休憩となった。ところがシンクロトロンとやらは電源を切ると再稼動するのにまた時間がかかるらしいので、長門とハカセくんはコントロールルームに残った。
ハルヒが腰をとんとんと叩いて背伸びをしながら言った。
「この分だとタイムトラベルができるのはだいぶ先になりそうね」
「世紀の大発明だ、一両日中ってわけにはいかないさ。科学は地道な実験の積み重ねだからな」
「それはまあ、分かってるんだけど」
今すぐ手に入れたい、今すぐやってみたいというハルヒのいつもの待っていられない
ふと駅前の時計を見上げると妙なことに気がついた。十二時をまわったばかりのはずが二時になっちまってる。
「キョン、あんたの腕時計遅れてない?」
「ありゃ、なんでだ。秒針は回ってるから壊れてはいなさそうだが」
俺は腕時計を振ってみた。変に思っていると携帯がなった。
「俺だ」
「……実験室内の重力子による副作用が出た。外の時間と進み方がずれているはず」
「なんだって!?じゃあ俺たちは二時間タイムトラベルしちまったのか」
「……許容範囲。今、調整している」
「分かった。お前たちも適当なところで休め」
俺は電話を切って、先に行こうとしている三人を追いかけた。
「おい、実験室の中と外で時間がずれたらしい。今はもう二時だ」
「え、ほんとなの?」
「ちょっとした浦島太郎の気分ですね」
なに呑気なこといってんだ古泉。ハルヒは妙に考え込むような表情をしていた。
「それは困ったわ」
「二時間くらいなんてことないだろ」
「ランチタイムが終わってしまうわ!全員走れ!」
ハルヒはいつものイタ飯屋をぐいと指差し、路上にぽつりと俺だけを残して部下二人を連れて走り去っていった。やれやれ、あいつらは大発明より食い気か。
俺は古泉に長門とハカセくんに昼飯を買って帰ると電話して、地下鉄みたいな名前のファーストフードに入った。科学者ってのはなにかとインスタントに頼りがちだと考えるのは俺の
「おう、差し入れだ」
「ありがとうございます先輩」
「この部屋って給湯室がないよな。コーヒーメーカーを買わせよう」
長門はコントロールルームのパネルを眺めながら、受け取ったサンドイッチをもさもさと食っていた。それだけじゃ足りなさそうなので俺の分も渡した。Lサイズにしときゃよかったな。ハルヒの携帯に差し入れをよこせとメールしとこう。
午後の実験は、ハルヒがバランス栄養食やら菓子やらペットボトルやらを箱買いして戻ってきてから再開した。
「……次の行程。穴の直径を広げる。エキゾチック物質を三秒
「了解しました」
長門はさっきの実験で電子が通過したというガラスの容器に、分厚い金属製の覆いを被せた。
「ワームホールって肉眼で見えるのか?」
「ええと、どうでしょう。穴の中からなにが出てくるかによると思います」
「……そう。通常の光が出てくれば水銀灯の球のように見える。逆に光を吸収すれば黒い球体のように見える」
なるほど。ワームホールというから空間にラッパのような穴が開いているのかと思っていたが、そうでもないんだな。
「絵とだいぶイメージが違うな」
「あのラッパの図は分かりやすく平面上の穴で説明しているだけです。実際は三次元の穴ですね」
「……
「一、二、三。完了しました」
長門がまた黄色い
「これ、もしかしてそうなの!?」
「……そう。時間移動の地平面」
「完成です、完成ですよ!」
「…………」
これは長門の無言の三点ダーシではなくて、俺たちの無言だった。なんと表現すればいいのか、宇宙からやってきた神秘的な物体Xのようだ。
「長門、近くで見てもいいか?」
「……いい。ロッカーにもう一着あるはず」
俺は重たいヘルメットと黄色い
よくよく見てみると、左側はシャボン玉のように、見る角度によって色が変わるのが分かる。少し波打ってるようにも見える。反対側から見ると真っ黒だ。
「これ波打ってるみたいだが」
「……まだ安定していない。しゅこー」
「ガラス
「……いい。その前にフィールドを展開する、しゅこー」そのしゅこーって口で言ってるだろ。
長門はカメラから見えないようにガラスにそっと手をあててブツブツと詠唱し、円筒形の青白く光るフィールドを作った。
「それで、どうやって時間移動するんだ?」
「……鏡の側に物質を押し込めばいい」
俺はもやもやと動いている鏡にそっと触れた。手袋ごしに手を差し込んでみたが、波紋を作ってそのままスゥと吸い込まれるように消えた。裏側にはなにもない。なるほど、簡単じゃないか。
「反対側から送り込んだらどうなる?」
俺は真っ暗な半球に手を差し込もうとした。
「……待って!」
長門が
「……そっちの側からは過去へ繋がっている」
「これ両面とも繋がってるのか」
「……そう。もう五分待たないと、危険」
「さらに五分?」
「……今より五分間前には、まだ過去の口は完成していない」
なるほど、そういうことになるよな。
「っていうことはあれか、過去に行く口を作るには、時間停止させた二倍の時間がかかるってこと?」
「……正解」
分かりやすくいうと、ワームホールの片方の時間を凍結してから取り出し、凍結した時間の分を待たないと過去に通じる穴として使えない、ということだ。当然、過去に開いた口はまだ電子サイズなわけだし、手を突っ込んだりしたら
五分ほど待っていると、反対側の色がだんだん明るくなってきた。こっちもCDのように虹色に反射している。
「……過去にも繋がった」
俺が過去に繋がっているという側から手を差し込もうとすると、黄色い手袋がニュルリと出てきて冷や汗をかいた。
「こ、これってさっき俺が差し込んだ手か」
「……そう。こちらの半球は五分過去に繋がる」
ここで俺が出てきた手を握ったりしたら歴史が一致しなくなりそうだな。
「ちょっとキョン、いつまで遊んでんのよ。あたしにも触らせなさい」
コントロールルームに戻るとハルヒがわいのわいの騒いでいた。長門が注意事項を教える間もなく、ハルヒは
「僕も間近で見てみたいです」古泉が食い入るようにモニタを見ている。
「まあハルヒが戻るのを待て。穴は逃げていきゃせんだろう」
「しかし、本当に作ってしまうとは驚きです。さすがです長門さん」
長門は微妙に照れたような表情で「……そう」とだけ
「ひとつだけ分からないことがあるんだが」
「……なに」
「片方の穴を時間停止させて作ったってことは、俺たちが作ったのは過去へのトンネルだよな?」
「……そう」
「じゃあ未来への穴はどうやって出来たんだ?」
つまりこの揺れる鏡の球体は、右側が過去への穴、左側が未来への穴ということだ。
「……それは、考えて」
なんだ、クイズか。ええとだな、トンネルの口の片方を冷凍庫に入れて時間を止めて、止めていないほうが今ここにあって……。
「先生、分かりましたよ」
古泉が手を上げた。
「……古泉一樹」
「未来への穴は五分未来の長門さんが作ったんでしょう。未来で作られた過去の穴がそこに繋がっている、が答えですね」
長門がうなずいた。なんだか非常にややこしいが、正解なようだ。
「俺にも分かるように説明しろ」この言い方もなんだか情けないが。
「先ほどの絵で説明しますと、」
古泉はさっきのパネルを指して言った。
「僕たちが作ったAの穴は、五分過去のBに繋がっています」
「ふんふん」
「で、僕たちの時空に存在するBの穴は、五分未来の僕たちが作ったAの穴に繋がっている」
「ふんふん」
「お分かりいただけましたか」
「ぜんぜん」
「……元々、わたしはここにあるBの口は作っていない。でも、
なるほど。ここにあるBの穴は五分未来のAに繋がっていて、五分未来のBの穴は十分未来のAに繋がっているわけで、このワームホールってのは未来
「もしここで、未来へ物質を送れない事態になったりしたら、未来でワームホールが崩壊したことになります。時間移動は
ハルヒが顔を輝かせて戻ってきた。やっとこいつにもこの実験の意味が分かってきたようだな。
「ねえねえ、すごいわよ!五分後のあたしと握手したら、触ってるはずなのに感じないんで脳が混乱しちゃったわ」
あ、危ねえ遊びしてんなヲイ。
「次は誰行く?」
「朝比奈さん行きます?」
「ええ。はじめてです、こんなの」
古泉と朝比奈さんは黄色い核施設作業員コスプレをして中に入っていった。
「じゃあ、五分後の未来に手紙を送るわ」
いつのまに書いたのか、ハルヒがA4の
着替えている朝比奈さんをせかして防護服を
モニタからカメラ映像を見ていたが、なんのことはない、手紙を左から差し込んで五分待って右から受け取るだけのことだった。これがただのパイプで、中で五分置いて取り出しても同じことだろうに。
戻ってきたハルヒは、お裁きで文面を読み上げるお
「読むわ。前略、過去から未来へ」
── 前略、過去から、未来へ。あんたがこの手紙を読んでいるということは、あたしはもういないわけね。
どっかで聞いたような文面だな。なんか遺書みたいだぞ。
── これは
超能力者だけが抜けているな。ハルヒはそこで大きく息を吸い、最後の一行を読んだ。
── わたしは、ここにいる。
「十月吉日。株式会社SOS団。
世界ではじめて、時間移動を経験した手紙だった。最初に古泉がパチパチと手を叩きはじめた。それから朝比奈さんが、そして長門とハカセくんが、最後に俺が拍手に加わった。なんの拍手なのかまったく不明なのだが、月面に土足で入り込んで足跡をつけたアームストロングに匹敵するくらいの、人類の記念すべき一瞬に類するなにかだったに違いない。この手紙はハルヒの席の後ろの壁に、額に入れられて飾られることになった。
古泉がこの実証実験にいたく感動したらしく、盛んに
「これをどうビジネスに応用するかというところでしょうね」
「仮に時間移動できるとしても、数十年のワームホールじゃないと利用価値がなさそうだな」
「そんなことないわよ、ねえ見て見て」
「カップうどんなんか何にするんだ」
「このカップうどんはお湯を入れて五分経たないと食べられない。でもワームホールを使うと、あら不思議」
この時点すでにネタバレしてると思うが。ハルヒは防護服を着込みカップうどんにお湯を注いで蓋を閉じ、実験室に駆け込んだ。ワームホールにカップうどんを突っ込み、右から取り出そうとしているらしい。なにやってんだか。五分後、
「あれー、うまくいくと思ったのに。まだ麺がぜんぜん固いわ」
「あのなハルヒ、ワームホールに突っ込んでも、うどんが五分間加速されるわけじゃないと思うぞ」
「むー」
時間論にうとい俺なんかに妙に正しいところを突っ込まれて、ハルヒは口を
ハルヒの考えるしょうもないワームホールの使い道に、古泉がクスクスと笑っていた。
「たとえば一年前の自分に手紙を出す宅配便のようなサービスはどうでしょうか」
それを聞いてハルヒが目を輝かせた。古泉の奴、またハルヒを
「それ、いいわねえ。一年くらいならなんとかなるんじゃないかしら。そこで世界中からスポンサーを集めるのよ。ウハウハだわっ」
「しかしなあ。金取ってはじめたら途中でやめられなくなるぞ」
「こういうのは考えたもん勝ちなのよ。誰かが先にやるかもしれないじゃない、先を越される前にやるのよ。有希、できるわよね?」
「……問題ない」
「さっそく事業計画案書とロードマップを作成します」
「頼んだわ古泉くん」
時間移動技術会議その第二回目とやらのミーティングで、ハルヒは古泉の作成した事業計画案を読んでいた。
「さすがは古泉くん、具体的でいいわね。テスト的に時間差一ヶ月のワームホールでやってみるわ」
「一ヶ月間アレを回しつづけるのかよ。五分でも大量の電力使ってるのに今月の電気代払えんかもしれんぞ」
俺は経理担当者として会社の台所事情が心配だった。
「一ヶ月
「実験の内容にもよりますが、シンクロトロンが一時間あたりだいたい一メガ~二メガワット消費してますから、ええと、」
軽く電子レンジ千台分か。古泉は電卓を叩いた。
「五千八百万から六千万円というところでしょうか」
な、なんですと。このでかいドーナツみたいな機械は電源入れておくだけで月に六千万飛ぶのかよ。もう自前で発電所を建設したほうが安く上がるんじゃないのか。
「未来への投資もいいが、社員の生活もかかってるってことを忘れないでくれよ」
「あたしだって経費のことくらい考えてるわよ。まあ、そのへんは投資家に相談しましょう」
そう言ってハルヒは受話器を取り上げた。投資家ってまさかまた鶴屋さんじゃ。この会社を作るときもいろいろ世話になっといてまだ金をせびるつもりか。言っておくが鶴屋さんちは金のなる木が植わってるとか金の卵を生むガチョウを飼ってるとかいうわけじゃないんだぞ。この不景気、鶴屋家にもいろいろと事情ってもんがあってだなぁ、んー?。
そんな説得も
「もしもし、鶴ちゃん?あたしよ。うん、元気元気」
鶴屋さんの元気に満ちた声が受話器から漏れてきた。勝手につけた略称みたいなニックネームで株主様を呼ぶのもどうかと思うんだが。鶴屋さんも居留守使うとかしてくださいよ。
ハルヒはタイムマシンが出来たから見に来いと誘っていた。いちおうモノが時間を超えることは可能になったので、曲がりなりにも完成したというべきか。
「明日見に来るって」
鶴屋さんの登場はひさびさだ。設立前に気前よく一億円を出資してくれると言ってくれて、あれから
ハルヒの案内で実験室に入り、ワームホールに手を入れて五分後の自分と握手していた。
「すっごいじゃんこれ!」
鶴屋さんはチャームポイントの八重歯を見せて言った。
「ほとんど長門とハカセくんの功績ですが」
「キミがハカセくんかいっ?受験生なのにたいへんだね、あはは」
「どうも、はじめまして」
「いやぁ驚いたさ。まさかほんとに作ってしまうとはねぇ。長門っちタダモノじゃないと思ってたけど、すごい人だったんだねっ」
「……」
長門を人というのは
「それで相談というのはほかでもない、電気代のことなんです」
「これ、えらく電気食うらしいよね」
「そうなんです。フル
「そんなもんかい?数千万の経費ならなんとかなるさ」
「ソフトウェア開発の会社の経費にしちゃ額が大きすぎるんで、ちょっと怖いんです」
「うーん。じゃあ電力会社とかけあって、割引させてみっかな」
「そんなことできるんですか」
「コネがないわけじゃないさ。このビルの屋上、空いてるんだっけ?」
「ええと、クーラーの室外機と水のタンクがあるくらいだと思います」
「じゃあソーラー発電を置きなよ。少しは足しになるから」
なるほど。そういう自家発電もあるのか。
「なんなら地下に原子力発電所を作って電気を売ってもいいさっ、きひひっ」
冗談とも本気とも取れる鶴屋さんに釣られてハルヒの目もキラキラと輝きだした。いくらなんでもそれはヤバすぎますって。盗電ならぬ造電か。
結局このビルのオーナーに頼んでソーラー発電パネルを置かせてもらうことになった。とはいっても、このビルの屋上の面積なら十数キロワットがいいとこだという。焼け石に水だな。電力会社に夜間割引を申し込んでも、鶴屋さんの財布から出してもらわないと全額は払えなさそうだ。やっぱスポンサーをかき集める作戦でいくか。ハルヒがビルの上に風力発電のプロペラを立てるとか言い出さないうちに。
社長命令によりシンクロトロンを一ヶ月間連続
俺は一度自宅に帰り、晩飯の弁当と毛布、シュラフを抱えて戻ってきた。まさか会社に泊まることになるとはな。
「長門、寝袋を調達してきたぞ。軍用の折りたたみベットでもありゃいいんだが。ハルヒに言ってソファを買わせよう」
「……」
長門と二人きりで夜更かしするのははじめてかもしれない。コントロールルームにはテレビもなく、時間を
「コーヒー飲むか」
「……」
長門はコクリとうなずいた。
二人は付き合っていながら異様に会話が少ないと思われがちだが、俺はこの無言のコミュニケーションを楽しんでいる。言葉にしなくても気持ちのどこかが通じているというか。なんというのか、一億と二千年の昔から付き合っているような、そんな感覚にとらわれる。長門の言う、言語では概念を表現できないなにかの繋がりが二人にはあるのかもしれない。
俺は真新しいカーペットの上にごろりと横になって、隣の部屋から聞こえてくるシュンシュンという音を、そのへんに
「なあ長門」
「……なに」
「いつか二人で旅行にでも行くか」
「……そう」
「どこか行きたいところはあるか」
長門は少しだけ考えて、
「……雪国」
「雪か。じゃあ東北だな。来月の連休に温泉にでも行くか」
「……」
コクリとうなずいた。車で行くか飛行機で行くか、あるいはまったりと列車で行くか、などと考えていると長門が口を開いた。
「……ひとつ、質問がある」
「なんだ?」
「……わたしたちのこと」
「俺たちの何だ?」
「……わたしたちは今、特別な関係にある」
「特別っていうと、付き合ってる関係のこと?」
「……そう」
「それがどうかしたか」
「……あなたは、なぜわたしの家に泊まらない」
かなりギクリとした。長門が正面からこういう質問をぶつけてくることは予想していなかった。
確かに男と女が付き合ってれば互いの家に泊まったりもする。だが俺たちはふつうのカップルとは違う。俺は人間で、こいつはヒューマノイドインターフェイスだ。
「それはだな、ええと、」
納得のいく答えを探していると長門は
「……わたしが、人間ではないから」
「うーん……」
俺はどう説明すればいいのか分からず、言葉に詰まった。確かにそうなんだが、でも俺の思ってる意味は、長門が人じゃないから区別しているというのとはちょっと違う。
「いや、そうじゃないんだ」
「……では、なぜ」
俺がなぜ二人の関係を進めることを
「お前にこういう説明をするのも
「……なぜ」
「ええとだな、これはたとえばの話だけど。俺がおふくろから形見に指輪をもらったとする。売ってしまえばただの安い石だが、好きな女に婚約指輪として贈れば最高の品だろ。簡単に金に替えてしまうより、ここぞというときにプレゼントすればかけがえのない価値を持つ」
「……」
「例えが
「……いい。言っている意味は分かる」
「簡単にそういう付き合いになることもできるが、待っているだけの価値はあると思うんだ」
「……分かった」
これは昔なにかのエッセイで読んだ話なんだが、ここで役に立つとは思わなかった。
長門は寝袋を俺の隣に広げ、そこにうつ伏せて読み
「あんたたち、こんなところでなにイチャついてんのよ」
ハルヒがニヤニヤしながら俺たちを指差した。その後ろで古泉がコンビニの袋を下げている。朝比奈さんがいないところをみると未来の自宅に帰ったのか。
「夜勤するならひとこと言いなさいよ。あたしはこういうの好きなんだから」
お前が好きってのは部室とか職場に泊まりこんで夜更かしすることだろう。まあ分からんでもないが。
「お邪魔でしたか」
「いや、ちょうど退屈してたとこだ」
俺は差し入れのビールを袋から取り出した。
「さあなにがいい?トランプも花札もUNOもあるわ。なんなら麻雀でも」
四人で酒を
意識から眠りへの
「あんたたち、いくら仲がいいからって職場でそんなことしちゃだめよ」
「うわっつつ、お前起きてたのかよ」
眠っていたはずのハルヒが腕枕をしたまま俺たちを眺めている。ニヤニヤ度満載である。長門は俺のシャツにしがみついて顔を真っ赤にしていた。
「独身女性の前なんだからね、有希も場所をわきまえなさい」
長門は今にも燃え出しそうなくらいに顔を紅く染めてコクリとうなずいた。うなずいたが離れようとしないので俺はそのまま抱いて眠った。
昼頃目を覚ますと長門はそのままの形で眠っていたが、特に気もせずそのまままた眠りに落ちた。今日が土曜日でよかった。
しかしまあ、これを毎日やるわけにもいかんので、全員が当番制で監視することにしよう。開発部の連中にも
それから一ヶ月してワームホールは完成した。以前に作った五分のやつは消滅した。内部のエキゾチック物質とやらは限りある資源らしく、取り出して再利用したらしい。
長門は夜勤明けで一度マンションに戻って夕方出社、今日はハカセくんもまだ来ていない。ハルヒはまた手紙を書いて送ろうとしていた。
「まだ過去には送れないからな。気をつけろよ」
「分かってるわよ。未来に送るのよ」
ハルヒはまた
ワームホールの波打つ鏡に封筒を差し込もうとしたそのとき、大量の紙くずが流れ出た。ハルヒは紙の
「おい!どこだ」
「ここよここ」
紙くずの海の中からハルヒの手が伸びてきた。俺はその手を引っ張り、海をかき分けかき分けコントロールルームに引いていった。紙くずと思っていたのはすべて手紙だった。
「なんなのよこれは!」
ハルヒはヘルメットをがばと脱ぎ捨て、モニタの映像を睨んだ。手紙の
俺は受話器を取り上げた。
「もしもし、長門か。寝てるところすまん、緊急事態だ」
「……なにがあった」
「ワームホールから手紙があふれてきた」
「……どっちの側から」
「未来からだ」
「……すぐ行く」
俺は
手紙の山がワームホールの反対側、過去の側へ流出しようとしていたので、俺は埋もれそうになりながらダンボール箱とガムテープで塞いだ。十分くらいして
「急いで片付けないとこれ、引火でもしたらたいへんだぞ」
「とにかく、ダンボール箱に全部詰め込んでちょうだい」
「うわ、なんですかこれ」
古泉が出社した。猫の手も借りたい緊急時に即現れるとは、上出来だ。
「未来から送られてきたんだ。ともかく片付けるの手伝ってくれ」
古泉は新しい
最後に一枚だけ、ワームホールからぽとりと手紙が落ちた。それを拾い上げてみると、見覚えのある字で宛名が書かれている。
「おーいハルヒ、お前宛だ」
「この忙しいときに。いったい誰よ」
「お前からだ」
「え?」
── 株式会社SOS団御中 十分な運用の稼動が見込まれたので時間郵便転送サービスを開始しました。
「何考えてんのよあたしったら!」
「まったくだ」
そのセリフを七年間言いたかった俺の気持ちを分かってほしいね。
「“
ハルヒは自分の手紙を投げ捨てた。それを書いたのはお前自身だぞ。
「涼宮さん、これは投資と考えましょう。この事業がうまくいけば億単位で利益になりますよ」
「そ、そうね。さすがあたしだわ、先見の明があるわ」
どうでもいいよ、その先見とやらは。しょうがない、郵便局に電話して引取りにきてもらおう。切手代は料金別納だか後納だかでまとめて出せば少しは安くなるだろう。
ハルヒはなにを思い立ったか、A4コピー用紙に太マジックでなにごとか殴り書きして、クシャクシャに丸めてワームホールに投げ込んだ。
「未来にゴミ送ってどうするんだ」
「経費を請求するのよ。あたしがタダでやるとでも思ってんの?」
あ、これはなんだかまずい展開になりそうな予感がするぞ。
「まあ、いったいこれはなに?」
朝比奈さんが目を丸くしている。
「あ、おはようございます。未来のハルヒが送ってきたんです。全部郵便局に持っていかないといけません」
「誰に送るの?」
「さあ。時間郵便サービスをはじめたんらしいんです」
朝比奈さんは笑顔のまま青ざめていた。
「……紙の、海」
「おう、寝てるところ呼び出してすまんな。手伝ってくれ」
眠いはずの長門も出社して手紙を整理し始めた。明日は休ませよう。
「あれ、これなんだろ」
ショベルカーがあればと思えるような手紙の山を掘り返してようやく床が見えてきたところで、ワームホールの前に落ちている一枚の写真らしきものを拾った。俺とスタッフ全員が映っている。うわ、老けてるな。そこに映っている長門と朝比奈さん以外の全員が中年男女っぽい姿をしていた。俺たち、こんなになっちまうのか。プッ、古泉が
「なになに、見せなさい」
俺がクスクス笑いをしているとハルヒが手を出した。
「おい待てよ、まだ見てんだろ」
写真を奪い取ったハルヒは自分の未来の姿を見てショックを受けたようだった。
「きゃーなにこれ。あたしってこんな小じわができてんの。今日から美顔しなくちゃ」
ハルヒは突然ほっぺたをマッサージしはじめた。老化ってのは生物共通の自然現象なんだから、そんなインスタントでやっても意味ないだろうに。
「は?なにこれ十年先じゃない」
写真の右下の日付が、確かに十年後になっている。
「あたしたちのワームホールの出口って一ヶ月先よね。なんで十年後の写真があるわけ?」
「未来のお前の冗談だろ」
そんな誰が笑うともしれない冗談をハルヒがやるとも思えないが、別に一年後も十年後もたいした違いはあるまい。俺は長門に尋ねる視線をやった。
「……?」
長門にも分からないようだ。たぶんハルヒに言われて俺がパソコンで合成して作った写真なんだろ。手の混んだジョークだ。
「そんなことよりさっさと郵便局に持っていこうぜ」
「うーん……」
ハルヒはなんだか
「ひらめいたわ!」
こんな朝から疲れる日には聞きたくないハルヒの号砲である。
「なんなんだよ。もう金使う話はなしだぜ」
「ちがうわよ。あの写真の意味、あたしへのクイズだったのよ」
「なんだそのクイズって」
「一ヵ月先のワームホールしかないはずなのに、なぜ十年先の写真が送られてきたのか?その答えは」
俺は二十秒くらい考えて、時間論が苦手なのを思い出しただけでやめた。
「その答えは?」
「ワームホールをいくつも作って繋いだのよ!」
まじですか。長門さん、これってまじですか?
「……天才」
「俺にも分かるように説明し、」
「だから言ってるでしょ、時間差一ヶ月のワームホールを十二個作って一年のワームホールを作る、それを十セットで十年よ」
「いくら作っても時間差は同じだろう」
「そうじゃないのよ。別々の二つの穴のAとBを繋いだら、その時間差の分だけワームホールができるわ。時間差十年のワームホールを一度に作るより、一年のものを十年かけて十回作ったほうが間と間でやり取りができるでしょ。完成した部分から使えるわ」
なるほど、そういうことか。ハルヒにしちゃ分かりやすい説明だ。
「あんたの頭が三次元構造なだけよ」
悪かったな、二次元じゃないだけマシだ。
社長の鶴の一声で、この時代のハルヒのひらめきなのか、未来のハルヒのひらめきなのか、
長門の指導で、できるだけ実験室に入らないで済むようにと、ワームホールの前に小型のベルトコンベアを置いて直接箱に溜まるようにした。それからの俺たちは箱詰めの手紙を郵便局にせっせと運ぶはめになった。送料だけでもかなりの額になったが、運ぶのに軽四のワゴンを長期リースしてさらにバイトを雇ったりしたので人件費もかさんできた。やれやれ、時間移動技術は先行投資がハンパじゃないぜ。
未来のハルヒが一通あたりどれくらいの手数料を回収しているかは知らないが、これでまあなんとか収益の見込みは立ったな。などと
「ちょっとキョン、あんた株の取引やったことある?」
「ねえよ。そんな金あったら遊ぶさ」
株式がどういう仕組みなのかは知っている。うちも株式会社のはしくれだからな。とはいっても株式の
「古泉くんは?」
「市場の知識なら多少は心得がありますが」
「ちょっと教えてちょうだい。その、オンライントレードってやつ」
「かしこまりました」
古泉は俺に向かってウインクした。おおかた機関の財テクでも聞きかじったんだろ。あいつらの運営は相当に金がかかるだろうからな。
俺は古泉を呼び出した。このビルに体育館の裏があったらそこでもいいが、ハルヒに気付かれない手近な場所といえば男子トイレくらいしかなかった。
「おい、あんまりハルヒをそそのかすな。今は時間郵送サービスで猫のしっぽも借りたい状態なんだから」
「僕はそそのかしてなどいません。涼宮さんが望んだことです」
「あいつが望めばなんでも
「そうですがなにか」
「そ、そうか」
即答されてなんだかスイマセンと謝ってしまいそうな勢いだった。
「ご心配なく。株というのはそう簡単に儲かるものではありませんから。この道数十年というベテランでも、確実に利益を上げられるというわけではありません」
「株の売買って博打みたいなもんだろう」
「そうとも言い切れません。最近はいろんなタイプの投資がありますからね。ギャンブル性の高い投機から、利率のいい貯蓄としての投資も」
「大損したらどうするんだ」
「それはそれで、涼宮さんにとってはいい勉強になるはずです」
ハルヒを観察しつづけてきて十年、悟りの境地に至ったような古泉らしい意見だった。
「あなたは気がついていらっしゃらないかもしれませんが、高校の頃のがむしゃらな涼宮さんとは違って、今の彼女は抑えるところは抑えてますよ。むやみに暴走しているわけではないようです」
「それが本当ならいいんだがな」
「ひとつ、はっきりさせておきましょう」
「何だ」
「僕はあなたを同僚として、また涼宮さんにもっとも信頼されている人物として敬意を持っています。でも涼宮さんとあなたの意見が分かれるようなことがあれば、僕はどっちにつくでしょうか」
「そりゃあハルヒのほうだな」
「ご理解いただけて非常に嬉しいです」
つまり、なんだ。俺とハルヒが喧嘩したらハルヒの味方をするってことか。
「分かりやすくいうとそうです」
いつになく強気だな。こいつは誰が自分のボスか、自分の中で
次の日、ハルヒは新聞の束をあれこれ読み
「朝からなにを悩んでるんだ」
「どの銘柄を買うか迷ってるのよ」
「素人がいきなり買うより、様子見たほうがいいんじゃないのか。ほら、シミュレーションだっけ」
ハルヒは俺に向かってグーを四回突き出した。
「実・戦・ある・のみ」
こりゃ数千万の損は覚悟しなきゃならんな。
「なに
「なんだ、業界筋にコネでもあんのか」
「ちっちっち。業界筋ってのはガセネタだらけよ。これよこれ」
ハルヒは古新聞を投げてよこした。
「これがどうかしたか。リサイクルしてもちり紙くらいにしかならんぞ」
「だからあんたはいつまでも平の取締りなのよ。日付をよく見なさい」
平で悪かったな。え、これ、未来の新聞?まずいぞ、これはまずいぞ。
「どうやって手に入れたんだこんなもん」
「未来のあたしに新聞をよこせとメモを送ったのよ」
「おい古泉」
「なんでしょうか」
「これってインサイダーじゃないのか」
俺は古新聞を、じゃなくて未来の新聞を見せた。株価のページがあちこち蛍光ペンで色づけされている。
「あははは。これはいい情報源だ」
「笑ってる場合かよ」
「証券取引監視委員会がこれを見てなんと言うでしょうね。地検がこれを証拠として採用するとも思えませんが」
「インサイダーって職務上の立場を利用して得た情報をもとに売買することだよな」
「ええ。でもこの新聞はまだ発行されていませんから、実際は情報は存在しないことに、プッ」
「笑ってる場合じゃないって」
「す、すいません。誰もが考えそうで、誰もやったことがないことですからね。さすがは涼宮さんだ」
おべっか使いの古泉に向かってハルヒはうんうんとうなずいた。
「でしょでしょ。存在しないはずの新聞の、存在しないはずの情報で株を買っても問題ないわよね」
「ええ。
それはやめてくれ。ワームホールを見せてくれってことになりかねん。
「未来じゃ取り締まる法律があるんじゃないのか」
「それは規制する法案が国会を通ってから考えればいいんじゃないでしょうか。少なくとも、今のところは」
うーん。いちいち理屈はあってるんだが、なにか人として間違ってる気がするぞ。
「まあできるだけ目立たないようにしてくれ。その、証券なんとかの連中に目をつけられないように」
「分かりました。できるだけ分散させて、一社を買い占めないようにしましょう。適度に損も出して。損は
「さっすが古泉くん、さえてるわ」
「お
なんだかマフィアのボスが悪知恵に長けた子分をほめてるような雰囲気だぜ。俺はハルヒがやる気なら儲かるだけ儲けさせてみようかという気分になっていた。余った分は役員
その日からハルヒはずっとパソコンのモニタをじっと
「見て見て、上がったわ!」
と喜んでいたと思いきや、
「あらっ下がっちゃった。誰が売ったのかしらね、
どうでもいいけど、株式会社と市場経済の関係、分かってやってんのかなこいつ。そもそも会社が資金調達するための仕組みなんだが。
「まあいいじゃないですか。楽しんでるようですし」
古泉が
「負けた分はあいつの役員
「ええ。無理です。今のところ負けていませんから」
「勝ってるのか」
「一千万くらい利益出てるみたいですよ」
まじか。新聞さまさまだな。
「昨日までの株価と未来の新聞を見比べて買ってるみたいです。人気があっても買われすぎているものには手を出さない、テレビなどで流れたネタの銘柄には手を出さない。チャートやシグナルも、抑えるところは抑えています」
なるほどな。数字に関しちゃあいつは特Aクラスだった気がする。こいつはもしかしたらボーナス増額か。
「あーぁ、疲れたぁ」
午後三時十五分を過ぎると、ハルヒは脱力した大きな
「
「肩の力を入れすぎですよ。もっと楽に構えてください」
「えへへ。分かってるけど、気になるのよねぇ自分の買った銘柄がどうなるか」
「分かります。上がったり下がったりするのを見てるのが楽しいんですよね」
「そうそう。なんだか自分が植えた種が育っていくのが見えるみたいなの」
ただのグラフが本当にそう見えるんだったら、数字に詳しいやつがうらやましいぜ。
「古泉くん、悪いんだけど肩
「おやすい御用です」
「あーそこそこ、効くわ。最近凝ってるのよねぇ」
古泉が
その日の五時過ぎ、
「キョンさん、ですね」
ドリームのテーブルでコーヒーを飲んでいると後ろから呼びかけられた。振り返ると黒いサングラスに黒のスーツを着た男が二人立っていた。おそろいの格好でおそろいの黒の帽子を被っている。白いシャツ以外は頭のてっぺんから靴の先まで黒い。
「そうですが」
「ちょっとそこまで付き合ってもらいたい」
葬式帰りじゃあるまいに、ネクタイまで黒い。見るからに地下組織か秘密組織か、あるいは表向き存在しないことになっている政府の
「悪いが俺は忙しいんで」
コーヒーを飲み終えないままテーブルを離れようとした。背中になにか固いものが突き当たった。全身黒尽くめ野郎が耳元でささやく。
「おとなしく聞いたほうが身のためだぞ」
俺はゆっくりと両手を上げた。それって銃ですか。映画でもテレビドラマでも、日本の日常でほいほいピストルが出現するのはどうかと思うんだが。
「そんなことはどうでもいい。口を閉じて歩け」
後ろからせかされて喫茶店を出た。コーヒー代はもうひとりのやつが払っていたようだった。おごってくれるとは気前がいい。
裏通りに黒塗りの3ナンバーでも待っているのかと思ったが、乗せられたのは、
両手を紐かなんかで縛られてシートに座ると、布袋を被せられ、密閉型のヘッドホンをさせられた。
「すまんが、道を知られたくないんでな」
ヘッドホンからガンガンとヘビィメタルかパンクらしき音楽が流れてきて、俺の鼓膜は今にも破れそうだった。こんなヘタクソな歌聞かされるんだったらスパイの拷問のほうがまだ楽だぜ。
会社のやつらが俺がいないことに気がつくのにどれくらいかかるだろうか。誰かにメッセージを送らなくてはいけない。ポケットに入っている携帯を何とか取り出し、メールボタンを押した。目隠しされているので誰宛に送ったかは分からんが、ともかく指がボタンの配置を覚えている限りでSOSと入力した。受け取るのが誰であれ、救援要請だ、
六時までに俺が戻らなかったら長門が異変に気がつくだろう。あるいは機関の誰かが俺を見張ってて、すでに森さんあたりが動いてくれているかもしれない、などと自分に希望を持たせてみたりした。
流れていた曲が最初に戻ったところで、車を降ろされた。あれがCDかMDのアルバムだったとして、四十分から五十分てところだろう。もしかしたらぐるぐる同じ道を回ってただけかもしれんが。
袋を被せられたままエレベータらしきものに乗せられ、どうやらどこかの建物の地下らしき場所にいることは分かった。問題はどこの建物かなんだが。
固い床の上を歩かされ、パイプ椅子に座らせられた。そこでやっと袋から開放されてご対面となった。部屋は狭く、天井から下がった傘のついた電球が揺れている。テーブルとパイプ椅子が二つあるだけだった。いよいよこいつらの目的が判明する瞬間だ。
「お前の会社が株の不正取引をしていることは知っている」
な、なんで漏れたんだ。ハルヒが
「不正に得た情報で株を売買している。インサイダーは犯罪だ」
「さあて。なんのことやらさっぱりだな」
「我々の
ギク、見てたんすか。
「三日前に車で信号無視をしておばあちゃんを
「あ、あれは雨が降ってて視界が悪かったんだ」
「どうだかな。よそ見してたんじゃないのか。さらに一週間前、我慢できなくて駅の裏で立ちションをした。軽犯罪だな」
な、なんなんだこいつは。機関の連中か。隣の部屋で古泉がほくそえんでるんじゃないか。
「まだある。十日前、飼ってる猫に八つ当たりして蹴飛ばした。動物
あれを知っているのは確か、ええと……。俺は背の高いほうに向かって言った。
「おい、そこの」
「なんだ」
「お前は俺だろ」
「なんのことだ?」
「とぼけんな。いつの時代か知らんが未来から来た俺だろ。それからそっちの小さいほう、お前は長門だな」
「……」
二つのサングラスが互いに顔を見合わせ、俺を見た。
「……なぜ、分かった」
俺たち何年付き合ってると思ってるんだ。お前の雰囲気は目を閉じていても分かるぞ。
「……降参」
黒スーツの長門が両手を上げた。ちっこい方の正体はうすうす気がついていたと思うんだが、背の高い方の正体までは分からなかった。鏡に映った自分の姿は意外と思い出せないもんだ。
サングラスの俺は見たところ、俺よりだいぶ年上のようだった。声も中年っぽい。ここは朝比奈さん方式で俺(大)と呼ぶべきか。俺(大)は長門に向かって言った。
「だから姿を見せないほうがいいって言ったんだ」
「……あなたがついて来るよう願った」
お前らこんなところで仲間割れすんな。どう見てもでこぼこコンビにしか見えん。
「バレちゃしょうがねえな。まあ、そんなところだ」
「いつの時代から来たんだ?」
「十年ほど未来だ」
「どうやって来たんだ?」
「そりゃ時間移動技術に決まってるだろ」
「それは分かってるが、じゃあワームホールは人が通れるようになったのか」
「ワームホールとは別の手段で来た」
「別の手段って、朝比奈さんか?」
「いや、朝比奈さんは来てない」
「じゃあ本当のタイムマシンが完成したのか」
「それは禁則事項だが、まあ曲がりなりにも完成したというべきか」
お前、禁則事項の意味が分かってないだろ。未来の俺はそのへんを突っ込まれると都合が悪いらしく、慌てて話題を変えた。
「さっきの話だが、ハルヒがインサイダーで稼ぎまくったのは本当だ」
「捕まったのか」
「ああ。地検の連中が書類やらパソコンやら全部持っていった」
「どうでもいいが縛っている手をなんとかしてくれ」
「あ、ああ。忘れてた」
俺(大)は手首に巻かれていた安っちいナイロンの紐らしきものを切り、ポケットから新聞を取り出した。近頃の俺はなにかと新聞に縁があるようだ。俺は暗い電球の明かりの下に持っていった。
── 「世界初、タイムマシン」今世紀最大の発明と称する技術が昨日発表された。時間移動技術の実用化のめどが立ったとして、株式会社SOS団(社長:涼宮ハルヒ。鶴屋涼宮グループ)が記者会見を開いた。SOS団は十年ほど前から時間移動技術の開発に着手しており、世界に先駆けての実用化は、長年の実験によって理論化された技術に裏打ちされたものであるという。今回の発表で世界各国の財界、政界、物理学会の注目を浴びているが、日本政府によるコメントは現在のところ出ていない。一方で、政府与党による研究部会、
── 涼宮氏の学生時代に担任教師だったという岡部さん(57)によると「涼宮君は高校の頃から天才ぶりを
あのハンドボール野郎、今になって恩着せがましく
それから俺(大)は新聞をもう一部取り出した。一面には大きく「世界初、時間犯罪」と書かれている。この新聞、世界初が好きだな。
── 「世界初、時間犯罪」株式会社SOS団の
「なんだ、俺って新聞でも本名で呼ばれねえのかよ」
などと感傷に
「逮捕されたんだったらお前らなんでここに来れるんだ?」
「鶴屋さんが
「また鶴屋さんか……。いい加減あの人のスネをかじるのはやめたらどうだ」
「お前に言われたかねーな」
「お前ってお前だろう」
「お前のほうが事の
またそんなハルヒみたいなわけの分からん小理屈を。
「社長が捕まっちゃ会社がやっていけんだろう」
「だからハルヒを止めてもらいたんだよ」
うーん、困ったぞ。ハルヒがいないとワームホールが完成しないが、ワームホールのせいでハルヒが捕まっちまう。
「いや待て。ワームホールがあるからじゃなくて、ハルヒが未来から情報漏れ起こしたからまずいんだろう」
「まあそういうことだ」
「じゃあこうしよう。利益は電気代を払える程度に抑えて、残りは損にする」
「それでもインサイダーには変わらんだろう」
「適当に損を出せばいい。利益を出しすぎるから目をつけられる。それに損をした分は赤字として計上できるらしいしな」
「お前ができるっていうんならいいが。会社
それから俺は自ら頭が痛くなるような質問をした。
「ちょっと聞くが、俺がハルヒを止めるのに成功したんだとしたら、何でお前らがここにいる?」
「難しい質問だな」
「失敗したからここに来たんじゃないのか」
「……
時間論が苦手な二人の俺は
前にも似たようなことがなかったか。なんだろうこの違和感は。
「とにかくだ、ハルヒの進む方向を変えてやらにゃならん。それがお前の仕事だ」
やれやれ、またハルヒの
「まあ俺がなんとかするから、ここは任せて未来に帰れ」
「じゃあ、あとは頼むぞ。俺たちはこれから裁判の準備をしないといけないからな」
「未来はいろいろと大変なんだな」
ああ、この先十年もハルヒから解放されないのだと知った今、気が滅入る。やれやれだぜ。
ドアが開いて長門が飛び込んできた。この時代の長門だ。俺の姿を見ると、目にもとまらない
「……彼になにをした」
「……なにもしていない」
俺の長門は珍しく荒い息をしていた。とにかく落ち着かせないと、こいつらが喧嘩したらえらいことになる。
「おい長門、落ち着け。俺は大丈夫だ」
「……なにが、あった」
「まあその新聞を見ろ」
長門はテーブルの上に乗っている新聞を
「……」
「こいつらはそれを
「……分かった。でもわたしに相談するべきだった」
「……歴史に与える影響を最小限にするべきだと判断した」
「まあいいじゃないか。俺がハルヒを止めれば済むことだし」
俺の長門は複雑な表情で俺(大)を見た。俺を
「せっかく来たんだからメシでも食っていけよ。未来の話を聞かせてくれ」
「それはどうだろうな。いろいろと禁則事項があるしな」
「いいだろ、今までかなり禁則違反してるんだし」
「俺はいいが、どうする長門?」
俺(大)は長門(大)と相談していた。結局二人の俺と二人の長門という奇妙な組み合わせで晩飯を食うことになった。
四人は一旦レンタカーを帰しに駅前まで乗り付け、ハルヒに見つからないようにタクシーで長門のマンションへ行った。
二人の長門はキッチンで晩飯の用意をしていた。無言でサクサクと動く二人は、役割分担が厳密に決まっているようだ。もしかしたら特殊な方法で会話しているのかもしれないが。
「長門、なんか手伝おうか」
「……お客さん」
てめぇは客なんだから居間に座って茶でもすすってろ、という感じでステレオで言われた。俺はすごすごとリビングの座布団の上に戻った。
「
「人間でいうところの双子みたいなもんじゃないか」
前にも似たようなことがあったっけな。
「長門のやつ、ぜんぜん変わらないな」
「あれでも多少は体の分子の再構成をしたんだがな」
「そうなのか」
「ああ。でも俺の希望で二十五才仕様くらいで止めてもらってる」
確かに、俺も長門には今のままでいてほしいと思う。俺(大)の左手薬指を見ながら、思い切って聞いてみた。
「お前たち、結婚はしないのか?」
「それは禁則事項だな。お前が自分の思うところをやればいい」
誰かが似たようなセリフを言っていたことを思い出し、俺たちは顔を見合わせてニヤリと笑った。俺に兄貴がいたら、こういう感じだったのかもしれない。
「ところでお前ら、どうやって未来に帰るんだ?」
「実験室にあるワームホールを拡大して帰れるらしい」
「うちのあれはまだ不安定すぎて質量の大きいものは送れないらしいんだが、大丈夫か」
「……わたしが安定したエキゾチック物質を持っている」
まあ長門にかかればどんな方法でも帰れそうだが。
時計を見ると十一時を回っていた。俺は二人を交互に見ながら言った。
「今日はもう遅いから泊まっていったらどうだ」
「そうだな。ここの長門が泊めてくれるっていうんなら」
「……いい」
いつ用意していたのか、長門がペアのパジャマを出してきた。それってもしかしてほんとは俺用?
「すまんな長門」
「……お礼ならいい。あなたのために用意していた」
俺の長門が頬をポッと赤らめたような気がしたが、なんだか俺(大)のほうが気に入ってるようだぞ。
長門は和室に布団を二つ敷いた。こいつら同じ部屋に寝せて大丈夫か、まさかこいつらあらぬ関係じゃなかろうな。いやいや、いくら自分でもそこまで立ち入るのは
「……この部屋、十年間貸して」
ええと長門(大)さん、どういうことでしょうか。
「……時間凍結で
「……分かった」
俺の長門はコクリとうなずいた。
「よく分からんのだが、解凍するのに長門本人が必要なんじゃないか?」
「……わたしは、いる」長門(大)が長門を指差した。
「ええと、ややこしいが、十年経ったらお前ら二人を解凍して、それから俺と長門が過去に行くのか」
「……そう」
「もし歴史が変わったらどうなるんだ?」
「……その場合は何もなかったことになる。わたしたちは消える」
「消えるって消滅するのか」
「……時間移動がなかったことになるだけ。元の時空に存在している。つまり、あなたたち二人」
説明されると無駄にややこしいが、死ぬわけじゃないんだな。
どうやら本気で十年間の眠りに
「じゃあな。元気でやれよ」
「ああ。お前らもな」
俺の長門が電気を消して
「どうしたんだ?」
「……」
長門(大)はモソモソと隣の布団に潜り込み、俺(大)の腕に寄り添った。
「お、おい長門、こいつらが見てるだろ」
「……このまま、凍結して」
「しょうがねえなぁ」
パジャマの俺(大)の顔は赤くなっていたが、まんざら嫌でもなさそうだった。そんな二人をニヤニヤしながら見ている自分に気がついて、いかん、
長門が詠唱し、
「十年後にこいつらが目覚めるまで、俺も付き合うよ」
「……」
長門は何も言わず、うつむいたまま俺の首に腕を回して抱きついた。未来の二人に当てられたのか、長門はいつまでも離れようとしなかった。
「しょうがないなあ。これから一緒にドライブでもするか」
長門はコクリとうなずいた。こういうシーンを見ると長門はいつも甘えてくるんだ。そこがこいつの萌え要素だったりするのだが。
未来の俺たちの使命に、任せろとは言ったものの、ノリに乗っているハルヒの株取引に水を注すようなマネをしたらイライラがつのってまた
ハルヒに気付かれないようにやめさせる方法はないものか。一気に損を出すと神人が暴れかねんので、少しずつ損をさせて最終的に利益が出ないようにしちまえば、自分には投資の才能がないんだと
俺ひとりじゃ無理だな。資金と人材がいる。こんなときだ、機関に頼もう。金のことなら多少は分かってるだろう。
「古泉、ちょっと来てくれ」
「なんでしょうか。僕はこれから
俺は黙って新聞を見せた。
「涼宮さんがインサイダーで逮捕ですか!?だってさっきそこで会いましたよ」
「日付を見ろ」俺は新聞の端をポンポンと叩いた。
「未来ですね」
「昨日俺が持ってきたんだ」
古泉には通じなかったらしく
「つまり未来の俺が持ってきたんだ。昨日会った」
「ということは、このままいくと
「そうだ。だからハルヒの株売買を
「分かりました。でもいきなりやめろと言うのは無理かと」
「そこでだな、頭のいい誰かがハルヒの売買してる銘柄の株価をやんわりと調整して利益を出さないようにしてくれる、と俺たちは幸せになれる」
「株価操作は犯罪ですよ」
「まあそうかもしれんが、それが誰なのか俺たちはたぶん知らない」
「つまり機関にそれをやれと?」
「どこの機関のことを言ってるのかよくわからない」
目をそらして言う俺は棒読みだった。
「なるほど、分かりました。それなりの資金もかかりそうなので幹部に話してみます」
「ああそれから、古泉」
「なんです?」
「この会話はなかった。お前はまっすぐ打ち合わせに行った」
「……分かりました。僕も記憶にありません」
人に頼みごとしておきながらなんて偉そうなんだと、古泉はちょっとムッとしたようだった。ふっ、そんな簡単に感情が顔に出るようじゃ、地下組織の一員としてまだまだだな。
六時過ぎ、打ち合わせから帰ってきた古泉はやけにイライラしていた。たぶん機関に寄ってきたのだろう。古泉が
「どうだ。やれそうか」
「ええ。ただし、涼宮さんのパソコンを監視させてもらいます」
「カメラか」
「小型のCCDを壁の
「ああ、構わんだろう。俺はよそ見してるから」
古泉は白い手袋をはめてハルヒの机の引出しを開けようとした。
「カギがかかってますね」
あいつ、こういうことはマメなのな。俺なんかロッカーのカギすらかけたことないぜ。
古泉はポケットから、精密ドライバーのような歯医者の七つ道具のような金具を取り出した。それってピッキングですか。ああ、いや俺はなにも見てないからな。スプレー式
「人聞き悪いですよ。これも
引き出しの中はごちゃごちゃと、ゴミ入れなのかガラクタ入れなのか分からないありさまだった。人は見かけによるな。あいつの部屋もこんな具合かもしれん。まあ、ご禁制の品とか出てこなくてよかったが。古新聞の束、新聞の切抜き、銘柄リストなんかが出てきた。
「これくらいあればなんとかなるでしょう。あとはカメラで
「少しは利益を出させてやってくれ。神人が暴れるとお前が苦労する」
「あなたも無理な注文ばかり言いますね」
ニコッと笑った古泉の目の縁がピクと
それから二、三日はハルヒの奇声が連発していた。
「きゃーっ、また上がった!ちょっとキョン見て見て、新聞のとおりよ。このままいくとビルが建つわよ」
「そうかい」
お前が喜んでるせいで俺は
俺の冷ややかな眼差しもどこ吹く風、ハルヒはケタ違いの利益を上げていた。濡れ手に泡だが。ところが、四日目にしてツキが変わったようである。ハルヒが朝からクビをかしげている。
「あれれ、この株上がるはずなのになんで下がってんのかしら」
俺がモニタの陰に隠れてくっくっくと笑っているのに気がついていない。ハルヒの後ろの壁には
「まったく、どうなってんのよこの新聞。ちょっと
そんなこたぁないさ、同じ情報でお前が負けるように操作してるんだからな。
ハルヒが突然机につっぷして叫んだ。
「だあーっ、みんなごめん。二百万負けちゃった」
「ええっ!!」
俺は大げさに驚いてみせた。
「に、二百万って、お、お前、俺の給料の何か月分だよ」
「ごめんね。ほんとにごめんね。次で必ず取り返すから」
パチンコに通うおっさんの言い草だった。俺たちに向かって両手を合わせるハルヒは元気がなかったが、これも仕方あるまい。
日を追うごとにハルヒが謝る回数が増えてきた。皆に向かって腰四十五度で頭を下げたり、両手を合わせて拝んだりしていた。そんなことがあるたびに、俺は昼飯代にしたら何日分か、ガソリンにしたら何リッターか、恵まれない子供が何人養えるか、十円チョコがいったいいくつ買えるかまで
「なあハルヒ、そろそろ
俺は得意の流し目で、
「そうね……」
トータルではたぶん電気代が払えるくらいプラスになっていたはずだが、ハルヒは
次の日、ハルヒはもう画面をぼんやり眺めているだけだった。やややつれている気もする。もう売買はしてないようだ。
「ハルヒ、株はやめたのか?」
「ごめん……また五百万
口を開くのもだるいようで、腕をだらりと下げて机に顔を押し付けていた。俺は古泉に向かって親指を立てた。古泉は苦笑していたが、やがて電話を取りボソボソと誰かに指示を出していた。そろそろ監視もやめるつもりだろう。
「涼宮さん、元気出して。まじめに働けばそれくらいすぐ取り返せるわ」
朝比奈さんがお茶を運んできた。
「ありがと、みくるちゃん。お茶……おいしいわ」
ハルヒがお茶をありがたがるなんて、相当
「みんな、調子に乗ってごめんね。今日で株やめるから。これ以上損したら、あたし食欲なくなる」
どうやら一件落着か。なんだか悪いことしたみたいな気になって、俺はハルヒから目をそらした。
エレベーターホールの自販機でジュースを買おうと席を立ったところで、古泉に呼び出された。また男子トイレか。
「どうやら成功したようだな。世話焼かせてすまん」
「それはいいんですが、実は涼宮さんの利益を調整するために売買していたところ、手違いで数億円の利益が出てしまいまして」
な、なんだって!?そんな手違いで簡単に数億円が手に入るほど世の中に幸運が転がっているのか。
「機関では浮いた金をどうしたものか思案しているんです」
「
「それも考えたんですが、あいにく機関は表向き存在しないことになっていますから。数億円の寄付は裏金の
いまどきそんな
「じゃあハルヒからのご
「ほんとにいいんですか」
「気にするこたないさ。今までいろいろと助けてもらったんだ、それくらいの
「じゃあ幹部にそう伝えます」
「下手に動かすと怪しまれるから、少しずつ経費にまぜろ」
なんだかマフィアに金の洗濯をレクチャーしたみたいな気分だ。森さんや新川さんや多丸兄弟のボーナスに少しでも心づけができりゃ、インサイダーに
その日の帰り、長門のマンションに行くとあいつらの靴がなかった。変だと思って
「消えちまったな。本当に未来に帰ったのかな、あいつら」
「……そう。十年待たずに帰った」
十年後の再会に何かを期待していたのか、長門は少し残念そうだった。
俺(大)が残していった新聞の内容が変わっていた。トップ記事はハカセくんと長門とハルヒが三人揃ってノーベル科学賞を受賞するなどという、とんでもない未来のニュースだった。長門ならその功労を評価されてしかるべきだが、なんでハルヒまでが。それはともかく、ミジンコ並みの生命力で生きていたらしい谷口がインタビューに答えていた。
── 学生時代の涼宮氏と親しかったという谷口さん(33)によると「高校の頃、SOS団を作るようにと進めたのは実は私です。メンバーには
あのWAWAWA野郎、そのうち締めたる。
「労働者諸君、おっはよう!いいこと思いついたわ!」
翌朝、ハルヒがまたドアの寿命を短くする勢いで入ってきた。もうハイテンションに盛り返したのか。
「何言ってるの、あたしはいつでもハイテンションでハイボルテージよ」
「今度は何なんだ」
「競馬よ競馬!大穴を当てるわ」
ハルヒの手には派手な赤と青のスポーツ紙が握り締められていた。
暗転。
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