【仮説一】

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Illustration:どこここ


「……海外出張を、申請する」

朝、長門が出社すると突然言った。真剣な面持ちで、まるでこれから情報連結解除を申請するとでもいうような表情だった。

「え、どこに行くの?」

ハルヒもこの唐突とうとつな長門の意思表示に戸惑とまどい、一瞬目が泳いだ。まさかホンジュラスとかエルサルバドルとか言い出すんじゃあるまいな。

「……スイス、ジュネーブ」

「スイスか、いいな。俺も行きたい」

「あら、ジュネーヴ?いいところですよ、わたしがお供して案内しましょうか」

洋行ようこう帰りの朝比奈さんがニコニコ顔で言った。

「……あなた達は、仕事」

自分は遊びに行くわけじゃないんだと、じっと二人を見た。長門にしたらにらんだというほうが合っているか。

「有希まさか外国に営業に行くつもり?そこまでしなくてもいいのに」

「……時間移動技術のための研修」

「なんだ、そっか。じゃいいわ。ファーストクラスの航空券と三ツ星のホテル取っていいわよ」

「おいおい、いくらなんでも気前が良すぎないか。ファーストクラスの往復つったら楽に百万越すぞ」

「副社長の出張よ、ケチケチしないの」

平の取締役とりしまりやくは肩身が狭いぜ。いつかタイムマシンの開発がこの会社の財政を圧迫するにちがいない。

「……二人分、申請する」

「ハカセくんね。いいわよ」

「僕が手配して差し上げましょうか。旅行代理店をやっている知り合いがいるので」

横で話を聞いていた古泉が口を出した。お前にかかればチャーター機の手配くらいできそうじゃないか。古泉は、それもできなくはないですが、と肩をすくめてみせた。

「アムステルダムとミラノ、どちらの経由がよろしいですか」

「……ミラノ」

「しばしお待ちください」

古泉はどこか謎の相手に電話をかけ、いつもの手腕しゅわんというか機関のコネらしい力技で格安ファーストクラスを手に入れた。格安のってのもなんだか撞着どうちゃく的だが。ためしに航空会社のウェブサイトで明日の便を見てみると、往復百五十万円を超えていた。

 ハカセくんは喜んでいた。なぜか学校が急に休みになり、親の許可もすんなり降りたというのだ。誰の裏操作なんだろね、いったい。第一容疑者と第二容疑者にチラと視線を投げたが、長門も古泉も知らんぷりを決め込んでいる。


 施工せこう中にあやうく海中に沈みかけたといういわく付きの国際空港から、長門とハカセくんは飛び立った。見送るために出発前にロビーで待ち合わせたのだがなぜか二人とも手ぶらで、旅行者がゴロゴロ引きずっている例のスーツケースがない。ハカセくんは学校のカバンだけ、長門はいつものがま口を握っているだけだった。しかもその普段着、ちょっとスーパーで豆腐買ってきますねという格好じゃないか。しかもゾウリ履きですか。

「お前たち、荷物は?」

「ええと、長門さんがいらないというので、パスポート以外は何も持ってきていません」

「……荷物など、不要」

確かに一理ある。せっかくの旅行が重たい荷物のせいで楽しさ半減してしまっているこのリゾート時代。異国情緒も肩こりで消し飛んでしまうってもんだ。ともかくまあ、盗られるもんがないのはいいことだ。

「なんかあったら大使館に駆け込むんだぞ、スイスのおまわりさんでもいい」

スイス銀行に隠し口座でも作っておいてやるべきだったかな、などとどうでもいいことを考えていると、飛行場の端のほうからミラノ行き七七二便は飛び立った。ああ、餞別せんべつやるの忘れてた。


 一週間後、二人が帰ってくるというので車で迎えに行った。

「先輩、先輩っ」

ゲートから大声で呼ぶ少年の声が聞こえた。その後ろから長門がペタペタとゾウリを鳴らして歩いてくる。いつもの表情の長門で、なんだか旅行を楽しんだ余韻よいんがない。長門は俺の姿を見つけると、ダダッと走り寄ってきて俺に抱きついた。荷物があったらすべて投げ捨てて走ってきそうな勢いだった。

「な、長門、いきなりどうしたんだよ」

「……西洋の空港ロビーにおける、ならわし」

そうか。すっかり西洋かぶれして帰ってきたようだ。ハルヒが見てなくてよかった。

「ハカセくんもお疲れ。どうだったスイスは、マッターホルンとか見に行ったか」

俺は二人が帰ってくるのを待っている手持ち無沙汰ぶさたに、ウェブでスイスのことをあさっていたのだ。なんなら人口と国民総生産も言えるぞ。

「実はほとんど観光はしてないんです。実験施設にいたもので」

「実験って、スイスで?」

「はい。ずっとセルンにいたんです」

セルンって聞いたことないな。どこらへんの町だろ。

欧州原子核研究機構おうしゅうげんしかくけんきゅうきこうですよ、有名じゃないですか」

「そんなところで何の実験?」

「ずっとエキゾチック物質を作ってたんです」

「それって外国に行きたくなるような物質?」

よく分からんが、ともかくハイジャックにもわず墜落もせず無事でなによりだ。俺は二人をせかして車に乗せた。

 その、セルンとかに行けたのがよほど嬉しかったらしく、ハカセくんは車の中で物理学専門用語をあれこれ並べてそのすごさとスケールの大きさとやらを俺に説明していた。地下百メートルの衝突しょうとつ点だとか円周二十七キロメートルのリングだとか、さっぱり分からんと気をいでしまうのもなんなので、俺は曖昧あいまいに返事をしながら円周一・二メートルのハンドルを握った。助手席の長門は疲れたらしくスヤスヤと寝息を立てて眠っている。後で古泉に聞いたのだが、セルンってのは素粒子そりゅうしを研究する世界的権威の集まる実験施設で、そう簡単には実験なんかさせてもらえないのらしい。何年も前から予約しないといけないはずなのだが、長門の通っている大学院を通じてか、その筋の独立行政法人を経由してか、どっちにしても情報操作とやらか。


 長門が帰ってきて早々の翌日、ハルヒが全員集合をかけた。

「えー、第一回時間移動技術会議ぃ。有希とハカセくんの成果を聞くわ。記念すべき回だから、キョン、居眠りなんかしたら減俸げんぽうだからね」

わかってるさ。我が社の本来の事業内容だからな。議事進行はハルヒ、パネラーはハカセくん、なぜか俺が議事録ぎじろく係だ。朝比奈さんがプリントアウトした資料を配り、ハカセくんがポインターでホワイトボードを指しながら解説した。長門がそれをじっと見守っている。

「えーと、まず、物理学の世界ではよく知られている時間移動技術について説明したいと思います。図を見てください」

ハカセくんは黒い背景にラッパが二つ並んだような絵を指した。これ、もしかしてハカセくんが描いたのか。妙に絵心があるのは知ってはいたが、こんな科学雑誌っぽいかっこいい絵を描くなんて、進むべき道を間違ってんじゃないか。

「もっともポピュラーな時間移動理論はワームホールを使うものです。

 僕たちの住む空間にワームホールで繋がったAの穴とBの穴があるとします。

 Aの穴から入った人は即座にBの穴から出てきます。二つの穴がどんなに離れていても、トンネルを移動する時間は一瞬で済みます。

 次に、Bの穴が離れたところにあって、光の速度で動いていたとします。光速に近づくにつれ時間の進み方が遅くなりますから、Aの穴との時間差が生まれます。これでタイムトンネルの出来上がりです」

ハカセくんは長門に向かって、これでいいんですよね?という顔をした。長門以外の全員は、は?という顔をしていた。こうあっさり味の時間移動だと突っ込みどころがない。

「そんな簡単でいいのか」

「簡単といいますか、実際には膨大ぼうだいなエネルギーと複雑な工程が必要になります。原理としてはこんな感じです」

「Aの穴とBの穴が不思議な空間で繋がってて、Bの穴が光速で移動してるだけ?」

「そうです」

こんな簡単な理屈で作れるならあまり苦労なさそうだが。ほんとにこれでいいのか?俺は長門を見た。長門は研修生を見守っているベテランの教師のような顔をしてうなずいた。

「いや、なんというか、もっと分かりづらい複雑怪奇な方程式やら複素数ふくそすうやら未知の物質やらが出てくるのかと思ってたんだ。意外にあっさりしてて拍子ひょうし抜けしたというか」

「ハカセさん、よくタイムトラベルの疑問点になる空間の座標についてはどうなんですか。宇宙空間で考えたとき、ワームホールの口を地球上に固定しておけるんでしょうか」古泉が尋ねた。

「ええと、これはSFなんかで出てくるタイムトラベルとは違って、こういう性質を持った時空を作る、と考えてください。ですから地球の自転と公転、太陽系の公転などの物理的な動きについてゆきます」

常々思っていた不思議がこれで解決した気がする。映画に出てくるタイムマシンは地球の自転についていってるんだろうかと。百年後、地球が同じ場所にあるとはとても考えられないよな。まあ俺の突っ込みはどうでもいいとして。

「問題点はないのか」

「たくさんありますが、まず、この手法ですとタイムマシンが完成するより過去には行けません」

「それはどうしてだ?」

「ワームホールが完成してから時間移動が可能になります。つまりワームホール発生より以前には行けないんです」

「ほかには?」

「タイムトラベルをしたい分の時間だけ、Bの穴を時間停止させないといけません」

なるほどね。じゃあ仮に五年のタイムトラベルがしたかったら、五年間はワームホールを維持しないといけないわけだ。鶴屋さんに頼むくらいじゃ経費が追いつかないかもな。

 ずっと静かだったんで様子が変だなと思っていたハルヒが、目んたまのキラキラを抑えきれなくなってやっと口を開いた。おい、興奮のあまりほっぺたがプルプル震えてるぞ。

「今すンぐにでも実験にかかってちょうだい」

「時間移動には理論がまだいくつかありますが、これを採用していいんですか?」

「シンプルに越したことはないわ。それで、いつから実験できそうなの?」

「機材さえ揃えばいつでもはじめられます」

「経費で落とすから必要なものを言ってちょうだい。なにがいるの?」

ま、また経費か。最近のハルヒの口癖は経費で落とす、らしい。経費って無尽蔵むじんぞうのエネルギーかなんかと勘違いしてないか。核でさえ半減期はんげんきがあるってのに。

「重イオン生成器がいります。それから片方の口の時間差を作るためにシンクロトロンがいりますね」

「シンクロトロンって粒子加速器ですね。セルンとか筑波にあるような。放射光用なら確か地元にもありますね」古泉が口を挟んだ。

「それ、どこで買えるの?」

「ふつうには入手できないでしょう」

「どこかに売ってくれるか、作ってくれる会社ないかしら」

「僕にお任せください。探してみましょう」

ほんとに大丈夫か。いくら機関とはいえそんな原子核をいじるような機械が手に入るのか。

「小型のシンクロトロンなら医療機器として使われていますよ。なんとかなるでしょう」

病院にタイムマシンまがいの機械があったなんて知らなかった。古泉が笑って言った。

「あれはタイムマシンではありません。れっきとした医療機器ですよ、放射線治療なんかで使われます」

「そんなでかい機械、置く場所ないだろう」

「このビルのどこかに空き部屋があるはずですが、なかったら作りましょう」

それって住んでる誰かを追い出すってことか。古泉は何も答えず、ただ微笑ほほえんでいるだけだった。ニヤリ、と。


 翌日、十トントラックが数台とクレーン車がやってきた。窓から見下ろすと、荷台にでかい箱が載っていた。核廃棄物に貼ってあるような黄色いマークが貼ってある。

「なんだあれ、核燃料でも運んできたのか」

「涼宮さんご注文の品です」

「まじで手に入ったのか」

古泉は、だから言ったでしょう、という表情をした。

「さすがにエレベータや階段では運べませんからね、廊下にある荷口にぐちからクレーンで入れます」

「それはいいんだが、いくらしたんだ?」

「詳しくは機関の経理担当しか知りませんが、地方自治体の予算並み、とだけ言いましょうか」

数千万、いや数億円か。いくらハルヒのためとはいえ、そんな金使わせて大丈夫か。

「昔から金は天下のまわりモノ、と言いますね。いつか我々にめぐってくると信じています」

機関の運営の収支しゅうしはどうなってるのか、正直謎だ。もしかして政府やら影の巨大資本グループとかが関わってるんじゃないだろうな。古泉は、さあてどうでしょうねという顔をしていた。

 古泉の予言どおり二階のフロアに空き部屋があったらしく、そこに分割された機械類を運び込んでいた。開発部の連中が興味津々しんしん覗きに来ていたが、工事のおっさんに追い立てられて小学生のように散らばった。

 部長氏がなにごとかという顔をしていた。

「やたらでかい洗濯機みたいだけど、なにがはじまるんだい?」

「さあ。社長の趣味でクリーニング業をやるらしいです」

「あ、じゃあうちの布団を丸洗いとかやってもらおうかな」

まさかタイムマシンを作ってますなんて言えない。それにしても、部長氏の部屋はベットじゃなかったですか。

「ドアに暗証キーまでつけてるけど、クリーニングってそんなに厳重なの?」

「特許を取るまではまだ秘密らしいです」

「そりゃすごい技術なんだろうね。完成したらぜひ見せてくれ」

俺はいいやともうんともいえない曖昧あいまいな返事をした。俺の一存で秘密を明かすのは無理だな。


 一週間後、工事が終わった。おそらく機関のコネで強引に空き部屋にさせられた二階のフロアを仕切り、広いほうに直径六メートルくらいのドーナツの親玉みたいなでっかいリングと、車ほどもありそうなスチール製の箱、圧力計やら赤いハンドルやらが並んだき出しのエンジンみたいな機械が並んでいた。狭い仕切りのほうにはプレハブみたいな部屋を作ってパソコンやら制御機器が並んだコントロールルームになっている。

「みんな、記念すべき第一回の実験を開始するわ。これ着てちょうだい」

こいつは記念すべき第一回が好きなようだ。

「なんだ、白衣コスプレか」

「違うわよ。この部屋は実験室だからホコリを出したくないの」

俺たちは科学者が着るような白衣を着せられて実験に付き合った。ドクターウェア、とかいうんだっけこれ。これで朝比奈さんがナース服でも着てくれたら完璧なんだが。などと考えていると、朝比奈さんがこれまた妙な格好をして現れた。四隅よすみが角張った丸っこい帽子、詰襟つめえりだけが白くてほかは黒くて長い衣装、肩にかかったマフラーみたいな帯、白いレースのチョッキに身を包んでいる。なんだろこれ、神父コスプレ?

「スイッチを入れる前におはらいをするわよ」

「す、涼宮さん、わたしはあれほどいやだって言ったのに……」

「みくるちゃん、これはコスプレじゃないの。立派な仕事よ。どんな建物でも家内安全を願って地鎮祭じちんさいをやるわ」

「それは知ってるんですけど……地鎮祭じちんさいって神主さんじゃ」

「たまには洋風がいいの。さあこれ読み上げて。その三十円棒付き飴みたいなやつで清めながらね」

ハルヒからメモ用紙を受け取ると、朝比奈さんは銀色のスプーンのような子供のおしゃぶりのようなもので水をぽとぽとき始めた。

「ア、アッラーフンマぁ~あ、インナぁ~ナスタイーヌカ~ぁ」

それってアラビア地方で朝とか夕方に聞こえてくるアレじゃないですか。コスプレとミスマッチすぎますよ。

「いいのよ。鰯の頭も信心からというでしょ」

そんなバチあたりなことわざ使って、感電しても知らんぞ。

「す、救いたまへ~清めたまへ~」

もうどの神様か分からなくなってきている朝比奈さんが実験機材を祝福している間に、こっそり長門に尋ねた。

「放射能とか有害な電波とか漏れないだろうな」

「……この部屋全体を重力子シールドした。どんなエネルギーも遮断している」

「ほんとだ。携帯が圏外だな」

そりゃよかった。って、部屋の中にいる俺たちはどうなるんだ。

「……実験中は体表にシールドを張る」

「腕に噛み付くあれか」

「……そう」

俺と古泉と朝比奈さんはいいが、ハルヒとハカセくんにあれをやるのはどう反応するか。ドラキュラの真似だとかいって噛み付いてみるとか。

「おはらいも終わったし、そろそろはじめるわよ」

「……全員に放射線パッチを貼る」

「それなに?」

「放射線の被爆ひばく量を測定するシールみたいなものですね」

なるほど、それがナノマシン入りか。全員に腕まくりをさせて、長門がサロンパスのようなシールをぺたぺた貼り始めた。まるでニコチンパッチだな。ところが俺の番になるとシールを貼らず、腕にかぷりと噛み付いた。朝比奈さん以外の全員が不思議そうな顔をして俺と長門を見ていたが、長門はなにごともなかったかのように俺の実験着のそでを伸ばした。俺もなにごともなかったかのような顔をした。いっそ首筋にでも噛み付いてくれればよかったのに。

 長門がパネルをいじって設定を始めた。パネルに色とりどりのランプが灯り、パソコンのモニタに数字が流れた。ハルヒはもう、そのコックピットのようにぴかぴかと点滅するランプ群を見るだけで満足そうだった。ハカセくんは自分のノートを開いて手順を確かめている。

「さあ、緊張の一瞬よ」

「……冷却パイプ、稼動開始」

「いきます」

長門が指示してハカセくんがプッシュスイッチを押した。ズンズンと温度カウンタの数値が下がっていった。数字がマグロの冷凍倉庫よりさらに下がり、絶対零度くらいにまで下がったところで長門がキースイッチを回した。

「……金属磁性体コア、通電開始」

ウンウンとうなるような低音が響き、磁力計のガウス値が急上昇し始め、いくつも並んだ液晶モニタの折れ線グラフが山と谷を描き始めた。原子力発電所のコントロールセンターってこんな感じなんだろうかね。

 それから二十分くらい、長門とハカセくんが固まったまま動かないので尋ねた。

「この後はどうなるんだ?」

「……温度と磁場の安定を待つ」

「その後は?」

「……金属原子から電子をぎ取りイオンを作る。さらに原子核を衝突させて素粒子そりゅうしプラズマを作る。さらに圧縮し高密度化してから、」

「そのプラズマの中に発生した小さなワームホールを取り出すんですよね」

長門はうなずいた。なるほど。素人は黙って見てたほうがよさそうだ。

「……あ」

「どうした?」

「……イオン源の材料を忘れた」

「材料ってなんだ?そのへんで売ってるようなものか?」

「……水銀、金、鉛などの重い金属。買ってくる」

「待て待て、金ならたぶん持ってる」

長門が椅子から立って出ようとしたので止めた。俺はタイピンを外して長門に渡した。金じゃないが、たしか一部プラチナのはずだ。長門はそれを大事そうに両手で包んだ。

 長門は核燃料庫にでも入るような全身黄色尽くめの宇宙服のようなものを着て、ニューヨークの消防士が被るようなヘルメットとマスクをつけ、俺のタイピンを持って隣の部屋に入っていった。

「そんなに危険区域なのかここは」

「……しゅこー」

こいつのフォースは強力だ、とか言い出すんじゃなかろうな。


「……次の段階」

「白金をイオン化する工程ですね」

「……そう。まず、プラチナをガス化する」

白金を蒸発させるってすごいエネルギーがいるんじゃないか。長門が液晶モニタのひとつを指した。CCDカメラの映像らしく、実験室の一角にある大きなガラスの容器の中に金属製の皿が置いてあり、その上にタイピンの欠片かけららしきものが乗っている。光沢がなく、白っぽくなっている。

「あれがプラチナ?」

「そうです。温度を上げて瞬間的に高電圧をかけると気体になります」

ハカセくんが一瞬だけスイッチを入れると、パチッと火花が散ってタイピンの欠片かけらが消えた。煙も立っていない。

「イオンガスはできたんでしょうか?」

「……ガラスは密閉されて真空。重さが変わっていなければ気体になったということ」

長門は再び、アナキンスカイウォーカーのなれの果てのようなかっこうで実験室に入っていった。モニタを見るとガラスの容器を両手で抱えている。おいおい大丈夫か。カメラに向かってうなずく長門が見えた。まあこいつなら放射能だろうがエックス線だろうがおかまいなしだろうけど。いつだったか朝比奈さんのコンタクトレンズから飛び出た凝集ぎょうしゅう光やら粒子加速砲やらを受けても平気な顔をしていたもんな。

「次はガスを加速器に注入して電子を抜き取るんですね」

「……そう。光速の八十パーセントまで加速、炭素薄膜はくまくを通過させて電子をぎ取る」

 退屈したのか、ハルヒがあくびを噛み殺しきれないで涙目になっていた。

「すいません、この作業は時間かかるだけで退屈なんです」

「いいのよ。寝不足なだけだから。気にしないで続けて」

「じゃあ、イオンビームを入射します」

ゴンゴンとビルの工事現場で鉄柱を打ち込むような音が響き、天井の蛍光灯の光がチラチラ瞬き始めた。忘れていたが、このビルの電力足りてないんじゃないのか。

「この音、なんだ?」

衝突しょうとつ点が震動しているんだと思います。電子を抜き取られたプラチナの原子核が衝突しょうとつして、プラズマが生まれているあたりで」

「ということはシンクロトロンの中は今プラズマ状態ですか」古泉が質問した。

「……そう。クォークの泡が生まれているはず」

「なるほど。陽子と中性子が砕けてるんですか」

ともかく、俺のネクタイピンが素粒子そりゅうしレベルにまで粉々になっているということは分かった。


 そこからの長門とハカセくんの会話は俺には理解できなかったが、この元プラチナだったものが分解して何かエネルギーのかたまりのようなものになった状態がプラズマらしい。それをZピンチとかいう方法でぎゅっと圧縮して、ウランの十の八十乗倍だか九十乗倍だかの高密度の小さな玉を作る。大きさはだいたい十のマイナス三十五乗メートルとか、俺には想像することすらできない数字だ。

 じっとモニタの数値を見ていた長門がつぶやいた。

「……すでに空間のひずみの種はできている」

ハカセくん以外には分からなかったらしく、無反応だった。長門はもう一度言い直した。

「……ワームホールの、種」

「ええっ、できたの!?」

居眠りしていたハルヒが突然椅子から飛び上がった。

「……まだ、プランク長さの種」

「そ、そう。どれくらいで芽を出すの?」

長門は自分の例えがまずかったのかと首を傾げたが、

「……この種は壊れやすい。上位の素粒子そりゅうしに戻ることもある」

「その種というのはもしかしてミニブラックホールですか」

「……特異点とくいてんとしては、ブラックホールとワームホールの区別はない。この状態ではどちらにもなりうる」

そのワームホールの種とやらは、簡単に消滅してしまうらしい。気がつかないとかいうレベルじゃないくらいのほんの短い時間で。

「ということは、そのワームホールの片方を光速で動かせばいいだけ?」

ここでやっと俺が口を挟んだ。

「……まだ。この種は小さすぎる。電子も通過できない」

「電子は十のマイナス三十一乗メートルですから、この種はそれより小さいんです」

ハカセくんが補足した。なるほど。

「で、大きくできるのかそれ」

カメラとかじゃとても確認できるサイズじゃないので、そこにあるものとして俺は言った。長門がジャラジャラとビー玉を取り出した。あ、それ、もしかしていつぞやのアレか?

「……そう、素粒子そりゅうし球の一種。エキゾチック物質を閉じ込めてある。種に注入して口を広げる」

「ここでやっと使えるんですね」

なるほど。スイスでそのビー玉を作ってたのか。

「……粒子加速砲を用意」

「了解しました」

そんなもんがあったのかここには。日本海を越えて飛んできたミサイルを打ち落とせそうだな。

 カメラの映像を見ているとシンクロトロンの外側に並んだ長い棺桶かんおけのようなビーム砲とやらに、ビー玉を仕込んでいた。

 長門の説明によれば、このワームホールの種はAとBの穴の口が前後にくっついた状態にあるんだという。それを広げて、ラッパの管の部分を伸ばしてやらないとモノが通過できない、らしい。

「……空間のひずみにエキゾチック物質を〇・〇二秒照射しょうしゃ

「穴の大きさって確認できるのか?」

「……このサイズでは、現代の技術レベルでは測定できない」

そんな。手探り状態でやるのか。……わたしには、見えている、と、長門がこっそり耳打ちした。なるほどね。

照射しょうしゃ完了しました」

「……直径を電子が通れる程度にまで広げた。電子を照射しょうしゃ

さっき使ったビーム砲に真空管のようなものを挿していた。あ、それは分かる。テレビのブラウン管と同じ原理で電子を打ち出すわけだな。


 裏でいったい何が起ってるのか分からないのがこの実験のミソらしいが、長門とハカセくんにはちゃんと分かっているらしい。

「電子をくっつけて荷電かでんしました。次はいよいよ時間差を作るんですね」

「……そう。種を加速器に戻して」

時間差ってどうやって作るんだろ?現代にそんな技術あんのか。

「さっきの説明のとおり、種を動かして光の速度に近づければ時間が止まります」

そういうものなのか。俺は小さな柿の種がリングの中をごんごんと回っている様子を妄想した。

「何回くらい回すんだ?」

「……タイムトラベルしたい時間だけ可能」

「ってことは一時間回せば一時間の時間差?十年だと十年の時間差?」

「……そう。この実験では、五分」

長門が言ったとおり、それから約五分してシンクロトロンの音が静かになった。


「時間差の生成が完了しました」

「……次は、水」

長門は、リングからニョキニョキ生えている管に繋がっているガラス容器の前に、ミネラルウォーターのペットボトルを置いた。それから照明を落とし、部屋を暗くした。

「……電子が通過する。カウントして」

「はい。三、二、一、スタート、一、二、三……」

ハカセくんが数えている間の五分間、全員が無言のままだった。五分後、ほんの一瞬だけペットボトルからストロボをいたような閃光せんこうが走った。しばらく何が起ったのか分からず、ただ黙っていた。

「あ、チェレンコフ光だよな。今の、」

俺は自分が知っている数少ない物理現象のひとつを嬉々として口にした。チェレンコフ光ってのは、電気を帯びた粒子が光速で水の中を通るときに減速して起る光、だったかな。

「……びんご」

長門がうなずいた。コンマ一秒単位で記録されたモニタのグラフを確かめている。

「……閉じた時間曲線が発生」

「あの、先輩」

「ん?なんだ?」

「実験成功です……」

にこやかに、やや紅潮したハカセくんにそう言われてみんなはやっと気がついた。

「えっ、じゃあ今のは世界初のタイムトラベルだったんですか!?世紀の発明の一瞬だったんですね。涼宮さん、一個の電子が時空を越えて旅をしたんですよ」

古泉が目の前で起った感動のシーンを説明していたが、ハルヒと朝比奈さんはいまいち分かっていなさそうだ。

「長門、その、電子サイズのワームホールとやらはもっとでかくできるのか?」

「……口を広げると不安定になりやすい。質量の大きなものは通過できない」

「許容範囲まで広げるとしたら、どれくらいだ?」

「……直径二十センチ程度」

それだけあれば紙の一枚くらいは送れるだろう。メッセージは送れるわけだ。


 時計を見ると昼過ぎていた。俺たちはとりあえず昼飯にすることにして、一旦休憩となった。ところがシンクロトロンとやらは電源を切ると再稼動するのにまた時間がかかるらしいので、長門とハカセくんはコントロールルームに残った。

 ハルヒが腰をとんとんと叩いて背伸びをしながら言った。

「この分だとタイムトラベルができるのはだいぶ先になりそうね」

「世紀の大発明だ、一両日中ってわけにはいかないさ。科学は地道な実験の積み重ねだからな」

「それはまあ、分かってるんだけど」

今すぐ手に入れたい、今すぐやってみたいというハルヒのいつもの待っていられない性分しょうぶんで、二人の科学者をせかしてしまいそうだ。ハルヒが望めば今すぐにでも完成させられてしまいそうな勢いなのだが、そのへんの兼ね合いをどうするか、長門も苦労するところだな。

 ふと駅前の時計を見上げると妙なことに気がついた。十二時をまわったばかりのはずが二時になっちまってる。

「キョン、あんたの腕時計遅れてない?」

「ありゃ、なんでだ。秒針は回ってるから壊れてはいなさそうだが」

俺は腕時計を振ってみた。変に思っていると携帯がなった。

「俺だ」

「……実験室内の重力子による副作用が出た。外の時間と進み方がずれているはず」

「なんだって!?じゃあ俺たちは二時間タイムトラベルしちまったのか」

「……許容範囲。今、調整している」

「分かった。お前たちも適当なところで休め」

俺は電話を切って、先に行こうとしている三人を追いかけた。

「おい、実験室の中と外で時間がずれたらしい。今はもう二時だ」

「え、ほんとなの?」

「ちょっとした浦島太郎の気分ですね」

なに呑気なこといってんだ古泉。ハルヒは妙に考え込むような表情をしていた。

「それは困ったわ」

「二時間くらいなんてことないだろ」

「ランチタイムが終わってしまうわ!全員走れ!」

ハルヒはいつものイタ飯屋をぐいと指差し、路上にぽつりと俺だけを残して部下二人を連れて走り去っていった。やれやれ、あいつらは大発明より食い気か。

 俺は古泉に長門とハカセくんに昼飯を買って帰ると電話して、地下鉄みたいな名前のファーストフードに入った。科学者ってのはなにかとインスタントに頼りがちだと考えるのは俺の偏見へんけんかもしれないが、ちゃんと栄養を取らせないとな。俺はオーダーサンドイッチとコーヒーを三人分テイクアウトして実験室に戻った。

「おう、差し入れだ」

「ありがとうございます先輩」

「この部屋って給湯室がないよな。コーヒーメーカーを買わせよう」

長門はコントロールルームのパネルを眺めながら、受け取ったサンドイッチをもさもさと食っていた。それだけじゃ足りなさそうなので俺の分も渡した。Lサイズにしときゃよかったな。ハルヒの携帯に差し入れをよこせとメールしとこう。


 午後の実験は、ハルヒがバランス栄養食やら菓子やらペットボトルやらを箱買いして戻ってきてから再開した。

「……次の行程。穴の直径を広げる。エキゾチック物質を三秒照射しょうしゃ

「了解しました」

 長門はさっきの実験で電子が通過したというガラスの容器に、分厚い金属製の覆いを被せた。

「ワームホールって肉眼で見えるのか?」

「ええと、どうでしょう。穴の中からなにが出てくるかによると思います」

「……そう。通常の光が出てくれば水銀灯の球のように見える。逆に光を吸収すれば黒い球体のように見える」

なるほど。ワームホールというから空間にラッパのような穴が開いているのかと思っていたが、そうでもないんだな。

「絵とだいぶイメージが違うな」

「あのラッパの図は分かりやすく平面上の穴で説明しているだけです。実際は三次元の穴ですね」

「……照射しょうしゃ、開始」

「一、二、三。完了しました」

長門がまた黄色い防護ぼうご服を着て中に入った。金属製の覆いを取ると、ガラスの中にはかがみのような薄い膜に包まれた球体がぼんやりと浮かんでいた。半球の右側が黒っぽく、左側がCDの裏面に光を当てたような複雑な色をしている。俺もハルヒもほかの二人も目を見張った。

「これ、もしかしてそうなの!?」

「……そう。時間移動の地平面」

「完成です、完成ですよ!」

「…………」

これは長門の無言の三点ダーシではなくて、俺たちの無言だった。なんと表現すればいいのか、宇宙からやってきた神秘的な物体Xのようだ。

「長門、近くで見てもいいか?」

「……いい。ロッカーにもう一着あるはず」

俺は重たいヘルメットと黄色い防護ぼうご服の重装備で実験室に入った。ヘルメットの前面はアポロ計画で使われた宇宙服ヘルメットのように金色に輝いていた。紫外線フィルターか。長門に手をひかれてガラスびんのそばに寄った。

 よくよく見てみると、左側はシャボン玉のように、見る角度によって色が変わるのが分かる。少し波打ってるようにも見える。反対側から見ると真っ黒だ。

「これ波打ってるみたいだが」

「……まだ安定していない。しゅこー」

「ガラスびんを開けてもいいか?」

「……いい。その前にフィールドを展開する、しゅこー」そのしゅこーって口で言ってるだろ。

 長門はカメラから見えないようにガラスにそっと手をあててブツブツと詠唱し、円筒形の青白く光るフィールドを作った。

「それで、どうやって時間移動するんだ?」

「……鏡の側に物質を押し込めばいい」

俺はもやもやと動いている鏡にそっと触れた。手袋ごしに手を差し込んでみたが、波紋を作ってそのままスゥと吸い込まれるように消えた。裏側にはなにもない。なるほど、簡単じゃないか。

「反対側から送り込んだらどうなる?」

俺は真っ暗な半球に手を差し込もうとした。

「……待って!」

長門が咄嗟とっさに俺の手をつかんだ。

「……そっちの側からは過去へ繋がっている」

「これ両面とも繋がってるのか」

「……そう。もう五分待たないと、危険」

「さらに五分?」

「……今より五分間前には、まだ過去の口は完成していない」

なるほど、そういうことになるよな。

「っていうことはあれか、過去に行く口を作るには、時間停止させた二倍の時間がかかるってこと?」

「……正解」

分かりやすくいうと、ワームホールの片方の時間を凍結してから取り出し、凍結した時間の分を待たないと過去に通じる穴として使えない、ということだ。当然、過去に開いた口はまだ電子サイズなわけだし、手を突っ込んだりしたら素粒子そりゅうし並みに分解してしまうかもしれない。十年のタイムトンネルを作るには二十年必要ってことだ。無駄にややこしい。

 五分ほど待っていると、反対側の色がだんだん明るくなってきた。こっちもCDのように虹色に反射している。

「……過去にも繋がった」

俺が過去に繋がっているという側から手を差し込もうとすると、黄色い手袋がニュルリと出てきて冷や汗をかいた。

「こ、これってさっき俺が差し込んだ手か」

「……そう。こちらの半球は五分過去に繋がる」

ここで俺が出てきた手を握ったりしたら歴史が一致しなくなりそうだな。


「ちょっとキョン、いつまで遊んでんのよ。あたしにも触らせなさい」

コントロールルームに戻るとハルヒがわいのわいの騒いでいた。長門が注意事項を教える間もなく、ハルヒは防護ぼうご服を俺からぎ取って実験室に突入していた。長門はハカセくんに防護服を渡し、ハルヒが無茶をしないよう監視に行かせた。防護服を人数分用意しないといけなさそうだな。

「僕も間近で見てみたいです」古泉が食い入るようにモニタを見ている。

「まあハルヒが戻るのを待て。穴は逃げていきゃせんだろう」

「しかし、本当に作ってしまうとは驚きです。さすがです長門さん」

長門は微妙に照れたような表情で「……そう」とだけつぶやいた。

「ひとつだけ分からないことがあるんだが」

「……なに」

「片方の穴を時間停止させて作ったってことは、俺たちが作ったのは過去へのトンネルだよな?」

「……そう」

「じゃあ未来への穴はどうやって出来たんだ?」

つまりこの揺れる鏡の球体は、右側が過去への穴、左側が未来への穴ということだ。

「……それは、考えて」

なんだ、クイズか。ええとだな、トンネルの口の片方を冷凍庫に入れて時間を止めて、止めていないほうが今ここにあって……。

「先生、分かりましたよ」

古泉が手を上げた。

「……古泉一樹」

「未来への穴は五分未来の長門さんが作ったんでしょう。未来で作られた過去の穴がそこに繋がっている、が答えですね」

長門がうなずいた。なんだか非常にややこしいが、正解なようだ。

「俺にも分かるように説明しろ」この言い方もなんだか情けないが。

「先ほどの絵で説明しますと、」

古泉はさっきのパネルを指して言った。

「僕たちが作ったAの穴は、五分過去のBに繋がっています」

「ふんふん」

「で、僕たちの時空に存在するBの穴は、五分未来の僕たちが作ったAの穴に繋がっている」

「ふんふん」

「お分かりいただけましたか」

「ぜんぜん」

「……元々、わたしはここにあるBの口は作っていない。でも、因果律いんがりつからBの中身は未来で作られたことになる」

なるほど。ここにあるBの穴は五分未来のAに繋がっていて、五分未来のBの穴は十分未来のAに繋がっているわけで、このワームホールってのは未来永劫えいごう因果律いんがりつで繋がっているわけか。

「もしここで、未来へ物質を送れない事態になったりしたら、未来でワームホールが崩壊したことになります。時間移動は因果律いんがりつの計算が重要ですね」

 ハルヒが顔を輝かせて戻ってきた。やっとこいつにもこの実験の意味が分かってきたようだな。

「ねえねえ、すごいわよ!五分後のあたしと握手したら、触ってるはずなのに感じないんで脳が混乱しちゃったわ」

あ、危ねえ遊びしてんなヲイ。

「次は誰行く?」

「朝比奈さん行きます?」

「ええ。はじめてです、こんなの」

古泉と朝比奈さんは黄色い核施設作業員コスプレをして中に入っていった。


「じゃあ、五分後の未来に手紙を送るわ」

いつのまに書いたのか、ハルヒがA4の便箋びんせんを三つ折りにして封筒に差し込んでいた。ちゃんと封をして口に封緘紙ふうかんしを貼って印鑑まで押している。こういうどうでもいいようなところはマメだな。

 着替えている朝比奈さんをせかして防護服をぎ取り、ハルヒは上訴する農民のように手紙をささげて実験室に入った。

 モニタからカメラ映像を見ていたが、なんのことはない、手紙を左から差し込んで五分待って右から受け取るだけのことだった。これがただのパイプで、中で五分置いて取り出しても同じことだろうに。

 戻ってきたハルヒは、お裁きで文面を読み上げるお奉行ぶぎょう様のように手紙をペロリと広げた。

「読むわ。前略、過去から未来へ」


── 前略、過去から、未来へ。あんたがこの手紙を読んでいるということは、あたしはもういないわけね。


どっかで聞いたような文面だな。なんか遺書みたいだぞ。


── これは快挙かいきょよ。この発明で世界がひっくり返ると言っても過言ではないわ。我が社は時間移動技術を大々的に売り出します。一社独占で市場を制覇せいは、いいえ、一社独裁で世界を支配するわ。これによって人類の歴史が変わるでしょう。あたしの人生も変わるわ。きっと未来人に会える。もしかしたら技術提供を求めて宇宙人がやってくるかもしれないわ。それから異世界人とも会えるかも。


超能力者だけが抜けているな。ハルヒはそこで大きく息を吸い、最後の一行を読んだ。


── わたしは、ここにいる。


「十月吉日。株式会社SOS団。代表取締役だいひょうとりしまりやく社長、涼宮ハルヒ」


世界ではじめて、時間移動を経験した手紙だった。最初に古泉がパチパチと手を叩きはじめた。それから朝比奈さんが、そして長門とハカセくんが、最後に俺が拍手に加わった。なんの拍手なのかまったく不明なのだが、月面に土足で入り込んで足跡をつけたアームストロングに匹敵するくらいの、人類の記念すべき一瞬に類するなにかだったに違いない。この手紙はハルヒの席の後ろの壁に、額に入れられて飾られることになった。


 古泉がこの実証実験にいたく感動したらしく、盛んに賞賛しょうさんの言葉を並べていた。

「これをどうビジネスに応用するかというところでしょうね」

「仮に時間移動できるとしても、数十年のワームホールじゃないと利用価値がなさそうだな」

「そんなことないわよ、ねえ見て見て」

「カップうどんなんか何にするんだ」

「このカップうどんはお湯を入れて五分経たないと食べられない。でもワームホールを使うと、あら不思議」

この時点すでにネタバレしてると思うが。ハルヒは防護服を着込みカップうどんにお湯を注いで蓋を閉じ、実験室に駆け込んだ。ワームホールにカップうどんを突っ込み、右から取り出そうとしているらしい。なにやってんだか。五分後、怪訝けげんな顔をしたハルヒがうどんを持って戻ってきた。

「あれー、うまくいくと思ったのに。まだ麺がぜんぜん固いわ」

「あのなハルヒ、ワームホールに突っ込んでも、うどんが五分間加速されるわけじゃないと思うぞ」

「むー」

時間論にうとい俺なんかに妙に正しいところを突っ込まれて、ハルヒは口をとがらせた。そんなことができりゃ、未来の電磁調理器は十秒で茶碗蒸ができちまうぞ。いや待て、もし五分過去に送ったとしたら……、ヤバイヤバイ。因果律いんがりつが壊れちまう。

 ハルヒの考えるしょうもないワームホールの使い道に、古泉がクスクスと笑っていた。

「たとえば一年前の自分に手紙を出す宅配便のようなサービスはどうでしょうか」

それを聞いてハルヒが目を輝かせた。古泉の奴、またハルヒをき付けるようなことを。

「それ、いいわねえ。一年くらいならなんとかなるんじゃないかしら。そこで世界中からスポンサーを集めるのよ。ウハウハだわっ」

「しかしなあ。金取ってはじめたら途中でやめられなくなるぞ」

「こういうのは考えたもん勝ちなのよ。誰かが先にやるかもしれないじゃない、先を越される前にやるのよ。有希、できるわよね?」

「……問題ない」

「さっそく事業計画案書とロードマップを作成します」

「頼んだわ古泉くん」


 時間移動技術会議その第二回目とやらのミーティングで、ハルヒは古泉の作成した事業計画案を読んでいた。

「さすがは古泉くん、具体的でいいわね。テスト的に時間差一ヶ月のワームホールでやってみるわ」

「一ヶ月間アレを回しつづけるのかよ。五分でも大量の電力使ってるのに今月の電気代払えんかもしれんぞ」

俺は経理担当者として会社の台所事情が心配だった。

「一ヶ月稼動かどうさせたら月の電気代どれくらいになるの?」

「実験の内容にもよりますが、シンクロトロンが一時間あたりだいたい一メガ~二メガワット消費してますから、ええと、」

軽く電子レンジ千台分か。古泉は電卓を叩いた。

「五千八百万から六千万円というところでしょうか」

な、なんですと。このでかいドーナツみたいな機械は電源入れておくだけで月に六千万飛ぶのかよ。もう自前で発電所を建設したほうが安く上がるんじゃないのか。

「未来への投資もいいが、社員の生活もかかってるってことを忘れないでくれよ」

「あたしだって経費のことくらい考えてるわよ。まあ、そのへんは投資家に相談しましょう」

そう言ってハルヒは受話器を取り上げた。投資家ってまさかまた鶴屋さんじゃ。この会社を作るときもいろいろ世話になっといてまだ金をせびるつもりか。言っておくが鶴屋さんちは金のなる木が植わってるとか金の卵を生むガチョウを飼ってるとかいうわけじゃないんだぞ。この不景気、鶴屋家にもいろいろと事情ってもんがあってだなぁ、んー?。

 そんな説得もむなしく、電話は五秒で繋がった。

「もしもし、鶴ちゃん?あたしよ。うん、元気元気」

鶴屋さんの元気に満ちた声が受話器から漏れてきた。勝手につけた略称みたいなニックネームで株主様を呼ぶのもどうかと思うんだが。鶴屋さんも居留守使うとかしてくださいよ。

 ハルヒはタイムマシンが出来たから見に来いと誘っていた。いちおうモノが時間を超えることは可能になったので、曲がりなりにも完成したというべきか。

「明日見に来るって」


 鶴屋さんの登場はひさびさだ。設立前に気前よく一億円を出資してくれると言ってくれて、あれから挨拶あいさつにも行ってない薄情な俺たちだ。

 ハルヒの案内で実験室に入り、ワームホールに手を入れて五分後の自分と握手していた。

「すっごいじゃんこれ!」

鶴屋さんはチャームポイントの八重歯を見せて言った。

「ほとんど長門とハカセくんの功績ですが」

「キミがハカセくんかいっ?受験生なのにたいへんだね、あはは」

「どうも、はじめまして」

「いやぁ驚いたさ。まさかほんとに作ってしまうとはねぇ。長門っちタダモノじゃないと思ってたけど、すごい人だったんだねっ」

「……」

長門を人というのは語弊ごへいがあるかもしれませんが、確かにすごいやつです。

「それで相談というのはほかでもない、電気代のことなんです」

「これ、えらく電気食うらしいよね」

「そうなんです。フル稼働かどうで月に数千万は飛ぶらしいです」

「そんなもんかい?数千万の経費ならなんとかなるさ」

「ソフトウェア開発の会社の経費にしちゃ額が大きすぎるんで、ちょっと怖いんです」

「うーん。じゃあ電力会社とかけあって、割引させてみっかな」

「そんなことできるんですか」

「コネがないわけじゃないさ。このビルの屋上、空いてるんだっけ?」

「ええと、クーラーの室外機と水のタンクがあるくらいだと思います」

「じゃあソーラー発電を置きなよ。少しは足しになるから」

なるほど。そういう自家発電もあるのか。

「なんなら地下に原子力発電所を作って電気を売ってもいいさっ、きひひっ」

冗談とも本気とも取れる鶴屋さんに釣られてハルヒの目もキラキラと輝きだした。いくらなんでもそれはヤバすぎますって。盗電ならぬ造電か。

 結局このビルのオーナーに頼んでソーラー発電パネルを置かせてもらうことになった。とはいっても、このビルの屋上の面積なら十数キロワットがいいとこだという。焼け石に水だな。電力会社に夜間割引を申し込んでも、鶴屋さんの財布から出してもらわないと全額は払えなさそうだ。やっぱスポンサーをかき集める作戦でいくか。ハルヒがビルの上に風力発電のプロペラを立てるとか言い出さないうちに。


 社長命令によりシンクロトロンを一ヶ月間連続稼動かどうさせるというき目にあった長門は、泊り込んで運転を監視することになった。大学の研究室のほうも忙しいだろうにご苦労だ。嫁入り前の女の子をひとりで宿直しゅくちょくさせるのもあれなので俺も付き合うことにした。

 俺は一度自宅に帰り、晩飯の弁当と毛布、シュラフを抱えて戻ってきた。まさか会社に泊まることになるとはな。

「長門、寝袋を調達してきたぞ。軍用の折りたたみベットでもありゃいいんだが。ハルヒに言ってソファを買わせよう」

「……」

 長門と二人きりで夜更かしするのははじめてかもしれない。コントロールルームにはテレビもなく、時間をつぶすには監視用のパソコンで動画共有サービスを見るとかウェブサイトを回ってみるくらいしかすることがなかった。長門は椅子に座って静かに小説を読んでいた。

「コーヒー飲むか」

「……」

長門はコクリとうなずいた。

 二人は付き合っていながら異様に会話が少ないと思われがちだが、俺はこの無言のコミュニケーションを楽しんでいる。言葉にしなくても気持ちのどこかが通じているというか。なんというのか、一億と二千年の昔から付き合っているような、そんな感覚にとらわれる。長門の言う、言語では概念を表現できないなにかの繋がりが二人にはあるのかもしれない。

 俺は真新しいカーペットの上にごろりと横になって、隣の部屋から聞こえてくるシュンシュンという音を、そのへんに鉄瓶てつびんをかけた火鉢があるような妄想と入り乱れさせながらぼんやりと過ごしていた。

「なあ長門」

「……なに」

「いつか二人で旅行にでも行くか」

「……そう」

「どこか行きたいところはあるか」

長門は少しだけ考えて、

「……雪国」

「雪か。じゃあ東北だな。来月の連休に温泉にでも行くか」

「……」

コクリとうなずいた。車で行くか飛行機で行くか、あるいはまったりと列車で行くか、などと考えていると長門が口を開いた。

「……ひとつ、質問がある」

「なんだ?」

「……わたしたちのこと」

「俺たちの何だ?」

「……わたしたちは今、特別な関係にある」

「特別っていうと、付き合ってる関係のこと?」

「……そう」

「それがどうかしたか」

「……あなたは、なぜわたしの家に泊まらない」

かなりギクリとした。長門が正面からこういう質問をぶつけてくることは予想していなかった。

 確かに男と女が付き合ってれば互いの家に泊まったりもする。だが俺たちはふつうのカップルとは違う。俺は人間で、こいつはヒューマノイドインターフェイスだ。

「それはだな、ええと、」

納得のいく答えを探していると長門はさえぎった。

「……わたしが、人間ではないから」

「うーん……」

俺はどう説明すればいいのか分からず、言葉に詰まった。確かにそうなんだが、でも俺の思ってる意味は、長門が人じゃないから区別しているというのとはちょっと違う。

「いや、そうじゃないんだ」

「……では、なぜ」

俺がなぜ二人の関係を進めることを躊躇ちゅうちょしているのか、正直なところ、それは一度長門にキスをしたときの衝撃に要因があるのかもしれない。あのとき長門は体を痙攣けいれんさせて硬直してしまうという、人だったら心臓発作で死んでたかもしれないアクシデントに見舞われた。急遽きゅうきょ喜緑さんを呼んで助けてもらったのだが、愕然がくぜんと目を見開いて動かない長門の表情が今も目に焼き付いている。長門にしたら、あのときの恍惚こうこつは気持ちよかったというのだが、いやはや。

「お前にこういう説明をするのも無粋ぶすいかもしれんが。俺はこれでも健康な男子で、二人がいっしょにいたらどういう流れになるかは分かってるつもりだし、でもそうなってしまうのはまだ早いと思うんだ」

「……なぜ」

「ええとだな、これはたとえばの話だけど。俺がおふくろから形見に指輪をもらったとする。売ってしまえばただの安い石だが、好きな女に婚約指輪として贈れば最高の品だろ。簡単に金に替えてしまうより、ここぞというときにプレゼントすればかけがえのない価値を持つ」

「……」

「例えが飛躍ひやくしすぎてるかな」

「……いい。言っている意味は分かる」

「簡単にそういう付き合いになることもできるが、待っているだけの価値はあると思うんだ」

「……分かった」

これは昔なにかのエッセイで読んだ話なんだが、ここで役に立つとは思わなかった。繊細せんさいな部分のある長門を傷つけたくないという気持ちも、二人の関係を大事にしたいという気持ちも、半々はあったのだが。長門は納得したらしくうなずいた。

 長門は寝袋を俺の隣に広げ、そこにうつ伏せて読みしの小説を開いた。長門の体温が俺の右半身に伝わってきた。こういう距離感は今までになかった気がするな。そのまま気持ちよくうとうととしていると、研究室のドアがバンと開いた。

「あんたたち、こんなところでなにイチャついてんのよ」

ハルヒがニヤニヤしながら俺たちを指差した。その後ろで古泉がコンビニの袋を下げている。朝比奈さんがいないところをみると未来の自宅に帰ったのか。

「夜勤するならひとこと言いなさいよ。あたしはこういうの好きなんだから」

お前が好きってのは部室とか職場に泊まりこんで夜更かしすることだろう。まあ分からんでもないが。

「お邪魔でしたか」

「いや、ちょうど退屈してたとこだ」

俺は差し入れのビールを袋から取り出した。

「さあなにがいい?トランプも花札もUNOもあるわ。なんなら麻雀でも」

 四人で酒をあおりながら、結局明け方まで騒いでいた。ハルヒも座布団の上の花札をめくりながらうとうとしつつ、ちょっと寝ると言ってそのまま倒れこんだ。古泉が心得た仕草で自分の上着をかけてやり、散らばった菓子袋を片付けてから自分も横になった。俺も寝袋に潜り込む。シンクロトロンを冷やすシュンシュンという音だけが静かに聞こえてくる。

 意識から眠りへの曖昧あいまいな領域に落ちようとしたとき、長門がごそごそと俺の寝袋に潜り込んできた。あのー、長門さんなにをしてらっしゃるのでしょうか。靴を脱いで寝袋に足を差し込んできた。俺は酒臭い息を長門に吹きかけないように、あごの下に長門の頭を入れてやり背中に腕を回した。俺は酔ってるんだ、酔ってるんだからな。

「あんたたち、いくら仲がいいからって職場でそんなことしちゃだめよ」

「うわっつつ、お前起きてたのかよ」

眠っていたはずのハルヒが腕枕をしたまま俺たちを眺めている。ニヤニヤ度満載である。長門は俺のシャツにしがみついて顔を真っ赤にしていた。

「独身女性の前なんだからね、有希も場所をわきまえなさい」

長門は今にも燃え出しそうなくらいに顔を紅く染めてコクリとうなずいた。うなずいたが離れようとしないので俺はそのまま抱いて眠った。

 昼頃目を覚ますと長門はそのままの形で眠っていたが、特に気もせずそのまままた眠りに落ちた。今日が土曜日でよかった。

 しかしまあ、これを毎日やるわけにもいかんので、全員が当番制で監視することにしよう。開発部の連中にも守秘しゅひ義務をちぎらせて当直させるか。そうすると十日に一回で済むな。


 それから一ヶ月してワームホールは完成した。以前に作った五分のやつは消滅した。内部のエキゾチック物質とやらは限りある資源らしく、取り出して再利用したらしい。

 長門は夜勤明けで一度マンションに戻って夕方出社、今日はハカセくんもまだ来ていない。ハルヒはまた手紙を書いて送ろうとしていた。

「まだ過去には送れないからな。気をつけろよ」

「分かってるわよ。未来に送るのよ」

ハルヒはまた防護ぼうご服を着て実験室に入っていった。

 ワームホールの波打つ鏡に封筒を差し込もうとしたそのとき、大量の紙くずが流れ出た。ハルヒは紙の濁流だくりゅうに流されて溺れ、俺はなにごとかとカメラ映像を見つめていた。こいつは一大事だ。俺は防護ぼうごふく服も着ずに実験室に飛び込みハルヒの名前を呼んだ。

「おい!どこだ」

「ここよここ」

紙くずの海の中からハルヒの手が伸びてきた。俺はその手を引っ張り、海をかき分けかき分けコントロールルームに引いていった。紙くずと思っていたのはすべて手紙だった。

「なんなのよこれは!」

ハルヒはヘルメットをがばと脱ぎ捨て、モニタの映像を睨んだ。手紙の雪崩なだれはまだ続いている。

 俺は受話器を取り上げた。

「もしもし、長門か。寝てるところすまん、緊急事態だ」

「……なにがあった」

「ワームホールから手紙があふれてきた」

「……どっちの側から」

「未来からだ」

「……すぐ行く」

 俺は防護ぼうご服を着なおし、手紙を一通手に取った。誰だか知らないが、ちゃんと宛名も住所も書いてある。これどうしろっていうんだろ。未来から来たってことはつまり、過去宛ての郵便転送サービスをはじめたのか。たった一ヶ月で?

 手紙の山がワームホールの反対側、過去の側へ流出しようとしていたので、俺は埋もれそうになりながらダンボール箱とガムテープで塞いだ。十分くらいして雪崩なだれがようやく終わり、実験室は手紙の山と化した。

「急いで片付けないとこれ、引火でもしたらたいへんだぞ」

「とにかく、ダンボール箱に全部詰め込んでちょうだい」

「うわ、なんですかこれ」

古泉が出社した。猫の手も借りたい緊急時に即現れるとは、上出来だ。

「未来から送られてきたんだ。ともかく片付けるの手伝ってくれ」

古泉は新しい防護ぼうご服をロッカーから取り出し、しゅこしゅこ呼吸音をさせながら手紙を集めた。

 最後に一枚だけ、ワームホールからぽとりと手紙が落ちた。それを拾い上げてみると、見覚えのある字で宛名が書かれている。

「おーいハルヒ、お前宛だ」

「この忙しいときに。いったい誰よ」

「お前からだ」

「え?」


── 株式会社SOS団御中 十分な運用の稼動が見込まれたので時間郵便転送サービスを開始しました。


「何考えてんのよあたしったら!」

「まったくだ」

そのセリフを七年間言いたかった俺の気持ちを分かってほしいね。

「“顧客こきゃくの手紙を送るので丁寧ていねいに扱ってね。切手代はそっちで負担してちょうだい”。勝手なこと言ってんじゃないわよ」

ハルヒは自分の手紙を投げ捨てた。それを書いたのはお前自身だぞ。

「涼宮さん、これは投資と考えましょう。この事業がうまくいけば億単位で利益になりますよ」

「そ、そうね。さすがあたしだわ、先見の明があるわ」

どうでもいいよ、その先見とやらは。しょうがない、郵便局に電話して引取りにきてもらおう。切手代は料金別納だか後納だかでまとめて出せば少しは安くなるだろう。

 ハルヒはなにを思い立ったか、A4コピー用紙に太マジックでなにごとか殴り書きして、クシャクシャに丸めてワームホールに投げ込んだ。

「未来にゴミ送ってどうするんだ」

「経費を請求するのよ。あたしがタダでやるとでも思ってんの?」

あ、これはなんだかまずい展開になりそうな予感がするぞ。


「まあ、いったいこれはなに?」

朝比奈さんが目を丸くしている。

「あ、おはようございます。未来のハルヒが送ってきたんです。全部郵便局に持っていかないといけません」

「誰に送るの?」

「さあ。時間郵便サービスをはじめたんらしいんです」

朝比奈さんは笑顔のまま青ざめていた。

「……紙の、海」

「おう、寝てるところ呼び出してすまんな。手伝ってくれ」

眠いはずの長門も出社して手紙を整理し始めた。明日は休ませよう。


「あれ、これなんだろ」

ショベルカーがあればと思えるような手紙の山を掘り返してようやく床が見えてきたところで、ワームホールの前に落ちている一枚の写真らしきものを拾った。俺とスタッフ全員が映っている。うわ、老けてるな。そこに映っている長門と朝比奈さん以外の全員が中年男女っぽい姿をしていた。俺たち、こんなになっちまうのか。プッ、古泉がひげ生やしてるぞ。

「なになに、見せなさい」

俺がクスクス笑いをしているとハルヒが手を出した。

「おい待てよ、まだ見てんだろ」

写真を奪い取ったハルヒは自分の未来の姿を見てショックを受けたようだった。

「きゃーなにこれ。あたしってこんな小じわができてんの。今日から美顔しなくちゃ」

ハルヒは突然ほっぺたをマッサージしはじめた。老化ってのは生物共通の自然現象なんだから、そんなインスタントでやっても意味ないだろうに。

「は?なにこれ十年先じゃない」

写真の右下の日付が、確かに十年後になっている。

「あたしたちのワームホールの出口って一ヶ月先よね。なんで十年後の写真があるわけ?」

「未来のお前の冗談だろ」

そんな誰が笑うともしれない冗談をハルヒがやるとも思えないが、別に一年後も十年後もたいした違いはあるまい。俺は長門に尋ねる視線をやった。

「……?」

長門にも分からないようだ。たぶんハルヒに言われて俺がパソコンで合成して作った写真なんだろ。手の混んだジョークだ。

「そんなことよりさっさと郵便局に持っていこうぜ」

「うーん……」

ハルヒはなんだかに落ちないようで、写真をにらんでうなっていた。

「ひらめいたわ!」

こんな朝から疲れる日には聞きたくないハルヒの号砲である。

「なんなんだよ。もう金使う話はなしだぜ」

「ちがうわよ。あの写真の意味、あたしへのクイズだったのよ」

「なんだそのクイズって」

「一ヵ月先のワームホールしかないはずなのに、なぜ十年先の写真が送られてきたのか?その答えは」

俺は二十秒くらい考えて、時間論が苦手なのを思い出しただけでやめた。

「その答えは?」

「ワームホールをいくつも作って繋いだのよ!」

まじですか。長門さん、これってまじですか?

「……天才」

「俺にも分かるように説明し、」

「だから言ってるでしょ、時間差一ヶ月のワームホールを十二個作って一年のワームホールを作る、それを十セットで十年よ」

「いくら作っても時間差は同じだろう」

「そうじゃないのよ。別々の二つの穴のAとBを繋いだら、その時間差の分だけワームホールができるわ。時間差十年のワームホールを一度に作るより、一年のものを十年かけて十回作ったほうが間と間でやり取りができるでしょ。完成した部分から使えるわ」

なるほど、そういうことか。ハルヒにしちゃ分かりやすい説明だ。

「あんたの頭が三次元構造なだけよ」

悪かったな、二次元じゃないだけマシだ。

 社長の鶴の一声で、この時代のハルヒのひらめきなのか、未来のハルヒのひらめきなのか、出処でどころがよく分からんこのアイデアが採用されることになった。ということは十年未来から送るのに、手紙を各年宛てに分類してるってことだな。まるで郵便局じゃないか。出しそこなって机の中で眠ってる年賀状とか、躊躇ちゅうちょしているうちに数年経ってしまったラブレターとかも送れるぞ。

 長門の指導で、できるだけ実験室に入らないで済むようにと、ワームホールの前に小型のベルトコンベアを置いて直接箱に溜まるようにした。それからの俺たちは箱詰めの手紙を郵便局にせっせと運ぶはめになった。送料だけでもかなりの額になったが、運ぶのに軽四のワゴンを長期リースしてさらにバイトを雇ったりしたので人件費もかさんできた。やれやれ、時間移動技術は先行投資がハンパじゃないぜ。


 未来のハルヒが一通あたりどれくらいの手数料を回収しているかは知らないが、これでまあなんとか収益の見込みは立ったな。などと安堵あんど溜息ためいきを漏らしている俺だったが、ハルヒの考えていることはさらに奇矯ききょうだった。ハルヒがマジックで殴り書きしたA4用紙がなんだったのか、あのとき知っておくべきだった。

「ちょっとキョン、あんた株の取引やったことある?」

「ねえよ。そんな金あったら遊ぶさ」

株式がどういう仕組みなのかは知っている。うちも株式会社のはしくれだからな。とはいっても株式の譲渡じょうとに制限がある会社で、しかも株主は事実上鶴屋さんだけだ。市場に上場もしてない。

「古泉くんは?」

「市場の知識なら多少は心得がありますが」

「ちょっと教えてちょうだい。その、オンライントレードってやつ」

「かしこまりました」

古泉は俺に向かってウインクした。おおかた機関の財テクでも聞きかじったんだろ。あいつらの運営は相当に金がかかるだろうからな。


 俺は古泉を呼び出した。このビルに体育館の裏があったらそこでもいいが、ハルヒに気付かれない手近な場所といえば男子トイレくらいしかなかった。

「おい、あんまりハルヒをそそのかすな。今は時間郵送サービスで猫のしっぽも借りたい状態なんだから」

「僕はそそのかしてなどいません。涼宮さんが望んだことです」

「あいつが望めばなんでもかなえてやるのか」

「そうですがなにか」

「そ、そうか」

即答されてなんだかスイマセンと謝ってしまいそうな勢いだった。

「ご心配なく。株というのはそう簡単に儲かるものではありませんから。この道数十年というベテランでも、確実に利益を上げられるというわけではありません」

「株の売買って博打みたいなもんだろう」

「そうとも言い切れません。最近はいろんなタイプの投資がありますからね。ギャンブル性の高い投機から、利率のいい貯蓄としての投資も」

「大損したらどうするんだ」

「それはそれで、涼宮さんにとってはいい勉強になるはずです」

ハルヒを観察しつづけてきて十年、悟りの境地に至ったような古泉らしい意見だった。忌々いまいましいことに正論に聞こえる。

「あなたは気がついていらっしゃらないかもしれませんが、高校の頃のがむしゃらな涼宮さんとは違って、今の彼女は抑えるところは抑えてますよ。むやみに暴走しているわけではないようです」

「それが本当ならいいんだがな」

「ひとつ、はっきりさせておきましょう」

「何だ」

「僕はあなたを同僚として、また涼宮さんにもっとも信頼されている人物として敬意を持っています。でも涼宮さんとあなたの意見が分かれるようなことがあれば、僕はどっちにつくでしょうか」

「そりゃあハルヒのほうだな」

「ご理解いただけて非常に嬉しいです」

つまり、なんだ。俺とハルヒが喧嘩したらハルヒの味方をするってことか。

「分かりやすくいうとそうです」

いつになく強気だな。こいつは誰が自分のボスか、自分の中で序列じょれつを作ろうとしてるな。まあいい、こっちには長門と朝比奈さんがいる。いざってときはあの二人が味方してくれる。きっとそうだよな、な、俺。


 次の日、ハルヒは新聞の束をあれこれ読みあさり、ああでもないこうでもないとうなっていた。

「朝からなにを悩んでるんだ」

「どの銘柄を買うか迷ってるのよ」

「素人がいきなり買うより、様子見たほうがいいんじゃないのか。ほら、シミュレーションだっけ」

ハルヒは俺に向かってグーを四回突き出した。

「実・戦・ある・のみ」

こりゃ数千万の損は覚悟しなきゃならんな。

「なに縁起えんぎでもないこといってんの。あたしには確実な情報があるんだから」

「なんだ、業界筋にコネでもあんのか」

「ちっちっち。業界筋ってのはガセネタだらけよ。これよこれ」

ハルヒは古新聞を投げてよこした。

「これがどうかしたか。リサイクルしてもちり紙くらいにしかならんぞ」

「だからあんたはいつまでも平の取締りなのよ。日付をよく見なさい」

平で悪かったな。え、これ、未来の新聞?まずいぞ、これはまずいぞ。

「どうやって手に入れたんだこんなもん」

「未来のあたしに新聞をよこせとメモを送ったのよ」

「おい古泉」

「なんでしょうか」

「これってインサイダーじゃないのか」

俺は古新聞を、じゃなくて未来の新聞を見せた。株価のページがあちこち蛍光ペンで色づけされている。

「あははは。これはいい情報源だ」

「笑ってる場合かよ」

「証券取引監視委員会がこれを見てなんと言うでしょうね。地検がこれを証拠として採用するとも思えませんが」

「インサイダーって職務上の立場を利用して得た情報をもとに売買することだよな」

「ええ。でもこの新聞はまだ発行されていませんから、実際は情報は存在しないことに、プッ」

「笑ってる場合じゃないって」

「す、すいません。誰もが考えそうで、誰もやったことがないことですからね。さすがは涼宮さんだ」

おべっか使いの古泉に向かってハルヒはうんうんとうなずいた。

「でしょでしょ。存在しないはずの新聞の、存在しないはずの情報で株を買っても問題ないわよね」

「ええ。現行法げんこうほうでは取り締まることはできないはずです。なんなら弁護士に相談してみましょうか」

それはやめてくれ。ワームホールを見せてくれってことになりかねん。

「未来じゃ取り締まる法律があるんじゃないのか」

「それは規制する法案が国会を通ってから考えればいいんじゃないでしょうか。少なくとも、今のところは」

うーん。いちいち理屈はあってるんだが、なにか人として間違ってる気がするぞ。

「まあできるだけ目立たないようにしてくれ。その、証券なんとかの連中に目をつけられないように」

「分かりました。できるだけ分散させて、一社を買い占めないようにしましょう。適度に損も出して。損は決算けっさんのときに赤字として計上できますからね」

「さっすが古泉くん、さえてるわ」

「おめいただき光栄です」

なんだかマフィアのボスが悪知恵に長けた子分をほめてるような雰囲気だぜ。俺はハルヒがやる気なら儲かるだけ儲けさせてみようかという気分になっていた。余った分は役員報酬ほうしゅうにでもしてくれるだろ。口止め料とも言うがな、キヒヒ。


 その日からハルヒはずっとパソコンのモニタをじっとにらみながら、一喜一憂していた。

「見て見て、上がったわ!」

と喜んでいたと思いきや、

「あらっ下がっちゃった。誰が売ったのかしらね、忌々いまいましい」

どうでもいいけど、株式会社と市場経済の関係、分かってやってんのかなこいつ。そもそも会社が資金調達するための仕組みなんだが。

「まあいいじゃないですか。楽しんでるようですし」

古泉が微動びどうだにしないスマイルで言った。

「負けた分はあいつの役員報酬ほうしゅうからさっぴいとけよ、と言っても無理だろうな」

「ええ。無理です。今のところ負けていませんから」

「勝ってるのか」

「一千万くらい利益出てるみたいですよ」

まじか。新聞さまさまだな。

「昨日までの株価と未来の新聞を見比べて買ってるみたいです。人気があっても買われすぎているものには手を出さない、テレビなどで流れたネタの銘柄には手を出さない。チャートやシグナルも、抑えるところは抑えています」

なるほどな。数字に関しちゃあいつは特Aクラスだった気がする。こいつはもしかしたらボーナス増額か。


「あーぁ、疲れたぁ」

午後三時十五分を過ぎると、ハルヒは脱力した大きな溜息ためいきをついた。

市況しきょうがこんな疲れるとは思わなかったわ」

「肩の力を入れすぎですよ。もっと楽に構えてください」

「えへへ。分かってるけど、気になるのよねぇ自分の買った銘柄がどうなるか」

「分かります。上がったり下がったりするのを見てるのが楽しいんですよね」

「そうそう。なんだか自分が植えた種が育っていくのが見えるみたいなの」

ただのグラフが本当にそう見えるんだったら、数字に詳しいやつがうらやましいぜ。

「古泉くん、悪いんだけど肩んでくれる?」

「おやすい御用です」

「あーそこそこ、効くわ。最近凝ってるのよねぇ」

古泉がひじの先でブルブルと按摩あんましていた。な、なんだこのホノボノした雰囲気は。


 その日の五時過ぎ、あふれ返る手紙もバイトに任せて俺は仕事もないので早々に退社することにした。ハルヒはまだ経済紙と古新聞を見ている。明日の予習でもしてるんだろう。長門はこれから来るハカセくんを待つというので、俺は喫茶店で待っていることにした。

「キョンさん、ですね」

ドリームのテーブルでコーヒーを飲んでいると後ろから呼びかけられた。振り返ると黒いサングラスに黒のスーツを着た男が二人立っていた。おそろいの格好でおそろいの黒の帽子を被っている。白いシャツ以外は頭のてっぺんから靴の先まで黒い。

「そうですが」

「ちょっとそこまで付き合ってもらいたい」

葬式帰りじゃあるまいに、ネクタイまで黒い。見るからに地下組織か秘密組織か、あるいは表向き存在しないことになっている政府の諜報ちょうほう組織か。またヘンなのが現れたな。こういうやからには関わらないほうが身のためだ。

「悪いが俺は忙しいんで」

コーヒーを飲み終えないままテーブルを離れようとした。背中になにか固いものが突き当たった。全身黒尽くめ野郎が耳元でささやく。

「おとなしく聞いたほうが身のためだぞ」

俺はゆっくりと両手を上げた。それって銃ですか。映画でもテレビドラマでも、日本の日常でほいほいピストルが出現するのはどうかと思うんだが。

「そんなことはどうでもいい。口を閉じて歩け」

後ろからせかされて喫茶店を出た。コーヒー代はもうひとりのやつが払っていたようだった。おごってくれるとは気前がいい。

 裏通りに黒塗りの3ナンバーでも待っているのかと思ったが、乗せられたのは、律儀りちぎにもパーキングメーターに停めてある軽四だった。秘密組織が軽四ってどうなん、しかもナンバーが“わ”って。CIAがレンタカーって笑うぞ。

 両手を紐かなんかで縛られてシートに座ると、布袋を被せられ、密閉型のヘッドホンをさせられた。

「すまんが、道を知られたくないんでな」

ヘッドホンからガンガンとヘビィメタルかパンクらしき音楽が流れてきて、俺の鼓膜は今にも破れそうだった。こんなヘタクソな歌聞かされるんだったらスパイの拷問のほうがまだ楽だぜ。


 会社のやつらが俺がいないことに気がつくのにどれくらいかかるだろうか。誰かにメッセージを送らなくてはいけない。ポケットに入っている携帯を何とか取り出し、メールボタンを押した。目隠しされているので誰宛に送ったかは分からんが、ともかく指がボタンの配置を覚えている限りでSOSと入力した。受け取るのが誰であれ、救援要請だ、かんを働かせてくれ。

 六時までに俺が戻らなかったら長門が異変に気がつくだろう。あるいは機関の誰かが俺を見張ってて、すでに森さんあたりが動いてくれているかもしれない、などと自分に希望を持たせてみたりした。


 流れていた曲が最初に戻ったところで、車を降ろされた。あれがCDかMDのアルバムだったとして、四十分から五十分てところだろう。もしかしたらぐるぐる同じ道を回ってただけかもしれんが。

 袋を被せられたままエレベータらしきものに乗せられ、どうやらどこかの建物の地下らしき場所にいることは分かった。問題はどこの建物かなんだが。

 固い床の上を歩かされ、パイプ椅子に座らせられた。そこでやっと袋から開放されてご対面となった。部屋は狭く、天井から下がった傘のついた電球が揺れている。テーブルとパイプ椅子が二つあるだけだった。いよいよこいつらの目的が判明する瞬間だ。

「お前の会社が株の不正取引をしていることは知っている」

な、なんで漏れたんだ。ハルヒがしゃべったのか。

「不正に得た情報で株を売買している。インサイダーは犯罪だ」

「さあて。なんのことやらさっぱりだな」

「我々の諜報ちょうほう能力を甘く見てるようだな。お前は昨日、道で拾った千円札をネコババした。拾得物横領しゅうとくぶつおうりょうだ」

ギク、見てたんすか。

「三日前に車で信号無視をしておばあちゃんをきそうになった」

「あ、あれは雨が降ってて視界が悪かったんだ」

「どうだかな。よそ見してたんじゃないのか。さらに一週間前、我慢できなくて駅の裏で立ちションをした。軽犯罪だな」

な、なんなんだこいつは。機関の連中か。隣の部屋で古泉がほくそえんでるんじゃないか。

「まだある。十日前、飼ってる猫に八つ当たりして蹴飛ばした。動物虐待ぎゃくたいだ」

あれを知っているのは確か、ええと……。俺は背の高いほうに向かって言った。

「おい、そこの」

「なんだ」

「お前は俺だろ」

「なんのことだ?」

「とぼけんな。いつの時代か知らんが未来から来た俺だろ。それからそっちの小さいほう、お前は長門だな」

「……」

二つのサングラスが互いに顔を見合わせ、俺を見た。

「……なぜ、分かった」

俺たち何年付き合ってると思ってるんだ。お前の雰囲気は目を閉じていても分かるぞ。

「……降参」

黒スーツの長門が両手を上げた。ちっこい方の正体はうすうす気がついていたと思うんだが、背の高い方の正体までは分からなかった。鏡に映った自分の姿は意外と思い出せないもんだ。

 サングラスの俺は見たところ、俺よりだいぶ年上のようだった。声も中年っぽい。ここは朝比奈さん方式で俺(大)と呼ぶべきか。俺(大)は長門に向かって言った。

「だから姿を見せないほうがいいって言ったんだ」

「……あなたがついて来るよう願った」

お前らこんなところで仲間割れすんな。どう見てもでこぼこコンビにしか見えん。

「バレちゃしょうがねえな。まあ、そんなところだ」

「いつの時代から来たんだ?」

「十年ほど未来だ」

「どうやって来たんだ?」

「そりゃ時間移動技術に決まってるだろ」

「それは分かってるが、じゃあワームホールは人が通れるようになったのか」

「ワームホールとは別の手段で来た」

「別の手段って、朝比奈さんか?」

「いや、朝比奈さんは来てない」

「じゃあ本当のタイムマシンが完成したのか」

「それは禁則事項だが、まあ曲がりなりにも完成したというべきか」

お前、禁則事項の意味が分かってないだろ。未来の俺はそのへんを突っ込まれると都合が悪いらしく、慌てて話題を変えた。

「さっきの話だが、ハルヒがインサイダーで稼ぎまくったのは本当だ」

「捕まったのか」

「ああ。地検の連中が書類やらパソコンやら全部持っていった」

「どうでもいいが縛っている手をなんとかしてくれ」

「あ、ああ。忘れてた」

俺(大)は手首に巻かれていた安っちいナイロンの紐らしきものを切り、ポケットから新聞を取り出した。近頃の俺はなにかと新聞に縁があるようだ。俺は暗い電球の明かりの下に持っていった。


── 「世界初、タイムマシン」今世紀最大の発明と称する技術が昨日発表された。時間移動技術の実用化のめどが立ったとして、株式会社SOS団(社長:涼宮ハルヒ。鶴屋涼宮グループ)が記者会見を開いた。SOS団は十年ほど前から時間移動技術の開発に着手しており、世界に先駆けての実用化は、長年の実験によって理論化された技術に裏打ちされたものであるという。今回の発表で世界各国の財界、政界、物理学会の注目を浴びているが、日本政府によるコメントは現在のところ出ていない。一方で、政府与党による研究部会、識者しきしゃを集めた文部科学省の調査会「時間移動技術研究会」の発足も噂されている。また野党内では、この技術が軍事利用されるのではないかという懸念けねんささやかれている。


── 涼宮氏の学生時代に担任教師だったという岡部さん(57)によると「涼宮君は高校の頃から天才ぶりを発揮はっきしていて、私はきっといつかなにかでかいことを実現するうつわだと信じていました。当時、まわりには理解されていなかったようですが」という。


あのハンドボール野郎、今になって恩着せがましく恩師面おんしづらすんじゃねえ。

 それから俺(大)は新聞をもう一部取り出した。一面には大きく「世界初、時間犯罪」と書かれている。この新聞、世界初が好きだな。


── 「世界初、時間犯罪」株式会社SOS団の代表取締役だいひょうとりしまりやく社長、涼宮ハルヒ(33)が株のインサイダー取引による金融商品取引法違反の容疑で逮捕された。同社は十年前から時間移動技術を開発していたが、実験当初から資金調達のために未来の株価情報をひそかに持ち込んでいた疑い。タイムマシンが犯罪の道具として使われたのはこれがはじめて。さらに取締役会とりしまりやくかいの古泉一樹(33)、長門有希(33)、キョン(仮名)(33)も共犯、幇助ほうじょの疑いで逮捕。地検特捜部では出資していた鶴屋ホールディングスの関与を追及している。


「なんだ、俺って新聞でも本名で呼ばれねえのかよ」

などと感傷にひたっている場合ではない。逮捕だぞ逮捕、ヘタすりゃ登記とうき取り消されて会社つぶしだぞ。

「逮捕されたんだったらお前らなんでここに来れるんだ?」

「鶴屋さんが保釈ほしゃく金を積んでくれたんだ」

「また鶴屋さんか……。いい加減あの人のスネをかじるのはやめたらどうだ」

「お前に言われたかねーな」

「お前ってお前だろう」

「お前のほうが事の発端ほったんに近いんだから、お前のほうが責任が重い」

またそんなハルヒみたいなわけの分からん小理屈を。


「社長が捕まっちゃ会社がやっていけんだろう」

「だからハルヒを止めてもらいたんだよ」

うーん、困ったぞ。ハルヒがいないとワームホールが完成しないが、ワームホールのせいでハルヒが捕まっちまう。

「いや待て。ワームホールがあるからじゃなくて、ハルヒが未来から情報漏れ起こしたからまずいんだろう」

「まあそういうことだ」

「じゃあこうしよう。利益は電気代を払える程度に抑えて、残りは損にする」

「それでもインサイダーには変わらんだろう」

「適当に損を出せばいい。利益を出しすぎるから目をつけられる。それに損をした分は赤字として計上できるらしいしな」

「お前ができるっていうんならいいが。会社つぶさないでくれよ」

それから俺は自ら頭が痛くなるような質問をした。

「ちょっと聞くが、俺がハルヒを止めるのに成功したんだとしたら、何でお前らがここにいる?」

「難しい質問だな」

「失敗したからここに来たんじゃないのか」

「……事象じしょうがループしている」

時間論が苦手な二人の俺は眉間みけんしわを寄せて、こめかみをグルグルとんでいた。今の俺の行動が歴史を変えて未来の俺が変わるのか、それともこいつらが帰ったときに未来が変わってるのか。

 前にも似たようなことがなかったか。なんだろうこの違和感は。既視感きしかん、いや違う。もっと別のなにか、未視感みしかんとでもいうんだろうか。


「とにかくだ、ハルヒの進む方向を変えてやらにゃならん。それがお前の仕事だ」

やれやれ、またハルヒの尻拭しりぬぐいか。

「まあ俺がなんとかするから、ここは任せて未来に帰れ」

「じゃあ、あとは頼むぞ。俺たちはこれから裁判の準備をしないといけないからな」

「未来はいろいろと大変なんだな」

ああ、この先十年もハルヒから解放されないのだと知った今、気が滅入る。やれやれだぜ。


 ドアが開いて長門が飛び込んできた。この時代の長門だ。俺の姿を見ると、目にもとまらない俊敏しゅんびんな動きで未来の長門の首を締め上げた。ややこしいので未来の長門を長門(大)としよう。

「……彼になにをした」

「……なにもしていない」

俺の長門は珍しく荒い息をしていた。とにかく落ち着かせないと、こいつらが喧嘩したらえらいことになる。

「おい長門、落ち着け。俺は大丈夫だ」

「……なにが、あった」

「まあその新聞を見ろ」

長門はテーブルの上に乗っている新聞を一瞥いちべつした。

「……」

「こいつらはそれを阻止そししに来たんだとさ」

「……分かった。でもわたしに相談するべきだった」

「……歴史に与える影響を最小限にするべきだと判断した」

「まあいいじゃないか。俺がハルヒを止めれば済むことだし」

俺の長門は複雑な表情で俺(大)を見た。俺を拉致らちしたのが俺本人だというのだから、長門も複雑な心境だろう。もし俺と俺(大)が喧嘩してたら長門はどっちの味方をするんだろうか。無言のまま、どっちが勝つかじっと眺めていそうな気がする。

「せっかく来たんだからメシでも食っていけよ。未来の話を聞かせてくれ」

「それはどうだろうな。いろいろと禁則事項があるしな」

「いいだろ、今までかなり禁則違反してるんだし」

「俺はいいが、どうする長門?」

俺(大)は長門(大)と相談していた。結局二人の俺と二人の長門という奇妙な組み合わせで晩飯を食うことになった。

 四人は一旦レンタカーを帰しに駅前まで乗り付け、ハルヒに見つからないようにタクシーで長門のマンションへ行った。


 二人の長門はキッチンで晩飯の用意をしていた。無言でサクサクと動く二人は、役割分担が厳密に決まっているようだ。もしかしたら特殊な方法で会話しているのかもしれないが。

「長門、なんか手伝おうか」

「……お客さん」

てめぇは客なんだから居間に座って茶でもすすってろ、という感じでステレオで言われた。俺はすごすごとリビングの座布団の上に戻った。

異時間同位体いじかんどういたいと協調するって、どんな感じなんだろうか」

「人間でいうところの双子みたいなもんじゃないか」

前にも似たようなことがあったっけな。

「長門のやつ、ぜんぜん変わらないな」

「あれでも多少は体の分子の再構成をしたんだがな」

「そうなのか」

「ああ。でも俺の希望で二十五才仕様くらいで止めてもらってる」

確かに、俺も長門には今のままでいてほしいと思う。俺(大)の左手薬指を見ながら、思い切って聞いてみた。

「お前たち、結婚はしないのか?」

「それは禁則事項だな。お前が自分の思うところをやればいい」

誰かが似たようなセリフを言っていたことを思い出し、俺たちは顔を見合わせてニヤリと笑った。俺に兄貴がいたら、こういう感じだったのかもしれない。


「ところでお前ら、どうやって未来に帰るんだ?」

「実験室にあるワームホールを拡大して帰れるらしい」

「うちのあれはまだ不安定すぎて質量の大きいものは送れないらしいんだが、大丈夫か」

「……わたしが安定したエキゾチック物質を持っている」

まあ長門にかかればどんな方法でも帰れそうだが。

 時計を見ると十一時を回っていた。俺は二人を交互に見ながら言った。

「今日はもう遅いから泊まっていったらどうだ」

「そうだな。ここの長門が泊めてくれるっていうんなら」

「……いい」

いつ用意していたのか、長門がペアのパジャマを出してきた。それってもしかしてほんとは俺用?

「すまんな長門」

「……お礼ならいい。あなたのために用意していた」

俺の長門が頬をポッと赤らめたような気がしたが、なんだか俺(大)のほうが気に入ってるようだぞ。


 長門は和室に布団を二つ敷いた。こいつら同じ部屋に寝せて大丈夫か、まさかこいつらあらぬ関係じゃなかろうな。いやいや、いくら自分でもそこまで立ち入るのは邪推じゃすいってもんか。長門(大)がなにかを思いついたように俺の長門に言った。

「……この部屋、十年間貸して」

ええと長門(大)さん、どういうことでしょうか。

「……時間凍結で当該とうがい時間ポイントに戻る」

「……分かった」

俺の長門はコクリとうなずいた。

「よく分からんのだが、解凍するのに長門本人が必要なんじゃないか?」

「……わたしは、いる」長門(大)が長門を指差した。

「ええと、ややこしいが、十年経ったらお前ら二人を解凍して、それから俺と長門が過去に行くのか」

「……そう」

「もし歴史が変わったらどうなるんだ?」

「……その場合は何もなかったことになる。わたしたちは消える」

「消えるって消滅するのか」

「……時間移動がなかったことになるだけ。元の時空に存在している。つまり、あなたたち二人」

説明されると無駄にややこしいが、死ぬわけじゃないんだな。


 どうやら本気で十年間の眠りにくつもりらしく、二人は布団に入った。

「じゃあな。元気でやれよ」

「ああ。お前らもな」

俺の長門が電気を消してふすまを閉めようとした。長門(大)が布団の中から待ってと言った。

「どうしたんだ?」

「……」

長門(大)はモソモソと隣の布団に潜り込み、俺(大)の腕に寄り添った。

「お、おい長門、こいつらが見てるだろ」

「……このまま、凍結して」

「しょうがねえなぁ」

パジャマの俺(大)の顔は赤くなっていたが、まんざら嫌でもなさそうだった。そんな二人をニヤニヤしながら見ている自分に気がついて、いかん、無粋ぶすいだったなとふすまを閉めた。

 長門が詠唱し、ふすまが一瞬白く光っただけで時間凍結は終わった。次に会えるのは、はるか十年後か。十年も添い寝できりゃ幸せだろうぜ、まったく。前のときは、長門はひとりきりで俺と朝比奈さんの目覚めのときを待っていたんだよな。まあ今回はひとりじゃない。

「十年後にこいつらが目覚めるまで、俺も付き合うよ」

「……」

長門は何も言わず、うつむいたまま俺の首に腕を回して抱きついた。未来の二人に当てられたのか、長門はいつまでも離れようとしなかった。

「しょうがないなあ。これから一緒にドライブでもするか」

長門はコクリとうなずいた。こういうシーンを見ると長門はいつも甘えてくるんだ。そこがこいつの萌え要素だったりするのだが。


 未来の俺たちの使命に、任せろとは言ったものの、ノリに乗っているハルヒの株取引に水を注すようなマネをしたらイライラがつのってまた閉鎖空間へいさくうかんが発生しかねん。神人の目に¥マークがメラメラと燃えて暴れている様子を想像して寒気がした。

 ハルヒに気付かれないようにやめさせる方法はないものか。一気に損を出すと神人が暴れかねんので、少しずつ損をさせて最終的に利益が出ないようにしちまえば、自分には投資の才能がないんだとあきらめるかもしれない。

 俺ひとりじゃ無理だな。資金と人材がいる。こんなときだ、機関に頼もう。金のことなら多少は分かってるだろう。

「古泉、ちょっと来てくれ」

「なんでしょうか。僕はこれから先様さきさまと打ち合わせなんですが」

俺は黙って新聞を見せた。

「涼宮さんがインサイダーで逮捕ですか!?だってさっきそこで会いましたよ」

「日付を見ろ」俺は新聞の端をポンポンと叩いた。

「未来ですね」

「昨日俺が持ってきたんだ」

古泉には通じなかったらしく怪訝けげんな顔をしていた。

「つまり未来の俺が持ってきたんだ。昨日会った」

「ということは、このままいくと不穏ふおんな未来が待っているということでしょうか」

「そうだ。だからハルヒの株売買を阻止そししなければならん」

「分かりました。でもいきなりやめろと言うのは無理かと」

「そこでだな、頭のいい誰かがハルヒの売買してる銘柄の株価をやんわりと調整して利益を出さないようにしてくれる、と俺たちは幸せになれる」

「株価操作は犯罪ですよ」

「まあそうかもしれんが、それが誰なのか俺たちはたぶん知らない」

「つまり機関にそれをやれと?」

「どこの機関のことを言ってるのかよくわからない」

目をそらして言う俺は棒読みだった。

「なるほど、分かりました。それなりの資金もかかりそうなので幹部に話してみます」

「ああそれから、古泉」

「なんです?」

「この会話はなかった。お前はまっすぐ打ち合わせに行った」

「……分かりました。僕も記憶にありません」

人に頼みごとしておきながらなんて偉そうなんだと、古泉はちょっとムッとしたようだった。ふっ、そんな簡単に感情が顔に出るようじゃ、地下組織の一員としてまだまだだな。


 六時過ぎ、打ち合わせから帰ってきた古泉はやけにイライラしていた。たぶん機関に寄ってきたのだろう。古泉がのキャラクタだったなら、またやっかいなことを頼みやがって、とつぶやいたに違いない。ハルヒが帰ったので機関の協力が得られそうかどうか聞いてみた。

「どうだ。やれそうか」

「ええ。ただし、涼宮さんのパソコンを監視させてもらいます」

「カメラか」

「小型のCCDを壁の画鋲がびょうに仕込んでおきました。それから、涼宮さんの机の引出しをあさってもかまいませんか。例の新聞のコピーが欲しいので」

「ああ、構わんだろう。俺はよそ見してるから」

古泉は白い手袋をはめてハルヒの机の引出しを開けようとした。

「カギがかかってますね」

あいつ、こういうことはマメなのな。俺なんかロッカーのカギすらかけたことないぜ。

 古泉はポケットから、精密ドライバーのような歯医者の七つ道具のような金具を取り出した。それってピッキングですか。ああ、いや俺はなにも見てないからな。スプレー式潤滑油じゅんかつゆをひと振りして鍵穴にドライバーらしきものを突っ込み、ガチャガチャと動かしていたと思ったら引出しが開いた。古泉、もう別の稼業かぎょうでも食っていけるぞ。

「人聞き悪いですよ。これも諜報ちょうほう活動の一環いっかんです」

引き出しの中はごちゃごちゃと、ゴミ入れなのかガラクタ入れなのか分からないありさまだった。人は見かけによるな。あいつの部屋もこんな具合かもしれん。まあ、ご禁制の品とか出てこなくてよかったが。古新聞の束、新聞の切抜き、銘柄リストなんかが出てきた。

「これくらいあればなんとかなるでしょう。あとはカメラで随時ずいじ監視します」

「少しは利益を出させてやってくれ。神人が暴れるとお前が苦労する」

「あなたも無理な注文ばかり言いますね」

ニコッと笑った古泉の目の縁がピクと痙攣けいれんしたのを俺は見逃さなかった。


 それから二、三日はハルヒの奇声が連発していた。

「きゃーっ、また上がった!ちょっとキョン見て見て、新聞のとおりよ。このままいくとビルが建つわよ」

「そうかい」

お前が喜んでるせいで俺は拉致らちされたり暗闇で尋問されたりしてたんだがな。

 俺の冷ややかな眼差しもどこ吹く風、ハルヒはケタ違いの利益を上げていた。濡れ手に泡だが。ところが、四日目にしてツキが変わったようである。ハルヒが朝からクビをかしげている。

「あれれ、この株上がるはずなのになんで下がってんのかしら」

俺がモニタの陰に隠れてくっくっくと笑っているのに気がついていない。ハルヒの後ろの壁には画鋲がびょう兼超小型カメラが三つほど刺さっていて、モニタをじっとにらんでいた。そんなハルヒを見ている古泉は、眉毛まゆげを寄せて笑顔を作るという複雑な表情をしていた。

「まったく、どうなってんのよこの新聞。ちょっと信憑性しんぴょうせい低いんじゃないの」

そんなこたぁないさ、同じ情報でお前が負けるように操作してるんだからな。

 ハルヒが突然机につっぷして叫んだ。

「だあーっ、みんなごめん。二百万負けちゃった」

「ええっ!!」

俺は大げさに驚いてみせた。

「に、二百万って、お、お前、俺の給料の何か月分だよ」

「ごめんね。ほんとにごめんね。次で必ず取り返すから」

パチンコに通うおっさんの言い草だった。俺たちに向かって両手を合わせるハルヒは元気がなかったが、これも仕方あるまい。


 日を追うごとにハルヒが謝る回数が増えてきた。皆に向かって腰四十五度で頭を下げたり、両手を合わせて拝んだりしていた。そんなことがあるたびに、俺は昼飯代にしたら何日分か、ガソリンにしたら何リッターか、恵まれない子供が何人養えるか、十円チョコがいったいいくつ買えるかまで大仰おおぎょうに説明した。ハルヒはついに自分の給料はいらないとまで言い出した。

「なあハルヒ、そろそろ潮時しおどきなんじゃないのか?」

俺は得意の流し目で、しおれたハルヒを見た。

「そうね……」

トータルではたぶん電気代が払えるくらいプラスになっていたはずだが、ハルヒは為替かわせやら先物取引やらに手を広げていて、もういくら勝っていくら負けているのか分かっていないようだった。

 次の日、ハルヒはもう画面をぼんやり眺めているだけだった。やややつれている気もする。もう売買はしてないようだ。

「ハルヒ、株はやめたのか?」

「ごめん……また五百万損切そんぎりした」

口を開くのもだるいようで、腕をだらりと下げて机に顔を押し付けていた。俺は古泉に向かって親指を立てた。古泉は苦笑していたが、やがて電話を取りボソボソと誰かに指示を出していた。そろそろ監視もやめるつもりだろう。

「涼宮さん、元気出して。まじめに働けばそれくらいすぐ取り返せるわ」

朝比奈さんがお茶を運んできた。

「ありがと、みくるちゃん。お茶……おいしいわ」

ハルヒがお茶をありがたがるなんて、相当へこんでるようだ。こころなしか目がうるんでいるようにも見える。

「みんな、調子に乗ってごめんね。今日で株やめるから。これ以上損したら、あたし食欲なくなる」

どうやら一件落着か。なんだか悪いことしたみたいな気になって、俺はハルヒから目をそらした。


 エレベーターホールの自販機でジュースを買おうと席を立ったところで、古泉に呼び出された。また男子トイレか。

「どうやら成功したようだな。世話焼かせてすまん」

「それはいいんですが、実は涼宮さんの利益を調整するために売買していたところ、手違いで数億円の利益が出てしまいまして」

な、なんだって!?そんな手違いで簡単に数億円が手に入るほど世の中に幸運が転がっているのか。

「機関では浮いた金をどうしたものか思案しているんです」

慈善じぜん団体にでも寄付したらどうだ」

「それも考えたんですが、あいにく機関は表向き存在しないことになっていますから。数億円の寄付は裏金のたぐいじゃないかと怪しまれますよ」

いまどきそんな奇矯ききょうで奇特なやつはいないだろうな。

「じゃあハルヒからのご祝儀しゅうぎってことでもらっとけばいい」

「ほんとにいいんですか」

「気にするこたないさ。今までいろいろと助けてもらったんだ、それくらいの報酬ほうしゅうは受け取っていいだろ」

「じゃあ幹部にそう伝えます」

「下手に動かすと怪しまれるから、少しずつ経費にまぜろ」

なんだかマフィアに金の洗濯をレクチャーしたみたいな気分だ。森さんや新川さんや多丸兄弟のボーナスに少しでも心づけができりゃ、インサイダーに荷担かたんした俺の良心の痛みも少しはいやされるってもんだ。


 その日の帰り、長門のマンションに行くとあいつらの靴がなかった。変だと思ってふすまに手をかけると簡単に開いた。中は空っぽだった。

「消えちまったな。本当に未来に帰ったのかな、あいつら」

「……そう。十年待たずに帰った」

十年後の再会に何かを期待していたのか、長門は少し残念そうだった。

 俺(大)が残していった新聞の内容が変わっていた。トップ記事はハカセくんと長門とハルヒが三人揃ってノーベル科学賞を受賞するなどという、とんでもない未来のニュースだった。長門ならその功労を評価されてしかるべきだが、なんでハルヒまでが。それはともかく、ミジンコ並みの生命力で生きていたらしい谷口がインタビューに答えていた。


── 学生時代の涼宮氏と親しかったという谷口さん(33)によると「高校の頃、SOS団を作るようにと進めたのは実は私です。メンバーには逸材いつざいばかりが揃っていましたね。人をきつける涼宮君のカリスマ性、長門君の天才的な科学知識、この世のものとは思えない朝比奈さんの美貌びぼう、あとはどうでもいいですが。りすぐりの集団と言うべきでしょうか」という。


あのWAWAWA野郎、そのうち締めたる。


「労働者諸君、おっはよう!いいこと思いついたわ!」

翌朝、ハルヒがまたドアの寿命を短くする勢いで入ってきた。もうハイテンションに盛り返したのか。

「何言ってるの、あたしはいつでもハイテンションでハイボルテージよ」

「今度は何なんだ」

「競馬よ競馬!大穴を当てるわ」

ハルヒの手には派手な赤と青のスポーツ紙が握り締められていた。


暗転。

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