水神

(11)

目を開けると、自分の体が湖の底に沈んでいくのが見えた。

長く伸びた髪は、水中でまるで藻のように浮いていた。顔は苦痛に醜く歪んでいて、見るに耐えない。柚葉とは大違いだ。そのうちぶくぶくと太った水死体が、この湖に浮いてくるのだ。目撃者はさも肝を冷やすことだろうな。


でも、なんで僕は自分を目の前から見ているのだろう。

「あなたの魂を、一時的に分離させたのです」

どこからともなく、聞きなれない声が聞こえた。声の高さからして、若い女性のようだ。その声は、水中だというのにも関わらず、妙にクリアーに聞きとれた。僕はその声の主を探した。

「ここです」

「うわあっ!」

首筋に冷たい風が吹くと同時に、僕の胸のあたりから美しい女性の顔がにゅっと現れた。僕はその顔を見て、ひどく驚いた。

「悠花さん…………?」

「ああ、便宜上この人の体を参考にさせてもらっただけです。本人に危害は全くありませんのでご安心ください」

「いや、そんな、えっと」

何なんだ、これは。僕は一体どうなってしまったんだ?

こいつは一体なんなんだ? 

僕が考え込んでいると、上の方から、バシャーンと大きな音がした、かと思うと、僕の抜け殻に、助けの手が触れた。そのまま手を掴んで必死に助けようとしている。やがて抜け殻は、陸上に放り出された。

『おい! 大丈夫か! しっかりしろ!』


「えっ、誰?」

まるで見たこともない人だった。本当に。一回も。

「たまたま通りかかった時に、あなたが自殺しようとしているのが見えたのでしょう。あなた、日頃の行いが良かったんですね」

彼女は、そう、つまらなさそうに言った。

「そもそも、ここはどこなんだ。君は誰なんだ。少しくらい説明してくれ」

僕はその態度に少し腹を立て、まくし立てるように言った。すると彼女は長い髪をかき上げ、僕をじっと見つめてきた。悠花さんはスタイルもよくって、とても整った顔をしていたので、少しドキっとした。でも、すぐに不安な感情が心を支配した。

「ここは、天国なのか? それとも、地獄か?」

僕はさらに問いかけた。やがて、彼女の口が開いた。

「そのどちらでもありません。強いて言うのならば」


「三途の川辺りではないでしょうか」

彼女はニコリともせずにそう言った。

本当に、何なんだこいつは。馬鹿にするのも大概にしろ。僕は思わず彼女に殴りかかった。

だが、彼女に僕の拳は届かなかった。いや、届かなかったというより、すり抜けたという表現の方が正しい。

「落ち着いてください。あなたは今、魂だけの状態なのです」

「じゃあ、結局俺は死んだのか?」

「いえ、あなたの体は、只今救助されました。あなたがあの体に戻ることを望めば、生き返るでしょう」

「そうか」

また、僕は死ねなかったのか…………。


「あなたに会いたいという魂がいます」

彼女はうなだれている僕を気にもせず、そう、事務的に言った。

「あなたも、その方に会いたいと思っているからこそ、ここに呼ばれたのです」

そうだ。俺は、柚葉にもう一度会いたい。そして、ごめんね、と言いたい。会って、たわいもない話で盛り上がりたい。あの時、僕たちがそうしていたように。

「会いにいく前に、注意事項が何点かあります」

彼女は右手の人差し指だけを立てて、こう続けた。

「まず第一に、あなたは、その世界の中では声を失います。幸い最近は情報の伝達手段が増加していますので、会話できないということはないので安心してください」

続いて、中指が立った。

「次に、その世界は太陽が沈むまでしか存在できません。太陽が沈んだ時点で、あなたの魂は消えてなくなってしまいます」

さらに、薬指。

「最後に。太陽が沈む前に、あなたはある方法を使って元の世界に戻ることができます」

彼女はそこまで言うと、深呼吸を一回。

「今の時点で、あの体に戻ることもできます。どうしますか?」

「柚葉に、会えるんだな?」

「名前までは知りませんが、おそらくその人でしょう」

「本当に、か」

「わたしが嘘をついても仕方がありませんから。ただ……」

「ただ、なんだ?」

少し震えた声でそう言うと、彼女は初めて表情を曇らせ、言った。


「ただ、わたしはあなたに元の世界に戻って欲しいと思います」


「そんなのって」

そんなの、できるわけがない。

だって、柚葉のいない世界に、価値なんてないのだから。

でも、彼女の言葉は、僕の脳内に、まるで決壊したダムの水のように、冷たく、激しく、訴えかけてきた。


「では、行きますよ」

「最後に、ひとつ質問がある」

僕は彼女の方に向き直った。

「お前は、何者なんだ?」

「そうですね、わたしはあまり良くわからないのですが」

彼女と至近距離で見つめ合う。やがて彼女は顔を近づけてきて。


「まわりの人々は、わたしを水の神、『ミナカミ』と呼びます」


その瞬間、体に猛烈な寒気が襲ってきて、思わず目を瞑った。

そして、喉に激痛が走った。痛い。冷たい。



「あああああああああああああああ!!」

「わあっ!」

次に目を開けたときには、柚葉が死んだあの時の公園で――。

尻もちをついている柚葉の姿と、その前を黒い車が猛スピードで走っていくのが見えた。

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