(8)

朝早くということもあり、車に遭遇することはなかった。

ここまで来たら、もう後戻りはできない。すぐ踵を返そうとする足を必死にごまかしながら、僕はあの人の家に向かっていた。

ゆっくりと歩いているのに、心臓は今にも破裂しそうな勢いで脈を刻んでいる。やがて、遠くに目的の家が見えてきた。赤い屋根の、周りに比べてひときわ大きい家だ。その家が視界に入ったとたん、僕の中のサイレンを出す器官がさらに激しく躍動し始めた。

――引き返せ。

――――今更お前に何ができる。

――――――あいつを――――のはお前じゃないか。

脳内で、そんな言葉たちがいくつも湧き出てくる。

でも、僕は知らないふりをする。何も聞こえないふりをする。そうだ、僕は何もできない。それは確固たる事実だ。


「でも、僕は、彼女に謝らなければならないんだ」

表札の名前を確認してから、僕はそう吐き捨てた。そして、その横にあるインターホンを震える指で押し込んだ。

とても楽しげな音がした。





 忘れもしない、四月四日。僕と柚葉は新しい制服のお披露目をするために公園に集まる約束をしていた。十一時集合と言っていたから、十五分前に行っておけば間に合うとは思ったのだが、いざ制服に身を包むと、早く柚葉に逢いたいと思う感情が盛り上がってしまい、結局公園のベンチについたのは三十分前だった。空模様が少し怪しかったので、柚葉に電話をかけた。すると柚葉は、

「うん、今ちょうど着替え終わったから、今から行くね!」

とだけ言ってすぐさま電話を切ってしまった。あいつの家はここから近いから、五分くらいで来るだろう。そう思ったので、僕は高校生になる際に買ってもらったスマートフォンをいじっていた。しかし、五分待っても、十分待っても、柚葉は来なかった。

なんだろう、忘れ物でもしたのかな。僕はそんなことを考えながらぼーっとしていた。でも、雨粒が僕の携帯を濡らし始めた頃になっても、柚葉は姿を見せなかった。流石にここまで遅れるのはおかしい。僕は柚葉のお母さんに電話をかけようとした。

その時に、ちょうど柚葉が向こうから走ってくるのが見えた。よかった、無事だったんだな。そう言って手を振ろうとした。



その時だった。

突然、柚葉の姿が消えた。

そう、それはまるで、電車の踏切のあとのような虚無感。

僕はそこに立ち尽くしていた。

誰かの悲鳴がした。

僕は、その声のする方へ向かった。


道路が、紅く、紅く染まっていた。

まるで刷毛と赤いペンキで道路を塗りつぶしたように。

視線をその紅い川の上流へ向ける。


誰かが、そこに倒れていた。

ドクン。

心臓が、大きく一つ跳ねた。


まだ柚葉と完全に決まったわけじゃない。

今にも叫びだしそうになる感情を必死に押さえつける。


周りに人はいない。

悲鳴を上げた女性は、逃げ出したらしい。

僕が、顔を確認しに行かなければ。


紅い川の横を、ゆっくりと、一歩ずつ歩く。

なにか強力な力で引きずられたようなその物体に、近づく。

腕で顔が隠れている。

でも、彼女(・・)の服装は、紛れもなくさっき見たうちの制服で。

白襟はすっかり鮮烈な赤に染まっていた。

そこから先には目をやりたくなかった。


深呼吸をひとつする。

ガクガクと震える指で、顔に覆いかぶさっている腕をどけた。


そこには、柚葉の安らかな笑顔があった。


信じたくなかった。

だって、こんなのってあんまりじゃないか。

こんな突然の出来事で、また離れ離れになるなんて。

「あんまりじゃないか…………」

僕は、その場に崩れ落ちた――――。



それからの記憶は曖昧だ。確か、通りかかった人が救急車と警察に電話してくれた。僕はその人に怒られた。「なぜもっと早く連絡しなかったんだ」と。でも、僕はそれに答える余裕はなかった。

僕の中の世界は、柚葉というピースが欠落したその瞬間から、終わってしまったのだ。後のことなど知るか。


葬式には、出席しなかった。柚葉の入っている匣と対面したら、彼女が死んだことを受け入れなければならない。そんなの、嫌だった。僕は、その日からまた、自分の部屋から一歩も出なくなった。

母親は、僕に

「無理しなくていいの。あなたの好きなタイミングで、戻ってきてね」

と、通帳と地図を渡してくれた。無気力のままその住所へ向かうと、そこには一軒のアパートがあった。母は、どうやら一人でいる空間を供給してくれたらしかった。

一〇五号室の中に入ると、一通り暮らせるくらいには部屋が整っていた。僕は、柔らかい羽毛が入っているソファーに深く腰掛けた。

 もう、柚葉はいない。その事実が、今になって急に重くのしかかってきて。僕は声も上げずに、ただ、うつむいていた。

一粒の涙が、手のひらにぽとりと落ちて、心を青く染めた。

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