(2)
僕が再び目を覚ましたのは、暁光が少し感じられるくらいの時間だった。布団の隣にぽつんと置いてある電波時計を確認すると、短針が4のあたりを少し過ぎているのが確認できた。
「そろそろ行くか……」
誰に言うでもなく、僕は自分に言い聞かせるようにその言葉を呟いた。今まで何回怖気づいただろうか。何回緊張で吐いてしまっただろうか。大げさでもなんでもなく、僕はそこに行くまでの一歩がどうしても踏み出せなかった。でも。
「いい加減、覚悟を決めろ」
必死に、そう何回も呟く。いつもなら、この辺りで布団に戻ってしまうのだが、今回ばかりは少し違った。
だって、あの人が僕を呼んでいるような気がしたから。
だって、あの人が僕に何かを伝えようとしているから。
だから。
僕は身支度を済ませ、片道分の切符代と百円玉一枚を持ち、机に一枚の手紙を置いて、家を出た。これでこの家を見るのも最後かと思うと、急にこのアパートが愛しく思えてきた。が、すぐに気を取り直して、歩き出す。どこかで雀の声が聞こえた。
もうどうしようもない、僕自身にトドメをさすために。
小学校に行くようになってからも、基本的なスタンスは変わらなかった。毎日朝は一緒に登校し、休み時間には柚葉が僕のクラスに来て、たわいのない話をずっとしていた。もちろん、帰るときも同じ。流石に手をつないだりはしていなかったけど、周りから見れば十分仲良しに見えただろう。毎日がとても楽しかった。僕たちの周りにあるものは、みんな輝いて見えた。当時は、多分世界は僕たち二人を中心にして回っているのだと半ば本気で思っていた。
しかし、当人たちの意思とは関係なく、周りの状況は変わっていくものだ。特に最近の小学生の発育は速い。肉体的にも、男子と女子は全く違う方向に成長していくし、精神的な部分の成長も、個人差はあれど目を見張るスピードだ。そして、高学年には、一足早い思春期を迎える人も出てくる。異性のことが気になって仕方なくなる時期だ。
そして、柚葉もそのうちの一人だった。
異変に気づいたのは、小学五年の夏。毎年僕ら二人はこの時期になると柚葉のおばあちゃんの実家に二〇日間ほど遊びに行っていた。僕はカレンダーを眺めながら、今年は何をして遊ぼうかな、などと考えていたのを覚えている。しかし、出発の前日になって急遽柚葉から電話がかかってきた。
「もしもし……」
「ん? ああ、柚葉――」
「うん、あのね……?」
「どうしたんだよ、そんな暗い声して。明日からは楽しい夏がまた始まるっていうのに」
「ごめん。わたし、明日からの旅行、行かないことにしたから……」
「…………え?」
「ほんとに……ごめんなさい!」
「あ、おいちょっと!!」
通話はそこで終わった。当時の僕は、柚葉からのはじめての拒絶を受け入れるのに、多大な時間を要した。そして、その事実をようやく飲み込んだとき、代わりに熱い雫が目から零れ落ちるのを感じた。一度決壊したダムは、止まることなく流れ続け。
夕飯の時に母が呼びに来るまで、僕は延々と泣き続けた。
結局、その夏はゴロゴロして過ごしたから、何があったかは何一つ記憶にない。
きっと何か事情があるはずだ。
僕は自分にそう言い聞かせ、夏休み明けに柚葉のクラスへと向かった。柚葉は、窓際の席で、空をぼんやり眺めていた。
「あのさ、柚葉」
僕は不安に駆られながらも、それをなるべく出さないように明るい声で呼びかけた。
しかし。
「ごめんなさい……」
柚葉は、そう小さく呟いたかと思うと、席を立って教室から出ていこうとした。
「待って!」
僕は柚葉の腕を強く掴んだ。だって、ここで柚葉を逃してしまったら、もうずっと会えないような気がしたから。
でも、その手は、振り払われた。それも、今までになかったくらいの強い力で。はっきりと言われてしまったのだと僕は悟った。
『こないで』と。
その日、僕は学校を早退した。
次の日が土曜日だったのが不幸中の幸いだった。
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